HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第三十章(2)

《グレゴリー警部はため息をついてねずみ色の髪をくしゃくしゃにした。
「もう一つ言っておきたいことがある」彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った。
「君はいい男のようだ。だが、やり方が荒っぽ過ぎる。もし本当にスターンウッド家を助けたいと思っているのなら──放っておくことだ」
「その通りだろうな、警部」
「どんな気分だ?」
「最高だ」私は言った。「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた。その前は濡れ鼠になって叩きのめされたんだ。体調は完璧だ」
「一体全体、何を期待していたんだ、君は?」
「他には何も」私は立ったまま、にやりと笑い、ドアのほうに歩きはじめた。あと一歩というところで、突然咳払いが聞こえ、厳しい声が飛んだ。「聞く耳は持たない、というわけか。君はまだリーガンを見つけられると思っているのか?」
私は振り返ってその目をまっすぐ見据えた。
「いや、リーガンを見つけられるとは思っていない。探すつもりもない。それでいいんだろう?」
 警部はゆっくり頷いた。それから肩をすくめた。「何でそんなことを言ったのかまったくもって分からない。幸運を祈る、マーロウ。いつでも寄ってくれ」
「ありがとう、警部」
 私は市庁舎を出て駐車場から車を出し、ホバート・アームズの自宅に帰った。コートを脱いでベッドに横になり、天井を見つめ、通りを行き交う車の音を聞きながら、太陽がゆっくり天井の隅を横切るのを見つめた。眠ろうとしたが眠れなかった。起きて、そぐわない時間だが一杯飲み、また横になった。それでもまだ眠れなかった。頭が時計のようにチクタク鳴った。ベッドに座り直し、パイプに煙草を詰めながら大声を出した。
「あの爺、何かつかんでるな」
 パイプは灰汁のように苦い味がした。脇に置いてまた横になった。心は偽りの記憶の波の上を漂った。同じことを何度もやり、同じ場所へ行き、同じ人々に会い、同じことを何度も言った。その度に現実のように感じた。何か現実の事件に、初めてぶつかるように。私は激しい雨をついてハイウェイに車を駆り立てていた。車の隅にはシルヴァー・ウィグが乗っていたが、一言も口を利かないので、ロスアンジェルスに着くまでに我々はもとの赤の他人に戻っていた。終夜営業のドラッグ・ストアで車を下り、バーニー・オールズに電話をかけた。リアリトで一人の男を殺した。これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った。私は雨に洗われて静まり返った通りをラファイエット・パークまで車を急がせ、ワイルドの大きな木造家屋の屋根のついた車寄せの下にとめた。玄関灯はすでに点っていた。私が来ることをオールズが話しておいたのだ。私はワイルドの書斎にいた。地方検事は花模様のドレッシング・ガウンを着て机に向かい、硬く厳しい顔つきで斑入りの葉巻を指の間で動かし、唇には苦い笑みを浮かべていた。オールズもいた。保安官事務所から来た痩せて白髪交じりの学者風の男は、警官というよりも経済学の教授のように見えたし、そういう話し方をした。私はあったことを話し、男たちは黙って聴いていた。シルバー・ウィグは陰に座って、誰を見るでもなく手を膝の上に置いていた。たくさんの電話が掛けられた。殺人課から来た二人の男は、まるで巡業中のサーカス一座から逃げてきた見慣れない動物か何かのように私を見た。私はもう一度車に乗り、そのうちの一人を隣に乗せてフルワイダー・ビルディングに向かった。我々はその部屋にいた。ハリー・ジョーンズはまだ机の向こうの椅子に腰かけていた。死に顔は歪んだまま硬直し、部屋には甘く饐えた匂いがしていた。検死官はひどく若い頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた。指紋係が徒に騒ぎ立てるので、採光窓の掛け金を忘れるな、と言ってやった(カニーノの親指の指紋がそこに残っていた。私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった)。
 またワイルドの家に戻り、秘書が別室でタイプした陳述書に署名した。それからドアを開けてエディ・マーズが入ってきた。シルバー・ウィグを見つけたときその顔に急に微笑みが閃いた。そして彼は言った。「やあ、シュガー」女は見向きもせず、返事もしなかった。エディ・マーズは生き生きして元気だった。黒いビジネス・スーツを着て、ツィードのコートから縁飾りのついた白いスカーフを覗かせていた。それからみんな出て行った。ワイルドと私だけを部屋に残して。ワイルドが怒りのこもった声で冷やかに言った。「これが最後だ、マーロウ。次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ、ライオンの檻に放り込んでやる。誰かが心を痛めようと知ったことか」
 その繰り返しだった。ベッドに横たわってじっと見続けている裡に、光の斑点が壁の隅を滑り落ちていった。そのとき電話が鳴った。ノリスだった。スターンウッド家の執事のいつも通り非の打ちどころのない声だ。
「マーロウ様? オフィスにお電話したのですが、不首尾に終わりまして、失礼をも省みずご自宅にお電話を差し上げた次第です」
「一晩中外出していたのでね」私は言った。「寝ていないんだ」
「さようでございましたか。もし、お差支えなかったら、将軍が今朝お目にかかりたいとのことです。マーロウ様」
「半時間かそれくらいで行ける」私は言った。「将軍の具合はどうだい?」
「横になっておられます。でも、具合は悪くありません」
「私に会うまではそうだろうね」そう言って電話を切った。》

「ねずみ色の髪をくしゃくしゃにした」は<rumpled his mousy hair.>。双葉氏は「くしゃくしゃな頭をかいた」と訳している。村上氏は「くすんだ色合いの髪をくしゃくしゃにした」だ。<mousy>は「(色、匂いなどが)ねずみのような」という意味。そういえば、最近はあまり「ねずみ色」という言葉を目にしなくなった。村上氏はそれで「くすんだ色合いの」としたのだろう。だが、わざわざ<mousy>と書いているのだから、使えばいい。「ねずみ色」は「灰色」と同様に扱われているが厳密には「やや青みがかった灰色」のこと。

「彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った」は<he said almost gently.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「と彼は優しいと言えなくもない声で言った」だ。普通なら<he said>で済ますところを、わざわざ挿入しているのだ。何とか工夫して警部の心理を表そうとするのも訳する者の務め。<almost>は「九部通り、ほとんど」を表す。村上氏の「と言えなくもない」では、優しさの量が足りていないようにも思えるが、どうだろう。

