HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第25章(2)

「バラの葉」と「薔薇の花弁」どちらが美しいベッドの材料になる?

【訳文】

《私は酔っぱらいのようによろよろと歩き出した。二つの格子窓の間、小さな白いエナメルのテーブルの上にウィスキーの瓶があった。いい形をしていた。半分以上残っている。私はそちらに向かった。世界にはいい人がたくさんいる。朝刊のあら捜しをし、映画館で隣の席の男のすねを蹴り、嫌な気持ちになり、がっかりし、政治家を鼻で笑うこともあるが、それでも世界にはいい人がたくさんいる。あのウィスキーを半分残してくれた男がそうだ。メイ・ウエストのヒップの半分はあろうかという、大きなハートの持ち主だ。
 手を伸ばし、ほとんど麻痺している両手をウィスキーの瓶の上に置き、口のところまで持ち上げた。ゴールデン・ゲート・ブリッジの端を持ち上げるくらい、汗をかきながら。
 だらだらと時間をかけて飲んだ。それから注意深く瓶を下ろした。顎の下に垂れた分をなめようとした。
 ウィスキーは妙な味がした。妙な味に気がついた時、壁のコーナーにある洗面台が目に入った。なんとか間に合った。ぎりぎりのところだった。吐いた。ディジー・ディーンでもこれより速く投げたことはなかった。
 時は流れた―胸はむかつき、足もとはふらふら、頭はぼうっとして、洗面台の端にしがみつき、助けを求めて獣のような声を挙げている間に。
 ようやく落ち着いた。私はよろよろとベッドに戻り、再び仰向けになり、息を切らしながら寝たまま、煙を見ていた。煙はぼんやりしていた。あまりリアルではなかった。眼の奥にある何かかもしれない。すると、急に煙は消え、天井に取り付けた磁器の灯りが部屋をくっきり照らし出した。
 私は上体を起こした。ドア近くの壁にがっしりした木製の椅子があった。白衣の男が入ってきたドアとは別の扉があった。たぶんクローゼットの扉だ。私の服はそこに入っているのかもしれない。床には緑と灰色の方形のリノリウムが張られていた。壁は白く塗られていた。清潔な部屋だ。私が腰かけているベッドは狭い鉄製の病院用ベッドで、通常のものより低く、両側にバックルのついた厚い革製ストラップが取り付けられていた。人の両手首、両足首がくるあたりだ。
 気の利いた部屋だった―外に出たい、という気にさせる。
 全身の感覚が戻ってきた。頭に喉、それに腕がひりひりした。どうして腕が痛むのか、覚えがなかった。綿のパジャマめいた物の袖をまくり、見るともなく見た。肘から肩にかけての皮膚は、針を刺した痕だらけだった。その周りが変色し、ちょうど二十五セント硬貨くらいの小さな斑点になっていた。
 麻薬だ。おとなしくさせるのに、大量の麻薬を打たれたのだ。おそらく自白させるためのスコポラミンも。時間の割に麻薬の量が多すぎて、幻覚を見ていたのだ。見るのもいれば、見ないのもいる。要は本人がどれだけしっかりしているかにかかっている。それが麻薬だ。
 それで説明がつく。煙、天井灯の縁の小さな頭、声、馬鹿げた考え、ストラップ、格子、痺れた指や脚のすべてが。ウィスキーは、おそらくアルコール中毒治療二日間コースの一部だろう。私が見過ごさないことを見越して、わざと残しておいたのだ。
 立ち上がると、あやうく目の前の壁に腹をぶつけそうになった。それで、横になって、かなり長い間、つとめて静かに呼吸していた。体中がちくちくし、汗をかいていた。小さな汗のしずくが額をゆっくり滑り、慎重に鼻の脇を通って口の端に落ちるのが分かった。愚かなことに舌はそれをなめた。
 私はもう一度上体を起こし、足を床に着け、立ち上がった。
 「オーケイ、マーロウ」私は歯の間から声を絞り出した。「お前はタフガイだ。身長六フィートの鉄の男だ。剥き身で百九十ポンド、洗顔済み。筋肉は引き締まり、顎は打たれ強い。お前ならできる。お前は二度ダウンを奪われ、チョーク攻めにあい、失神しかけるほど顎を銃身で連打された。大量の麻薬を打たれ、頭の中で二匹のネズミがワルツを踊りだすまで監禁された。これがいったい何を意味するのか? お定まりの仕事だ。では、そろそろ本気でタフな仕事にとりかかろうか、ズボンを穿くというのはどうだ」
 私は再びベッドに横になった。
 また時が過ぎた。どれだけかは分からない。時計をしていなかった。とにかく時計で計れるような時間ではなかった。
 私は上体を起こした。いささか飽きが来ていた。立ち上がって歩きはじめた。歩くのは楽しくない。神経質な猫みたいにどきどきする。横になって眠った方がましだ。しばらくのんびりするさ。調子が悪いんだよ、あんた。オーケイ、ヘミングウェイ。私は弱ってる。花瓶をひっくり返すこともできない。爪ひとつ切れやしない。
 とんでもない、お断りだ。私は歩き続ける。私はタフだ。私はここから出て行く。
 もう一度ベッドに横になった。
 四度目はいくらかましになった。部屋を二度、往復した。洗面台まで行き、きれいに洗い流し、そこに寄りかかって、掌から水を飲んだ。吐かなかった。少し待ってから、もう少し飲んだ。かなり良くなった。
 私は歩いた。私は歩いた。私は歩いた。
 半時間ほど歩いたら、膝が震えだしたが、頭はすっきりした。もっと水を飲んだ。うんざりするくらいの水を。飲んでいると、あやうく洗面台に向かって泣き出すところだった。
 歩いてベッドに戻った。愛らしいベッドだった。薔薇の花弁で作られていた。世界一美しいベッドだ。キャロル・ロンバードから譲ってもらった。彼女には柔らかすぎたのだ。そこに横たわり、二分ばかり休むことができるなら、残りの人生をくれてやってもいい。美しく柔らかなベッド。美しい眠り。美しい瞳は閉じられ、睫毛が落ち、静かな息遣いが聞こえ、闇が訪れる。そして、枕に深く沈み込んで眠るのだ。
 私は歩いた。
 彼らは数多のピラミッドを建てたが、ついには飽きた。そこでそれらを取り壊し、石を砕いてコンクリートを作り、それでボールダー・ダムを築き、陽光降りそそぐ南の地に水を送り、それを満たした。
 私はその間ずっと歩き通した。何があっても動じなかった。
 私は歩くのをやめた。誰かと話す用意ができていた。》

【解説】

この章も、清水氏は大胆にカットしている。まず「いい形をしていた」<It looked like a good shape>。次に「私はそちらに向かった」<I walked towards it>を訳していない。村上訳は「素敵な形をしていた」、「私はそちらの方に歩いていった」。訳さなくても構わないと判断したのだろう。どんな形のボトルなのか、気になる。第十八章で、ヘイグの名前が出ていたので「ピンチ」(ディンプル)かと思ったが、この時代にはまだ発売されていないようだ。

「ゴールデン・ゲート・ブリッジの端を持ち上げるくらい、汗をかきながら」は<sweating as if I was lifting the end of the Golden Gate bridge>。清水氏は「サン・フランシスコのゴールデン・ゲート橋のはしを持ち上げるように重かった」と訳している。村上訳は「ゴールデン・ゲート・ブリッジの片方を持ち上げているみたいに汗をかきながら」。蛇足ながら「ゴールデン・ゲート・ブリッジ」は「金門橋」と呼ばれていたこともある。字数が少なくて有難いが、今となってはさすがに賞味期限切れか。

「洗面台の端にしがみつき、助けを求めて獣のような声を挙げている間に」は<clinging to the edge of the bowl and making animal sounds for help>。清水氏は、この部分をどうしたことか「洗面台の端につかまる手と動物のような声で助けを求める手」と訳している。村上訳は「洗面台にしがみつき、獣のようにうなって助けを求めていた」。

「息を切らしながら寝たまま」は<lay there panting>。「眼の奥にある何かかもしれない」は<Maybe it was just something back of my eyes>。清水氏はこの二か所もカットしている。村上訳は「はあはあ息をつきながら」と、こちらも<lay there>は訳していない。その前に「仰向けに寝ころび」と書いたことで略したのだろう。後者は「あるいは私の目の奥にあるものなのかもしれない」と訳している。

「人の両手首、両足首がくるあたりだ」は<about where a man's wrists and ankles would be>。清水氏はここを「バックルのついた厚い革紐が二ヵ所についていた」と書いている。原文の引用箇所の前に<there were thick leather straps with buckles attached to the sides>とあるので「二ヵ所」と訳したのだろうが、「両手首、両足首」なので、合計すると四か所になる。やはり、軽々にカットしたりすると痛い目を見る。村上訳は「ちょうど人の両手首と両足首のくるあたりに」。

