HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第一章

「チャンドラーの長篇全冊読み比べ」は、チャンドラーの長篇を原書と新旧訳を読み比べる企画。今回は第三弾。「『さらば愛しき女よ』を読み比べる」。定評のあった清水俊二氏の旧訳に対し、村上春樹氏が新訳を発表した時、賛否両論の声が湧きあがった。それは単に旧訳に慣れたオールド・ファンの反発という性格のものでもなかった。英語の翻訳についての批判もかなり含まれていたように覚えている。

それまで翻訳を通じてしか知らなかったチャンドラーの世界について、もっと直に触れたいという気持が生まれたのは、村上氏がこれを機会に読み比べる読者が増えることを望んでいる、というような意味の言葉をあとがきに書いていたからだ。海外のペーパーバックが簡単に手に入るようになったことも大きかった。

それでは、とまず手にとったのが『長いお別れ』。この時は新旧訳の比較が主だった。次に『大いなる眠り』を読みかけたとき、自分でも訳してみたいという欲が出た。逐語訳でいいから、できる限り原書に近い翻訳というか、英文和訳のようなものを書きはじめた。そのうちに翻訳について書かれた本を読むようになり、いつまでも英文和訳ではいけないような気がし始め、翻訳に近づきたいと考えるようになった。

そして今回の『さらば愛しき女よ』に至る。《 》で挿まれている部分が拙訳である。その後に三冊を読み比べての感想が続く。素人のやることなので誤りも多いと思う。気がつかれたら教えていただきたいと思っています。よろしくお付き合いください。

《そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックの一つで、まだ黒人だけが住む地区にはなっていなかった。私は椅子が三つしかない床屋から出てきたところだった。ディミトリアス・アレイディスという名の理髪師がそこで臨時雇いで働いているかもしれないというのが紹介所の考えだった。些細な件だった。夫を家に連れ戻してくれたら礼金を払うと妻が言ったのだ。私は男を見つけ出せなかった。が、アレイディス夫人も一銭も払わずにすんだ。
 三月も終わろうかという暖かい日で、私は床屋の外に立って二階から突き出したネオンサインを見上げていた。<フロリアンズ>という名の食事と骰子博打を売りにした店だ。一人の男が同じようにネオンサインを見上げていた。男は顔にうっとりしたような表情を浮かべ、埃まみれの窓を見上げていた。まるで初めて自由の女神像を目にしたヨーロッパからの移民のように。大男だが背丈はせいぜい六フィート五インチ、肩幅もビール・トラックより広くなかった。男と私は十フィートくらい離れていた。頼みの綱の両腕はだらりと垂れ、大きな指の後ろで忘れられた葉巻から煙が上がっていた。
 通りを行き来する痩せて黙りこくった黒人たちは横目でちらりと男を見やった。男には一見の価値があった。毛羽立ったボルサリーノ帽をかぶり、ボタン代わりに白いゴルフボールのついたラフなグレイのスポーツジャケット、茶色のシャツに黄色いネクタイ、タック入りのグレイ・フランネルのスラックスに、爪先が真っ白な鰐革の靴。胸ポケットからはネクタイと揃いの鮮やかな黄色のハンカチが滝のようになだれ落ちていた。帽子の帯には色鮮やかな羽根を二本挿んでいたが、実のところそれは余分だった。セントラル・アヴェニューは世界でいちばん地味な服装で知られた場所ではないが、男はまるでエンジェル・フード・ケーキの一切れの上に乗ったタランチュラと同じくらい人目を引かなかった。
 肌の色は青白く、無精髭が伸びていた。すぐに伸びる質らしい。髪は黒い巻き毛で濃い眉はもう少しで肉厚の鼻の上で繋がりそうだった。体に似合わず小ぢんまりとした耳で、眼には涙で潤んだような輝きがあった。灰色の眼にはしばしば見受けられるものだ。男は彫像のように立っていたが、しばらくすると微笑みを浮かべた。
 男は舗道をゆっくり横切って、二階へ続く階段を隔てる両開きのスウィング・ドアまで行った。ドアを押し開け、冷たく無表情に往来を一瞥して、中に入った。男が小柄で、もっと目立たない服を着ていたら、強盗でもやるところかと思ったことだろう。しかし、あんな服装で、あの帽子をかぶって、あの体格では考えられない。
 ドアは反動で外に揺れて、あと少しで止まりそうだった。完全に静止する寸前、再び乱暴に外に開かれ、何かが舗道の上を飛び越し、駐車していた二台の車の間の溝に落ちた。それは地面に這いつくばり、追いつめられた鼠のような声をあげた。やがてゆっくり起き上がり、帽子を拾い上げ、後じさりして舗道に上った。痩せて肩幅の狭い褐色の顔の若者でライラック色のスーツにカーネーションを差していた。黒い髪を撫でつけ、口を開けてしばらく情けない声を出していた。人々はぼんやりとそれを眺めていた。それから男は帽子を斜にかぶり直し、こそこそと壁際に寄り、ぎこちない足取りで音もなくブロックを歩いて行った。
 静寂。往来が戻ってきた。私は両開きのドアに向かって歩き、その前に立った。ドアはもう動いていなかった。私とは何のかかわりもなかった。かくして、私はドアを押し開けて中を覗いた。
 暗がりから、腰掛けられそうなほど大きな手が伸びてきて私の肩をつかみ、粉々に握りつぶそうとした。それからその手がドア越しに私を引っ張り込み、苦もなく階段を一段ぶん持ち上げた。大きな顔が私を見た。深く柔らかな声が静かに私に言った。
「ここにどうして黒人がいるんだ? なあ、教えてくれよ、おい」
 そこは暗かった。人気がなかった。階上には人の立てる物音が聞こえてきたが、階段にいるのは我々だけだった。大男は真面目くさった顔で私をじっと見つめ、その手は私の肩を壊し続けていた。
「黒いのだ」彼は言った。「一人追い出してやったよ。放り出すところを見たろう?」
 男は私の肩をやっと放した。骨は折れていないようだが、腕はしびれていた。
「ここはそういう店なんだ」私は肩をさすりながら言った。「どうしろっていうんだ?」
「それを言っちゃ、おしまいだ」大男は正餐後の四匹の虎のようにそっと喉を鳴らした。「ヴェルマがここで働いてたんだ。かわいいヴェルマが」
 男は再び私の肩に手を伸ばした。避けようとしたが、相手は猫より素早かった。鉄の指が私の筋肉をさらに砕きはじめた。
「そうさ」彼は言った。「かわいいヴェルマだ。おれはもう八年も会えずにいたんだ。あんた、ここは黒いのの店になったと言うのか?」
 私はしわがれ声で、そうだと言った。
 男は私をもう二段ぶん持ち上げた。私は身をよじって肘が自由に動く余地を作ろうとした。銃を持ってきてなかった。ディミトリアス・アレイディス捜しにそんな物が要りそうだとは思わなかったのだ。銃を持ってきた方がよかったかどうかは疑わしかった。おそらく大男は私から取り上げて食べてしまうだろう。
「上に行って自分で見てみるんだな」苦しそうに聞こえないような声で、私は言った。
 男はまた私を放した。私を見る灰色の眼には悲しみのようなものがあった。「おれは気分がいいんだ」彼は言った。「誰とも喧嘩なんかしたくない。二人で上に行ってちびちびやろうじゃないか」
「あいつらが飲ませるものか。ここは黒人の店だと言ったはずだ」
「ヴェルマに八年会ってないんだ」深い悲しみを湛えた声で彼は言った。「さよならを言ってから八年もたってる。六年前から手紙も来なくなった。訳があるにちがいない。昔はここで働いていた。かわいいい娘だった。いっしょに上に行こう。なあ」
「分かった」私は叫んだ。「いっしょに行くよ。ただ運ばれるのは願い下げだ。歩かせてくれ。どこも悪くない。大人だし、便所にも一人で行ける。運ぶのだけはやめてくれ」
「かわいいヴェルマがここで働いてたんだ」彼は優しく言った。私の言うことなど聞いていなかった。
 我々は階段を上がった。自分の足で歩いた。肩はずきずきした。首の後ろがじっとり湿っていた。》

まず冒頭の「そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックの一つで、まだ黒人だけが住む地区にはなっていなかった」。原文は<It was one of the mixed blocks over on Central Avenue, the blocks that are not yet all Negro.>。清水氏は「セントラル街には、黒人だけが住んでいるわけではなかった。白人もまだ住んでいた」と、訳している。こなれた訳だが、黄色人種を忘れている。村上氏は如才なく「そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックのひとつだった。つまり黒人以外の人間も、まだ少しは住んでいるということだ」と無難に訳している。