「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた」は<I was standing on various carpet most of the night, being balled out.>。双葉氏は「一晩じゅういろいろなところで、寝たり、起きたり」と意訳している。おそらく<ball out>のいい訳が思いつかなかったので<standing>を使って「寝たり、起きたり」と作文したのだろう。

村上氏は「昨夜はほとんど一晩中、あっちこっち引き回された。へとへとになるまで」と訳している。<ball out>を「ものすごい」という意味の俗語と考えたか、ゴルフでバンカーにボールを出すこと、ととったのか。しかし、その場合<ball>は<balled>と動詞のようには変化しない。<ball out>は「ひどく叱られる」という意味の<bawl out>の言い換えだろう。検事や刑事に譴責されるためにワイルドの家や殺人現場に引き回されたことを言っているのだろう。

「これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った」は<and was on my way over to Wilde’s house with Eddie Mars’ wife, who had seen me do it.>。双葉氏はここを「それから、エディ・マーズの妻をつれてワイルドの家へ行った」と訳している。<on my way>は「行く途中」で、これはオールズに電話で話した内容である。村上氏も「エディ・マーズの女房と一緒にこれからワイルド検事の家に行く。彼女は私がその男を殺すところを目撃した、と言った」と訳している。

「頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた」は<husky, with red bristles on his neck.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「頑丈そうな男で、首筋に赤い剛毛がはえていた」だ。

「私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった」は<the only print the brown man had left to back up my story.>。双葉氏は「私の話を裏づけする唯一の指紋だった」と訳し、「茶色の男」に言及していない。村上氏は「茶色ずくめの男が残した唯一の指紋として、私の話を裏付けてくれた」と訳している。

「次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ」は<The next fast one you pull>。双葉氏は「このつぎはでなことをやらかしたら」と訳している。村上氏は「次にこんな小賢しい真似をしたら」と訳している。<pull a fast one>は「人を騙す」という意味なので、双葉氏の訳は説明不足。村上氏の「小賢しい」は原義にかなっている。

<pull a fast one>が何故「人を騙す」の意味になるのか。一説によると、銃を早く抜いた方が卑怯者で、後から抜いた者は正当防衛で罪にならないという西部の掟からきているのだという。つまり、<one>は「銃」のことを指している。マーロウはカニーノに撃てるだけ撃たせてから撃っている。ワイルドが指弾しているのはそのことだ。

「私に会うまではそうだろうね」は<Wait till he see me.>。双葉氏は「会ったとき話そう」と訳している。マーロウはノリスに「(具合が悪くないというのは)将軍が私に会うまで待ってくれ」つまり、「会えば具合が悪くなる(かもしれないから)」という意味を言外に含ませている。村上氏は「私に会ったらどうなることか」と一歩踏み込んで訳している。

 

『大いなる眠り』註解 第三十章(1)

《次の日はまた太陽が輝いていた。
 失踪人課のグレゴリー警部はオフィスの窓から裁判所の縞になった最上階を物憂げに眺めていた。雨のあとで裁判所は白く清潔だった。それからのっそりと回転椅子を回し、火傷痕のある親指でパイプに煙草を詰めながら浮かぬ顔でこちらを見た。
「それで、また厄介ごとに巻き込まれたとか」
「もうあなたの耳に入ってるのか」
「やれやれ、一日中ここに尻をつけてるだけで、まるで頭に脳があるように見えないのだろうが、私が何を聞いているか知ったら君は驚くだろうよ。カニーノとかいうのを撃ったことに問題はないだろう。とは言え、殺人課の連中は君に勲章はくれないと思うね」
「私の周りで人がたくさん殺されているんだ」私は言った。「自分の取り分がまだだったものでね」
 警部はしたたかな笑みを浮かべた。「そこにいる女がエディ・マーズの女房だと誰に聞いたんだ?」
私は話した。警部は耳を傾け、そして欠伸した。窪めた掌で金歯の入った口を軽く叩いた。
「私が見つけるべきだったと考えているんだろう」
「そう考えるのが当然だ」
「知っていたかもしれない」彼は言った。「考えたかもしれない。エディと女がちょっとしたゲームをしたがってるのなら、上手くやれていると思わせておくのは気が利いてる──私にしては気が利いているとね。それとも、君はこう考えるかもしれない。私が専ら個人的な理由からエディが罪を免れるようにしたのだと」警部は大きな手を突き出し、親指を人差し指と中指にくっつけて回した。
「いや」私は言った。「そんなこと思いもしなかった。この間エディと会った時、我々のここでの話をすべて知っていたように思ったとしてもだ」
 警部は眉を上げようと骨を折っているようだったが、その芸当は練習不足で腕が落ちていた。額一面に皺が寄ったがすぐに消え、白い線のすべてが見る見るうちに赤みを帯びた。
「私は警官だ」彼は言った。「ただの平凡な普通の警官だ。適度に正直だ。流行遅れの世界で人が期待する程度には正直だ。今朝君に来てもらったのはそれが主な理由だ。信じてほしい。警官の身としては法が勝つところを見たい。派手な身なりをしたエディ・マーズのようなごろつきが、フォルサム刑務所の石切り場でマニキュアを台無しにするところが見たい。初めの仕事でドジを踏んで以来休みなしの哀れなスラム育ちの物騒な連中と並んでな。それが私の望みだ。君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる。この街では無理だ、ここの半分くらいの街でも無理、この広々として緑萌える美しい合衆国中のどこでも無理だ。我々はこの国をそのように動かしていない」
 私は何も言わなかった。警部は頭を後ろにぐいと引いて煙を吐き、パイプの吸い口を見ながら続けた。
「しかし、それは私がエディ・マーズがリーガンを殺したと考えていることを意味しない。殺す理由が思いつかないし、もし理由があったにせよ殺したとは思えない。もしかしたら何かつかんでいるのでは、と考えている。遅かれ早かれそれは明るみに出る。女房をリアリトに隠すなどというのは子どもっぽい。しかし、それは賢い猿が自分の賢さを見せつける類の子どもっぽさだ。あいつは昨夜ここにいた。地方検事の取り調べの後だ。すべて認めたよ。カニーノは頼りになる用心棒で、それが雇った理由だと言っていた。ただ、カニーノの趣味は知らないし、知りたいとも思っていない。ハリー・ジョーンズも知らないし、ジョー・ブロディも知らない。ガイガーのことは勿論知っていたが、裏の稼業については知らなかったと主張した。みんな聞いたんだろう」
「聞いた」
「リアリトではうまく立ち回ったな。小細工などせずに。近頃、我々は出所不明の銃弾のファイルを残している。いつか再びその銃を使うようなことがあれば、窮地に陥るだろう」
「私はうまく立ち回ったわけだ」私はそう言って流し目をくれた。彼は叩いて中身を捨てたパイプを、物憂げに見つめた。「女はどうなった?」彼は顔を上げずに訊いた。
「よくは知らない。警察は拘留しなかった。我々は三通の陳述書を書いた。ワイルド、郡保安官事務所、殺人課に宛てて。女は放免され、その後は見ていない。会えるとも思えない」
「どちらかといえば、いい女だそうじゃないか。悪事などしそうにない」
「どちらかといえば、いい女だ」私は言った。》

