HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(3)

<out on the water>が「海に浮かんだ」? 船が海に浮かずにどうする

【訳文】

《「あいつはマリファナ煙草をさばいてるとばっかり思ってた」彼は忌々しそうに言った。「それなりの後ろ盾を得てな。しかしあんなのは三下の小遣い稼ぎだ。何程にもならん」
「ナンバーズ賭博のことを知ってるだろう? あれもまた三下の小遣い稼ぎだ―もしその一部しか見ていなければ」
 ヘミングウェイはまた角を急に曲り、重い首を振った。「その通りだ。ピンボール・ゲーム、ビンゴ・ハウス、馬券屋もそうだ。しかし、それらをすべて足し合わせて、一人の男が仕切れるようにすれば、話は違ってくる」
「誰なんだ?」
 彼の顔からまた生気が失せた。口を堅く結び、上下の歯をしっかり食いしばっているのが見えるようだ。我々はディスカンソ通りを東に向かった。もう夕方に近かったが、通りは静まり返っていた。二十三番街に近づくにつれて、何とはなしに静かではなくなった。二人の男が椰子の木を見て、どうやったら動かすことができるか思案中のようだった。一台の車がドクター・ソンダーボーグの家近くに駐車していたが、中は見えなかった。ブロックの中程で一人の男が水道のメーターを調べていた。
 昼間見ると気持ちのいい家だった。ティーローズ・ベゴニアが正面の窓の下にこんもりとした淡い色の塊りを作り、花盛りのホワイト・アカシアの根元にはぼんやりとした色合いのパンジーが咲いていた。緋色の蔓薔薇が扇形をしたトレリスの上に蕾を開きかけていた。スイートピーの冬のねぐらを灰緑色のハチドリがそっと突っついている。庭いじりの好きな裕福な老夫婦が住んでいそうな家だ。午後も遅くの太陽は静まり返り、威嚇するような静けさを帯びていた。
 ヘミングウェイはゆっくりと家の前を通り過ぎた。口の端をぐいと引き、こわばった小さな微笑を見せた。その鼻が何かを嗅ぎつけた。次の角を曲がり、バックミラーをのぞいて、車のスピードを上げた。
 三ブロックほど行ったところで再び道路脇に車を停め、振り返って私をじっと凝視めた。
「L.A.のお巡りだ」彼は言った。「椰子の木の傍にいた二人組の一人、名前はドネリー。やつを知ってる。やつらはあの家を張っている。たしか、市警にいるあんたの友人には話してないはずだったよな?」
「言ったとおりだ。話してない」
「署長が喜ぶだろうよ」ヘミングウェイは歯を剥き出してうなった。「あいつら、ここまで出張ってきて、手入れまでしてるのに、こちらに一言の挨拶もない」
 私は口をはさまなかった。
「ムース・マロイは逮捕されたのか?」
 私はかぶりを振った。「私の知る限りではまだだ」
「一体、どこまでなら知ってるんだ?」彼はおだやかに訊いた。
「たいしたことは知らない。アムサーとソンダ―バーグに何か繋がりはあるのか?」
「俺の知る限りでは、ない」
「この街を仕切ってるのは誰なんだ?」
 沈黙。
「レアード・ブルネットという名の賭博師が市長を当選させるのに三万ドル積んだと聞いた。ベルヴェディア・クラブと夜のお楽しみ用の二隻の賭博船の所有者だそうだ」
「そうかもな」ヘミングウェイはもっともらしく言った。
「どこへ行けばブルネットに会える?」
「なんで俺に訊くんだ、ベイビー?」
「この街で隠れ家をなくしたら、どこへ行く?」
「メキシコだ」
 私は笑った。「なあ、ひとつ無理を聞いてくれないか?」
「いいとも」
「市内に連れて帰ってくれ」
 彼は道路脇から車を出し、影の落ちた通りに沿って海に向かって手際よく走らせた。車は市役所に着き、警察の駐車場に滑り込んだ。私は車を降りた。
「時々は顔を見せろや」ヘミングウェイは言った。「たぶん俺は痰壺を掃除してるだろう」
 彼は大きな手を外に出した。「うらみっこなしだぜ?」
「道徳的再武装」と、私は言って彼の手を握った。
 彼は満面に笑みを浮かべた。私が歩き出そうとしたとき、彼が呼び返した。あたりを注意深く見回してから、身を屈めて私の耳に口を近づけた。
「二隻の賭博船は市や州の司法管轄区外にいることになっている」彼は言った。「パナマ船籍。俺だったら―」彼はそこで急に言葉を切り、暗い眼に不安の影をちらつかせた。
「分かってるよ」私は言った。「私も同じようなことを考えてた。君に同じことを考えてもらうために、どうしてこんなに手間をかけたのか、わけが分からない。ともかく、うまく行きっこない―たった一人ではな」
 彼は肯いた。それから微笑んだ。「道徳的再武装」彼は言った。》

【解説】

「ナンバーズ賭博のことを知ってるだろう? あれもまた三下の小遣い稼ぎだ―もしその一部しか見ていなければ」<Ever hear of the numbers racket? That's a small time racket too-if you're just looking at one piece of it>。清水氏は「もちろんケチな稼業(しょうばい)さ。それだけのことならね」と訳している。村上訳は「ナンバー籤のことを知っているだろう。あれだってちっぽけな裏稼業だ。その一部だけを見ればな」。<small time>は「三流の、ちっぽけな」という意味だが、<small-time racketeer>には「犯罪組織の下っ端」という意味がある。

「一人の男が水道のメーターを調べていた」は<a man was reading water meters>。清水氏はここを「水道のメートルをしらべていた」と訳している。<meter>は確かに「メートル」だが、「水道のメートル」という言い方は初めて聞いた。「酒に酔ってメートルをあげる」という言い方があるが、それと同じ使い方なんだろうか。村上訳は「一人の男が水道のメーターを検針していた」。

ティーローズ・ベゴニアが正面の窓の下にこんもりとした淡い色の塊りを作り」は<Tea rose begonias made a solid pale mass under the front windows>。清水訳は「往来に向った窓の下に、眼のさめるようなベゴニアが咲き乱れていた」。村上訳は「ティーローズ・ベゴニアが正面の窓の下に、いかにもくっきりとした青灰色のかたまりを作っていた」だ。 

ティーローズ・ベゴニアは、木立性ベゴニアのひとつで、大きな葉の間からシャンデリアのように花房が垂れさがる可憐な花だ。「眼のさめるような」真っ赤な花もないではないが、その場合<pale>と表現するだろうか。< solid mass of cloud>は「もくもくした(厚い)雲の塊」のことだ。<solid>は村上氏が言うように「くっきり」と二次元的に他と分割される状態を意味するのではなく三次元的に中身の詰まった状態を表す言葉だ。ベゴニアの花の塊なら「青灰色」はあり得ない。村上氏の伝で行くなら、マーロウはベゴニアの葉に目を留めたことになる。

「花盛りのホワイト・アカシアの根元にはぼんやりとした色合いのパンジーが咲いていた」は<pansies a blur of color around the base of a white acacia in bloom>。清水訳は「アカシヤの白い花の根もとをパンジーがとりまいていた」。村上訳は「満開の白いアカシアの木の下には、ぼんやりとした色合いのパンジーが咲いていた」だ。問題はアカシアの花はミモザに似た黄色だということだ。白い花ならニセアカシアの方になる。ニセアカシアとしてもいいのだが、本来は「ハリエンジュ」なのに、日本人が勝手に「アカシア」にしてしまい、後から本物と区別するために「ニセ」をくっつけた。あんまりな仕打ちだ。花の色を残すため、原文通り「ホワイト・アカシア」とした。

スイートピーの冬のねぐらを灰緑色のハチドリがそっと突っついている」は<There was a bed of winter sweet peas and a bronze-green humming bird prodding in them delicately>。清水訳は「スウィート・ピーの花壇に、青銅を思わせるような緑色の蜂雀が降りていた」。「蜂雀(ホウジャク)」は蜂に似た虫でハミングバード(ハチドリ)とは別物。村上訳は「ウィンター・スイートピーの花壇があり、青銅に近い緑色のハミングバードが思慮深げにそれを突っついていた」。

まず誤解を解いておこう。オリンピックの銅メダルのことを「ブロンズ・メダル」と呼ぶように、青銅(ブロンズ)の色は新品の十円玉のような色で、緑色とは似ても似つかない。原文にハイフンが使われているように、これだけで一つの色の名を表している。灰色味を帯びた緑色のことだ。もう一つ、「ウィンター・スイートピー」というのがよく分からない。そういう品種があるとも聞かない。時期は三月の終わり。もうすぐベッドから起き出す、という意味ではないのだろうか。

「午後も遅くの太陽は静まり返り、威嚇するような静けさを帯びていた」<The late afternoon sun on it had a hushed and menacing stillness>。清水訳は「夕ぐれ近い太陽が静かな落ちついた光線を投げていた」。<menace>は「威嚇する、脅す」の意味なので、この訳はおかしい。村上訳は「そこを照らしている夕方近くの太陽には、押し殺されたような、どことなく物騒な静けさがあった」だ。例によって、勿体ぶっている。もっと簡潔に訳せるはずだ。

「その鼻が何かを嗅ぎつけた」は<His nose sniffed>。清水氏は「鼻がピクピク動いた」と訳している。<sniff>を自動詞と取ったのだろう。村上訳は「その鼻は何かをかぎ取っていた」。<sniff>は自動詞の場合、「ふんふん嗅ぐ」の意味だが、他動詞の場合、「~を嗅ぎつける、感づく」という意味がある。この場合は後者だろう。

「三ブロックほど行ったところで再び道路脇に車を停め、振り返って私をじっと凝視めた」は<After three blocks he braked at the side of the street again and turned to give me a hard level stare>。清水氏は何故かここを訳し忘れている。その結果、これ以降の会話が、動く車の中でなされているように読めてしまう。痛恨のミスだ。村上訳は「三ブロック進んでから、彼はまた道路脇に車を停めた。こちらを向いて、厳しい視線をまっすぐに向けた」。

「たしか、市警にいるあんたの友人には話してないはずだったよな?」は<So you didn't tell your pal downtown, huh?>。清水訳は「君は警察には話さなかったといったな」。村上訳は「あんたはたしか、署長にはこのことは話してないと言ったよな」。<downtown>というのは日本語でいうところの「下町」ではない。繁華街、商業地区、都心部のことだ。ここではベイシティ署を指している。そこでマーロウの<pal>と呼べるのは署長一人だ。

