HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第九章(2)

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《ひげを剃り、服を着、軽い朝食をとり、一時間も経たないうちに、私は裁判所にいた。エレベーターで七階まで上がり、地方検事局員の使っている小さなオフィスの並びに沿って進んだ。オールズの部屋も同じくらい狭かったが彼の専用だった。机の上は吸取器と安っぽいペン・スタンド、彼の帽子と片方の脚だけが載っていた。彼は中背の金髪の男でごわごわした白い眉と穏やかな目、よく手入れされた歯をしていた。通りで見かけるどこにでもいる男のように見えるが、私は彼が九人の男を殺したことを知っている。そのうちの三件は、彼の方が追い詰められていた。相手が追い詰めたと思っただけなのかもしれない。

 彼は平たい錫のケースをポケットに突っ込み、立ち上がった。口にくわえたアントラクテという小ぶりの葉巻を上下に揺らし、頭を少し後ろに傾け、鼻越しにとっくりと私を見た。

「リーガンじゃなかったよ」彼は言った。「調べたところ、リーガンは大男だ。君くらいの背丈でもう少し重い。こちらは若い男だった」

私は黙っていた。

「リーガンはなぜずらかったんだ?」オールズが訊いた。「君はこの件に関与しているのか?」

「そうじゃない」と私は言った。

「酒の密輸から足を洗って大富豪の娘と結婚したばかりの男が、可愛い女と合法的な数百万ドルにさよならして消える――それだけでも充分考えさせられる。何か秘密があるにちがいない」

「まあ、まあ」

「いいんだ。別に答えなくても。気にしちゃいないよ」彼は机を回って、ポケットを指で叩きながら帽子に手を伸ばした。

「リーガンを探してはいない」私は言った。》

 

この段落は比較的分かりやすい。まず、オールズの机の上にあるものだが、<There was nothing on his desk but a blotter, a cheap pen set, his hat and one of his feet.>とある。問題なのが、<blotter>だ。木製で底辺が弧を描いていてそこに吸取り紙が挿めるようになっている。ペンとインクが主流の時代は必携品であった。私も一つ持っているが、今となっては出番がない。時代を考えれば、地方検事局のオフィスに「吸取器」が置いてあっても何の不思議もない。ところが、村上氏は「下敷き」と訳している。小学生がノートに挟むあれではなく、デスク・マットのことだろう。

 

これには首をかしげざるを得ない。まず、普通の辞書には載っていない。検事局のオフィスにあって不思議ではないブロッターは、もう一つある。それは事件を記録した帳簿のことで、<police blotter>という項目がある。これを略したものと考えることもできるが、訪問者のあるオフィスに置いておくのはいかにも不用心だ。オールズの整頓された机にふさわしくない。次に挙げられているのがペン・セットなのだから、吸取り紙でいいのではないだろうか。

 

その<pen set>だが、双葉氏は「安っぽいインク・スタンド」としている。村上氏は「安物のペンのセット」と、こちらはそのままにしている。これを「ペン・セット」としてしまうと、何色もの色を揃えたカラー・ペンとまちがえられそうだ。「ペンのセット」でもまだ危ういのではないか。一昔前の事務用品の一つに、台上に固定されたペン・スタンドとインク瓶がセットになった物があった・双葉氏の言う「インク・スタンド」も同じ物を指すのだろう。今でも銀行などには、ペン軸をボール・ペンに替えた同じ物が置いてある。

 

ブロッターもペン・セットも、どの事務机にもあるお決まりの事務用品だった。チャンドラーは、部屋のインテリアやカラー・コーディネイトにうるさい。部屋の持ち主の性格を読み解く探偵の目線で描いているからだ。ここは、オールズの衒いや飾り気のない性格を示す記述だと受け止めればいいので、どこにでもある事務用品と考えればそれでいいように思う。それにしても、帽子掛け一つないのか、とその殺風景さに驚くばかりだ。もちろん、この部屋が例の「兎小屋」に他ならない。よほど狭いのだろう。

 

「そのうちの三件は、彼の方が追い詰められていた。相手が追い詰めたと思っただけなのかもしれない」は<three of them when he was covered, or somebody thought he was.>。双葉氏は「そのうち三人は彼が追いつめられたときにやったのだ。少なくともそう思われている」。村上氏は「そのうちの三件は、相手に銃で制せられながらのことだ。あるいは彼を制していると、相手が勝手に思っていただけかもしれないが」と、解きほぐして訳している。

 

<cover>には、「人などを銃で狙う、銃砲などが目標を射程内に保つ」という意味がある。「制せられる」という訳語はいかにも生硬だが、相手の側が銃によって優位を保っている状況を表すぴったりの言葉が見当たらないからだろう。たとえば、「狙われた」という語を使っても、後半がうまく訳せない。「相手が狙ったと思っただけ」では「制した」を使った場合にくらべてしまらない。

 

双葉氏はせっかく「追いつめる」という訳語を見つけているのに、後半を「少なくともそう思われている」としてしまっている。<somebody>を仲間の捜査官と解釈したのだろう。ここは、オールズの銃の腕前を見くびって射殺された三人のうちの誰かと解釈したい。それにしても文が簡潔すぎてよほど読み込まないと意味が分からない。村上氏の訳は、ただの訳ではない。精読者のみが読むことのできる域に達している。

 

「アントラクテ」は<Entractes>もとはフランス語で<entr’actes>と思われる。音楽用語の「間奏曲」の意味だろうと思われる。もしかしたら「幕間」の意味のほうがぴったりしているかもしれない。仕事と仕事の間にちょっと一服というのだ。イタリア語なら「インテルメッツォ」か。<a flat tin of toy cigars called Entractes>を双葉氏は「エントラクトという名の小型葉巻の平たい罐(かん)」と訳す。村上氏は「小さな葉巻を入れた平らな金属ケースを(ポケットに突っ込んだ。)アントラクテという名前の葉巻だ」と二文に分けている。

 

<tin>の一語で「ブリキ缶」を意味するので双葉訳の簡潔明瞭なのがよく分かる。<toy cigars>は、「おもちゃの葉巻」ではなく「小さな」葉巻。本物の葉巻なら一本入りのケースが携帯用にある。ここは紙巻き煙草より太めで、長さは同程度の小型葉巻を入れた金属製のケース。オールズは葉巻党なのだろう。帽子をかぶる前に確認するのを忘れないところから見て、出先で吸いたくなる時のために、常時携帯する癖がついているのだ。

 

