HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第八章(2)

《雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった。樹々から小止みなく滴り落ちるしずくの下を抜け、薄気味悪いほど広大な敷地に建ついくつかの豪壮な邸宅の窓に灯りが差す前を通り過ぎた。軒やら破風やら窓灯りやらのぼんやりとしたかたまりが丘の高いところに見えた。遠く離れて近寄り難い、まるで森の中にある魔女の館のように。無駄にまぶしい明かりに照らされたガソリン・スタンドがあった。白い野球帽にダーク・ブルーのウィンドブレイカー姿の係員が背中を丸めてスツールに腰かけ、曇ったガラスの内側で退屈そうに新聞を読んでいた。私は中に入りかけ、それから歩き続けた。私はすでにぐっしょり濡れそぼっていた。こんな夜にタクシーを待ってたら髭が伸びてしまう。また、タクシー運転手はよく覚えているのだ。》

 

ここも難儀した。ある種の名文なのだろう。探偵小説の淵源たるゴシック・ロマンスの雰囲気を濃厚に漂わせる。「雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった」と訳した箇所、原文は<Ten blocks of that, winding down curved rain-swept streets,>だ。双葉氏の訳を見てみよう。「曲がりくねった下り坂を十ブロックほど」と、長文の途中に挿入句として入れている。<curved rain-swept streets>は、あっさりカットされている。村上氏はどうだろうか。「雨に洗われたカーブした道路を、十ブロックばかり下った」だ。

 

<curved rain-swept streets>は「雨に洗われたカーブした道路」でも「雨が降りしきるカーブした通り」でも、さほど変わりはない。後者の方が、今雨が降っているという感じが強いところがちがうだけだ。<winding down>を双葉氏は「曲がりくねった下り坂を」という意味にとっているが、村上氏は「下った」と、訳している。では<winding>はどう処理されたのか。「カーブした道路を」下るのだから同じことを二度繰り返すこともない、とカットしたのだろう。

 

<winding>はビートルズの歌にも出てくる。『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』だ。「曲がりくねった」と訳されるのは<road>(道)を修飾する形容詞として使われることが多いからだ。<winding down>と使われた場合、「~をうねうねと下っていく」の意味になる。この「うねうねと」がないと、曲がりくねった下り坂を降りる感じがよく伝わらない。何しろ十ブロックもあるのだ。大きく湾曲しているのではない。九十九折りの坂道である。

 

「遠く離れて近寄り難い」は<remort and inaccessible>。双葉氏は完全にカットしている。村上氏は「それは遥か遠くにある手の届かないものに見えた」と逆に長い。原文はゴシック調の六行に渡る長い一文の後に、改行なしに突然来るのが「無駄にまぶしい明かりに照らされたガソリン・スタンドがあった」だ。双葉氏は原文同様改行なしに続けているが、村上氏は改行している。

 

その気持ちはよく分かる。文の情調というものがまったく異なるのだ。まるで、ギュスターヴ・ドレの版画の後に、エドワード・ホッパーの絵をくっつけたようなものだ。雨夜のガソリン・スタンドの光景だが、双葉氏は<stool>を「床几」と訳している。いくらなんでもアメリカ西海岸に床几はない。今となっては「床几」と訳されても読者には通じない。村上氏もそうしているように片仮名書きでいいだろう。

 

マーロウは、電話でタクシーを呼ぼうと考え一度中に入りかけるのだが、双葉氏は<I started in,then kept going.>を「私は歩きつづけた」と前半を訳さないで済ましている。これだと、次の「もう、ぬれられるだけぬれていた」が、うまく続かない。村上氏は「私は中に入りかけたが、思い直してそのまま歩き続けた」と、マーロウの内心まで付け加えて訳している。丁寧な訳であることはまちがいないが、今度は小さな親切が大きなお世話と受け止めれるおそれがある。なぜなら、その短い文に続けて、マーロウは自分の考えを吐露しているからだ。<I was as wet as I could get already.>と。

 

今さらタクシーを呼んでもずぶ濡れの体はどうにもならない、と思い直したのだ。それに、人通りのない場所だけに流しのタクシーも通らない。電話で呼んでも時間のかかる場所にいる。皮肉の一つも出ようというものだ。<And on a night like that you can grow a beard waiting for a taxi.>。タクシーを待っている間に髭が伸びる、というのはいかにもマーロウらしい科白だが、次の<And taxi drivers remember.>というオチがよく分からない。双葉氏はこう解釈している。「運転手仲間も、客の覚悟を心得ているので、やって来ない」。

 

村上氏はちょっとちがって、「それにタクシーの運転手というのは記憶力がいい」だ。なぜ、ここに運転手の記憶力の良し悪しが出てくるのだろう。もしかしたら第六章でマーロウを怒鳴りつけた<motorman>のことを思い出しているのだろうか?もっとも、<motorman>は、路面電車などの運転士を指すらしいから、敵に回した多くの車の中にタクシーがあったのかもしれない。そう取れば意味は通じるのだが、どんなものだろう。自分でも納得のいかない訳だが、「また、タクシー運転手はよく覚えているのだ」と、しておいた。チャンドラーが生きていたら、質問したいところである。

