HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』第六章(1)

《雨は排水溝を溢れ、歩道の外れでは膝の高さまではねていた。雨合羽を銃身のように黒光りさせた長身の警官たちが、笑い声をあげる少女たちを抱いて水たまりを渡らせるのを楽しんでいた。雨は激しく車の幌をたたき、バーバンク革の屋根が漏れはじめた。車の床には水たまりができ、足は浸かったままだ。秋だというのにこんな雨は早過ぎる。私は体をトレンチ・コートにこじ入れて一番近くのドラッグストアに駆け込み、ウィスキーを一本買った。車に戻り、体温と気力を保つため、そいつを存分に活用した。駐車時間を超過していたが、警官たちは女の子を運ぶのと笛を吹くのに忙しく、それを気にする暇はなかった。》

 十月半ばのロサンジェルスに、こんな雨が降るのか。マーロウの車はコンバーチブルなので、天気のいい日には快適だが、雨の日には往生する。手許の辞書にも出ていない<burbank top>を、両氏とも知らぬ顔の半兵衛を決め込んで略している。今では、ネットが使えるから、村上氏は知っていてわざと省いているのだろうが、ちゃんと出ている。それも、使用例に引かれているのはチャンドラーのこの本だ。気になっている人が質問したのに対し、回答者が答えている。この場合のバーバンクは地名ではなく、車の幌に使用された防水性のしっかり織られた布を指す。革に擬したタイプの物をバーバンク・レザーと呼ぶこともあったらしい。今となっては死語で、アメリカでも覚えている人は少ないようだ。ヴィンテージ・カー愛好家のために省略せず残しておくことにした。

 マーロウが買ったウィスキー。村上氏は「ウィスキーの瓶」。双葉氏は「ウィスキーの二合びん」と訳している。原文は<a pint of whiskey>。1パイントの量は英国と米国ではちがいがあり、英国の方が少々多い。英国は500ミリリットルのペットボトルより多く、米国は少し足りない。さすがに「二合びん」は、今では使えないだろう。ただ、小瓶というには量がある。パイントの韻を響かせて「ウィスキーを一本」と訳してみた。

《雨にもかかわらず、それとも雨のおかげだろうか、ガイガーの店は賑わっていた。見てくれのいい車が絶えず店の前に停まり、見栄えのする人々が紙包みを抱えて出入りした。そのすべてが男というのではなかった。》

 <very nice cars>と<very nice-looking people>をどう訳すか。村上氏は「高級車が何台も」、「いかにも高級そうな人々が」。双葉氏は「すこぶるすばらしい車がつぎつぎに」、「すこぶるいい身装(みなり)の連中が」、とどちらも同じ語を二度使うことで原文を生かそうとしている。ほめているように見せながら皮肉を利かすチャンドラー一流のレトリックだが、問題は車に付いている複数を表す<s>をどうするかだ。さすがに両氏ともうまく処理している。

 《彼が現れたのは四時頃だ。クリーム色のクーペが店の前に停まり、そこから出た男は雨を避けるように店の中に入った。丸顔にチャーリー・チャン風の口髭がちらっと見えた。無帽でベルトのついた緑色の革のレインコートを着ていた。距離があるのでガラス製の義眼は見えなかった。長身に革の胴着を着たやたらかっこいい若者が店から出てきて、クーペを運転して角を曲がり、歩いて帰ってきた。ぴかぴか光る黒い髪が雨で貼りついていた。》

 双葉氏が「ジャンパー」、村上氏が「革ジャンパー」と訳している<jerkin>は、その昔『男の服飾図鑑』(メンズクラブ編)という本で読んだのを覚えている。イラスト入りだったので記憶に残っているのだが、袖のない昔の胴着風のデザインだった。「ジャーキン」では註が必要になると考えたのかもしれない。しかし、「ジャーキン」はファッション用語として今でも生きている。それでも気になるなら、別の訳語を考えるしかないだろう。

 安易に革ジャンパーに変更すると<very good-looking kid>のイメージがステレオタイプのものになってしまうような気がする。車や服装には人物像を補う意味がある。読者に誤ったイメージを抱かせるような訳語は避けるべきだろう。蛇足ながら<very good-looking >を、村上氏は「とてもハンサムな」、双葉氏は「すごく美男の」と若者の面貌に注目して訳している。<a tall  and very good-looking kid in a jerkin>を、あえて顔だけにこだわらず、その服装にまで広げてとらえることはできないだろうか。そう思って「長身に革の胴着を着たやたらかっこいい若者」としてみた。