「ディミトリアス・アレイディスという名の理髪師がそこで臨時雇いで働いているかもしれないというのが紹介所の考えだった」は<where an agency thought a relief barber named Dimitrios Aleidis might be working..>。問題はこの<agency>をどう採るかだ。清水氏は「職業紹介所からまわされたディミトリアス・アレイディスという理髪職人がそこで働いているはずなのだった」と訳している。つまり「職業紹介所」という理解である。

村上氏は「ディミトリアス・アレイディスという理髪職人がその店で臨時雇いとして働いているかも知れないという情報を、調査エージェンシーから得ていたのだ」と訳している。つまり探偵業者が頼りにする「調査エージェンシー」と考えている。マーロウは、たしかに、他の機関に調査を依頼することがある。大手の方が広く情報を収集できるからだ。しかし、職業が分かっているなら「職業紹介所」に電話するという手もある。原文からは、どちらとも判別するのは難しい。こういうときは原文通りに訳すことにしている。

「私は男を見つけ出せなかった。が、アレイディス夫人も一銭も払わずにすんだ」は<I never found him, but Mrs. Aleidis never paid me any money either.>。<never>を繰り返すことで対比の効果を狙うチャンドラーらしい文だ。前後をつなぐ<but>をどう処理するか。清水氏は「男はその店にいなかった。結局、私はアレイディス夫人から一門も金をもらえなかった」と、あっさり訳している。

村上氏はというと「結局その男は見つからなかった。でもそんなことを言えば、ミセス・アレイディスにしたって、一銭の報酬も払ってくれなかった」と一応<but>を意識した訳にしている。ただ、「私」と「夫人」を対比して<never>を使っている作家の意図は生かされていない。「私は夫人の意に沿うことができなかったが、夫人もまた私の意に沿うこと(金を出す)ことはしなかった」。これで痛み分け、ということではないのだろうか。

「頼みの綱の両腕はだらりと垂れ」は<His arms hung loose at his aides>。清水氏は「腕をぶらりと下げて」。村上氏は「両腕はだらんと脇に垂れ」と訳している。<aide>は「副官、助手」の意味だが、両氏ともこれについては無視を決め込んでいる。状態としてはその通りなのだが、何か気になる。その後大活躍することになる両腕だ。敬意を表して意訳してみたが、自信はない。

大男の奇抜な服装も要注意だ。「毛羽立ったボルサリーノ帽」は<a shaggy borsalino hat,
>。映画『ボルサリーノ』以来、知られるようになったが、もともと「ボルサリーノ」はブランド名。この店が開発したソフトな帽子が出るまでは、男性用の帽子は硬い生地で固められた物ばかりだった。問題は<shaggy>だ。「毛羽立った」の意味が主だが、「だらしない」といった意味もある。清水氏は「形のくずれたやわらかいソフト帽」と訳している。村上氏は「けばだったボルサリーノ帽」だ。材質がフェルトということで「毛羽立った」としたが、清水訳も捨てがたい。

もう一つ「タック入りのグレイ・フランネルのスラックス」<pleated gray flannel slacks>がある。清水氏は「よれよれになった灰色のフランネルのズボン」と訳す。どうやら清水氏はこの大男に、伊達ではなく落魄の気配を感じている様子が見て取れる。村上氏は「プリーツのついたグレイのフランネルのズボン」と、こちらはパリッとした印象を受けている様子。正反対だが「pleated」の「プリーツ」とは、折り目というよりは「襞」のことで、男物のズボンなら「タック」の入ったものを意味する。1940年代、ギャング・スターならズート・スーツできめていたはず。だぶだぶのズボンはツータックだったかもしれない。

「男はまるでエンジェル・フード・ケーキの一切れの上に乗ったタランチュラと同じくらい人目を引かなかった」は<he looked about as inconspicuous as a tarantula on a slice of angel food.>。清水氏は「この男はエンジェル・ケーキの上の一匹の毒蜘蛛のように人眼をひいた」。村上氏は「それでも彼はエンジェル・ケーキに乗ったタランチュラみたいに人目をひいた」だ。

<inconspicuous>は<conspicuous>「目立つ、人目を引く」の前に<not>の意味を表す接頭辞<in>がついていることで、「目立たない、人目を引かない」の意味になる。わざわざ、この語を用いているのだから、ここは逆説の用法と考えるべきではないか。それを両氏のように訳したのでは、作者の意志を裏切るような気がする。事程左様にチャンドラーの文章は素直ではない。訳者にすれば、分かりよく訳したいのはやまやまだが、そうすると原文からは外れることになる。痛しかゆしというところか。

「すぐに伸びる質らしい」は<He would always need a shave.>。清水氏は「いつでも、ひげ(傍点二字)のあとが眼につく男にちがいない」。村上氏は「いついかなるときにも髭剃りが必要に見えるタイプなのだろう」。村上氏の訳にまちがいはないのだろうが、必要以上に勿体ぶっている気がする。こういうところが評価の分かれるところだろう。

「両開きのスウィング・ドア」は<double swinging doors>。西部劇に出てくる酒場の入口を思い出してもらえればイメージしやすいのだが、近頃、西部劇自体を目にすることがないので難しいかも知れない。両側の柱に蝶番で止められた二枚のルーバーのドアだ。清水氏は「二重ドア」と訳している。これは『長いお別れ』のときにも書いたので、詳しくはそちらを。村上氏は「両開きのスイング・ドア」としている。

「ぎこちない足取り」と訳したところは<splay-footed>。清水氏は「びっこをひきながら」。村上氏は「偏平足みたいな足取り」。<splay-footed>は辞書で引くと「偏平足」と出てくる。『大いなる眠り』では<flatfoot>を使っていて、この時も双葉氏は「偏平足みたいな歩き方」と訳していた。ただ、この時は村上氏は「はたはたとした足取り」という訳を採用していたのだが、ここでは「偏平足みたいな足取り」と訳している。アメリカ人は見ただけでその人が偏平足だと分かるのだろうか。年来の疑問の一つである。

「かくして、私はドアを押し開けて中を覗いた」は<So I pushed them open and looked in.>。清水氏は「私はドアを押しあけて、中をのぞいた」と、あっさり訳している。村上氏は「なのに私はその扉を押し開け、中をのぞき込んだ。そういう性分なのだ」と、一歩踏み込んで訳している。

「私とは何のかかわりもなかった」< It wasn't any of my business.>と< I pushed them open and looked in.>をつなぐ<so>をどう扱うかのちがいだ。清水氏の「順接」という解釈もありだが、気持ち的には村上氏の「逆接」の方が原文により近い気がする。かといって「そういう性分なのだ」までつけ加えるのはどうだろう。「かくして」前述のような訳に相成った次第。

「自分の足で歩いた」は<He let me walk.>。清水氏はここをカットしている。その前に「われわれは階段を上って行った」とあるから、わざわざ書かなくても分かると考えたのかもしれない。村上氏は「彼は私を歩かせてくれた」とそのまま訳している。その通りなのだが、かなり翻訳調に感じられる訳ではある。ただ、村上訳はすべてがこの調子の翻訳調なので別に違和感はない。そういう文体と思えばいいだけのことだ。それが鼻につくようなら自分で訳してみればいい。それはそれで結構愉しい経験になる。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(3)

《「いいか」私は重々しく続けた。「妹を連れ出せるか? どこかここから遠く離れたところにある、君の妹のようなタイプを扱い慣れ、銃やナイフやおかしな飲物を遠ざけておいてくれるところだ。ああ、君の妹だって治るかもしれない。そういう例もある」

 ヴィヴィアンは立ち上がるとゆっくり歩いて窓のところまで行った。足もとにはずっしりした厚地の象牙色のカーテンが折り重なっていた。その襞の間に立って外を見た。目の前には静かに暮れなずむ山麓が広がっていた。身じろぎもせず、まるで襞の中に紛れるように立っていた。両手は脇にだらんと垂れ、手はぴくりとも動かなかった。それから振り返って部屋の中を戻ってきたが、私を見もしないで通り過ぎた。私を背にしたとき、はっと息を呑み、話した。

「ラスティは汚水溜めの中にいる」彼女は言った。「惨めに腐り果てて。私がやった。あなたが言ったとおりのことをした。私はエディ・マーズのところに行った。妹は家に帰ると、ありのまま話した。子どもみたいに。妹は普通じゃない。警察は妹からすべてを聞き出すと思った。妹はすぐに自慢気にしゃべり出すだろう。もし父の耳に入れば、即座に警察を呼び、すべてを話すはず。そして、その夜の裡に死んでいた。問題は父の死じゃない──死ぬ前に父が何を思うかということ。ラスティは悪い人じゃなかった。私は愛していなかったけど。立派な人だと思う。でも、死のうが生きようが、私にはどっちでもよかった。父に知られないようにすることに比べれば」