『大いなる眠り』註解 第八章(1)

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《スターンウッド邸の通用口には鉛枠のついた細い窓があり、その向こうに薄暗い灯りが見えた。パッカードを車寄せの屋根の下に停め、ポケットの中の物をすべてシートの上に出した。娘は隅でいびきをかいていた。帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり、両手は巻きつけたレインコートからだらりと垂れ下がっていた。私は車から出てベルを鳴らした。足音がゆっくり近づいてきた。まるで長く荒涼とした距離を歩いてくるかのように。扉が開き、真っ直ぐに立った銀髪の執事が私を注視した。玄関ホールからの灯りが彼の髪を光輪のように包んだ。

彼は「グッド・イブニング、サー」と丁重に言い、私を通り越してパッカードを見た。彼の視線が戻り、私の目を見た。

「ミセス・リーガンはお見えかな?」

「ノー、サー」

「将軍はもうお休みだろうね。だといいのだが」

「はい。宵の口にお休みになるのがいちばんですので」

「ミセス・リーガンのメイドはどうかな?」

「マチルダですか?彼女ならおりますが」

「ここに呼んだ方がいいだろう。女手のいる仕事があるんだ。車の中をのぞいたら君も訳が分かる」

彼は車の中を見て帰ってきた。「よく分かりました」彼は言った。「マチルダを呼んで参ります」

「マチルダが彼女の世話をしてくれるだろう」私は言った。

「私どもは皆、彼女のお世話をするよう、つとめております」彼は言った。

「慣れているんだな」私は言った。

彼はそれを受け流した。「お休み」わたしは言った。「あとは君に任せたよ」

「かしこまりました。タクシーをお呼びいたしましょうか?」

「もちろん」私は言った。「いらない。私は本当のところ、ここにいない。まさに君が見ている通りに」

彼は微笑した。それから私に軽く頭を下げた。私は踵を返し、ドライブウェイを歩いて、門の外に出た。》

 

最初の一文は、<There was dim light behind narrow leaded panes in the side door of the Sternwood mansion.>。「通用口」と訳したのは、<side door>だ。村上氏はこれを「邸宅の横にある通用口」としている。これでは<side>を二重に訳していることになる。双葉氏の方は「スターンウッド邸の通用口の厚いドアの後ろには」とやっている。<narrow leaded panes in the side door>をどう訳したら「厚いドア」になるのか分からない。しかもこちらも「ドア」を二重に訳している。面倒くさかったのだろうか。いくら大邸宅でも通用口に厚いドアを取り付けたりしないと思うが。採光用の窓であり、夜ともなれば使用人の有無を知る用途を持つのだろう。用心のために鉛製の枠がついた細い窓なのだ。

 

「車寄せの屋根の下に停め」と訳したのは<under the porte-cochere>。屋根のついた車寄せだ。村上氏はいつものように、「屋根のついた車寄せに停め」と辞書のまま使っている。日本のカーポートじゃあるまいし、わざわざ車寄せに屋根をつけたりはしない。これは屋敷の一部として玄関にまで続いたひさしの部分だ。大邸宅の場合ポルチコ状に柱のついたものも多い。双葉氏のように「車よせにとめ」でもいいところだが、その前に<under>がついているのが曲者だ。そこで「車寄せの屋根の下に停め」として<under>を生かした。

 

それに続く「娘は隅でいびきをかいていた。帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり、両手は巻きつけたレインコートからだらりと垂れ下がっていた」の原文は<The girl snored in the corner, her hat tilted rakishly over her nose, her hands hanging limp in the folds of the raincoat.>。双葉氏は「彼女はすみっこでいびきをかいていた。帽子は鼻の上にかぶさり、手はレインコートのポケットの中でぐにゃりとしていた」。村上氏は「娘はいびきをかいていた。帽子は傾いて鼻の上にかかり、両手はだらんとレインコートの折り目の中に垂れていた」だ。

 

初めの文。村上氏はなぜか<in the corner>を訳していない。読み飛ばしたのだろうか。実は村上氏、自分の訳文を柴田元幸氏にチェックしてもらうのだが、早川書房から出すものについては、社の担当者に任せている、と別の本で語っている。盟友柴田氏なら、「ここはどうして訳さなかったの?」とか訊けるのだろうが、早川の担当者の年齢は知らないが、この程度ならわざわざ質問するには及ばないと見過ごしたのかもしれない。村上氏はこういうところをきっちり訳さないと気が済まない訳者だ、と私は思っている。

 

次の帽子の件。<rakish>は「傾いた、斜めの」の意味があるが、<rakishly>には「放蕩者の」のように「不品行な態度で」の意味があり、転じて「粋な、ハイカラな」の意味がある。たしかに、ここで娘に意識はないので粋がってやったわけではないが、帽子を傾けて鼻まで下ろす格好は、ギャング映画などでよく見かける。昔の日活なら宍戸錠がよくやってみせたポーズだ。両氏とも、その意には採らなかったようだが、単に「傾ける」だけなら<tilted>ですでに意は尽くされている。その意を汲んで「帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり」と訳してみた。もっといい訳があると思うが、検討中である。