『大いなる眠り』第五章(2)

《私は財布を開き、裏蓋に留めたバッジがよく見えるように女の机の上に置いた。彼女はそれを見て、眼鏡をはずすと椅子の背にもたれた。私は財布を元に戻した。彼女は知的なユダヤ人らしい洗練された顔をしていた。私をじっと見つめ、何も言わなかった。

 私は言った。「ちょっといいかな?つまらないことなんだが」

「さあ、何のことでしょう?」、彼女は滑らかなハスキーヴォイスで言った。

「通りの向こう側にあるガイガーの店を知ってるだろう。二ブロック西の」

「前を通り過ぎたことはあるでしょうね」

「あれは本屋だ」と私は言った。「君向きの本屋じゃない。ご承知の通り」

 彼女は微かに唇を曲げたが、何も言わなかった。

「ガイガーを見かけたことはある?」と、私は尋ねた。

「すみません。私はガイガーさんを知らないので」

「それじゃ、彼がどんな人かも教えられないということ?」

 彼女の唇はもう少し曲げられた。「どうして私がそうしないといけないの?」

「理由は全然ない。君がそうしたくなければ、無理にしゃべらせることはできない」

 彼女は仕切扉の向こうに目をやり、また椅子の背にもたれかかった。「あれは郡保安官のバッジね。ちがった?」

「肩書上の保安官補。何の意味もない。安葉巻くらいの値打ちさ」

「そう」、彼女は煙草の箱に手を伸ばし、振り出した一本を唇でくわえて抜き出した。私はマッチをつけて差し出した。彼女は礼を言ってまた椅子の背にもたれかかると、煙越しに私を見つめた。そして注意深く言った。

「あなたは彼がどんな人かを知りたい。でも、彼と会って話したくはないというわけ?」

「彼はいないんだ」と、私は言った。

「そのうち帰ってくるでしょう。どっちみち彼の店なんだし」

「今はまだ会って話をしたくないんだ」と、私は言った。

 彼女は開いた扉を通してまた外を見た。私は言った。

稀覯本については詳しいかい?」

「試してみたら?」

「『ベン・ハー』は置いてるかな、1860年の第三版、116ページに重複した行のあるやつだ」

 彼女は黄色の法律書を脇に押しやり、机の上の分厚い本に手を伸ばし、ページを繰った。その個所を見つけ、調べた。「どこにも置いてないでしょうね」、彼女は顔も上げずに言った。「そんなものは存在しません」

「その通り」

「何がしたいわけ?」

「ガイガーの店の女の子は知らなかったよ」

 彼女は私を見上げた。「そう。面白いわね。まあ、何となくだけど」

「私は私立探偵で、ある事件を調べている。質問が多すぎるのかもしれない。自分ではそれほどだとは思ってないんだが」

 彼女は柔らかな灰色の煙の輪を吹いて、中に指を入れた。それは崩れ、かすかにたなびく欠片になった。彼女は取るに足らないことでも話すように、すらすらとしゃべり出した。

「四十代初め、私の見るところでは。中背で太り気味。体重およそ160ポンド。丸顔にチャーリー・チャン風の口ひげ。太くて柔らかそうな首。すべてにおいて柔らかいの。身だしなみはよく、外出時は無帽。骨董に造詣が深いふりをしているけど実は全然。ああ、そうだった。左目は義眼ね」

「君はいい警官になれるよ」と、私は言った。

 彼女は参考書を机の端にある開架の書棚に返すと、前に置いてある法律書をまた開いた。「なりたくなんかない」と、彼女は言った。そして眼鏡をかけた。

 私は彼女に礼を言って出た。雨が降りだしていた。私は包装された本を脇の下に抱え、駆け出した。車は大通りにあるガイガーの店のほとんど真向かいになる脇道に停めていた。そこに着くまでにぐっしょり濡れてしまった。車の中に転がり込むと両側の窓を閉め、ハンカチで包みを拭いた。それから包みを開けた。