「ベルヴェディア・クラブと夜のお楽しみ用の二隻の賭博船の所有者だそうだ」は<I heard he owns the Belvedere Club and both the gambling ships out on the water>。清水訳は「ベルヴェディア・クラブの経営者で、賭博船は二隻とも彼のものだということだが…」。村上訳は「そしてその男はベルヴェディア・クラブと海に浮かんだ二隻の賭博船を所有している。そういう話を耳にした」だ。

問題は<out on the water>にある。清水氏は例によってパスしている。村上氏は「海に浮かんだ」と訳しているが、船が海に浮いていないでどうする。<go out on the water>は「船遊山」のこと。<out on the town>なら「(特に夜に)浮かれ楽しんで、歓楽にふけって」という意味だ。

「市内に連れて帰ってくれ」は<Drive me back downtown>。清水氏は「下街まで戻ってくれないか」と訳している。村上氏は「ダウンタウンまで送ってくれないか」と訳している。この<downtown>は、市の中心部、繁華街を意味している。そこまで行けば、自分の車があるからだ。

「暗い眼に不安の影をちらつかせた」は<his bleak eyes began to worry>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「そして愁いを含んだ目は不安そうな色を浮かべた」。<bleak>「荒涼とした、寒々とした、わびしい」に「愁いを含んだ」という訳語をあてるのが村上流なのだろう。むしろ、何も感情らしきものを見せなかった目に、ようやく「愁い」のようなものが見えたということではないのだろうか。

「君に同じことを考えてもらうために、どうしてこんなに手間をかけたのか、わけが分からない。ともかく、うまく行きっこない―たった一人ではな」は<I don't know why I bothered so much to get you to have it with me. But it wouldn't work-not for just one man>。清水氏の訳では「ぼくのことは心配しないでくれ」となっている。手抜きが過ぎる。村上訳は「君に私と同じ考えを持ってもらうために、どうしてこれだけの手間をかけたのか、自分でもよくわからない。いずれにせよ、手の出しようもなかろう。一人きりではな」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(2)

<I was just telling you>は「だから言ったじゃないか」

【訳文】

ヘミングウェイはハンドルから手を放し、窓から唾を吐いた。「なかなか素敵な通りだと思わないか? 快適な家、きれいな庭、住みよい気候。あんたも悪徳警官についていろんなことを聞いてるだろう?」
「時々は」私は言った。
「オーケイ、何人くらいの警官がこんな結構な芝生や花壇付きの住宅街に住んでいると思う? 俺は四、五人知っている。みんな風紀犯罪取締班だ。旨い汁はみんなあいつらが吸っている。俺みたいな警官は裏町のちっぽけな木造家屋に住んでる。住んでるところが見てみたいか?」
「それは何を証明するんだ?」
「いいから聞けよ」大男は真面目くさって言った。「あんたは俺の首にひもをつけた気でいるが、そんなものいつでも切れる。警官が曲がったことをするのは金のためじゃない、大抵ちがう。むしろ少ないくらいだ。みんなシステムに巻き込まれるんだ。上に言われた通り従っているうちに抜き差しならない破目になる。そしてあの男、窓がいくつもある広く快適なオフィスに腰を据え、上等のスーツを着て、高級酒の匂いをさせ、種を噛んでりゃ菫の匂いがすると考えているだけの―あいつが命令を下しているわけでもない。分かるか?」
「市長というのはどういう男だ?」
「市長がどんな男かって? どこだって似たようなものだろう、政治家さ。あいつが命令してると思ってるのか? ばかなことを。この国の問題が何か分かってるのか、あんた?」
「凍結資本が多すぎるとは聞いている」
「人が正直でいたいと思っても、いられないところさ」ヘミングウェイは言った。「それがこの国の問題だ。そんなことしてたら有り金を巻き上げられてしまう。汚い真似をするか、食わないでいるかどっちかだ。出来損ないどもは、俺たちに必要なのは、こざっぱりしたシャツを着てブリーフケースを提げた九万人のFBI職員だとね。くだらん、巻き込まれる割合はあいつらだって俺たちと同じさ。俺が何を考えているか分かるか? この小さな世界はもう一度創り直さないといけないんだ。今こそ「道徳的再武装」の出番だ。いい思いつきだ。MRAさ。一理あると思うぜ、ベイビー」
「ベイ・シティがその仕組みの見本なら、私はアスピリンを飲むね」私は言った。
「しゃれたことを言ってりゃいいさ」ヘミングウェイはおだやかに言った。「自分じゃ気づいてないのかもしれない、たぶんな。しゃれたことを言おうと考えてると、ほかのことを考えられなくなるもんだ。俺は上の命令に従うただのケチな警官だ。俺には女房と二人のガキがいる。お偉方の言う通りに動く。ブレインなら何か言えるかもしれんが、俺は無学でね」
「ブレインは本当に盲腸炎なのか? 嫌がらせに自分の腹を撃ったんじゃないのか?」
「そんなことを言うもんじゃない」ヘミングウェイは文句を言って、上に置いた両手でハンドルをぱたぱた叩いた。「人間についてとっくりと考えてみることだな」
「ブレインについてもか?」
「彼だって人間さ―俺たちと同じ」ヘミングウェイは言った。「罪深い男だが彼も人間だ」
「ソンダーボーグの稼業は何だ?」
「だから言ったじゃないか。勘違いかもな。あんたは話の分かるやつだと思ってたんだが」
「君は彼の本業を知らない」私は言った。
 ヘミングウェイはハンカチを取り出して顔を拭いた。「こんなこと言いたかないが」彼は言った。「あんたも、もう分かってもいい頃だ。もし俺にしろブレインにしろ、ゾンダーボーグの正体を知っていたら、あんたをあそこに放り込まなかっただろうし、あんたも歩いて出てこれなかっただろう。俺がいうのは裏稼業のことだ。水晶玉で婆さんの未来を占うようなふわふわしたものじゃない」
「私を歩いて出て行かせるつもりはなかったろう」私は言った。「スコポラミンという薬がある。自白剤だ。自分でも知らないうちに内心を明かすことがある。催眠術みたいなもので、確実じゃない。だが、時々は効くこともある。私が何を知っているか聞き出そうとしてたんだろう。しかし、私に何か弱味を握られているかもしれないとソンダーボーグが気を回すとしたら、その出所は三つだけだ。アムサーが話したか、私がジェシー・フローリアンの家に行ったとムース・マロイが漏らしたか、私を担ぎ込んだのが警察の罠だと推量したか」
 ヘミングウェイは悲し気に私を見つめた。「急に話が見えなくなった」彼は言った。「誰なんだ、そのムース・マロイってやつは」
「このあいだセントラル・アヴェニューで人を殺した大男だ。テレタイプにのっている。もしあんたが読んでいたら。たぶん、今頃は事情に通じていただろう」
「だからどうだっていうんだ?」
「だから、ソンダーボーグがそいつを匿っていたんだ。あそこでやつを見た。ベッドで新聞を読んでいた。逃げ出した晩のことだ」
「どうやって抜け出したんだ。鍵がかかってなかったのか?」
「用務員をベッド・スプリングで殴ったんだ。運がよかった」
「その大男はあんたを見たのか?」
「見ていない」
 ヘミングウェイはアクセルを強く踏み込んで車を縁石から出した。満面の笑みが彼の顔に浮かんだ。「回収に行こう」彼は言った。「そら来た。これでつじつまが合う。ソンダーボーグはお尋ね者を匿っていた。もし大金を持ってれば、ということだけどな。あの病院は隠れ家としてお誂え向きだ。いい稼ぎにもなる」
 彼はアクセルを踏んで車を動かし、角を曲がった。》

【解説】

「ハンドルから手を放し」は<took his hands off the wheel>。清水氏はここをカットして「ヘミングウェイはまた窓から唾を吐いた」と訳している。村上訳は「ヘミングウェイはハンドルから両手を離し、窓の外に唾を吐いた」だ。

「あんたは俺の首にひもをつけた気でいるが、そんなものいつでも切れる」は<You got me on a string, but it could break>。清水訳では「君は俺のクビが細い糸でつながっているといった。細い糸にしろ、たしかに今はつながっている。しかし、いつ切れるかわからない」となっている。これはちがうのではないか。

<on a string>は「(操り人形のように)ひもでつながれて、意のままに操られて」の意味。清水氏は前のところで「しかし、君のクビが細い糸でつながっていることも忘れないでもらいたいね」と訳している。それに引きずられてしまったのだろう。村上訳は「俺はたしかにあんたに急所を握られているが、それくらいはなんとでもなる」。

「自分じゃ気づいてないのかもしれない、たぶんな。しゃれたことを言おうと考えてると、ほかのことを考えられなくなるもんだ」は<You might not think it, but it could be. You could get so smart you couldn't think about anything but bein' smart>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「あんたはそんなことはないと思うかも知れんが、危ないもんだ。気の利いたことにかまけていると、そのうちに洒落た目先にしか頭がいかなくなるのさ」。

「上に置いた両手でハンドルをぱたぱた叩いた」は<slapped his hands up and down on the wheel.>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ハンドルの上で両手をぱたぱたと上下に叩いた」。

人間についてとっくりと考えてみることだな」は<Try and think nice about people>。清水訳は「可哀相に」、村上訳は「人のことをそうひどく言うもんじゃないぜ」と<people>を「ブレイン」と特定しているようだが、果たしてそうだろうか。<nice about ~>は「~を吟味する」という意味だ。それに続くマーロウの言葉は<About Blane?>だ。つまり「あんたのいう人間の中には「ブレイン」も入っているのか?」という意味になる。

「だから言ったじゃないか」は<I was just telling you>。清水訳は「いまいおうと思っていたんだ」。村上訳は「だからそのことを語ろうとしていたんじゃないか」。<I’m telling you>というのは日常的によく使われる言葉で、その直前、直後に言ったことを強調する表現。<was>が使われていることから、すでに語った内容を強めているのだろう。マーロウが同じ質問を繰り返したことに対して「言ったとおりだ」と言っているのだ。

ヘミングウェイは悲し気に私を見つめた」は<Hemingway stared at me sadly>。そのままだ。そこを清水氏は「ヘミングウェイは妙な顔をして、私を見つめた」と訳している。村上訳は「ヘミングウェイは悲しげな目で私を見た」だ。

「テレタイプにのっている。もしあんたが読んでいたら。たぶん、今頃は事情に通じていただろう」は<He's on your teletype, if you ever read it. And you probably have a reader of him by now>。清水訳は「人相書がまわっているだろう」だが、少々時代がかっている。村上訳は「テレタイプで手配書が回っているのを見たはずだ。読む気があればだが。今ではおそらく逮捕状が出ているだろう」だ。原文からは「逮捕状」のことはわからないのだが。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第33章(1)