「その芸当は練習不足で腕が落ちていた」は<a trick he was out of practice on.>。双葉氏は「何かをごまかそうとするときのて(傍点一字)だ」と訳している。村上氏は「それは苦労して身につけた芸のようだ」と訳している。<out of practice>は「練習不足で腕がなまる」の意味。それがどうして、このような訳になるのかが分からない。

「君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる」は<You and me both lived too long to think I'm likely to see it happen.>。双葉氏は「君も私もずいぶん長生きしている。私がそういう場面を見たがっている気持ちはわかるだろう」と訳しているが、<too long to think>を正しく訳していない。村上氏は「ただし、そんな展開が望めそうにないことは、俺もあんたも長年の経験から承知している」と訳している。

双葉氏はこう訳したことで、それに続く以下の部分を完全に誤解してしまう。<Not in this town, not in any town half this size, in any part of this wide, green and beautiful U.S.A. We just don’t run our country that way.>を「この町でも、もっと小さい半分くらいの町でも、この広い青々とした美しい合衆国のどんな土地でも、奴らにのさばらせてはならん。私たちはそんなふうにこの国をまかなっておらんのだ」と。

村上氏は「この都市においても、またこの広大にして緑なす美しきアメリカ合衆国の、ここの半分くらいのサイズの都市ならどこといわず、そんなことはまず起こらんだろう。俺たちの国はそういう具合には運営されてないんだ」と訳している。意味としては合っているが、<not>を先頭に立てて、畳みかける原文の強い否定の意志が弱められている。それは、最後の文の主語が<we>から<our country>に代わっていることからも分かる。日本人なら国が誰かによって「運営されて」いると思うのかもしれないが、アメリカ人であるグレゴリー警部はちがう。法を守る立場にある人のこの苦々しさを薄めてはいけないと思う。

『大いなる眠り』註解 第二十九章(2)

《しばらく沈黙が下りた。聞こえるのは雨と静かに響くエンジン音だけだった。それから家のドアがゆっくり開き、闇夜の中により深い闇ができた。人影が用心深く現れた。首の周りが白い。服の襟だ。女がポーチに出てきた。体を強張らせて、木彫りの女のようだ。銀色の鬘が青白く光っている。カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た。その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった。
 女は階段を下りてきた。その顔が白くこわばっているのが見えた。車の方に歩きはじめた。私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心してカニーノが盾にしているのだ。雨音をついて話し声が聞こえてきた。ゆっくりとした話しぶりで、声はまったく調子というものを欠いていた。「何も見えない、ラッシュ、ガラスが曇ってる」
 カニーノが何かぶつぶつ言い、女は体をぴくんとさせた。まるで背中に銃を押しつけられたように。女はまた前に進み、明かりの消えた車に近づいた。その後ろに今はカニーノが見えた。帽子と横顔、広い肩が。女が凍りついたように立ち止まり、叫んだ。美しい薄衣を裂くような悲鳴は私を揺さぶった。まるで左フックを喰らったみたいに。
「見える!」彼女は叫んだ。「ガラス越しに、ハンドルの向こう側、ラッシュ!」
 カニーノはそれに飛びついた。女を荒っぽく脇に突き飛ばし、銃を構えて前に飛び出した。また三発、炎が暗闇を切り裂いた。ガラスの弾痕がまた増えた。銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った。それでも、エンジンは変わりなく動き続けていた。
 男は闇を背に、這うように身を低くした。形のない灰色の顔が、銃撃でぎらついた後ゆっくりもとに戻っていくかのようだった。もし手にしているのがリヴォルヴァーなら弾倉は空かもしれず、ちがうかもしれない。六発撃っていた。が、家の中で装填したかもしれない。それなら好都合だ。弾のない銃を手にした相手と撃ち合いたくない。ただ、オートマティックということもある。
 私は言った。「終わったのか?」
 カニーノはさっと振り向いた。たぶん古き良き時代の紳士なら、相手があと一発か二発撃つのを待っただろう。が、銃はまだこちらを狙っていて、長くは待てなかった。古き良き時代の紳士になるには時間が足りなかった。私は四発撃った。コルトは肋骨に食い込んだ。まるで蹴られたかのように男の手から銃が飛び出した。カニーノは両手で腹を押さえていた。私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた。彼は大きな両手で自分を抱くようにして真っ直ぐ前に倒れた。濡れた砂利の上に顔から落ちた。その後は何も聞こえなかった。
 銀色の鬘の女も何も言わなかった。纏わりつく雨の中、固まったように突っ立っていた。私はカニーノの方に歩いて行き、当てもなく銃を蹴った。それからさらに歩いて横に身をよじって銃を拾い上げた。それが私を女に近づかせることになった。女は憂鬱そうに語りかけた。まるで独り言でも言うように。
「私──私、心配してた。あなたが戻ってくるんじゃないかと」
 私は言った。「デートだよ。言ったはずだ、すべて台本通りだと」私は気が狂ったように笑い出した。
 それから女はカニーノの上に身をかがめ、体に触れた。少しして立ち上がった時、手には細い鎖のついた小さな鍵があった。
 彼女は苦々しく言った。「殺す必要があった?」
 私は始めたのと同じくらい突然に笑うのをやめた。女は私の背中に回って手錠を外した。
「そうね」彼女は優しく言った。「あなたはそうしなければならなかった」》

カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た」は<Canino came crouched methodically behind her.>。双葉氏は「キャニノはぴたりと彼女の背後について、彼女が歩くとおりに歩いた」と訳しているが、これでは<crouch>が訳せていない。村上氏は「彼女の背後からカニーノが、いかにも念入りに身を伏せてやってきた」と訳している。