「リーガンはなぜずらかったんだ?」は、<What made Regan skip out?>。双葉氏は「なぜリーガンだと思ったんだ?」。村上氏は「なんでリーガンは出ていったんだ?」。<skip out>は、「(突然)人を置き去りにする」の意味がある。辞めたとはいえ、元酒の密輸業者なら「ずらかる」あたりがぴったりの訳語だろう。

 

「いいんだ。別に答えなくても。気にしちゃいないよ」は<Okey, keep buttoned, kid. No hard feelings.>。双葉氏は「よかろう。黙っていろよ、おれがしゃべっちまったのを悪く思うなよ」と訳している。ちょっと苦しい訳だ。「おれがしゃべっちまったのを」という要らざる付け加えをしてしまったのには訳がある。<No hard feelings.>は「悪く思うなよ」という意味の常套句。しかし、質問に答えないマーロウになぜオールズの方が「悪く思うなよ」と謝らねばならないのか。その理由を見つけ出さなければならない。それが先の付け加え部分だ。

 

村上氏は「まあいいさ。とぼけてるがいいや。毎度のことだ」とうまく意訳している。<No hard feelings.>の前に<I have>などをつければ「気にしてないよ」の意味になる。つまり、オールズは黙っているマーロウに対し、「別に恨みに思ってはいない」ということを言っているのだ。依頼人に対して守秘義務があることくらい、有能なバーニー・オールズにしてみれば先刻承知。お互い様という意味での「恨みっこなしだ」という訳もアリだ。

『大いなる眠り』註解 第九章(1)

《翌朝はからりと晴れて明るかった。目を覚ますと、口の中に路面電車運転士の手袋が詰まっていた。私はコーヒーを二杯飲み、二社の朝刊に目を通した。アーサー・グイン・ガイガー氏に関する記事はどちらにも見つからなかった。しわをとろうと湿ったスーツを振っていると電話が鳴った。地方検事局主任捜査官のバーニー・オールズだった。スターンウッド将軍を紹介してくれた男だ。

「どうしてる?」彼は切り出した。よく眠り、借金もあまりない男の声だった。

「二日酔いだ」私は言った。

「ちぇっ」彼は気のない様子で笑い、それから彼の声はほんの少しくだけ気味になった。隙のない警官の声音だ。「スターンウッド将軍にはもう会ったのか?」

「ああ、まあ」

「何かしてやったのか?」

「雨が降りすぎた」私は答えた。もしそれが答えになっていたなら。

一家に何事か起きたようだ。家族の一人が所有する、大型のビュイックがリドの釣り桟橋付近に上がった」

私は受話器を壊れるくらい強く握り、息を凝らして待った。

「それがな」オールズはご機嫌だった。「見事な最新型ビュイック・セダンが海水と砂でひどい有様だ……ああ、もう少しで忘れるところだった。中には男が一人乗っていた」

私は聞こえないほど静かに息を吐いた。

「リーガンか?」私は訊いた。

「何だって、誰のことだ?ああ、上の娘が拾ってきて結婚した、もと酒の密売屋か。俺は会ったことがない。そいつは海の底で何をしていたんだ?」

「時間稼ぎはよせ。海の底にいたのは誰だったんだ?」

「俺は知らない。それを見に行くところだ。一緒に行くか?」

「そうしよう」

「急ぐことだな」彼は言った。「俺は、兎小屋にいる」》

 

かつての同僚で今も地方検事局で働くバーニー・オールズとの電話での会話。気のおけない間柄ならではのくだけた会話が楽しい。「目を覚ますと、口の中に路面電車運転士の手袋が詰まっていた」は<I woke up with a motorman’s glove in my mouth.>。双葉氏は「目を覚ますと、口の中が自動車工の手袋をおしこんだみたいだった」と直喩に替えている。村上氏は「口の中には機関車運転士の手袋が一組詰まっていた」と隠喩のままだ。<mortorman>は、自動車工でもなければ機関車運転士でもなく、電車の運転士のことだ。何しろモーターを扱うのだから。村上氏の「機関車」が(電気)機関車であることは十分考えられるが、「機関車運転士の手袋」と書かれると、つい蒸気機関車の方を思い浮かべてしまう。

 

単数か複数かにこだわる村上氏ならではの「一組」の付加だが、ただでさえごわごわして分厚い革手袋だ。果たしてそこまでこだわる必要があるのだろうか。ただし、次の「朝刊二紙に目を通したが」の「二紙」は、あってよい付け加え。その後に<either of them>と出てくるので、「二紙」を書いておかないと、双葉氏のように「どの新聞にも」と訳さなければならなくなる。「どちらにも」とするには前もって二つであることを示しておく必要がある、と村上氏は考えたのだろう。

 

「どうしてる?」と訳したところは<Well, how’s the boy?>。双葉氏は「どうだい?」、村上氏は「やあ、元気かね?」だ。ここは短い挨拶の常套句が多い。<tsk>だとか<Uh-huh>だとか<Yeah>だとかどう訳したらいいのか見当がつかないのもある。辞書を引いてうまくあてはまりそうな訳を試みた。順に「ちぇっ」、「ああ、まあ」、「それがな」。双葉氏のそれは「ちぇっ」、「うふう」、三つめは略している。村上氏になると、「ははあ」、「まあね」、「そうなんだ」だ。どうでもいいようなところだが、二人の親しさがどれくらいのところかが分かるようにはしておかなければいけないと思う。

 

「彼は気のない様子で笑い、それから彼の声はほんの少しくだけ気味になった。隙のない警官の声音だ」は<He laughed absently and then his voice became a shade too casual, a cagey cop voice.>だ。オールズの声は、実際のところどのように変化したのだろう。双葉氏の訳は「彼は気が乗らない調子で笑ったが、ひどく親しそうな、警官十八番の猫なで声になった」。村上氏は「彼はおざなりに笑い、それからいかにもさりげない、抜け目のない警官の声音になった」。「警官十八番の猫なで声」と「抜け目のない警官の声音」では、いささか異なるような気がする。

 

<a shade>には「わずかに、少し」の意味がある。<too casual>の方は、カジュアルすぎる、というそのままの意味だ。それが<cagey>な警官の声ということになるのだが、<cagey>には「遠慮がちで、はっきり言わない」という意味と「用心深い、抜け目のない」の二つの意味がある。警官につけるとなると後者の方だろう。親しさを装って相手から情報を聞き出そうという、いかにも警官らしい声ということになる。両氏の訳で問題はないのだが、どちらにせよ<a shade>のニュアンスが落ちている気がする。

 