「肘から肩にかけての皮膚は、針を刺した痕だらけだった」は<It was covered with pin pricks on the skin all the way from the elbow to the shoulder>。清水氏は「肘から肩にかけて、桃色の斑点ができていた」と訳している。<pin pricks>を<pink>と見まちがえたのだろう。村上訳は「肘から肩にかけての皮膚には、一面に針のあとがついていた」。

「麻薬だ。おとなしくさせるのに、大量の麻薬を打たれたのだ。おそらく自白させるためのスコポラミンも。時間の割に麻薬の量が多すぎて、幻覚を見ていたのだ。見るのもいれば、見ないのもいる。要は本人がどれだけしっかりしているかにかかっている。それが麻薬だ」は<Dope. I had been shot full of dope to keep me quiet. Perhaps scopolamine too, to make me talk. Too much dope for the time. I was having the French fits coming out of it. Some do, some don't. It all depends how you are put together. Dope>。

清水訳「熟睡させるための注射だった。私が暴れたからかもしれなかった。あるいは、口をきかせるためのスコポラミンかもしれなかった。それは麻薬だ。私のからだに影響があった。からだによって、影響がちがうのだ。麻薬」。

村上訳「麻薬だ。おとなしくさせておくために、しこたま麻薬を打たれたのだ。自白を引き出すためにおそらくスコポラミンも打たれたはずだ。短時間に大量の麻薬が投与された。私は薬物による幻覚を見ていたのだ。そういうのを見るものもいるし、見ないものもいる。体質によって症状は違ってくる。しかしとにかく麻薬だ」。

清水氏のはちゃんとした訳になっていない。<too>とあるのだから「あるいは」ではない。その後はまったく訳されていない。「からだによって」の部分<put together>。村上氏は「体質によって」と訳している。「まとめる。組み立てる」という意味だが、<be~>で「(人)が有能である、しっかりしている」という意味もある。

「それで説明がつく。煙、天井灯の縁の小さな頭、声、馬鹿げた考え、ストラップ、格子、痺れた指や脚のすべてが」は<That accounted for the smoke and the little heads around the edge of the ceiling light and the voices and the screwy thoughts and the straps and bars and the numb fingers and feet>。清水氏は「煙もそのせいだった。指のしびれも、からだ全体の疲労感も、ベッドにとりつけられた革バンドもそれで説明ができる」と省略している。逆に村上氏は多量に言葉を補って訳している。「それでいろんなことの説明がつく。煙やら、天井灯の縁からのぞいているたくさんの小さな頭やら、聞こえてくる声やら、浮かんでは消える妄想やら、革のストラップやら、窓の鉄格子やら、手の指と脚の痺れやら」。帯に短し襷に長し、という感じだ。
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「ウィスキーは、おそらくアルコール中毒治療二日間コースの一部だろう」は<The whiskey was probably part of somebody's forty-eight hour liquor cure>。清水氏は「ウィスキーはおそらく、同じ目的のために用いられたものであろう」と訳しているが、これはおかしい。原文には<liquor cure>と書かれている。村上訳は「ウィスキーはたぶん四十八時間アルコール中毒治療のための道具のひとつなのだろう」。

「剥き身で百九十ポンド、洗顔済み」は<One hundred and ninety pounds stripped and with your face washed>。清水訳は「百九十ポンド」とだけ。村上訳は「服を脱いで顔もきれいに洗って、体重が八十五キロある」。ここは、ボクシングのリングアナウンサーのスタイルをまねた、マーロウの台詞だろう。試合前の体重測定のことをいっているのだと思うが、どうだろう。

「大量の麻薬を打たれ、頭の中で二匹のネズミがワルツを踊りだすまで監禁された。これがいったい何を意味するのか? お定まりの仕事だ」は<You've been shot full of hop and kept under it until you're as crazy as two waltzing mice. And what does all that amount to? Routine>。清水訳は「そして、注射で眠らされた」と大幅カット。村上訳は「薬物漬けになり、頭はたが(傍点二字)が外れて、ワルツを踊っている二匹のネズミみたいな有様だ。さて、私にとってそれは何を意味するのだろう? 日常業務(傍点四字)だ」。<keep under>は「(暴動などを)抑える、監視する」の意味だが、村上訳からはそのニュアンスが伝わってこない。

「では、そろそろ本気でタフな仕事にとりかかろうか、ズボンを穿くというのはどうだ」
は<Now let's see you do something really tough, like putting your pants on>。清水訳は「さあ、このへんで、何とか、眼にもの見せてくれないか」。自虐的なユーモア.がすっぽり抜け落ちてしまっている。村上訳は「よろしい、そろそろ掛け値なしにタフな仕事に取り組もうじゃないか。たとえばズボンを履くとか」訳はいいのだが、「履」という漢字は、履物に使うのではなかったか。下半身に身に着ける場合は「穿く」だと思うのだが。

「私は上体を起こした。いささか飽きが来ていた」は<I sat up. This was getting to be stale>。清水氏はここをカットしている。この<I sat up>は、これで三度目。次に「四度目」と出てくるので、一回分、抜いたことになる。これはマズい。村上氏は「私は身を起こした。うまく力が入らない」と訳している。<stale>は「新鮮でない、古くなった」という意味だ。氏はからだの状態と解釈しているようだが、この<this>は、上体を起こして歩く行為を指しているのではないだろうか。

「神経質な猫みたいにどきどきする」は<Makes your heart jump like a nervous cat>。清水氏はここもカット。村上訳は「神経質になった猫みたいに心臓がばくばくする」だ。<make someone's heart jump>は「(人)の心を刺激する」という意味。

「花瓶をひっくり返すこともできない。爪ひとつ切れやしない」は<I couldn't knock over a flower vase. I couldn't break a fingernail>。清水氏は二つ目の文をカットして「花瓶を倒すこともできないんだ」としている。村上氏は「花瓶をノックアウトすることもできない。爪を折ることだってむずかしそうだ」と訳している。<knock over>はただ「ひっくり返す」という意味。手をすべらせるだけのことで、わざわざ「ノックアウト」する必要はない。また、爪は「切る」もので、カセットテープでもなければ、折ったりはしない。

「洗面台まで行き、きれいに洗い流し、そこに寄りかかって、掌から水を飲んだ」は<I went over to the washbowl and rinsed it out and leaned on it and drank water out of the palm of my hand>。清水氏は「私は洗面台へ行って口をすすぎ、水を手のひらに掬(すく)って飲んだ」と訳している。たしかに<rince out>は「うがいする」ことだが、<rinsed it out >の間に挟まっている<it>は、その前の<washbowl >でしかありえない。村上訳は「洗面台まで行って、それをきれいに洗い、身を屈め、手のひらで水をすくって口に入れた」。ちなみに<lean on>は「もたれる、寄りかかる」の意味で「前屈みになる」は<lean forward>だ。

「歩いてベッドに戻った。愛らしいベッドだった」の後からこの章の終わりまでの清水訳は「私はベッドに戻った。歩きまわった後だったので、寝心地のいいベッドだった。カロル・ロンバードから手に入れたようだった。しかし、今は眠っている時ではない。何とかして、この部屋から抜けださなければならないのだ」で終わっている。これでは「超訳」だ。清水氏は、こういう部分は単なる文飾だと思って訳出しなかったのだろう。村上訳が出るまで、日本の読者はこの部分の存在を知らずに小説を読んでいたわけだ。

その意味で、村上氏による新訳が出たのはとても有意義だった。閑話休題。「薔薇の花弁で作られていた」は<It was made of roseleaves>。村上氏は「それはバラの葉で作られている」と訳している。<roseleafe>には村上氏が訳したように「バラの葉」の意味がある。しかし、同様に「バラの花弁」という意味もある。<the most beautiful bed in the world>(世界一美しいベッド)を喩えるとしたら、果たして、どちらが最適だろうか。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第25章(1)

