HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十一章(3)

《「オーウェンは昨夜あなたの家の車で何をしていたんだろう?」

「誰にも分からないでしょうね。許可なしにしたことだから。私たちはいつも仕事のない夜には彼に自由に車を使わせていたの。でも、昨夜は彼は休みじゃなかった」彼女は口を歪めた。「もしかして、あなた――?」

「彼はこのヌード写真のことを知っていたか?私に分かるはずもない。ただ、彼がこの件に絡んでる可能性はある。今すぐ現金で五千ドルが用意できるかい?」

「父に話さないと無理――それとも借りるか。多分エディ・マーズから借りられると思う。人には言えないけど、彼は私に大きな借りがあるの」

「やってみた方がいい。急に必要になるかもしれない」

彼女は椅子の背に凭れ、片方の腕を背もたれの後ろに垂らした。「警察に話した方がいい?」

「いい考えだ。が、あなたはしないだろう」

「しないと思う?」

「しない。あなたはお父さんと妹を守らなければならない。警察を呼べば何が出てくるか知れたもんじゃない。隠しておけない何かかもしれない。脅迫事件の場合、警察は普通そうしようとするものだが」

「あなたなら何かできそう?」

「できると思う。しかし、何をどうするかは言えない」

「あなたのこと気に入ったわ」彼女は突然言った。「奇跡を信じているのね。オフィスには何か飲むものは置いてないの?」

私は深い抽斗の鍵をあけ、オフィス用のボトルとリキュールグラスを二個取り出した。私はそれに酒を注ぎ、我々は飲んだ。彼女は音を立ててバッグを閉め、椅子を後ろに下げた。

「五千ドルを調達しに行くわ」彼女は言った。「私はずっとエディ・マーズの上客だった。彼が私に親切にするのには、あなたが知らなくていい別の理由があるの」彼女は私に微笑んだ。眼に届いたときには唇は忘れてしまっていたという感じで。「エディの金髪の奥さんというのが、ラスティと一緒に逃げた女なの」

私は何も言わなかった。彼女はじっと私を見つめ、つけ加えた。「面白いと思わない?」

「彼を見つけ易くなるはずだ――もし、私が彼を探しているなら。あなたは彼がこの騒動に一枚噛んでいると思っていないでしょう?」

彼女は空のグラスを私の方に押しやった。「もう一杯ちょうだい。厄介な人ね。あなたからは何も聞き出せない。耳一つ動かさないんだから」

私は小さなグラスに酒を注いだ。「あなたは欲しかったものをすべて私から手に入れた――おおよその察しはついたはずだ。私があなたの夫を探していないと」

彼女は一気に飲み干した。それが彼女に息をのませた――或いは息をのむ機会を与えた。そしてゆっくり息を吐いた。

「ラスティは悪党じゃなかった。もし、以前はそうだったとしても、はした金のためにやってたわけじゃない。彼は札束で十五万ドルを持ち運んでいた。いざという時の金だと言って。私と結婚した時も、私を置いて出ていった時も彼はそれを持っていた。いいえ――ラスティはこんなケチな強請りはしない」

彼女は封筒に手を伸ばし、立ち上がった。「連絡を絶やさないようにしよう」私は言った。「もし私にメッセージを残しておきたかったら、アパートの電話交換手が対処してくれる」

我々は歩いてドアの外に出た。彼女の拳は白い封筒を軽く叩いていた。彼女は言った。「まだ私には言えないと思ってる。父に――」

「先に彼に会う必要がある」

彼女は写真を取り出して、立ったまま見入った。ちょうどドアの手前だった。「美しく可愛い体をしてる。ちがう?」

「ああ」

彼女は少し私に凭れかかって「私のを見るべきよ」と重々しく言った。

「都合をつけられるのかな?」

彼女は突然笑い出すと、ドアを通りかけたところで急にこちらに向き直り、冷たく言った。

「あなたは私がこれまであった中でいちばん冷血の獣よ、マーロウ。それとも、フィルって呼んでもいいかしら?」

「どうぞ」

「私のことはヴィヴィアンて呼んで」

「感謝します。ミセス・リーガン」

「地獄へ落ちるといい。マーロウ」彼女は出て行き、振り返ることはなかった。》

 

「隠しておけない何かかもしれない。脅迫事件の場合、警察は普通そうしようとするものだが」は<It might be something they couldn’t sit on. Though they usually try in blackmail cases.>。双葉氏は後半の文をカットして「なにかえらいことが露見するかもしれない」とだけ訳している。村上氏は「それは世間に伏せておけないことかもしれない。恐喝事件に関しては警察は通常、守秘を重んずるように努めてはいるけれど」と原文に忠実な訳になっている。

 

「あなたは彼がこの騒動に一枚噛んでいると思っていないでしょう?」は<You don’t think he’s in this mess, do you?>。双葉氏は「ラスティ氏がこんどの件にからんでいるとは思いませんか?」と訳しているが、付加疑問文の訳になっていない。村上氏は「彼が今回の騒ぎに関わっているとは思っちゃいないでしょう?」だ。

 

「彼女は一気に飲み干した」は<She put the drink down very quickly.>。双葉氏は「彼女は非常な速さでグラスを置いた」と訳している。そう訳しても無理はない。<put>は「置く」と誰でも知っている。しかし、そう訳すと次の「息をのむ」にうまく続かない。いくら急いで動いたところで、グラスを置いたくらいで、息をのむことはないだろう。おまけに<drink down>は「飲み干す」の意味だ。村上氏も「彼女は性急に酒を飲み干した」と訳している。

 

「いざという時の金」は<mad money>。「(不時の出費・衝動買い用の)金」の意味。双葉氏は「あぶく銭」と訳している。「女性がデートの時男性と喧嘩してもタクシーで家に帰れる程度の金」という説もあるから、そちらの方を採用したのかもしれない。村上氏は「非常用現金」と書いて「マッド・マネー」とルビを振っている。こういう時、ルビという書式を持っているのはつくづく便利だと思う。

 

「地獄へ落ちるといい」は<Oh, go to hell>。よく使われる罵り言葉だ。「くたばれ」などと訳されることが多い。しかし、スターンウッド家のご令嬢に「くたばれ」と言わせるのも気が引ける。双葉氏もそのまま訳して「地獄へでも行くといいわ」だ。村上氏は「あんたなんかくたばればいいのよ」と、やはり語調を柔らかくしている。まあ、どう訳しても構わないようなものだが、ヴィヴィアンという女性の気の強さは出したいところだ。

