HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』第3章

マーロウはリーガン夫人、つまり将軍の上の娘に呼ばれ、部屋を訪れる。その第一印象が語られる。

 

<部屋は大きすぎ、天井は高すぎ、ドアも高すぎた。部屋中に敷きつめられた白い絨毯はアロウヘッド湖に降った新雪のようだった。等身大の姿見やら、クリスタル製の安ぴか物がいたるところにあった。象牙色の家具にはクローム鍍金が施され、馬鹿でかい象牙色の厚地のカーテンは白い絨毯の上に崩れ落ち、窓から一ヤード離れたところまでもつれあっていた。白は象牙色を汚く見せ、象牙色は白を貧血じみて見せていた。窓は暗さを増す丘のふもとに面していた。もうすぐ雨がやってくる。空気には既に圧迫感があった。>

 

”the enormous ivory drapes lay tumbled on the white carpet a yard from the windows.”を双葉氏は「大きなぞうげ色の衝立が、窓から一ヤード離れたじゅうたんの上にひっくりかえっていた」と訳しているが、これは、まちがい。「ドレープ」は、厚手の生地でできたカーテンのことである。双葉氏は、横引きのカーテンが絨毯の上に一ヤードも転がったり横たわったりすることがイメージできなかったにちがいない。近頃のカーテンは床の高さで切られているが、少し前までは二重になったカーテンの室内側の方は、床の上で弛みができるほどたっぷりした丈に作られていたようだ。村上氏は「堂々たる象牙色の厚手のカーテンは、白いカーペットの上に垂れ落ち、窓から一メートル近くもつれて広がっていた」と、いつものようにヤードはメートル法に換算して訳している。部屋の中には”full-length mirrors”(村上訳「全身鏡」、双葉訳「大きな鏡」)のほかに”crystal doodads”(村上訳「水晶でできたがらくた」)もあったはずだが、双葉氏には珍しく訳から脱け落ちている。チャンドラーの筆は、冒頭の情景描写に呼応して、雨が近づきつつある窓外の気配をさりげなく挿入するあたりが心憎い。

 

<私は深く柔らかなソファの端に腰をおろし、リーガン夫人を見た。彼女には見つめるだけの値打ちがあった。まさに「トラブル」そのものだった。現代的な寝椅子にからだを伸ばし、スリッパは脱いでいた。それで、私は透き通った絹の靴下越しに彼女の両脚をじっと見つめることになった。見つめられることを意識して配置されているようだった。両脚とも膝まで、片方はもっと奥まで見えた。膝には笑窪があり、骨張っても尖ってもいなかった。ふくらはぎは美しく、長く細っそりした足首のラインは、そのままで交響詩の旋律だった。背は高くほっそりして、一見すると強そうに見えた。頭は象牙色のサテンのクッションに押し当てていた。髪は黒く硬く、真ん中で分け、ホールの肖像画と同じ熱く黒い目をしていた。形のいい口と顎をもち、唇は心もち拗ねたように下がり、下唇はぷっくりしていた。>

 

”The calves were beautiful, the ankles long and slim and with enough melodic line for a tone poem.”<ふくらはぎは美しく、長く細っそりした足首のラインは、そのままで交響詩の旋律だった>のところを、双葉氏は「脛(ふくらはぎ)は美しく、足首はほっそりして、韻をふんだ詩みたいになめらかな線だった」と訳す。村上氏は「ふくらはぎは美しく、踵(かかと)は細くすらりとして、その滑らかな旋律は交響詩の一節になりそうだ」と訳している。”a tone poem”を双葉氏は「韻をふんだ詩」と、読んだわけだが、その前にある”melodic line”の持つ音楽性を無視しては拙いのではないだろうか。ここは、ふくらはぎから足首にかけてのラインを、音符のつながりが作るメロディー・ラインに見立てて、そのなめらかな曲線を賛美している、と読むのが正解ではないか。そう考えたとき、双葉氏は、せっかく「なめらかな線」という形象を浮かび上がらせながら、「韻をふんだ詩」という音韻を持ち出すことで、喩えがうまく成り立たないきらいがある。また、村上氏の場合、細くすらりとした踵を「滑らかな旋律」に喩えることで比喩として成立してはいるが、せっかくのラインという言葉を響かせ損ねている点が惜しい。

 

<彼女は酒を手にしていた。一口飲み、グラスの縁越しに冷ややかな眼差しをまっすぐ私に投げてよこした。

「それで、あなたが私立探偵というわけね」彼女は言った。「そんなものが本当に存在するなんて知らなかった。本の中は別よ。いるとしても、ホテルを嗅ぎまわる脂ぎった小男だと思っていたわ」

 私には関わりのないことだった。だから聞き流していた。彼女は寝椅子の平らな肘掛の上にグラスを置くと、エメラルドをきらめかせ、髪に触れた。彼女はゆっくり言った。「父は、気に入った?」

「気に入りました」私は言った。

「父はラスティが気に入ってた。ラスティのことは知ってる?」

「ふうむ」

「ラスティは時には粗野で無作法だった。だけど、彼はまちがいなしの本物。そして、父をとっても楽しませてくれてた。ラスティは、あんなふうに消えちゃいけなかった。父はそのことでたいそう心を傷めたの。口じゃそうは言わないけど。あなたには言った?

「そのことについては話がありました」

「あまり、おしゃべりな方じゃないようね、ちがう?マーロウさん。でも、父は彼のことを探し出したい。そうじゃない?」

私は少し間を置くあいだ礼を失しない程度彼女を見つめ、「そうでもあり、そうでもない」と言った。

「それでは、ほとんど答えになってないわ。彼を見つけられそう?」

「私はまだやってみるとも言ってません。なぜ、失踪人捜査課を頼らないんです?彼らには組織があります。これは一人でやる仕事じゃない」

「父は、この件に警察を関わらせることを嫌がるでしょう」彼女は、再びグラス越しに滑らかな視線で私を見遣ると、酒を飲み干し、呼鈴を鳴らした。脇のドアからメイドが入ってきた。黄味がかった面長で優しげな顔つきの中年の女性で、長い鼻をし、顎がなく、濡れたような目をしていた。長い間働いた挙句用済みとなって放牧場に戻ってきた気立てのいい老馬みたいだった。リーガン夫人が空っぽのグラスを揺らすと、彼女はお代わりをつくり、手渡すと部屋を出て行った。無言で、私の方を一顧だにせず。

 ドアが閉まると、リーガン夫人は言った。「それで、あなたはどうするつもり?」

「いつ、どうやって彼は出て行ったのですか?」

「父は言わなかったの?」

 私は首をかしげ、彼女ににやっと笑いかけた。彼女の顔が真っ赤になった。熱く黒い瞳は怒りを帯びていた。「隠し立てなんか願い下げよ」彼女はびしっと言った。「それと、あなたの態度は気に入らない」

「誰もあなたに夢中ってわけじゃない」私は言った。「私が会いたがったんじゃない。あなたがそう言ってよこしたんだ。上流ぶって見せようが、ランチ代わりにスコッチを一瓶飲みほそうが知ったこっちゃない。おみ足を見せびらかすのも構わない。素敵な脚で、お近づきになれたのは光栄の至りでしたがね。私の態度をどう思おうが知っちゃいない。確かに良くはないさ。長い冬の夜なんか悲嘆に暮れますよ。けどね、私を尋問しようなどというのは時間の無駄遣いだ」>

 

「そうでもあり、そうでもない」と訳したところ。原文は”Yes and No,” だ。村上氏は「答えはイエスであり、ノーです」と、ほぼそのまま日本語にしている。英語の持つ、こいうシンプルさがたまらないのだが、そういったシンプルさが何とか日本語にならないか、と考え悪戦苦闘中である。因みに双葉氏は「たのんだともいえるし、たのまないとも言えますね」と、丁寧に意訳している。リーガン夫人に対して、マーロウが切ってみせる啖呵がいい。こういうところを訳すのは面白い。原文を次に示す。

 

”I’m not crazy about yours,” I said. ”I didn’t mind your ritzing me or drinking your lunch out of a Scotch bottle. I don’t mind your showing me your legs. They’re very swell legs and it’s a pleasure to make their acquaintance. I don’t mind if you don’t like my manners. They’re  pretty bad. I grieve over them during the long winter evenings. But don’t waste your time trying to cross-examine me.”

 

”I’m not crazy about yours,”を双葉氏は「もったいぶってるわけじゃない」と訳す。これは、その前にあるリーガン夫人の言葉を双葉氏が「なにも、もったいぶることなんかないじゃないの」と訳したのを受けてのことだ。村上氏は「私もあなたのマナーをとくに気に入ったわけじゃない」と訳している。これも、その前の夫人の”And I don’t your manners.”を受けての意訳だ。プロの翻訳家と世界的な作家がこんなふうに意訳しているのだから、そういうものか、とも思うのだが、夫人の、誰もが自分に夢中になるにちがいないという思い込みを、一度ぺしゃんこにしてやろうというマーロウの目論見だろうから、あえて、直訳してみた。

 

”I didn’t mind your ritzing me or drinking your lunch out of a Scotch bottle. “のなかに出てくる”ritzing”が、最初分からなかった。でもスペルをよく見ると、あのスナック菓子を思い出し、連想ゲームのように、ハリソン・フォードの映画を思い出した。主人公が記憶をなくし、逢引きに使っていた高級ホテルのリッツ・カールトンの「リッツ」を菓子の「リッツ」と取り違え、菓子箱の絵ばかり描く場面だ。双葉氏はここを「あなたが高慢ちきなところを見せびらかそうと、昼食がわりにスコッチを一本あけちまおうと、僕はかまわん」。村上氏は「私の前でえらそうにしようが、スコッチを昼食がわりにしようが、それは私の知ったことではない」と訳している。辞書にもちゃんとホテルの「リッツ」から来ている言葉で、「みせびらかし・誇示」の意と、載っている。

 

<彼女が叩きつけるようにグラスを置いた、そのはずみで残っていた酒が象牙色のクッションの上にはねた。彼女は脚を床に向けて振るようにして立ち上がった。目は火花を発し、鼻孔は広がっていた。口は開かれ、ぎらぎらと輝く歯が私を睨みつけた。拳は白くなっていた。

「誰も私に向かってそんな口はきかないわ」しゃがれ声で言った。

私は座ったまま、にやりと笑いかけた。たいそうゆっくりと彼女は口を閉じ、こぼれた酒を見おろした。寝椅子の端に腰をおろし、顎に一方の手をあてがった。
「ったくもう、あなたは大きくて腹黒いハンサムな獣よ。ビュイックをぶつけてやれたらいいのに」

 私は親指の爪でマッチを擦った。珍しいことに一度で点いた。煙を宙に吐き、待った。

「人を人とも思わない男は大嫌い」彼女は言った。「どうしようもなく、へどが出る」
「何を怖がってるんですか?リーガン夫人」

彼女の目が白くなった。そのあと、目全体が瞳孔になってしまったみたいに黒くなった。鼻孔はつままれたようにせまくなった。

「父があなたにしてほしかったのはそれが全部だというの?ちがうでしょ」彼女はやっとしぼり出したよう声で言った。声にはまだ、私に対する怒りの切れ端が纏いついていた。「ラスティのことよ。そうだったんでしょ?」

「お父さんに訊かれたらいい」

彼女は、また燃え上がった。「出ていって。さっさと出ていきなさい」

私は立ち上がった。「座りなさい!」噛みつくように言った。私は座った。手のひらを指でたたきながら、待った。
「お願い」彼女は言った。「お願いよ。あなたはラスティのことを探し出せるわね。もし、父がそう頼んだとしたら」

 それもやはり役に立たなかった。私はうなずき、そして尋ねた。「彼はいつ出て行ったのですか?」

「ひと月前のある日の午後、彼は何も言わずに車で出かけた。車は彼らがどこかにある私用の車庫で見つけた」
「彼ら、とは?」

 彼女は魅力を取り戻した。全身から力みが抜けたようだった。それから勝ち誇るように微笑んだ。「父はその時の話をしなかった」彼女の声は上機嫌といってもよかった。まるで私の一歩先を行っているかのように。もしかしたらその通りだったのかも知れない。

 

<彼女が叩きつけるようにグラスを置いた、そのはずみで残っていた酒が象牙色のクッションの上にはねた。>のところ。双葉氏は「彼女はグラスをたたきつけるように置いたが、はずみでぞうげ色のクッションの上へころがった」と訳している。原文は”She slammed her glass down so hard that it slopped over on an ivory cushion.” 一見したところ問題がないように思えるが、ひっかかるのは”slopped”だ。”slop”は、「(液体)を(ぼとぼと)こぼす、(ピチャピチャ)とはねを上げる」のように液体がこぼれたときの様子を表す動詞だ。とすれば、象牙色のクッションの上に落ちたのは、グラスそのものではなく、中に入っていた飲み物を指しているのだろう。村上訳は「彼女はグラスを叩きつけるように置いたので、中身がいくらか象牙色のクッションにはねた」となっている。

 

<「ったくもう、あなたは大きくて腹黒いハンサムな獣よ。ビュイックをぶつけてやれたらいいのに」>原文は、”My God, you big dark handsome brute! I ought to throw a Buick at you.”だ。この「ハンサム」、双葉氏は「背は高く、色浅黒く、好男子のけだものさん」と訳しているが、村上氏は「大きくて、ハンサムで、どす黒い獣みたいなやつ」と、ハンサムのままだ。スマートもそうだが、ハンサムにも見かけ以外に「賢い」のような意味がある。同じく「ダーク」にも目で見える黒さ以外に心象としての黒さを表すことがある。いっそ、「ビッグ、ダーク、ハンサム、ブルート」とそのまま日本語にしてしまったほうがニュアンスが伝わるのではないか、とさえ思った。

 

<彼女の目が白くなった。そのあと、目全体が瞳孔になってしまったみたいに黒くなった。>原文は、”Her eyes whitened. Then they darkened until they seemed to be all pupil.”だが、双葉氏は「彼女の目が白くなった。と思う間に、全部がまつげみたいに黒くなった」と訳す。”pupil”に「まつげ」の意味はない。中学校で習った英語では小学生までの子どもを表す意味と覚えていたが、相手の瞳のなかに小さく人の形が映ることから、転じて「瞳」を意味するようになったらしい。