「その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった」は<It was so deadly it was almost funny.>。簡単な文だが、<deadly>が曲者だ。双葉氏は「あまり不気味なのがかえってこっけいだった」と訳している。村上氏は「その様子があまりにも真剣だったので、見ていて吹き出したくなるほどだった」としている。それまで、マーロウはカニーノに圧倒されていた。しかし、カニーノも人の子、ということがここで分かる。ここから一気に攻勢に転じるのだ。「不気味」と訳してはまずいだろう。

「私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心して」は<in case I could still spit in his eye.>。双葉氏はここをカットしている。<in case>は「~の場合の用心に、~するといけないから」の意味。村上氏は「まだ私が健在で、彼の目に唾を吐きかけるかもしれないので」と訳している。女を盾にとる時点で、カニーノという男の値打ちが下がっている。

「銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った」は<One bullet went on through and smacked into a tree on my side. A ricochet whined off into the distance.>。双葉氏は「弾丸の一発は私のそばの立木にぶっつかった」と二つ目の文をカットしている。村上氏は「一発の弾丸は車を突き抜け、私のそばの樹木にめり込んだ。跳弾が遠くで唸りを立てた」と訳している。

三発のうちの一発<one bullet>だけが車の外に飛んできたのだ。村上氏の訳では、その一発は樹木にめり込んでいるはず。それでは遠くで唸りを立てた「跳弾」は誰が撃った弾だろう?問題は、村上氏がおそらく辞書など引かずに<into>を「(外から)~の中に(入り込んで)」という通常の意味に解釈したことにある。しかし、辞書には衝突を表す「ぶつかる」という意味がちゃんと記されている。そう解釈しないと<ricochet>という、石の「水切り」や、跳ね返った弾を表す「跳弾」が、どこから出てきたのかが分からなくなる。

「私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた」は<I could hear them smack hard against his body.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「銃弾が彼の身体にきつくめり込む音を耳にすることができた」と訳している。「身体にきつくめり込む音」という訳はどうだろうか。<smack>には「強く叩く」という意味はあっても「めり込む」という意味はない。ひとつ前の<smacked into>を「めり込んだ」と訳したのを引きずっているのではないだろうか。

双葉氏がカットした部分を村上氏が復元していることは高く評価しているが、双葉氏の訳していないところで、村上氏の勇み足が目立つような気がする。双葉氏が訳していないのは、これが正解というぴったりくる訳が見つからず、それでいて、カットしても不都合にならない箇所であることが多い。もともと新訳は旧訳に負うところが多いものだ。それだけに、旧訳にない部分はよほど気を引き締めて訳す必要がある。

『大いなる眠り』註解 第二十九章(1)

《隣の修理工場は暗かった。私は砂利敷きの車寄せと水浸しの芝生を渡った。道には小川のように水が流れていた。向こう側の溝に水が音を立てて流れ込んでいる。帽子はかぶっていなかった。きっと修理工場で落としたのだ。カニーノはわざわざ返す手間はかけなかった。私が必要としているとは思わなかったんだろう。痩せて不機嫌なアートと盗難車らしきセダンを安全な場所に残し、雨中、ひとり颯爽と引き返すカニーノのことを思い描いた。女は愛するエディ・マーズを守るために身を潜めている。従ってカニーノが帰って来たとき、女はおとなしくスタンドのそばにグラスに入った酒といて、私はダヴェンポートの上に縛られているはずだ。それから女の身の回りの物を車に運び、罪になるような証拠が残っていないか家の中を念入りに調べるだろう。女には外の車で待つように言う。女は銃声を聞かない。至近距離ならブラックジャックが効果的だ。縛って残してきたから、しばらくしたら解いて逃げるだろうと言い聞かせる。女は気がつかないと思ってるのだろう。さすが、カニーノ氏。
 コートの前が開いているが、手錠のせいでボタンが掛けられない。裾が足の所で大きな疲れた鳥の翼のようにはためいた。ハイウェイに出た。大きな水飛沫の渦をヘッドライトで照らしながら車が通り過ぎた。引き裂くようなタイヤの悲鳴はすぐに消えた。私のコンバーチブルはもとの場所にあった。二本のタイヤは修理され、装着済みだった。必要とあればいつでも走れるようになっている。すべて考えられていた。私は中に入り、ハンドルの下に横向きに潜りこみ、物入れの革の蓋を手探りで外した。もう一挺の銃をコートの下に突っ込み、引き返した。世界は狭く、閉ざされ、暗かった。カニーノと私のためだけにある世界だ。
 半分ほど行ったところで危うくヘッドライトが私をとらえそうになった。車がハイウェイから素早く脇道に入った。私は斜面を滑り降り、水で溢れる溝の中に飛び込み、水の中に息を吐いた。車は減速せず音立てて通り過ぎた。私は頭を上げ、耳を澄ませた。車が道路を離れ、車寄せの砂利を軋ませるタイヤの音が聞こえた。エンジンが止まり、ライトが消え、ドアがバタンと閉まった。家のドアが閉まる音は聞こえなかったが、縁に漏れる光が木の間隠れに見えた。窓のブラインドを動かすか、玄関ホールに明かりをつけでもしたかのように。
 私は水浸しの芝生に戻り、泥水を跳ね飛ばしながら歩いた。車は私と家の間にあった。銃は脇の下に左腕が付け根から抜けない程度に体に引きつけていた。車は暗く、空っぽで、まだ暖かかった。ラジエターの中で水が楽しそうにごぼごぼ鳴った。ドアからのぞき込むとダッシュボードにキーがついていた。カニーノはたいへんな自信家だ。私は車を回って注意深く砂利道を横切り窓まで歩き耳を澄ませた。ひっきりなしに落ちる雨粒が雨樋の底の金属継ぎ手に当たるボンボンという音のほかに、誰の声も物音も聞こえなかった。
 私は耳を澄ませて待った。大きな声は聞こえず、静かで落ち着き払っていた。カニーノはあの唸るような声で話し、女は私を逃がし、逃亡の邪魔はしないと私に約束させたことを話しているだろう。カニーノは私を信じないだろう、私がカニーノを信じないように。長居はしないはずだ。女を連れてどこかへ行くにちがいない。やるべきことは出てくるのを待つことだった。
 それができなかった。私は銃を左手に持ち替え、しゃがんで砂利をひとつかみすくい取り、窓の網戸に向かって投げた。弱弱しい努力だった。ほんの少し網戸の上のガラスに届いただけだったが、それがダムが決壊するときのような音を立てた。
 私は車まで駆け戻り、裏側のステップに乗った。家の灯りはとっくに消えていた。それっきりだった。私はステップの上で待った。無駄だった。カニーノは慎重すぎる。
 私は立ちあがり、後ろ向きに車に乗り込むと、手探りでイグニッション・キーを探り当て、それを回した。足を伸ばしたが、スターター・ボタンはダッシュボードの上にあるにちがいない。ようやく見つけ、それを引くと、スターターが軋み音を立てた。まだ暖かかったエンジンはすぐにかかった。満足そうに柔らかなエンジン音を奏でた。私は車から出てもう一度後輪のところにかがみ込んだ。
 私は今では震えていた。が、今の音がカニーノの気に入らないことを知っていた。車がなくては困るからだ。明りの消えた窓がじりじりと下がるのが、ガラスに映るわずかな光の動きで分かった。不意に炎が噴き出し、間を置かず三発の銃声が混じりあった。コンバーチブルのガラスが割れた。私は苦悶の叫びをあげた。その叫びはうめき声に、うめき声は血が塞き上げた喉の咽ぶ音に代わった。私はうんざりするほどむせぶ音を弱らせ、最後に喉を喘がせた。いい仕事だった。私は気に入った。カニーノはたいそう気に入ったようだ。大きな笑い声がした。大きな轟くような笑いだった。いつもの喉を鳴らすような話し声とは少しも似ていなかった。》