『大いなる眠り』註解 第十一章(2)

《彼女は黙って煙草の煙を吐き、落ち着いた黒い瞳で私をじっと見つめた。「もしかすると、その思いつきも悪くはなかったかも」彼女は静かに言った。「彼は妹を愛していた。私たちの仲間うちではあまりないことよ」

「彼には逮捕歴があった」

彼女は肩をすくめ、ぞんざいに言った。「彼はいい人と知り合えなかった。この腐りきった犯罪者でいっぱいの国で逮捕歴が意味するのは、それだけのことよ」

「ずいぶん思い切ったことをいうじゃないか」

彼女は右手の手袋を脱ぎ、人差し指の第一関節を噛み、しっかりした目で私を見た。「私はオーウェンのことであなたに会いに来たんじゃない。父があなたに会いたいと思った理由を話す気にはまだなれない?」

「お父上の許可なしには」

「カーメンの件だった?」

「それについても同じ理由で言えない」私はパイプに煙草を詰め終え、火をつけた。彼女はしばらくの間煙を見ていた。それから、彼女の手は開いたままのバッグの中に入り、厚い白封筒と一緒に出てきた。彼女はそれを机越しに放ってよこした。

「とにかく、見てみることね」彼女は言った。

私はそれをつまみ上げた。住所はタイプで打たれていた。ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレッセント、三七六五番地、ミセス・ヴィヴィアン・リーガン様。メッセンジャー・サービスによって配達され、午前八時三十五分のスタンプが押してある。封筒を開け、光沢のある縦十センチ、横八センチほどの写真を抜き出した。中に入っていたのはそれだけだった。

 壇上に置かれた、ガイガーの高い背凭れのチーク材の椅子に、イヤリング以外は生まれたままの姿のカーメンが座っていた。眼は私の記憶に残るそれより幾分狂気じみていた。写真の裏には何も書いてなかった。私はそれを封筒に戻した。

「いくら要求してきたんだ?」

「五千ドル――ネガとその他の写真の分も含めて。取引は今夜のうちに。さもなければ、どこかのスキャンダル紙に売り込むって」

「その要求はどうやって?」

「女が私に電話してきた。これが届いて半時間ぐらいたってから」

「スキャンダル紙の件は心配ない。最近はその手の物を扱ったら即座に有罪判決が下る。他には何があった?」

「何か他のものがなければいけないの?」

「そうだ」

 彼女は少し困ったようにじっと私を見つめた。「あるわ。女が言ったの。この件には警察が関わっている。私は早く金を払った方がいい。でないと、金網越しに妹に面会することになるだろうと」

「いいね」私は言った。「警察にどんな関わりがあるって?」

「分からない」

「カーメンは今どこにいる?」

「家にいる。昨日の夜具合が悪かったの。まだ寝てると思う」

「昨日の夜、妹は家を空けたか?」

「いいえ、私は出かけたけど、召使が言うには妹は出かけていない。私はラス・オリンダスに行って、エディー・マーズのサイプレス・クラブにルーレットをしに行ったの。身ぐるみはがされたわ」

「なるほどルーレットが好きか。いかにもだな」

彼女は脚を組み、煙草に火をつけた。「そうよ。私はルーレットが好き。スターンウッド家の者はみんな負け試合が好き。ルーレットしかり、家出する男との結婚しかり。五十八歳で障害物競馬に出て、転倒した馬の下敷きになって、障碍者として生きるのもしかり。スターンウッド家の者はお金を持ってるけど、それで買えたのは雨天引換券だけ」》

 

「ずいぶん思い切ったことをいうじゃないか」は<I would’t go that far>。<go that far>で「そこまで」の意味がある。双葉氏は「僕はそこまで言いすぎたくないな」。村上氏も「私としては、そこまでは割り切れないが」と「そこまで」を使って訳している。自分としては「そこまで」は同意しかねる、という意味だ。立場を替えて言えば「あなたの考えは飛躍しすぎている」ということだ。今はしがない私立探偵だが、マーロウも以前は検事局の捜査官だ。それにマーロウの依頼人は将軍であって、娘ではない。金持ちの跳ねっ返り娘に返す言葉としては両氏とも遠慮しすぎではないだろうか。

 

「それから、彼女の手は開いたままのバッグの中に入り、厚い白封筒と一緒に出てきた」は<Then her hand went into her open bag and came out with a thick white envelope.>。双葉氏は「手をあけたままのハンドバッグに入れ、厚い白い封筒をとりだした」。村上氏も「それから開いたままになっているバッグに手を入れ、分厚い白い封筒を取り出し、(それをデスク越しにこちらに放った)」と彼女を主語にして訳している。ここはマーロウの眼が、彼女の手に近寄っていく、映画でいえばクローズアップの手法である。カメラの「寄り」によって視点人物の関心の高まりを表現しているのだ。こういうところは粗略に扱うべきではない。

 

「彼女はそれを机越しに放ってよこした」は<She tossed it across the desk.>。双葉氏は「彼女はそれを机の上に投げだした」と訳している。気持ちとしては机の上に置きたいところだが、<across>は<a+cross>で、「十字に」が原義。机の上にでは十字にならない。さっき、クローズアップでとらえた関心の対象である封筒が、彼女と私を隔てている机を飛び越えて近づいてくるのだ。

 

「封筒を開け、光沢のある縦十センチ、横八センチほどの写真を抜き出した。中に入っていたのはそれだけだった」は<I opened the envelope  and drew out the shiny 41/4 by 31/4 photo that was all there was inside.>。インチ表示で徹底したいのはやまやまだが、「私は封筒をあけ、縦四インチ四分の一、横三インチ四分の一の写真をひっぱりだした」という双葉氏の訳でおおよその大きさが分かるだろうか?ついでに言うと、「光沢のある」も、後半の文も双葉氏はカットしている。

 

そこへいくと、センチ表示に換算済みの村上訳は分かりやすい。「私は封筒を開け、光沢のある10センチ×8センチほどの写真を取り出した。中に入っているのはそれだけだった」E版に近いサイズだが、ぴったり合うサイズないので、「版」のサイズ表示は使えなかった。分かりやすさを第一にするならメートル法を採用するしかないのかもしれない。けれども、体格を表すフィートやポンドといった単位がものをいう場面もあるので、そこが悩ましいところだ。

 