オールズは、まずは無難な挨拶から入り、やがて本気モードに切り替えたのだろう。その切り替えを大きく変化させるのではなく、「ほんの少し」カジュアル過ぎる口調に変えた。マーロウにはそれが手に取るように分かる。このあたりに二人の付き合いの長さがあらわれている。それは、マーロウについても同じことが言える。だから、息を凝らしたり、息遣いが聞こえないように注意して息を吐いたりしているのだ。優秀な二人の捜査官の心理戦である。

 

「雨が降りすぎた」は<too much rain>。双葉氏は「雨が多すぎたよ」、村上氏は「雨が強すぎた」だ。どれをとるにせよ、答えにはなりそうもない。マーロウのはぐらかしである。オールズもそんなことは先刻承知で、即用件に入る。オールズの告げたのは<They seem to be a family things happen to. A big Buick belonging to one of them is washing about in the surf off Lido fish pier.>。「リドの釣り桟橋付近に上がった」のところを、双葉氏は「リドの漁船波止場の先の海岸で発見されたんだ」、村上氏は「リドの魚釣り用桟橋近くに打ち寄せられていた」と訳している。<wash about>は、「(液体の中でのように)漂う」だ。村上氏の「打ち寄せられていた」は、その辺の感じをうまく伝えている。

 

「私は聞こえないほど静かに息を吐いた」は<I let my breath out so slowly that it hung on my lip.>。双葉氏は「私はおさえた息をゆっくり吐き出した。くちびるにひっかかってとまるほどゆっくりだった」としている。一見すると直訳に近い、こちらのほうが正しく思える。では村上氏はどう訳しているのか。「私は相手に聞こえないくらい静かに息を吐いた」だ。どうしてこんな訳になるのだろうか?

 

<so~that>構文だから、ふつう程度を表す「たいへん~なので…だ」と訳すことになる。双葉氏は文字通り「ゆっくり」の程度を「くちびるにひっかっかてとまるほど」ととった。村上氏は「静かさ」の程度を「相手に聞こえないくらい」と取ったわけだ。どうなんだろう。実は<hang on someone’s lips>には「人の言うことに耳を傾ける」の意味がある。村上氏は、この用法を知っていて、こういう訳を思いついたのではないだろうか?

 

息せき切って言うのではなく、「私の言うことがよく聞こえるくらい静かに私は息を吐いた」。相手が聞きまちがえないように、自分の吐く息を抑えながら「リーガンか?」と訊いたのだ。なるほど、と思いながら一つ疑問が残る。ならば、どうして<lip>と単数にしているのだろうか。言葉を話すためには唇は二枚必要だ。一枚だけなら上唇か下唇かのどちらか一方を意味する。唇をかみしめたり、突き出したりする場合なら<lip>もありだ。そう考えると、双葉氏の訳が案外正解なのではないか、という気もしてくるのだが。

 

「そいつは海の底で何をしていたんだ?」は<What would he be doing down there?>。双葉氏は「あんな海岸で何をしてたんだろうな?」。村上氏は「その男が海の底で何をしていたんだ?」。原文のどこにも海についての言及はないのだが、< down there>にある「下方」の意味を持つ訳語がなかなか出てこないので、つい陸より下方にある「海」という単語に頼ることになる。はじめは「そんなところで」と訳してみたのだが、次のマーロウの科白にうまくつなげることができなかった。

 

それが<Quit stalling. What would anybody be doing down there?>。<he>を<anybody>に入れ替えるだけで、そのまま相手の言葉を使って問いを投げ返している。「時間稼ぎはよせ。海の底にいたのは誰だったんだ?」と訳してみた。双葉氏は「とぼけるのはよせよ。誰が何のためにそんなところへ行ったんだ?」と、訳している。この訳が最もぴったりしているのではないか。村上氏は「おとぼけはよせよ。中にいたのは誰だ?」と直截的だ。マーロウの気持ちはよく分かるようになったが、マーロウの返事がオウム返しになっているところが消えてしまっている。

 

「俺は、兎小屋にいる」は<I’ll be in my hutch.>。双葉氏はこれを「おれのぼろ車で行く」と訳しているがどうなのだろう。<hutch>は「ウサギ小屋」や「檻」を意味するが、欧米人が日本人の住居を「ウサギ小屋」と呼ぶことから分かるように、居住空間の狭小さをからかうときに使う常套句だ。村上氏は「俺はこのつつましいオフィスにいるからな」と、かみ砕いて訳すことで、謙遜の感情を表現しているが、もっと強い「自己卑下」を表しているととりたい。マーロウはそこを出て、一国一城の主だが、自分はまだ宮仕えの身という立場の違いを皮肉っているのだろう。同僚だったころオフィスのことを<hutch>と呼んでいたのかもしれない。

『大いなる眠り』註解 第八章(4)

《それは警官ではなかった。警官なら今頃まだここで、死体の場所を示す紐やチョーク、カメラ、指紋採取用粉末、安葉巻などを手に動き回っている最中だ。人っ子一人いないではないか。殺人犯でもない。彼の逃げ足は速かった。彼は娘を見たにちがいないが、自分をしっかり見るには頭がいかれていたことは知りもしない。今頃は遠くに行っていることだろう。うまい答えを思いつかないが、ガイガーが殺されることより姿を消す方を誰かが望んでいたのなら私にとって都合がいい。カーメン・スターンウッドの名前を出さずに調査をする機会が与えられたわけだ。私はもう一度鍵をかけ、チョークを引いて車を甦らせ、家に帰った。シャワーを浴び、乾いた服を着て遅めの夕食をとった。そのあと、アパートのあちこちに座っては多過ぎるほどのホット・トディを飲み、ガイガーの青い索引付きノートにあった暗号を解いてみた。おそらく顧客のものと思われる名前と住所のリストだ。四百を超えていた。いい商売だ。強請の手段であることは言うまでもない。おそらく多くが使われただろう。リスト上のどの名前も殺人犯の可能性がある。それを手渡された警官の仕事を羨む気にはなれない。

 私はたっぷり飲んだウィスキーと満たされない思いを抱いてベッドに行った。そして夢を見た。血まみれの中国服の男が細長い翡翠のイヤリングをした裸の娘を追いかけている間、私は写真を撮ろうと追いかけていたが、手にしたカメラは空だった。》

 

マーロウが推理を披歴しているところ。ひねくった文章が並んでいて訳すのが厄介だ。まず、<They would have been very much there.>をどうするか。<They would have been>という「仮定法過去」を表す文が二回繰り返して用いられている。「もし過去が実際とちがっていたら……」というのが「仮定法過去」。しかし一度起きてしまったことは変わらないから、書いてある諸々の事象は実際には起きていないことになる。