動いていないはずの煙に<up and down>が使われる理由

【訳文】

《部屋は煙でいっぱいだった。
 あたりには煙が本当に漂っていた。小さな透明のビーズでできたカーテンのように真っ直ぐな細い列になって。突き当りの壁にある窓は二つとも開いているようだが、煙は動かなかった。部屋に見覚えはなかった。窓には鉄格子がはまっていた。
 頭がぼんやりして何も考えられなかった。まるで一年間眠っていたみたいだ。だが、煙は煩わしかった。仰向けに寝転んで、それについて考えた。しばらくして、大きく息を吸ったら肺が痛んだ。
私は叫んだ。「火事だ!」
 それが私を笑わせた。何がおかしいのかも分からず、笑い出した。ベッドの上に寝たままで笑った。笑い声が気に入らなかった。頭の螺子が緩んだ笑いだった。
 一声叫べば充分だった。部屋の外で足音がして、鍵が錠に差し込まれ、ドアが勢いよく開いた。男が横っ飛びで入って来て、すぐドアを閉めた。右手が尻にのびた。
 ずんぐりした小男で白衣を着ていた。奇妙な眼で、黒くて薄っぺらい。両の目尻に灰色の皮膚が膨らんでいた。
 私は固い枕の上で振り返り、欠伸をした。
「本気にするなよ。口がすべったんだ」私は言った。彼は顔をしかめて立っていた。右手は右の尻の上あたりをさまよっていた。蒼ざめた悪意に満ちた顔、薄っぺらい黒い眼、灰白色の皮膚、貝殻のような鼻。
「もう少し拘束衣を着ていたいみたいだな」彼はせせら笑った。
「大丈夫。いい気分だ。昼寝のし過ぎで、夢でも見たらしい。ここはどこだ?」
「お前がいるべきところさ」
「いい場所のようだ」私は言った。「感じのいい人々、いい雰囲気、もうひと眠りしよう」
「それがいいだろう」彼はつっけんどんに言った。
 男が出て行き、ドアが閉まった。鍵がかかった。足音が消えていった。
 男は煙の役には立たなかった。それはまだ部屋の真ん中に居座っていた。部屋中至る所に、カーテンのように。消えてもゆかず、流れもせず、動きもしなかった。部屋に空気があることは、顔で感じられた。しかし、煙は空気を感じていなかった。それは千匹の蜘蛛が張り巡らした灰色の蜘蛛の巣だった。どうやって蜘蛛に協力させたのだろう。
 綿フラノのパジャマ。郡病院で着るような代物。前開きではなく、必要以上の縫い目のない、手触りの粗い生地。首回りが喉をこする。喉はまだ痛む。あれこれと思い出した。手を伸ばして喉の筋肉を触ってみた。まだ痛かった。インディアンをたった一人、バン。オーケイ、ヘミングウェイ。探偵になりたいって? いい金になるよ。九つの簡単なレッスン。バッジ進呈。五十セント追加で腕木付き。
 喉はまだ痛んだが、触ってる指の方は何も感じない。ずっとバナナの房になっていたという方が当たっている。見てみた。一応指のように見える。不良品だ。通信販売の指だ。バッジや腕木と一緒に送られてきたにちがいない。証書付きで。
 夜だった。窓の外の世界は黒い世界だった。天井の真ん中から三本の真鍮の鎖でガラス磁器の鉢が吊るされている。中に灯りがついている。縁にオレンジとブルーの小さな塊りが交互についていた。私はそれをじっと見つめた。煙にうんざりしていた。じっと見ていると、小さな塊りは舷窓のように開き始め、頭が飛び出してきた。小さな頭だが、生きていた。小さな人形のような頭だが、生きていた。ジョニー・ウォーカーの鼻をしたヨット帽子の男、飾りのついたつば広帽子の浮ついた金髪女、それにボウタイの曲がっている痩せた男。まるで避暑客を待ち受けるレストランの給仕のようだ。男は冷笑口調で言った。「ステーキはレアになさいますか、それともミディアムで? サー」。
 眼をしっかり閉じ、強く瞬いてから開けると、それは三本の真鍮の鎖のついた、ただの紛い物の磁器の鉢だった。
 しかし、煙は動く空気の中でじっとしていた。痺れた指でごわごわしたシーツの端をつかんで顔の汗をぬぐった。九つの簡単なレッスンと半額を前払いした後で通信教育講座から送られてきた例の指だ。アイオワ州シーダー・シティ、私書箱2468924。戯言だ。全くの戯言。
 ベッドの上に座り、しばらくすると床に足を着けられるようになった。両足とも裸足で中に画鋲や針が詰まっていた。日用雑貨は左です、マダム。特大の安全ピンは右です。足が床を感じ始めた。立ち上がった。直立には程遠かった。つんのめり、荒い息をし、ベッドのはしを握った。ベッドの下から聞こえてくるらしい声が、何度も何度も繰り返し言った。「禁断症状だ…禁断症状だ…禁断症状だ」》

【解説】

「あたりには煙が本当に漂っていた。小さな透明のビーズでできたカーテンのように真っ直ぐな細い列になって」は<The smoke hung straight up in the air, in thin lines, straight up and down like a curtain of small clear beads>。清水氏は「煙は細い糸のように、まっすぐ立ち上(のぼ)っていた」と訳している。これではまるで線香の煙のようだ。村上氏は「煙は何本もの細い筋になり、部屋の中空に直立するように浮かんでいた。小さな透明のビーズでできたカーテンみたいにまっすぐに上下している」と訳している。これもおかしい。

というのも、この後何度も出てくる煙は、そよとも動いていないのだ。この煙はマーロウが見ている幻覚で、本当は存在しない。だから、風にあたっても動かない。ではなぜ、ここだけ、「立ち上っていた」り、「上下して」いたりするのか。実は<straight up>には「本当に、正直に言うと」の意味がある。<hung in the air>は「漂う」という意味だ。マーロウは自分の感覚を信じて「本当に」という意味の<straight up>を挿入したのだろう。

また<straight up and down>は「垂直方向に真っ直ぐに」という意味で、別に「上下動」を意味していない。ちょっと辞書を引けば、例文がいくつでも出てくる。<up and down>には、上下だけでなく「あちこちに、至るところ」という意味があるので、<straight up and down>を使ったのだろう。それは<like a curtain of small clear beads>と直喩していことからも分かる。煙をビーズ・カーテンに喩えているのだ。誰も動かさなければ、カーテンは上下したりしない。

「ずんぐりした小男で白衣を着ていた。奇妙な眼で、黒くて薄っぺらい」は<He was a short thick man in a white coat. His eyes had a queer look, black and flat>。清水氏は「背の低い小男で、白い服を着ていた。眼が異様に輝いていた」と訳している。小男というのは、もともと背が低いものだし、後半は完全な作文だ。村上訳は「がっしりとした小男で、白い上っ張りを着ていた。目はどことなく奇妙だった。真黒で奥行きがない」。

「蒼ざめた悪意に満ちた顔、薄っぺらい黒い眼、灰白色の皮膚、貝殻のような鼻」は<Greenish malignant face and flat black eyes and gray white skin and nose that seemed just a shell>。清水訳は「青白い顔。うつろな黒い眼。灰色の皮膚。貝殻のような鼻」で<malignant>をトバしている。<greenish>を「青白い」と訳したのは<turn greenish>(人が青ざめる)から、そう訳したのだろう。村上訳の「悪意に満ちた緑がかった顔と、奥行きのない黒い瞳と、白っぽい灰色の皮膚と、殻でつくられたみたいな鼻」と比べると、いつものことながら、旧訳のこなれた訳しぶりに好感が持てる。「緑がかった顔」では、辞書そのままで工夫の跡が見えない。

「カーテンのように。消えてもゆかず、流れもせず、動きもしなかった。部屋に空気があることは、顔で感じられた。しかし、煙は空気を感じていなかった」は<Like a curtain. It didn't dissolve, didn't float off, didn't move. There was air in the room, and I could feel it on my face. But the smoke couldn't feel it>。清水氏はここを大幅にカットして「少しも揺れることなく、千匹の蜘蛛が編んだ灰色の網のように立ち上っていた」とまとめている。

参考までに、村上訳では「カーテンがかかっているみたいだ。消えることもないし、どこかに流されていくこともないし、動きもしない。部屋には空気の動きがあった。それを顔に感じることができた。それなのに煙はちっとも動じない」となっている。

「探偵になりたいって? いい金になるよ。九つの簡単なレッスン。バッジ進呈。五十セント追加で腕木付き」は<So you want to be a detective? Earn good money. Nine easy lessons. We provide badge. For fifty cents extra we send you a truss>。清水氏は「なんだって? 君、探偵になりたいのかね。いい金になるぜ。鑑札も世話してやるぜ」と訳している。村上訳は「私立探偵になりたいんですか? いい稼ぎになりますよ。九つの教科をとってください。バッジを差し上げます。五十セントの追加で飾り用の台もおつけします」と丁寧。

「縁にオレンジとブルーの小さな塊りが交互についていた」は<It had little colored lumps around the edge, orange and blue alternately>。清水氏はここを「小さな色電球がぐるりととりまいていて、オレンジとブルーが一つおきになっていた」と訳している。<lump>を<lamp>と見まちがえたのだろう。村上訳は「そのボウルの縁には色つきの小さな塊があしらわれていた。オレンジとブルーが替わりばんこになっている」。

「九つの簡単なレッスンと半額を前払いした後で通信教育講座から送られてきた例の指だ。アイオワ州シーダー・シティ、私書箱2468924。戯言だ。全くの戯言」は<the numb fingers the correspondence school had sent me after the nine easy lessons, one half in advance, Box Two Million Four Hundred and Sixty Eight Thousand Nine Hundred and Twenty Four, Cedar City, Iowa. Nuts. Completely nuts>。清水氏は全部カットしている。