<chew ~ over>は「~についてじっくり考える」

【訳文】

《車はひっそりとした住宅街に沿って静かに走っていった。両側からアーチ状に枝を伸ばした胡椒木が頭上で出会い、緑のトンネルを作っていた。高い枝と細く薄い葉を透いて陽の光がきらきら光った。角の標識に十八番街とあった。
 ヘミングウェイが運転し、私は隣に座っていた。彼はとてもゆっくりと車を走らせ、難しい顔で何か考えていた。
「どこまで話したんだ?」彼は訊いた。腹をくくったようだ。
「君とブレインがあそこに行って私を連れ出し、車から放り出して、後ろから頭を殴りつけた、と。後は話さなかった」
「<デスカンソ・二十三番>のことは?」
「話していない」
「どうしてしゃべらなかった?」
「あんたにもっと協力してもらえるかもしれないと思ったからさ」
「考えたものだ。本当にスティルウッド・ハイツに行きたいのか。それともただの口実か?」
「ただの口実さ。真の狙いはあの気ちがい病院に放り込んで監禁した理由を聞くことだ」
 ヘミングウェイは考えた。考え過ぎて、灰色がかった皮膚の下で頬の筋肉に小さなしこりができるほど。
「ブレイン」彼は言った。「あの脛肉の切り落とし。俺はあいつがあんたを殴るとは思っていなかった。あんたを歩いて家に帰らせるつもりもなかった。本当だ。俺たちはあの学者先生と友達でね、あれは厄介ごとを持ち込む手合いにお引き取りを願う、ただの芝居さ。あそこに厄介ごとを持ち込む人数の多さを知ったら、あんたもびっくりするよ」
「あきれるな」私は言った。
 彼は振り向いた。彼の両眼は氷の塊だった。それから彼は再びほこりっぽいフロントガラスの向こうを見つめ何やらまだ考えていた。
「年季の入った警官は時どき、無性にブラックジャックを使いたがる」彼は言った。「ぶん殴る機会を待ってるのさ。くそっ、ビビったよ。あんたはセメント袋みたいにばったり倒れた。俺はブレインにたっぷりと文句を言ってやった。それからあんたをソンダーボーグのところに連れて行った。近かったし、あいつはいいやつで、あんたの面倒を見てくれるだろうと考えてね」
「君たちが私をそこに連れて行ったことをアムサーは知ってるのか?」
「知るもんか。俺たちの考えさ」
「ソンダーボーグはいいやつだから、私の面倒を見てくれるだろう。それに手数料もとらない。私が苦情を言っても医者が後押しする見込みはない。もし苦情を申し立てたとして、このかわいらしい小さな街で、聞きいれられる機会がそうあるわけでもない」
「事を荒立てようという気なのか?」ヘミングウェイは考え込んだ様子で訊いた。
「私にその気はない」私は言った。「君だって今回に限っては同じだろう。なんとか首の皮一枚で繋がっているんだからな。署長のあの眼を見ただろう。私は信用証明書も持たずに入り込んだわけじゃない。今度ばかりは手順を踏んでる」
「オーケイ」ヘミングウェイはそう言って、窓から唾を吐いた。「もともと手荒な真似をする気はなかった。決まり文句で脅すだけさ。で、次は何だ?」
「ブレインの病気は本当なのか?」
 ヘミングウェイは肯いたが、どうしたわけか悲しそうには見えなかった。「本当だ。一昨日腹が痛み出して、切る前に盲腸が破裂しちまった。助かる見込みはあるが見通しは暗い」
「彼を失うのは惜しいな」私は言った。「あの手の男はどこの警察でも役に立つだろうに」
 ヘミングウェイはそれについてじっくり考えた。そして車の窓から唾を吐いた。
「オーケイ、次の質問だ」彼は溜め息をついた。
「私をソンダーボーグのところに連れて行った理由は聞いた。なぜ私が四十八時間も拘禁され、麻薬漬けにされたのかは聞いていない」
 ヘミングウェイは縁石の横でそっとブレーキをかけた。大きな両手をハンドルの下の方に並べて置いて、両の親指をそっと擦り合わせた。 
「俺には見当もつかない」彼は覚束ない声で言った。
「私は自分が私立探偵であることを示す書類を保持していた」私は言った。「車の鍵、いくらかの金、二枚の写真も。もし彼が君らの知り合いじゃなかったら、頭の傷は施設に探りを入れるためひと芝居打ったと考えたかもしれない。しかし、彼は君らをよく知っている。それで戸惑っている」
「戸惑ったままでいるさ。その方がよっぽど安全だ」
「その通り」私は言った。「だが、気持ちのおさまりがつかない」
「これについて、あんたの後ろでL.A.の司法当局が動いているのか?」
「何についてだって?」
「思案中のソンダーボーグについてさ」
「必ずしもそうとは言えない」
「それでは答えになっていない」
「私はそれほど大物じゃない」私は言った。「L.Aの司法当局は気が向いたらいつでもここに来ることができる―いずれにせよ、そのうちの三分の二は。保安官の部下や地方検事局の連中だ。検事局に友達がいる。私も以前そこで働いていたんでね。名前はバーニー・オールズ。主任捜査官だ」
「連絡は取ったのか?」
「いや、もうひと月も話をしていない」
「話そうと考えてはいるのか?」
「仕事の邪魔にならなければ、そうしたいところだ」
「探偵の仕事か?」
「そうだ」
「オーケイ、お望みは何だ?」
「ソンダーボーグの本業は何だ?」》

【解説】

「<デスカンソ・二十三番>のことは?」は<Not about Twenty-third and Descanso, huh?>。清水訳は「デスカンソ街の二十三丁目のことは話さなかったんだな?」。村上訳は「デスカンソ通り、二十三番通りのことは言ってない?」だ。<Twenty-third and Descanso>という言い方は、京都の「四条河原町」同様、直交する通りの名前を二つ並べてその座標を表すやり方だ。清水氏の訳ではそこがうまく伝わらないと見て、村上氏は工夫したつもりなのだろうが、これでは、二つの場所のようにも読めてしまう。

ヘミングウェイは考えた。考え過ぎて、灰色がかった皮膚の下で頬の筋肉に小さなしこりができるほど」は<Hemingway thought. He thought so hard his cheek muscles made little knots under his grayish skin>。清水氏はここをあっさりと「ヘミングウェイは眉をしかめて考えていた」と訳している。村上訳は「ヘミングウェイは考えた。あまりにじっくり考え込んだので、頬の筋肉がその灰色がかった皮膚の下で小さな結び目を作ってしまったくらいだ」と原文に忠実に訳している。

<「ブレイン」彼は言った。「あの脛肉の切り落とし。俺はあいつがあんたを殴るとは思っていなかった。あんたを歩いて家に帰らせるつもりもなかった。本当だ>は<“That Blane,” he said. “That sawed-off hunk of shin meat. I didn't mean for him to sap you. I didn't mean for you to walk home neither, not really>。清水氏はここを「俺たちは別に、君に恨みがあったわけじゃない」と作文している。

村上訳は<「ブレインにも困ったもんだ」と彼は言った。「あのがりがりのちび野郎。あいつがあんたの頭をぶちのめすなんて考えもしなかった。車からあんたを放り出して家まで歩かせるつもりだってなかった。こいつは嘘じゃない」と訳している。<sawed-off>は「(端を切って)短くした」という意味の他に「背が低い、ちびの」の意味がある。村上氏は「ちび」の意をとったのだろう。<sawed-off hunk of shin meat>は「脛肉の塊を切り落とす」という意味になる。

「ぶん殴る機会を待ってるのさ」は<They just got to crack a head>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「誰かの頭をぶちのめさないと気が済まないんだ」。<get to>には「機会を得る」という意味がある。直訳すれば「彼らはたまたま頭を割る機会を得た」。特にマーロウに関する恨みつらみはない。偶々そこにブラックジャックを食らわせるのに都合のいい後頭部があったというだけのことなんだろう。

「ソンダーボーグはいいやつだから、私の面倒を見てくれるだろう。それに手数料もとらない。私が苦情を言っても医者が後押しする見込みはない」は<On account of Sonderborg is such a nice guy and he would take care of me. And no kickback. No chance for a doctor to back up a complaint if I made one>。清水氏はここを「あそこなら後のたたりがないと考えたからだろう。ぼくが訴え出ようと思っても、診断書を書いてくれる医者はいないからね」と訳している。

前半はヘミングウェイの言い回しをマーロウがオウム返ししている部分なので、あっさりまとめると面白みがなくなるが、一般的な「苦情」の他に「病気、病状」の意味がある<complaint>を含む<to back up a complaint>を「診断書を書く」と訳すのはさすがに上手いものだ。村上訳は「ソンダボーグはいいやつだから、私の面倒を見てくれると思ったわけだ。そして口利き料もなし。こちらが苦情を申し立てても、ドクターがそのとおりですと認めるわけがない」。

ヘミングウェイは考え込んだ様子で訊いた」は<Hemingway asked thoughtfully>。清水氏は「ヘミングウェイは訊ねた」と<thoughtfully>をトバしている。村上訳は「ヘミングウェイは考え深げに言った」と<asked>をスルーしている。

「君だって今回に限っては同じだろう」は<And for once in your life neither are you>。清水氏はここをカットしている。<for once in your life>は「生涯に一度」の意味。村上訳は「君だって、何があろうとそんなことは望まないはずだ」。

「私は信用証明書も持たずに入り込んだわけじゃない。今度ばかりは手順を踏んでる」は
<I didn't go in there without credentials, not this trip>。清水氏は「ぼくには有力な後盾(うしろだて)がついてるんだと意訳し、例によってくnot this trip>をカットしている。村上訳は「私は手ぶらであそこに乗り込んだわけじゃない。今回は脇を固めてきたんだ」。

「もともと手荒な真似をする気はなかった。決まり文句で脅すだけさ」は<I didn't have any idea of getting tough in the first place except just the routine big mouth>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「俺としちゃそもそもことを荒立てるつもりはなかったんだ。いつもの筋書きどおり、適当に相手を脅して場をおさめる予定だった」と、例によって噛みくだいて訳している。

ヘミングウェイはそれについてじっくり考えた。そして車の窓から唾を吐いた」は<Hemingway chewed that one over and spat it out of the car window>。清水氏は「ヘミングウェイは私が言ったことを黙って嚥(の)みこんで自動車の窓から唾と一しょにはき出した」と訳す。村上訳は「ヘミングウェイはその言葉をひとしきり噛みしめた。そして車の窓からぺっと外に吐いた」。<chew ~ over>は「~について深く考える」の意味。