 

”She got cunning”<彼女は魅力を取り戻した>を双葉氏は「彼女はだんだんずるくなってきた」、村上氏は「彼女は小狡(ずる)い顔になった」と、訳している。ふつうはそうだろう。「カンニング」は芸人の名前に使われるくらい日本語化している。しかし、稀にだが、特別な場合「魅力的な」とか「可愛い」とかの意味で使われることがあるらしい。文脈で考えると、それまでマーロウにやられっぱなしだった夫人が、ここでやっと一本取り返したという場面である。すぐ、そのあとでマーロウも渋々ながら、事実を認めている。だとすれば、ここで彼女の見せる勝ち誇ったような笑顔が広がる、その少し前の表情は、けっこう可愛く見えたのじゃないだろうか。マーロウの目を通して見るのだ。「ずるさ」を見たとしたなら、マーロウは自分の負けたのが悔しかったのだろう。魅力的に見えたのなら、相手の勝ちを称えたといえる。あなたなら、どちらを採るだろうか。

 

<「リーガン氏のことは聞いた。が、お父さんが私に会いたがったのはそのことではない。私に言わそうとしていたのは、それだろう?」
「いいの。私、あなたが何を言おうが気にしない」

 私は再び立ち上がった。「それでは、そろそろお暇することにしよう」彼女は何も言わなかった。私はそこから入った背の高い白いドアの方へ行った。振り返ると、彼女は歯で唇を噛んでいた。絨毯の縁飾りを噛む仔犬みたいに。

 私は外へ出た。タイル敷きの階段を下りて玄関ホールに出ると、執事がどこからかふらっと現われた。手に私の帽子があった。彼がドアを開けてくれている間に私はそれをかぶった。

「君はまちがってたよ」私は言った。「リーガン夫人は私に会いたがってなんかいなかった」

彼は銀髪の頭を下げ、慇懃に言った。「失礼しました。私は粗相が多いようです」彼は私の背でドアを閉めた。>

 

父が探偵を呼んだ目的は夫の捜索ではなかった。それが分かった夫人にマーロウは用無しだ。しかし、夫の行方は相変わらず分からない。どうしたらいいのか、不安は募る。その様子を表した一文。

”When I looked back she had her lip between her teeth and was worrying it like a puppy at the fringe of rug.”を双葉氏は「彼女はくちびるをかみ、困ったような顔をしていた。敷物の縁飾りをかんでいる狆ころみたいだった」。村上氏は「振り返ると彼女は唇を噛みしめ、絨毯の端っこに挑む小犬のようにそれを手荒く扱っていた」と訳している。「困ったような顔」や、「手荒く扱っていた」は、”worrying”の意を汲んだものだろうが、”worry”には、よく知られた「心配する」のほかに「(動物が)…をくわえて振り回す」という意味がある。村上氏は、それを採ったのだろう。ただ、その様子は、小犬の比喩で分かるように配慮されている。あえて、屋上屋を重ねる必要はないのではないか。

 

<私は階段の段上に立ち、煙草の煙を吸い込み、花壇や刈り込まれた樹木が鉄柵まで続くテラスを見下ろした。金箔を被せた槍をつけた鉄柵は地所を取り囲んでいた。曲がりくねったドライヴウェイが土止め擁壁の間を抜けて、開いた鉄の門まで下っていた。柵の向こうに数マイルに及ぶ丘の斜面が広がっていた。その麓のはるか遠くには、スターンウッド家がそれで金を儲けた油井の木製櫓がいくつかかろうじて見える。それら現場のほとんどはきれいに整地された後、スターンウッド将軍によって市に寄贈され、今では公園になっている。しかし、少しは残っていて、その内の一群の井戸は今でも一日あたり数バレルの石油を生産している。スターンウッド家の者は、丘の上に移転してからは腐りかけた溜り水や石油の臭いを嗅がずにすむようになった。が、今でも正面の窓からは彼らを金持ちにした縁(よすが)を見ることができた。もし彼らが望めば、だが。私は彼らがそうしたがるとは思えなかった。>

 

映画でも見ているようにハリウッド郊外の景色が目の前に広がってくる。しかし、情景描写とはよく言ったもので、マーロウの目を通し、チャンドラーの文明批評が言葉の端々に顔をのぞかせている。スターンウッド一族も、以前は映画『ジャイアンツ』でジェイムズ・ディーン演じる青年のように、噴出す原油に目を細めたものだろうが、資産家となった今では、ヨーロッパの王侯貴族が暮らす城のような大邸宅を建て、優雅に住みなしている。しかし、内実はヤク中の娘の不始末やら、家出中の闇酒密売人の夫を持つ娘やらに頭を悩ます死にかけの老人が暮らす抜け殻のような屋敷に過ぎない。広大な敷地を取り囲む金ぴか槍の鉄柵と、その向こうに煙るように見える昔を知る油井の櫓。いくら距離を置こうが、臭いものは臭いのだ、と言いたいようなマーロウの口吻である。

 

<私は、柵の内側に沿ってテラスからテラスへと続く煉瓦敷きの小路を歩いて下り、門を出て路傍の胡椒木の下に停めてあった車のところまで行った。今や丘の麓に雷鳴がとどろき、上空は暗紫色をしていた。土砂降りになりそうだった。空気にはじめじめした雨の予兆があった。私はコンバーチィブルの幌を上げると、ダウンタウンに向けて走り出した。

 彼女は素晴らしい脚をしていた。それだけは彼女のために言っておきたい。彼女と彼女の父は、そこそこ人あたりのいい市民だった。彼はおそらく私を試そうとしたのだろう。彼が私に与えた仕事は弁護士の仕事だ。もし、「稀覯書及び愛蔵本」取り扱いのアーサー・グウィン・ガイガー氏が強請り屋だったとしても、まだ弁護士の領分だ。目にしたよりもっと多くのものが隠れていた場合は別だが。ちらっと見たところ、かなり面白そうなことが見つかりそうに思えた。

 私はハリウッド市立図書館まで車を走らせ、『有名初版本』という古ぼけた書物を繰り、付け焼刃で調べものをした。半時間ほどもやったら昼飯が食いたくなった。>

 

先ほど俯瞰した景色を、今度はマーロウに歩かせるという、どこまでも映画的な手法で筆を進めてゆくチャンドラーである。<『有名初版本』という古ぼけた書物から半可通な知識を手に入れた>は、原文では”did a little superficial research in a stuffy volume called Famous First Editions.”。双葉訳は「そして『初版研究』と称するかび臭い本をちょっと調べた」。村上訳は「『有名な初版本』という古臭い書物のページを開き、即席の知識をいくらか仕入れた」。双葉訳は、きびきびしたテンポが小気味よいが、”superficial”(浅薄な)が効いていない。村上訳は、意を尽くした訳といえる。尽くし過ぎているかもしれない。

 

『大いなる眠り』第2章

f:id:abraxasm:20140829123009j:plain

マーロウは、執事に導かれて温室に向かう。スターンウッド将軍がそこで待っていた。マーロウは熱帯を思わせる温室の温気に悩まされながら話を聞く。

 

We went out at the French doors and along a smooth red-flagged path that skirted the far side of the lawn from the garage. The boyish-looking chauffeur had a big black and chromium sedan out now and dusting that. The path took us along to the side of the greenhouse and the butler opened a door for me and stood aside.

 

<フレンチ・ドアを出て、車庫から芝生の向こう側の縁をめぐって続く、滑らかな赤い板石敷きの小径を行った。少年っぽい顔をした運転手は、今度は大きな黒とクロームのセダンを出して、埃を払っていた。小径は温室の横に通じていた。執事は私のためにドアを開け、自分は傍に立った。>

 

双葉訳では、" red-flagged ” が「赤レンガを敷いた」。また、" a big black and chromium sedan “ が「大きな黒いクローム張りのセダン」となっていた。ここは、クローム鍍金の部品を多用した黒塗りのセダンのことだと思うので、「黒とクローム」とするほうが分かりやすいだろう。” The boyish-looking chauffeur “を村上氏は「まだ少年の面影を残す」と訳す。

 

It opened into a sort of vestibule that was about as warm as a slow oven. He came in after me, shut the outer door, opened an inner door and we went through that. Then it was really hot. The air was thick, wet, steamy and larded with the cloying smell of tropical orchids in bloom. The glass walls and roof were heavily misted and big drops of moisture splashed down on the plants. The light had an unreal greenish color, like light filtered through an aquarium tank. The plants filled the place, a forest of them, with nasty meaty leaves and stalks like the newly washed fingers of dead man. They smelled as overpowering as boiling alcohol under a blanket.

 

<連絡通路のようなそこは、弱火にしたオーブンのように生温かかった。執事が私の後から入り、外側のドアを閉め、内側のドアを開けた。中に入ると、今度こそ本当に暑かった。空気は澱み、たっぷりの水蒸気で濡れそぼっていたところへ、熱帯に咲く蘭の花の甘ったるい匂いが仕上げをしていた。ガラス製の壁と屋根は露ぶき、大きな水滴が植物の上にぼたぼた落ちていた。非現実的な緑色の明かりは水族館の水槽を通り抜けてきたよう。あたりは森の中のように植物で溢れかえり、気味の悪い肉厚の葉や、洗ったばかりの死人の指のような茎は、毛布の下でアルコールを沸騰させたような抗し難い臭いを放っていた。>

 

The butler did his best to get me through without being smacked in the face by the sodden leaves, and after a while we came to a clearing in the middle of the jungle, under the domed roof. Here, in a space of hexagonal flags, an old red Turkish rug was laid down and on the rug was a wheel chair, and in the wheel chair an old and obviously dying man watched us come with black eyes from which all fire had died long ago, but which still had the coal-black directness of the eyes in the portrait that hung above the mantel in the hall. The rest of his face was a leaden mask, with the bloodless lips and the sharp nose and the sunken temples and the outward-turning earlobes of approaching dissolution. His long narrow body was wrapped―in that heat―in a traveling rug and a faded red bathrobe. His thin clawlike hands were loosely on the rug, purple-nailed. A few locks of dry white hair clung to his scalp, like wild flowers fighting for life on a bare rock.

 

<執事はびしょぬれの葉で顔を叩かれずに私が通れるように最善を尽くした。しばらくすると、私たちはジャングルの真ん中にぽっかりと開けた場所にたどり着いた。丸屋根の下だった。六角形の石が敷きつめられた空間に、古びた赤いトルコ絨毯が敷かれ、敷物の上に車椅子が、車椅子には明らかに死にかけている老人が、玄関ホールのマントルピースの上にかかっていた肖像画と同じ石炭を思わせる黒い瞳の裡に、遥か昔すべての炎が消え去った後になお残る真摯さで、近づいてくる私たちを見ていた。その眼をのぞけば、血の気のない唇と尖った鼻、くぼんだこめかみや機能を失いつつある外側にめくれた耳たぶといった彼の顔の残りは鉛の仮面だった。長身痩躯は、この暑さの中でも、旅行用膝掛けと色の褪せた赤いバスローブに包まれ、細い鉤爪のような手はしどけなく膝掛けの上に置かれていた。爪は紫色だった。僅かに残るぱさついた白髪は、剥きだしの岩の上で生きていくために闘い続ける野生の花のように、頭皮にしがみついていた。>

 

凄絶な人物描写である。ハリウッドで脚本家をやっていたこともある作家だけに、視点がキャメラ・アイのように移動していくのが分かる。ドーム天井の下にできた空間は床に" hexagonal flags “ が敷かれている。双葉氏はこれを「六角形に敷石が敷いてあった」とし、村上氏は「六角形の石が敷かれた」としている。丸天井の下の空間を埋めるには、矩形より六角形の方が隙間なく埋め尽くすことができる。円形の下部をわざわざ「六角形」にする必要もないだろう。ただ、村上訳だと、大きな六角形の石一枚と読めなくもない。そう考えての拙訳である。その後に続く長文は、一文で訳したいところだが、途方もなく難しい。日本語としては無理のある訳になってしまう。例として両氏の訳を記す。

 

「六角形に敷石が敷いてあった。古ぼけた赤いトルコじゅうたんがあり、じゅうたんの上に車椅子が置かれ、椅子車(ママ)には老いぼれて明らかに死にかかっている男が一人、腰かけていた。はいっていく私たちを見つめる黒い目からは、とっくの昔あらゆる火が消えてしまっていたが、広間の炉棚の上にかかった肖像と同じ石炭みたいに黒い率直さはまだ残されていた」(双葉)

 

「六角形の石が敷かれたスペースに、赤い古いトルコ絨毯が敷かれていた。絨毯の上には車椅子があり、車椅子の上には、明らかに死に瀕していると見られる老人が座り、我々が近づくのを見ていた。その目からはとっくの昔にあらゆる炎が失われていたが、それでもなおそこには、石炭のごとき漆黒の揺るぎなさがうかがえた。玄関ホールのマントルの上にかけられていた肖像画と同じ目だ」(村上)

 

” The rest of his face was a leaden mask “ 「この目以外、彼の顔は鉛の仮面だった」(双葉)。「しかしそれをべつにすれば、顔全体は鉛色の仮面のようだった」(村上)。「彼の顔の残りは鉛の仮面だった」(拙訳)。この「鉛(leaden )の仮面」だが、もちろん「鉛製の」という意味がある。さらに「鉛色の」という意味があり、そこから「重苦しい」「鈍い」といった意味が派生する。双葉氏は隠喩とし、村上氏はそれを直喩に訳している。英語が分かる読者には、表情に乏しい顔という意味まで通じるだろうが、日本語でそれを分からせるのは不可能だろう。文語表現として「鈍(にび)色の」という訳語も考えたのだが、今や死語か、と思い直し、直訳とした。

 

”  a traveling rug and a faded red bathrobe “ を双葉氏は「旅行用毛布と色あせた赤い湯上りタオル」としているのが時代を感じさせる。バスローブは日本語化しているが、トラベリング・ラグの方は、まだそこまではいっていないのか、村上氏は「旅行用膝掛け」としている。拙訳もそれに倣った。

 

 The butler stood in front of him and said: ” This is Mr. Marlowe. General. “

 The old man didn’t move or speak. or even nod. He just looked at me lifelessly. The butler pushed a damp wicker chair against the backs of my legs and I sat down. He took my hat with a deft scoop.