村上訳は「それらの指は、九回の簡単なレッスンと半金の前払いが終わった後に、通信教育講座から送られてきたものだった。住所はアイオワ州シダー・シティー私書箱2468924。やれやれ、何を言ってるんだ。意味をなさないことを口にしている」。お得意の「やれやれ」が利いている。

「禁断症状だ」は<You've got the dt's>。清水氏は「精神錯乱だ」、村上氏は「そいつは酒毒の幻覚だ」と訳している。<dt's>は「振戦せん妄」のことで「アルコール中毒による急性せん妄状態」を意味している。「せん妄」とは意識混濁に加え、幻覚、錯覚などを見る状態のこと。アルコール中毒者は酒が切れてニ、三日たつと、そういう状態に陥るらしい。マーロウはふだんから自分でも酒を飲みすぎることを気にしているのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第24章

<backseat>には、「つまらない地位」という裏の意味がある

【訳文】

《エレベーターで下まで降り、狭い廊下を抜け、黒いドアから外に出た。外気は爽やかに澄みきっていた。海霧も流れてこない高さだった。私は深く息を吸った。
 大男はまだ私の腕をつかんでいた。車が停まっていた。平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている。
 大男がフロント・ドアを開け、ぼやいた。「階級を上げ過ぎたよ、あんた。一息入れたら元気も出るさ。大丈夫かい? 俺たちも、あんたの気に入らないことはしたくないんでね」
「インディアンはどこだ?」
 彼は軽く首を振り、私を車に押し込んだ。私はフロントシートの右側に乗り込んだ。「ああ、インディアンか」彼は言った。「あいつを射ちたけりゃ弓矢を使うこった。それが決まりだ。車の後ろにいる」
 私は車の後ろを見た。空っぽだ。
「変だな、どこにもいない」大男は言った。
「誰かがさらっていったにちがいない。ロックしてない車には何も置いておけないな」
「早くしろ」口髭の男がそう言って、バックシートに乗り込んだ。ヘミングウェイは回り込んでその逞しい腹をハンドルに押しつけた。車は向きを変え、静かに野生のゼラニウムに縁どられた私道を下りていった。冷たい風が海から吹いてきた。遥か遠くに星が見えた。彼らは押し黙っていた。
 私道の端から、コンクリート舗装の山道に入り、道に沿ってゆっくり走った。
「どうして車がないんだ?」
「アムサーが迎えを寄越したんだ」
「そりゃまたどういう訳で?」
「私に会いたいからに決まってるだろう」
「こいつは大丈夫だ」ヘミングウェイは言った。「物事を理解してる」。窓からぺっと唾を吐いて、きれいにカーブを切り、エンジンを回しながら丘を下った。「あいつが言うには、あんたに電話で強請られかけたので、考えたんだそうだ。もし取引することになるなら、先に取引相手をざっと見ておきたい、と。それで自分の車を寄越したのさ」
「知り合いの警官に電話するつもりでいたから、帰りの車は要らなかった」私は言った。「そういうことだ、ヘミングウェイ
「ああ、またそれだ。まあいい。テーブルの下にディクタフォンがついていた。録音した分を秘書が書き起こす。俺たちが来たとき、ミスター・ブレインに読み直してたのがそれだ」
 私はミスタ・ブレインを振り返った。彼は葉巻を吸っていた。スリッパでも履いているかのようにくつろいで。こちらを見ようともしなかった。
「まず、それはない」私は言った。「こんなときのために用意した修正済みの文書ファイルがあるのさ」
「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」ヘミングウェイがそれとなく持ちかけた。
「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」
「おっと、俺たちはその手の警官じゃない」大きなジェスチャーをまじえて彼は言った。
「なあ、君はアムサーをよく知っているんだろう、ヘミングウェイ?」
「ミスタ・ブレインはよく知ってる。俺はただ言われた通りにするだけだ」
「ミスタ・ブレインというのは何者だ?」
「バックシートの紳士だ」
「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」
「意味が分からん、ミスタ・ブレインを知らない者はいない」
「もういい」私は言った。急にどうでもいいという気分になってきた。
 しばらく静寂が続いた。カーブが続き、曲がりくねったコンクリートの道が続き、闇が続き、痛みが続いた。
 大男が言った。「今は野郎だけで、女はいない。何であんたがあそこに戻ってきたのかはどうでもいいが、このヘミングウェイという戯言には本当のところ、うんざりしてるんだ」
「ギャグさ」私は言った。「大昔のギャグだ」
「そのヘミングウェイとかいうのは誰なんだ?」
「同じことを何度も繰り返して言う男だ。こちらがその通りだと信じるようになるまで」
「それにはえらく長い時間がかかるにちがいない」大男が言った。「私立探偵にしちゃ、あんたはたしかに、少しばかりとりとめのない頭の持ち主だ。まだ自前の歯は残ってるか?」
「ああ、いくつか詰め物はあるが」
「まあ、ツキが回ってたってとこだ、あんた」
 バックシートの男が言った。「ここでいい。次を右折だ」
「了解」
 ヘミングウェイは、狭い未舗装路にセダンを突っ込んだ。山の側面に沿って延びる道を、ざっと一マイルほど走った。むせかえるようなセージの匂いが鼻をついた。
「ここでいい」バックシートの男が言った。
 ヘミングウェイは車を停め、サイド・ブレーキを引いた。私のからだ越しに屈みこみ、ドアを開けた。
「知り合えてよかったよ、あんた。けど、戻ってくるんじゃないぜ。少なくとも仕事絡みではな。出るんだ」
「ここから歩いて帰るのか?」
バックシートの男が言った。「早くしろ」
「ああ、あんたはここから歩いて帰る。それでいいか?」
「結構だ。考え事をまとめられる。例えば、君たちはL.A.の警官じゃない。しかし、どちらかは警官だ。たぶん二人ともだろう。見たところ、ベイ・シティの警官のようだ。分からないのは、どうして管轄外に出張ってきたかだ」
「証明するのは難しいんじゃないか?」
「おやすみ、ヘミングウェイ
 彼は返事しなかった。二人とも何も言わなかった。私は車を降りようとし、ステップに足をかけて、前にのめった。まだ少し眩暈がした。
 バックシートの男が電光石火の動きを見せた。眼で見るのではなく、気配で感じた。足元には漆黒の夜より深く闇だまりが広がっていた。
 私はその中にダイブした。闇の底が抜けた。》

【解説】

「海霧も流れてこない高さだった」は<high enough to be above the drift of foggy spray from the ocean>。清水訳では「海に近い(さわやかな空気を深く吸い込んだ)」となっているが、水平方向では海に近くても、垂直方向では海から離れているので、原文からかなり意味が変わっている。村上訳は「遥か高いところにあるので、海の飛沫を含んだ霧も漂ってはこない」と原文に忠実だが「海の飛沫を含んだ霧」は少々くどい。

「平凡な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」は<a plain dark sedan, with private plates>。清水氏は「黒塗りのセダンが一台(駐っていた)」と、ナンバープレートについて触れていない。どう見ても警官らしい二人が個人のナンバーをつけた車で来ている不自然さについて書いているのだ。カットするべきではない。村上訳は「地味な黒いセダンで、個人のナンバープレートがついている」。

「階級を上げ過ぎたよ、あんた」は<It ain't really up to your class, pally>。清水氏は「お前さんのような奴にはもったいない」と訳している。何が勿体ないのだろう。車のことだろうか? 村上氏は「実力以上に欲をかきすぎたんだよ」と訳している。強請るにしても闘うにしても相手が悪かった、というような両義的な意味にとれる訳だ。「階級」と訳したのは、ボクシングでいえば、ヘビー級<the heavyweight class>の意味。ヘミングウェイの言葉の後にマーロウがインディアンのことを訊いていることから見て、この<class>は、格闘技における階級差を意味しているのだと思う。

「なぜあの男に会いたかったのか、理由を話したいんじゃないか」は<Maybe you would like to tell us why you wanted to see this guy>。この<this guy>が曲者だ。清水氏は「なぜ、お前の顔を見たかったのか、わかっているかね?」と訳している。つまり<this guy>をヘミングウェイ本人と解釈しているのだ。しかし、その前に<tell us>と言っているので、ヘミングウェイは自分たちを二人組と考えていることが分かる。村上訳は「どうしてあの男に会いたかったのか、あんた、俺たちにその理由を説明したいんじゃないのかな」だ。

会話の場合、問いかけの訳をまちがえると、答えの方もおかしくなる。「まだ顔の一部が残っている間にという意味か?」の原文は<You mean while I still have part of my face?>。清水訳では「こんな形になる前の顔かね?」となっている。村上訳は「まだ私の顔に少しでも見られるところが残っているうちにということかな?」。