 

最後の文も相当におかしい。双葉氏の「手はレインコートのポケットの中でぐにゃりとしていた」もそうだが、村上氏の「両手はだらんとレインコートの折り目の中に垂れていた」もイメージがどうにも湧いてこない。ポケットの中の手がぐにゃりとしてるというのはどういうことか。あるいは、折り目の中に、垂れているというのは?<folds>を双葉氏は「ポケット」と思ったようだが、これはまちがい。普通は、折り畳んだ、襞のような物を意味する。そこから村上氏のような訳が出てくるのだが、よく思い出してみよう。マーロウは娘にコートを着せたのではない。ただ、巻きつけたのだ。ここは、「(縄などの)一巻き」の意味にとった方が分かりやすい。

 

執事の挨拶は、お定まりの<Good evening, sir,>。これを双葉氏のように「今晩は」と訳してしまうと最後につけた「サー」がどこかに飛んでしまう。朝ならいいのだ。「お早うございます」というふうに、語尾に「ございます」という敬語がくっつくから。ところが、「今晩は」には敬語がつかない。かといって「今晩は。旦那様」と訳すのも大仰だ。最後につける「サー」は、いわば決まりのようなもので、いちいち訳すには及ばない。さて、どうしたものか、というので村上氏は訳さずにすますことにしたのだろう。

 

「グッド・イブニング、サー」とそのまま書いても日本人にも通用するのは、これが使用人が使うお決まりの挨拶用語だからだ。ところが、やはり、否定を表すお約束の<No, sir.>の方は。村上氏、「いいえ、サー」と訳している。次も「ノー、サー」としたのでは、翻訳家としては忸怩たるものがあったのだろうか。こちらは素人なので思い切って「ノー、サー」とやってしまった。この程度は許されるのではないだろうか。因みに双葉氏は、ちゃんと「おるすでございます」と敬語をつけて「サー」の敬意を表現している。これが一般的な訳だろう、とは思う。しかし、それなら「今晩は」で済ますのはどうか、という気持ちが残る。敬語の扱いは難しいのだ。

老練の執事とマーロウとの丁々発止のやり取りが面白い。

「マチルダが彼女の世話をしてくれるだろう」私は言った。

「私どもは皆、彼女のお世話をするよう、つとめております」彼は言った。

のところは原文では次のようになる。

“Mathilda will do right by her, ” I said.

“We all try to do right by her, ” he said.

つまり、類似する形を使って対句表現をやっているわけだ。

 

双葉氏は<「マチルダにまかせればいい」私は言った。「私どもはみんなまかせることにいたしております」>と訳す。村上氏は<「マチルダが彼女の面倒を見てくれるね」私は言った。「我々は全員、お嬢様の面倒を見るべく務めております」と彼は言った。>だ。ちがいが分かるだろうか。双葉氏は<by her>をマチルダと捉えている。それに対して村上氏はカーメン嬢だ。<by>ひとつでこれほど訳が変わってしまう。ここのそれは「~に対して」の意味だろう。直訳すれば「マチルダは彼女に対して正しいことをするだろう」だ。執事の発言は「我々は皆、彼女に対して正しいことをしようと試みています」だ。雇い主に対する執事の微妙な表現に妙味がある。どうしようもない馬鹿娘だが、雇い主のお嬢様である。使用人としては正しく接するよう努力するほかないではないか。

 

<「もちろん」私は言った。「いらない。私は本当のところ、ここにいない。まさに君が見ている通りに」>のところ、原文は<“Positively” I said. “ not. As a matter of fact I’m not here. You’re just seeing things.”  >。双葉氏は<「絶対にいかん」私は言った。「ぼくはここへ来なかったんだぜ。君は何かほかのものを見てるんだ>。村上氏は<「いや、不要だ」と私は言った。「実のところ、私はここにいない。君は幻を見ているだけだ」>。

 

娘の不祥事をなかったことにして済ませようというマーロウの心遣いだ。あれだけのことを時間をかけてやり遂げたのだから、ご褒美にありついたって罰は当たらないだろうに。ちょっと格好をつけすぎるのがマーロウの悪い癖。両氏のように訳すのが読者にとっては親切なのだろうが、あえて、語順のままに訳してみた。執事を話の分かる男と見て言ったマーロウの科白だ。あえて、「ほかのもの」とか「幻」とか、作者の使わなかった言葉を使う必要はないと思う。執事も読者もそれで分かると思うのだ。

『大いなる眠り』註解 第七章(8)