「道には小川のように水が流れていた」は<The road ran with small rivulets of water.>。双葉氏は「道は雨で小川みたいになっていた」。村上氏は「道路に沿って小川のような流れができていた。(道路の反対側の溝を、それは盛大に音を立てながら流れていた)」と訳している。括弧の部分は<It gurgled down a ditch on the far side.>。続けて読めば、村上氏が道路の反対側の側溝に水が流れていると考えていることが分かる。

しかし、そうではない。水は道の上を流れているのだ。辞書にも「〔+with+(代)名詞〕〈場所に〉〔液体などが〕流れる」<The floor was running with blood. 床には血が流れていた>という例文もある。道路に収まりきらない「水は向こう側の溝へ音立てて流れ込んでいた」(双葉訳)のだ。

「従ってカニーノが帰って来たとき、女はおとなしくスタンドのそばにグラスに入った酒といて、私はダヴェンポートの上に縛られているはずだ」は<So he would find her there when he came back, calm beside the light and the untasted drink, and me tied up on the davenport.>。双葉氏は「キャニノは、帰って来て、電気スタンドのそばで静かに飲物を味わっている彼女と、長椅子にしばられている私を見る」と訳しているが、<untasted>なのだから「味わう」ことは不可能だ。

村上氏は「だから自分が戻ったときにも彼女は、手をつけていない酒のグラスと共に、まだおとなしくフロアスタンドの隣にいるはずだ、とカニーノは考える。そしてソファの上には私がしっかり縛り上げられている」と訳している。「とカニーノは考える」は原文にはない。村上氏は原文を噛みくだくことはあるが、基本的には原文をいじることはしない。ここは原文通りに訳すと日本語として不自然になると考えたのだろうか。

「いつもの喉を鳴らすような話し声とは少しも似ていなかった」は<not at all like the purr of his speaking voice.>。第二十九章ではここまでのところ、比較的に原文に忠実だった双葉氏だが、この部分はカットしている。村上氏は「喉の奥で鳴るようないつものもぐもぐしたしゃべり方とは似ても似つかない」と訳している。<speaking voice>が指している<purr >とは「もぐもぐしたしゃべり方」ではなく「喉の奥で鳴るような」声の方ではないのだろうか。

『大いなる眠り』註解 第二十八章(3)

《女はさっと身をひるがえし、スタンド脇の椅子に戻って座ると、両掌の上に顔を伏せた。私は勢いよく足を床につけて立ち上がった。ふらついた。足が固まっている。顔の左側面の神経が痙攣していた。一歩踏み出した。まだ歩けた。必要があれば走ることもできそうだ。
「逃げろという意味か」私は言った。
 女は顔を上げずに頷いた。
「君も一緒に行った方がいい──もし生きていたいなら」
「ぐずぐずしないで。今すぐにでも帰ってくるから」
「煙草に火をつけてくれないか」
 私は隣に立って、その膝を触った。急に立ち上がった女はぐらついた。目と目が合った。
「やあ、シルバー・ウィグ」私は優しく言った。
 女は後退りして椅子を回り込み、煙草の箱をテーブルの上からすくい取った。一本振り出して私の口に乱暴に突っ込んだ。手が震えていた。小さな緑色の革張りのライターに火をつけ、煙草に近づけた。私は煙を吸い込み、湖のような碧い目に見入った。女がまだ傍にいるうちに私は言った。
「ハリー・ジョーンズという名の誰かさん(リトル・バード)がここを教えてくれたんだ。そいつはあちこちのカクテル・バーに出入りしては屑どもに代わって競馬の掛け金集めに飛び回っていた。ついでに情報も。その小鳥がカニーノについてあることを思いついた。そんなこんなでそいつと連れが君の居所をつかんだのさ。そいつは私に情報を売りに来た──どうやって知ったかについては長い話になるが──私がスターンウッド将軍に雇われていることを知ってたんだ。私は情報を手に入れたが、カニーノは小鳥を手に入れた。今となっては死んだ小鳥だ。羽は逆立ち、頸はうなだれ、嘴には血の滴がついている。カニーノが殺したんだ。しかし、エディ・マーズはそんなことはしない。そうだろう、シルバー・ウィグ? あいつは決して誰も殺さない。誰かを雇ってやらせるだけだ」
「出て行って」女は荒々しく言った。「早くここから出て行って」
 手は中空で緑色のライターを握っていた。指に力が入って、拳は雪のように白かった。
「しかし、カニーノは私が知ってるとは思ってもいない」私は言った。「小鳥殺しのことさ。私がただ嗅ぎまわってると思い込んでいる」
 女は笑った。身もだえするような笑いだった。風に揺さぶられる木のように体が揺れていた。必ずしも驚きだけではなく、中に困惑が入っているように思われた。まるで新しい考えが、前から知ってたことに付け加わえられたが、おさまりが悪いとでもいうような。それから、一度きりの笑いから抜き出す意味にしては、多すぎると思った。
「とてもおかしい」女は息を切らして言った。「とてもおかしい。だって──私はまだあの人を愛してるんだから。女というものは──」女はまた笑い始めた。
 私は耳を澄ませた。頭がずきずきした。まだ雨の音がしているだけだった。
「行こう」私は言った。「早く」
 女は二歩後ろに下がり、険しい顔になった。「出て行って! 早く出て行って! リアリトまでなら歩いていける。上手くやって──口はきかないこと──少なくとも一、二時間は。それくらいのことはしてもいいでしょう」
「行こう」私は言った「銃は持ってるのか、シルバー・ウィグ?」
「私が行かないことは知ってるでしょう。お願いだから早くここから出て行って」
 私は彼女に近づいた。ほとんど体を押しつけるところまで。
「私を逃がした後もここに残ろうというのか? 殺し屋が帰ってくるのを待って、ごめんなさいと言えるのか? 蠅を叩くみたいに人を殺すやつだぞ。たくさんだ。私と一緒に行こう、シルバー・ウィグ」
「いいえ」
「もしもだ」私は力なく言った。「君のハンサムな旦那がリーガンを殺したとしよう。あるいは、エディの知らないうちにカニーノがやったとしよう。考えてもみろ。私を逃がした後、君がどれだけ生きられると思う?」
カニーノなんか怖くない。私はまだあの男のボスの妻」
「エディなんか一握りのおかゆさ」私は怒鳴った。「カニーノならティースプーンで平らげる。猫がカナリアを襲うみたいにやつを片付ける。一握りのかゆだ。君みたいな娘が悪い男に夢中になるとき、きまって相手は一握りのおかゆなんだ」
「出て行って!」彼女はほとんど吐き出すように言った。
「いいだろう」私は女から顔を背け半開きのドアを抜け暗い廊下に出た。それから女は急いで追いかけてきて私を押しのけ、玄関扉を開けた。外の濡れた暗闇をじっと見つめ、耳を澄ませ、身ぶりで私に出てくるように合図した。
「さようなら」彼女は小声で言った。「いろいろと頑張って。でも一つだけ言っておく。エディはラスティ・リーガンを殺していない。噂に反して元気な姿をあなたはどこかで見つけることになる。あの人が姿を見せたいと思ったときに」
 私は体を前に傾け、女を壁に押しつけた。女の顔に口をつけ、そのまま話しかけた。
「急ぐことはないさ。すべて前もって手配されてたことだ。細部に至るまでリハーサル済みさ。ラジオ番組のように秒刻みでね。急ぐことはない。キスしてくれ、シルバー・ウィグ」
 女の顔は私の口の下で氷のようだった。女は両手で私の頭を持ち、唇に強くキスした。唇も氷のようだった。
 私がドアを通って外に出ると、それは私の背後で音もなく閉じた。雨がポーチの下に吹き込んできたが、彼女の唇よりは冷たくなかった。》