「バックシート(つまらない地位)にいることの他に、いったい誰なんだ?」は<And besides being in the back seat who the hell is he?>。清水訳は「それはわかってる。どういう人間なんだ?」。村上訳は「後ろの席のことは別にして、いったい誰なんだ?」。<take a backseat>という成句がある。「一目置く、二の次になる」の意味だ。自動車の後部座席に座ることが「目立たない位置、つまらない地位」を指している。マーロウは、それを仄めかしているのだが、ヘミングウェイにはそれが通じていない。註でもつけないと伝わらないので、両氏とも無視しているのだろう。しかし、そこを理解しないと、この後マーロウが急にやる気が失せる原因が理解できない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第23章

いくらタフでも、喉が「肉挽機」を通ったら、元に戻りそうにない。

【訳文】

《「おい」大男が言った。「そろそろ潮時だ」私は目を開けて、体を起こした。
「河岸を変えようじゃないか、なあ」
 私は立ち上がった。まだ夢見心地だった。我々はドアを通ってどこかへ行った。それから私は、そこが周囲を窓に囲まれた待合室だと気づいた。外はもう真っ暗闇だった。
 場違いな指輪をした女が机の前に座っていた。その隣に男が立っていた。
「ここに座るといい」
 彼は私を強引に座らせた。快適な椅子だった。背凭れは真っ直ぐだが座り心地は良かった。もっとも、そんな気分ではなかった。女が机の向こうで手帳を開き、声に出して読み上げていた。背の低い、灰色の口髭を生やした年配の男が無表情にそれを聴いていた。
 アムサーは部屋に背を向けて窓辺に立ち、静かな水平線を眺めていた。遥か遠く、桟橋の明かりの向こう、この世界の向こうを、まるで愛しいものでも見るように。彼はちらりと私方を見た。顔の血は洗い落とされていたが、鼻が最初に見た鼻と違っていた。二サイズ以上大きかった。思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた。
「お愉しみのようだな、相棒?」
 私は声の主を見た。眼の前にいる、私をここまで連れてきた相手を。二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男で、シミの浮いた歯とサーカスの呼び込みのような蕩ける声の持ち主だ。タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない。毎晩のお祈り代わりに愛用のブラックジャックを唾で磨くタイプの警官だが、ユーモラスな眼をしていた。
 両脚を開いて眼の前に立ち、私の札入れを開いて手に持っている。物を傷つけるのが好きだとでもいうように革を引っ掻いている。もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう。
「覗き屋かい? 大きな悪い街からお出でなすって? ちっとばかし強請りでもってか?」
 帽子をあみだにかぶっていた。額にかかった埃っぽい茶色の髪が汗で黝ずんでいた。ユーモラスな眼は血管で赤く斑になっていた。
 咽喉が水絞り機にかけられたようだった。手を伸ばして触ってみた。インディアンだ。鋼鉄の工具のような指の持ち主だ。
 浅黒い女が読み終えた手帳を閉じた。灰色の口髭を生やした年配の小柄な男が肯いて、私に話しかけている男の後ろにやってきた。
「警官か?」私は顎をさすりながら訊いた。
「どう思うね?」
 警官のユーモアだ。小柄な男の片目は斜視で、半ば見えていないようだった。
「L.A.じゃないな」私は彼を見て言った。「その眼じゃ、ロサンジェルスでは勤まらない」
 大男は札入れを私に渡した。調べてみた。金も名刺もそのままだった。これには驚いた。
「何か言えよ」大きい方が言った。
「俺たちがあんたのことを好きになれそうな何かをさ」
「銃を返してくれ」
 彼は少し前屈みになって考えた。私には考えているように見えた。痛いところをついたようだ。「銃が欲しいのか?」彼は横目で灰色の口髭の方を見た。「こいつは銃を欲しがってる」彼は言った。彼はまた私の方を向いた。「また何のために銃が欲しいんだ?」
「インディアンを撃ちたいんだ」
「へえ、あんた、インディアンが撃ちたいんだ」
「ああ、インディアンを一人、バンと」
 彼は口髭の男をまた見た。
「タフな野郎だ」彼は言った。「インディアンが撃ちたいそうだ」
「いいか、ヘミングウェイ、私の言うことをいちいち繰り返すな」私は言った。
「こいつは気が変だ」大きいのが言った。「俺のことをヘミングウェイと呼ぶ。変だと思わないか?」
 口髭の男は葉巻を噛んで、何も言わなかった。窓際の長身の優男はゆっくり振り向いて静かに言った。「おそらく、少し情緒不安定なのだろう」
「俺のことをヘミングウェイなんて呼ぶ意味が全然分からない」大きいのが言った。「俺の名前はヘミングウェイなんかじゃない」
 年寄りの男が言った。「銃は見なかった」
 彼らはアムサーを見た。アムサーが言った。「中にある。私が預かっている。君に渡すよ、ミスタ・ブレイン」
 大男が腰をかがめ、膝を少し折って私の顔に息を吹きかけた。
「なんで俺のことをヘミングウェイと呼ぶんだ?」
「レディの前だよ」
 彼は背を伸ばした。「これだもんな」彼は口髭の方を見た。口髭の男は肯いて後ろを向き、部屋を横切った。スライド・ドアが開いた。彼は中に入り、アムサーが続いた。
 沈黙が落ちた。浅黒い女は机の上を見下ろし、眉をひそめた。大男は私の右の眉毛を見て、首をゆっくり左右に振った、訳が分からないとでも言いたげに。
 再びドアが開き、口髭の男が戻ってきた。彼はどこかから帽子を取り出し、私に手渡した。ポケットから私の銃を取り出し、私に手渡した。重さで弾倉が空だと分かった。それを脇の下に収め、立ち上がった。
 大男が言った。「さあ、行こう。外の空気を吸ったら少しは頭がはっきりするだろう」
「オーケイ、ヘミングウェイ
「こいつ、まだ言ってる」大男は悲しげに言った。「女の前だからって、俺のことヘミングウェイと呼ぶ。下品な冷やかしか何かのつもりなのか?」
 口髭の男は言った。「急ぐんだ」
 大男は私の腕を取り、我々は小さなエレベーターに向かった。エレベーターが上がってきて、我々は乗り込んだ。》

【解説】

「そろそろ潮時だ」は<You can quit stalling now>。清水氏は、その前の<all right>とくっつけて「さあ、起きろ」と訳している。村上氏も同じ扱いで「おい、そんなところで気を失われちゃ困るんだ」と訳している。<stall>は「(畜舎の)一頭用の仕切り」のこと。競馬のスターティングゲートを意味する場合もある。それが転じて<stalling>は「エンストなどの失速、急停止」、「口実、言い逃れ、ごまかし、時間稼ぎ」を意味することになった。

「場違いな指輪をした女」は<The woman with the wrong rings>。清水氏は「大きすぎる指環をはめた女」、村上氏は「サイズの合わない指輪をつけた女」と訳している。女の指輪については第二十一章(2)で言及済み。

「彼はちらりと私を顧みた」は<He half turned his head to look at me once>。清水氏は「顔を私の方にむけたときに」と訳している。村上氏は「一度だけ顔を半分こちらに向けて私の様子をうかがった」と訳している。<half turn>は、文字通り「半回転」のことで、「顔」ではなく、「頭」を百八十度回転することである。つまり、海を見ていたアムサーは、部屋の方にくるりと振り返ったのだ。だから、鼻が大きくなっていたことに気がついたのだ。格好をつけて海を見ていた男の鼻が、膨れ上がっていたら、さぞおかしかったことだろう。

「思わずにやりとしたせいで、唇の傷口が開いた」は<That made me grin, cracked lips and all>。清水氏は「私は裂けた唇をまげて苦笑した」。村上氏は「私は思わずにやりとし、唇を開かないわけにはいかなかった」。アムサーの鼻を見た結果として、にやりと笑ってしまったマーロウ。その笑いが切れかけていた唇の傷を開いたのだろう。

「二百ポンドはあろうかという、吹きさらしの花木のような大男」は<He was a windblown blossom of some two hundred pounds>。清水氏は「二百ポンドもありそうな大男」と<windblown blossom>をカットして訳している。村上氏は「百キロ近い体重の、風に吹きさらされた花のような男」と訳しているが、<blossom>を「花」と訳してしまうと風に吹かれる野の花のようで可憐すぎ、二百ポンドとなじまない。林檎のように実をつける果樹は可憐な花をつけるから、多分そういう花のことだと思うが、分かりづらい比喩だ。

「タフで俊敏、赤身の肉を食べる。誰にもこき使えない」は<He was tough, fast and he ate red meat. Nobody could push him around>。清水氏はここをすべてカットしている。村上氏は「タフで、俊敏で、赤身の肉を食べる。彼をこづくような真似は誰にもできない」と訳している。頭はどうか知らないが、腕力には長けている、一度これと決めたら動じない、現場で力を発揮するタイプの警官というところか。カットするには惜しいところだろうに。