「彼は溜め息をついた」は<he sighed>。清水氏は「と、彼はいった」と訳している。村上訳は「と彼はため息混じりに尋ねた」だが、その前のヘミングウェイの言葉は<Okey, next question>で終わっていて<?>は付されていない。「分かったから、次の質問をしろよ」というのがヘミングウェイの気持ちではないのだろうか。

この場面のヘミングウェイは、最初に登場した時とはずいぶん様子がちがっている。年上で階級も上のブレインと組んで仕事をしているとき、ヘミングウェイは自分を偽って、頭の足りない刑事を装っていたのだろう。自分のやっていることを<routine big mouth>と言ってのけるあたりにそれがひしひしと感じられる。チャンドラーの小説は脇役の一人に至るまで、人物像がしっかり描き分けられている。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(3)

<drink to ~>は「互いに見つめ合う」のではなく「~に乾杯する」

【訳文】

《彼は酒を飲みながら思い煩っているように見えた。ぐずぐずと、何やら考え深げにカルダモンの鞘を割った。我々はたがいの青い瞳に乾杯した。残念なことに、署長はボトルとグラスを見えないところに隠し、内線のスイッチを入れた。
ガルブレイスが署内にいたら、上に寄こしてくれ。いなければ、私に代わって連絡を取ってみてくれ」
 私は立ち上がってドアの鍵を開け、座り直した。長くは待たなかった。横のドアにノックがあり、署長が応えるとヘミングウェイが部屋の中に入ってきた。彼は机に向かってしっかり歩いて行き、机の端で立ち止まり、いかにも神妙な面持ちでワックス署長を見た。
「こちらはフィリップ・マーロウ氏だ」署長は愛想よく言った。「L.Aの私立探偵だ」
 ヘミングウェイは私の方を向いた。前に私を見たことがあるとしたら、そこには何の気配も感じさせなかった。彼は手を差し出し、私は握り返した。それから彼は署長の方に向き直った。
「マーロウ氏はちょっと奇妙な話をされている」署長はタペストリーの陰にいるリシュリューのように狡猾そうに言った。「スティルウッド・ハイツに住んでいるアムサーという人物のことで。占い師か何かの手合いだ。マーロウ氏が彼に会いに行ったとき、偶々そこに君とブレインが居合わせて、何か諍いがあったようだ。詳しいことは忘れたがね」彼は詳しい事は忘れた男のような表情を浮かべて窓の外を見た。
「何かの間違いでしょう」ヘミングウェイは言った。「この男とは初対面です」
「間違いがあったんだ。実のところ」署長は夢でも見ているように言った。「些細なことだが、間違いは間違いだ。マーロウ氏はそれを問題にするつもりはないらしい」
 ヘミングウェイはもう一度私を見た。顔は無表情のままだ。
「それどころか、その間違いさえ気にされていない」署長は夢見心地で続けた。「しかし、スティルウッド・ハイツに住むアムサー何某を訪問することに関心があって、誰か一緒に行って欲しいとお考えだ。それで君のことを思いついた。氏は正当な扱いを受けられるよう誰かに見届けてほしいとお考えだ。アムサー氏にはたいそうタフなインディアンの用心棒がついているらしい。単身で事にあたるにはマーロー氏は少々自信喪失気味だ。このアムサーの居場所を見つけられると思うか?」
「はい」ヘミングウェイは言った。「しかし、スティルウッド・ハイツは管轄外です、署長。これはあなたのご友人の個人的な頼み事ですか?」
「そう言うこともできる」署長は左の親指を見ながら言った。「何であれ、厳密に言って法に触れるようなことはしたくない。言うまでもないことだが」
「もちろん」ヘミングウェイは言った。「心得ています」彼は咳払いをした。「いつ行きます?」
 署長は慈愛に満ちた眼差しで私を見た。「今すぐにでも」私は言った。「ガルブレイスさんさえよければ」
「言われた通りに動きます」ヘミングウェイは言った。署長は彼の顔を眼と言わず鼻と言わず、点検した。眼でもって髪をとかし、ブラシをかけた。「ブレイン警部は今日はどうしてる?」カルダモンの種をむしゃむしゃ食べながら尋ねた。
「体調がよくありません。虫垂の破裂で」ヘミングウェイは言った。「危篤状態です」
 署長は悲しそうに首を振った。それから椅子の肘掛けをつかんで、よっこらしょと立ち上がった。そしてピンク色の手を机越しに差し出した。
ガルブレイスが君の面倒を見てくれるだろう、マーロウ。きっと頼りになる」
「本当にお世話をかけました、署長」私は言った。「何とお礼を申し上げていいやら」
「何の、礼には及ばんよ。友達の友達のお役に立ててうれしい、そういうことだ」彼は私に片眼をつぶって見せた。ヘミングウェイはそのウインクの意味を考えていたが、合点がいかないようだった。
 我々は署長が儀礼的に繰り出す言葉に背中を押されるようにオフィスの外に出た。ドアが閉まった。ヘミングウェイは廊下を端から端まで見渡し、それから私を見た。
「とんだ食わせ者だな、あんたは」彼は言った。「何かをつかんでるに違いない。俺たちが聞かされていないことをな」》

【解説】

「我々はたがいの青い瞳に乾杯した」は<We drank to each other's baby blue eyes>。清水訳は「私たちはおたがいの眼を見つめて、飲んだ」。村上訳は「我々はお互いのブルーの瞳を見ながら酒を飲んだ」。<baby blue>は「非常に淡い青色」のこと。因みに< baby blue eyes>は「瑠璃唐草(ネモフィラ)」という草花の名前でもある。二人に共通する眼の色にかけた言葉遊びだろう。<drink to>は「見合う」ではなく「乾杯する」という意味。署長は話を切り上げる潮時を見計らっていたのだろう。

「残念なことに、署長はボトルとグラスを見えないところに隠し」は<Regretfully the Chief put the bottle and glasses out of sight>。清水氏は「彼は残念そうに壜とグラスをしまってから」、村上氏は「署長は惜しそうな顔つきで、酒瓶とグラスを見えないところに置いた」と訳しているが、文頭の<Regretfully>は文修飾の副詞と取るのが普通。残念に思っているのは署長ではなく、話者の方である。

「長くは待たなかった」は<We didn't wait long>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「それほど長くは待たなかった」。

「いかにも神妙な面持ちでワックス署長を見た」は<looked at Chief Wax with the proper expression of tough humility>。清水訳は「いかにも警察官らしい表情で署長を見た」。村上訳は「謙虚ではあるがそれなりに強面(こわもて)の表情を浮かべてワックス署長を見た」だ。<the proper expression of tough humility>は直訳すれば「タフな謙虚さの適切な発現」ということになる。

清水氏はそれを「いかにも警察官らしい表情」とこなれた訳にしている。村上氏は<tough humility>を「謙虚ではあるがそれなりに強面」と訳しているが、この<tough>を「強面」と解するのは少し無理があるのではないだろうか。<tough>には「(状況などが厳しいが)しかたない」という意味がある。磊落なガルブレイスにとって「謙虚」な風を装うのは厳しいものがある。それでも署長の前ではそうするしかない、ということではないか。

「それから彼は署長の方に向き直った」は<and he looked at the Chief again>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼はまた署長の顔を見た」。

<「それどころか、その間違いさえ気にされていない」署長は夢見心地で続けた>は<

“In fact he's not even interested in the mistake,” the Chief dreamed on>。清水氏はここもカットしている。村上訳は<「更に言えば、その間違いについてとやかく言い立てるつもりもない』、署長はその夢見るような声を持続していた>だ。

「署長は慈愛に満ちた眼差しで私を見た」は<The Chief looked at me benevolently>。清水氏は「署長はしかつめらしく私の顔を見た」と訳しているが<benevolently>は「情け深く、慈悲深く」という意味の副詞だ。「しかつめらしく(まじめくさって、勿体ぶって)」というのとはちがう。署長はマーロウに恩を売ったつもりなんだろう。村上訳は「署長は慈愛に満ちた目で私を見た」だ。

「署長は彼の顔を眼と言わず鼻と言わず、点検した。眼でもって髪をとかし、ブラシをかけた」は<The Chief looked him over, feature by feature. He combed him and brushed him with his eyes>。清水氏は「署長は何かを探るような眼つきでヘミングウェイを見つめた」とさらっと訳している。<feature>は「顔の造作、容貌」のことだ。村上訳は「署長は彼の顔の細部をとっくり眺め回した。相手に櫛を入れ、ブラシをかけるような視線だ」。

ガルブレイスが君の面倒を見てくれるだろう、マーロウ。きっと頼りになる」は<Galbraith will take good care of you, Marlowe. You can rely on that>。清水氏は後半をカットして「ガルブレイスに同行させます」と訳している。村上訳は「ガルブレイスがあとの面倒はみてくれるよ、マーロウ。心配には及ばん」だ。

ヘミングウェイはそのウインクの意味を考えていたが、合点がいかないようだった」は<Hemingway studied the wink but he didn't say what he added it up to>。清水訳は「ヘミングウェイは署長の表情を探っていたが、何もいわなかった」と<what>以下をスルーしている。<add up>は「(事実・証拠・行動などが)意味をなす、納得がいく、なるほどと思える、了解できる、合点がいく」という意味。村上訳は「ヘミングウェイはそのウインクをじっとうかがっていたが、それをどのように解釈すればいいのか今ひとつ決めかねていた」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(2)