 

つまり、「(もし、ガイガーの死体を運び去ったのが)警官なら今頃まだここで、死体の場所を示す紐やチョーク、カメラ、指紋採取用粉末、安葉巻などを手に動き回っている最中だ」というのは、マーロウの頭の中だけにある、本当はありえない光景である。では、その後に来るもう一つの「仮定法過去」である<They would have been very much there.>を、両氏はどう訳しているのか。

 

双葉氏は素直に「人数も多いだろう」としている。村上氏は「これほど素早く引き上げるはずがない」と、大胆な意訳を試みている。「仮定法過去」を使う場合、言外に意味があるので、そのまま訳しては芸がない。(もし警官がそんなことをやっているとしたら、さぞかし)「人数も多いだろう」という意味だが、言外にあるのは「実際は誰もいない」ということが言いたい訳だ。そこで、「人っ子一人いないではないか」と訳してみた。

 

「チョークを引いて車を甦らせ」は<choked my car to life>。プロレスなどでもよく使う<choke>は「窒息させる」の意味だ。エンジン内に入る空気を少なく(窒息)することで、ガソリンの混合比率が高まり、燃焼率が上がることから、エンジンが冷えた状態の車のスタート時にチョーク・レバーを引くことは、一昔前にはよくあった。今では自動化されていて、レバー自体が存在しない。双葉氏の時代でも「車にエンジンをかけて生き返らせ」としている。村上氏に至っては「車のエンジンをスタートさせ」だ。夜の雨で冷え切った車は簡単にエンジンはかからない。ここは「チョークを引いて車を甦らせ」てやりたいところだ。

 

「そのあと、アパートのあちこちに座っては多過ぎるほどのホット・トディを飲み、ガイガーの青い索引付きノートにあった暗号を解いてみた」は<After that I sat around in the apartment and drank too much hot toddy trying to crack the code in Geiger’s blue indexed notebook.>。「ホット・トディ」は、ウィスキーなどに甘味料とレモンを加え、湯で割った飲み物。風邪に効くという触れ込みの冬用飲料。案の中を歩き回ったマーロウだ。風邪予防も考えていつものライ・ウィスキーではなく、温かいものが飲みたかったのだろう。

 

双葉氏は「ホット・ウイスキー」としている。村上氏は「ホット・トディー」。実は調べてみて分かったのだが、「ホット・トディ」が某局の朝ドラに登場したことがあるらしい。スコットランド生まれの女性が国産ウイスキーを作ろうと奮戦中の日本人の夫に飲ませるために作ったものだ。実は毎朝視聴していたはずなのにすっかり忘れてしまっていた。それなら、耳慣れない飲み物でも訳注なしでいけると踏んだのだ。

 

めずらしいことに村上氏はここを「それから座って、ガイガーの索引付きの青いノートブックに記された暗号を解こうとして、ホット・トディーを飲みすぎることになった」と訳している。<around in the apartment >を訳さずに済ませている。双葉氏は意訳して「それからのんびりとくつろぎ、ホット・ウイスキーを飲みながら、ガイガーの青い帳面の暗号を解きにかかった」としている。まあ、細かいところをカットするのはいつものことだが、<too much>は、後でもう一度言及されることになる。

 

<I didn’t envy the police their job when it was handed to them.>をどう訳すか?<envy>は「羨む、嫉む」の意味である。双葉氏は「この名簿を警察に渡したら、いろいろなことをたぐり出すだろうが、そんな仕事はちっともうらやましくない」と意を尽くして訳している。村上氏はどうだろう。「そのノートが警察に渡ったときのことを考えると、警官たちに同情しないわけにはいかなかった」と、こちらもその意を汲んで訳している。「それを手渡された警官の仕事を羨む気にはなれない」は、ほぼ直訳。ここは両氏のように解きほぐして訳すのが本当かもしれない。

 

「私はたっぷり飲んだウィスキーと満たされない思いを抱いてベッドに行った」と訳したところは<I went to bed full of whisky and frustration>。双葉氏は「私はウイスキーに満腹して、ベッドに入った」。村上氏は「私はしこたまウィスキーを飲み、晴れない心でベッドに入った」だ。双葉氏は相変わらずフラストレーションを無視している。村上氏は「晴れない心」と文学的。雨に打たれたことを皮肉っているのかもしれない。風邪の予防も兼ねて飲んだホット・トディの中に入っていたウィスキー。お湯割りということもあり、飲みすぎたのだろう。酒量の多さに比べて分かったことが少なすぎ、マーロウの心はフラストレーションの塊だろう。悪夢に悩まされるのももっともだ。

『大いなる眠り』註解 第八章(3)

《急いで歩いたので半時間をいくらか過ぎたくらいでガイガーの家に到着した。そこには誰もいなかった。隣の家の前に停めた私の車以外、通りに一台の車もなかった。車はまるで迷子の犬のようにしょんぼりしていた。私はライ・ウィスキーの瓶を引っ張り出して瓶に残っていた半分を喉に流し込み、中に入って煙草に火をつけた。半分ほど吸って投げ捨て、車から出ると再びガイガーの家まで降りて行った。ドアの鍵を開けて足を踏み入れ、まだ少し暖かい暗闇の中に立って、床に滴を滴らせながら、雨の音に聴き入っていた。私は手探りでフロア・スタンドの明かりをつけた。

 最初に気がついたのは、刺繍を施した絹の布が二枚、壁から消えていたことだ。何枚か数えはしなかったが、剥き出しにされた茶色の漆喰壁に目立つ痕跡から明らかだった。私は少し離れたところまで行き、もう一つのフロア・スタンドをつけた。トーテムポールを調べてみた。その足もと、中国段通が途切れた向こうの剥き出しの床に別の緞通が広げられていた。それはさっきまでそこになかった。ガイガーの死体があったのだ。ガイガーの死体が消えていた。》

 

<I made it back to Geiger’s house  in something over half an hour of nimble walking.>を双葉氏のように「私は三十分以上も早足で歩き、やっとガイガーの家へ引き返した」と取るか、村上氏のように「急ぎ足で歩いても、ガイガーの家に着くまでに半時間以上はかかった」と取るか、どっちがいいのだろう。どっちでも意味は変わらないが、微妙にニュアンスがちがう。

 

「刺繍を施した絹の布が二枚」は<a couple of strips of embroidered silk>。双葉氏は「絹の」を書き忘れたか省略したか「刺繍の布が二枚」とだけ記している。村上氏は「刺繍入りの絹布が二枚」だ。第七章の初めにガイガーの部屋の中の様子が詳細に説明されてたが、「使用前、使用後」のように使うつもりで、あれほど詳しく書いたのだな、と改めて気づかされた。ハード・ボイルドといっても探偵小説であることに変わりはない。細部をしっかり詰めておかなければ、後で泣きを見るのだ。