 もちろん私はそれが何なのか、おおよその見当はついていた。堅牢な綴じによる持ち重りのする本、上質紙に手組み活字で美麗に印刷されている。全ページにわたる多量の芸術写真。写真も本文も同じくらい言いようもないほど猥褻だった。新本ではない。表見返しに日付のスタンプが押してある。貸出しと返却の日付。貸本だ。手の込んだ猥褻本の貸本屋

 私は本を新しく包装し直し,シートの後部にしまって鍵をかけた。こんな商売が大通りに店を開いているのだ。目こぼしの見返りがあるに決まっている。私はそこに座り、煙草の煙に毒されつつ雨音を聞き、そのことを考えていた。》(拙訳)

 

第五章の残りの部分についてはあまり大きな異同はない。強いてあげるなら、「ガイガーの店の女の子は知らなかったよ」以降か。双葉氏はここを「ガイガーの店の娘もわからなかったよ」と訳している。原文は<The girl in Geiger’s store didn’t know that.>で、どこにも「も」を意味する言葉は入っていない。

 

ガイガーの店の娘は貸本屋の店番のようなもので、本の知識は必要がない。対して、知的な風貌のユダヤ女性は、眼鏡をかけて法律書を読んでいる。必要とあらば、参考文献を引くこともできる。チャンドラーが二人を対比的に書いていることは文章から分かる。双葉氏の訳では、ユダヤ女性に対して失礼だろう。

 

また、それに対する女性の返事。「そう。面白いわね。まあ、何となくだけど」も、双葉氏は「わかりましたわ。あなたおもしろい方ですのね。なんとなくですけど」と訳している。村上氏は「なるほど。話は面白くなってきたわ。漠然とではあるにせよ」だ。原文は<I see. You interest me. Rather vaguely.>というシンプルな文章だ。直訳すれば「あなたは私を面白がらせる」を、双葉氏はマーロウの人柄ないし話術と取っているのに対し、村上氏は女性がマーロウのやろうとしたことを理解し、話の展開に興味を覚えたことを意味している。知的な女性という表現や、その後の彼女の態度の豹変から、村上氏の解釈でいいと思うが、どちらも訳文がくどい気がする。あっさりと訳してみた。

 

それに続く「私は私立探偵で、ある事件を調べている。質問が多すぎるのかもしれない。自分ではそれほどだとは思ってないんだが」の最後の文。原文は<It didn’t seem much to me somehow.>だが、双葉氏はここを「僕はある事件をいじってる私立探偵だ。すこしききすぎたかもしれないが、僕にはまるで役に立たなかったわけだ」としている。村上訳は「私は私立探偵で、ある件で調査をしている。仕事柄つい質問しすぎてしまうのかもしれない。自分ではそんなに多くを求めているつもりはないんだが」だ。

 

双葉氏の訳では、マーロウは役に立たない質問をしたことになる。前もって稀覯本について仕入れた知識は何だったのだろう。ここは単なる言葉の問題というより、文意を取り違えていることからくる誤訳だと思う。ガイガーの店がちゃんとした書店かどうかを試すための質問である。多すぎるわけではないのだ。現に二つ目の店では質問は一つで済んでいる。

 

『大いなる眠り』第五章(1)

《大通りに戻った私は、ドラッグストアの電話ブースに入り、アーサー・グウィン・ガイガー氏の住所を探した。彼が住んでいたのはラヴァーン・テラス。ローレル・キャニオン・ブールバードから分かれた丘の中腹にある通りだ。物は試し、5セント硬貨を入れて番号を回した。誰も出なかった。職業別電話帳を開いて、今いるブロックにある本屋を何軒か書きとめた。/最初の本屋は通りの北側にあった。広い一階は文房具や事務用品に充てられていて、山のような本が中二階に並んでいた。いい場所には見えなかった。私は通りを横切って二ブロック東にある別の店まで歩いた。こちらの方が気に入った。狭くてごちゃごちゃした小さな店で床から天井まで本が積まれ、四、五人の立ち読み客が新刊書のカバーに指紋をつけて時間をつぶしていた。彼らに注意を払う者は誰もいなかった。押しのけるように店に入り、仕切りを通り抜けると、小柄な黒髪の女が机に向かって法律書を読んでいた。》

 