「スキャンダル紙」は、<scandal sheet>。双葉氏は「赤新聞」と訳している。欧米には扇情的な報道を意味するイエロー・ジャーナリズムという言葉もあるが、どうして日本と欧米とでは色がちがうのかが面白い。村上氏は夫人は「スキャンダル紙」、マーロウは「スキャンダル新聞」と使い分けている。何か意味でもあるのだろうか。

 

「身ぐるみはがされたわ」は<I lost my shirt.>。双葉氏は「すってんてんにされたわ」。村上氏も同じく「すってんてんにされたけど」だ。賭け事で負けて無一文になることを意味する<lose one’s shirt>は辞書に「すってんてんになる」とそのまま書かれているので、両氏ともにそれを使ったのだろう。「着ていたシャツまでなくした」という語義を生かして「身ぐるみはがされたわ」と訳してみた。

 

「雨天引換券」と訳したのは<rain check>。双葉氏は「空手形」と意訳しているが、雨のために屋外競技などが中止になった際、渡される券のことである。村上氏は「雨天順延券」として、「レインチェック」とルビを振っている。前に<take>をつけると、招待を丁寧に断る〔またの機会に」の意味になる。夫人が使っているのは、こちらの方だろう。何かに期待しても、相手から「またの機会に」とやんわりと断られてしまう不運な一族の運命を揶揄しているのだ。

『大いなる眠り』註解 第十一章(1)

《彼女は茶色がかった斑入りのツイードを着て、男っぽいシャツの上にタイを絞め、職人の手になるウォーキング・シューズを履いていた。透き通るようなストッキングは前日同様だったが、脚の露出は多くなかった。黒い髪は帽子の下で輝いていた。五十ドルはする茶色のロビン・フッド・ハットは、吸取り紙を材料に片手で拵えたみたいだった。

 「あら、起きたのね」彼女は鼻にしわを寄せて言った。色褪せた赤い長椅子、対でない二脚の半安楽椅子、洗濯が必要なレースのカーテン、部屋にプロらしさを加味する硬めの雑誌の載った小型の読書机を見渡しながら。「考えはじめてたところよ。多分あなたは仕事はベッドの上でするんだと。マルセル・プルーストのようにね」

「いったい誰のことだ?」私は煙草を口にくわえ、彼女をまじまじと見た。彼女は少し青ざめ、無理しているように見えたが、緊張を抑えることのできる娘のように見えた。

「フランスの作家。倒錯者の目利きよ。知ってるはずないわね」

「おっと」私は言った。「いざ、我が閨房へ」

彼女は立ち上がって言った。「私たち、昨日はあまり仲良くやれなかったわね。多分、私が無作法だったんだわ」

「お互い様だ」私は言った。オフィスに通じるドアの鍵を開け、彼女を待った。我々は続き部屋の残りの方に入った。落ち着いた赤錆色のカーペットはそう新しいものではない。五つのファイリング・キャビネット。そのうちの三つはカリフォルニアの空気が詰まっている。空色の床を転がる五つ子の広告カレンダー。ピンクの服に焦げ茶色の髪、大粒プルーンのような鋭く黒い目をした子らだ。ウォールナット紛いの椅子が三脚、お決まりの吸取り器とペンセットのあるお決まりの机、灰皿に電話、そしてその後ろにお決まりの軋む回転椅子がある。

「外見は気にしないほうなのね」彼女はそう言って、机を挿んだ客側に腰を下ろした。

 私は郵便受けを探って六通の封書を取り出した。二通は手紙で残り四通は広告だった。私は帽子を電話の上に置いて腰を下ろした。

ピンカートン探偵社でも同じだよ」私は言った。「正直にやってたら、この商売はたいして稼げるものじゃない。外見にこだわるところは儲けてるか――それを期待しているかだ」

「あら、あなたは正直者なの?」彼女は訊ね、バッグを開けた。彼女はフランス製のエナメルのケースから煙草を取り出しすと、ポケット・ライターで火をつけ、ケースとライターをバッグの中に放り込んだ。バッグは開けたままだ。

「痛々しいほど」

「どうやって、この手のいやらしい仕事に足を踏み入れたの?」

「どうやって酒の密売屋と結婚したんだ?」

「何てこと。もう口論はよしましょう。午前中ずっと電話をかけようとしていたの。ここと、あなたのアパートに」

オーウェンのことでかな?」

彼女の顔が鋭く引き締まった。声は優しくなった。「かわいそうなオーウェン」彼女は言った。「あなたはもう知っているのね」

「検事局の男がリドへ連れていってくれた。彼は私が何か知っているだろうと考えていたようだが、彼の方が私よりよく知っていた。彼はオーウェンが君の妹と結婚したがっていたことも知っていた――以前のことだが」》

 

最初のパラグラフで双葉氏は二つまちがいをやらかしている。まず、<the day before>を「おととい」と訳している。その後に<yesterday>がついていたら、「おととい」だが、ここはついていない。「前日」とするところだ。もう一つ。五十ドルを十五ドルと訳している。疲れてでもいたのだろうか。初歩的なミスが目立つ。

 

<Robin Hood hat>は、トップがとがっていて、ブリムの後ろが上に折られ、鳥の羽飾りがついている帽子のことをいう。ロビンフッドの場合、普通は緑色だが、ここでは茶色になっている。問題はまたまた出てきた<blotter>だ。今回はその前に<desk>がついている。これが緑色なら、フェルトのデスク・マットと考えたいところだが、わざわざ茶色という色が指定されているところが気になった。吸取り紙の色を茶色と考えるのは無理があるが、アメリカと日本では色の捉え方にちがいがあるのかもしれない。そもそも、片手で取り扱うにはデスク・マットは硬すぎる。

 

「いざ、我が閨房へ」は<Come into my boudoir.>。「ブドワール」というのはフランス語で婦人用寝室を意味する。そのものずばりの意味で「深閨」という訳語があるが、あまり一般的ではないので、「閨房」を用いた。これは両氏とも同じだ。相手がプルーストの名前を出したことへの返礼だ。「おっと」と訳したところは<Tut, tut,>で舌打ちの音をまねた「ちぇっ」と訳すのが常法だが、次に来る「ブドワール」というフランス語との相性が良くない。双葉氏は「ちぇっ」と訳しているが、村上氏は「なんの、なんの」と意訳している。知らないわけではない、というくらいの気持ちを表しているのだろう。その後を「私のささやかな閨房にお招きしたいものだ」と訳しているが、これでは、プルーストを閨房に招きたいいっているみたいだ。どんなものだろうか。