 

<執事が彼の前に立って言った。「マーロウ様です。閣下」

老人は動かず、話すことはおろか、頷くことさえしなかった。ただ、ぼんやりと私を見ただけだった。執事が湿った籐椅子を脚の後ろから押しつけたので、私は座った。彼は器用な手つきで私の帽子をすくいとった。>

 

 Then the old man dragged his voice up from the bottom of a well and said: ” Brandy, Norris, How do you like a brandy, sir? “

 " Any way at all, “ I said.

 The butler went away among the abominable plants. The General spoke again, slowly, using his strength as carefully as an out-of-work show-girl uses her last good pair of stockings.

 

<そのとき、老人が井戸の底から声を引っ張り上げて言った。「ブランディだ、ノリス。ブランディはどうしたのがお好みかな?」

「どんな飲み方でも」私は言った。

執事はくそ忌々しい植物を掻き分けて出て行った。将軍は再びゆっくりと口を開いた。まるで失業中のショー・ガールが最後に残った上物のストッキングを履くときのように慎重に力を使いながら。>

 

” How do you like a brandy “ を双葉氏は「ブランディはいかがかな?」。村上氏は「君はブランディをどのように飲むかね?」と訳している。実はこの後、将軍が自分の好みの飲み方を披露するくだりがある。村上氏は、そこを押さえてきちんと訳しているわけだ。” his strength “ をどう訳すか。双葉氏はあっさり、「体力」としているが、「知力、意志力、精神力」のいずれも可である。村上氏は慎重に「残された力」と意訳する。たしかに、半身不随の老人に最後に残されたものとしての話す力を左右するのは、この力だと一口で言うのは難しいだろう。「残された力」か、さすがに村上氏はチャンドラーをよく読みこんでいる。

 

 ” I used to like mine with champagne. The champagne as cold as Valley Forge and about a third of a glass of brandy beneath it. You may take your coat off, sir. It’s too hot in here for man with blood in his veins. “

 

<「私はよくシャンパンと一緒にやったものだ。シャンパンをヴァレー・フォージのように冷たくして、その下にグラス三分の一ほどブランディを入れる。上着を脱いでかまわんよ。ここは血管に血の流れている者にとってはいささか暑すぎるからな。」>

 

” mine “ には「私の飲み物」というくだけた使い方がある。シャンパンを入れたグラスの底にしのばせるのだから、「地雷」と訳すのも面白いとは思うが、時代が合わない。ヴァレー・フォージというのは、ペンシルヴァニア州にある、独立戦争当時、1777年から1778年にかけ、ワシントンが宿営地とした場所。その年の冬は寒く、大陸軍は雪に悩まされたとされる。

 

 I stood up and peeled off my coat and got a handkerchief out and mopped my face and neck and the backs of my wrists. St. louis in August had nothing on the place. I sat down again and I felt automatically for a cigarette and then stopped. The old man caught the gesture and smiled faintly.

 

<私は立ち上がって上着を引き剥がすと、ハンカチを取り出し、顔と頸、それに手の甲をぬぐった。八月のセントルイスでさえこれほどではない。私は座り直し、煙草を吸おうとしたが、やめた。老人は、その仕種に気づくとかすかに微笑んだ。>

 

   ” You may smoke, sir. I like the smell of tobacco.”

   I lit the cigarette and blew a lungful at him and he sniffed at it like a terrier at a rathole. The faint smile pulled at the shadowed corners of his mouth.

   ” A nice state of affairs when a man has to indulge his vices by proxy, “ he said dryly. ” You are looking at a very dull survival of a rather gaudy life, a cripple paralyzed in both legs and with only half of his lower belly. There’s very little that I can eat and my sleep is so close to waking that it is hardly worth the name. I seem to exist largely on heat, like a newborn spider, and the orchids are an excuse for the heat. Do you like orchid?”

   ” Not particularly, “ I said.

 

<「吸ってかまわないよ。煙草のにおいは好きだ」

 私は煙草に火をつけ、肺一杯に吸い込んだ煙を彼に向かって吐きかけた。彼は鼠穴を見つけたテリアのようにくんくんとそれを嗅いだ。かすかな微笑が口の端の陰になった部分にまで広がった。

 「男が悪徳にふけるのに代理人を立てなければならんとは、何たる体たらくだ」彼は素っ気なく言った。「君は結構派手な人生を生きてきた男の退屈きわまりない残骸を見ているわけだ。下腹部から両足にかけては麻痺して動かない。ほんの少量しか食べることはできんし、名ばかりの眠りはほとんど起きているのと変わりがない。熱のおかげで生かされている、生まれたばかりの蜘蛛のようなものだ。蘭は暑さの言い訳に使っている。蘭はお好きかな?」

 「特別に好きという訳では」私は言った。>

 

” A nice state of affairs when a man has to indulge his vices by proxy, “を双葉氏は「代人を使って悪徳を味わうようになってはおしまいですわい」と、村上氏は「男が悪徳に耽るのに、いちいち代理人を立てなくちゃならんとはなまったく」と訳している。” state of affairs “は「情勢」というような意味だが、文脈の中でいろいろな意味を帯びて使われるようだ。ここでは皮肉を利かせて「体たらく」という語を使ってみた。

 

 The General half-closed his eyes. ”They are nasty things. Their flesh is too much like the flesh of men. And their perfume has the rotten sweetness of a prostitute.“

 I stared at him with my mouth open. The soft wet heat was like a pall around us. The old man nodded, as if his neck was afraid of the weight of his head. Then the butler came pushing back through the jungle with a teawagon, mixed me a brandy and soda, swathed the copper ice bucket with a damp napkin, and went away softly among the orchids. A door opened and shut behind the jungle.

 

<将軍は半ば目を閉じた。「いやらしい物だ。肉は人間の肉に似すぎている。そして臭いときたら娼婦の腐ったような甘ったるさだ」

私はぽかんと口を開けたまま彼を見つめた。やわらかく湿った熱気が棺を覆う布のように私たちを取り巻いていた。老人は肯いた。首が自分の頭の重さを恐れてでもいるかのように。その時、ティー・ワゴンでジャングルを押し退けるようにして執事が戻ってきた。私にブランディーソーダを作り、湿らせたナプキンで銅製のアイスバケツをくるむと、蘭のあいだを抜けてそっと出て行った。ジャングルの奥でドアが開き、やがて閉まる音がした。>

 

"pall” は、「棺衣」のことだが、”a ~“で比喩的に「帷(とばり)のように」と使うこともある。双葉氏は、「棺衣」を、村上氏は「帷のように」を採っている。べたべたとまとわりつく熱気を「帷」とするのも美し過ぎる気がして、湿った空気の息苦しさと、ほとんど死にかけている老人をとり囲む「棺」のイメージを採用してみた。

 

 I slipped the drink. The old man licked his lips watching me, over and over again, drawing one lip slowly across the other with a funeral absorption, like an undertaker dry-washing his hands.

 

<私は飲み物をすすった。老人は私を見ながら、何度も繰り返して唇をなめた。片方の唇をゆっくりともう一方のほうへ引き寄せるのだ。まるで葬儀に没頭している葬儀屋が、知らず知らずその手を擦り合わせているように。>

 

「老人は私を見ながら」に続くところの訳はちょっと面白い。

「何度も舌なめずりをした。葬儀屋が空気乾燥機で手をかわかすみたいに、片方の唇をゆっくりと片方の唇にひきつけるのだ」(双葉)

「何度も何度も唇を舐(な)めた。唇のひとつが、ゆっくりともう一方に重ねられた。そこには葬式を思わせる忘我があった。葬儀屋が手をこすり合わせるのと同じだ」(村上)

 

まず、なぜ葬儀屋が登場するかだ。双葉氏の訳には、百歩譲って、当時からアメリカには空気乾燥機で手を乾かす習慣があったとしても、そこに葬儀屋が出てくる必然性がない。それに、双葉氏の説明はどう考えてみても舌なめずりにはなっていない。唇をぬらすために、双方の唇が使用され、「舌」を使っていないからだ。

 

次に、村上氏のほうだが、葬儀屋が手をこすり合わせる仕種に目をつけているところはさすがだ。ただ、「そこには葬式を思わせる忘我があった」という訳はいただけない。何度も唇をなめる行為に葬式を思わせる何かがあるわけではない。葬儀屋が手をこすり合わせる姿の方にこそ、葬儀という儀式的行為から生じる、ある種の集中が感じられるのだ。修飾、被修飾の関係が逆になっている。

 

   "Tell me about yourself, Mr. Marlowe. I suppose I have a right to ask?”

   "Sure, but there's very little to tell. I’m thirty-three years old, went to college once and can speak English if there’s any demand for it. There isn’t much in my trade. I worked for Mr. Wild, the District Attorney, as an investigator once. His chief investigator, a man named Bernie Ohls, called me and told me you wanted to see me. I’m unmarried because I don’t like policemen’s wives.”

 

<「君のことについて話してくれんか、マーロウ君。私には尋ねる権利があると思うが?」

「もちろんです。でも、たいしてお話するようなことはありません。年齢は三十三歳。かつて大学に行っていたことがあり、お望みとあれば英語を話すことができます。私の商売では殆ど必要とされませんが。以前地方検事のワイルド氏の下で調査官として働いてました。そこの主任調査官のバーニー・オールズという男が電話してきて、あなたが私に会いたがっていると言ったのです。結婚はしていません。警察官の女房というのがどうも好みじゃなくて」>

 

”There isn’t much in my trade” を双葉氏は「仕事のほうはたいしたこともなく」とあっさり片付けているが、村上氏は「もっとも私の職業においては、その手の要求はあまり数多くありませんが」と、前の文を受けて、丁寧に言葉を補っている。”college” を双葉氏は「カレッジ」、村上氏は「大学」と訳している。単科大学、総合大学と使い分けると、学生時分に教えてもらったが、オックスフォードやケンブリッジのような”college”を有する英国の話ではないので、「大学」と訳しておく。マーロウはやはり、法学部出身なのだろうか。

 

   ”And a little bit of a cynic,” the old man smiled. "You didn'tt like working for Wild?”

   "I was fired. For insubordination. I test very high on insubordination, General.”

  ”I always did myself, sir. I’m glad to hear it. What do you know about my family?”

   "I’m told you are a widower and have two young daughters, both pretty and both wild. One of them has been married three times, the last time to an ex-bootlegger who went in the trade by name of Rusty Regan. That’s all I heard, General.”

 

<「そして、少々皮肉屋でもある」老人は微笑んだ。「ワイルドのために働くのが嫌だったのかな?」

「馘首になったのです。不服従という理由で。不服従という点では私は大へん高得点を保持しています。将軍」

「私もそうだった。うれしいことを聞かせてくれる。私の家族についてはどれくらい知っておる?」

「奥様を亡くされ、お嬢さんが二人いて、どちらも美しく、どちらもじゃじゃ馬だとか。一人は三度結婚し、一番最近の相手はラスティ・リーガンといって、むかし酒の密売では名の知れた男。聞いているのはこれで全部です。将軍」>

 

 "Did any of it strike you as peculiar?”

 "The Rusty Regan part, maybe. But I always got along with bootleggers myself.”

 He smiled his faint economical smile. ”It seems I do too. I’m very fond of Rusty. A big curly-headed Irishman from Clonmel, with sad eyes and a smile as wide as Wilshire Boulevard. The first time I saw him I thought he might be what are probably thinking he was, an adventurer who happened to get himself wrapped up in some velvet.”

  ”You must have liked him,” I said. ”You learned to talk the language.”

 

<「何か特に気になるところがあるかな?」

「あるとすれば、ラスティ・リーガンの件ですが、私も酒の密売業者とはうまくやってきたので」

彼はかすかな切りつめた笑みを浮かべた。「私もそうだった。私はラスティのことが好きだった。クロンメルから来た巻き毛の大きなアイルランド人で、哀しい目をしていたが、笑うときはウィルシャー大通りくらい広々とした笑い方をした。初めて会ったときは、私も彼のことを、多分君の考えているように思ったものだ。たまたま博打で大勝ちしたいかさま師だと」

「彼のことがお気に入りだったにちがいない」私は言った。「喋り方が様になっている」>

 

ここは、初めて読んだときから気になっていた。まず、”economical smile”だが、二人とも「倹約した(された)笑み」と直訳しているが、微笑を倹約するとは、普通は言わない。体力が消耗していて、にっこり笑う力もないのだから、類語を探し「切りつめた」と訳してみた。ベストとは思わないが、「倹約した」よりはましか、と思う。

 

さらに、”an adventurer who happened to get himself wrapped up in some velvet” が難しかった。

「ひょんなことでおかいこぐるみになった冒険家といったところじゃな」(双葉)。「こいつは、今はたまたま猫をかぶっているが、けっこう喰えないやつかもしれんぞと」(村上)。双葉氏の「おかいこぐるみ」は、ベルベットを上物の服地と考えて、日本語にある似た表現を移植したものだろう。なるほど、と思わされるが、「お蚕ぐるみ」も今は死語だろう。村上氏の方は、全くの意訳である。しかし、こう訳したのでは、ラスティたち裏稼業の人種だけに通じる隠語を、将軍が熟知しているという感じが伝わってこない。ここは、俗語を使って訳したいところだ。”velvet” には、俗語で「博打で得た金」の意がある。また、”wrap up” には「試合に勝つ」、” happen to” には「たまたま~する」の意味がある。それらを使うと”adventuler” は「冒険家」というより、「山師」か「いかさま師」と訳したほうがぴったりくる。

 

   He put his thin bloodless hands under the edge of the rug. I put my cigarettes stub out and finished my drink.

   ”He was the breath of life to me, sweating like a pig, drinking brandy by the quart and telling me stories of the Irish revolution. He had been an officer in the I.R.A. He wasn’t even legally in the United States. It was a ridiculous marriage of course, and it probably didn’t last month, as a marriage. I’m telling you the family secrets, Mr. Marlowe.”

   ”They’re still secrets,” I said. "What happened to him?”