「そして君は妹を好きなようにさせている」私は言った。「また別の騒動を起こすために」

「私は時間を稼いでいた。ただの時間稼ぎ。もちろんそれは間違った態度だった。ひょっとしたら妹は自分のしたことを覚えていないのでは、と思った。発作のときに起きたことは記憶に残らないと聞いたことがある。たぶん思い出すこともないだろう、と。エディ・マーズが財産を搾り取ろうとするのは分かっていた。でも構わなかった。私は助けを必要としていて、頼れるのはエディのような人だけだった……ほとんどすべてが自分でも信じられないときがあった。また別のときはすぐ酔っぱらわなきゃならなかった──どんな時でも、恐ろしいほどの勢いで」

「妹を連れだすんだ」私は言った。「それこそ、恐ろしいほどの勢いで」

彼女はまだ私に背を向けていた。声は優しくなっていた。「あなたは?」

「なにもしない。私は引き揚げる。三日の猶予をやろう。それまでに君が消えたら──それでいい。もしそうしなければ、事件は明るみに出る。本気じゃないなどと考えないことだ」

 女は突然振り返った。「あなたに何と言ったらいいかが分からない。何から始めたらいいのかも」

「いいさ。妹をここから連れ出し、一分たりとも目を離さないことだ。約束できるかい?」

「約束する。エディには──」

「エディのことは忘れろ。少し休んだら私が会いに行く。エディの扱いは私に任せておけ」

「エディはあなたを殺そうとする」

「そうだな」私は言った。「それは一番の腕利きにもできなかった。他の連中を試してみよう。ノリスは知ってるのか?」

「ノリスは決して言わない」

「知ってると思ってたよ」

 私は女をその場に残し、急いで部屋を出た。外のタイル敷きの階段を下りて玄関に出た。家を出るとき誰一人会わなかった。今回は自分で帽子を見つけた。外に出ると、明るい庭園が幽霊でも棲みついているかのように見えた。まるで小さな血走った目が藪の陰から私を見張っているような気がした。陽光そのものが光の中に何か謎めいたものを孕んでいるように思われた。私は車に乗り込み、丘を下った。

 一旦死んでしまえば、どこに寝かされようが構いはしない。そこが不潔な汚水溜めの中だろうと、高い丘の上に建つ大理石の塔の中だろうと、何の変わりがあるだろう? 死者は大いなる眠りに就いており、そのようなことに煩わされることがない。石油も水も死者にとっては風や空気のようなものだ。死者はただ大いなる眠りの中におり、どんな死に方をし、どこへ倒れようが、その汚れを気にすることはない。私はといえば、今ではその汚れの一部だ。ラスティ・リーガン以上に、汚れの一部と化している。しかし、あの老人にその必要はない。静かに天蓋付きの寝台に横たわり、血の気の失せた両手をシーツの上に組んで、待つだけでいい。心臓は短く不確かな心雑音を立てている。思考は灰燼のごとくどんよりしている。まもなく、ラスティ・リーガンのように、大いなる眠りに入ることだろう。

 

 ダウンタウンへの帰り道、一軒のバーに車を停め、スコッチをダブルで二杯飲んだ。それは何の役にも立たなかった。シルバー・ウィグのことを思い出させただけだった。その女とは二度と会うことはなかった。》<完>

 

「そういう例もある」は<It’s been done.>。双葉氏はこれをカット。村上氏は「そういう例もある」。「足もとにはずっしりした厚地の象牙色のカーテンが折り重なっていた。その襞の間に立って」は<The drapes lay in heavy ivory forlds beside her feet.She stood among the fords>。双葉氏はここもカット。ただ、さすがに「ついたて」はやめて「窓掛けに溶けこむようだった」と訳している。村上氏は「象牙色の厚いカーテンの裾が、彼女の足下に折り重なっていた。彼女はその布の堆積の脇に立って」と訳している。

 

「手はぴくりとも動かなかった。それから振り返って部屋の中を戻ってきたが、私を見もしないで通り過ぎた。私を背にしたとき」は<Utterly motionless hands. She turned and came back along the room and walked past me blindly. When she was behind me>。双葉氏はこれだけの部分を「私のほうへ帰ってくると」と大胆に省略して訳している。村上氏は「手は完全にぴくりとも動かなかった。彼女は振り向き、部屋を横切り、私の前を、私など眼中にないような顔で通り過ぎた。私の背後にまわったとき」と訳している。

 

「惨めに腐り果てて」は<A horrible decayed thing.>。双葉氏はこれもカット。最後だというのにやけにカット部分が多いのが気になる。村上氏は「もうぼろぼろに朽ち果てているわ」だ。「警察は妹からすべてを聞き出すと思った。妹はすぐに自慢気にしゃべり出すだろう」も双葉氏は「警察に知られればおしまいだと思った」と簡単に訳す。原文は<I kew the police would get it all out of her. In a little while she would even brag about it.>。村上氏は「もし警察に連絡したら、彼らは妹が撃ったことを即座に見破ったでしょう。そのうちに妹は、自分がやったことをみんなに吹聴するようにさえなったでしょう」と訳している。

 

「問題は父の死じゃない──死ぬ前に父が何を思うかということ」も双葉氏はカット。原文は<It’s not his dying──it’s what he would be thinking just before he died.>。ヴィヴィアンが何故そんなことをしたのか、その理由を語った重要な台詞なのに、なぜここをカットするのだろう。村上氏は「死ぬこと自体は仕方ない。問題は、父がどんな気持ちで死んでいくかよ」と、さすがに手馴れた訳だ。村上氏の方は最後ということもあって、いつも以上に力が入っている。

 

「私は時間を稼いでいた。ただの時間稼ぎ。もちろんそれは間違った態度だった。ひょっとしたら妹は自分のしたことを覚えていないのでは、と思った。発作のときに起きたことは記憶に残らないと聞いたことがある。たぶん思い出すこともないだろう、と」のところで、例のごとく<forget>が三度繰り返されている。原文を見てみよう。

 

<I was playing for time, just for time. I played the wrong way, of course. I thought she might even forget it herself. I’ve heard they do forget what happens in those fits. Maybe she has forgotten it.>。ここを双葉氏は「私、時間が解決してくれると思っていたの。妹は自でも事件を忘れると思ったの。発作のときは覚えていないという話ですものね」と、大胆に省略して訳している。

 

村上氏は「時間を稼いでいるのよ。ただの時間稼ぎよ。もちろんそれは正しいやり方じゃない。妹はそのことを、覚えてもいないんじゃないかと思う。そういう発作のあいだに起こったことは、記憶に残らないんだって聞いたことがある。たぶんすっかり忘れているんでしょう」と、訳している。<forget>を「覚えている」「記憶に残る」「忘れる」の三つを使い分けることで、重複の煩わしさを避けているところは上手いものだ。

 

マーロウが妹に撃たれかけたことを聞いて、ヴィヴィアンは自分のしたことを後悔しているのだろう。この部分はその言い訳である。それを村上氏のように現在形の時制で訳したのでは、開き直りに聞こえてしまう。英文の過去の時制をそのまま訳すと「…した。…した」となるので、訳文に現在形を使うことはある。しかし、それはあくまでも日本語の文として調子を整えるためであって、原文の意味が変わることがあってはならない。

 

双葉氏がカットした箇所があと二つある。「本気じゃないなどと考えないことだ」と「何から始めたらいいのかも」。前者は<And don’t think I don’t mean that.>。後者は<I don’t know how to begin.>。どうして、ここに来てわずかな手間を惜しんだのか、その理由が分からない。村上訳は「私が本気じゃないと思わない方がいいぜ」、「どこから始めればいいのか、私には分からない」と、最後まで手を抜かない。

 

「死者は大いなる眠りに就いており、そのようなことに煩わされることがない」は<You were dead, you were sleeping the big sleep, you were not bothered by thngs like that.>。この<you>は「人は(誰でも)」の意味だと思うが、双葉氏は「君は死んでしまった。大いなる眠りをむさぼっているのだ。そんなことでわずらわされるわけがない」と、訳している。ラスティへの語りかけ、ととったのだろう。まちがってはいないが、リーガンはすでに死者の仲間入りを果たしている。ここはラスティ・リーガン個人ではなく、すべての死者と取る方が意味深くなるように思う。村上氏も「死者は」と訳している。

 

末尾の「その女とは二度と会うことはなかった」は<and I never saw her again>。ハード・ボイルドらしい余韻の残る言葉だ。双葉氏は「その彼女にも、もう二度と会わないだろう」と訳しているが、<and>以下はこの話を語ってきた話者としての締めくくりの一文と考えたい。その時間の隔たりが余韻を生む。村上氏は「そのあと彼女には一度も会っていない」と訳している。

 

足かけ四年がかりで読んできた『大いなる眠り』も、これでようやく終えることができた。村上氏の真似をして午前中はこれにかかりきりだった(午後は読書にあてた)。はじめはBGMを聴く方も真似してみたが、集中できなくなるので、これはやめた。原書と新旧二冊の翻訳を読み比べる作業はおもしろかった。