 

オフィスに通じるドアの鍵を開け、彼女を待った。我々は続き部屋の残りの方に入った」は<I unlocked the communicating door and held it for her. We went into the rest my suite>。双葉氏は「私はドアの鍵をあけ、彼女を私の私室に通した」。村上氏は「そしてオフィスに通じるドアを解錠し、彼女を中に通した」と、こちらも珍しく手抜き気味だ。というのも、レディーファーストの国では、男がドアを開けても入るのは女が先と決まっている。だからこそ<and held it for her>「彼女のために私は(ドアを)開けておいた」のだ。「彼女を中に通した」で、その様子を表したつもりだろうが、<rest my suite>も訳していない。ちょっと不親切な気がする。

 

殺風景なマーロウのオフィスの描写。映画でおなじみの縦に積む型のファイリング・キャビネットが置いてある。カレンダーの五つ子だが、双葉氏は「青空色の床でスケートしている」ことになっている。<rolling around>は「転げ回る」の意味だし、第一「床でスケート』というのがおかしい。眼を修飾する<as large as mammoth prunes>も、面倒くさいのかカットしている。だいたいにおいて、チャンドラーの描写はくどくなると限度を超える。いちいち付き合っていられない、という気持ちも分かるのだが、創作ではなく翻訳なので、ここは我慢して付き合ってほしい。

 

<usual>がしつこく繰り返される机周りの描写。双葉氏は「平凡な」、村上氏は「ありきたりの」を使用している。そして、またまた登場する<usual blotter>。双葉氏は「吸取器」。村上氏はここでは「下敷」を採用している。<pen set>を双葉氏はオールズのオフィスの時と同じように「インク・スタンド」としている。油が切れているのか、回転椅子は、座るとキーキーと音を立てる<squeaky>のだが、双葉氏はそこも「平凡な回転椅子」で済ませている。

 

「私は郵便受けを探って六通の封書を取り出した。二通は手紙で残り四通は広告だった」のところを、双葉氏は「私は郵便受のところへゆき、六通の封筒、二通の葉書、四通の広告をひろい出し」としている。原文は<I went over to the mail slot and picked up six envelopes, two letters and four pieces of advertising matter.>。村上氏は「私は郵便スロットの前に行って、床から六通の封筒を拾い上げた。手紙が二通、あとはダイレクト・メールだ」と訳している。

 

どうやらマーロウのオフィスの郵便物投入口にはスロットだけが開いていて、郵便物を受ける容器はついていないらしい。日本の安アパートの金属製ドアには付いていても、木製ドアが主流のアメリカでは、郵便物は床に落ちていることがよくある。村上氏はそう解釈したのだろう。しかし、さっき、ドアを開けたとき気づかなかったとすれば、<mail slot>は、どこに設置されているのだろう。ドアではない壁の一部にあるのかもしれない。ビデオに録画した映画はすべて処分してしまったので確認のしようがない。一度本気で映画を見直す必要があるのかもしれない。

『大いなる眠り』註解 第十章(3)

《しばらくして私は言った。「重さに気をつけてくれよ。そいつは半トンまでしか試してないんだ。その代物、どこに運ぶんだ?」

「ブロディ。405号室だ」彼はうなった。「あんた管理人か?」

「そうだ。戦利品の山みたいだな」

彼は白目がちの薄青い眼で私をにらみつけた。「本だ」彼はうなるように言った。「一箱百ポンド。心配には及ばんよ。俺は七十五ポンド余分に背負ってるが」

「いいだろう。重さには気をつけてくれよ」私は言った。

 彼は六個の箱と一緒にエレベーターの中に入って扉を閉めた。私は階段を上り、ロビーに引き返して通りに出ると、待たせていたタクシーでダウンタウンにある私のオフィスに帰った。私は新顔の青年に余分に金を渡した。彼は使いこんだ名刺をくれた。私は今回に限り、エレベーターの横にある砂の入ったマヨルカ焼の壺の中に捨てなかった。

 私は裏通りに面した七階に広すぎる部屋を持っていた。その半分をオフィスにし、二つに仕切ることで応接室を設えたのだ。他に何も書かず名前だけ掲げた。名前があるのは応接室だけだ。鍵はいつもかかっていない。依頼人が来たときのためだ。依頼人が座って待とうと思ったときのために。

 依頼人が一人待っていた。》

 

「白目勝ちの薄青い眼で」は<pale white-rimmed eyes>。双葉氏はずばり「三白眼みたいな目で」と書いている。村上氏は「縁が白くなった淡青色の目で」と訳している。白目に対して虹彩部分が比較的小さいのだろう。村上氏の訳では虹彩部分の縁が白くなっているように読める。

 

「一箱百ポンド。心配には及ばんよ。俺は七十五ポンド余分に背負ってるが」は<A hundred pounds a box, easy, and me with a seventy-five pound back.>。これを双葉氏は「一箱百ポンド、おれが乗っても、七十五ポンド余る。安心しな」と訳している。100ポンドが約45キログラムとして、六箱で270キログラム。75ポンドを34キログラムとすると、304キログラムだ。500-304=196。マーロウの体重が86キログラムである。男の体重が二百キロ弱というのはあり得ない。

 

村上氏は「一箱当たり五十キロ弱だから、問題ないさ。俺はそこに三十五キロばかり肉が余分についているが」だ。今回ばかりはキログラム換算してくれている村上訳がありがたい。トンというキログラム単位とポンドがごっちゃに出てくるとお手上げだ。<back>の訳し方で、こうも訳がちがってくるという見本。村上訳なら男の体重は85キログラムで、ほぼマーロウと同じだ。

 

「彼は使いこんだ名刺をくれた」は<he gave me a dog-eared business card>。双葉氏は何故か<dog-eared>を飛ばして、「彼は商売用の名刺をくれた」と訳している。村上氏は「彼は角の折れた名刺をくれた」と訳している。業務用にポケットに突っこんでいるので端が折れてしまっているのだ。そんなもの、いつもは捨ててしまうのだが、今回は共に苦労したので、すぐに捨てるには忍びなかったのだろう。マーロウのこういうところが好きだ。

 

「私は裏通りに面した七階に広すぎる部屋を持っていた」は<I had a room and a half on the seventh floor at the back.>。双葉氏は「私は七階の裏側に一部屋半の事務所を持っていた」。村上氏は「そのビルの七階の、通りに面していない側に、私は一部屋半のオフィスを構えていた」。私は、この「一部屋半」が気になって仕方がなかった。双葉氏の続きを読んでみよう。「半というのは、一部屋を半分に仕切って応接室にしてあるからだ」。村上氏も同じく「半分というのは、待合室として使えるように、一つのオフィスを真ん中から二つに区切ったものだ」と説明している。