<He lived on Laverne Terrace, a hillside street off Laurel Canyon Boulevard.>

村上訳は「ローレル・キャニオン大通りを外れて山に向かう、ラヴァーン・テラスという通りに彼は住んでいた」。双葉訳では「ローレル・キャニオン通りのはずれの、丘側の通りにあるラヴァーン・テラスだった」である。どちらも、住所の説明のために使われている大通りの名前の方が先に来ていて、本来の住所の印象が薄い。

 

<I dropped my nickel and dialed his number just for fun. Nobody answered. I turned to the classified section and noted a couple of bookstores within blocks of where I was.>

村上訳は「今いる場所の近辺にある何軒かの書店の電話番号を調べた」。双葉訳は「この近所の本屋を二、三軒メモした」。村上訳だが、電話番号を調べる必要が果たしてあるのだろうか。マーロウはこの後、ドラッグストアを出て、実際に本屋を回りはじめる。むしろ知りたいのは住所だろう。

 

<The first I came to was on the north side, a large lower floor devoted to stationery and office supplies, a mass of books on the mezzanine. It didn’t look the right place. I crossed the street and walked two blocks east to the other one.>

双葉氏は「階下は文房具の売り場と事務所で」と、<office supplies>を「事務所」にしてしまっている。「サプライ」が、そのまま外来語として通用するようになったのは近年のこと。時代を感じる。

 

<This was more like it, a narrowed cluttered little shop stacked with books flom floor to ceiling and four or five browsers taking their time putting thum marks on the new jackets. Nobody paid any attention to them.>

二つ目の文。村上氏は「誰も彼らに注意を払わなかった」と字句通りに訳すが、双葉氏は「誰も私を気にしなかった」とやってしまっている。凡ミスだろう。それよりも、ブラウザ<browsers>が出てきたのには驚いた。辞書によると「(本などを)拾い読みする人」の意だそうな。ふだん何気なく使っている言葉の原義を知ると、なんだか楽しくなる。

 

<I shoved on back into the store, passed through a partition and found a small dark woman reading a law book at a desk.>

村上訳は「私はかき分けるようにして店の奥に進み、仕切り壁を抜けて中に入った。そこでは黒髪の小柄な女が一人、デスクに向かって法律書を読んでいた」。双葉訳は「私は仕切をぬけて、店の奥にはいりこみ、机に向かって法律書を読んでいる小柄な黒い女をみつけた」だ。狭い店に、四、五人の立ち読み客がいるのだ。<I shoved on back>を抜かすのは、まずかろう。その前の文を読み違えたのが響いている。透明人間にでもなったつもりなのか。

 

村上氏の「誰も彼らに注意を払わなかった」という場合の「誰も」は誰を指すのだろう。店の中にいるのは、四、五人の立ち読み客とマーロウだけだ。自分のことをわざわざ「誰も」とは言わない。それでは、本に夢中になっている客同士だろうか。それはない。つまり、ここで「私」が言いたいのは、客に注意を払うべき者の不在だ。だから、パーティションを通り抜けてその「誰」かを探しに行くのである。

 

双葉氏の「黒い女」は、いただけない。これでは黒人になってしまう。このあたり、急いだのだろうか双葉氏の訳が粗雑になっている。

 

『大いなる眠り』第4章(7)

<私は立ち上がり、帽子にちょっと触って金髪女に挨拶すると、男の後を追って外に出た。彼は西の方に歩いていた。右の靴の上でステッキが小さく正確な孤を描いてゆれていた。尾行するのは簡単だった。上着はかなり派手で、まるで馬にかける毛布であつらえたようだったし、広い肩幅の上に突き出したセロリの茎のような首の上で、歩くに連れて頭がひょこひょこ揺れていた。私たちは一ブロック半ほど進んだ。ハイランド・アヴェニューの交通信号のところで追いつき、私が分かるように隣に立った。彼は何気なく私の方を向いたとたん鋭い横目になり、急にそっぽを向いた。私たちは青信号でハイランド・アヴェニューをわたり、もう一ブロック歩いた。彼は長い脚をいっぱいに広げることで、曲がり角に着いたとき私より二十ヤード先にいた。彼は右に折れた。百フィートほど丘を上って立ちどまり、ステッキを腕にひっかけ、内ポケットにある革製のシガレット・ケースを手探りした。煙草を唇にくわえ、マッチを落とした。彼がマッチを拾い上げようとしたとき、角を曲がり終えた私が窺っているのを見て、まるで後ろから蹴りを入れられた人のようにびくっと体を立てた。彼はほとんど土埃を巻き上げそうな勢いでブロックをぎごちない大股で歩きながら歩道にステッキを突き出していた。彼は再び左に折れた。その曲がり角についた時、男は少なくとも半ブロック私より先にいた。私は息があがっていた。そこは狭い並木通りで片側は擁壁になっており、反対側は三軒のバンガロー風の家が建つ宅地になっていた。