 

途中で翻訳に関する参考書を何冊か読んだことで、後半は翻訳の文章が変わってきたと思う。会話を繋ぐところ以外では「彼女、彼」を使うことを極力避けた。また、女性の会話の最後に「よ、ね、わ」をつけることもやめた。どちらも、無意識にやっていたので、あらためて意識すると、それまでのようにはいかなくなった。生硬な文のように感じられたかもしれない。しかし、原書には女性と男性の間に特に違いはない。厳密にやり過ぎるのはよくないが、しばらくはこの方法でやってみたい、と考えている。

 

次回からは『さらば愛しき女よ』を三冊読み比べてみたい。清水氏の訳した文庫本が見つからないので、古本屋を漁りに行く必要がある。近頃、近くの古書店が相次いで店を閉めた。うまく見つからなければ、密林をあたるしかない。できたら地元の本屋で買いたいものだ。

 

長い間のお付き合い、ありがとうございました。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(2)

《私は煙草を渡し、マッチに火をつけて差し出した。ヴィヴィアンは肺一杯に煙を吸い込むと乱暴に吐き出した。それからは煙草は指の間で忘れられたようで、二度と吸われることはなかった。
「さてと、失踪人課はラスティを見つけられないでいる」私は言った。「そんなに簡単なことじゃない。警察にできないことが私にできるはずもない」
「そう」その声には安心したような気分が感じられた。
「それが理由の一つ。失踪人課の連中は故意の失踪だと考えている。連中の言う、幕を引く、というやつだ。警察はエディー・マーズが殺したとは考えていない」
「誰がラスティは殺された、と言ったの?」
「その話をしようとしている」私は言った。
 束の間、彼女の顔がばらばらになったようだった。顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた。口は今にも叫び声を上げそうになった。しかし、それはほんの一瞬だった。スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう。
 私は立ち上がり、女の指の間で煙を上げている煙草をとって灰皿で揉み消した。それからカーメンの小さな銃をポケットから取り出し、大げさなくらい気を配り、入念に白いサテン地の膝の上に置いた。収まりよく載せると、一歩下がって首を傾げた。ショウウインドウを飾り付ける職人がマネキンの首に巻いたスカーフの新しい捻りの効果を確かめるように。
 私は再び腰を下ろした。ヴィヴィアンは動かなかった。視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た。
「危険はない」私は言った。「薬室は五つとも空っぽだ。全部カーメンが撃った。五発とも私に向けて撃った」女の喉の血管が激しく脈打った。何か言おうとしたが声にならなかった。唾を飲み込んだ。
「五、六フィート距離があった」私は言った。「しゃれたまねをする。そうだろう? 気の毒だったが、銃には空包を詰めておいた」私はにやりと意地悪く笑った。「虫の知らせがあったんだ。カーメンはやるだろうと──機会さえあればね」
 声が戻るまでしばらくかかった。「あなたはぞっとするくらい嫌なやつ」彼女は言った。「身の毛がよだつ」
「そうだな。君は姉だ。この一件をどうするつもりだ?」
「あなたは言ったことを証明できない」
「何を証明するんだ?」
「妹があなたを撃ったこと。油井にいたのは二人きりだと言った。あなたは自分の言ったことを証明できない」
「ああ、そのことか」私は言った。「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」
 ヴィヴィアンの目に闇が澱んだ。暗闇よりも虚ろだった。
「私はリーガンが消えた日のことを考えていた」私は言った。「その日の午後遅く、銃の撃ち方を教えようとカーメンを連れてあの古い油井まで行った時のことだ。リーガンは空き缶をどこかに置き、これを撃つんだと言って、君の妹が撃つ間近くに立っていた。カーメンは缶を撃たなかった。カーメンは銃をリーガンに向けて撃ったんだ。まさに今日私を撃ったやり方で。その理由も同じだ」
 ヴィヴィアンが少し動いて銃が膝から床に滑り落ちた。私がかつて聞いた中で最も大きな音の一つだった。ヴィヴィアンの目は私の顔に釘付けされていた。囁き声は苦悶に満ちて後を引いた。「カーメン…神よ、カーメンにお慈悲を…どうして?」
「カーメンが何故私を撃ったか本当に聞きたいのか?」
「ええ」目にはまだぞっとするものがあった。「聞く──しかないようね」
「一昨日の夜、家に帰るとカーメンがアパートメントにいた。私が待つように言った、と管理人を騙して入れてもらったんだ。ベッドに入っていた──裸でね。私は怒って部屋から放り出した。多分リーガンも同じようにしたんだろう。しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」
 ヴィヴィアンは唇を引き寄せ、うわの空で舐めた。一瞬、怯えた子どものような顔になった。両頬が削げ、片手がゆっくり上がっていった。まるで糸で操られている人形の手のように。そして、その指が襟元の白い毛皮をおもむろに握りしめた。指は毛皮をきつく喉元に引き寄せた。そのあとは、座ってただじっと見つめた。
「お金」しわがれ声だった。「あなたは、お金が欲しいんでしょう」
「いくらだ?」冷笑的にならないように気をつけた。
「一万五千ドルでどう?」
 私はうなずいた。「そんなものだろう。それがお定まりの金額らしい。カーメンに撃たれた時リーガンのポケットにあった金額だ。君がエディー・マーズに助力を請うた時、カニーノ氏が死体を始末して得たのもその金額だろう。だが、エディー・マーズがそのうち手に入れようと目論んでいる金と比べれば、はした金だ。そうじゃないか?」
「ろくでなし」彼女は言った。
「そうさ。私は頗るつきの切れ者だ。感情や良心の咎めなど一切持たない。持ってるのは金に対する執心だけ。強欲すぎて一日二十五ドルの報酬以外に必要経費をとる。ほとんどはガソリンとウィスキー代だ。私は自分の考えで動く。大したことではない。危険を顧みず、警官やエディ・マーズとその仲間に憎まれ、銃弾をひらりとかわし、こん棒で殴られ、有難うございましたと礼を言う。名刺を一枚置いていくので、また問題が起きたら、私を思い出してくれると嬉しい。私はこういうことを一日二十五ドルでやる──その中には、病み衰えた老人の血に残されたわずかな誇りを守ることも、少し入っているかも知れない。考えたんだ。将軍の血は毒ではない。たとえ二人の娘が少々手に負えなくても、良家の子女は当節そんなものだ、変質者でも殺人鬼でもない。その挙句が、ろくでなし呼ばわりだ。いいさ。そんなこと気にしちゃいない。君の妹をはじめ、多種多様な人々からそう呼ばれてきた。君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで。私は父上から五百ドル受け取った。請求したわけではないが、将軍にとっちゃはした金だ。もしラスティ・リーガン氏を探し出せたらもう千ドル貰える。今、君から一万五千ドルのオファーがあった。大物になったものだ。一万五千ドルあれば自宅を買い、新車とスーツが四着買える。仕事にあぶれる心配をせずに休暇がとれるかもしれない。結構なことだ。その金で私にどうしてほしいんだ? 私はろくでなしのままでもいいのか? それとも、紳士にならなきゃいけないのか? この間の夜、自分の車の中でのびていたあの飲んだくれのような」
 女は石像のように黙っていた。》

「顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた」は<to become merely a set of features without form or control.>。双葉氏はこれをカットしている。村上氏は「それは形態や統制を欠いた、ただの部分の集まりのように見えた」と訳している。<set of features>は「目鼻立ち、顔立ち」のこと。人は無意識に表情を作っているものだ。驚きのあまり、彼女はそれを忘れたのだろう。

「スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう」は<The Sternwood blood had to be good for something more than her black eyes and her recklessness.>。双葉氏は「スターンウッドの血統は彼女の黒い目や無軌道さよりもはるかに強いものだった」。村上氏は「スターンウッド家の血は、黒い目と無謀さの他にも、彼女に何かしらの強い資質を与えているのだろう」と訳している。<(be) good for something>は「何かの役に立つ」の意味だ。両氏に訳に出てくる「強い」の意味はない。

「収まりよく載せると」は<I baranced in there>。双葉氏はここもカット。村上氏は「落ちないようにバランスをとって載せてから」と訳している。

「視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た」は<Her eyes came down millimeter by millimeter and looked at the gun.>。双葉氏は「じっと拳銃を見つめたまま動かなかった」と前の文とまとめて訳している。村上氏は「彼女の視線はミリ単位で下に降りていった。そして拳銃を見た」と訳している。

「薬室は五つとも空っぽだ」は<All five chambers empty.>。双葉氏は「五発ともからだ」。村上氏は「弾倉は五つとも空っぽになっている」。細かいことを言うと<chamber>は「薬室」。「弾倉」は<magazine>。弾倉が着脱式になっているオートマチックとちがって、リヴォルヴァーの場合、弾倉とは、蓮根状の形をした「回転弾倉」<cylinder>そのものを指す。したがって複数の形をとらない。