《私は部屋の裏にある廊下に入って家の中を調べた。右側に浴室が、背面に鍵のかかったドアと台所があった。台所の窓はこじ開けられていた。網戸はどこかに消えており、留め金が引き抜かれた痕が見えていた。裏口のドアは鍵が掛かっていなかった。それは放っておいて廊下の左側にある寝室を見た。小ぢんまりとして、細部にこだわりがあり、女っぽかった。ベッドには襞飾りがついたカバーが掛かっていた。三面鏡付きの化粧台には香水が置かれ、ハンカチの横には散らばった小銭、男性用のブラシ、キーホルダーがあった。クローゼットには男物の衣服が掛かり、ベッドカバーの縁の襞飾りの下には男物のスリッパがあった。ガイガー氏の部屋だ。私はキーホルダーを手に居間に引き返し、机の中を調べた。抽斗の奥に鍵のかかったスチール製の箱があった。キーホルダーにあった鍵の一つを使って開けた。青い革装本が入っているだけだった。索引になっていて、暗号で多くの書き込みがある。スターンウッド将軍宛の手紙にあったのと同じ傾いた活字体だった。私はそのノートをポケットに突っ込み、スチール製の箱の私が触ったところを拭いた。机に鍵をかけ、キーをポケットに入れ、飾り丸太のついた暖炉のガス栓を閉め、コートに身を固めるとミス・スターンウッドを起き上がらせようとした。だが、できなかった。彼女の頭にヴァガボンドハットをかぶせ、体にコートを巻き付けて彼女の車まで運んだ。私は引き返し、すべての灯りを消し、玄関ドアを閉め、彼女のバッグを探ってキーを見つけると、パッカードをスタートさせた。我々はライトを点けずに丘を下った。アルタ・ブレア・クレセントまで十分もかからなかった。カーメンはその間いびきをかき、エーテルの匂いのする息を私の顔に吹きかけていた。私は彼女の頭を肩から離すことができなかった。膝の上で寝られないためにはそうするしかなかったのだ。》

双葉氏が「広間」と訳している<hall>だが、部屋の裏に広間があるというのは変だ。村上氏は「廊下」だ。アメリカでは<hall>は「廊下」を意味するらしい。各部屋間をつなぐ連絡通路のようなものだ。右手にあるのは<bathroom>。双葉氏も浴室と訳しているが、村上氏は「洗面所」だ。<bathroom>もアメリカではトイレを指すらしい。日本でも「洗面所」はトイレの意味でも使われる。ただ、浴室とトイレが仕切られていることの多い日本の場合「洗面所」というとシンクの上に鏡がついたものを思い浮かべてしまう。

だいたい、日本の住宅とアメリカのそれでは、靴を脱ぐ脱がないというところから大きく異なっている。いっそ「バスルーム」のままにするのも手だ。そうすると、次の<kitchen>も「台所」ではなく「キッチン」ですむ。ぬか味噌臭くなくていいではないか。だとすると、<hall>も「ホール」でいいような気がしてくる。一度妥協すると、とめどなくカタカナ語が増えてしまう。やはりどこかで歯止めをかけなくてはいけないのかもしれない。

「小ぢんまりとして、細部にこだわりがあり、女っぽかった」の原文は<It was neat, fussy, womanish.>。双葉氏は「小ぎれいで、女性的な部屋だった」。村上氏は「小綺麗で、ちまちまして、いかにも女性的だった」。形容詞が三語、畳みかけるようにして使われている。最初の<neat>は、小ざっぱりと、整った、というような肯定的な意味だが、二つ目の<fussy>は、「念の入った」とか「凝った」とか必要以上にこだわりがあることを貶めて言う言葉だ。最後の<womanish>も、そのまま読めば、確かに「女性的」という意味になるが、その前に(男が)をつけて読む必要がある。「柔弱な」、「女々しい」というニュアンスが付きまとった「女性的」なのだ。女性に対して誉め言葉で「女らしい」の意味で使う場合は普通<feminine>を使う。

双葉氏の場合、二つ目の否定的なニュアンスが飛んでいるし、村上氏の場合は逆に「いかにも」という強意が付加されている。ふだん、原文に忠実な訳を心がけている村上氏がわざわざ付け加えているのだ。この「いかにも」には、ただの「女性的」ではない、「(男にしては)どう考えても」の意味が込められていると考えたい。余計に思える「いかにも」が付加されることで、結果的にに原文の<womanish>の意味に近づいているわけだ。文章にリズムも生まれるし、よく考えられた訳といえる。

「クローゼットには男物の衣服が掛かり」のところ、原文は<A man’s clothes were in the closet>だ。双葉氏はここを「戸棚に男の服が一着」としている。どうして一着にしたのだろう。村上氏は「クローゼットには男物の服が並び」としている。どこにも並んでいるとは書いてないが、たとえ二着でも掛かっていれば、並んでいるとはいえる。単数、複数にこだわる村上氏らしい工夫だ。