「ハリー・ジョーンズという名の誰かさん(リトル・バード)がここを教えてくれたんだ」は<A littlr bird named Harry Jones led me to you.>。この<a littlr bird>はニュースの出所を示す「誰かさん、ある筋」の意味で使う言葉。くり返して<littlr bird>を使うことで、ハリーが小鳥のように動いて死んだように表現している。「誰かさん」だけでは訳がついていけなくなる。

双葉氏は「ハリー・ジョーンズという奴がここを教えてくれたんだ」と、小鳥を使わずに訳しているが、後の方では「キャニノがこのかも(傍点二字)をつかまえた。もうしんじまったかも(傍点二字)だがね」と訳している。鴨を小鳥というのはちょっと苦しい。そのせいか「羽は逆立ち、頸はうなだれ、嘴には血の滴がついている」の部分はカットしている。

村上氏は「ハリー・ジョーンズという小鳥くん(リトル・バード)がここに導いてくれたんだ」と訳している。もしかしたら、村上氏は<littlr bird>に、前述の意味があることを知らなかったのではないだろうか。すべてを「小鳥くん」で通しているのは、マーロウがハリーにつけた愛称と勘違いしているのかもしれない。でなければ「彼は今では死んだ小鳥くんになっている」などという訳にはならないだろう。

「それくらいのことはしてもいいでしょう」は<You owe me that much.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「それくらいの頼みはきっと聞いてくれるわよね」と訳している。

「それから女は急いで追いかけてきて私を押しのけ、玄関扉を開けた」は<Then she rushed after me and pushed past to the front door and opened it.>。双葉氏は「と、彼女が背後から追って来て私のそばを走りぬけ、表玄関のドアをあけた」と訳している。村上氏は「彼女が背後から駆けてきて、玄関まで私を押すように導き、ドアを開けた」と訳している。

お分かりだろうか。村上氏の訳だけ、マーロウと女の位置関係がちがうことに。これは<push past>が「押しのける」という意味を持つことが分かっていないからだろう。マーロウが自らドアを開けるのは危険だと思ったから自分が先に立ったのだ。「押すように導き」では、女がどこでマーロウを追い抜いたのかが分からない。

「噂に反して元気な姿をあなたはどこかで見つけることになる。あの人が姿を見せたいと思ったときに」は<You’ll find him alive and well somewhere, when he wants to be found. >。双葉氏は「そのうちきっとどこかで生きているのがみつかるわ」と、後半部分をカットしている。村上氏は「あなたは五体満足な彼をどこかで見つけることになる。見つけられてもいいと、彼が自ら思ったときにね」と訳している。

ところで、<alive and well >には「(現存しなくなったはずのものが)生き残っていて、健在で」という意味があるのだが、両氏の訳からはそれが伝わってこない。たぶん成句だとは考えなかったのだろう。そういえば、西部劇のお尋ね者のポスターに<Dead or alive>という決まり文句があったのを思い出した。

『大いなる眠り』註解 第二十八章(2)