<pay my own way>は「自活する」という意味

【訳文】

《ワックス署長は机の上でとても静かに手を叩いた。眼はほとんど閉じていたが、完全に閉じてはいなかった。厚いまぶたの間から、冷たい眼光が私を見据えて輝きを放っていた。彼は身じろぎもせずじっと坐っていた。まるで傾聴しているかのように。やがて、彼は眼を開け、微笑んだ。
「それからどうなりました?」彼はストーク・クラブの用心棒のように優雅に訊ねた。
「彼らは私の体を探ってから、外に連れ出して車に乗せ、山腹で放り出し、車から出たところをブラックジャックで殴った」
 彼は肯いた。まるで私の言ったことがこの世で最も当然なことのように。「そして、それが起きたのがスティルウッドハイツだったと」彼は穏やかに言った。
「ええ」
「君のことを私がどう思っているか分かるかね?」彼は机に身を乗り出したが、少しだけだった。腹が邪魔をしたのだ。
「嘘つきだと」私は言った。
「ドアはそこにある」彼は、左手の小指で示しながら言った。
 私は動かなかった。じっと彼を見ていた。ブザーを押しそうになるくらい相手がキレかけたところで言った。「お互い同じ過ちをしないようにしよう。あんたはこう思っている。けちな私立探偵が身の程知らずにも警官を告発しようとしている。たとえそれが事実だとしても、その警官は証明できないように細心の注意を払っていたと。お門違いだ。私は文句を言いに来たんじゃない。あれは間違って当然だったと思う。私はアムサーに借りを返したい。そのためにガルブレイスの手を借りたいんだ。ミスタ・ブレインの手を煩わせる気はない。ガルブレイスで充分だ。それに私は後ろ盾なしにここにいる訳ではない。私の後ろには重要人物がついている」
「どれくらい後ろにかな?」署長は自分の機知にくすくす笑いながら訊いた。
アスター・ドライブ八六二まではどれくらいだ? ミスタ・マーウィン・ロックリッジ・グレイルが住んでいる」
 彼の顔が完全に変化した。まるで別人が彼の椅子に座っているように。「たまたまミセス・グレイルが私の依頼者なんだ」私は言った。
「ドアに鍵をかけてくれ」彼は言った。「君は私より若い。掛け金もかけるんだ。この件について友好的にとりかかろう。君は正直な顔をしている。マーロウ」
 私は立ち上がってドアに鍵をかけた。私が青い絨毯を踏んで戻って来たとき、署長は見映えのするボトルとグラスを二個取り出した。彼はカルダモンをひとつかみデスク・マットの上に投げ、二つのグラスに酒をなみなみと注いだ。
 我々は飲んだ。彼はカルダモンの鞘をいくつか割り、我々は互いの眼を見ながら静かに種を噛んだ。
「いい味だ」彼は言った。彼はおかわりを注いだ。カルダモンの鞘を私が割る番だった。彼は机の上から殻を床に払い落とし、そして微笑んで椅子に背をもたせた。
「さあ、聞こうじゃないか」彼は言った。「ミセス・グレイルのためにやってる仕事とアムサーと何か関係があるのかな?」
「繋がりはある。が、その前に私が本当のことを言っているかチェックした方がいい」
「それもそうだ」彼は言いながら電話に手を伸ばした。それからヴェストから手帳を取り出し、番号を探した。「選挙運動の寄付者名簿だ」彼はそう言ってウィンクした。「できるだけ便宜を図るように、と市長がしつこいんだ。ああ、ここにあった」彼は手帳をしまって、ダイヤルを回した。
 私の時と同じで執事との間にひと悶着あった。彼の耳が赤くなった。最後に彼女につながったが、耳はまだ赤いままだった。彼女は彼にかなりきつくあたったに違いない。「君と話がしたいそうだ」彼はそう言って広い机越しに受話器を私に押してよこした。
「フィルです」と私は言って、茶目っ気たっぷりに署長にウィンクした。
 クールで挑発的な笑い声がした。「その太ったとんまと何をしているの?」
「ちょっと飲んでいたところです」
「彼と一緒にやらなきゃいけないの?」
「現時点ではね。仕事です。何か新しいことはありましたか? 意味はお分かりでしょう」
「分からない。ねえあなた、気づいてる? このあいだの夜一時間も待ちぼうけを食わせたわね。そんな目に遭わせてもかまわない女だとでも、私あなたに思わせたかしら?」
「ちょっと面倒なことに首を突っ込んで。今夜はどうですか?」
「そうねえ―今夜は―いったいぜんたい、今日は何曜日だった?」
「かけ直した方がよさそうです」私は言った。「都合がつかないかもしれない。今日は金曜日です」
「嘘つき」ソフトでハスキーな笑い声がまた聞こえた。「今日は月曜日。同じ時刻、同じ場所で―今度はすっぽかさない?」
「かけ直した方がよさそうです」
「きっと来るのよ」
「約束はできません。かけ直させてください」
「これだけ言っても無理? 分かったわ。多分、私、人の邪魔をするのが大好きなのね」
「実を言えばそうです」
「ちょっと待って?」
「私は貧しいながらも自活しています。そしてそれはあなたの気に入るような楽なものではないんです」
「忌々しい人ね、もし来なかったら―」
「かけ直すと言いましたよ」
ため息が聞こえた。「男なんてみんな同じ」
「女もみんな同じです―最初の九人の後は」
 彼女は悪態をついて電話を切った。署長の眼が頭から飛び出し、竹馬に乗っているように見えた。
 彼は震える手で二つのグラスを酒で満たし、そのひとつを私に押して寄こした。
「そういうことか」彼は一頻り考え込んだ様子で言った。
「彼女の亭主は気にしていない」私は言った。「だから書き留めなくていい」》

【解説】

「ワックス署長は机の上でとても静かに手を叩いた」は<Chief Wax flapped his hands on his desk top very gently>。ここを清水氏は「ワックス署長はデスクを軽く叩きながら」と訳している。村上氏も「ワックス署長はデスクの上に置いた両手で、とても柔らかくその表面を叩いた」と訳している。では、署長はなぜ机を叩いたのだろうか。ここは、その前に置かれているマーロウの演説に対する軽い賞賛の意を込めて拍手をしたと取るのが相応しいのではないだろうか。

「彼は身じろぎもせずじっと坐っていた。まるで傾聴しているかのように」は<He sat very still, as if listening>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼はまるで耳を澄ませているみたいに、そこにじっと静かに座っていた」だ。

「あんたはこう思っている。けちな私立探偵が身の程知らずにも警官を告発しようとしている。たとえそれが事実だとしても、その警官は証明できないように細心の注意を払っていたと」は<You think I'm a small time private dick trying to push ten times his own weight, trying to make a charge against a police officer that, even if it was true, the officer would take damn good care couldn't be proved>。

清水訳は「あんたは、タカが私立探偵のくせに生意気だと思ってる」だが。これでは超訳だ。村上訳は「あなたはこう思っている。こいつはただの小物の私立探偵で、身のほど知らずな苦情を持ち込んでいると。警察官に対して告発じみた真似をするなどけしからんことだ。仮にそれは真実であったとしても、立証できる見込みなんてまずないのだからと」だが、こちらは逆にずいぶん余計なものが混じり込んでいる。

「ミスタ・マーウィン・ロックリッジ・グレイルが住んでいる」は<where Mr. Merwin Lockridge Grayle lives>。清水訳は「マーウィン・ロックリッジ・グレイル氏の邸がある」だ。村上氏は「ルーイン・ロックリッジ・グレイル夫妻が住んでいます」と夫人の名前に変えている。署長の手帳に記載されているのは夫の名前だと思うのだが。まあ、リストの場合、ファミリーネームが先に来るから<G>の欄を探し、住所を見れば同定できる。しかし、先に夫人の名を出す理由がわからない。

「掛け金もかけるんだ」は<Turn the bolt knobs>。清水訳は「閂(かんぬき)もかけてもらおう」。村上訳は「ボルトのノブを回してくれ」だ。<bolt>もよく出てくる。清水氏は「閂」と訳すことが多い。村上氏は「ボルト錠」と訳していたが、ここではただの「ボルト」になっている。前にも書いたが、適当な訳語を探すのに骨が折れる。「閂」では<turn>になじまない。「掛け金(がね)」はルビなしでは「掛け金(きん)」と紛らわしい。

「彼はカルダモンをひとつかみデスク・マットの上に投げ」は<He tossed a handful of cardamon seeds on his blotter>。また<blotter>の登場だ。清水氏は「彼はしょうずく(傍点五字)の実をひとつかみ、帳面の上に投げて」と珍しく「(事件)控え帳」説をとっている。村上氏は「彼はカルダモンの種子を一握り下敷きの上に放りだし」と「下敷き」説を採用している。

高級なスパイスとして知られるカルダモン(ショウズク)は小さな種子が鞘状の殻の中に詰まっている。そういう意味では「実」という訳語が相応しいのだが、<seeds>の訳語としては「種子」になる。二人は殻を割って、その中に入っている種子を噛んでいるのだ。清水氏は「しょうずくの実をいくつか割り(略)黙ってその実を噛んだ」、村上氏は「カルダモンの種子をいくつか割り(略)くしゃくしゃとそれを噛んだ」と書いているが、厳密にいえば両氏とも不正確な書き方といえる。

「かけ直した方がよさそうです」は<I'd better call you>。この文句は二度繰り返されている。清水訳は「ぼくの方から電話しよう」「電話するよ」。村上訳は「連絡し直した方が良さそうだ」「こちらから連絡しますよ」。両氏とも言い換えている。ここは相手の話につきあう気のないマーロウが、ビジネス用の決まり文句をわざと繰り返していると捉えたい。

「これだけ言っても無理? 分かったわ。多分、私、人の邪魔をするのが大好きなのね」は<Hard to get? I see. Perhaps I'm a fool to bother>。清水訳は「じらす気なのね。わかったわ。あんたのような人を相手にしたのがばか(傍点二字)だったわ」。村上氏もそれを踏襲したのだろう「お忙しい身体なのね。なるほど。あなたに関わるだけ愚からしいわ」と訳している。

<fool>は普通「馬鹿」だが、<He's a fool for sports>なら「彼はスポーツに目がない」という意味だ。<to bother>は「邪魔する」という意味。<a fool to bother>は「人に手を焼かせてばかりいる人」という意味になる。両氏の訳には<perhaps>(もしかして)があまり響いていない。この語には、夫人がやっとマーロウが自分のことを煩わしく思っていることに気づいた、というニュアンスが込められている。こう考えることで、次のマーロウの「実を言えばそうです(As a matter of fact you are)」にうまくつながる。

「ちょっと待って?」と訳したところは<Why?>。清水訳は「マア!」。驚きを表す間投詞と取っている。村上訳は「なんですって?」。反論を示す間投詞という解釈だ。「ちょっと待って?」という訳はその中間くらい。うすうす気づいてはいたが、そうはっきり言われると抗議したくなる、といったところか。このあたりの夫人の気持ちの変化の書き分けはさすがに上手いものだ。次のマーロウの一言が決定打となって、夫人はカンカンになる。

「私は貧しいながらも自活しています。そしてそれはあなたの気に入るような楽なものではないんです」は<I'm a poor man, but I pay my own way. And it's not quite as soft a way as you would like>。清水訳は「ぼくはつまらん人間だが、自分で働いて食っているんだ。君のように遊び歩いてはいられない」。前半はイマイチだが、後半は名訳だと思う。