 

<彼は痩せて血の気のない両手を膝掛けの下に入れた。私は、吸殻をもみ消し、酒を飲み干した。

 「あの男は、私の生命の息吹だった。豚のように汗をかき、ブランディをがぶがぶ飲み、アイルランド革命の話を聞かせてくれた。かつては、アイルランド共和国軍の士官だった。法律上は合衆国に入国さえしていない。もちろん、ばかげた結婚だった。結婚といえるようなものはひと月しかもたなかった。私は家庭の秘密を話しているんだよ。マーロウ君」

「秘密は守ります」私は言った。「彼に何が起きたんです?」>

 

   The old man looked at me woodenly, ”He went away, a month ago. Abruptly, without a word to anyone. Without saying good-bye to me. That hurt a little, but he had been raised in a rough school. I’ll hear from him one of these days. Meantime I am being blackmailed again.”

   I said:”Again?”

   He brought his hands from under the rug with a brown envelope in them.”I should have been very sorry for anybody who tried to blackmail me while Rusty was around. A few months before he came―that is to say about nine or ten months ago―I paid a man named Joe Brody five thousand dollars to let my younger daughter Carmen alone.”

   ”Ah,” I said.

   He moved his thin white eyebrows. ”That means what?”

   ”Nothing,” I said.

   He went on staring at me, half frowning. Then he said:”Take this envelope and examine it. And help yourself to the brandy.”



<老人は無表情に私を見た。「行ってしまった。ひと月ほど前のことだ。突然、誰にも言わず。この私にさよならの一言さえなく。少々傷ついたよ。しかし、まあ、荒っぽい育ちの男だ。そのうちに何か言ってよこすだろう。話は変わるが、私はまた脅迫されているんだ」

 私は言った。「また?」

 彼は膝掛けの下から手を出した。そこには茶色い封筒があった。「誰にせよ、ラスティがいる間に私を脅迫しようなどとする者がいたら、そいつのことを哀れに思わずにはいられなかったろうよ。彼がやってくる数ヵ月前―というのは九ヶ月か十ヶ月前のことだが―ジョー・ブロディという名の男に五千ドルくれてやった。下の娘、カーメンから手を引かせるためだ」

 「はあ」私は言った。

 彼は細く白い眉を動かした。「それは、どういう意味かね?」

 「意味はありません」私は言った。

 彼は少しばかり眉をひそめ、私を見つめた。そして言った。「この封筒を手にとって調べてみてほしい。ブランディは勝手にやってくれ」>

 

”a few months”を双葉氏は「二、三ヶ月」、村上氏は「数ヵ月」と訳している。基本的には「ある」ことを前提とした少量のものを現すだけだから、文脈に合わせて訳すしかないのだが、実際に訳す者にとっては悩ましいことだ。”I should have been very sorry for anybody who tried to blackmail me” も双葉氏は「わしをゆすろうとする奴がいたら、わしはその男を気の毒に思わねばならんかったろうが」、村上氏は「私を脅迫する人間がどんな目にあうか、思い知らせてやれたんだがな」と訳している。双葉氏のほうが直訳に近く、村上氏は文意を汲んで意訳している。こういう皮肉を利かせた科白は、そのまま訳したほうが、皮肉を感じさせることができる。一方、読者によっては皮肉と受け止めず、そう言っている人間をずいぶん人が好いと思うかもしれない。これも、どちらをとるかは訳者の胸三寸。蛇足ながら、”anybody” を双葉氏のように「男」と訳すのは、今の時代だと人権上の問題があるかもしれない。脅迫者が男だと分かるのは、この会話の後だから。

 

    I took the envelope off his knees and sat down with it again. I wiped off the palms of my hands and turned it around. It was addressed to General Guy Sternwood, 3765 Alta Brea Crescent, West Hollywood, California. The address was in ink, in the slanted printing engineers use. The envelope was slit. I opened it up and took out a brown card and three slips of stiff paper. The card was of thin brown linen, printed in gold: ”Mr. Arthur Gwynn Geiger.” No address. Very small in the lower left-hand corner: ” Rare Books and De luxe Editions.” I turned the card over. More of the slanted printing on the back. ” Dear Sir: In spite of the legal uncollectibility of the enclosed, which frankly represent gambling debts, I assume you might wish them honored. Respectfully, A. G, Geiger.”

 

<私は彼の膝から封筒をとり、再び腰をおろした。両の掌をぬぐい、封筒をひっくり返した。ガイ・スターンウッド将軍宛てで、住所はカリフォルニア州ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレセント3765番地となっていた。宛名はインクで、技師が使う斜めの活字体で書かれていた。封は切ってあった。私は中から、茶色の名刺と三枚の堅く細長い紙片を取り出した。名刺は薄い茶色の亜麻製で、アーサー・グウィン・ガイガーと金文字で印刷してあった。住所はない。下の左隅にとても小さい字で「稀覯書及び愛蔵本」とある。名刺を裏返してみた。表より多目に斜めの活字体が並んでいた。「謹啓。同封のものは、率直に申せば賭博の負債。法的に回収不能なれど、もしや支払いの意思がおありかも、と推察いたした次第。敬白。A・G・ガイガー」>

 

”slanted printing engineers use”を双葉氏は「印刷関係の技師が使うみたいな斜めの書体」と訳している。印刷関係の技師が使う書体というのが変だ。実は”printing”には「活字体」の意味がある(村上氏は「活字体」と訳している)。話は変わるが、英語を習い始めたばかりの頃、「筆記体」を必死で覚えた。ノートは筆記体でとっていたように思う。ところが、最近知ったのだが、近頃は学校では筆記体を教えていないらしい。そういえば、当時でも海外のペンパルから届く手紙は、ブロック体で書かれていた。それも、左手で書くからか、筆記体とは逆の左に傾いた斜めの字体で。左に傾いた斜めの筆記体というのは、想像するだけで書きづらそうだ。

 

” I assume you might wish them honored”だが、双葉氏は「貴殿のご名誉を保持せられるため、正当のものとおみとめくだされば幸甚です」、村上氏は「貴下におかれましては、あるいは名誉を重んじられるのではあるまいかと愚考いたした次第です」と、妙にかしこまった訳になっている。”honor”

は名詞だったら確かにお二人の訳しているように「名誉」の意だが、動詞になると、「<手形などを>受け取る、支払う」という意味がある。名誉云々を持ち出せば、強請りであることを強く匂わせてしまう。ここは、ガイガー氏の立場に立って「(もしかしたら)支払う意思があるかと推察する」くらいに、あっさりと訳すわけにはいかないだろうか。

 

   I looked at the slips of stiffish white paper. They were promissory notes filled out in ink, dated on several dates early in the months before, September. ”On Demand I promise to pay to Arthur Gwynn Geiger or order the sum of One Thousand Dollars ($1000.00) without interest. Value Received. Carmen Sternwood.”

   The written part was in a sprawling moronic handwriting with a lot of fat curlicues and circles for dots. I mixed myself another drink and sipped it and put the exhibit aside.

 

<私は強ばった白い紙片を調べた。必要事項がインクで記入された約束手形だった。いくつかの日付は先月、つまり九月になっていた。「アーサー・グウィン・ガイガー氏、或はその命により要求あり次第、金一千ドルを支払うものなり。但し利息は含まず。代金領収済。カーメン・スターンウッド」

手書きの部分は、少し足りないのがのたくったような筆跡で、肉太の飾り模様を所かまわずくっつけ、点を打つところには丸が書いてあった。私は、もう一杯飲み物をつくってそれをすすり、証拠物件をわきに置いた。>

 

”They were promissory notes filled out in ink,”を双葉氏は「約束手形だった」、村上氏は「インクで書かれた借用証だった」と、訳している。この「ごわごわした」紙を便せんと解する村上氏にとって、「手書きの部分」とはどこを指すのだろう。便せんの一部はタイプで打たれ、そのうちの特定の部分だけ手書きなのだろうか。”the slips of stiffish white paper” は、どこにでもある既製の約束手形で必要な部分だけ記入できるようなものではなかったのだろうか。”fill out”には、「<小説・記事・原稿など>を(手を加えて)完全なものにする」という意味がある。その手を加えた部分だけがインクで書かれていた、と解するのがこの場合自然ではないか。印刷活字と、ばかげた飾り模様が付されたペン書きの部分のちぐはぐさが、マーロウの目には異様に映ったのだ。

 

   ”Your conclusions?” the General asked.

   ”I haven’t any yet. Who is this Arthur Gwynn Geiger?”

   ”I haven’t the faintest idea.”

   ”What does Carmen say?”

   ”I haven’t asked her. I don’t intend to. If I did, she would suck her thumb and look coy.”

   I said:”I met her in the hall. She did than to me. Then she tried to sit in my lap.”

 

   Nothing changed in his expression. His clasped hands rested peacefully on the edge of the rug, and the heat, which made me feel like a New England boiled dinner, didn’t seem to make him even warm.

 

<「結論は出たかね?」将軍は尋ねた。

  「まだ何も。このアーサー・グウィン・ガイガーというのは誰なんですか?」 

 「私には見当もつかない」

 「カーメンは何と言っていますか?」

 「私は訊いていない。訊くつもりもない。もし訊いても恥ずかしそうに親指を吸ってみせるだろう」

私は言った。「玄関で会いました。私にもやってましたよ。それから私の膝に座りかけました」

 彼の表情は変わらなかった。握った手は膝掛けの縁で穏やかにやすらっていた。私にはニュー・イングランド・ボイルド・ディナーのように感じられる暑さも、彼にとっては暖かくもないように見えた。>

 

ニュー・イングランド・ボイルド・ディナーというのは、アイルランド由来の、コーンドビーフ、玉葱、キャベツなどをとろ火で煮込んだ伝統的な家庭料理。双葉氏は「ニュー・イングランドの鍋料理」、村上氏は「ニューイングランドの煮込み料理」としている。日本ではあまり知られていない料理名だけに固有名詞扱いするのは難しいと考えたのだろう。訳注を入れるか、括弧書きにするくらいの配慮がほしいところだ(村上氏は、他にその種の例がある)。

 

   ”Do I have to be polite?” I asked. ”Or can I just be natural?”

   ”I haven’t noticed that you suffer from many inhibitions, Mr. Marlowe.”

   ”Do the two girls run around together?”

   ”I think not. I think they go their separate and slightly divergent roads to perdition. Vivian is spoiled, exacting, smart and quite ruthless. Carmen is a child who likes to pull wings off flies. Neither of them has any more moral sense than a cat. Neither have I. No Sternwood ever had. Proceed.”

 

<「礼儀正しくやった方がいいですか」わたしは訊いた。「それとも普通でかまいませんか?」

 「君が遠慮なんかする男だとは思ってないよ。マーロウ君」

 「二人は一緒になって男遊びをしてるんですか?」

 「そうは思わん。私の見るところ、二人はそれぞれ、わずかながら異なった破滅への道を歩いているようだ。ヴィヴィアンは甘やかされて育ったせいで気難しく、頭はいいが情味というものがこれっぽっちもない。カーメンは、蠅の羽を毟り取るのが好きな子どもだ。どちらも道徳観念など猫ほども持っていない。私もだ。スターンウッドの者は、そんなもの持ったためしがない。続けてくれ」>

 

”Do the two girls run around together?”を双葉氏は「お嬢さんはお二人でつるんで遊びまわっておいでですか?」、村上氏は「二人のお嬢さんは一緒に行動しているのですか?」と、けっこうお上品に訳している。”run around”だが、「(好ましくない人物と)つき合う、(異性と)浮気する」という意味がある。両氏の訳では、その不品行ぶりに言及している、というマーロウのぶしつけな質問ぶりがうかがえず、先に礼儀知らずととられないようにしておいた前置きの意味がない。

 

   ”They’re well educated, I suppose. They know what they’re doing.”

   ”Vivian went to good schools of the snob type and to college. Carmen went to half a dozen schools of greater and greater liberality, and ended up where she started. I presume they both had, and still have, all the usual vices. If I sound a little sinister as a parent, Mr. Marlowe, it is because my hold on life is too  slight to include any Victorian hypocrisy.” He leaned his head back and closed his eyes, then opened them again suddenly. ”I need not add that a man who indulges in parenthood for the first time at the age of fifty-four deserves all he gets.”

 

<「お嬢さんたちは充分な教育を受けています。自分のやっていることくらい知ってるはずです」

   「ビビアンはスノッブの行く名門校に通い、大学にも行った。カルメンはそれより遥かに自由な気風の学校を半ダースばかり渡り歩いたが、最後はふり出しに戻った。どちらも一通りの悪さはやってきたし、今もやっているだろう。親の口から出る言葉としていささか禍々しく響くたとしたらだ、マーロウ君。私の人生には、ビクトリア朝の偽善などにかかずらっている暇はないからだ」彼は頭を後ろに傾け、目を閉じたが、再び突然開いた。「五十四歳にもなって、初めて親心に浸るような男には、自業自得としか言い様がない」>

 

”I need not add that a man who indulges in parenthood for the first time at the age of fifty-four deserves all he gets.”をどう訳すか。「五十四歳になって初めて父親らしい気持ちになった男が、どんなむくいをうけるか、いまさらお話しするまでもあるまいて」(双葉)。「わかるだろうが、男が五十四になって初めて子供を作ったりすると、結局こんな羽目になってしまう」(村上)。どちらの訳も日本語として読めばよくできている。ただ、ニュアンスとして女々しさが漂いすぎる気がする。娘に対して厳しすぎるほどの言葉を吐く男が、自分に対しては自己憐憫にふけることを許したりするだろうか。もっと突き放した口ぶりがよりふさわしいと思う。

 

  I slipped my drink and nodded. The pulse in his lean gray throat throbbed visibly and yet so slowly that it was hardly a pulse at all. An old man two-thirds dead and still determined to believe he could take it.

  ”Your conclusions?” he snapped suddenly.

  ”I’d pay him.”

  ”Why?”

  ”It’s a question of a little money against a lot of annoyance. There has to be something behind it. But nobody’s going to break your heart, if it hasn’t been done already. And it would take an awful lot of chiselers an awful lot of time to rob you of enough so that you’d even notice it.”