男は消えていた。私はあちこちぶらつきながら目をこらした。二軒目のバンガローの庭で何かを見つけた。そこは「ラ・ババ」と呼ばれる、木陰に二列のバンガローが並ぶひっそりと薄暗い場所だった。中央の歩道には短く刈り込まれてずんぐりした糸杉が並んでいた。なにやら「アリババと四十人の盗賊」に出てくる油壺のような形だ。三つ目の壷の後ろで派手な袖が動くのが見えた。

私は遊歩道の胡椒木によりかかり、待った。山裾の開けた辺りでまた雷が鳴るのが聞こえた。稲妻がぎらり、と南の方に厚く張り出した黒雲に反射した。数滴の雨粒がためらいがちに歩道を叩き、五セント硬貨ほどの跡をつけた。大気はスターンウッド将軍邸の温室内のそれと同じようにじっと静止していた。

木の後ろにあの袖がまた見えた。そのあとから大きな鼻と片方の眼と薄茶色の髪が現われた。帽子はかぶっていない。眼はじっと私を見つめていた。それが消えた。それがまるで啄木鳥のように木の反対側に再び現われた。五分が過ぎた。男はどうしようもなくなった。彼のようなタイプは神経戦に長く耐えられない。マッチを擦る音が聞こえ、口笛がはじまった。やがておぼろげな影が芝生伝いに次の木の陰へと滑りこんだ。そして彼は歩道に出て真っ直ぐ私のほうに向かってやってきた。ステッキを振り、口笛を吹きながら。口笛は調子がはずれ、落ち着きがなかった。《私はただぼんやりと暗い空を見上げていた。》彼は私から十フィートの距離のところを通り過ぎたが、こちらをちいらりとも見なかった。彼はいまや危機を脱した。あれは捨てたのだ。

私は彼が視界から去るのを見届けると「ラ・ババ」の中央を通る歩道まで行き、三番目の糸杉の枝をかきわけた。包装紙でくるまれた本を抜き出し、小腋に抱え、その場から立ち去った。誰も私を怒鳴ったりしなかった。>

 

マーロウによる尾行の詳細。微細な点しか違いがない。たとえば、村上氏はなぜか「シガレット・ケース」の材質を訳していない。原文には"leather”の一語があるのに、だ。もしかしたら原テクストが異なるのかもしれないが、厳密すぎるほど忠実に訳そうとする氏らしくない。単なる見逃しだったらちょっと愉快なのだが。

降り始めた雨が舗道に染みをつけた。その大きさを原文は"nickels”と表している。五セント玉のことだ。これを双葉氏の本は「五センチ玉」とやってしまっている。単なる誤植だろう。雹でもあるまいに、いくらなんでも五センチ大の雨粒の跡は大きすぎる。

双葉氏の訳にめずらしく一文丸ごとカットしている箇所がある。拙訳中、《 》をつけた部分だ。原文は”I stared vaguely up at the dark sky.”知らぬ顔を決め込んで、すっとぼけて空を見上げる探偵の姿は、こちらを一瞥さえしない男の態度と好一対。ここを訳さないという手はない。これも凡ミスだろうか。

あまり大きな違いはないと書いたが、小さなちがいなら無数にある。ひとつだけ例を挙げておこう。”bungalow”は、そのまま訳したら「バンガロー」で通じる。双葉氏はそう訳している。ところが、日本でバンガローといわれて思い出すのは、よくキャンプ場にある山小屋風の小さな建物だ。アメリカでは、あの手のものは「コテージ」と呼び、バンガローというのは、バルコニー付きの平屋住宅を指すようだ。村上氏は最初に「バンガロー式の家」と書いておき、次からは「平屋建て住宅」と親切に訳し替えている。同じ言葉が、英国と米国で意味が異なることはしばしばある。まして日本とアメリカならなおさらのこと。よく知っていると思われる単語でも辞書で確認する習慣をつけたいものだ。いうまでもないことだが、これは単なる自戒である。