「もし、彼が手にするすべてがそういうものであればどうということはない。だが、おそらく人間の顔の方がもっと彼を楽しませるのだろう」は<Little things, if they were all he had. But probably faces would give him more fun>。清水訳は「それが彼の持っていたすべてでも、小さなことだ。だが、たぶん、顔の方が興味があるのだろう」。村上氏は「ほかに何もなければ、小さな何かを傷つける。しかし、彼としては誰かの顔を傷つける方がもっと愉しいはずだ」と、例によって噛みくだいて訳している。

「咽喉が水絞り機にかけられたようだった」は<My throat felt as though it had been through a mangle>。清水氏は「私の咽喉は皺のばし機械を通ってきたような感じだった」と訳している。村上訳は「肉挽機を通り抜けてきたみたいな具合だった」だ。<mangle>は、動詞の場合「切ったり叩いたりして、ぐちゃぐちゃにする」という意味があるが、名詞の場合は「(ローラーを使った)皺のばし機、洗濯物手動絞り機」を指す。昔の洗濯機についていた二本のローラーの間に洗濯物を入れるあれだ。インディアンの手で押しつぶされたことをいうのだから「肉挽機」はちがうだろう。

「痛いところをついたようだ」は<It hurt his corns>。清水氏は例のごとく、ここをカットしている。村上氏は「それはどうやら苦手なことのようだ」と訳している。解釈としてはその通りだろう。<tread(step, trample) on one's corns>というイディオムがある。<~の感情を害する>のような意味で使う。<tread、step、trample>は「踏みつける、踏みにじる」の意味で<hurt>は「傷つける」の意味だから、それを踏まえているのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第22章

―格闘の最中に、突然、市役所が出てくる理由とは―

【訳文】

《スツールを蹴って立ち上がり、脇の下のホルスターから銃を抜いた。いい手際とは言えなかった。上着にはボタンがかかっていたし、手早くもなかった。もし誰かを撃つことになったら、どっちみち私は遅すぎるだろう。
 音もなく急に空気が動き、土臭い匂いがつんと鼻をついた。全くの暗闇の中でインディアンは背後から私を殴り、私の腕を両脇に押さえつけた。彼は私を持ち上げはじめた。銃を抜いて、闇雲に部屋中撃ちまくることもできたが、孤立無援だ。意味があるとも思えなかった。
 私は銃を握っていた手を放し、男の手首をつかんだ。ぬるぬるしてつかみにくかった。インディアンは息をぜいぜい言わせ、脳天が持ちあがるほどの勢いで私を振り下ろした。今や私に代わって向こうがこちらの手首を握っていた。後ろ手に素早くねじり、隅石のような膝を背中に押しつけ、私を跪かせた。頭くらい下げられる。後ろ盾のない身だ。彼は私を屈服させた。
 なぜか叫び声を上げようとした。息が切れて咽喉から声が出せなかった。インディアンは私を横ざまに放り出し、倒れたところを胴締めした。箍がはまったようだ。手が私の首に伸びた。今でも時々夜半に目を覚ました時、あたりに彼の匂いを感じることがある。息をしようと悪あがきをしても、脂ぎった指が食い込んでくる。そういうときは、起き出して一杯やり、ラジオのスイッチをひねる。
 再び灯りがついたとき、ほとんど気を失いかけていた。眼球とその裏側の充血のせいで明かりは血のように赤かった。顔が浮かび上がり、片手がそっと私を探っていたが、もう一人が両手で私の咽喉を押さえ続けていた。
 穏やかな声が聞こえた。「少し息をさせてやれ」
指が緩められた。身をねじって振りほどいた。何か光るものが顎の横を打った。
 穏やかな声が聞こえた。「立たせてやれ」
 インディアンが私を立たせた。壁際に引っ張っていき、両手をねじった。
「素人が」穏やかな声が聞こえた。そして、光るもの、死の如く硬く厳しいそれが、またも私の顔を打った。生温かいものが顔を横切った。舐めると鉄と塩の味がした。
 手が私の札入れを探った。すべてのポケットを探った。ティッシュペーパーに包まれた煙草が出てきて、包みが開かれた。それは私の眼の前を霞のように消えていった。
「煙草は三本だったのか?」声は穏やかだった。光るものがまた私の顎を打った。
「三本だ」私は息を呑んだ。
「他の二本はどこにあるんだ?」
「机の中だ―オフィスの」
 光るものがまた私を打った。「たぶんでたらめだろう―調べればわかることだ」眼の前に、奇妙な小さい赤い光の中に鍵束が見えた。声が言った。
「もう少し首を締めてやれ」
 鉄の指が咽喉に食い込んだ。私は悪臭と腹筋から逃れようと、背も折れよとばかり身を引き剥がした。手を伸ばし、相手の指を一本捻り上げようとした。
 穏やかな声が聞こえた。「驚いた。こいつは学びつつある」
 光るものが再び宙を切った。それは私の顎を一撃した。かつては私の顎だったところを。
「放してやれ。さすがにこたえてるだろう」声が言った。
 重く強い両腕がはなれ、私は前によろめいたが、かろうじて踏みとどまった。アムサーは、私の目の前でほとんど夢見るかのように微かな笑みを浮かべて立っていた。私の銃が彼の繊細かつ愛らしい手に握られていた。銃口が私の胸をねらっていた。
「教えてやれないでもない」彼はその優しい声で言った。「だが、何のために? 薄汚れた小さな世界の薄汚い小男じゃないか。ひとつ賢くなったところで何も変わらない。ちがうかい?」彼はたいそう美しく微笑んだ。
 私は残る力を振り絞って、その笑顔に一発くらわせた。
 その割にはそう悪くもなかった。彼はよろめき、両の鼻孔から血が流れた。それから、踏みとどまり、真っ直ぐに立ち、また銃を構えた。
「かけなさい」彼はそっと言った。「客を待っている。君が殴ってくれてよかったよ。仕事の助けになる」
 私は白いスツールを手探りし腰を下ろした。そして、白いテーブル上で今では再び優しく輝いている乳白色の球体の横に頭を横たえた。私はテーブル上に横向きになった顔で眺めた。ライトが私を魅了した。心和む灯りだ。心和む優しい灯りだった。
 背後も周囲も静まりかえっていた。私はそのまま眠りに落ちたようだ。血まみれの顔をテーブルにのせ、私の銃を手に微笑む痩身の美しい悪魔に見守られながら。》

【解説】

「私を跪かせた。頭くらい下げられる。後ろ盾のない身だ。彼は私を屈服させた」は<He bent me. I can be bent. I'm not the City Hall. He bent me>。清水氏は「私のからだをねじ枉(ま)げた」とだけ、訳している。この辺の分からないところをあっさりパスする潔さは一種の見識である。それに引き比べ、村上氏は「私の身体をのけぞらせた。人間の身体は曲がるようにできている。市役所の建物とはわけが違う。彼は私の身体をぐいと曲げた」と訳している。この訳は傑作だ。

<bend>は「曲げる」という意味だが、普通、前方に曲げることをいう。それに<bend>には「屈服させる」という意味もある。体の自由を奪われたマーロウが、三度も<bent>を繰り返し、二度も<bent me>と書いているのは、屈服させられたことに対する屈辱感があるからだ。極めつけは<I'm not the City Hall>だ。<fight city hall>という成句があって、「官庁(官僚機構)を相手に戦いを挑む、ほとんど無益なことをする」という意味だ。私立探偵に過ぎないマーロウには頼りとする組織がない。その無力感を言いたいのであって、身体の柔軟さの対比に、わざわざ市役所の建物を持ち出す必要はない。

格闘シーンをもう一つ。「倒れたところを胴締めした。箍がはまったようだ」は<got a body scissors on me as I fell. He had me in a barrel>。清水氏は、たた「押えつけた」とだけ。村上氏は「私が倒れたところを、両脚でぐいと挟み込んだ。どうにも身動きがとれない」と訳している。<body scissors>はプロレス技の「ボディーシザーズ」、つまり「胴締め」のことである。<barrel>は「樽」のことだ。

「片手がそっと私を探っていたが、もう一人が両手で私の咽喉を押さえ続けていた」は<a hand pawed me delicately, but the other hands stayed on my throat>。清水氏は「一つの手が私のからだを探った。もう一つの手はまだ私の咽喉を締めつけていた」と訳しているが、<other hands>とあるので、手が三本いることになってしまう。村上訳は「片手が私の身体を注意深く探った。しかしもう一人の両手は私ののどをしっかりと押さえたままだ」。