 

<私は酒をすすり、うなづいた。彼のやせて灰色をした喉が脈打っていた。ほとんど打っていないといえるほど極めてゆっくりと。老人の三分の二は死んでいる、と同時にまだ自分はやっていけると心に決めている。

「君の出した結論は?」

「私なら払いますね」

「何故だ?」

「はした金か、たくさんの厄介事か、という問題です。背後に何かある。しかし、誰もあなたを傷つけようとはしていない。もし、まだそうなっていなければ、ですが。それに、あなたに気づかれるほどの大金を搾り取ろうと思ったら、よほど多くのぺてん師と、よほど多くの時間がかかることでしょう」>

 

  ”I have a pride, sir,” he said coldly.

  ”Somebody’s counting on that. It’s the easiest way to fool them. That or the police. Geiger can collect on these notes, unless you can show fraud. Instead of that he makes you a present of them and admits they are gambling debts, which gives you a defence, even if he had kept the notes. If he’s a crook, he knows his onions, and if he’s an honest man doing a little loan business on the side, he ought to have his money. Who was this Joe Brody you paid the five thousand dollars to?”

   

<「私にはプライドというものがある」と彼は冷たく言った。

「誰かがそれをあてにしているんです。一泡吹かせるには金を払うのが一番簡単な方法です。それか警察に頼るか。あなたが詐欺を立証できない限り、ガイガーは、この借用書で金を回収することができます。そうする代わりに、彼はあなたにそれを送ってきた。たとえ彼が借用書を握っていたとしても、賭博上の借金と認めていることは、あなたにとって有利なのに。彼が詐欺師だった場合、万事手抜かりはないでしょう。彼が真っ当な人間で副業にちゃちな金貸しをやっていたのなら、支払うべきです。ところで、あなたが五千ドルくれてやった、このジョー·ブロディってのはどんな奴なんです?」 >

 

”he knows his onions”の「オニオン」は、玉葱とは訳さない。「その辺のことは万事心得ている」(双葉)、「そのへんの段取りはじゅうぶん承知の上で」(村上)のような意味である。

 

  ”Some kind of gambler. I hardly recall. Norris would know,My butler.”

  ”Your daughters have money in their own right, General?”

  ”Vivian has, but not a great deal. Carmen is still a minor under her mother’s will. I give them both generous allowances.”

  I said: ”I can take this Geiger off your back, General, if that’s what you want. Whoever he is and whatever he has. It may cost you a little money, besides what you pay me. And of course it won’t get you anything. Sugaring them never does. You’re already listed on their book of nice names.”

  ”I see.” He shrugged his wide sharp shoulders in the faded red bathrobe. ”A moment ago you said pay him. Now you say it won’t get me anything.”

  ”I mean it might be cheaper and easier to stand for a certain amount of squeeze. That’s all.”

 

<「博打打ちか何かだ。よくは覚えとらん。ノリスなら知っているだろう。執事だ」

  「お嬢さんたちは、自分の好きに使えるお金を持っていますか?将軍」

 「ビビアンは持っているが、たいした額ではない。カルメンは、まだ母親の遺言の制限下にある。どちらにも、気前よく小遣いを与えている」

  私は言った。「お望みとあらば、将軍。彼が誰で何を持っていようが、あなたの背中からガイガーを引っぺがすこともできます。それには私への支払い以外に、少し金がかかるでしょう。もちろん、それであなたが得をすることはありません。うわべだけ繕っても何の解決にもならない。あなたの名は既に彼らの顧客名簿に記載されている」

  「なるほど」彼は色あせた赤いバスローブに包まれた幅広の骨張った肩をすくめた。 「先ほど君は彼に支払えと言った。それが今度は、それは私にとって何も得ることはないと言う」

  「ある程度までなら搾られるのをがまんする方が金も手間もかからない。それだけのことです」>

 

  ”I’m afraid I’m rather an impatient man, Mr. Marlowe. What are you charges?”

  ”I get twenty-five a day and expenses―when I’m luckey.”

  ”I see. It seems reasonable enough for removing morbid growths from people’s backs. Quite a delicate operation. You realize that, I hope. You’ll make your operation as little of a shock to the patient as possible? There might be several of them, Mr. Marlowe”

  I finished my second drink and wiped my lips and my face. The heat didn’t get any less hot with the brandy in me. The General blinked at me and plucked at the edge of his rug.

 

<「私はどうにもこらえ性のない方でな、マーロウ君。いくら払えばいいのかね?」

 「一日二十五ドル。それに必要経費。もし上手くいけばですが」

 「なるほど。人の背中で増殖中の病巣を摘出するのに適切な料金のようだ。判ってると思うが、かなり繊細な手術になろう。できる限り患者にショックのないようにな?いくつかあるかも知れんぞ、マーロウ君」私は二杯目の酒を飲み終え、唇と顔を拭った。ブランデーは、ほとんど暑さをしのぐ助けにはならなかった。将軍は私を見て目を瞬かせ、膝掛けの端をつかんだ。>

 

  ”Can I make a deal with this guy, if he’s within hooting distance of being on the level?”

  ”Yes. The matter is now in your hands. I never do things by halves.”

  ”I’ll take him out,” I said. ”He’ll think a bridge fell on him.”

  ”I’m sure you will. And now I must excuse myself. I am tired.”

He reached out and touched the bell on the arm of his chair. The cord was plugged into a black cable that wound along the side of the deep dark green boxes in which the orchids grew and festered. He closed his eyes, opened them again in a brief bright stare, and settled back among his cussions. the lids dropped again and he didn’t pay any more attention to me.

 

<「話の通じそうな相手だった場合、勝手に取引してもかまいませんか」

 「かまわんよ。今やこの件は君の手中にある。私は中途半端なことはやらんよ」

 「黙らせてやりますよ」と私は言った。 「彼は橋が落ちてきたと思うでしょう」

 「君ならきっとそうするだろう。すまんが、私は疲れた」

彼は手を伸ばし、椅子の肘掛上の呼鈴に触れた。コードが、膿み爛れるように生い茂った蘭の育つ濃緑色の箱の側面に沿ってうねる黒いケーブルにつながっていた。彼は目を閉じて再び開け、束の間目を輝かせると、クッションのなかにもたれた。瞼は再び塞がり、彼は二度と私に注意を払うことはなかった。>

 

  I stood up and lifted my coat off the back of the damp wicker chair and went off with it among the orchids, opened the two doors and stood outside in the brisk October air getting myself some oxygen. The chauffeur over by the garage had gone away. The butler came along the path with smooth light steps and his back as straight as an ironing board. I shrugged into my coat and watched him come.

  He stopped about two feet from me and said gravely: "Mrs. Regan would like to see you before you leave, sir. And in the matter of money the General has instructed me to give you a check for whatever seems desirable.”

  ”Instructed you how?”

  He looked puzzled, then he smiled. ”Ah, I see, sir. You are, of course, a detective. By the way he rang his bell.”

  ”You write his checks?”

  ”I have that privilege.”

  ”That ought to save you from a pauper’s grave. No money now, thanks. Mrs. Regan want to see me about?”

  His blue eyes gave me a smooth level look. ”She has a misconception of the purpose of your visit, sir.”

  ”Who told her anything about my visit?”

  ”Her windows command the greenhouse. She saw us go in. I was obliged to tell her who you were.”

  ”I don’t like that,” I said.

  His blue eyes frosted. ”Are you attempting to tell me my duties, sir?”

  ”No. But I’m having a lot of fun trying to guess what they are.”

  We stared at each other for a moment. He gave me a blue glare and turned away.

 

<私は立ち上がり、湿った籐椅子の背から私の上着を取ると、それを手に蘭の中を抜けた。二つのドアを開けて、すがすがしい十月の外気の中に立ち新鮮な酸素を思うさま吸い込んだ。運転手はガレージの傍から消えていた。執事が、アイロン台のように背をまっすぐ伸ばし滑らかな軽い足取りで小径沿いにやってきた。私は上着を着ようと肩を捩りながら、彼が来るのを見ていた。

  彼は二フィートほど手前で足を止め、重々しく言った。「お帰りの前にリーガン夫人がお会いしたいとのことです。お金の件につきましては、いかほどなりともあなたのご希望通り小切手をお切りするよう将軍から申しつかっております」

  「どうやって申しつかったのかな?」

  彼は途惑ってみえた。そして微笑んだ。 「ああ、なるほど、あなたは探偵でいらした。そのことですが、将軍は呼鈴を鳴らしたのです」

 「君が小切手を書くのかい?」

  「私はその任を授かっています」

  「それはいい。貧民墓地に行かなくてすむわけだ。金なら今はいらない。ありがとう。リーガン夫人が私に何の用かな?」

 彼の青い目はまっすぐこちらに向けられていた。「彼女はあなたの訪問の目的を誤解しているようです」

  「誰が私の訪問のことを彼女に教えたのだろう?」

  「夫人の部屋の窓から温室が見下ろせます。私たちが入るのを見たのです。私はあなたが誰かを言わざるを得ませんでした」

  「そいつは、どうかな」と私は言った。

  彼の青い目が凍りついた。 「あなたは、私の職務についてご教授くださるお考えでしょうか?」

  「そうじゃないが、その職務とやらがどんなものか、あれこれ憶測しては楽しんでいるところさ」

  私たちはしばらく互いを見つめ合った。彼は青い目をぎらつかせて睨み、そして背けた。>

 

新旧訳とも力が入った名訳である。”And in the matter of money the General has instructed me to give you a check for whatever seems desirable.”のところ。双葉氏は「また、あなた様に差し上げるお金は、いかほどなりと小切手をと、閣下からのご命令でございました」。村上氏は「そしてお支払いに関してですが、妥当な金額であれば、いかほどなりとも小切手をお切りするようにと、将軍から申しつけられております」だ。村上氏の「妥当な金額であれば」はおそらく”seems desirable”を響かせたのだろうが、こう訳すことで、小切手の実権は執事が握っていると、匂わせたいのだろう。呼鈴ひとつで、そこまで詳しい内容を指示することはできない相談だ。執事に対する不信感は、このあとで募るわけだが、このへんですでに兆していたというのが、村上氏流の読みなのだろう。

 

第二章は、マーロウと将軍の双方が相手を気に入ったことが分かるように書かれている。それと、二人の娘についての情報と、執事の胡散臭さが伝わってくる書き方になっている。翻訳の面で言うと、日本語の敬語の使い方が分かっていないと訳しにくい。相手に対する敬意の表明はもちろんだが、不在の第三者に対する敬意の表し方をどうするかが問題だ。執事が将軍に最大級の敬語を使うのは理解できるが、その場にいないリーガン夫人に対して、マーロウの前で敬意を表すのは礼儀に適っているのだろうか。できる限りあっさりと訳してみたが、敬語を訳すのは難しい。日本語の勉強が必要だと感じた。







『大いなる眠り』第1章

f:id:abraxasm:20140816170225j:plain

" It was about eleven o’clock in the morning, mid October, with the sun not shining and a look of hard wet rain in the clearness of the foothills.”

<十月の半ば、午前十一時頃のこと。日は射さず、開けた山のふもとあたりは激しい雨で濡れているようだった。><>内は、拙訳。

私立探偵フィリップ・マーロウが読者の前に姿を見せる、そのはじめての日。季節のせいかロス・アンジェルスの空模様はあまりかんばしくなかったようだ。長篇第一作『大いなる眠り』は、今も雨不足に悩む砂漠の上に建つ都市に似つかわしくなく、よく雨が降る印象を受ける。

双葉十三郎氏の訳で東京創元社から文庫化されていた『大いなる眠り』は2012年、版権が移動したことにより、早川書房から村上春樹氏による新訳が出た。手持ちの創元推理文庫版は1988年のもので54刷を重ねている。『ロング・グッドバイ』を、原書、清水俊二訳、村上春樹訳と読み比べてきた企画がひとまず終わったので、かねてから考えていた『大いなる眠り』に取り掛かることにした。

それまで、名訳の誉れの高い旧訳をありがたく思うあまり、原文にあたることなど考えもしなかったが、原文に忠実な訳を心がけたという村上訳が出たことで、チャンドラーの原文と日本語訳を引き比べて読むという面白さを味わうことが可能になり、旧訳が省略していた部分も明らかになった。それと同時にチャンドラーの英文の持つリズムにも眼が開かれた。今回も新旧訳を手がかりに、チャンドラーの文章の持つ魅力に迫りたいと思っている。

さて、冒頭の文章だが、“ clearness ” の訳がいささか異なるようだ。

「十月の半ば、朝の十一時頃だった。日は射さず、強い雨が来るらしく丘がくっきりと見えた」(双葉)
「十月の半ば、午前十一時頃のことだ。太陽は姿を消し、開けた山裾のあたりは激しい雨に濡れているように見えた」(村上)

雨は山麓のあたりに、今降っているのか、これから来るところなのか。そこが微妙に異なる。双葉氏は、“ clearness ” を「くっきりと(見えた)」と訳しているが、村上氏は「開けた」と訳し、山裾のあたりを修飾する語と採っている。ところで、洋の東西に関わらず、雨もよいの折にその場所がくっきりと見えたりするものだろうか。ここは、スターンウッド邸の前に立つマーロウが、背後に広がる開けた山のふもとあたりを眺め、やがてやってくるだろう雨が、もうそこまで来ている、と見たと解したい。

" I was wearing my powder-blue suit, with dark blue shirt, tie and display handkerchief, black brogues, black wool socks with dark blue clocks on them. I was neat, clean, shaved and sober, and I didn’t care who knew it. I was everything the well-dressed private detective ought to be. I was calling four million dollars. ”

「私は、パウダー・ブルーの服に、濃紺のワイシャツ、ネクタイ、飾りハンカチ、黒いゴルフ靴、濃紺の刺繍いりの黒いウールの靴下をつけていた。ひげもそり、小ざっぱりして、くそまじめな顔つきだった。誰に知られようとかまうことはない。どこから見ても身だしなみのいい私立探偵のピカ一だ。なにしろ四百万ドルを訪問するのだ。」(双葉)