 

《それが私を凍りつかせた。私は唇を歯に引き寄せ、トーテムポールのガラスの眼に流し目をくれた。私はもう一度ガイガーの家をくまなく調べた。すべては正確に前のままだった。ガイガーは縁飾りのついたベッドにも、その下にも、クローゼットの中にもいなかった。台所にも浴室にもいなかった。廊下の右側の鍵がかかった部屋が残っていた。ガイガーの鍵束の一つがぴったり合った。部屋の中に興味は引かれたが、ガイガーがいた訳ではない。何が興味を引いたかといえば、他のガイガーの部屋とは様子がちがっていたのだ。ひどくがらんとした男性的な寝室だった。磨きのかかった木の床に、インディアン風の柄の小さな敷物が二枚。肘掛けのない背もたれがまっすぐな椅子が二脚。暗い木目調の鏡付きの寝室用箪笥には男性用化粧道具のセットと黒い蝋燭が二本、高さ三十センチほどの真鍮製の燭台に立てられていた。ベッドは狭く硬そうで、栗色の更紗のカバーが掛かっていた。部屋は冷えていた。私はまた鍵をかけ、ドアノブをハンカチで拭い、トーテムポールまで戻った。私は床に膝をつき、緞通の毛羽に沿って玄関のドアまで目を凝らして見た。私には二本の平行な窪みがそちらを指しているように見えた。まるで踵を引きずったあとのように。誰がしたにせよ大仕事だ。死体は傷心より重い。》

 

「それが私を凍りつかせた。私は唇を歯に引き寄せ、トーテムポールのガラスの眼に流し目をくれた」は、<That froze me. I pulled my lips back against my teeth and leered at the glass eye in the totem pole.>。双葉氏は「それが私をぞっとさせた。私はくちびるをひきしめ、木像の中のガラスの目玉をにらんだ」。村上氏は「体が凍りついた。唇を噛み、トーテムポールのガラスの瞳を横目で見た」。めずらしく村上氏の文が短い。

 

<I pulled my lips back against my teeth>を直訳すれば「唇を歯に引き寄せる」だが、どういう表情なのか、その時の感情が分からないと意訳のしようがない。両氏とも、緊張感を表す表現になっているが、その後の<leered>(いやらしい目つきで見る、横目でにらむ)との結びつきがもう一つ分かりにくい。ガラスの眼を見たのは、「お前は誰がやったか見ていたんだろう?」という意味にちがいない。だとすれば、共犯者を見るような目で見たということだろう。木像では脅しつけて聞き出すこともできない。そういう無念さとあきらめがまじったような気持ちのとき、唇はどう動くものだろうか。

 

「インディアン風の柄の小さな敷物が二枚」は<a couple of small throw rugs in an Indian design>だ。<throw rug>で「小型の敷物」の意味がある。思い出したのは、『ツインピークス』にもよく出てきた「ペンドルトン」だ。ここでいう<Indian design>は、あれを指しているのではないか。とすれば、「ラグ」でもいいのでは、と思ったが、そうすると今までの<rug>を「緞通」と訳してきたこととの整合性がとれない。こういう時は、辞書に出てきた言葉通りに書いておくに限る。

 

「暗い木目調の鏡付きの寝室用箪笥」は<a bureau in dark grained wood>だ。「ライティング・ビューロー」などで使われてはいるが、「ビューロー」だけだと今一つ認知度が低い。ここも辞書の用語をそのまま使っている。双葉氏は「黒っぽい大机」、村上氏は「濃い木目塗りの鏡付きチェスト」としている。厳密にいえば「チェスト」と「ビューロー」は別物だが、「チェスト」の方が分かりよいと考えられたのだろうか。

 

「高さ三十センチほどの真鍮製の燭台」は<foot-high brass candlesticks>。双葉氏は「高い脚の燭台」としているが、<foot-high>は「一フィート」の意味だ。村上氏はこういう時メートル表記に変えて訳す。原文尊重でいきたいところだが、「一フィート」のままでは伝わりにくい。ここは原則を曲げてセンチメートルで表すことにした。

 

「死体は傷心より重い」としたところは<Dead men are heavier than broken hearts>。双葉氏は「死体は弱い心臓では扱えない重さだ」としている。村上氏は「いかに心が破れようと、死体はそれにも増して重いものだ」だ。チャンドラー得意の箴言風の決め台詞。ここはあえて一般的に訳す方がいいのではと思う。<broken heart>は失恋の痛手などをいう常套句だ。その気分はきっと重いにちがいない。だが、心理的なそれに比べ、物理的な重さはその比ではない、という意味である。村上氏の訳はその意味だろうが、アフォリズムのピリッとした感じがない。<dead men>と<broken hearts>の二語に対し、「死体」、「傷心」の二文字を充てた。

『大いなる眠り』註解 第八章(2)

《雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった。樹々から小止みなく滴り落ちるしずくの下を抜け、薄気味悪いほど広大な敷地に建ついくつかの豪壮な邸宅の窓に灯りが差す前を通り過ぎた。軒やら破風やら窓灯りやらのぼんやりとしたかたまりが丘の高いところに見えた。遠く離れて近寄り難い、まるで森の中にある魔女の館のように。無駄にまぶしい明かりに照らされたガソリン・スタンドがあった。白い野球帽にダーク・ブルーのウィンドブレイカー姿の係員が背中を丸めてスツールに腰かけ、曇ったガラスの内側で退屈そうに新聞を読んでいた。私は中に入りかけ、それから歩き続けた。私はすでにぐっしょり濡れそぼっていた。こんな夜にタクシーを待ってたら髭が伸びてしまう。また、タクシー運転手はよく覚えているのだ。》

 

ここも難儀した。ある種の名文なのだろう。探偵小説の淵源たるゴシック・ロマンスの雰囲気を濃厚に漂わせる。「雨が降りしきるカーブした通りをうねうねと十ブロックほど下っていった」と訳した箇所、原文は<Ten blocks of that, winding down curved rain-swept streets,>だ。双葉氏の訳を見てみよう。「曲がりくねった下り坂を十ブロックほど」と、長文の途中に挿入句として入れている。<curved rain-swept streets>は、あっさりカットされている。村上氏はどうだろうか。「雨に洗われたカーブした道路を、十ブロックばかり下った」だ。