「声が戻るまでしばらくかかった」は<She brought her voice back from a long way off.>。双葉氏は「彼女はやっと声を出した」と訳している。村上氏は<a long way off>を距離的な意味にとって「彼女は遠くの方から声をかき集めてきた」と訳しているが、日本語として通じるだろうか。この場合、時間的な意味にとる方が分かりよいのではないか。

「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」<I wasn’t thinking of trying, I was thinking of another time──when the shells in the little gun had bullets in them.>。双葉氏は「そりゃそうだ。いずれ実弾をいれてためしてみるか」と訳しているが、時制から見ても、これはまちがい。村上氏は「そんなことを誰かに話そうなんて思っちゃいないよ。私は前回のことを考えていたんだ。あの小さな拳銃にしっかり実弾が入っていたときのことをね」と訳している。

「目にはまだぞっとするものがあった」は<Her eyes were still terrible.>。双葉氏はここをカットして二つの会話をつなげて「ええ。きかせて……」と訳している。村上氏は「彼女はまだすさまじい目をしていた」と訳している。

「しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」は<But you can’t do that to Carmen.>。双葉氏はここを「もっとも、君は妹さんにそんなまねはできまいが」と訳している。<you>をヴィヴィアンととったのだろう。しかし、この<you>は「人は(誰でも)」の意味でとらないと意味が通じない。村上氏は「しかしカーメンを相手にそんなことをしちゃいけないんだ」と訳している。

「君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで」は<She called me worse than that for not getting into bed with her.>。双葉氏はここもカットしている。この長広舌は、マーロウのいわば決め台詞だ。しっかり訳してほしいところ。村上氏は「彼女はもっと凄まじい言葉を使ったな。彼女と一緒のベッドに入らなかったという理由でね」としっかり訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(1)

《優しい目をした馬面のメイドが二階の居間に案内してくれた。灰色と白の細長い部屋には象牙色の厚地のカーテンの裾が贅沢に床に崩れ落ち、床一面に白い絨毯が敷きつめられていた。映画スターの閨房みたいな魅惑と誘惑の場所は義足のように人工的だった。今のところは誰もいない。私の背後でドアが閉じた。病院のドアのように不自然なほどそっと。車輪付きの朝食用テーブルが寝椅子の傍に置かれ、銀器が輝いていた。コーヒー茶碗には煙草の灰。私は腰を下ろして待った。
 ドアが再び開いてヴィヴィアンが入ってくるまでが長く感じられた。部屋着代わりの灰色がかった白のパジャマは白い毛皮で縁取られていた。どこかの上流階級が占有する小島のビーチに打ち寄せる夏の波の泡に負けない流麗な仕立てだった。
 大股で滑らかな足取りで私の前を通り、寝椅子の端に腰を下ろした。唇の端に煙草を咥えていた。今日の爪は銅のような赤で塗られていた。つけ根から爪先まで半月部分も残らず。
「結局あなたは、ねっからの人でなし」彼女は私を見つめ、静かに言った。「正真正銘の血も涙もない人でなし。あなたは昨夜人を殺した。誰から聞いたかは気にしないで。そう聞いた。ところで、今日は今日でここに来て、妹を気絶するほど脅かさなきゃならなかった」
 私は何も言わなかった。ヴィヴィアンはそわそわし始めた。小振りの椅子に移動して頭をそらせ、壁際の椅子に置かれた白いクッションに凭せかけた。青みがかった灰色の煙を上の方に吹いて、天井の方に漂いながら切れ切れになるのを見ていた。それは少しの間見分けがついたが、やがて空気の中に消えてなくなった。それから、とてもゆっくり視線を下ろし、冷たく刺々しい一瞥を私にくれた。
「私にはあなたが理解できない」彼女は言った。「感謝はしてる。一昨日の夜、私たちのうちの一人が平静を保てたことに。酷い目はもう充分。酒の密売人との過去だけで。お願い、何とか言って」
「妹はどうだ?」
「あの子なら大丈夫。熟睡してる。いつもすぐ寝てしまう。あの子に何をしたの?」
「何も。父上に会った後、あの子が家の前にいた。木に吊るした的にダーツを投げていたんだ。下りて行って話しかけた。預かり物があったのでね。かつて、オーウェン・テイラーが買い与えた小さなリヴォルヴァーだ。この間の晩、カーメンはそいつを手にブロディのところに現れた。ブロディが殺された晩だ。私はそれを取り上げなければならなかった。そのことは話さなかったから、君は多分知らなかったんだろう」
 スターンウッド家の黒い瞳がうつろに見開かれた。今度はヴィヴィアンが口を閉ざす番だった。
「カーメンは銃を返してもらって喜び、私に撃ち方を教えて欲しがった。そして、丘を下ったところにある古い油井を見せたがった。君の一家が一財産を作った場所だ。それで、我々はそこに行った。気味の悪い場所だった。錆びた金属、古い木材、黙した油井、浮き糟の浮いた汚水溜め。それがカーメンを混乱させたのかもしれない。君も行ったことがあるだろう。薄気味の悪い所だ」
「ええ──行ったことがある」今では息を殺した声になっていた。
「そこへ行って、私はあの子が撃てるように回転輪の中に空き缶を突っ込んだ。カーメンはひきつけを起こした。軽い癲癇による発作のように見えた」
「そうね」同じ息を殺した声だった。「妹は時々それをやるの。私に会いたかったのはそれについてだけ?」
「エディー・マーズが握っている君の弱みについては、まだ話したくないんだろう」
「話すことなんかない。その質問にはうんざりしかけているところ」彼女は冷たく言った。
カニーノっていう名の男を知ってるか?」
ヴィヴィアンは考え込むように美しい黒い眉根を寄せた。
「ぼんやりと。名前に聞き覚えがあるみたい」
「エディー・マーズの用心棒だ。タフなやつだと聞いてはいたが、実際そうだった。ある女性のちょっとした助けがなかったら、あいつのいるところに私がいる羽目になっていた──死体公示所に」
「女性たちはどうも──」彼女はそう言いかけ、蒼ざめた。「それについて冗談は言えない」とだけ、彼女は言った。
「冗談は言ってない。仮に私の話が堂々巡りに見えたとしても、偶々そう見えるだけのことだ。すべては結びついている──何もかもだ。ガイガーとその気の利いたちゃちな脅迫のトリック、ブロディと例の写真、エディー・マーズと奴のルーレット・テーブル、ラスティ・リーガンと駆け落ちしなかった女とカニーノ、すべてが結びついている」
「悪いんだけど、あなたが何の話をしてるのか私には分からない」
「分かってるはず──差し詰めこのようなことだ。ガイガーは君の妹を物にした。造作もないことだ。そして、借用書を何枚か手に入れて君の父上を脅迫しようとした。遠回しにね。ガイガーの背後にはエディー・マーズが控えていた。奴を保護して手先に使っていたんだ。父上は金を支払う代わりに私を呼んだ。それは父上が何も怖れていないことを示している。エディー・マーズはそれを知りたかった。あいつは君の弱みを握っていて、それが将軍にも使えるかどうかを知りたかったからだ。もし、使えそうなら大金を容易に手に入れられる。使えなければ、君が家族の財産の分け前を得るまで待たなければならない。それまでは、ルーレット・テーブル越しに君から余財を奪い取ることで満足せざるを得ない。ガイガーを殺したのはオーウェン・テイラーだ。君のばかな妹に惚れていて、ガイガーが彼女を弄ぶゲームを嫌っていた。エディにはどうでもいいことだ。エディはもっと大博打を打っていた。ガイガーも、ブロディもしらない、君とエディー・マーズとカニーノという名のタフガイの他は誰も知らないことだ。君のご亭主が失踪すると、誰もが知るようにリーガンとの間にひびが入っていたエディは、女房をリアリトに隠し、カニーノを見張りにつけた。女がリーガンと逃げたように見せかけるためだ。さらに、リーガンの車をモナ・マーズが以前住んでいた場所のガレージの中に運ばせた。単にエディが君の亭主を殺したか、殺させたのではないかという疑惑をそらそうとしたのなら、少し考えが足りないように思えるが、実のところ、それほど浅慮でもない。別の動機があったからだ。百万ドルがかかっていた。あいつはリーガンがどこにどうした消えたかを知っていた。そして、警察にそれを発見されたくなかった。満足できる失踪の説明がほしかったんだ。退屈させてるかい?」
「あなたにはうんざりよ」彼女は疲れきった声で言った。「どれだけ退屈させたら気が済むの!」
「すまないね。私はただ賢ぶりたいために無駄口を叩いているわけじゃない。今朝、君の父上から、リーガンを見つけたら千ドル出そうという申し出があった。私にとっては大金だが、私にはできない」
 ヴィヴィアンの口がぱっと開いた。息が急に激しく荒くなった。「煙草をちょうだい」しわがれた声で彼女は言った。「どうして?」喉の血管が脈打ちはじめた。》