「私は淡いブルーのスーツに、ダークブルーのシャツ、ネクタイをしめ、ポケットにはハンカチをのぞかせ、穴飾りのついた黒い革靴に、ダークブルーの刺繍入りの黒いウールのソックスをはいていた。小ざっぱりと清潔で、髭もあたっているし、なにしろ素面(しらふ)だった。さあ、とくとご覧あれ。身だしなみの良い私立探偵のお手本だ。なにしろ資産四百万ドルの富豪宅を訪問するのだから。」(村上)

簡潔なリズムで意気のいい双葉訳はさすがに堂に入ったものだが、服装についての記述には時代が反映する。ブローグを「ゴルフ靴」としているところが痛い。しかし、村上訳も「穴飾りのついた黒い革靴」と説明調なのはいただけない。ここは「ブローグ」でいいのではないか。石津謙介氏によるトラッド・ファッションが紹介されて以来、紳士靴の名称として「ブローグ」は市民権を得ている。

それより、" sober “ をきちんと訳している村上訳に対して、「くそまじめな顔つき」と意訳している双葉訳が気になる。マーロウは、何かといえば酒を飲む。オフィスの机の抽斗にもスコッチが一瓶入っているはずだ。午前十一時だって、仕事のない日なら飲んでいたって不思議ではない。ここは、人と会う約束があるのでわざわざ素面でいたのだ、と強調している。これを訳さない手はない。ただ、最後の文は、双葉訳が原文の意を呈していて締まっている。文学的な評価はともかく、チャンドラーはハードボイルド作家なのだ。分かりやすければいい、というものでもない。

ここから延々と建築物の説明が続く。マーロウが相手をするのは、権力者や資産家であることが多い。しがない私立探偵が力のあるものと対峙するという構図が分かりやすいからだろう。いかにもアメリカの資産家らしい金のかかった邸宅の様子を戯画化して語らせたらチャンドラーの右に出る者はいない。

" The main hallway of the Sternwood place was two stories high. Over the entrance doors, which would have let in a troop of Indian elephants, there was a broad stained-glass panel showing a knight in dark armor rescuing a lady who was tied to a tree and didn’t have any clothes on but some very long and convenient hair. “

「スターンウッド邸の玄関は二階建ての高さだった。インド象の一隊をごっそりいれられるくらいの入口の扉の向こうには、ステンド・グラスがあった。何も着ていないがうまいぐあいに長い髪の毛を持った貴婦人が、木にしばりつけられ、それを黒っぽい鎧を着た騎士が助けようとしている絵だ」(双葉)

「スターンウッド邸の玄関ホールは二階ぶんの高さがあった。インド象の大群だってくぐり抜けられそうな入り口の扉の上には、大きなステンドグラスのパネルがはまっていた。暗い色合いの鎧をつけた騎士が、木に縛りつけられたご婦人を救おうとしている図柄だ。女は一糸まとわぬ裸だったが、ひどく長い髪が具合よくその身体を覆っていた」(村上)

ステンド・グラスがあるのは、入口扉の「向こう」なのか、それとも「上」なのか。インド象の一隊が通れるくらい、というのだから通常より大きな両開きのドアだろう。果たしてそれは開いていたのか、しまっていたのか。しまっていたなら、その向こうは見えないはずである。しまっていたとすれば、吹き抜けになった玄関ホールの入口扉の上が大きなステンド・グラスになっていたのだろうか。

" The knight had pushed the vizor of his helmet back to be sociable, and he was fiddling with the knots on the ropes that tied the lady to the tree and not getting anywhere. I stood there and thought that if I lived in the house, I would sooner or later have to climb up there and help him. He didn’t seem to be really trying. ”

マーロウは、扉の前に立って、ジョン・エヴァレット・ミレイ描くところの「遍歴の騎士」をもとにしたと想像されるステンド・グラスを眺めている。騎士は兜の面貌を上げ、縄の結び目を解こうとするがうまくいかないらしい。ちっとも本気でやっているように見えないのだ。もし、この家に住んでいたら、遅かれ早かれ登っていって騎士を助けることになるだろう、などとマーロウは考えている。

ヨーロッパ風の美意識で装飾されたステンド・グラスを、アメリカのハード・ボイルド探偵らしい実務的な見方で批評するやり方はマーク・トウェインに範をとったものだろうが、同時に事件と見れば放っておけず、手を出してしまうマーロウという男の性格を暗示した部分でもある。本格派探偵小説の雄で、セザンヌの水彩画を集めることを趣味にしていたヴァン・ダインの探偵ファイロ・ヴァンスへの皮肉な挨拶のようにも読める。それにしても、兜はヘルメット、面貌はバイザー。原書で読む騎士の出で立ちは、まるでバイク乗りの恰好のようだ。

" There were French doors at the back of the hall, beyond them a wide sweep of emerald grass to a white garage, in front of which a slim dark young chauffeur in shiny black leggings was dusting a maroon Packard convertible. Beyond the garage were some decorative trees trimmed as carefully as poodle dogs. Beyond them a large greenhouse with a domed roof. Then more trees and beyond everything the solid, uneven, comfortable line of the foothills. ”

「広間のうしろのほうはフレンチ・ドアで、その向こうにはエメラルド色の芝生と白い自動車車庫が見えた。車庫の前で、黒いぴかぴかの長靴をはいた浅黒いやせた若い運転手が、茶色のパッカードのコンヴァーティブルを掃除していた。車庫の向こうはむく犬みたいに手入れをした立ち木だった。そのまた向こうには、丸屋根のついた大きな温室があった。それからまた立ち木があり、そのすべての向こうに、どっしりと気持ちよさそうに腰をすえた丘が見えた。」(双葉)

村上訳では、フレンチ・ドアは、玄関ホールの「奥」。パッカードの色は「えび茶」。運転手は黒髪で、長靴ではなく「ゲートル」を巻いていることになっている。小さな差異はともかく、近頃では女性のファッション・アイテムとして知られる「レギンス」が登場する。村上氏は、「真新しい黒いゲートルを巻いた」と訳しているが、資産家のお抱え運転手の服装と考えたとき、ここは、長靴の代わりに使用する「革脚絆」ではないだろうか。だとすると、むしろ「黒いぴかぴかの長靴」と訳した双葉氏のほうがイメージに近い。ゲートルという言葉から布製の「巻脚絆」を連想し、「巻く」と訳したのだろうが、バックル止めの「革脚絆」だったら「巻く」ことはない。

最後の文を村上氏は「それから更に樹木があり、それらすべての先に、揺らぐことのない、不揃いにして心安まる山の稜線が見えた」と訳しているが、「揺らぐことのない、不揃いにして心安まる」は、いくらなんでも直訳過ぎるだろう。「どっしりと気持ちよさそうに腰をすえた」という擬人化された山の姿に" the solid, uneven, comfortable line of the foothills ” を見ることができるのではないか。

" On the east side of the hall a free staircase, tile-paved, rose to a gallery with a wrought-iron railing and another piece of stained-glass romance. Large hard chairs with round red plush seats were backed into the vacant spaces of the wall round about. They didn’t look as if anybody had ever sat in them. ”

<ホールの東側には、タイル張りの階段が鍛鉄製の手摺のついたギャラリーへ通じていた。そこにはもう一枚の騎士道物語を主題にしたステンドグラスが嵌っていた。誰も座る者がないままに、赤いフラシ天製の丸いシートがついた椅子が壁を背にして空きスペースを埋めるように並んでいた。>

" In the middle of the west wall there was a big empty fireplace with a brass screen in four hinged panels, and over the fireplace a marble mantel with cupids at the corners. Above the mantel there was a large portrait two bullet-torn or moth-eaten cavalry pennants crossed in a glass frame. ”

<西側の壁の中央に、四つ折の真鍮の火除け衝立を前に置いた大きな空っぽの暖炉があった。暖炉の上には両端にキューピッドがついた大理石のマントルピース。その上には大きな肖像画が、弾丸で開いたか虫に食われたか穴だらけの、二枚のぶっちがいにされた騎兵隊のペナントに飾られて、ガラス額のなかに収まっていた。>

新旧訳とも「ちょうつがいを四個つけた真鍮の火よけ」(双葉)、「四枚のパネルを蝶番で繋げた真鍮の衝立」(村上)と、蝶番にこだわっているが、要は暖炉の前に置く、屏風仕立ての「火よけ衝立」のことである。村上氏はマントルピースを原語に忠実に「マントル」としているが、それでは邦訳になっていない。「マントルピース」なら、外来語として通じる。どうして「マントル」にこだわるのかが理解できない。

" The portrait was stiffly posed job of an officer in full regimentals of about the time of the Mexican war. The officer had a neat black imperial, black mustachios, hot hard coal-black eyes, and the general look of a man it would pay to get along with. I thought this might be General Sternwood’s grandfather. It could hardly be the General himself, even though I had heard he was pretty far gone in years to have a couple of daughters still in the dangerous twenties. ”

<肖像画はメキシコ戦争の頃の軍服の正装をしてかしこまった士官だった。士官は手入れの行き届いた黒い皇帝髭と口髭を生やし、熱く硬い石炭のような黒い目をしていた。つき合いにくそうな顔つきだった。スターンウッド将軍の祖父かもしれない。将軍自身だとは思えなかった。たとえ彼がここ何年か、まだ危なっかしい二十代の娘二人を養っていくには少し惚け過ぎた、と聞いていたにしても。>

肖像画の人物の髭について、村上氏は「綺麗に刈り込んだ威風堂々たる黒い口髭をたくわえ」と訳す。" imperial ” は、それだけで先を尖らせた顎鬚を指す。ナポレオン三世を真似たことから「皇帝髭」という呼称が生まれた。口髭は" mustachios “ と、別にきちんと書いてある。どうしてこんな改変をしたのか、よく分からない。顎鬚のあるなしは軍人の風格を現すときにかなり差が生じるはずだが。ちなみに双葉氏は「黒いこぎれいなあごひげと口ひげをつけ」と、原文に忠実に訳している。

” I was still staring at the hot black eyes when a door opened far back under the stairs. It wasn’t the butler coming back. It was a girl. ”

<階段の下のずっと先にあるドアが開いたときも、私はまだ熱く黒い目を見つめていた。執事が戻ってきたのではなかった。娘だった。>

” She was twenty or so, small and delicately put together, but she looked durable. She wore pale blue slacks and they looked well on her. She walked as if she were floating. Her hair was a fine tawny wave cut much shorter than the current fashion of pageboy tresses curled in at the bottom. Her eyes were slate-gray, and had almost no expression when they looked at me. ”

<彼女は二十歳かそこいらだった。小柄できゃしゃだが丈夫そうだ。淡青色のスラックスをはき、まるで浮いているように歩いた。きれいなウェイブのかかった黄褐色の髪は、流行の肩までかかる内巻きにはできないくらい短くカットされていた。灰色の瞳には、私を見る時も表情というものがほとんどなかった。>

村上氏は「瞳は粘板岩のようなグレーで」と訳しているが、「スレート・グレー」は一般的に使われる色の名前。「葡萄(えび)茶」を「葡萄」のような茶色と言われてもイメージがわきにくいのと同じで、わざわざ逐語訳をするほどの意味があるのだろうか。まだ3ページほど読んだだけだが、今回の村上氏の翻訳には頸をひねりたくなる訳が目につくように思う。双葉訳は「濃い灰色」。

” She came over near me and smiled with her mouth and she had sharp predatory teeth, as white as fresh orange pith and as shiny as porcelain. They glistened between her thin too taut lips. Her face lacked color and didn’t look too healthy.”

<近寄ってきて口もとで微笑むと、捕食動物特有の鋭い歯が見えた。新鮮なオレンジのわたのように白く、陶器のようにぴかぴかした歯が、ぴんと張った薄い唇の間から輝いた。顔は血の気が失せ、あまり健康そうには見えなかった。>

“ Tall, aren’t you? ” she said.
” I didn’t mean to be.”
Her eyes rounded. She was puzzled. She was thinking. I could see, even on that short acquaintance, that thinking was always going to be a bother to her.

<「背が高いのね」と彼女は言った。>
<「なろうとしてなったわけじゃない」>
<娘の眼が丸くなった。困っているようだ。考えている。会ってまだ間もないが、私には分かった。彼女にとって、考えるということは、いつも厄介なことなのだ。>

” Handsome too, ” she said. ” And I bet you know it. “ I grunted.
” What’s your name? “
" Reilly,” I said. ” Doghouse Reilly.”
” That’s funny name.” She bit her lip and turned her head a little and looked at me along her eyes. Then she lowered her lashes until they almost cuddled her cheeks and slowly raised them again, like a theater curtain. I was to get to know that trick. That was supposed to make me roll over on my back with all four paws in the air.
<「それにハンサム」彼女は言った。「自分でもそう思ってるんでしょ」私は口の中でうなった。>
<「何て名前?」>
<「ライリー」私は言った。「ダグハウス・ライリー」>
<「変な名前」彼女は唇をかみ、眼は私のほうを見たまま少し首をかしげてみせた。それから睫毛をほとんど頬に触れそうなくらいにまで下げると、今度はそれをゆっくり上げた。まるで劇場の幕のように。その手は知ってる。私を仰向けにさせ、いやいやをする赤ん坊のように両の手足で宙を掻かせようというのだ。>スラングに” in the doghouse “ という言い回しがあり、「厄介なことになっている」という意味がある。ハード・ボイルド探偵小説の世界に登場したばかりのマーロウは、いささか衒気が勝っているようだ。

” Are you a prizefighter? “ she asked, when I didn’t.
” Not exactly. I’m a sleuth. “
 ” A―a―” She tossed her head angrily, and the rich color of it glistened in the rather dim light of the big hall. ” You’re making fun of me. “
” Uh-uh.”
" What?”
 " Get on with you,” I said. ”You heard me.”
" You didn’t say anything. you’re just a big tease.” She put a thumb up and bit it. It was a curiously shaped thumb, thin and narrow like an extra finger, with no curve in the first joint. She bit it and sucked it slowly, turning it around in her mouth like a baby with a comforter.