《女はさっと頭を振り、耳を澄ませた。ほんの一瞬、顔が青ざめた。聞こえるのは壁を叩く雨の音だけだった。彼女は部屋の向こう側へ戻って横を向き、ほんの少しかがんで床を見下ろした。
「どうしてここまでやって来て、わざわざ危ない橋を渡ろうとするの?」女は静かにきいた。「エディはあなたに何の危害も与えていない。あなたもよく分かっているはず。私がここに隠れなければ、警察はエディがラスティ・リーガンを殺したと考えるに決まってた」
「エディがやったんだ」私は言った。
 女は動かず、一インチも姿勢を変えなかった。息遣いが荒く、速くなった。私は部屋を見渡した。二枚のドアが同じ壁についていて、一方は半開きになっている。赤と褐色の格子柄の敷物、窓に青いカーテン、壁紙には明るい緑の松の木が描かれていた。家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある。
 女はものやわらかに言った。「エディはそんなことはしない。私はもう何か月もラスティと会っていない。エディはそんなことをする人じゃない」
「君はエディと別居中でひとり暮らしだ。そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」
「そんなの嘘」女は冷たく言い放った。
 私はグレゴリー警部がそんなことを言ってたかどうかを思い出そうとした。頭がぼうっとし過ぎていて、確かめられなかった。
「それにあなたに関係ない」女は付け足した。
「あらゆることが私の仕事なんだ。私は事実を知るために雇われている」
「エディはそんな人じゃない」
「おや、君はギャングが好きなんだ」
「人が賭け事をする限り、賭ける場所がいるでしょう」
「それこそ身びいきが過ぎるというものだ。一度法の外に出たらずっと外側だ。君はあいつを一介のギャンブラーだと思っているんだろうが、私に言わせれば、猥本業者、恐喝犯、盗難車ブローカー、遠隔操作の殺し屋、腐れ警官の後ろ盾だ。自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す。高潔なギャングなんて売り文句は私には通用しない。やつらはそんな柄じゃない」
「あの人は殺し屋じゃない」彼女は鼻の孔をふくらませた。
「本人はね。だがカニーノがいる。カニーノは今夜一人殺した。誰かを助け出そうとした害のない小男を。私は彼が殺すところを見たと言ってもいいくらいだ」
 女はうんざりしたように笑った。
「いいだろう」私は怒鳴った。「信じなくていい。もしエディがそんなにいい男なら、カニーノがいないところで話がしたいものだ。君はカニーノがどんなことをするやつか知っている──私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」
 彼女は頭を後ろに戻して思慮深げにそこに立っていたが、何か思いついたとでもいうように身を引いた。
「プラチナ・ブロンドの髪は廃れたと思ってた」私は話し続けた。部屋の中に音が満ちて、別の音を聞かずにいられるように。
「ばかばかしい。これは鬘。自前の髪が伸びるまでの」手を伸ばしてそれをぐいと引いた。髪は少年のように短く刈り上げられていた。それから鬘を戻した。
「誰がそんなまねをした」
驚いたようだった。「私がしたんだけど、どうして?」
「そうさ、どうしてだ?」
「どうしてって、見せるため。エディの期待通りに私は身を潜める気があるし、こうすれば見張りはいらない、と。彼の期待に背きたくない。愛しているから」
「やれやれ」私はうめいた。「で、君の方はこの部屋に私と一緒にいるわけだ」
 女は片手を裏返してじっと見つめた。それから不意に部屋を出て行った。戻ってきた手にはキッチン・ナイフが握られていた。かがみこんで私を縛っているロープを切った。
「手錠の鍵はカニーノが持ってる」息をついだ。「私にはどうすることもできない」
 女は後退りして、息を喘がせた。すべての結び目が切れていた。
「面白い人ね」女は言った。「こんな目にあってるのに一息ごとに冗談を言ってる」
「エディは人殺しじゃないと思ってたんだ」》

「一インチも姿勢を変えなかった」は<didn’t change position an inch.>双葉氏は「一インチも位置を変えなかった」と訳しているが、村上氏は「ほんの数センチも姿勢を変えなかった」とメートル法を使っている。村上氏は単位についてはメートルとキログラムを使うことにしているから、こういうふうに書かなければならないだろうが、「一歩も動かない」という言い方と同じで、実際の長さより「一」という最小の単位が大事なんじゃないだろうか。

「家具はバス停のベンチに広告を出しているような店で買ったもののように見えた。派手だが耐久性はある」は<The funiture looked as if it had come from one of those place that advertise on bus benches. Gay, but full of resistance.>双葉氏は「家具は、バスの停車場に広告を出している店から買って来たようなしろものだった」と後の文をカットしている。

村上氏は「バスの待合所に広告が出ているような店で買い集められたものみたいだ。はなやかで、しかも頑丈」と訳している。両氏とも<bus benches>を「停車場」「待合所」と訳しているが、<bus bench>で検索をかけると背凭れ部分に広告のあるベンチの画像ばかりがひっかかる。ここは待合所でも停車場でもなく、ベンチそのものについた広告ではないだろうか。

「そこの住人が写真を見てリーガンだと認めた」は<People at the place where you lived identified Regan’s photo.>。双葉氏は「君が住んでたところにはリーガンの写真があったというぜ」と訳しているが、これはまちがいだ。村上氏は「そこの住人たちはリーガンの写真を見せられて、見覚えがあるといった」と訳している。いずれにせよ、マーロウの記憶ちがいで、グレゴリー警部は、リーガンに似ていなくもない人物が夫人と一緒にいたところを見られている、と言っただけだ。

「自分をよく見せるためには何でもする。金になるなら何にでも手を出す」は<He’s whatever looks good to him, whatever has the cabbage pinned to it.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「彼は見栄えを整えるためなら何にだってなるし、金になるものなら何だって取り込む人間だ」と訳している。<cabbage>は「キャベツ」だが、俗語で「紙幣」の意味がある。「やつらはそんな柄じゃない」は<They don’t come in that pattern.>。双葉氏はここもカットだ。村上氏は「そんなものは通用しない」と訳している。

「私の歯を折っておいて、もぐもぐ言うからと腹を蹴るんだ」は<beat my theeth out and then kick me in the stomach for mumbling.>。双葉氏はここを「僕の歯をへし折ったうえ、腹までけっとばしたんだ」と過去形で訳している。ここは、カニーノがどんな人物かを説明しているところで、あくまでも喩え話だ。村上氏は「まず私の歯を叩き折って、それからもぞもぞとしかしゃべれないといって、私の腹を蹴り上げるようなやつだ」と相変わらず丁寧に訳している。

 

『大いなる眠り』註解 第二十八章(1)