 

<curved rain-swept streets>は「雨に洗われたカーブした道路」でも「雨が降りしきるカーブした通り」でも、さほど変わりはない。後者の方が、今雨が降っているという感じが強いところがちがうだけだ。<winding down>を双葉氏は「曲がりくねった下り坂を」という意味にとっているが、村上氏は「下った」と、訳している。では<winding>はどう処理されたのか。「カーブした道路を」下るのだから同じことを二度繰り返すこともない、とカットしたのだろう。

 

<winding>はビートルズの歌にも出てくる。『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』だ。「曲がりくねった」と訳されるのは<road>(道)を修飾する形容詞として使われることが多いからだ。<winding down>と使われた場合、「~をうねうねと下っていく」の意味になる。この「うねうねと」がないと、曲がりくねった下り坂を降りる感じがよく伝わらない。何しろ十ブロックもあるのだ。大きく湾曲しているのではない。九十九折りの坂道である。

 

「遠く離れて近寄り難い」は<remort and inaccessible>。双葉氏は完全にカットしている。村上氏は「それは遥か遠くにある手の届かないものに見えた」と逆に長い。原文はゴシック調の六行に渡る長い一文の後に、改行なしに突然来るのが「無駄にまぶしい明かりに照らされたガソリン・スタンドがあった」だ。双葉氏は原文同様改行なしに続けているが、村上氏は改行している。

 

その気持ちはよく分かる。文の情調というものがまったく異なるのだ。まるで、ギュスターヴ・ドレの版画の後に、エドワード・ホッパーの絵をくっつけたようなものだ。雨夜のガソリン・スタンドの光景だが、双葉氏は<stool>を「床几」と訳している。いくらなんでもアメリカ西海岸に床几はない。今となっては「床几」と訳されても読者には通じない。村上氏もそうしているように片仮名書きでいいだろう。

 

マーロウは、電話でタクシーを呼ぼうと考え一度中に入りかけるのだが、双葉氏は<I started in,then kept going.>を「私は歩きつづけた」と前半を訳さないで済ましている。これだと、次の「もう、ぬれられるだけぬれていた」が、うまく続かない。村上氏は「私は中に入りかけたが、思い直してそのまま歩き続けた」と、マーロウの内心まで付け加えて訳している。丁寧な訳であることはまちがいないが、今度は小さな親切が大きなお世話と受け止めれるおそれがある。なぜなら、その短い文に続けて、マーロウは自分の考えを吐露しているからだ。<I was as wet as I could get already.>と。

 

今さらタクシーを呼んでもずぶ濡れの体はどうにもならない、と思い直したのだ。それに、人通りのない場所だけに流しのタクシーも通らない。電話で呼んでも時間のかかる場所にいる。皮肉の一つも出ようというものだ。<And on a night like that you can grow a beard waiting for a taxi.>。タクシーを待っている間に髭が伸びる、というのはいかにもマーロウらしい科白だが、次の<And taxi drivers remember.>というオチがよく分からない。双葉氏はこう解釈している。「運転手仲間も、客の覚悟を心得ているので、やって来ない」。

 

村上氏はちょっとちがって、「それにタクシーの運転手というのは記憶力がいい」だ。なぜ、ここに運転手の記憶力の良し悪しが出てくるのだろう。もしかしたら第六章でマーロウを怒鳴りつけた<motorman>のことを思い出しているのだろうか?もっとも、<motorman>は、路面電車などの運転士を指すらしいから、敵に回した多くの車の中にタクシーがあったのかもしれない。そう取れば意味は通じるのだが、どんなものだろう。自分でも納得のいかない訳だが、「また、タクシー運転手はよく覚えているのだ」と、しておいた。チャンドラーが生きていたら、質問したいところである。

『大いなる眠り』註解 第八章(1)

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《スターンウッド邸の通用口には鉛枠のついた細い窓があり、その向こうに薄暗い灯りが見えた。パッカードを車寄せの屋根の下に停め、ポケットの中の物をすべてシートの上に出した。娘は隅でいびきをかいていた。帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり、両手は巻きつけたレインコートからだらりと垂れ下がっていた。私は車から出てベルを鳴らした。足音がゆっくり近づいてきた。まるで長く荒涼とした距離を歩いてくるかのように。扉が開き、真っ直ぐに立った銀髪の執事が私を注視した。玄関ホールからの灯りが彼の髪を光輪のように包んだ。

彼は「グッド・イブニング、サー」と丁重に言い、私を通り越してパッカードを見た。彼の視線が戻り、私の目を見た。

「ミセス・リーガンはお見えかな?」

「ノー、サー」

「将軍はもうお休みだろうね。だといいのだが」

「はい。宵の口にお休みになるのがいちばんですので」

「ミセス・リーガンのメイドはどうかな?」

「マチルダですか?彼女ならおりますが」

「ここに呼んだ方がいいだろう。女手のいる仕事があるんだ。車の中をのぞいたら君も訳が分かる」

彼は車の中を見て帰ってきた。「よく分かりました」彼は言った。「マチルダを呼んで参ります」

「マチルダが彼女の世話をしてくれるだろう」私は言った。

「私どもは皆、彼女のお世話をするよう、つとめております」彼は言った。

「慣れているんだな」私は言った。

彼はそれを受け流した。「お休み」わたしは言った。「あとは君に任せたよ」

「かしこまりました。タクシーをお呼びいたしましょうか?」

「もちろん」私は言った。「いらない。私は本当のところ、ここにいない。まさに君が見ている通りに」

彼は微笑した。それから私に軽く頭を下げた。私は踵を返し、ドライブウェイを歩いて、門の外に出た。》

 

最初の一文は、<There was dim light behind narrow leaded panes in the side door of the Sternwood mansion.>。「通用口」と訳したのは、<side door>だ。村上氏はこれを「邸宅の横にある通用口」としている。これでは<side>を二重に訳していることになる。双葉氏の方は「スターンウッド邸の通用口の厚いドアの後ろには」とやっている。<narrow leaded panes in the side door>をどう訳したら「厚いドア」になるのか分からない。しかもこちらも「ドア」を二重に訳している。面倒くさかったのだろうか。いくら大邸宅でも通用口に厚いドアを取り付けたりしないと思うが。採光用の窓であり、夜ともなれば使用人の有無を知る用途を持つのだろう。用心のために鉛製の枠がついた細い窓なのだ。

 