<「プロのボクサーなの?」私がそうしないので、彼女は訊いた。>
<「惜しいな。探偵だ」>
<「えっ…、あ…」彼女が怒ったように頭を振ると、豊かな色がホールの薄明かりの中で輝いた。「からかってるの?」>
<「ふうむ」>
<「なんて言った?」>
<「消えちまいな」私は言った。「聞こえただろう?」>
<「なんにも言ってないくせに。からかってばかり」彼女は親指を噛んだ、変わった形の親指だ。扁平で細くて、第一関節も曲がらない、まるで交換用の指みたいだ。おしゃぶりをくわえた赤ん坊のように、口の中で回しながら、彼女はそれをゆっくり噛んでは、しゃぶった。>

” You’re awfully tall,” she said. Then she giggled with secret merriment. Then she turned her body slowly and lithely, without lifting her feet. Her hands dropped limp at her sides. She tilted herself towards me on her toes. She felt straight back into my arms. I had to catch her or let her crack her head on the tessellated floor. I caught her under her arms and she went rubber-legged on me instantly. I had to hold her close to hold her up. When her head was against my chest she screwed it around and giggled at me.

<「とっても背が高いのね」彼女はそう言って、隠し事を見つけたようにくすっと笑った。それから、足を上げることもなく、ゆっくりとしなやかにからだをひねった。だらんとした両腕は脇に垂れ、爪先立ちで私のほうにからだを傾けた。背中からまっすぐに私の腕のなかに落ちてきたのだ。抱きとめなければ、モザイクの床の上で彼女の頭は砕かれていただろう。脇の下に腕を差し入れ、つかまえたとたん彼女の足はゴム細工のようにぐにゃりとなった。立たせるためには抱き寄せるしかなかった。頭が胸につくと、彼女はそれをねじり、私を見てくすくす笑った。>

 " You’re cute,” she giggled. " I’m cute too.”
I didn’t say anything. So the butler choose that convenient moment to come back through the French doors and see me holding her.
It didn’t seem to bother him. He was a tall, thin, silver man, sixty or close to it or a little past it. He had blue eyes as remote as eyes could be. His skin was smooth and bright and he moved like a man with very sound muscles. He walked slowly across the floor towards us and the girl jerked away flom me. She flashed across the room to the foot of the stairs and went up them like a deer. She was gone before I could draw a long breath and let it out.

<「あなたって可愛い」彼女はくすくす笑った。「私も可愛いでしょ」>
<私は何も言わなかった。この瞬間を待ってたかのように、執事がフレンチ・ドアを通って戻ってきて、彼女を抱いている私を見た。>
<執事はすこしも困っているように見えなかった。背が高く、やせた銀髪の男だ。六十歳近くか、すこし過ぎたあたりだろう。それ以上素っ気なくできないほど青い眼をしていた。肌は滑らかで艶があり、鍛え上げた筋肉を持った人間のように動いた。彼がゆっくり床を横切って私たちのほうに歩み寄ると、娘は私からからだを引き剥がし、さっと部屋を駆け抜け、鹿のように階段を上っていった。私が長い息を吸い込み、吐き出す前に彼女は消えていた。>

The butler said tonelessly: ” The General will see you now, Mr. Marlowe.”
I pushed my lower jaw up off my chest and nodded at him. ” Who was that?”
” Miss Carmen Sternwood, sir.”
 " You ought to wean her. She looks old enough.”
  He looked at me with grave politeness and repeated what he had said.

<執事が単調な声で告げた。「マーロウ様。将軍がお会いになります」>
<私は外れかけた下顎を胸から持ち上げ、うなづいた。「誰なんだ。あれは?」>
<「カーメン・スターンウッド嬢です」>
<「いいかげん乳離れさせたほうがいいね。もうそれができそうな年頃じゃないか」>
<彼は重々しく丁重な面持ちで私を見ると、再び同じ言葉を繰り返した。>

第53章

テリー・レノックスはメキシコで整形手術を受けていた。北方系の特徴である高い鼻を削ることまでして全く別人のように見せていたが、眼の色だけは変えられなかった。正体を現したレノックスはすっかりくつろいだ様子で経緯を語り始める。マーロウの推理は当たっていたのだろうか。

 

“ I was told to do certain things and to leave a clear trail.”

 

清水訳「いわれたとおりのことをしただけなんだ」

村上訳「とるべき行動を指示され、足取りがたどれるようになるべく目立つ振舞いをしろと言われた」

メンディの指示がどのようなものだったのか、村上氏は丁寧に訳している。アメリカの官憲の目をメキシコの田舎町まで誘導しなければならないのだ。的確な指示である。

 

誰がシルヴィアを殺したのか知っていたのか、という問いに直接には答えず、レノックスは言う。

 

“ It’s pretty tough to turn a woman in for murder ― even if she never meant much to you. ”

“ It’s tough world. Was Harlan Potter in on all this? ”

 

清水訳

「女を殺人犯人として警察に引き渡すことはなかなかできることじゃないからね――たとえ、どうでもいい女でも」

「この一事件にはハーラン・ポッターも関係しているのか」

村上訳

「女を殺人犯として差し出すのは寝覚めがよくない。たとえその女に対してもはや一片の思いを抱いていなかったにしてもね」

「世界は非情だ。ハーラン・ポッターはそこに絡んでいるのか?」

原文を読むと、マーロウがレノックスの言葉尻(頭か?)を捉えて、うまく言葉を返しているのがよく分かる。清水氏がここを訳していないのは、言葉遊びに類することで、たとえ訳したところでたいした意味がないと思ったのだろう。村上氏はそれでも律儀に訳出する。ただ、上手に遊ぶことは難しかったようだ。

 

“ Would he be likely to let anyone know that? My guess is not. My guess is he thinks I am dead. Who would tell him otherwise ― unless you did? ”

 

清水訳

「関係していたところで、だれにもわからせはしないよ。彼はぼくが死んだものと思っているだろう。君がいわなきゃ、彼に真相を話す人間は一人もいないんだ」

村上訳

「彼が何にどこまで絡んでいるかなんて、誰にもわかりっこないさ。でもたぶん彼は何も知るまい、というのが僕の推測だ。彼は僕のことをすでに死者の列に加えているはずだ。そして、ハーラン・ポッターの間違いをあえて指摘するような人間がこの世にいるだろうか。君を別にして」

 

この小説も最終章だ。ここまで、原文と二つの翻訳を見比べてくると、三者の相違がかなりはっきりしてくる。時に持ってまわった言い回しが頻出することもあるが、それ以外のチャンドラーの文章はシンプル極まりない。スラングが厄介だが、それを別にすれば分かりやすい英文といっていいだろう。清水氏の訳は、そのリズムをできるだけ生かした翻訳になっている。それに比べると、村上氏の訳は原文に忠実に訳しているが、その調子は過剰に文学的なものになっているように見える。それが訳者の意図なのだから当然である。ただ、それが分かった上で言うのだが、チャンドラーのファンだったら、やはり、原書にあたってみることをお勧めしたい。もちろん、二つの名訳というガイド付きでだ。

 

メンディはどうしてる、というマーロウに、警官に対する暴行が組織の不興を買ってアカプルコで逼塞中だと答えながら、レノックスはメンディをかばって言う。それに対するマーロウの言葉だ。

 

“ Mendy’s not as bad as you think. He has a heart.  ”

“ So has a snake.”

 

清水訳

「メンディは君が考えているほど悪い人間じゃない。あれで神経がこまかいところもあるんだ」

「神経なら蛇にだってある」

村上訳

「メンディは君が考えているほど悪どいやつじゃない。彼にはハートがある」

「蛇にだってある」

ここも難しい。村上氏が「ハート」とそのままにしているように、今では日本語でも「ハート」といえば「心」という意味で通じる。しかし、蛇に「心」があるだろうか。蛇にあるのは臓器としての心臓だろう。チャンドラーは、“ heart ” を二つの意味で使い分けている。やくざ者を蛇蝎のごとく嫌っているマーロウは、レノックスが「心(感情)」の意味で使った「ハート」を文字通り「心臓」と故意に解釈して、それなら「蛇にだってある」と、言い捨てたのだ。厳密に言えば蛇に人間のような感情があるとは考えられない。それで、清水氏は「神経」という語をあてたのだろう。よく考えられた訳といえる。村上氏の訳では、蛇にも「心」があるように読んでしまう読者が出てくるかもしれない。どうだろうか。

 

このあたりから、マーロウとレノックスの会話を通じて、二人の間にある埋めようのない溝のようなものがしだいに明らかになる。所詮はバーでの顔見知りである。バーには、どんな人間だってやってくる。レノックスがほしかったのは、バーにいるその時間だけ、素のままの自分でいられ、親しく会話を交わすことのできる気のおけない友人だった。マーロウはちがった。だから、相手がどんなトラブルに巻き込まれようが、最後までとことんつき合おうとしたのだ。しきりにギムレットを飲もうと誘いかけるレノックスに、マーロウは黙って五千ドル紙幣を返す。

 

たいした男ではなかったが、ウェイドもまた事実を知りながら、それに耐えて生きることを選んでいた。その男を殺した犯人を放置することはマーロウにはできなった。彼の持つ倫理観や良心がそれをさせないのだ。レノックスは趣味の好い人好きのする男だが、正しい言葉が使え、テーブルマナーさえ知っていれば、相手がやくざやごろつきであっても気持ちよくつき合うことができる男だ。戦争が彼を変えたのかもともとそういう人間だったのか、それは分からない。ただ、こんなことの起きる前の彼と、偽装工作をし、殺人犯を野放しにした男とはちがう人間だ。だから前のようには飲めない。それがマーロウという男である。

 

“ So long, Señor Maioranos. Nice to have known you ― however briefly. ”

“ Goodbye. ”

 

別れを交わす二人の言葉のなかに、さりげなく置かれた表題“The Long Goodbye ”が心憎い。

 

第52章

スターの紹介状を持ってマーロウのオフィスを訪ねてきた男は、シスコ・マイオラノスと名乗った。マーロウは、早速レノックスの最期について質問した。そのときの客のなかにアメリカ人は二人いたという。

 

“ Real Gringos or just transplanted Mexicans? ”

 

清水訳「生粋のアメリカ人でしたか、アメリカへ移住したメキシコ人でしたか」

村上訳「普通のアメリカ人ですか、それともメキシコ系アメリカ人?」

ここは、清水氏のほうが原文に忠実なように思える。一人はスペインの血を引いているようだった、と答えた男は、それに続けて言う。

 

“ He spoke border Spanish. Very inelegant. ”

 

清水訳

「国境近くで使われるスペイン語を話していました。大へんエレガントでした」

村上訳

「アメリカとメキシコの国境近辺で使われているスペイン語を話していました。とても品のない言葉です」

清水氏は二文字読み飛ばしてしまったのだろう。誤訳である。清水氏の訳については手持ちのハヤカワ文庫(初版三十五刷)を参照。この部分に限らず後の版で修正されていたら申し訳ない。

 

郵便ポストにこだわるマーロウは、マイオラネスになぜポストにではなく、自ら郵便局に持っていったのかと重ねて問う。「郵便ポストですか」と不審げなマイオラネスに確認するように言うところ。

 

“ The mailbox. The cajón cartero, you call it, I think. ”

 

清水訳「そうだ。郵便を投げ入れる箱さ」

村上訳「郵便ポストだよ。カヨンカルテロと君たちは呼ぶのかな」

清水氏は、スペイン語を訳してそのままもとの英文のなかに紛れ込ませている。村上氏はいつものように律儀にスペイン語であることを明らかにしている。

 

メネンデスら二人のアメリカ人が行った偽装工作については本文を読んでいただくとして、これがばれるとアメリカ、メキシコ両国で問題になるのは明らかだ。

 

“ It had to be good enough to fool a lawyer who had been a District Attorney, but it would make a very sick monkey out of the current D.A. if it backfired.”

 

清水訳

「地方検事をつとめたことのある弁護士をなっとくさせればよかったんだ」

村上訳

「それはかつて地方検事を務めていた弁護士をだまくらかせる程度には上出来の偽装だった。しかし、もし真相が露見したら、現職の地方検事はいい笑いものになる」

後半部を相変わらず清水氏はカットしている。一介の弁護士くらい騙しそこなってもどうということはないが、現職の地方検事となるとメネンデスにとっては命取りだ。おとなしくさせるためにマーロウを痛めつけたくもなるだろう。

第51章

マーロウは、気になっていることを確かめるために弁護士のエンディコットのオフィスを訪れた。冒頭、マーロウの目が捉えたオフィスの描写が入る。年代物の机に革張りの椅子、法律書と文書が溢れたいかにもやり手の弁護士の事務所といった様子である。

 

“ the usual cartoons by Spy of famous English judges, and a large portrait of Justice Oliver Wendell Holmes on the south wall, alone.”

 

清水訳

「壁には有名なイギリスの判事たちの描いた漫画とオリヴァー・ウェンデル・ホームズ判事の肖像画がかかっていた」

村上訳

「スパイ(英国人風刺画家レスリー・ウォードの別名)の描くところの有名な英国の判事たちの戯画が、決まりどおり壁にかかっていた。 南側の壁にはたった一つ、オリヴァー・ウェンデル・ホームズ判事の大きな肖像画がかかっていた」

 

イギリスの判事たちがいくら有能であったとしても、漫画が達者だとは思えない。スパイことレスリー・ウォード作と考えるのが無難だろう。

 

エンディコット自身の描写にも問題がひとつ。

 

“ He was in his shirtsleeves and he looked tired, but he had that kind of face. He was smoking one of his tasteless cigarettes.”

 

清水訳

「彼はワイシャツ姿で、つかれているようだったが、この前のときと変わらない親切そうな表情を見せていた。いかにもまずそうにタバコを吸うと、」

村上訳

「彼は上着を脱いで、くたびれた顔をしていた。しかしもともとがそういう顔立ちなのだ。例によって味を欠いた煙草を吸っており、」

 

エンディコットとマーロウは第八章で顔を合わせている。しかし、せっかく保釈で出してやろうと言っているのに、それを頑なに断るマーロウに、エンディコットは業を煮やしている。とても親切そうな表情とはいえないはず。“ kind of ”という言い回しはありふれているのに、清水氏はどうして「親切」だと思ったのだろう。もうひとつ、エンディコット愛用の煙草はフィルターつきの物で、この前一本もらったときにマーロウは味がしないと感じている。 “ one of his tasteless cigarettes.” には、そういうマーロウ一流の皮肉がこめられていると読みたい。

 

エンディコットと留置場で会ったときのことを思い出したマーロウは、無意識に頬を指先で触る。傷はほとんど治ったが、一カ所神経がおかしくなり、まだ痺れが残っているのだ。レノックスの件も同じである。関係者にとってはけりのついた事件なのだろうが、マーロウには気になることがひとつある。傷の癒えない場所が頬であることも象徴的だ。チャンドラーの文章は実に芸が細かい。この辺りは慎重に訳してほしいところだが、例によって清水氏は訳していない部分がある。

 

“ I couldn’t let it alone. It would get all right in time.”