 

『大いなる眠り』第4章(6)

<私は椅子のひとつに体を伸ばし、灰皿スタンドの上の丸いニッケル・ライターで煙草に火をつけた。彼女はまだ立っていた。歯で下唇をかんで、なんとなく困ったような目をしていた。ようやく頷くとゆっくり振り返り、コーナーの小さな机の方に歩いて戻った。ランプの火影から彼女は私をじっと見つめた。私は脚を組んでひとつ欠伸をした。彼女の銀色の爪は机の上の電話にのびかけたが、それには触らずに落ち、机の上をトントンと叩き始めた。

沈黙が五分ほど続いたろうか。ドアが開いて、長身で腹でも減っているのかと見紛いそうな輩が、ステッキと大きな鼻を携えて整然と入ってきた。ドア・クローザーの圧力に逆らって自分の背後でドアを閉め、コーナーに向かって行進すると包装された品を机の上に置いた。彼はポケットから四隅に金細工を施した海豹革の財布を取り出すと金髪女に何かを見せた。女が机の上のボタンを押した。長身の男は仕切りパネルのドアまで行き、かろうじて体を滑り込ませるくらい開けた。

私は一本目の煙草を吸い終わり、二本目に火をつけた。時がだらだらと過ぎた。大通りでは車のクラクションが不平を言い立てた。赤い大型郊外電車が唸り声を上げて通り過ぎた。交通信号灯が音を立てた。金髪の女は頬杖をつき、眼を覆うように丸めた掌の陰から私を見つめていた。仕切りのドアが開いて、長身の男がステッキといっしょにこっそりと出てきた。手には別の包装された品を持っていた。形からすると大判の本のようだった。机の方に行って金を払った。来た時と同じように店を出ていった。親指のつけ根のところだけで歩き、口を開けて息をし、通り過ぎるとき、横目で私に鋭い一瞥をくれながら。>

 

ガイガーの店の商売の仕方が克明に記されるところ。マーロウの観察眼の鋭さが遺憾なく示される。ここのところは両氏の訳にも特に異同がない。気になったのは、チャンドラーの言葉遣いで、最初机の上にあった"lantern”が、女が机に戻った時点で”lamp”と表記されていることだ。突然模様替えをするはずもないから、不自然な表記といえる。冒頭、店のウィンドウを埋め尽くす東洋風の意匠に作家自身が引きずられて「ランタン」のイメージが湧いたものの、後になって、そのイメージが消えると、普通の卓上ランプのイメージに取って代わられたのだろう。双葉氏ははじめから「ランプ」の表記で通しているが、村上氏ははじめは「卓上灯」、その後は「ランプ」と、原文に引きずられるように表記を変えている。

 

店に入ってきた客を原文は”tall bird”と表記している。”bird”は、俗語で人を指すが、あまりいい意味ではないようだ。辞書には「やつ、変人」などの例が載っている。村上氏は「長身の男」とさらりと流しているが、双葉氏はバード(鳥)にかけて、いかがわしい店の常連客らしい男を「背の高いかも(傍点二字)」と訳している。遊び心もあり、作者の俗語表現にこめた意味も伝わってくる上手い訳ではないか。

 

妙にこそこそしているかと思うと居丈高でもあるかのような男の身ぶりには、隠し事をする男ならではの過剰な自意識が滲み出ている。「親指のつけ根のところだけで歩き」と訳したところ、双葉氏は、「踵をつけない歩き方」、村上氏は「母指球にそっと体重を載せて歩き」と訳している。原文は”walking on the balls of his feet”で、辞書にもそのままの例文が載っている。日本語で言う「抜き足、差し足、忍び足」といったところか。借りた物を返す時は「マーチ」と表現されるようなどしどしと音を立てる歩き方で歩いていたのに、借りてきた物を抱えて帰るときは足音を立てずに歩いている。

 