村上訳は「私は貧しい人間だが、自分のことは自分で好きなようにやっている。そして私のやり方は、あなたのお気にいるほどやわ(傍点二字)ではない」。<pay my own way>は「経済的に自立する、自活する」という意味のイディオム。マーロウは、たいして儲からないが自分で稼いで食っているということを言っている。後半の部分は清水氏がズバリ言っているような意味だ。<soft>には「〈仕事など〉楽な、 楽に金のもうかる.」という意味もある。村上訳ではマーロウは無駄にいきがっているように聞こえる。

「署長の眼が頭から飛び出し、竹馬に乗っているように見えた」は<The Chief's eyes popped so far out of his head they looked as if they were on stilts>。清水訳は「署長は眼をまるくして驚いていた」と穏当な訳。チャンドラーの使う誇張法はときに大げさで極端だ。村上訳は「署長の目は驚きのあまり外に飛び出し、支柱でなんとか支えられているみたいに見えた」。馬鹿げた表現をまともに訳そうと言葉を補うとかえって変になる例だ。

「彼は震える手で二つのグラスを酒で満たし、そのひとつを私に押して寄こした」は<He filled both glasses with a shaking hand and pushed one at me>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼は震える手でグラスにお代わりを注ぎ、ひとつを私の方に押して差し出した」。署長がショックを受けた様子を表している場面。カットするには惜しいところ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(1)

< hull down>は「マスト上部だけを水平線から出して偵察する」戦術

【訳文】

《繁栄している街の割には安っぽい見かけの建物だった。聖書地帯(バイブル・ベルト)から抜け出してきたかのようだ。正面の芝生―今では大半が行儀芝だ―が通りに落ちないように作られた擁壁の上に、浮浪者が追い払われもせず、長い列を作って座っていた。三階建ての建物のてっぺんに古い鐘楼があり、今も鐘が吊り下げられている。古き良き噛み煙草の時代、消防団員を呼び集めるために鳴らされたのだろう。
 ひびの入った舗道を歩き、正面階段を上ると、両開きのドアがあった。そこには一目見たら口利きだと分かる連中がたむろし、飯の種にありつく機会を窺ってうろついていた。どれもこれも、太った腹と用心深い目、上等の服と世間ずれした流儀の持ち主だ。彼らは私を中に入れるため、四インチほど隙間を開けてくれた。
 中は、マッキンリー大統領の就任式以来モップを掛けたことがないような、長く暗い廊下だった。木の看板が警察の受付を示していた。制服を着た男が疵だらけの木のカウンターの端に置かれた小型の構内電話の陰で居眠りをしていた。上着を脱いだ私服の男が消火栓みたいな大型リヴォルヴァーを肋骨に押しあて、夕刊から片眼を離して、十フィート先の痰壺を派手に鳴らしてから、欠伸をし、署長室なら二階の奥だ、と言った。
 二階は一階よりは明るく、清潔だった。だからといって清潔で明るかったというわけではない。廊下のほとんど突き当りの海側のドアに「ジョン・ワックス、警察署長、お入りください」と記されていた。
 室内には低い木製の手摺があり、その後ろで制服の男が二本の指と親指一つでタイプを叩いていた。彼は私の名刺を手にとり、欠伸をして、ちょっと待てと言った。それからやっとこさと体を引きずって「ジョン・ワックス、警察署長、私室」と記されたマホガニーのドアの向こうに消えた。そして戻ってきて、手摺の内側で私のためにドアを押さえた。
 私は署長の私室に入ってドアを閉めた。三方に窓のある、大きくて涼しい部屋だった。ステインを塗った木の机がムッソリーニの机みたいに遥か彼方に置かれていた。そこに行き着くには青い絨毯の上を延々と歩かねばならず、相手に隙を窺う暇を与えることになる。
 私は机まで歩いた。机の上には「警察署長ジョン・ワックス」と書かれた傾斜したエンボス加工の名札があった。このぶんなら、名前を覚えられそうだ。机の後ろの男を見た。髪に藁はついていなかった。
 彼は寸の詰まったヘビー級だった。短いピンクの髪の隙間からてらてらとしたピンクの頭皮が透けていた。垂れ下がった目蓋の下の小さな眼は物欲しそうで、蚤のように落ち着かなかった。淡い黄褐色のフランネルのスーツ、珈琲色のシャツとタイ、ダイアモンドの指環、襟に挿したダイアモンドの鏤められたロッジピン、上着の胸には必須のポケット・チーフが糊のきいた三つの端をのぞかせていたが、必須の三インチをやや上回っていた。
 肉づきの好い手の片方に私の名刺を握っていた。彼はそれを読み、裏返して、何も書いてないので、もう一度表を読んでから、机の上に置き、その上に猿の形をした青銅の文鎮を載せた。まるでそれをなくさないようにしていることを確かめるかのように。
 彼はピンク色の手を私に差し出した。私が握り返すと、身ぶりで椅子を示した。
「お掛けなさい。ミスタ・マーロウ。君はどうやらご同業らしい。どういうご用件かな?」
「ちょっとしたトラブルがありまして、署長。よろしければ、早急に善処して頂きたい」
「トラブル」彼は穏やかに言った。「ちょっとしたトラブル」
 彼は椅子の中でからだを捻り、太い脚を組み、物思わし気に窓のひとつをじっと見た。それで、手紡ぎのライル・ソックスと英国のブローグが目に入った。その靴はまるでポートワインに浸け込んだような色をしていた。財布の中身は別として、見えない部分を含めると、五百ドルは身に着けているようだ。女房が金持ちなんだろう。
 「トラブル」声はまだ穏やかだった。「我々の小さな町ではあまり知られていないものだ。ミスタ・マーロウ。我々の街は小さいが、それはそれはきれいでね。西の窓からは太平洋が見える。これよりきれいなものはまずないだろう。違うかね?」彼は領海三マイルの向こうで真鍮色の水平線下に身を隠している二隻の賭博船については触れなかった。
 私も触れなかった。「その通りです、署長」私は言った。
 彼はさらに数インチ胸を反らせた。「北の窓から外を見るとアルグエッロ・ブルヴァードの賑やかな雑踏と素晴らしいカリフォルニアの丘陵が見える。その手前には、男なら知っておきたい最高の小さなビジネス街のひとつがある。今見ている南の窓からは小規模のヨット・ハーバーとしては世界一見事な小さなヨット・ハーバーが見える。東向きの窓はないんだが、もしあれば、見ただけで涎が出そうな住宅街が見えるはず。いやいや、トラブルなんぞは、我々の小さな街にはありそうもない」
「どうやら私が持ち込んだようです、署長。少なくともその一部を。あなたの部下にガルブレイスという私服の巡査部長がいますか?」
「ああ、確かいたようだが」彼は目をぎょろりと動かしながら言った。「彼がどうかしたかね?」
「あなたの部下にこのような男がいますか?」私はもう一人の男について説明した。ほとんど物を言わず、背が低く、髭を生やしていて、ブラックジャックで私を殴った男だ。「彼はガルブレイスと組んで仕事をしている可能性が高い。ミスタ・ブレインと呼ばれていたが、どうにもいんちき臭い」
「とんでもない。本名だよ」太った署長は、太った男にはどんな声でも出せる、とでもいうように堅苦しい声で言った。「刑事部長のブレイン警部だ」
「署内でその二人に会うことはできますか?」
 彼は私の名刺を摘みあげ、もう一度読んだ。それから下に置いた。そして柔らかく艶のある手を振った。
「これまで君が聞かせてくれた以上の理由を聞かない限り無理だ」彼は物柔らかに言った。
「それができそうにもないんです、署長。ジュールズ・アムサーという男に心当たりはありますか? 自称、心霊顧問医。住所はスティルウッド・ハイツの丘の上」
「知らんね。それにスティルウッド・ハイツは管轄外だ」署長は言った。彼の目は今や何か別のことを考えている男のそれだった。 
「そこが面白いところでしてね」私は言った。「いいですか。私は依頼人に関することでミスタ・アムサーを訪れた。ミスタ・アムサーは私が強請りに来たと考えた。おそらく彼のような商売をしていると、そんなことを考えがちなのでしょう。タフなインディアンの用心棒がいて、私の手に余った。インディアンが私を押さえつけ、アムサーが私の銃で殴りつけた。それから二人の警官が呼ばれた。それが、たまたまガルブレイスとブレインだった。どうです。興味が湧いてきませんか?」》

【解説】

「聖書地帯(バイブル・ベルト)から抜け出してきたかのようだ」は<It looked more like something out of the Bible belt>。清水氏は例によってカットしている。註なしでは日本人には分りにくいし、ハードボイルド小説には特に必要でもないと考えてのことだろう。<Bible belt>は、アメリカ中西部から南東部にかけて、キリスト教信仰が盛んな地帯を指す。進化論を教えないことでも有名。軽い揶揄が感じられる。村上訳は「中西部の田舎町から運び込んできたみたいに見える」。

「今では大半が行儀芝だ」は<now mostly Bermuda grass>。清水氏はここもカット。村上訳は「そのほとんどが今ではギョウギシバだ」。「浮浪者が追い払われもせず、長い列を作って座っていた」は<Bums sat unmolested in a long row>。清水氏は「浮浪者たちが追い払われもしないで、長い列を作っていた」と<sat>をトバしている。村上訳は「浮浪者たちが長い列をつくって腰掛けていた。彼らを追い払うものもいなかった」。

「古き良き噛み煙草の時代」は<in the good old chaw-and-spit days>。清水氏はここを「むかし」とただ一言で片づけている。<good old days>は「古き良き時代」を表す定型句。<chaw-and-spit>は「噛んで、吐く」つまり、紙巻き煙草以前の噛み煙草を意味している。村上氏は「まだ噛み煙草が流行っていた時代には」と訳している。

「両開きのドアがあった」は<let to open double doors>だが、清水氏は例のごとく「二重の扉が左右に開かれていた」と訳している。<double doors>を「二重の扉」と訳すのはいつものことだが、今回は前に<let to open>がついているのだから気がついてもよさそうなものだ。村上訳は拙訳と同じ。

「口利き」と訳したところは<city hall fixers>。フィクサーといっても市役所では大したこともできない小者だろう。清水訳は「事件屋」、村上訳は「口利き屋」。「世間ずれした流儀」と訳したところは<the reach-me-down manners>。清水氏は「なれなれしい態度」、村上氏は「私にお任せあれという態度」と訳している。<reach-me-down>というのは「お下がり(服)、古着」のこと。「使い古しの、安っぽい」という意味もある。手垢のついたやり方で媚びを売る連中だ。