 

原文は<The half-room was an office split in two to make reception rooms.>だ。直訳すれば、「半分の部屋(という訳)は、オフィスを応接室を作るために二つに割った(からだ)」だ。半分の部屋を二つ合わせても、元の一部屋で、一部屋半ということの説明にはならない。では、両氏ともなぜ「一部屋半」などという半可通な広さを持ち出したのか?もちろん、問題になるのは<room>の後に< and a half >がくっついているからだ。

 

実はこの< and a half >だが、<and> の前に<a> つきの名詞が来ると「 大きな、 すばらしい」の意味になる。例えば、<a car and a half>「( 大きな、すばらしい)車」というように「称賛」の意味が加わるのだ。また、逆にけなして「多すぎて、非常に大量の、超がつくほど.の」という意味にもなる。

 

原文をよく見てみよう。ちゃんと<a room and a half >と書いてある。まさか、例文を「一台半の車」と訳す翻訳家はいまい。でもいたんですねえ。なんと二人も。おそらく村上氏は双葉氏の訳に引きずられたんだろう。私の場合、まずは辞書を頼りに自力で訳すことにしている。それでも無理なときはお二人の訳を参考に見るようにしている。今回は、どう考えても計算の合わないのが気になった。そこで、< and a half >で検索してみると、上記の説明に出くわした。双葉氏の時代には電子辞書はなかったろうから無理もないが、村上氏は電子辞書をお使いのようだ。魔が差したのだろう。

『大いなる眠り』註解 第十章(2)

《私は店を出て、大通りを西に向かい、角を北に折れ、店の裏側を走る小路に出た。黒い小型トラックがガイガーの店の裏をふさいでいた。荷台の側板は金網で、字は書いてない。新品のオーバーオールを着た男が尾板の上に箱を持ち上げていた。私は大通りへ引き返し、ガイガーの店から一つ先のブロックで、消火栓の前に停まっているタクシーを見つけた。新顔の青年が運転席でホラー雑誌を読んでいた。窓から覗きこみ、一ドル札を見せた。「尾行の仕事だが?」

彼はじろっと私を見た。「警察かい?」

「私立探偵だ」

 彼はにやりとした。「俺の特技だよ。探偵さん」彼は雑誌をルームミラーの後ろに押し込み、私はタクシーに乗り込んだ。我々はブロックを一回りして、ガイガーの店の小路の向かい側の、やはり消火栓の横に車を停めた。

 オーバーオールの男が網戸のついたドアを閉め、尾板を閉めて運転席に座ったとき、トラックの上にはおよそ一ダースほどの箱があった。

「あいつをつけてくれ」運転手に言った。

 オーバーオールの男はエンジンを吹かすと、小路のあちこちに目をやり、一目散に反対方向へ走り出した。彼は小路を抜けると左折した。我々もそれに倣った。トラックが東に曲がり、フランクリン通りに入るのがちらりと見えた。私は運転手にもう少し近づけと言った。彼はそうしなかった。できなかったのかもしれない。フランクリン通りに入ったとき、二ブロック離されていた。ヴァイン通りまでは視野の裡だった。ヴァイン通りを渡り、ウェスタン通りに向かう間もずっと。ウェスタン通りから先は二度ばかり目にしただけだ。交通量が多く、新顔の青年は距離を空け過ぎていた。歯に衣着せずに注意していたとき、はるか前方のトラックが再び北に曲がった。曲がった先はブリタニー・プレイスと呼ばれる通りだった。我々がそこに着いたとき、トラックの姿はなかった。

 新顔の青年はパネル越しに慰めの声をかけ、時速四マイルでのろのろと丘を登り、我々は茂みの陰にトラックがいないか探した。二ブロック進んだところで、ブリタニー・プレイスが東に湾曲してランドール・プレイスにぶつかる、舌のように突き出した土地に、真っ白なアパートが建っていた。玄関はランドール・プレイスに、地下駐車場はブリタニー・プレイスに面していた。そこを通り過ぎ、新顔の青年がトラックはそんなに遠くへ行けないはずだとしゃべっているちょうどその時、私は見た。駐車場のアーチ型入り口を通して薄闇の奥に、それが再び尾板を開けているのを。

 我々はアパートの玄関に回り、私はそこで降りた。ロビーには誰もおらず、電話の交換台もなかった。鍍金された郵便受けパネルの横の壁に木の机が設置されていた。その上にある名前にざっと目を通した。ジョセフ・ブロディという名の男が405号室にいた。ジョー・ブロディという男が、カーメンとの遊びをやめ、他に遊び相手を見つける条件で、スターンウッド将軍から五千ドル受け取っている。これがそのジョー・ブロディかもしれない。私は運が向いてきたのを感じた。

 壁の角を曲がり、タイル張りの階段と自動エレベーターのシャフトのあるところに出た。エレベーターの屋根は床と同じ高さだった。シャフトの傍に「駐車場」と書かれたドアがあった。私はドアを開け、狭い階段を地階に下りた。自動エレベーターはつっかい棒がされており、新品のオーバーオールの男がぶつぶつ言いながら重い箱を中に積み上げていた。私は彼の傍に立って煙草に火をつけ、彼を見た。彼は私が見ていることが気に入らないようだった。》

 

ガイガーの店から木箱を運び出すトラックを追跡する場面だ。黒い小型トラックには特徴がある。<A small black truck with wire sides and no lettering>というものだ。<wire side>は「金網」のことだが、ここを双葉氏は「針金を張りまわした小さな黒いトラック」と訳している。幌を張るための骨組みに使う針金と取ったのだろう。でも、そうすると次の<no lettering>がうまく続かない。村上氏は「トラックの両側面は金網になって、名前も何も書かれていない」と訳している。金網には字が書けない。側面を金網張りにしたトラックというものを見た記憶がないが、当時のアメリカにはあったのだろうか。画像で検索してもこれだ、と思うものに出会えなかった。

 