象牙色の厚地のカーテン」は<ivory drapes>。双葉氏は第三章と同じく「床にころがった象牙色のついたて」と訳している。執事もメイドもいる大邸宅に、いつまでもついたてが転がっているはずもないだろうに。「義足のように人工的だった」の部分も双葉氏はカットしている。原文は<artficial as a wooden leg>。村上訳は「義足顔負けに人工的だ」。

「今日の爪は銅のような赤で塗られていた。つけ根から爪先まで半月部分も残らず」は<Her nails today were copper red from quick to tip, without half moons.>。双葉氏は「今日の彼女の爪は急いで切ったとみえ、銅赤色で白い半月形がなかった」と訳している。これは<quick>を「急いで」と訳したことから来る誤り。この<quick>は名詞で「爪のつけ根」の意味だ。村上氏は「今日の手の爪は銅のような赤だ。根元から先っぽまで、半月も残さずしっかり塗られている」と訳している。

「酷い目はもう充分。酒の密売人との過去だけで」は<It’s bad enough to have a bootlegger in my past.>。双葉氏は「私の過去に闇屋がいたのはおもしろくないことね」と訳している。これでは、ヴィヴィアンがマーロウの気を引いているようにも読める。この文の意味するところは、もう男はこりごりだという意味だろう。村上訳は「過去に一人の酒の密売人と関わっただけで、もう十分大変な目にあっている」と訳している。

「錆びた金属、古い木材、黙した油井、浮き糟の浮いた汚水溜め」は<all rusted metal and old wood and silent wells and greasy scummy sumps>。双葉氏は「腐った金具だの材木だのがころがっていて」と、略している。村上訳は「錆びた金属、古い材木、ひっそりした油井、油が混じったどろどろの沼」と訳している。<scummy>は「浮きかす」のことで、汚水の上に浮いた油膜のことだろう。水と油はふつう混ざらない。「油が混じったどろどろの沼」という訳はどうだろう。

「カーメンはひきつけを起こした。軽い癲癇による発作のように見えた」は<She threw a wingding. Looked like a mild epileptic fit to me.>。双葉氏は「ところが彼女はとたんに発作が起こったまねをはじめた」と訳している。<wingding>には「どんちゃん騒ぎ」の意味があるので、双葉氏はそれに引っ張られたのだろう。しかし、アメリカやカナダでは「ひきつけ、発作」の意味もある。<epileptic>は「癲癇」。村上訳は「そのとたんに発作が始まった。それが私の目には穏やかなてんかん(傍点四字)の発作のように見えた」と訳しているが、「穏やかなてんかん」は変だ。この<mild>は「軽度の」という意味だろう。

「仮に私の話が堂々巡りに見えたとしても、偶々そう見えるだけのことだ」は<and if I seem to talk in circles, it just seems that way.>。双葉氏はここをカットしている。<talk in circles>は「堂々巡りの論議をする」という意味。村上氏は「そしてもし私の話が堂々巡りのように見えたとしても、それはただ見かけに過ぎない」と訳している。

「遠回しにね」は<in a nice way>。双葉氏はこれもカット。村上氏は「あくまでもにこやかにね」と訳している。「それは父上が何も怖れていないことを示している」は<which showed he wasn’t scared about anything>。双葉氏は「ほかのことは何も心配していなかった」と訳しているが、これはおかしい。村上氏は「それは彼が何も恐れていないということを意味している」と訳している。

「それまでは、ルーレット・テーブル越しに君から余財を奪い取ることで満足せざるを得ない」は<in the meantime be satisfied with whatever spare cash he could take away from you across the roulette table>。双葉氏は「それまで君がルーレットでもうけるのをがまんして見ていようという寸法だった」と訳しているが、反対の意味にとっている。村上氏は「そして当分の間は、君がルーレットですってくれる(傍点六字)はした金で満足しなくてはならない」だ。<spare cash>は「余分な現金、余財」のことで、遺産が手に入るまで、父から与えられている金のことだ。

「私はただ賢ぶりたいために無駄口を叩いているわけじゃない」は<I’m not just fooling around trying to be clever.>。双葉氏は「僕はりこうになろうと思ってうろつきまわっていたんじゃない」と訳している。<fool around>にはたしかに「ぶらつく」の意味があるが、ここでは、その前の長広舌を指している。村上氏は「私は何も自分を賢く見せかけるために、もったいぶって話をしているわけじゃないんだ」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十一章(2)

《「その中」彼女は窓から身を乗り出して指さした。
 小径に毛が生えたような狭い未舗装路で、山麓の牧場への入口みたいだった。五本の横木を渡した幅の広い木戸が切り株にぶつかるまで折り返され、何年も閉じられたことがないように見えた。高いユーカリの樹々に囲まれた小径には深い轍がついていた。トラックが通った跡だ。今は人気がなく、日に曝されているが、まだ埃っぽくはない。強い雨が降ったばかりだからだ。私は轍に沿って車を走らせた。街の往来の喧騒が急に不思議なほど遠くなった。まるでここが街中ではなく、遠く離れた白昼夢の郷ででもあるかのように。やがて、油染みてずんぐりした木造の油井櫓の、静止したウォーキング・ビームが枝の上に突き出た。錆の浮いた古い鋼鉄のケーブルがそのウォーキング・ビームを他の六台と繋いでいた。ビームはどれも動いていなかった。ここ一年は動いていないだろう。油井はもはや石油を汲み上げてはいない。積み重なった錆びた鋼管、片方の端が撓んだ荷積み用プラットフォーム、ぞんざいに山積みされた半ダースほどの空のドラム罐。古い汚水溜めの澱んだ水の上に浮いた油が陽を受けて玉蟲色に光っていた。
「ここを全部使って公園にでもしようというのか?」
 カーメンは顎を引いて、思い入れたっぷりに私を見た。
「そろそろ潮時かもしれない。あの汚水溜めの臭いは山羊の群にとっては毒だ。ここが君の考えていた場所なのか?」
「うん、気に入った?」
「申し分ない」荷積み用プラットフォームのそばに車を停め、我々は外に出た。耳を澄ますと、遠くの往来の音が、蜜蜂の立てる羽音のような、ぼんやりした音の織物になった。教会の墓地のように寂しいところだった。雨の後でさえ背の高いユーカリの木はまだ埃っぽく見えた。いつでも埃っぽく見える。風で折れた枝が汚水溜めの端に落ちて、平たいがさがさした葉が水の中にぶら下がっていた。
 私は汚水溜めの周りを歩き、ポンプ小屋をのぞき込んだ。がらくたがいくつかあったが、最近動かせた様子はなかった。外には大きな木製の回転輪が壁に立てかけてあった。絶好の場所だった。
 私は車に引き返した。少女が傍に立って髪の毛を手で梳き、日にかざしていた。「ちょうだい」と彼女は言って、手を突き出した。
 私は銃を取り出し、その掌の上に置いた。私は腰をかがめ、錆びた缶をつまみ上げた。
「慌てるな」私は言った。「それには五発装填されている。私がこの缶をあの大きな木の回転輪の真ん中にあいた四角い穴に置いてくる。見えるか?」私は指さした。カーメンは首をすくめた。嬉しそうだった。「ざっと見たところ三十フィートある。私が君のところに戻るまで撃ち始めるんじゃない。分かったか?」
「分かった」彼女はくすくす笑った。
 私は汚水溜めを回って戻り、大きな回転輪の真ん中に缶を置いた。素敵な的だった。もし、缶に当たらなくても、きっと外すだろうが、おそらく回転輪には当たるだろう。回転輪が小さな弾を完全に止めるだろう。しかし、カーメンはそれに当てるつもりさえなかった。
 私は汚水溜めを回って引き返した。十フィートばかり戻った時、汚水溜めの縁で、娘は小さく尖った歯を残らず剥き出し、銃を挙げ、しゅうしゅうと音をたてはじめた。
 私はぴたっと止まった。汚水溜めの澱んだ水が背中でひどく臭った。
「じっとしてろ、このろくでなし」彼女は言った。
 銃は私の胸をねらっていた。手はかなり安定しているようだ。しゅうしゅういう音が次第に大きくなり、顔は肉を削り取られて骨のように見えた。歳をとり、劣化し、獣になりかけていた。それも、あまりいい獣ではなかった。
 私は笑いかけ、そちらに向かって歩きはじめた。銃爪にかけた娘の小さな指がぴんと張って先端がみるみる白くなった。六フィートまで近づいたところで相手は撃ち出した。
 銃声はピシッと鋭い音を立て、陽射しに脆い亀裂を生じさせた。それだけだ。煙すら立たなかった。私は再び立ちどまり、にやりと笑いかけた。
 カーメンは立て続けにもう二発撃った。どの弾も的を外したとは思わない。小さな銃には五発入っていた。撃ったのは四発だ。私は突進した。
 最後の一発を顔にもらいたくなかったので、片方に身をかわした。カーメンは細心の注意を払って、私にそれをくれた。気遣いは全然なかった。火薬の熱い吐息をわずかに感じたような気がする。
 私は上体を起こした。「やれやれ、しかし君はキュートだな」私は言った。
 空になった銃を握った手がぶるぶると震えはじめた。銃が手から滑り落ちた。口も震えだした。顔全体が統制を欠いていた。それから頭が左耳の方に捻れ、唇に泡が浮かんだ。呼吸がひゅうひゅうと音を立てた。体が大きく揺れた。
 倒れかけたところを抱きとめた。すでに意識がなかった。私は両手を使って歯をこじ開け、口の中に丸めたハンカチを詰め込んだ。それだけするのに力を使い果たした。娘を抱き上げて車の中に入れた。それから銃を取りに戻り、ポケットに落とし込んだ。運転席に上がって車をバックさせ、轍のついた小径を引き返し、木戸を出て丘を上り、屋敷に戻った。
 カーメンは車の隅でぐったりして動かなかった。ドライブウェイを家に向かって半分ほど来たところで動きはじめた。突然目が大きく狂おしく開いた。座席に座り直した。
「何があったの?」彼女は喘いだ。
「何も。どうして?」
「何かあったはず」彼女はくすくす笑った。「私漏らしてるもの」
「誰でもするさ」私は言った。
 カーメンは急にくよくよと思い悩むように私を見、うめきはじめた。》