すでに評価の定まった名訳があるのに、あえて自分で訳してみたくなる村上氏の気持ちが、自分で辞書を引きながら訳していると、少しずつ分かってきた。旧訳に文句があるというのではないのだ。自分ならどう訳すだろうと考えながら原文を読み、分かり辛い部分は辞書を引く。その作業をくり返していること自体が何より愉しいのだ。シンプルな原文に対し、日本語がそれに対して持つ豊かな対応力のなかで泳いでいるような自由な感じがたまらない。もっと若い頃に目覚めていたら単語を覚えるのも今ほど苦労しなかっただろうに。記憶力が鈍くなってきてから始めたのは、ちょっと残念だ。まあ、誰にせかされているわけでもない。ぼちぼちやっていこうと思う。

 

『大いなる眠り』第4章(5)

<「ああ、あの手のものには全く興味がない。おそらく鋼板印画の複製セットだろう。安直な彩色で二束三文の出来。そこいらによくある低俗な品さ。申し訳ないがお断りだね」
「わかりました」彼女は自分の顔に微笑を引き戻そうとがんばっていた。苛立ってもいた。まるでおたふく風邪にかかった市会議員のように。「ガイガー氏がおりましたら、お役にたてたのでしょうが、あいにく留守を致しておりまして」彼女の目は注意深くこちらを窺っていた。彼女は稀覯本について、私が蚤のサーカスの取り扱い方について知っている程度には、よく知っているのだ。
「後で顔を出すんだろう?」
「申し訳ありませんが、遅くなるかと」
「それは残念だ」私は言った。「いやあ、実に残念だ。この素敵な椅子に腰掛けて一服させていただくとするかな。今日の午後は暇なんだ。三角法の講義について考えることくらいしかすることがないんだよ」
「はい」と彼女は言った。「は、はい。もちろん」>

"Oh, that sort of thing hardly interests me, you know. Probably has duplicate sets of steel engravings, tuppence colored and a penny plain. The usual vulgarity. No. I’m sorry. No.”
双葉訳
「ああ、あんなものにはてんで興味がない。けちな版画の複製だろう。陳腐だよ。僕は結構だ」
村上訳
「ああ、あの手の代物にはまるで興味はない。どうせ銅版画のセットを複製したもので、色彩も安直、一丁上がりのやっつけ仕事で、一山いくらの値打ちしかない。申し訳ないが願い下げだね」
"steel engravings”は鋼板印画もしくは鋼板彫刻であり、銅版の代わりに鉄を用いた印刷技術である。安価で大量に印刷できる点が銅版画と比べた時の長所とされる。この文脈では、相手の所蔵品を貶めるというところに力が入っているのであるから、わざわざ銅版画と訳しなおすことには意味がない。双葉氏のように意訳して「けちな版画」とするか、あまりなじみのない言葉だが「鋼板印画」と訳すかしかないのでは。蛇足ながら”tuppence”は”twopence” で前にある鋼板印画から連想すれば”tuppence colored and a penny plain”は「二ペンスの色づいた土地と一ペニーの平地(無地)」ということになり、安っぽい彩色がなされた無地の部分の多い(安価な)印刷物を揶揄した文句となる。もちろん、ペンスとペニーをかけていることは言うまでもない。村上氏も前半の「色彩も安直」は忠実に訳しているが、後半は意訳せざるを得なかったようだ。

"I’m afraid not until late.”を双葉氏は「遅くならないとは思いますが」。村上氏は「参るのはかなり遅くなるかと思います」と反対の意味に訳している。"I’m afraid not”は、いわゆる丁寧語表現で、相手が言ったことについて否定しつつ不快感を与えない言い方として主に英国で使われる。彼女のこの返事を引き出すマーロウの質問は"He might be in later?”で、双葉氏は「じきに帰ってくるかね」。村上氏は「彼は後で出て来るのかな?」だ。双葉訳では同意に取れるので、否定になっていない。村上訳では来店予定があるかどうかの確認なので、来る予定だが遅くなるという彼女の返事は、これもまた否定とはいえない。つまり、彼女の返事に"I’m afraid not”が出てくるためには、マーロウ側に、すぐに会えるだろう、という期待がにじんでないといけないわけだ。そういう意味で「たぶん~だろう?」という意味の訳がぴたりと当てはまるはず。