尾行のためにつかまえたタクシーの運転手を、チャンドラーは<fresh-faced kid>と書いている。双葉氏は「生き生きした顔色の、若い運転手」、村上氏は「初々しい顔立ちの青年」と訳している。最初だけならこれでもいいだろうが、名前を知らない運転手について言及するたびに、<fresh-faced kid>が出てくるのだ。これをいちいち両氏のように訳していたのでは相当に間延びしてしまう。そこで「新顔の青年」と訳した。顔色でも顔立ちでもなく、初めて見た顔としたのだ。新入生のことをフレッシュメンと呼ぶ。ニューフェイスという言葉もあるではないか。

 

その運転手が探偵だと名乗ったマーロウに言う言葉は<My meat,Jack.>。<my meat>には、男性器の意味もあるが、ここでは「得意、強み」の意味だろう。<Jack>は、アメリカでは警官や探偵を表す符牒だ。双葉氏は「なら話が合うよ、旦那」としている。「話が合う」と訳したのは、<meat>に「(話や議論などの)要点、本質」の意味があるからだろう。村上氏は「面白そうだ」と意訳している。<meat and potato>で「好きなもの」を意味する場合もあるから、「大好物だ」などの訳語も可能だろう。

 

「オーバーオールの男が網戸のついたドアを閉め、尾板を閉めて運転席に座ったとき」は<when the man in overalls closed the screened doors and hooked the tailboard up and got in behind the wheel.>。双葉氏は「彼は尾板を閉めると、運転台に乗った」と訳して、<the screened doors and hooked>の部分を落としてしまっている。ありがちなミスだ。車のドアと勘違いしたにちがいない。<screened door>は「網戸」。なぜ複数になっているのかが、ちょっと疑問だが、網戸だけでは不用心で、板戸とペアになっている扉はよく目にするから、複数なのかもしれない。村上氏は「金網の入った裏口の扉を閉め。トラックの後部板を固定し、運転席に乗り込んだとき」と訳している。複数にこだわる村上氏が、何故ここはスルーなのか?ちょっと分かりかねる。

 

次々と通りの名前が出てくるが、LA在住者なら手に取るように分かるのだろう。後部座敷のマーロウが「歯に衣着せずに注意していたとき」は、<I was telling him about that without mincing words>。双葉氏は「私が手まねで急げと言おうとしているとき」、村上氏は「私がそのことを、曖昧な言葉抜きで運転手に注意しているときに」と訳している。たしかに<mincing words>は「曖昧な言葉」ではあるのだが、<without mincing words>とワンセットで「言葉を選ばずに、歯に衣を着せずに」という意味だ。双葉氏の手まねも、後部座席からでは難しかろう。運転手は前を見ながらバックミラーを見なければならない。率直に言葉で言ってもらう方が有難かろう。 

 

「そこを通り過ぎ、新顔の青年がトラックはそんなに遠くへ行けないはずだとしゃべっているちょうどその時、私は見た。駐車場のアーチ型入り口を通して薄闇の奥に、それが再び尾板を開けているのを」は<We were going to past that and the fresh-faced kid was telling me the truck couldn’t be far away when I looked through the arched entrance of the garage and saw it back in the dimnes with its rear doors open again.>。

 

双葉氏は「そのアパートを通りすぎようとしたとき、車庫のアーチ型の入り口を通して、薄暗がりの中に、トラックが尾板をあけておさまっているのが見えた」と青年の気休めの言葉をまるきりカットしている。直接話法ではなく間接話法になっているので、単に読み飛ばしたのだろうか?村上氏は「その車庫の入り口の前を通りすぎながら、あのトラックはそう遠くには行ってないよと童顔の運転手が言ったまさにそのとき、そのアーチ形をした入り口の薄暗い奥に、件のトラックの姿が見えた。その後部板はまた開かれていた」だ。

 

お気づきだろうか。<fresh-faced kid>の部分を、村上氏は「童顔の運転手」と訳し直している。「初々しい顔立ちの青年」という長ったらしい訳を使ったのは最初だけで、その後はずっと「童顔の運転手」を使っている。それならはじめからそうすればいい。双葉氏は律儀に「いきいきした顔色の運ちゃん」、「いきいきした顔の若い運ちゃん」と書いている。<fresh-faced kid>は、代名詞のようなものだ。そのたびに訳語を変更したなら意味がなくなってしまう。

 

ここで一つ疑問がある。<rear doors>だ。これがトラック後部にあるヒンジ留めで下に開く<tailboard>を意味しているなら、なぜここは複数になっているのだろう?双葉氏は「尾板」、村上氏は「後部板」と訳している。つまり、<tailboard>と考えているわけだ。<rear doors open again>とあるからには、前にも開いていると書かれてなければならない。前に開いていたのは<tailboard>だけである。一つ考えられるのは、尾板の上部に観音開き状の後部扉がついたパネルトラックだった可能性である。そんな車があるのかどうかよくは知らないが、そうでもなければ解決がつかない。チャンドラーのミスという可能性もないではないが。

 

「私は運が向いてきたのを感じた」と訳したところは<I felt like giving odds on it.>。双葉氏も「どうやら私にも運が向いたらしい」と、訳している。村上氏は「おそらくそうだろうという気がした」と訳している。<give odds>は「ハンディキャップを与える」という意味なので、ジョー・ブロディがジョセフ・ブロディであるという考えの方がオッズが高くなる。つまり確率が高い。村上氏の訳は原文をほぐしていこうという意図を持つので、こうなるのだろう。たしかによく分かるが、面白みが失せる気がする。オッズという語に賭け事をほのめかすくらいの遊び心は持ちたいものだ。

 

「自動エレベーターのシャフト」とわざわざ書いているのは、映画などで見かける、金属製の格子が前についている中が素通しの昇降路のことだろう。わざわざ自動とあるのは、係員がいないので、自分で操作するようになっているからだ。その金網越しにエレベーターの屋根が見えているわけだ。現在のように両開きのドアで目隠しされたエレベーターを想像すると理解不能の記述である。なぜエレベーターが地階に止まったままなのか、次の文で分かる仕掛けになっている。

 

「自動エレベーターはつっかい棒がされており」は<elevator was propped open>。< prop>は「つっかい棒をする」という意味だ。ここを双葉氏は「自動昇降機の口を開け」とだけ書いているので、どうして開いたままでいられるのかよく分からない。村上氏は「自動エレベーターはつっかい棒で閉じないようにされ」と詳しい。これでこそ村上訳だ。

『大いなる眠り』註解 第十章(1)