「消火栓みたいな大型リヴォルヴァーを肋骨に押しあて」は<his hog's leg looking like a fire plug against his ribs>。清水氏はここもカットしている。因みに<hog's leg>とは「豚足」のことではなく、コルト社製の大口径、長銃身の回転式拳銃のこと。パット・ギャレットがビリー・ザ・キッドを撃ったバントライン・スペシャルのようなピストルを表す愛称。豚の足は鉤型に曲がっていて、形が似ていることからついたようだ。村上訳は「消火栓くらい大きな回転式拳銃をあばら骨に押し当てて」。

「十フィート先の痰壺を派手に鳴らして」は<bonged a spittoon ten feet away from him>。清水訳は「十フィートさきの痰壺を鳴らし」。<bong>は「鐘などが鳴る大きな音」のことだ。村上氏は「三メートルばかり離れた痰壺に音を立てて痰を吐き」と訳しているが、痰を吐くときに鳴るのは喉の方ではないのだろうか。痰を痰壺に吐いたくらいで、大きな音が鳴るのか。書かれていないので分からないが、もしかしたら、彼が吐き捨てたのは噛み煙草なのでは。

「二本の指と親指一つで」は<with two fingers and one thumb>。清水氏は「二本指で」と親指をトバしている。これはタイプライターを使ったことがあるならまずまちがえることはないところ。英文では単語と単語の間にスペースが入るので、左右どちらかの親指を使ってスペースキーを叩く必要がある。村上訳は「二本指と親指をひとつ使って」。

「やっとこさと体を引きずって」は<managed to drag himself>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「よっこらしょという感じで足取りも重く」。その後の「マホガニーのドア」は<a mahogany door>だが、両氏とも<mahogany>をスルーしている。ちょくちょくあることだが、村上氏は原文をよく読まずに旧訳に引きずられて書いてしまっている。

「手摺の内側で私のためにドアを押さえた」は<held the door in the railing for me>。清水氏は「ドアを開いたまま手で押さえて、私を奥の部屋に通らせた」と訳している。このドアは「奥の部屋」のドアだろう。<in the railing>は無視だ。村上訳は、と見てみると「手すりについた扉を私のために開けた」と訳している。< the door in the railing>を「手すりについた扉」と取ったわけだ。これが次に響いている。

「私は署長の私室に入ってドアを閉めた」がそれだ。原文は<I went on in and shut the door of the inner office>。村上氏は「私は奥の部屋のドアを開けて中に入り、ドアを閉めた」とわざわざ書いてもいない「ドアを開けて」を補っている。制服警官がドアを押さえているはずなのに。清水訳は「私はそのドアから署長の部屋に入っていった」。こちらはドアを閉め忘れている。

「ステインを塗った木の机がムッソリーニの机みたいに遥か彼方に置かれていた」は<A stained wood desk was set far back like Mussolini's>。清水訳は「ムッソリーニの部屋のようにはるか彼方にデスクがあって」。<A stained wood >はスルーしている。村上訳は「着色処理された木製のデスクが遥か奥の方に置かれていた。ムッソリーニの執務室と同じように」だ。疑問なのだが<like Mussolini's,>と省略されている部分は本当に、文中に一度も出てこない「部屋」なのだろうか。

「相手に隙を窺う暇を与えることになる」は<while you were doing that you would be getting the beady eye>。清水氏は「歩いてる間に眼がいたち(傍点三字)の眼のように小さく、まるくなるにちがいなかった」と訳しているが、これは誤り。<beady eye>は「ビーズのような眼」。転じて「(悪意・好奇心・貪欲・猜疑によって)目を光らせる」ことを意味する。村上訳は「そのあいだにたっぷり品定めを受けることになる」。

「髪に藁はついていなかった」は<No straw was sticking to his hair>。清水訳は「髪にわら(傍点二字)はささっていなかった」。村上訳は「その髪には麦わらはついていなかった」。訳に問題はないが、いかにも唐突な文だ。実は、かつては精神病院の床が藁で覆われていたため、藁を髪に挿しているのが狂人の特徴とされた、という経緯がある。マーロウの人物鑑定は、かなりシニカルだ。

「彼は寸の詰まったヘビー級だった」は<He was a hammered-down heavyweight>。清水氏は「肥満した小男」と訳している。村上氏は「彼は正真正銘の重量級だった」と訳している。<hammer down>は、「釘で打ちつける」「ハンマーで叩く」という意味。板に打ち込まれた釘は寸詰まりに見えるから、背の低い太った男なのだろう。村上氏はオークションなどで落札されるときに振り下ろされる木槌から「正真正銘」という訳語を思いついたのかもしれないが、そういう使用例は他には見当たらなかった。

「まるでそれをなくさないようにしていることを確かめるかのように」は<as if he was making sure he wouldn't lose it>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「名刺をなくさないことを確認するかのように」。

「君はどうやらご同業らしい」と訳したところは<I see you are in our business more or less>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「あなたはわれわれと多少似通った仕事に関わっておられる」。

「英国のブローグ」は<English brogues>。清水氏は「英国風の生皮(なまがわ)の靴」と訳している。辞書には「(なめしてない革の)粗末で頑丈な靴 。もともとアイルランドスコットランドで使われた粗末な靴で、水はけをよくするために穴があけられたとされる」などと記されているので「生皮」としたのだろう。メンズ・シューズの定番の「ブローグ」はまだまだ市民権を得ていないのか、村上訳も「穴飾りのついた英国風の短靴」だ。

「財布の中身は別として、見えない部分を含めると、五百ドルは身に着けているようだ」は<Counting what I couldn't see and not counting his wallet he had half a grand on him>。清水訳は「財布の中まで見えたわけではないが、たしかに五百ドルは入っている」だが、<on him>とあるので「身に着けている」と取るのが正しい。村上訳は「財布の中身は別にして、目に見えないところまで含めると、五百ドルばかりは身にまとっていそうだ」

「領海三マイルの向こうで真鍮色の水平線下に身を隠している」は<that were hull down on the brass waves just beyond the three-mile limit>。清水訳は「三マイル沖合に浮んでいる」。村上訳は「五キロの法定境界ラインの向こう側の、真鍮色をした波間に船体を浮かべている」だ。< hull down>は斜面を利用して砲塔以外の車体を隠して攻撃をかわす戦術のことだが、元は「帆船や海戦の用語で、マスト上部の物見台だけを水平線から出して偵察する技術。「浮んで、浮かべて」と訳すと、船体が見え過ぎてしまう。<three-mile limit>は領海を意味する。今では領海は十二海里とされているが、かつては海岸から三マイルが領海の範囲内だった。

「彼はさらに数インチ胸を反らせた」は<He threw his chest a couple of inches farther>。清水氏はここを「彼は言葉を続けた」と訳しているが、<throw one's chest out>は「そっくり返る」という意味。村上訳は「彼は胸を五センチばかり遠くにぐいと逸らせた」だが、「逸らせる」は「反らせる」の誤りではないだろうか。氏は「方向を他へ転じる」の意味で使っているのだろうか。ここは署長の自慢気な態度を揶揄したものと見る方が文脈に沿っていると思うのだが。

「その手前には、男なら知っておきたい最高の小さなビジネス街のひとつがある」は<in the near foreground one of the nicest little business sections a man could want to know>。清水氏は「窓のすぐ下には整然とした商業地区がある。どこの街でも見られるというものではない」と訳している。<foreground>は「前景」という意味なので、遠景のカリフォルニア丘陵の「手前」という意味になる。署長は椅子に座っているので、窓のすぐ下は見ることができない。

村上訳は「その手前には、小振りではありますが人の心を惹きつける良質な商業区域が展開しています」だが、両氏とも<one of the>をスルーしている。自慢はしていても、署長は<little>や<one of>という言葉を使うことで、限られた範囲の中であることを仄めかしていることに留意したい。

ガルブレイスという私服の巡査部長がいますか」は<named Galbraith, a plainclothes sergeant>。清水訳は「ガルブレイスという警官がいますか」だが<a plainclothes sergeant>がただの「警官」になってしまっている。村上訳は「ガルブレイスという私服勤務の巡査部長はいますか」。

「太った署長は、太った男にはどんな声でも出せる、とでもいうように堅苦しい声で言った」は<the fat Chief said as stiffly as a fat man can say anything>。清水訳では「と署長はいった」になっている。村上訳は「と署長は硬い声で言った。太った人間がそういう声を出すのはあまりないことだが」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第31章(2)