「青い革装本が入っているだけだった」の「本」だが、原文は<a blue leather book> だ。双葉氏は「青い皮の帳面」、村上氏は「青い革製のノート・ブック」と訳している。実は次に出てくるときは<the notebook>と作者が書いているので、この<a blue leather book>が、ノートだということは分かるのだが、開けてみるまではマーロウにはそれがノートなのか、本なのかは分からない。それで、こんな書き方になるのだろうが、訳者泣かせだ。本もノートも表すことのできる「冊子」という訳語を考えてみたが、使用頻度が低いので、あきらめて「本」を使うことにした。次に出たときは同じ物を「ノート」と訳すことになるが、その間に手書きの文字がたくさん書かれていることを説明する文が挟まっているので、わかってもらえるだろうと判断した。作者も同じ考えだろう。

<turned the gas log off the fireplace>がよく分からなかった。<turn off >で「栓をひねって消す」ことだとは分かるのだが、<the gas log>が分からない。直訳すれば「ガスの丸太」だ。暖炉の中にある丸太というので見当はつくが、ネットで検索をかけると「ガスログ」でヒットして画像が出た。セラミック製の薪を組んだ暖炉用のバーナーだ。双葉氏は「暖炉のガス栓をとめ」と、あっさりパスしている。村上氏はどうかと見てみると「暖炉の中にある作り物の薪のガスを止め」と、相変わらず丁寧だ。<log>の語感を生かし「飾り丸太のついた暖炉のガス栓を閉め」と訳してみた。

『大いなる眠り』註解 第七章(7)

《我々は少し歩いた。時には彼女のイヤリングが私の胸にぶつかったり、時にはアダージョを踊るダンサーたちのように息が合った開脚を見せたりしながら。我々はガイガーの死体のところまで行って戻ってきた。私は彼女に彼を見せた。彼女は彼が格好つけてると思ったにちがいない。くすくす笑いながらそう言おうとしたが、泡がはじけるような音がしただけだった。私は長椅子のところまで彼女を連れて行き、その上に横たえた。彼女は二度しゃっくりし、少し含み笑いをし、やがて眠りについた。私は彼女の持ち物をポケットに詰め込むと、トーテムポールのような物の背後に回り込んだ。まちがいなくカメラはその中にセットされていたが、乾板がなかった。私は床を見まわした。撃たれる前に彼がそれを外したにちがいないと思ったのだ。乾板はない。私は生気をなくして冷たくなった彼の手を取り、少し横を向かせた。乾板はない。気にくわない展開だった。》

 

<Part of the time her earrings banged against my chest and part of the time we did the splits in unison, like adagio dansers.>のところ、双葉氏は「彼女の耳飾りが私の胸にぶつかった。二人組の滑稽ダンスみたいに、何度かいっしょにからまってたおれた」と訳している。村上氏は「あるときには彼女のイヤリングが私の胸にぶつかった。あるときには我々は優雅なダンスのパートナーのように、息を合わせて開脚(スプリット)を披露した」だ。

 

<split>は、「縦に二つに割くこと」で、複数になるとバレエの開脚のポーズを意味する。薬で正体のない娘を立たせていっしょに歩いているのだから、足がついてこない時もある。娘に合わせて二人三脚のように歩いたのだろう。双葉氏の訳は明らかにまちがいだ。アダージョはゆっくりしたテンポの音楽を意味する語で滑稽とは程遠い。ただ、村上氏の訳では、ダンサーというより、社交ダンスを踊る一組のペアのように読める。スプリットは床に開いた両脚をべたっとつける「大股開き」のことである。拙訳ではバレエのパ・ド・ドゥを踊るダンサーを意識した。

 

<She thought he was cute.>のところで、また<cute>が出てきた。双葉氏も前と同じように「彼女は彼を粋だと思った」と訳している。ところが、村上氏、今回はそのまま「彼女はガイガーをキュートだと思った」と、そのまま「キュート」を使っている。さすがに、いい年をした男を「可愛い」とは言い難かったのだろう。ミス・スターンウッドがガイガーのことをどう見ていたかは、ここでは知るすべがない。何しろ相手は、アヘンチンキを飲んでハイになっている状態なのだ。

 

「キュート」には、いい意味では「可愛い」のような誉め言葉になるが、「気障」のように悪い意味もあって、チャンドラーがここでどちらを意味しているのかが問題になる。ただ、胸から腹のあたりが血に染まった死体を見て「粋」というのはいかにも無理がある。その点「キュート」は便利である。どのようにも取れるからだ。ただ、いささか逃げが感じられないでもない。少し無理をして「格好つけてる」と訳してみた。

 

時代が時代なので、カメラも古い。今のようなフィルムではなく乾板(plateholder)を用いている。<plateholder>を辞書で引くと「とり枠」と出ている。「撮り枠」だととればカメラの部品だとは思うが、「乾板」のことだとは気づかなかった。チャンドラーは、この短いパラグラフの中で、<no plateholder>を三度も繰り返している。必死で乾板を探すマーロウの焦りを感じさせるためだ。

 

最初は<but there was no plateholder>となっているが、次からは<No plateholder.>と短い文だ。切羽詰まっているのがよく分かる。ここのところを双葉氏は「が、乾板はなくなっていた」、「ない」、「そこにもない」と訳す。村上氏の場合、「しかしカメラの乾板は消えていた」、「しかし乾板はない」、「乾板はない」だ。過去形、現在形、現在形と原文に忠実に訳し分けている。見習いたいと思う。