《長身で黒い眼をした掛売りの宝石商は、入口の同じ位置に昨日の午後のように立っていた。中に入ろうとする私に同じように訳知り顔をしてみせた。店は昨日と同じだった。同じランプが角の小さな机の上に点り、同じ黒いスウェードに似たドレスを着た、同じアッシュブロンドが、その後ろから立ち上がり、こちらに向かってきた。同じためらいがちな笑みを顔に浮かべて。

「何か――?」彼女は言いかけて止めた。銀色の爪が彼女の脇でぴくぴく動いた。微笑には緊張が隠れていた。全然微笑になっていなかった。しかめっ面だ。彼女が微笑と思っているだけだった。

「また来たよ」私は浮き浮きと楽しそうに、煙草を揺らせた。

「ガイガー氏は、今日はいるかい?」

「申し――申し訳ありません。留守にしております――申し訳ありません。あのう――ご用件は……?」

私はサングラスを外し、そっと左手首の内側を軽く叩いた。百九十ポンドはあろうかという体をして「薔薇」に見えるよう、私はベストを尽くしていた。

「ただの口実だったんだ。あの初版云々は」私は囁いた。「用心しなきゃいけなくてね。私は彼の欲しがる物を持っている。前からずっと欲しがっていた物だ」

 銀色の爪が、小さな黒玉の飾りのついた耳の上の金髪に触れた。「ああ、セールスの方ね」彼女は言った。

「そうね――お差支えなければ明日いらして下さい。明日ならいると思います」

「とぼけたことは言いっこなしだ」私は言った。「こっちも商売でね」

彼女の眼は細まった。微かに緑色を帯びた煌きが見えるところまで。まるで樹々の蔭に包まれた遥か森の奥の泉のように。彼女の指は掌を掻いていた。彼女は私をじっと見つめ、息を殺していた。

「彼は体の具合でも悪いのか?なんならお宅に伺ってもいい」私はじれったそうに言った。「いつまでも待ってはいられないんだ」

「あのう―いえ――あのう――でも」彼女は喉をつまらせた。彼女は鼻から倒れそうに見えた。全身が震え、顔は花嫁のパイ皮のようにまとまりを欠いていた。彼女はまるで重い物を持ち上げるように全力を尽くしてゆっくりとそれを再びまとめた。微笑が戻った。一部に不出来な部分はあるにしても。

「いいえ」彼女は息を継いだ。「いいえ、彼は街を出ております。お役には――立てないでしょう。如何でしょうか――明日――ということで?」

 私が口を開けて何か言おうとした時、仕切扉が三十センチほど開いた。長身黒髪で胴着を着たハンサムな若者が顔をのぞかせた。青ざめた顔に唇を引き結び、私を見ると、急いで扉を閉めた。だが、その前に私は見た。彼の後ろの床の上の大量の木箱を。その中には隙間を新聞紙で埋めた本が乱雑に詰め込まれていた。真新しいオーバーオールを着た男が大騒ぎで作業中だった。ガイガーの在庫の一部は引っ越しの最中だった。

 扉が閉まると、私はサングラスを元に戻し、帽子に手をかけた。「明日、また来よう。名刺を置いていきたいところだが、事情は分かってるね」

「あ、はい。分かります」彼女は少し震えながら、艶やかな唇の間で息を吸う微かな音を立てた。》

 

「何か――?」のところを双葉氏は「なにか――」としているが、村上氏は「ひょっとして……」と意訳している。原文は<Was it――?>だが、この章の冒頭からチャンドラーが意識しているのは、この店の様子がすべて昨日と同じであるということだ。執拗と思えるほど<same>を響かせているし、アッシュブロンドの女の着ている服まで昨日と同じである。つまり、すべてはルーティンだということだ。女の科白もおそらくいつも決まっているのだろう。それが<Was it something?>「何か御用ですか?」だ。双葉氏の場合なら「何かご用ですの?」。村上氏なら「なにかご用でしょうか?」である。

 

つまり、女はいつもの科白を言いかけて途中でやめたのだ。多分マーロウの顔に見覚えがあったからだろう。だとしたら、マーロウに気づくまではいつも通りの科白を吐かなくてはならない。それが小説の文法というものだ。双葉氏はひらがなに変えてはいるがセオリー通り「なにか」を使っている。村上氏は何故ここを別の言葉に変えたのだろうか?しつこいほどの繰り返しに気づかない村上氏でもあるまいに。

 

女の態度が明らかにおかしい。動揺が隠せない。「申し――申し訳ありません。留守にしております――申し訳ありません。あのう――ご用件は……?」と訳したところ原文は<I’m― afraid not.― No― I’m afraid not. Let me see― you wanted…?>。<I’m afraid not>は、相手の意に反した答えを言うときの丁寧な言い方である。ざっくりとした言い方をすれば<No>だ。だから女のしどろもどろな言い方を再現すればいいわけで、双葉氏は「おいでに……おいでにならないと思います。あのなにか……?」とあっさり訳す。これでいいのだと思う。村上氏は一字一句訳さないと気が済まない完璧主義だから「あの――いらっしゃいません。いいえ――いらっしゃいません。ええと――どんなご用件でしょうか……?」。

 

「百九十ポンドはあろうかという体をして「薔薇」に見えるよう、私はベストを尽くしていた」は<If you can weigh a hundred and ninety pounds and look like a fairy, I was doing my best.>だ。この<a fairy>(妖精)が曲者で、男性同性愛者を表す俗語である。双葉氏はここを「一九〇ポンドも体重がある男に仙女のまねはむずかしいが、私は相当うまくやってるつもりだった」と、語の本義を使って訳している。村上氏は今風に「体重が八十六キロありながら、しかもゲイのように見せかけるために、私はベストを尽くした」だ。「妖精」に当てはまりそうな日本語を探したのだが、ぴったりくるものが見つからなかった。「薔薇」は、当然「薔薇族」を意味している。あの雑誌を知る者がまだいるかどうかは疑問だが、「妖精」という美しい隠語を使った表現を「ゲイ」とバラしてしまうのはちょっと残念なのだ。

 

「顔は花嫁のパイ皮のようにまとまりを欠いていた」は< her face fell apart like a bride’s pie crust.>。双葉氏は「顔は花嫁が食べかけたパイのかけらみたいにゆがんだ」。村上氏は「その顔はまるで新妻が馴れぬ手で焼いたパイの皮のようにぼろぼろに崩れていた」と、解説を加えている。なるほど、と思う訳ではあるのだが、<bride’s pie crust>をネットで検索するとアメリカのパイの一種として紹介されている。ただ、かなり古いもののようでレシピはあっても画像がアップされていない。という訳で、比喩として使われているパイの実像が分からない以上、ここはそのまま訳すしかない。