「車寄せの屋根の下に停め」と訳したのは<under the porte-cochere>。屋根のついた車寄せだ。村上氏はいつものように、「屋根のついた車寄せに停め」と辞書のまま使っている。日本のカーポートじゃあるまいし、わざわざ車寄せに屋根をつけたりはしない。これは屋敷の一部として玄関にまで続いたひさしの部分だ。大邸宅の場合ポルチコ状に柱のついたものも多い。双葉氏のように「車よせにとめ」でもいいところだが、その前に<under>がついているのが曲者だ。そこで「車寄せの屋根の下に停め」として<under>を生かした。

 

それに続く「娘は隅でいびきをかいていた。帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり、両手は巻きつけたレインコートからだらりと垂れ下がっていた」の原文は<The girl snored in the corner, her hat tilted rakishly over her nose, her hands hanging limp in the folds of the raincoat.>。双葉氏は「彼女はすみっこでいびきをかいていた。帽子は鼻の上にかぶさり、手はレインコートのポケットの中でぐにゃりとしていた」。村上氏は「娘はいびきをかいていた。帽子は傾いて鼻の上にかかり、両手はだらんとレインコートの折り目の中に垂れていた」だ。

 

初めの文。村上氏はなぜか<in the corner>を訳していない。読み飛ばしたのだろうか。実は村上氏、自分の訳文を柴田元幸氏にチェックしてもらうのだが、早川書房から出すものについては、社の担当者に任せている、と別の本で語っている。盟友柴田氏なら、「ここはどうして訳さなかったの?」とか訊けるのだろうが、早川の担当者の年齢は知らないが、この程度ならわざわざ質問するには及ばないと見過ごしたのかもしれない。村上氏はこういうところをきっちり訳さないと気が済まない訳者だ、と私は思っている。

 

次の帽子の件。<rakish>は「傾いた、斜めの」の意味があるが、<rakishly>には「放蕩者の」のように「不品行な態度で」の意味があり、転じて「粋な、ハイカラな」の意味がある。たしかに、ここで娘に意識はないので粋がってやったわけではないが、帽子を傾けて鼻まで下ろす格好は、ギャング映画などでよく見かける。昔の日活なら宍戸錠がよくやってみせたポーズだ。両氏とも、その意には採らなかったようだが、単に「傾ける」だけなら<tilted>ですでに意は尽くされている。その意を汲んで「帽子は洒落て傾げたように鼻にかかり」と訳してみた。もっといい訳があると思うが、検討中である。

 

最後の文も相当におかしい。双葉氏の「手はレインコートのポケットの中でぐにゃりとしていた」もそうだが、村上氏の「両手はだらんとレインコートの折り目の中に垂れていた」もイメージがどうにも湧いてこない。ポケットの中の手がぐにゃりとしてるというのはどういうことか。あるいは、折り目の中に、垂れているというのは?<folds>を双葉氏は「ポケット」と思ったようだが、これはまちがい。普通は、折り畳んだ、襞のような物を意味する。そこから村上氏のような訳が出てくるのだが、よく思い出してみよう。マーロウは娘にコートを着せたのではない。ただ、巻きつけたのだ。ここは、「(縄などの)一巻き」の意味にとった方が分かりやすい。

 

執事の挨拶は、お定まりの<Good evening, sir,>。これを双葉氏のように「今晩は」と訳してしまうと最後につけた「サー」がどこかに飛んでしまう。朝ならいいのだ。「お早うございます」というふうに、語尾に「ございます」という敬語がくっつくから。ところが、「今晩は」には敬語がつかない。かといって「今晩は。旦那様」と訳すのも大仰だ。最後につける「サー」は、いわば決まりのようなもので、いちいち訳すには及ばない。さて、どうしたものか、というので村上氏は訳さずにすますことにしたのだろう。

 

「グッド・イブニング、サー」とそのまま書いても日本人にも通用するのは、これが使用人が使うお決まりの挨拶用語だからだ。ところが、やはり、否定を表すお約束の<No, sir.>の方は。村上氏、「いいえ、サー」と訳している。次も「ノー、サー」としたのでは、翻訳家としては忸怩たるものがあったのだろうか。こちらは素人なので思い切って「ノー、サー」とやってしまった。この程度は許されるのではないだろうか。因みに双葉氏は、ちゃんと「おるすでございます」と敬語をつけて「サー」の敬意を表現している。これが一般的な訳だろう、とは思う。しかし、それなら「今晩は」で済ますのはどうか、という気持ちが残る。敬語の扱いは難しいのだ。

老練の執事とマーロウとの丁々発止のやり取りが面白い。

「マチルダが彼女の世話をしてくれるだろう」私は言った。

「私どもは皆、彼女のお世話をするよう、つとめております」彼は言った。

のところは原文では次のようになる。

“Mathilda will do right by her, ” I said.

“We all try to do right by her, ” he said.

つまり、類似する形を使って対句表現をやっているわけだ。

 

双葉氏は<「マチルダにまかせればいい」私は言った。「私どもはみんなまかせることにいたしております」>と訳す。村上氏は<「マチルダが彼女の面倒を見てくれるね」私は言った。「我々は全員、お嬢様の面倒を見るべく務めております」と彼は言った。>だ。ちがいが分かるだろうか。双葉氏は<by her>をマチルダと捉えている。それに対して村上氏はカーメン嬢だ。<by>ひとつでこれほど訳が変わってしまう。ここのそれは「~に対して」の意味だろう。直訳すれば「マチルダは彼女に対して正しいことをするだろう」だ。執事の発言は「我々は皆、彼女に対して正しいことをしようと試みています」だ。雇い主に対する執事の微妙な表現に妙味がある。どうしようもない馬鹿娘だが、雇い主のお嬢様である。使用人としては正しく接するよう努力するほかないではないか。

 

<「もちろん」私は言った。「いらない。私は本当のところ、ここにいない。まさに君が見ている通りに」>のところ、原文は<“Positively” I said. “ not. As a matter of fact I’m not here. You’re just seeing things.”  >。双葉氏は<「絶対にいかん」私は言った。「ぼくはここへ来なかったんだぜ。君は何かほかのものを見てるんだ>。村上氏は<「いや、不要だ」と私は言った。「実のところ、私はここにいない。君は幻を見ているだけだ」>。

 

娘の不祥事をなかったことにして済ませようというマーロウの心遣いだ。あれだけのことを時間をかけてやり遂げたのだから、ご褒美にありついたって罰は当たらないだろうに。ちょっと格好をつけすぎるのがマーロウの悪い癖。両氏のように訳すのが読者にとっては親切なのだろうが、あえて、語順のままに訳してみた。執事を話の分かる男と見て言ったマーロウの科白だ。あえて、「ほかのもの」とか「幻」とか、作者の使わなかった言葉を使う必要はないと思う。執事も読者もそれで分かると思うのだ。