「光るもの、死の如く硬く厳しいそれが、またも私の顔を打った」は<the shiny thing that was as hard and bitter as death hit me again>。清水氏は「堅い、光ったものが私の顔に飛んできた」と訳している。村上氏は「その光るものが再び私の顔面を打った。死そのもののように硬くて厳しいものだ」と訳している。いうまでもなく拳銃の隠喩である。

「かつては私の顎だったところを」は<the thing that had once been my jaw>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「かつては私の顎であったものを」。

「アムサーは、私の目の前でほとんど夢見るかのように微かな笑みを浮かべて立っていた」は<Amthor stood smiling very slightly, almost dreamily in front of me>。清水氏は「アムサーはかすかな微笑を見せて、私の眼の前に立っていた」と<almost dreamily>をカットしている。村上訳は「アムサーは見えるか見えないかという淡い微笑みを浮かべて、私の前に立っていた。どことなく夢見心地にも見えた」だ。

「その割にはそう悪くもなかった」は<It wasn't so bad considering>。清水氏は「たしかに手ごたえがあった」と勝手に作文している。村上氏は「それは悪い思いつきではなかった」と訳しているが、文末に置かれた<considering>は、もとは前置詞で、後に続く<the circumstances>を略した形。「すべてを考慮すれば、その割に」の意味になる。この一文は、そのまま例文にもある。

「背後も周囲も静まりかえっていた」は<Behind me and around me there was nothing but silence>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「私の背後にも、まわりにも、沈黙のほかには何もなかった」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(4)

―にらんで相手の目を背けさせることができなかったのは何故か―

【訳文】
《軽口は関心を引けなかった。テーブルを叩く音は続いていた。私はこつこつという音に耳を傾けた。何かが気に入らなかった。まるで暗号のようだった。彼は叩くのをやめ、腕を組み、背凭れのない椅子の上で体を後ろに傾けた。
「この仕事で気に入っているのは皆が知り合いなことだ」私は言った。「ミセス・グレイルもマリオットのことを知っていた」
「どうやって、それがわかった?」彼はゆっくり訊いた。私は何も答えなかった。
「君は警察に話すべきだと考えているのだろうね―煙草のことを」彼は言った。
 私は肩をすくめた。
「君はどうして放り出されないのかと考えている」アムサーは楽しそうに言った。セカンド・プランティングは君の首をセロリの茎みたいにへし折ることができる。自分自身何故そうしないか訳が分からない。君には何か仮説があるようだ。脅迫に金を出す気はない。金では解決しない―それに、私には多くの友人がいる。当然のことだが、私を不利な状況に立たせるたしかな要素もある。精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども。もちろん、彼らは全員医者だ。私が偽医者であるように。気の仮説とやらを聴かせてもらおうか?」
 私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ。
 彼は肩を軽くすくめた。「しゃべりたくない気持ちはわかる。この件は私が考えるべきだった。たぶん君は私が思ってたより知的な人間だったんだろう。私はときどき過ちを犯す。ところで―」彼は前屈みになって乳白色の球体の両側に手を置いた。
「マリオットは女相手の強請り屋だ」私は言った。「そして、宝石強盗の手先だ。しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」
「それが」アムサーは言葉を選んで言った。「君の考えるマリオットと私の人物像だとすると、ちょっとむかつくね」
 私は身を乗り出した。顔と顔の間が三十センチ足らずまで近づいた。「君はいかさま師だ。どれだけ気のすむように飾り立てたところで、いかさま稼業に変わりはない。名刺のことだけじゃない、アムサー。君の言う通り、名刺など誰にでも手に入る。マリファナじゃないな。よほどの機会でもなければ、そんな安物に手を出すはずはない。しかし、あの名刺はどれも裏に空白部分があった。そして、そこに、或いは印刷のある面にも、見えない文が書かれていたりする」
 彼はわびし気に微笑んだが、私はほとんど見えなかった。手が乳白色の球体の上に動いた。
 灯りが消えた。部屋はキャリー・ネイションのボンネットのように真っ黒になった。》

【解説】

精神科医、性の専門家、神経科医といった、手にはゴム製ハンマー、書棚には精神異常の文学を並べ立てた、いやらしい小男ども」は<Psychiatrists, sex specialists, neurologists, nasty little men with rubber hammers and shelves loaded with the literature of aberrations>。清水訳は「精神分析医、セックス専門医、神経科医など、ゴムのハンマーを持ち、書棚に異常の文学書を並べている、くだらない連中だ」。村上訳は「精神分析医、セックスのスペシャリスト、ゴムの警棒を持ち、精神異常の文学で書棚をいっぱいにしたいやらしい小男」。

まず、<psychiatrists>は「精神科医」であり、「精神分析医」は<psychoanalyst>よく似ているが、別物だ。村上訳は旧訳をベースにしているので、まちがいを引き継ぐことがよくある。これもその一つ。さらに、村上氏は、どうしたことか<neurologists>をトバしてしまっている。そして、決定的なミスは<rubber hammer>を「ゴムの警棒」と訳していることだ。精神病院の警備員を想定したのだろうが、ゴムのハンマーは、脚気の診断等で膝頭の下を叩く小さな器具である。医者を揶揄する象徴として用いていることはいうまでもない。

「私は彼を睨み倒そうとしたができなかった。舌なめずりしたい気分だったのだ」は<I tried to stare him down, but it couldn't be done; I felt myself licking my lips>。清水氏は「私は彼を見つめようとしたが、できなかった。私はただ、唇をなめていた」と訳している。村上訳は「私は彼をじっと見つめて目をそらせてやろうとした。しかし、それはできなかった。私は知らないうちに自分の唇をなめていた」だ。この両氏の訳が、マーロウのどんな気分を言おうとしているのか、がよく分からなかった。

<stare down>は「人を睨みつけて、おとなしくさせる」という意味だ。では、何故そうできなかったのか。セミコロンが使われていることに注意しよう。これは、後の文が前の文を説明するときに使うことがある。<I felt myself licking my lips>を、両氏とも「唇をなめる」と訳しているが<licking one’s lips>は日本語でいう「舌なめずりをする」ことを意味する。その前にあるのが<I feel myself>「~という気分」なら、まちがいない。マーロウは「してやったり」という思いがこみあげていて、睨み倒すことができなかったのだ。

「しかし、誰が彼にどんな女と親しくなるように命じた? 女の行動を知り、親密になり、懇ろになって、宝石で身を飾らせて外に連れ出し、どこで襲うのかを電話でこっそり教えろ、と」は、ちょっと長くなるが<But who told him what women to cultivate-so that he would know their comings and goings, get intimate with them, make love to them, make them load up with the ice and take them out, and then slip to a phone and tell the boys where to operate?>。

清水訳は「しかし、女の行動を知って、彼らに近づき、愛をささやき、金や宝石を身につけさせて、外につれ出し、どこで仕事をすればいいのかを電話で知らせるのにどの女に働きかければいいかということを、誰が教えていたのだろう?」だ。so-that構文を後ろから訳したために、後半の文がもたついて分かりにくい。「電話で知らせるのにどの女に働きかければいいか」と言ってるように読める。

村上訳は「誰かが彼に、どの女をカモにすればいいか耳打ちしていたらしい。その情報によって、彼女たちがどんな行動を取るかを知ることができた。女たちと親しくなり、関係を持ち、宝石で飾り立てさせて外に連れ出し、それから強盗団の連中にこっそり電話をかけ、どこで襲えばいいかを教えていた」。例によって噛みくだいて訳しているが、後半の主語がマリオットになっているので、首謀者の影が薄くなっているのは否めない。

蛇足ながら、キャリー・ネイションという女性は、禁酒運動の時代、斧で酒場のカウンターを叩き割って飲酒癖のある男たちに悔悛を迫ったという伝説の猛女らしい。清水氏は名前を記すにとどめているが、村上氏は括弧内に註を入れている。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(3)