 

「気にくわない展開だった」は<I didn’t like this development.>。双葉氏は「どうも気に入らぬ事件の展開ぶりだ」。村上氏は「その展開が私には気に入らなかった」。チャンドラーにはやたら長い文を連ねてひねった文章を繰り出す癖があるが、決め科白は、このように短いセンテンスを持ってくることが多い。こういうところはできる限り簡潔な文にしたい。主語をとってしまっても日本語ならどうということはない。

『大いなる眠り』註解 第七章(6)

《私は雨が屋根と北側の窓を打つ音を聞いていた。その外に何の音もなかった。車の音も、サイレンもなく、ただ雨音のみ。私は長椅子のところへ行き、トレンチコートを脱ぎ、娘の服をかき集めた。淡緑色のざっくりとしたウールのドレスがあった。半袖で上からかぶる型だ。これなら何とか扱えるだろう。下着は遠慮することにした。心遣いからではない。彼女にショーツをはかせたり、ブラジャーの留め具をはめている自分が想像できなかったからだ。壇の上のチーク材の椅子までドレスを持って行った。ミス・スターンウッドもエーテル臭かった。数フィート離れていても匂った。耳障りな含み笑いがまだ漏れていて、顎に少しよだれが垂れていた。私は顔をひっぱたいた。彼女は瞬きをして含み笑いをやめた。もう一度叩いた。

「さあ」私は明るく言った。「しっかりしろ。服を着るんだ」

彼女はじっと私を見た。暗灰色の眼は仮面に開いた穴のように空っぽだった。「ググトテレル」彼女は言った。》

 

なかなか面白い場面だ。<I couldn’t see myself putting her pants on and snapping her brasseire>を、双葉氏は「まっ裸の女の子に、パンティをはかせたり乳当てのスナップをとめてやったりしている私など、自分でも想像できなかったからだ」と訳している。「乳当て」というのが時代を感じさせてくれる。たとえ名訳と呼ばれていても、時がたてば新訳が必要になるという村上氏の発言に納得がいくところだ。

 

村上訳を見てみよう。「自分が彼女に下着をはかせたり、ブラジャーのフックをとめてやったりするしているところが想像できなかったからだ」と、女性用下着の名称並びに装着法を変更している。ところで、<pants>を「下着」と訳しているが、ブラジャーは下着ではないのだろうか。そのまま「パンツ」と訳したいところだが、それだとズボンと勘違いされるし、「パンティ」というのも今となっては半分死語だ。そこで、こういう訳になったのだろう。苦肉の策といったところか。

 

<Let’s be nice. Let’s  get dressed>を。双葉氏は「いい娘(こ)になって、着物を着るんだ」と訳している。まちがってはいないが、「着物」が気になる。ガイガーのオリエンタリズムに溢れた趣味の中には「ジャパニーズ・キモノ」も混じっていそうだからだ。村上訳の「しっかりするんだ。服を着よう」というあたりでいいのでは。

 

「ググトテレル」の原文は<Gugutoterell>だ。これを両氏ともに「ググゴテレル」と表記している。元になっている原文にちがいがあるのかもしれないが、首をかしげるところだ。もともと意味をなさない呟きに過ぎないのだから、どうでもいいようなものだが、だからこそかえって気になる。よくあることだが、どうせ戯言と考えて、村上氏が原文にあたるのを怠ったのかもしれない。そうだと面白い、というと申し訳ないが、重箱の隅をつついていて食べ残しの飯粒を見つけたような気分だ。

(この「ググトテレル」について、hairanさんからコメントがあり「<Gugutoterell>は<Go to the hell!>を表している」ことを教えていただいた。いわゆる四文字言葉で、そのまま書くことができず、こう表記したものらしい。詳細についてはコメント欄のURLを参照してください)

 

 

《私は彼女をもう少し叩いた。彼女は気にも留めなかった。平手打ちでは正気は戻らなかった。私は服を着せることに取りかかった。彼女はこちらも気にしなかった。なされるがまま腕を上にあげ、指をいっぱい開いた。まるで気の利いた仕種ででもあるかのように。私は彼女の両腕を袖に通し、ドレスを背中に引っ張リ下ろし、立ち上がらせた。彼女はくすくす笑って私の腕の中に倒れこんできた。私は彼女を椅子に戻し、ストッキングと靴を履かせた。

「少し歩こう」私は言った。「楽しいお散歩だ」》

 

このパラグラフは、ほぼ問題はない。<giggling>という、声をひそめて笑う様子を双葉氏が「げらげら笑いながら」と、いささかハイテンション気味に表現しているところが目立つくらいだ。「気の利いた仕種」としたところ、原文は<cute>だ。双葉氏は「粋なこと」、村上氏は「可愛い仕草」と訳している。いっそ「キュート」のままにしておこうかと思ったが、それを訳すところに面白さを感じはじめてきているので、日本語に置き換えた。