『大いなる眠り』註解 第九章(6)

 《オールズは顎を私の方に向けて言った。「彼を知ってるのか?」

「ああ。スターンウッド家の運転手だ。昨日まさにあの車を磨いてるところを見かけた」

「せっつく気はないんだがな、マーロウ。教えてくれ。仕事は彼に何か関係があったのか?」

「いや、彼の名前さえ知らない」

オーウェンテイラーだよ。なぜ知ってるかって?面白いことに、一年ほど前にマン法で逮捕したことがある。あいつはスターンウッド家の跳ねっ返りを、妹の方だよ、ユマへ連れ出したらしいんだ。姉が追いかけて連れ戻し、オーウェンは豚箱入り。さて次の日、姉が検事局にやってきて小僧を釈放してほしいと検事に頼んだ。彼女の言うには、小僧は妹と結婚するつもりだったが、妹が分かってなかった。妹は箍を外してどんちゃん騒ぎがしたかっただけだと。それで釈放したんだが、忌々しいことに一家はあいつを復職させたんだ。それからしばらくして、我々は彼の指紋に関して通例の報告をワシントンから受け取った。彼には前があった。六年前にインディアナで強盗をやらかしたんだ。彼は半年間、あのデリンジャーが脱走した郡刑務所にくらいこんでた。我々はこの件を伝えたが、スターンウッド家はあいつを雇い続けている。「どう思うね?」

「おかしな一家だ」私は言った。「昨夜のことについて彼らは知ってるのか?」

「いや、俺は今から彼らに会いに行かねばならない」

「老人だけはそっとしておいてやってほしい。出来ればだが」

「どうしてだ?」

「彼はただでさえ揉め事を抱えているし、病気でもある」

「リーガンのことを言ってるのか?」

私は顔をしかめた。「私はリーガンについては何も知らない。言ったはずだ。私はリーガンを探していない。私の知る限りリーガンは誰にも迷惑をかけていない」

オールズ「ああ」と言いながら、考えに耽るように海をじっと見た。それでセダンは道を外れかけた。そのあとは街に着くまで、ほとんどしゃべらなかった。彼はハリウッドのチャイニーズ・シアターの近くで私を降ろし、アルタ・ブレア・クレセントのある西の方へ引き返した。私はカウンターに凭れてランチを食べ、夕刊に目をやったが、ガイガーについては何も載っていなかった。

 ランチが終わってから、私はブルバードを東へ歩いてもう一度ガイガーの店を見に行った。》

 

あまり問題になる箇所はない。オールズの話の中で一箇所だけ訳が異なるところがある。原文はこうだ。<She says the kid meant to marry her sister and wanted to, only the sister can’t see it.>。双葉氏はここを「若造は妹と結婚するつもりで連れ出したんだが、姉の自分はその事情を知らなかったという言い草さ」と訳している。<sister>が、二度出てくる。姉か妹か分かりにくいかもしれない。しかし、ちゃんと読めば分かるように書かれている。

 

村上氏の訳を見てみよう「彼は妹と結婚したがっており、本気で夫婦になるつもりだったのだが、妹の方にはそんな気持ちはさらさらないのだ、と彼女は言う」だ。これは村上氏の訳が正しい。先に出てくる<sister>の前には<her>がついているので前後から「彼女の妹」と分かる。次の<sister>の前には<the>がついているので「話題の」人物の方であることが分かる。つまり「妹」のことだ。それでは妹はどう思って男についていったのか?

 

<All she wanted was to kick a few high ones off the bar and have herself a party.>。作者もここでいう「彼女」が分かりにくいと思ったのだろうか<she>をイタリックにしている。双葉氏はここを「大山鳴動して鼠一匹というところだ」と、大胆な意訳をしている。ここの<she>を姉妹のどちらと取るかで、意味は変わってくるはずだが、この一文も後半はともかく、前半の< kick a few high ones off the bar>はあまり馴染みのない文句なので、出来合いの文句にパラフレーズさせて良しとしたのではないだろうか。村上氏は「妹はただ羽目を外して、派手に遊びまわりたかっただけなのだと」とやはり意訳している。直訳すれば「高い方のバーを少し蹴っ飛ばして」となるから、「障害を取り払う」の意味だととったのだろう。

 

「私はカウンターに凭れてランチを食べ、夕刊に目をやったが、ガイガーについては何も載っていなかった」は<I ate lunch at a counter and looked at an afternoon paper and couldn’t find anything about Geiger in it.>。双葉氏は「私は簡易食堂でランチを食い、夕刊を一枚読んだが、ガイガーの記事はなかった」。村上氏は「私は簡易食堂で昼食をとり、午後刷りの新聞を見た。ガイガーに関係した記事は見当たらなかった」だ。二人とも「カウンター」のことを「簡易食堂」と訳しているが、そもそも「簡易食堂」とは何のことだろう。

 

調べたところ、大正時代に都が作った、安い値段で食べられる食堂のことを指すらしい。そんなものがアメリカにあるはずもないが、双葉氏の年代には、それで喚起するイメージがあったのかもしれない。しかし、村上氏の場合はどうだろうか。逆に「簡易食堂」で検索すると<lunch counter>という言葉がひっかかった。「(カウンター式)軽食堂」という訳語が記されていた。これなら分かる。分かるが、軽食堂というのも古臭い。

 

どんなランチか詳しく書いていないが、一番ありそうなのはホットドッグ・スタンドで出来立てをパクついたのをわざと「ランチ」と洒落て見せたのではないだろうか?それとも「ダイナー」くらいには行ったのか?とにかく、カウンターのある店だ。それに新聞を<read>ではなく<look>しているところから見て、あまり時間をかけてはいないことが分かる。椅子に座ったかどうかさえ書いていないのだ。知らないことについては書かないという鉄則で上記のように訳しておく。

 

<afternoon paper>を村上氏は「午後刷りの新聞」と文字通りに訳しているが、アメリカにはそういうものがあるのだろうか?一部の辞書には「夕刊」という訳語があるので、それに従うことにした。双葉氏がめずらしく、単数、複数にこだわって、「夕刊を一枚」と訳しているのが面白い。村上氏は複数の場合にはこだわりを持つが、単数の場合はそれほどでもないようだ。それより<look>の方を気にして「新聞を見た」と律儀に訳している。(第九章了)