《どうやら女がいるらしい。電気スタンドの傍に坐り明かりを浴びている。別の灯りが私の顔にまともに当たっていたので、一度目を閉じて睫の間から女を見ようとした。プラチナ・ブロンドの髪が銀でできた果物籠のように輝いていた。緑のニットに幅の広い白い襟付きのドレスを着ている。足もとに艶のある角が尖ったバッグを置いていた。煙草を吸っていて、琥珀色の液体が入った背の高い淡色のグラスが肘のあたりに見えた。
 私はそろそろと頭を少し動かした。痛かったが、思ったほどではなかった。私はオーヴンに入れられるのを待つ七面鳥のように縛り上げられていた。両手は後ろで手錠をかけられ、一本のロープがそこから足首に回され、その端が私が転がされている茶色のダヴェンポートにあった。ロープはダヴェンポートの向こうに落ちていてここからは見えなかった。それがしっかり結ばれているのを確かめられるくらいは動けた。
 私はこそこそ動くのをやめ、もう一度目を開けて言った。「やあ」
 女はどこか遠くの山の頂をながめていた目をこちらに向けた。小さく引き締まった顎がゆっくり振り向いた。眼は山の湖の碧だった。頭の上では、まだ雨が屋根を叩いていた。どこか遠く、まるで他人事のように。
「気分はいかが?」なめらかで髪の色に似合った銀の鈴を振るような声だ。小さなちりんちりんという響きが、まるでドール・ハウスについた呼び鈴のようだ。そう考え、すぐに我ながら馬鹿なことを考えると思った。
「上々だ」私は言った。「誰かが私の顎にガソリン・スタンドを建てたようだ」
「何がお望みだったの、ミスタ・マーロウ──蘭の花?」
「しごく地味な白木の箱さ」私は言った。「青銅や銀の取っ手は邪魔だ。灰は青い太平洋上に撒かないでくれ。まだミミズの方がいい。知ってたかい? ミミズは両性具有でね、他のどのミミズとも愛しあえるって」
「あなたは少し軽率ね」厳しい目つきで彼女は言った。
「この灯り、どうにかしてくれないかな?」
彼女は立ってダヴェンポートの後ろに回った。明かりが消えた。薄暗さは祝福だった。
「あんまり危険そうに見えないわね」彼女は言った。背はどちらかといえば高い方だが、ひょろ長くはなかった。細身だったが、痩せすぎてはいなかった。彼女は椅子に戻った。
「私の名前を知ってるんだ」
「よく眠ってたわ。あの人たちがあなたのポケットを探る時間はたっぷりあった。防腐処理を施す以外はみんなやったわね。それで探偵だと分かったの」
「私について分かったのはそれだけなんだね?」
 彼女は黙っていた。煙草から微かに煙がたちのぼった。それを手で払いのけた。小さく形の整った手だった。今どきの女によく見かける骨ばった園芸用具のような手ではなかった。
「今何時だ?」私は言った。
 彼女は横を向き、螺旋を描く煙越しにスタンドのくすんだ灯りの際に置いた手首を見た。
「十時十七分、デートの約束でもあるの?」
「ひょっとして、ここはアート・ハックの修理工場の隣の家か?」
「そうよ」
「二人は何をしてるんだ──墓堀りか?」
「どこかへ出かけたの」
「君一人置いてかい?」
彼女の頭がまたゆっくりこちらを振り返った。微笑んでいた。「あなたはちっとも危険に見えないもの」
「君は囚人のように扱われてると思い込んでた」
驚いたようではなかった。むしろ少し面白がっているようだった。「どうしてそう思ったの?」
「君が誰だか知ってる」
 限りなく青い眼がきらりと光った。あまりにも素早かったので危うくその一閃を見逃すところだった。剣でひと薙ぎするような一瞥だった。口は堅く結ばれていたが声は変わらなかった。
「なら、残念ながらあなたは窮地に陥ったわね。殺しは嫌いだけど」
「エディ・マーズ夫人だろう?恥ずかしくないのか」
 それが女の気に障った。こちらをにらんだ。私はにやりとした。「このブレスレットを外せないのなら、そうしない方が賢明だが、置きっぱなしにしてるその酒、一口飲ませてもらえないかな」
 女はグラスを持ってきた。偽りの希望のような泡が立っていた。女は私の上にかがみ込んだ。息は子鹿の目のように繊細だった。私はグラスからごくごく飲んだ。女は私の口からグラスを離し、私の首を流れ落ちる液体をながめた。 
 女はもう一度私の上にかがんだ。血が私の体内に巡りはじめた。入居予定者が家を見て回るように。
「あなたの顔、船の防水マットみたいよ」彼女は言った。
「今のうち思う存分楽しむといい。長くはもたないから」

「知ってたかい? ミミズは両性具有でね、他のどのミミズとも愛しあえるって」は<Did you know that worms are both sexes and that any worm can love any other worm?>。双葉氏は「うじ虫にも雌と雄があって愛し合うってことを君は知ってるかい?」と訳している。<worm>は「蠕虫(ぜんちゅう)」のことで、うじ虫もミミズもその仲間に入る。ただ、「雌と雄があって」という訳では面白さが伝わらない。村上氏は「虫が両性具有だって知ってたかい? だから虫はどんな虫とでも愛を交わせるんだ」と訳している。つまり、相手を選ばないのだ。村上氏の問題は「虫」としたことだ。日本語で虫といえば昆虫も入る。すべての虫が両性具有というわけではない。

「あなたは少し軽率ね」は<You’re a little light-headed>。双葉氏は「あなた、すこしお調子者ね」と訳している。村上氏は「あなた、まだ頭がちょっとずれてるみたいね」だ。<light-headed>には、「頭がふらふらする」と「思慮が足りない」の両義がある。さて、この場合どちらを使うのが正しいのだろう。

「偽りの希望のような泡が立っていた」は<Bubbles rose in it like false hopes.>。双葉氏は「むなしい希望みたいな泡が立っていた」と訳している。村上氏は「ピンク色の泡が儚(はかな)い希望のように立っていた」と訳している。<rose>を「薔薇色」と誤読したのだろう。ピンクシャンパンか何かを思い浮かべたのがまちがいのもとだ。もちろん、ここは動詞<rise>の過去形だ。でないと、「立っていた」が出てこない。村上氏は一つの語を二回訳している。

「今のうち思う存分楽しむといい。長くはもたないから」は<Make the most of it. It won’t last long even this good.>。双葉氏は「まあそんなところだろう」と訳しているが、<Make the most of it. >はよく使われる決まり文句で「~を存分に楽しむ」くらいの意味。村上氏は「せいぜい有効に利用するんだね。丈夫に見えて、あまり長持ちしそうにはないから」と訳している。<It won't last long>は「~も長くは続かない」という意味。村上氏は<this good>をマーロウ自身と考えているようだが、これは顔の状態を指しているのではないか。つまり、今は防水マットのようでも、そのうち元に戻るという意味なのでは。