『大いなる眠り』註解 第七章(5)

《閃光電球が私の見た稲光の正体だった。狂ったような叫び声は麻薬中毒の裸娘がそれに反応したものだ。三発の銃声は事の成り行きに新しい捻りを加えようとして誰かが思いついたのだろう。裏階段を降り、乱暴に車に乗り込み、大急ぎで走り去った男の思いつきだ。考えたものではないか。》

最初の文は<The flash bulb was the sheet lightning I had seen.>。<sheet lightning>は「幕電(光)」(雲に反射して幕状に光る稲光)だそうだが、「幕電」と直訳してもそのままでは何のことやら通じない。かといって「私が見た雲に反射して幕状に光る稲光は」とくだくだしく書くわけにもいかない。双葉氏は「私が見た閃光は、フラッシュだったのだ」とあっさり訳している。村上氏は「フラッシュ・ライトが私の目にした白い稲妻だった」と、最初にその光を目にしたとき「白い」と形容した部分を、上手く流用している。

その後に叫び声の話が来ることから考えてみても、ここは雷鳴を伴わないという光だけを表す「幕電」が使われているのだろう。「幕電」は、広辞苑にも載っている言葉だが、如何せん人口に膾炙していない。前のところで「閃光電球」という聞きなれない単語を使ってしまっているので、今回も使わざるを得ない。前に「稲光」と書いているので、それを踏襲して「閃光電球が私の見た稲光の正体だった」としてみた。

「考えたものではないか」と訳したところ。原文は<I could see merit in his point of view.>。直訳すれば「彼の観点には長所があるように見えた」。これを双葉氏は「なかなか味をやるな、と私は思った」。村上氏は「たしかに一理ある物の見方だ」と訳している。さすがに両氏ともこなれた訳しぶりである。

《金の縞模様の入った華奢なグラスが二つ、黒い机の端に置かれた赤い漆のトレイ上に載っていた。その傍にたっぷりな容量の瓶があり、茶色い液体が入っていた。栓を取り、匂いを嗅いだ。エーテルと何かが混じった匂いだ。おそらくアヘンチンキだろう。私はその混ぜ物を試したことはなかったが、ガイガーの家とはかなりうまくやっていたらしい。》

<fragile gold-veined glasses>を双葉氏は「金色の筋が入った薄いグラス」、村上氏は「金の網脈のついた華奢なグラス」と訳している。こういうところが実に難しい。チャンドラーの描写は事細かで何一つゆるがせにできない。<vein>は「静脈」のことで、そこから「葉脈、翅脈」などの筋目の入った文様を意味する。「網脈」という語がそれほど認知されているようにも思えないのに、村上氏がこの語を採用した意図をはかりかねる。もしかしたら、思い当たるグラスがあるのかもしれない。

次の「赤い漆のトレイ」は<red lacquer tray>だが、双葉氏は「赤いニスびきの盆」としている。さすがに「ニスびき」は錆が浮いてきている。村上氏は「赤い漆塗りのトレイ」だ。「トレイ」は今や外来語として市民権を得ている。それに続く部分、<beside a potbellied flagon of brown liquid>も厄介だ。<potbellied flagon>を双葉氏は「丸っこいガラスの細口びん」、村上氏は「下部がぼってり膨らんだ細口瓶」と訳している。

<potbellied>は「太鼓腹の、丸く大きい」という意味。<flagon>は卓上で使うように葡萄酒などを入れた大瓶のことだ。絵画などでは見たことがあるが、それを表す日本語が見当たらない。形状や用途を考えて意訳するしかない。「カラフェ」や「デキャンタ」も考えたが、後で<stopper>(栓)が出てくる。我が家にはちょうどそれにあたる酒器があるが、プレゼントされたもので、呼び名がよく分からない。


「アヘンチンキ」と訳したのは<laudanum>で、アヘン末をエーテルに浸出させたものだ。双葉氏は「阿片」、村上氏は「阿片のアルコール溶剤」と、どこまでも説明調だ。最後の文、原文は<I had never tried the mixture but it seemed to go pretty well with the Geiger menage.>。双葉氏は「私は、まだまぜた奴を飲んだことがないが、ガイガーの家には実にふさわしい感じだった」。村上氏は「私はそんなカクテルを試したことはまだないが、ガイガーの住居ではおそらく欠かせないものなのだろう」だ。

英語圏では「ローダナム」、通常は「阿片チンキ」と呼ばれる調合薬は、それほど危険な薬ではない。咳止めや鎮痛に処方箋なしで買えたほどだ。常習性もないとされ、現在でも下痢止めなどに使われている。双葉氏の訳では、マーロウはまぜてない阿片なら経験したことがあるように聞こえる。村上氏の訳は、ガイガーが特別に作った混合物のように読めるが、<laudanum>はそのままで「アヘンチンキ」を意味する名詞だ。