"Nothing to think about but my trigonometry lesson.”
「三角法の授業のことなんか考えなくてもいいんだ」(双葉)
「三角法の講義について考えるくらいしかすることがないんだ」(村上)
よく使われる"nothig but”のイディオム。双葉氏がどうしてこう訳したのかが分からないくらいのもの。もちろん村上訳が正しい。双葉訳では"but”が効いていない。

 

『大いなる眠り』第4章(4)

<彼女は実業家たちの昼食会を大騒ぎさせるに十分なセックス・アピールを溢れさせながら私に近寄ると、ほつれた髪に手櫛をいれようと頭をかしげた。ほつれというほどではない。柔らかく輝く髪が巻き毛になっているだけだ。彼女の微笑みはかりそめのものだったが、申し分のないものに移す準備はできていた。

「何か御用ですか?」彼女はきいた。

私は角縁のサングラスをかけていた。声を高くし、そこに小鳥のさえずりを響かせた。

「もしかして一八六〇年版の『ベン・ハー』をお持ちでは?」

彼女は「はあ?」とは言わなかったが、言いたそうだった。わびしく笑った。「初版ですか?」

「三版」。私は言った。「一一六ページに誤植があるやつだ」

「申し訳ありません――今のところちょっと」

シュヴァリエ・オーデュボンの一八四〇年版ならどうかな?無論全冊揃いで」

「あの――今のところ、切らしています」ざらついたうなり声だった。微笑みは今や眉毛と歯の間にぶら下がり、もし落ちたらどこにぶつかるのか思い悩んでいる様子だった。

「君のところは本を売っているのではないのかね?」私は上品ぶった作り声で言った。

彼女はじっと私を見た。微笑は消えていた。目つきは「中」から「固め」になった。姿勢は直立し、固まっていた。銀色に塗った爪をガラス入りの本棚の方に泳がせながら、「あれが何に見えて――グレープフルーツかしら?」と、痛烈に言い放った。>

 

“ sex appeal to stampede a businessmen’s lunch”

「スタンピード」は、西部劇でよく見かける牛の大暴走を指す言葉だ。日本で「ビジネスマン」といえば会社員だが、英語では、社長級の実業家を指すのが普通。つまり、一流企業の社長たちが昼の会食を行っている席が大騒ぎになるほどのセックス・アピールということになる。

双葉訳「勤め人が昼飯を喉につかえさせるぐらいな性的魅力」

村上訳「実業家たちの昼食会を総崩れさせるのに十分なほどのセックス・アピール」

双葉訳ではチャンドラーが得意とする誇張法として、ちょっと物足りない。村上訳。フェロモンたっぷりの美女が現れて、整然と進行していた会食が秩序を失ってしまう様子を「総崩れ」と訳すのはうまい。ただ、原文の「スタンピード」という単語の原義を知っていないと「昼食会」と「総崩れ」は、上手く結びつく言葉とは思えないが、どうだろうか。

 

"Her smile was tentative, but coud be persuaded to be nice.”

双葉訳「彼女の微笑はお義理だったが、お義理でさえなければ上物の部類だ」

村上訳「彼女の微笑みは間に合わせのものだったが、ことと次第によってはそれを素敵な笑みに移す用意は整っていた」

双葉訳は後半は完全な意訳。上手いものだが、原文に忠実とはいえない。相変わらず丁寧な村上訳だが、如何せんまだるっこしさがつきまとう。辞書を片手に原書を読むには格好の参考書といえるのだが。

 

ここのところ、女の声や微笑の変化が実に丁寧に描写されている。それを追うのが楽しい。

"She looked me over. No smile now. Eyes medium  to hard.”

「彼女は私をじろりと見た。微笑は消えた。目がすこしきつくなった」(双葉)

「彼女は私をじろりと眺めた。微笑みは既に消え、目つきは「ほどほど」から「かなり硬め」に変わっている」(村上)

意味はほとんど変わらないが、三つ目の文、何かの目盛に喩えているのだろうか。村上氏はそれを面白がって、訳出しているようだ。ハードボイルド探偵小説の文体としては双葉氏の方がそれらしいが、チャンドラ-の文章という場合、村上訳の苦心がそこに向けてあるわけで、やはり避けては通れないところなのだろう。意を通じながら簡略に訳す。言うのは簡単だが行うには難い。拙訳も冷や汗ものである。