 

村上訳だと、こうなる。「それがどうしても気になる。遠からず元通りになるのだろうか」。なかなか意味深な独白に思えるのだが。どうだろうか。

 

ハーラン・ポッターの命を受けてオタトクランに向かったとき、地方検事局代理という肩書きを使ったことに触れたマーロウに対する、エンディコットの返事。

 

“ Yes, but don’t rub it in, Marlowe. ”

 

清水訳「そのとおりだが、私を責めることはないよ、マーロウ」

村上訳「そうだ。そのことはあまり思い出させてほしくないのだがね。マーロウ」

権力者に尻尾を振ったことを匂わせているところなのだから、「勘弁してくれ」というニュアンスがほしい。因みに“rub it in ” には「《いやな事を》繰り返し言う」という意味がある。「そうだ。あまりいじめないでくれよ。マーロウ」くらいか。

 

“ I guess he hates my guts―if he thinks about it. ”

 

清水訳

「彼は僕が容易にひきさがらないことをこころよく思っていないらしいんです」

村上訳

「私は彼にこころよく思われていないでしょうね。もし、彼が私に対して感情を持つとすればですが」

 

彼というのはハーラン・ポッター。” hate O’s guts ” には「人を腹の底から嫌う(略式)」という意味があるから、どちらの訳も上品過ぎるような気がする。清水氏は“ guts ”を「ガッツがある」という意味で訳しているようだが、村上氏の訳もそれを踏襲しているようだ。清水氏のカットした後半を訳出することでよしとしたのだろう。

 

オタトクランの町に郵便ポストがあったかどうか、というのがマーロウの知りたいことで、実はそんなものがないことはマーロウは承知なのだ。いつまでも小さなことにこだわるマーロウにエンディコットはかなり疲れてきている。それをよく伝える次のようなところも清水氏は訳していない。

 

Something in Endicott’s eyes went to sleep.”

 

村上訳「エンディコットの目にあった何かが眠り込もうとしていた」。直訳である。

 

手間を取らせたことを詫び、マーロウは事務所を出た。藪をつついては見たが、なかなか蛇が出てこない。結果が出たのは一ヵ月後だった。

 

“ It was another wheel to start turning―no more. It turned for a solid month before anything came up. ”

 

清水訳「それから一ヶ月のあいだ、何も起こらなかった」

村上訳

「新しい弾み車(ホイール)が回り出したわけだが、結局どこにもつながらなかった。まるまる一カ月、それは無為に空転していた」

 

一カ月後の金曜日、見知らぬ男がマーロウのオフィスを尋ねてくる。

 

“ He was  a well-dressed Mexican or Suramericano of some sort.”

 

清水訳「身なりのきちんとした男で、メキシコ人かアメリカ南部の人間のように思われた」

村上訳「身なりが良くメキシコ人のようだった。南米のどこかの出身かもしれない」

 

アメリカ南部と南米のあいだには飛行機で飛ばなければならないほどの距離がある。ほんとうはどちらだろうか。ここで問題になるのは“Suramericano”(Black Lizard版)だ。もしかしたら“Sudamericano”の誤植ではないだろうか。それなら、南米を意味するスペイン語なのだが。

第50章

一時間後、二人はまだベッドのなか。裸の腕をのばしてマーロウの耳をくすぐりながらリンダが「結婚しようと思わない?」ときく。よくもって六ヶ月だろう、というのがマーロウの返事。あきれたリンダは、人生に何を期待しているの、起きるかもしれないリスクに対する完全な保障?と、マーロウをなじる。それにこたえてマーロウが言う。

 

“I’m forty-two years old. I’m spoiled by independence, You’re spoiled a little―not too much―by money.”

清水訳

「ぼくはことしで四十二になるまで、自分だけを頼りに生きてきた。そのために、まともな生き方ができなくなっている。その点では君も少しばかりまともじゃない――ぼくとちがって、金のためなんだが」

村上訳

「私は四十二歳になる。一人でやっていくことに慣れすぎてしまった。そして君は金持ちであることに、少しばかり慣れすぎてしまった。すっかり(傍点四字)とは言わないまでも」

 

「スポイルされる」という言葉は日本語にもなっている。親などに甘やかされたせいでだめになってしまった子どもに対してよく使われる言葉だ。つまり、マーロウは独り暮らしの気儘さに、リンダは金で何でも自由になる気儘さに慣れすぎたことにより、結婚生活の持つ、ある意味拘束される生活に耐えられなくなっていることを言いたいのだ。

 

リンダも引かない。私は三十六になる。金のあることは恥ではない。それに金持ちだって永いことはない。次の戦争が終わったらまともな者は税金で丸裸にされ一文なしになってしまう。飛行機でパリに行って楽しみましょう、と。ここにも戦争が影を落としている。マーロウは自分の結婚観を語る。

 

“After twenty years all guy has left is a work bench in the garage. American girls are terrific. American wives take in too much territory.”

 

清水訳

「二十年もたってみたまえ。男に残されているものは車庫のなかの腰かけぐらいのもんだ。アメリカの女性はどう考えてものさばりすぎるからね」

村上訳

「結婚して二十年もたてば、男の手に残されているのは、ガレージの作業台くらいのものさ。アメリカ娘は素敵だよ。しかし彼女たちはいったん奥さんになると、すべてを指図するようになる」

 

なんともネガティヴなマーロウの結婚観であり、(アメリカ)女性観だが、清水氏はベンチの前にあるワークを読み落としているようだ。ワーク・ベンチは、大工仕事用の作業台でDIY好きのアメリカ人にはお馴染みのアイテム。余暇といえば、これの前で一日を過ごす男性は多い。村上訳でまちがいはないのだが、原文をよく見てみよう。

American girls are terrific.

American wives take in too much territory.

この二文は対句になっている。しかも文末は頭韻を踏んでいる。日本語訳もそれを生かすことを考えると、次のように訳せる。

拙訳

「二十年後、男に残されているのは、車庫のなかの作業台くらいのものさ。アメリカ娘は素敵だが、アメリカ夫人は無敵だ。家のなかのほとんどが彼女の領土になっている」

 

マーロウはそれに続けて言う。

“it would be just an incident to you. The first divorce is the only tough one. After that it’s merely a problem in economics. No problem to you.”

清水訳

「君にとっては結婚も離婚も日常茶飯のことなんだ。誰だって、最初の離婚のときはなやむだろうが、二度三度となると、経済的の問題だけになる。それは君には問題じゃない」

村上訳

「君にとってそれは人生のただのひとこま(傍点四字)に過ぎないだろう。離婚もきついのは最初の一回だけだ。二回目からは単なる財政的な問題に過ぎなくなるし、君にとっちゃそんなもの痛くも痒くもない」

“incident”は「日常茶飯」なのか「人生のひとこま」なのか。どちらにせよ、リンダにとってのそれは「一大事」ではなく、通り過ぎてしまう「一挿話」のようなものだ、とマーロウは言いたいのだ。それにしても「経済的の問題だけになる」という訳は、流暢な日本語を操る清水氏らしくない。もしかしたら誤植か。

 

自分のことなんか、十年後、通りですれ違ってもどこで会った人だったかと思うくらいのもの。もし気がついたとしてのことだが、と続けるマーロウにリンダはあきれる。

“You self-sufficient, self-satisfied, self-confident, untouchable bastard. I want some champagne.”

清水訳

「あきれたわね。手がつけられないおばかさんだわ。シャンペンをちょうだいよ」

村上訳

「あなたは自己満足、自己充足、自意識過剰の権化、お高くとまったならずものよ。シャンパンをちょうだい」

相変わらず、清水氏の訳はあっさりしている。三回繰り返す強調は、チャンドラー愛用のレトリックらしいが、繰り返される「自己」という言葉に、マーロウの自己意識の強さに辟易しているリンダのいらだちがよく出ている。それに応えてマーロウが吐く次の台詞も難しい。

 

“This way you will remember me.”

清水訳「こんなつきあい(傍点四字)をしてれば、君もきっとおぼえてるよ」

村上訳「きっとそういう文脈で思い出してもらえるかもしれない」

十年後、自分のことを思い出してもらえるとすれば、こんな方法によってだろう、という意味。村上訳は本で読んでいるとおかしくはないが、会話の中で「文脈で」などと使うだろうか。皮肉たっぷりの悪口の応酬は、他愛ない口喧嘩のようでいながら、痴話喧嘩の域をこえ、互いの本質を的確に言い当てている。リンダがマーロウを覚えているとすれば、たしかに、こうしたやりとりをおいて外にない。

 

“Conceited too. A mass of conceit. Slightly bruised at the moment. You think I’ll remember you?”

清水訳

「大へんな自信家だわね。私があなたをおぼえてると思う?」

村上訳

「自惚れも強いのね。まったく自惚れのかたまり。今のところは少しばかり傷を負っているみたいだけど。ねえ、私があなたのことをいつまでも覚えていると、本気で考えているわけ?」

マーロウの自惚れについた少しの傷について、リンダの悪口を忠実に訳した村上氏に比べ、あっさりと流した清水氏はここもスルーしている。

 

どこまでも自分の流儀を貫こうとする男は結婚なんかするべきではない。一方、そんな男を自分のものにするには、男の自我を相対化するしか手はない。リンダがここでやっているのは、そういう作業である。だが、マーロウは意外に手ごわい。手を変え品を変え、リンダは口説く。今度は金持ち女らしく、世界だってあなたに買ってあげる、もし離婚してもあなたは殺風景な事務所に戻らなくてすむようにしてあげられる、と。

 

“How would you stop me? I’m not Terry Lennox.”

清水訳「どんな生活をしようと、ぼくの勝手さ。ぼくはテリー・レノックスじゃない」

村上訳「戻るか戻らないかは自分で決める。テリー・レノックスとは違う」

どちらも、かなりの意訳である。「(もとの暮らしに戻ろうとする)ぼくをどうやってとめるつもりだい?」というのが直訳。リンダはテリー・レノックスの義姉である。妹は金の力で夫をつなぎとめていたが、自分はテリー・レノックスとはちがう、と言いたいマーロウ。

 

“Please. Don’t let’s talk about him. Nor about that golden icicle. the Wade woman.”

清水訳「おねがい。あのひとのことはいわないで。ウェイドの奥さんの話もしないでちょうだい」

村上訳「お願いだから、あの人の話は持ち出さないで。それからウェイドという名前の、あのつらら(傍点三字)のような女のことも」

アイリーンに対する強い嫌悪感をにじませるリンダの修飾語も清水氏はカットしている。

 

I’ve paid you the greatest compliment I know how to pay. I’ve asked you to marry me.”

清水訳「私がこれだけいっているのがわからないの。結婚してくださいといったのよ」

村上訳「私は自分にとって何よりも大事なものをあなたに差し出したのよ。結婚してほしいって頼んでいるのよ」

“compliment”(賛辞)という単語が問題である。というのは、これを受けてマーロウが呟く次の台詞にも同じ単語が使われているからだ。

“You paid me a greater compliment.”

清水訳「それ以上のことをしてくれたからね」

村上訳「君はそれ以上のものを差し出してくれた」

いったい、マーロウがもらったもの、リンダが差し出したものとはなんだろう。これらの訳で読者に分かるだろうか。禅問答みたいなやりとりが終わると、今まで気丈に振舞っていたリンダが泣き出す。つまり、このマーロウの一言は決めゼリフだったというわけだ。リンダが“greatest compliment”(最高の賛辞)と考えているのは、プロポーズのことである。リンダほどの女性からのプロポーズであれば男にとって最高の賛辞といっていいだろう。いやむしろ贈り物と訳すほうがいいかもしれない。それに対して、マーロウが比較級を使って、それ以上の“compliment”と言っているのは、文字通りの賛辞、つまり“the only man who turned me down”(私を拒んだただ一人の男)という言葉ではないだろうか。

 

“Her cheeks were wet. I could feel the tears on them.”

清水訳「頬に涙が流れた。涙は私の頬にもつたわってきた」

村上訳「彼女の頬は濡れていた。涙が指先に感じられた」

“tears on them” なのだから、涙を感じたのは、私の頬ではないだろう。

 

ひとしきり泣いたリンダは化粧をなおしに洗面所に行き、帰ってきたときは微笑を浮かべていた。明るくした居間に、マーロウはシャンパンを運んだ。

“I’ll introduce myself,” I said.“We’ll have a drink together.”

 

清水訳「いっしょに飲もう」と私はいった。

村上訳「私がどんな人間か、少しずつ君に見せていこう」と私は言った。「また二人で一緒に飲もう」

清水氏はあっさりカットしているところ、村上氏はずいぶん意を尽くして訳して見せるが、マーロウは、これから先もリンダとつきあっていくつもりなのだろうか。ここは、ひとつ前のリンダの言葉「六ヵ月後にはきっとあなたの名前だって覚えていないでしょうね」を受けての言葉と採りたい。つまり、名前を忘れているのだったら、もう一度、「自己紹介からはじめるさ。一緒に飲もうよ」という気分なのでは。

 

翌朝、リンダを送り出した後の枕カバーに一筋の髪の毛を見つけた場面でマーロウのもらす感慨は、有名な台詞となっている。

“The French have a phrase for it. The bastards have a phrase for everything and they are always right. ”

“To say goodbye is to die a little.”

清水訳

「こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった」「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。」

村上訳

「フランス人はこのような場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼ(傍点二字)にはまる」「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。」

どちらもいい訳だと思う。清水訳が捨てがたいが、原文に忠実に、しかもすっきりと訳したい。

拙訳

「フランス語に、いい文句がある。彼奴らはどんなことにもいい文句を持っていて、それらはいつも正しい」「さよならと言うのは、少しだけ死ぬことだ」