―どうして村上氏は原文にない「死者」を訳に付け足したのだろう―


【訳文】

《「どうしてそうなったのか知りたいという訳か?」
「そうだ。こちらが百ドル払わなきゃいけないくらいだ」
「その必要はない。答えは簡単だ。私の知らないこともある。これはそのひとつだ」
 一瞬、男を信じかけた。男の顔は天使の羽のように滑らかだった。
「なら、どうして百ドルと臭くてタフなインディアン、それと車を寄こしたんだ? 時に、インディアンは臭くなきゃいけないのか? 雇い主なら、風呂を使わせることくらいできるだろう」
「彼は生まれつきの霊媒だ。ダイヤモンドのように稀少で、ダイヤモンドと同じように、汚れた場所で見つかることもある。君は私立探偵だったな?」
「そうだ」
「君は極めて愚かな人間のようだ。愚かに見える。愚かな仕事をしている。そして、愚かしい任務でここにやってきた」
「なるほど」私は言った。「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」
「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」
「そちらが引き留めてるんじゃない」私は言った。「こちらが引き留めてるんだ。あの名刺が煙草の中に入っていたわけを知りたいのでね」
 彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった。「私の名刺は誰でも入手可能だ。私は友人にマリファナ煙草を贈ったりしない。君の質問は依然として愚かしい」
「これで少しは機嫌が直るかもしれない。その煙草は日本製か中国製の安っぽい模造鼈甲のケースに入っていた。どこかで見た覚えは?」
「いや、まったく覚えがない」
「もう少し景気よくすることもできる。そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていた。名前を聞いたことは?」
 彼は考えた。「聞いたことがある。一度面倒を見た。カメラ恐怖症だったんだ。映画界入りを考えていたようだが、時間の無駄遣いだった。映画界は彼を欲しがらなかった」
「察しはつく」私は言った。「彼の写真はイサドラ・ダンカンのように見えただろう。もっと大きなのが残っている。百ドル札を送りつけた理由は?」
「ミスタ・マーロウ」彼は冷ややかに言った。「私は莫迦ではない。罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ。年がら年中、君みたいな連中からの危険にさらされている。危険に見舞われる前にやるだけのことをやったまでだ」
「かなり些細なことだったというのか、私の場合?」
「無に等しいね」彼は丁重に言った。そして左手で奇妙に目を引く動きをして見せた。それから彼は手をゆっくりと白いテーブルの上に置き、それを見た。それからまた底の知れない眼をあげ、両腕を組んだ。
「聞こえたかな―」
「臭いがしてるよ」私は言った。「彼のことは考えていなかった」
 私は左の方を向いた。インディアンが黒いヴェルヴェットを背に、三つ目のスツールに座っていた。
 彼は別の服の上から白いスモックのようなものを着ていた。身じろぎもせずにじっと坐っていた。眼を閉じ、頭は少し前に傾けていた。まるで一時間眠り込んでいたとでもいうように。浅ぐろく逞しい顔は影に包まれていた。
 私はアムサーを振り返った。彼は微かな微笑を浮かべていた。
「婆さんが見たら入れ歯を落とすだろう」私は言った。「本当のところ彼は何をしてるんだ―君の膝の上でシャンソンでも歌うのか?」
 彼は苛立たしそうなふりをした。「要点を言ってくれないか」
「昨夜、マリオットは私を付き添いに雇った。指定された場所で悪党に金を払うために、出かける必要があったんだ。私が頭を殴られてのびている間にマリオットが殺されていた」
 アムサーの顔には何の変化も現れなかった。叫び声も上げないし、壁をよじ登ろうともしなかった。しかし、反応が鋭くなった。腕をほどいてまた別の方法で組み直した。口元は険しかった。その後は、市立図書館前のライオンの石像のように動かなかった。
「煙草は彼から見つかった」私は言った。
 彼は冷ややかに私を見た。「しかし、警察じゃないな。警察はまだここに来ていない」
「正解」
「百ドルでは」彼はとても穏やかに言った。「足りないようだ」
「それで何を買うかによるな」
「煙草は君が持ってるのか?」
「そのうちのひとつを。しかし、何の証拠にもならない。お言葉通り、名刺は誰でも入手可能だ。煙草がなぜそこにあったのかが分からない。何か、考えはあるか?」
「君はミスタ・マリオットのことをどれだけ知っているんだ?」彼は優しく訊ねた。
「全然知らない。しかし、分かっていることもある。明々白々でよく目立っていた」
 アムサーは白いテーブルを軽く叩いた。インディアンはまだ眠りこけていた、巨大な胸に顎をのせて。重い瞼はしっかり閉じられていた。
「ところで、ミセス・グレイルに会ったことはあるか? ベイ・シティに住む金持ちの女性だ」
 彼はぼんやりとうなずいた。「言語中枢に問題を抱えていた。彼女には軽い言語障碍があった」
「いい仕事をしたな」私は言った。「彼女は私と同じくらい上手に話す」》

【解説】
「臭くてタフなインディアン」は<a tough Indian that stinks>。大したところではないが、清水氏は「臭いインディアン」、村上氏も「ひどい匂いのするインディアン」と両氏とも<tough>をカットしている。それでいて、村上氏は<and a car>としか原文には書いてないのに「でかい車」とわざわざ大きさを強調している。

「彼は生まれつきの霊媒だ」は<He is a natural medium>。清水氏は「彼はごくしぜんな仲介役だ」と訳している。<medium>は、衣服のMサイズを表すように、「中間」の存在として両者の間をつなぐものだ。しかし、アムサーが「心霊顧問医」を名乗っていることから考えると「霊媒」と訳すのが適当だと思う。村上訳は「彼は生まれつきの霊媒なのだ」。

「私は愚かだ。のみこむのに時間がかかる」は<I'm stupid. It sank in after a while>。清水氏は「いかにも、つまらん用件かもしれないが……」とお茶を濁している。<sink in>は「(教訓、戒めなどが)十分に理解される、心に沁み込む」ことを意味している。村上訳は「私はたしかに愚かしい。それが理解できるまでに時間がかかったが」。このマーロウの台詞が次のアムサーの「そして、私にはこれ以上君を引き留める必要がない」を引き出している。清水訳では「そして、ここにはもう用はないはずだ」と訳されていて、一応つながってはいるが<after a while>が響いていない。

「そちらが引き留めてるんじゃない」、「こちらが引き留めてるんだ」は<You're not detaining me><I'm detaining you>。清水氏は「ところが、あるんだ」と前の台詞をつなげて短くまとめている。村上氏は「あなたは私をここに引き留めていない」、「私があなたを引き留めているのです」と丁寧だ。村上訳のマーロウは、アムサーに対してとても紳士的に会話している。この辺は訳者の解釈次第だ。

「彼は肩をすくめた。これ以上小さくはできないすくめ方だった」は<He shrugged the smallest shrug that could be shrugged>。清水氏はあっさりと「彼はかすかに肩をゆすった」と訳す。<shrug>は、アメリカ人がよくやる例の(両方の手のひらを上に向けて)肩をすくめるポーズのことだが、あまりに小さければ「ゆすった」くらいにしか見えないのかもしれない。村上訳は「彼はちらりと肩をすくめた。そんなにも微かに人は肩をすくめられるものなのだ」。マーロウが、ではなくて、村上氏自身が、アムサーに感心しているように思えてくる。

「これで少しは機嫌が直るかもしれない」は<I wonder if this would brighten it up any>。清水氏は「では、こういうことがあるが、どうだ?」と切り口上。それに対して村上訳はというと「念のためにうかがいたいのですが」とずいぶん下手に出ている。しかし、どちらも原文に忠実な訳ではない。<brighten up>は「(顔を)輝かせる、明るくさせる」という意味で「機嫌が直る」ことを表す。マーロウは、知らぬ顔の半兵衛を決め込むアムサーに、ゆさぶりをかけているのだ。

「もう少し景気よくすることもできる」は<I can brighten it up a little more>。<brighten up>が繰り返されているのだが、清水訳は「では、もう少し話そう」。村上訳は「じゃあ、このようにうかがいましょう」と、そっけない。

「そのケースはリンゼイ・マリオットという名の男のポケットに入っていたは<The case was in the pocket of a man named Lindsay Marriott>。清水氏は「そのケースはリンゼイ・マリオという男のポケットに入っていたんだ」と訳している。そこを村上氏は「そのシガレット・ケースは死者のポケットの中に入っていた。リンゼイ・マリオットという名の死者です」と、二度も「死者」という言葉をつけ加えている。これはやり過ぎというものだ。マーロウは、情報を小出しにしながら、アムサーがどこで本当のことを話すか探ろうとしている。マーロウがここでマリオットを「死者」と呼ぶことは考えられない。相手に情報を与えず、相手から情報を引き出すのが警察のやり方だ。

「罪深いことに、とても微妙な職業に携わっている。私はもぐりの医者だよ。つまり、私は医師たちの小さな怯えた利己的な組合では達成できないことをしているんだ」は<I sin in a very sensitive profession. I am a quack. That is to say I do things which the doctors in their small frightened selfish guild cannot accomplish>。清水訳は「私は微妙な職業にたずさわっている。私は医者だが、ありきたりの医者ではない」と、実にあっさりしたものだ。

村上氏は「とても微妙な職業に携わっている。私は正式の医者ではない。つまり世間の医者たちが、狭い仲間内の利己的な縛りのために、怖くてとても手が出せないようなことをやっているわけだ」と後半は、噛みくだいて訳しているが、前半は旧訳に手を入れただけだ。<sin>や<I am a quack>の持つ意味合いが伝わってこない。アムサーは語の真の意味で「確信犯」であることを宣言している。<quack>は「偽医者、山師、いかさま師」などを指す言葉で「正式な医者ではない」などという曖昧な言い方をしてはいない。