「小径に毛が生えたような狭い未舗装路で」は<It was narrow dirt road, not much more than a track>。双葉氏は「せまい埃っぽい道路だった。(丘のふもとの牧場への入口みたいな)小径だった」と訳している。<dirt>には、「塵、ほこり」の意味はあるが、<dirt road>は「未舗装の道路」の意味で、「埃っぽい」なら、この後にも出てくる<dusty>を使う。村上氏は「狭い未舗装の道だった。踏み分け道と言ってもいいくらいだ」と訳している。もう一つ、双葉氏は<not much more than>(~とあまり変わらない、~に過ぎない)を訳していない。

「五本の横木を渡した幅の広い木戸」は<A wide five-barred gate>。<five-barred gate>とは、横長の木枠に細長い板を隙間を開けて打ちつけた簡便な木戸のこと。牧場だけでなく、いろいろな場所の仕切りに使われている。普通は、斜交いにもう一枚板を打ちつけている。向こうでは<five-barred gate>で通用するが、それを表す日本語が見つからない。双葉氏はこれを「広い鉄柵のついた門」と訳しているが、そんなたいそうな代物ではない。村上氏は「横木を五本並べた幅広いゲート」と訳している。西部劇小説なんかにいい訳語があるかもしれない。

「古い汚水溜めの澱んだ水の上に浮いた油が陽を受けて玉蟲色に光っていた」は<There was the stagnant, oil-scummed water of an old sump iridescent in the sunlight.>。双葉氏は「古い溜桶には玉虫色に油を浮かしたよどんだ水が、日に光っていた」と訳している。村上氏は「石油の浮いた淀んだ水が、行き場のないまま古い沼を作り、太陽に照らされて虹色に光っていた」と訳している。<sump>には「沼」の意味もあるが、通常は「地面を掘って汚水をためるようにしたところ、汚水だめ」のことだ。「沼」と思い込んだために無理な作文になってしまっている。「古い沼を作り」のおかしさに気づかなかったのだろうか。

「あの汚水溜めの臭いは山羊の群にとっては毒だ」は<The smell of that sump would poison a herd of goats.>。双葉氏は「あの溜桶の臭気(におい)をかいだら羊どもは中毒するよ」と「山羊」を「羊」に変えているが、わざとだろうか。村上氏は「この沼のにおいじゃ、山羊の群れが全滅してしまいそうだ」と、相変わらず「沼」にこだわっている。脳内変換で<sump>が<swamp>に置き換えられているのかもしれない。

「平たいがさがさした葉が水の中にぶら下がっていた」は<the flat leathery leaves dangled in the water.>。双葉氏は「ひらたい皮みたいな葉がいくつか水に浮いていた」と訳している。村上氏も「革のような扁平な葉が水に垂れていた」と訳している。<leathery>は「革のような」という意味だが、「がさがさの、ひどく硬い」という意味もある。両氏がなぜ皮革にこだわるのかよく分からないが、折れた枝についた葉なら、水気を失い干からびているだろう。「がさがさ」の意味を採りたいところだ。

「しかし、カーメンはそれに当てるつもりさえなかったは」<However, she wasn't going to hit even that.>。双葉氏は「が、彼女はその車輪さえ射たなかった」と訳している。<be going to>を訳さない理由が分からない。村上氏は「とはいっても、実際に弾丸が撃ち込まれるわけではないのだが」と、踏み込んだ訳にしている。意図的にこう訳したのだとすれば、訳者としては出過ぎた真似だ。これは翻訳ではない。

「私漏らしてるもの」は<I wet myself.>。双葉氏は「私、びしょびしょだもの」と訳しているが、<wet oneself>は「もらす、失禁する」の意味だ。村上氏も「だって、私お漏らししてるんだもの」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十一章(1)

《執事が私の帽子を持って出てきた。私はそれを被りながら言った。
「将軍のことをどう思うね?」
「見かけより弱っておられません」
「もし見かけ通りなら、もう埋められる覚悟ができていそうだ。リーガンという男の何があんなに将軍の気を引いたのだろう?」
 執事はしらけた、そのくせ奇妙に表情を欠いた顔で私を見た。「若さでしょうか」彼は言った。「それと、兵士の目です」
「君のように」私は言った。
「こう申しては何ですが、あなた様の目も似ていなくもない」
「ありがとう。お嬢さんたちは今朝はどうしてる?」
執事は礼儀正しく肩をすくめた。
「だと思ってた」私は言った。執事がドアを開けてくれた。
 私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした。段丘になった芝生と手入れの行き届いた樹木と花壇からなる庭園の基部には背の高い金属柵が巡らされていた。斜面の途中に両手で頭を抱えたカーメンがひとり、しょんぼりと石のベンチに腰掛けていた。
 私は段丘と段丘をつなぐ赤い煉瓦の階段を下りた。私は足音に気づかれる前に近づいた。カーメンは飛び上がって振り返った。猫のように。初めて会ったときと同じ淡青色のスラックスをはいていた。金髪も同じように緩く黄褐色に波打っていた。顔は白かった。私を見たとたん頬に赤みが差した。瞳は灰色だった。
「退屈かい?」
 カーメンはゆっくり、どちらかといえば恥ずかしそうに微笑んだ。そして素早く頷いた。それから囁いた。「私のこと、怒っていない?」
「君の方が怒っていると思っていた」
 カーメンは親指を上げ、くすくす笑いながら言った。「怒っていない」。そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった。私はあたりを見回した。三十フィートばかり向こうの木に吊るされた的に、ダーツが何本か刺さっていた。さっきまで座っていた石のベンチにももう三、四本あった。
「金持ちにしては、君も姉さんもたいして面白くもなさそうだな」私は言った。
 カーメンは長い睫の下から私に視線をくれた。本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった。私は言った。「ダーツを投げるのが好きなのかい?」
「うん」
「それで思い出した」私は屋敷の方を振り返った。三フィートばかり動いて木の陰に身を隠し、ポケットから真珠貝の握りのついた小さな銃を取り出した。「君に返そうと飛び道具を持ってきてたんだ。掃除して弾も入れておいた。忠告しておくが──もう少し腕前をあげない限り、人を撃ってはいけない。分かったかい?」
 顔が青ざめ、扁平な親指が落ちた。私を見ていた視線が私の握っている銃に落ちた。うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた。それから突然言った。「撃ち方を教えて」
「何だって?」
「どうやって撃つのか教えて。やってみたいの」
「ここでかい? それは違法行為だ」
 カーメンは近寄ってきて私の手から銃をとり、床尾を愛おしそうに抱きしめた。それからまるでいけないことでもするみたいに急いでスラックスの中に押し込むと周りを見回した。
「いいところを知ってる」彼女は内緒話をするような声で囁いた。「古い油井が並んでるあたり」そう言うと、丘の麓を指さした。
「教えてくれる?」
 私は灰青色の瞳をのぞき込んだ。二つの瓶の口を見ているようだった。「いいだろう。銃を返してくれ。その場所が相応しいところだと私が決めるまで」
 カーメンは微笑み、顔をしかめ、こっそりと悪戯でもしているような様子で銃を返した。まるで自分の部屋の鍵を手渡すみたいに。我々は階段を上り、私の車のところまで歩いた。庭園は取り残されたように見えた。陽光は給仕長の笑顔のように空虚だった。二人は車に乗り込み、掘り下げられた私道を下り、ゲートを抜けて外に出た。
「ヴィヴィアンはどこにいる?」私は訊いた。
「まだ起きてこない」彼女はくすくす笑った。
 車は丘を下り、雨に洗われ静かで華やかな街路を通り抜けた。ラ・ブレアまで東に進み、そこで南に折れた。十分ほどで話に出た場所に着いた。》