『大いなる眠り』註解 第七章(8)

《私は部屋の裏にある廊下に入って家の中を調べた。右側に浴室が、背面に鍵のかかったドアと台所があった。台所の窓はこじ開けられていた。網戸はどこかに消えており、留め金が引き抜かれた痕が見えていた。裏口のドアは鍵が掛かっていなかった。それは放っておいて廊下の左側にある寝室を見た。小ぢんまりとして、細部にこだわりがあり、女っぽかった。ベッドには襞飾りがついたカバーが掛かっていた。三面鏡付きの化粧台には香水が置かれ、ハンカチの横には散らばった小銭、男性用のブラシ、キーホルダーがあった。クローゼットには男物の衣服が掛かり、ベッドカバーの縁の襞飾りの下には男物のスリッパがあった。ガイガー氏の部屋だ。私はキーホルダーを手に居間に引き返し、机の中を調べた。抽斗の奥に鍵のかかったスチール製の箱があった。キーホルダーにあった鍵の一つを使って開けた。青い革装本が入っているだけだった。索引になっていて、暗号で多くの書き込みがある。スターンウッド将軍宛の手紙にあったのと同じ傾いた活字体だった。私はそのノートをポケットに突っ込み、スチール製の箱の私が触ったところを拭いた。机に鍵をかけ、キーをポケットに入れ、飾り丸太のついた暖炉のガス栓を閉め、コートに身を固めるとミス・スターンウッドを起き上がらせようとした。だが、できなかった。彼女の頭にヴァガボンドハットをかぶせ、体にコートを巻き付けて彼女の車まで運んだ。私は引き返し、すべての灯りを消し、玄関ドアを閉め、彼女のバッグを探ってキーを見つけると、パッカードをスタートさせた。我々はライトを点けずに丘を下った。アルタ・ブレア・クレセントまで十分もかからなかった。カーメンはその間いびきをかき、エーテルの匂いのする息を私の顔に吹きかけていた。私は彼女の頭を肩から離すことができなかった。膝の上で寝られないためにはそうするしかなかったのだ。》

双葉氏が「広間」と訳している<hall>だが、部屋の裏に広間があるというのは変だ。村上氏は「廊下」だ。アメリカでは<hall>は「廊下」を意味するらしい。各部屋間をつなぐ連絡通路のようなものだ。右手にあるのは<bathroom>。双葉氏も浴室と訳しているが、村上氏は「洗面所」だ。<bathroom>もアメリカではトイレを指すらしい。日本でも「洗面所」はトイレの意味でも使われる。ただ、浴室とトイレが仕切られていることの多い日本の場合「洗面所」というとシンクの上に鏡がついたものを思い浮かべてしまう。

だいたい、日本の住宅とアメリカのそれでは、靴を脱ぐ脱がないというところから大きく異なっている。いっそ「バスルーム」のままにするのも手だ。そうすると、次の<kitchen>も「台所」ではなく「キッチン」ですむ。ぬか味噌臭くなくていいではないか。だとすると、<hall>も「ホール」でいいような気がしてくる。一度妥協すると、とめどなくカタカナ語が増えてしまう。やはりどこかで歯止めをかけなくてはいけないのかもしれない。

「小ぢんまりとして、細部にこだわりがあり、女っぽかった」の原文は<It was neat, fussy, womanish.>。双葉氏は「小ぎれいで、女性的な部屋だった」。村上氏は「小綺麗で、ちまちまして、いかにも女性的だった」。形容詞が三語、畳みかけるようにして使われている。最初の<neat>は、小ざっぱりと、整った、というような肯定的な意味だが、二つ目の<fussy>は、「念の入った」とか「凝った」とか必要以上にこだわりがあることを貶めて言う言葉だ。最後の<womanish>も、そのまま読めば、確かに「女性的」という意味になるが、その前に(男が)をつけて読む必要がある。「柔弱な」、「女々しい」というニュアンスが付きまとった「女性的」なのだ。女性に対して誉め言葉で「女らしい」の意味で使う場合は普通<feminine>を使う。

双葉氏の場合、二つ目の否定的なニュアンスが飛んでいるし、村上氏の場合は逆に「いかにも」という強意が付加されている。ふだん、原文に忠実な訳を心がけている村上氏がわざわざ付け加えているのだ。この「いかにも」には、ただの「女性的」ではない、「(男にしては)どう考えても」の意味が込められていると考えたい。余計に思える「いかにも」が付加されることで、結果的にに原文の<womanish>の意味に近づいているわけだ。文章にリズムも生まれるし、よく考えられた訳といえる。

「クローゼットには男物の衣服が掛かり」のところ、原文は<A man’s clothes were in the closet>だ。双葉氏はここを「戸棚に男の服が一着」としている。どうして一着にしたのだろう。村上氏は「クローゼットには男物の服が並び」としている。どこにも並んでいるとは書いてないが、たとえ二着でも掛かっていれば、並んでいるとはいえる。単数、複数にこだわる村上氏らしい工夫だ。

「青い革装本が入っているだけだった」の「本」だが、原文は<a blue leather book> だ。双葉氏は「青い皮の帳面」、村上氏は「青い革製のノート・ブック」と訳している。実は次に出てくるときは<the notebook>と作者が書いているので、この<a blue leather book>が、ノートだということは分かるのだが、開けてみるまではマーロウにはそれがノートなのか、本なのかは分からない。それで、こんな書き方になるのだろうが、訳者泣かせだ。本もノートも表すことのできる「冊子」という訳語を考えてみたが、使用頻度が低いので、あきらめて「本」を使うことにした。次に出たときは同じ物を「ノート」と訳すことになるが、その間に手書きの文字がたくさん書かれていることを説明する文が挟まっているので、わかってもらえるだろうと判断した。作者も同じ考えだろう。

<turned the gas log off the fireplace>がよく分からなかった。<turn off >で「栓をひねって消す」ことだとは分かるのだが、<the gas log>が分からない。直訳すれば「ガスの丸太」だ。暖炉の中にある丸太というので見当はつくが、ネットで検索をかけると「ガスログ」でヒットして画像が出た。セラミック製の薪を組んだ暖炉用のバーナーだ。双葉氏は「暖炉のガス栓をとめ」と、あっさりパスしている。村上氏はどうかと見てみると「暖炉の中にある作り物の薪のガスを止め」と、相変わらず丁寧だ。<log>の語感を生かし「飾り丸太のついた暖炉のガス栓を閉め」と訳してみた。