<pretty well>を「ふさわしい」とか「欠かせない」と意訳する必要があるのだろうか。両氏とも、「アヘンチンキ」を、何か危険な薬物と思い込んでいて、意味深な訳になっているのではないだろうか。ここは、マーロウはまだ「アヘンチンキ」という薬を飲んだことはないが、ガイガーの家では常備薬として「かなりいい」仕事をしているという意味ととればいいところではないのか。

『大いなる眠り』註解 第七章(4)

《私は彼女を見るのをやめてガイガーを見た。彼は中国緞通の縁の向こうに、仰向けに倒れていた。トーテムポールのような物の前だ。鷲のような横顔の、大きな丸い眼がカメラのレンズになっていた。レンズは椅子の上の裸の娘に向けられていた。トーテムポールの横には、黒くなった閃光電球がクリップで留められていた。ガイガーは厚いフェルト底の中国のスリッパを履き、黒い繻子のパジャマのズボンの上に中国刺繍のついた上着を羽織っていた。その前面の大部分が血に染まっていた。ガラスの義眼が明るく輝いて私を見上げていた。彼のなかで飛び切り生き生きしているところだ。一目見て、私が聞いた三発の銃声に外れがないのが分かった。彼は完全に死んでいた。》

 

このパラグラフは易しい。両氏の訳にもほとんどちがいはない。日本語の文章としての表現に差があるだけだ。解釈にちがいがあるのは一つだけだ。<beyond the fringe of the Chinese rug>の<fringe>を、双葉氏は「飾り房の向こう」の意味にとっているが、村上氏は「敷物の外側に」と、「外辺」の意味を採用している。我が家に敷いてあるラグには長い房飾りがついているが、ガイガーのラグはどうなのだろう。どうも、このラグには苦労させられる。「縁の向こう」という曖昧な訳で逃げることにした。これなら、どちらの意味でも通用するだろう。

 

「閃光電球」と訳したところ、原文は<flash bulb>。双葉氏はそのまま「フラッシュ・バルブ」。村上氏は「フラッシュ・ライト」としている。片仮名を使用するなら「フラッシュ・バルブ」で問題ないと思うのになぜだろうか、と疑問に思い、試しに検索をかけてみた。すると、面白いことが分かった。片仮名にすると同じでも、英語では別のスペルを持つ「フラッシュ・バルブ」<Flush valve>があったのだ。それも、何と写真付きで。写真に写っているのは水洗便器。取っ手を押すと一定時間水が流れて自動で止まる、あの装置のことを「フラッシュ・バルブ」と呼ぶらしい。

 

なるほど、これは具合が悪い。そこで「フラッシュ・ライト」の出番となったわけだ。ところが、この「フラッシュ・ライト」という言葉、もともと「懐中電灯」を指す言葉で、日本では、特に強い明るさを持つ、棒状の懐中電灯のことをそう呼んでいるらしい。せっかくの言い換えが、また別の物を指す言葉になってしまっては何の意味もない。分かりやすさからいうと、あまり分かりやすいとはいえないが、辞書にある「閃光電球」をそのまま使うことにした。

 

<His glass eye shone brightly up at me and was by far the most life-like thing about him.>。双葉氏は、「ガラスの目玉は、ぴかぴかと私を見上げていた。それだけが生きている感じだった」と訳している。村上氏は「ガラスの義眼はきらきら光りながら私を見上げていたが、今となってはそれが、彼の中では最も生命を感じさせる部分になっていた」だ。意味としてはどちらも似たようなものだが、<by far>の扱いが忘れられているように思う。最上級をより強調して「遥かに」とか、くだけて言うなら「断トツに」とか訳せる強意が込められているはずなのに、どちらの訳も無視しているように思える。生命がそこから抜け出てしまったガイガーの身体の中で唯一生前と変わらぬ姿をとどめているガラスの義眼。「彼のなかで飛び切り生き生きしているところ」と訳してみた。

 

「一目見て、私が聞いた三発の銃声に外れがないのが分かった」は、原文は<At a glance none of the three shots I heard had missed.>。ここを双葉氏は「一目見て、私が聞いた三発の銃声は、みんな命中しているのがわかった」。村上氏は「一見したところ、私が銃声を聞いた三発の弾は、どれも的を外さなかったようだ」だ。両氏とも同じことを言っているようだが、微妙にちがう。<none of~ missed>で、「一つのミスもなかった」という意味になる。意味としては同じでも、「命中した」と訳すとニュアンスが変わってくる。村上氏は「外す」という否定的な意味のある語を使って、それを再度否定する。そうすることで肯定的な意味が強まるからだ。

 

ただ、<At a glance>を「一見したところ」と訳したことで、「ようだ」という婉曲な断定を意味する助動詞を引き出してしまった。せっかくの強めを割り引いているのが惜しい。なぜなら、その後に続くのが、<He was very dead.>という文だからだ。「彼は完全に死んでいた」という訳は双葉氏と同じ。村上氏も「彼は見事なまでに死んでいた」という最大級の表現を使ってガイガーの死に様を称揚している。そこまでいうなら、語尾に曖昧さを感じさせる「ようだ」は不要だろう。