「あなた様の目も似ていなくもない」は<not unlike yours.>。双葉氏は「あなた様のとはだいぶ違いますようで」とやってしまっている。<unlike>を<not>で否定しているわけだから、いわゆる二重否定だ。単なる肯定ではなく、そこに何らかの含意があると見なくてはならない。村上氏は「あなた様の目にもそういうところがなくはありません」と訳している。執事の言葉として丁寧語を使いたいのだろうが、「なくはありません」という日本語はおかしくはないだろうか。

「私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした」は<I stood outside on the step and looked down the vistas>。本当は、この後にどんな風景かを説明する長い文が続くのだが、一度ここで切った。双葉氏は「私は階段の上に立って、草のしげったテラスから庭の奥にある鉄柵のほうにつづいている刈りこんだ木々と、夜の遠近感にあふれた風景を見わたした」と訳している。

「夜の遠近感にあふれた」は原文のどこにも該当する部分が見当たらない。第一、マーロウが屋敷を訪れたのは朝である。どこからこんな訳が出てくるのか、想像することすらできない。村上訳は「私は外に出て階段の上に立ち、段丘になった芝生と、きれいに刈り込まれた樹々と、花壇が連なる風景を見下ろした」と、やはり途中で文を切っている。ただし、この切り方には問題が残る。

村上訳の続きを見てみよう。「庭園のいちばん下には、金属製の高い手すりが巡らされている。その斜面の中腹あたりに、カーメンの姿が見えた」がその部分。途中で文を切ったために、視線は庭園のいちばん下にあるはずなのに、「その斜面の中腹あたりに」と急に視線が動いている。ここは眺めた風景全体を描写しておいて、斜面全体の中程にいるカーメンを見つけたように訳す必要があるだろう。

「くすくす笑いながら」は<giggled>。双葉氏は「げらげら笑った」と訳しているが、<giggle>は忍び笑いのことで、「げらげら」とはちがう。「そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった」は<When she giggled I didn’t like her any more.>。双葉氏は「笑ったとたんに、私は彼女が好きでなくなった」と、ずいぶんストレートな訳だ。村上氏は「彼女がくすくす笑い出すと、私はもうあまり好意が持てなくなる」と、訳している。

「本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった」は<This was the look that supposed to make me roll over on my back.>。双葉氏は「私をノックアウトするねらいを持った一瞥(いちべつ)だ」と訳している。村上氏は「それはどうやら、私を狂おしく身悶えさせることを目的とした表情であるらしかった」だ。<roll over on my back>自体は「仰向けに寝転がる」の意味だが、犬が甘えるときに腹を見せる格好を思い出してもらえればその意は通ずるだろう。

「うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた」は<There was a fascination in her eyes. “ Yes,” she said, and dodded.>。双葉氏はここをカットしている。拳銃を見つめるカーメンの目の奥に潜む狂気のようなものを表現している部分なのに、ここを抜くのは惜しい。村上氏は、その部分を「その目には魅せられたような表情が浮かんだ」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十章(4)

《「ところで、私に何の落ち度があるというんです? 一切を任されているノリスはガイガーが殺されてこの件は終わった、と考えたらしい。私はそう思わない。ガイガーの接触の仕方には首をひねったし、今でも考えている。私はシャーロック・ホームズでもファイロ・ヴァンスでもない。警察がすっかり調べあげたところへ行って壊れたペン先か何かを拾い上げ、そこから事件を解決できるなんて思わないでほしい。もし、そんなやり方で生計を立てている者が探偵業界にいるとお考えなら、あなたは警官というものを全く分かっていない。もし警官が見落とすとしたら、そんなものではない。警官が本気で仕事をしているとき、そうそう見落としたりはしないものだ。もし警官が見落とすことがあるとしたら、もっと散漫で曖昧な何かだろう。たとえばガイガーのようなタイプの男だ。あなたに負債の証拠を送りつけ紳士らしく支払うことを要求している──ガイガーは後ろ暗い稼業に手を出して脛に傷を持つ身だ、ギャングの保護をうけ、少なくとも警察の一部から控え目な保護も受けている。そんな手合いが何故そんな真似をしたのか?ガイガーはあなたにつけ込む隙がないか知りたかった。隙があればあなたは金を払わなければならない。そんなものがなければ、あなたは無視し、向こうの次の動きを待てばいい。しかし、あなたには一つだけ隙があった。リーガンだ。あなたは見損なっていたのでは、と心配だった。リーガンがあなたの前に姿を現し、家に留まって親切にふるまっていたのは、あなたの銀行口座に手が出せるようになる機会を狙っていたのではないか、と」
 将軍は何か言いかけたが私は遮った。
「だとしても、あなたにとって金のことなどどうでもいい。娘たちのことさえどうでもよくなっていた。多分、とっくに見放している。ただ、相手にカモにされることをあなたの自尊心が許せなかっただけだ──それに、あなたはリーガンのことが心底気に入っていた」
 沈黙がおりた。それから将軍は静かに言った。
「口が過ぎるぞ、マーロウ。君はまだパズルを解こうとしていると理解していいのかな?」
「いや、やめました。警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている。お金は返すべきだと考えた理由はそれです──私の基準では仕事はまだ終わっちゃいない」
 将軍は微笑んだ。「やめることはない」彼は言った。「あらためて千ドル払おう。ラスティを探してくれ。戻ってくる必要はない。どこにいるのかを知りたいとも思わない。男には自分自身の人生を生きる権利がある。娘を捨てたことも、抜き打ちだった事も責めていない。おそらくものの弾みだったのだろう。知りたいのは、あれがどこにいようが元気でいることだ。それを直接本人から聞きたい。金の要るようなことが起きたのなら出してもやりたい。これでいいかな?」
 私は言った。「はい、将軍」
 しばらくの間、将軍は気を抜き、ベッドの上で緊張を解いていた。目は暗い目蓋に被われ、固く閉じた口には血の気がなかった。疲れ果てていた。持てる力をほぼ使い果たしていた。再び目を開けると、にやりと笑おうとした。
「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」彼は言った。「そして兵はひとりもいない。あれのことは気に入ってた。清廉な男に見えたんだ。私は自分の人を見る目に自惚れ過ぎていたにちがいない。私のためにあれを見つけてくれ、マーロウ。見つけるだけでいいんだ」
「やってみます」私は言った。「今は休まれた方がいい。しゃべり過ぎてあなたを疲れさせたようだ」
 私はさっと立ち上がり、広いフロアを横切って外に出た。将軍は私が扉を開ける前に再び目を閉じた。両手はシーツの上に力なく横たえていた。たいていの死人よりもずっと死人のように見えた。私は静かに扉を閉め、二階廊下を歩いて、階段を下りた。》 

この章に関しては、双葉氏の訳を翻訳だとは思えない。マーロの長広舌に飽きたのか、「もし、そんなやり方で生計を」から「口が過ぎるぞ、マーロウ」までのこのテクストで十九行もの分量を全部すっ飛ばしている。次の「警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている」もカットしている。それ以外にも少しずつ訳さずにすませているところもあるが、これだけカットされていると、小さいことに思えてくる。

「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」は<I guess I’m a sentimental old goat.>。双葉氏は「わしは感傷的な老いぼれ山羊じゃ」と、そのまま訳している。村上氏は「私はセンチメンタルな老いぼれなのだろう」と訳している。<old goat>には「意地悪老人、口うるさい年輩者」と「助平じじい、狒々(ひひ)おやじ」の二種類の意味がある。洋の東西を問わず、ヤギには好色漢のイメージがつきまとうが、まさかこちらの意味ではない。口うるさい老人の意味を採った。

「そして兵はひとりもいない」は<And no soldier at all.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「もう兵士とは言えん」と訳している。老いたりとは言え、スターンウッドは将軍だ。将校には下士官がつきもの。リーガンを気に入っていたのは、同じ元軍人として彼を相手にすれば心を開いて話すことができたからだ。有能には違いないが、執事であるノリスにその役は務まらない。主人が使用人に胸襟を開くことはないからだ。リーガンを失ったスターンウッドは将軍の矜持も捨て、自分のことを<a sentimental old goat>と自嘲しているのだ。

それにしても、終わりも近づいてきたというのに、ここに至って、これほど訳し残すというのは、双葉氏に何があったのだろう。締め切り間に合わなかったのだろうか。ここまで、少々のカットはあってもこれほど長文を割愛することはなかった。正直わけが分からない。