<out of one's hands>は「自分の管轄外で」

【訳文】

《彼は机越しにゆっくりと身を乗り出した。落ち着きのない細い指がトントンと机を叩いていた。ミセス・ジェシー・フロリアンの家の玄関の壁を叩いていたポインセチアのように。柔らかな銀髪はつやつやと輝いていた。クールでぶれない眼が私の眼を見据えていた。
「いいだろう」彼は言った。「話せることは話しておこう。アムサーは旅行中だ。彼の女房は―秘書でもあるんだが―知らないのかどうか、行き先を言おうとしない。インディアンもまた行方知れずだ。君は彼らに対する訴状に署名する気があるか?」
「ないね。うまくいきそうにない」
 彼はほっとしたようだ。「女房が言うには君のことは聞いたこともないそうだ。二人のベイ・シティの警官―もし本当にそうだとしてだが、そっちは俺の手に負えない。これ以上ことを面倒にしたくない。ただ、一つだけ確信してることがある、アムサーはマリオット殺しに無関係だ。彼のカードが入っていた煙草はただのペテンさ」
「ドクター・ソンダーボーグは?」
 彼は両手を広げた。「何から何まですっからかんだ。地方検事局の者がこっそりそこに行った。ベイ・シティ警察には一切連絡せずに。空き家になって鍵がかかっていた。勿論、中に入ったよ。あわてて片づけようとしたのだろうが、指紋が残っていた―たっぷりと。手許にあるものと照合して、結果が出るまで一週間かかる。壁の金庫には今取り掛かっている。たぶん麻薬が入ってる。他にもあるかもしれん。俺の推測だが、ソンダーボーグには前科がある。地元ではなく、どこか別の場所だ。堕胎、銃創の治療、指紋の改変、麻薬の違法使用といった類の。もし、それが連邦制定法に触れるものなら、随分と助けになるんだが」
「あいつは自分のことを医者だといっていた」私は言った。
 ランドールは肩をすくめた。「かつてはそうだったのかもな。有罪判決を受けたことがないのかもしれない。まさに今、五年前にハリウッドで麻薬の密売で起訴された男が、パーム・スプリングスの近くで医者をやっている。間違いなく有罪だったが、証人保護措置が働いて、刑を免れた。他に気になることはあるか?」
「ズバリ言って、ブルネットというのはどういう男なんだ?」
「ブルネットは賭博師だ。たんまり儲けている。あぶく銭をかき集めてね」
「わかった」私はそう言って立ち上がりかけた。「穏当な物言いだな。しかし、それではマリオットを殺した宝石ギャングに近づく助けにはならない」
「すべてを話すことはできないんだ、マーロウ」
「そんなことは期待していない」私は言った。「ところで、二度目に会ったとき、ジェシー・フロリアンから、以前マリオットの家族の使用人だったことがある、と明かされた。それが送金が続いていた理由だと。何か裏付けるものはあるか?」
「ある。私書箱に礼状が入っていた。同じことが書いてあった」彼の堪忍袋の緒が切れかけているようだった。「なあ、頼むから家に帰って、引っこんでてくれないか?」
「そんな手紙をしまっておくなんて、彼にもいいところがあるじゃないか?」
 彼は目を上げ、私の頭のてっぺんを一瞥した。それから虹彩が半分覆われるまで目蓋を下ろした。たっぷり十秒間は私を見ていた。それから微笑んだ。その日の彼は恐ろしいほど微笑んだ。一週間分の供給を使い果たしたはずだ。
「それについて俺にはひとつ持論がある」彼は言った。「どうかしちゃいるが、それが人情というものだ。マリオットは強請り屋稼業のせいで自縄自縛に陥っていた。全ての悪党は程度の差はあれ賭博師だ。全ての賭博師は迷信深い―程度の差はあるがね。ジェシー・フロリアンはマリオットの幸運のお守りだった。あの女の面倒を見ている限り、悪いことは起こらないみたいな」
 私は振り返り、ピンクの頭の虫を探した。虫は二つの角を試し、今はやるせなさそうに三つ目に向かっていた。私はそこまで行って虫をハンカチに包んでつまみあげ、机の上に戻してやった。
「見ろよ」私は言った。「この部屋は地上十八階にある。そして、この小さな虫はただ友達欲しさにここまで上ってきた。私のことだ。こいつは私の幸運のお守りだ」私は虫をハンカチの柔らかい部分にそっと包み、ポケットに入れた。ランドールは面食らった。口を動かしたが、そこからは何も聞こえてこなかった。
「マリオットは誰の幸運のお守りだったのだろう」私は言った。
「君のじゃないよ」彼の声は辛辣―凍りつくように辛辣だった。
「おそらく君のでもない」私の声は普通の声だった。私は部屋を出てドアを閉めた。
 私は高速エレベーターに乗ってスプリング・ストリートの入り口まで下り、市庁舎の正面玄関に出て、階段を何段か下り、花壇に向かった。そしてピンクの虫を茂みの後ろにそっと置いた。
 帰りのタクシーの中で考えた。あの虫がもう一度殺人課まで行き着くのに、どれくらい時間がかかるだろう。
 アパートの裏手にあるガレージから車を出し、ハリウッドでランチを食べてからベイ・シティに向かった。午後の浜辺は涼しく、美しく晴れていた。三番街でアルグエッロ・ブルヴァードを離れ、市役所に向かった。 》

【解説】

「彼は机越しにゆっくりと身を乗り出した。落ち着きのない細い指がトントンと机を叩いていた」は<He leaned slowly across the desk. His thin restless fingers tap-tapped>。清水氏は「彼はゆっくりからだを乗りだしてきた。彼の細い指が、(ポインセチアが…以下省略)デスクを軽く叩いた」と訳している。<across the desk>と<restless>を訳していない。あまり重箱の隅をつつくような真似をするのもどうかと思って、前回細部については見過ごしたところ、お叱りを頂いたので、今回は少しこだわりたい。

同じところを村上氏は「ランドールはデスク越しにのっそりと身を傾けた。彼の細い指は休みなくデスクをとんとんと叩き続けていた」と訳している。<restless>を「休みなく」と訳すのはまちがっていないが、形容詞なので「彼の休むことのない細い指が」と訳すのが原義に近い。

「柔らかな銀髪はつやつやと輝いていた」は<His creamy gray hair shone>。清水訳は「彼のすべすべしたグレイの髪が光った」。ランドールが初めて現れたとき、清水氏は「やわらかな灰色の髪」と訳しているが「グレイ」なら問題はない。村上氏はここを「彼のクリーム色の髪は光っていた」と訳している。<creamy>に「クリーム色の」という意味はあるが、その後に色を表す<gray>がある以上、ここは「なめらかで軟らかい」という髪質を表している。初登場の際、氏自身「滑らかでふわりとした白髪」と訳している。ランドールは、いつ髪を染めたのだろう?

「クールでぶれない眼が私の眼を見据えていた」は<His cool steady eyes were on mine>。清水訳は「そして、冷静な瞳を私の眼に向けた」と<steady>をトバしている。それでいて、文末が<me>ではなく<mine>であることを見逃さないのはさすが。村上訳は「そのクールな目は、微動だにせず私を睨んでいた」と、<mine>を気にしてはいないようだ。

<mine>は「わたしのもの」という意味の所有代名詞だが、詩などでは、母音またはhで始まる名詞の前に置き、形容詞的に「私の」という意味で用いられることがある。よく例に挙がるのが<mine eyes>だ。<eyes>が少し前にあるのでくどくなるのを嫌っての処理だろう。相手を見るのと、相手の眼を見るのとではずいぶん様子が違ってくる。ランドールは次に打つ手を決めるため、マーロウの眼を見ることで、その奥にあるはずの相手の考えを読もうとしているのだろう。

「彼の女房は―秘書でもあるんだが―知らないのかどうか、行き先を言おうとしない」は<His wife-and secretary-doesn't know or won't say where>。清水氏は「細君か秘書か知らんが、女は行き先はわからんといっている」と訳しているが、<won’t>は<don’t>とは異なり、「(人が)話し手の希望・予想どおりの行動をしない」という意味合いがある。本当に知らないのか、言いたくないだけなのか、ランドールには分からない。村上訳は「やつの女房は―秘書でもあるんだが―行く先を知らない。あるいは教えようとしない」。

「二人のベイ・シティの警官―もし本当にそうだとしてだが、そっちは俺の手に負えない」は<As to these two Bay City cops, if that's what they were-that's out of my hands>。清水訳は「ベイ・シティの警官のことは――もし、警官であったとしても、俺の権限ではどうすることもできない」だ。いい訳だが<two>が抜けているが惜しい。村上氏は「ベイ・シティの二人の警官のことも――もし連中が本当にそうであればということだが――知らないと言っている」と訳している。<out of one's hands>は「自分の管轄外で」の意味。ランドールが<out of my hands>と口にしているのに、女の話のように訳すのはおかしい。

「地方検事局の者がこっそりそこに行った。ベイ・シティ警察には一切連絡せずに」は<Men from the D.A.'s office went down there on the quiet. No contact with Bay City at all>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「地方検事局の人間が内密にそこを訪れた。ベイ・シティーの警察とはコンタクトをとらずにな」。「勿論、中に入ったよ」<They got in, of course>もカット。村上訳は「連中は中に入ったよ、もちろん」。

「もし、それが連邦制定法に触れるものなら、随分と助けになるんだが」は<If it comes under Federal statutes, we'll get a lot of help>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「そいつがもし連邦法規に抵触するものであれば、俺たちはずいぶんやりやすくなる」だ。

「証人保護措置が働いて、刑を免れた」は<but the protection worked. He got off>。ここでいう<the protection>は「証人保護プログラム」<United States Federal Witness Protection Program>のことだろう。テレビや映画でおなじみの犯罪組織の報復から証人を守るためにとられる措置のことである。清水氏は「どうしても確証が挙がらなかったんだ」と訳している。村上氏は「当局と取り引きをして、証人保護ということでなんとかすり抜けた」と大幅に言葉を補って訳している。

「ズバリ言って、ブルネットというのはどういう男なんだ?」は<What do you know about Brunette-for telling?>。清水訳は「ブルネットというのは、どういう男なんだ?」。村上訳は「ブルネットという男について何を知っている? ここだけの話」。<for telling>を、清水氏はカットしている<telling>には「手応えのある、有力な、本音を表す」などの意味がある。村上氏は「本音」と取ったのだろう。

「穏当な物言いだな」は<That sounds reasonable>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「なかなかの情報だ」。<reasonable>には「合理的」などの意味の外に「ほどよい、まあまあの」という程度を表す意味合いがある。マーロウは宝石ギャングの一味にブルネットの関与を疑っているが、ランドールの話は、そのことに一切触れていない。それでこういう言い方になる。

「以前マリオットの家族の使用人だったことがある」は<she had been a servant in Marriott's family once.>。清水訳は「マリオに使われていたことがある」。村上訳は「以前マリオットの家で家政婦のようなことをしていた」だ。<Marriott's family>は、「マリオットの家」というより「マリオット家」。マリオットの父親の代の使用人だったのだろう。子どもの頃世話になった、彼にとっては心温かい思い出が、面倒を見続けていた理由だ。成人したマリオットに使われていたのなら、そこまで面倒を見たとは思えない。

「同じことが書いてあった」は<saying the same thing>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「そこに同じことが書いてあった」。「引っこんでてくれないか」は<mind your own business>。「出しゃばるな、大きなお世話だ」という意味の決まり文句だ。清水氏はこれを訳していない。村上氏は「俺たちの邪魔をしないでくれ」と訳している。

「彼は目を上げ、私の頭のてっぺんを一瞥した」は<He lifted his eyes until their glance rested on the top of my head>。清水氏は「彼は、眼をあげて、私の顔を見ているような顔をしたが」と、視線の位置を意図的に変更している。村上訳はというと「彼は徐々に目を上げていって、それは私の頭のてっぺんまで達した」と視線の移動に時間がかかったように訳している。<glance>は「ちらっと見る」という意味だ。「徐々に」はおかしい。

ここでランドールの眼の動きが意味していることがよく分からないため、訳者によって訳に違いが出てくるのだろう。頭をチラ見したのは、これから話す内容が自分の頭を使って作り上げた<theory>「理論」だからだ。それまでなかなか帰ろうとしないマーロウに業を煮やしていたランドールは、やっと相手に持説を披歴する機会を得たことを愉しんでいるのだろう。

「市庁舎の正面玄関に出て」は<walked out on the front porch of City Hall>。清水氏はここもカットしている。一九二八年に建てられた非常に有名な建築物で、正面玄関は上部がアーチ構造になった列柱が並び、その前に階段がある。映画にも何度も登場している。村上氏は「市庁舎(シティーホール)のフロント・ポーチに出た」と訳している。