HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第五章(1)

5 《西54番街1644番地は、前にひからびた褐色の芝生のある、ひからびた褐色の家だった。こわもての椰子の木の周りの地面は広い裸地になっていた。ポーチには木製の揺り椅子がぽつんと置かれ、昼下がりの微風を受けて、刈らずに捨て置かれた去年のポイ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(2)

《私は<フロリアンズ>で何が起きたか、それは何故かを話した。彼はまじめな顔で私を見つめ、禿げ頭を振った。「サムの店も愉快で静かなところだったんだが」彼は言った。「ここ一月ほどは誰もナイフ沙汰など起こさなかったし」「八年か少なくとも六年前、…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第四章(1)

4 《<フロリアンズ>は当然、閉まっていた。一眼で私服刑事と分かる男が、店の前に駐めた車の中で、片眼で新聞を読んでいた。私には警察がどうしてそんな手間をかけるのが分からなかった。ムース・マロイのことを知る者はこの辺には誰もいない。用心棒もバ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第三章

3 《事件を担当したのはナルティという、尖った顎をした気難しい男で、私と話している間ずっと長い黄色い手を膝頭のところで組んでいた。七十七丁目警察署に所属する警部補で、我々が話をしたのは向い合った壁に面して小さな机が二つ置かれた殺風景な部屋だ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(3)

《「どこへ行ったんだ?」ムース・マロイが訊ねた。 バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた。「あ、あっちは、モンゴメリさんのオフィスでさあ。ここのボスで。あの奥がオフィスになってます」「そい…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(2)

《我々はバーに行った。客たちは一人で、あるいは三々五々、静かな影となり、音もなくフロアを横切り、音もなく階段へと通じるドアから出て行った。芝生の上に落ちる影のようにひっそりと。スイング・ドアを揺らすことさえしなかった。 我々はバー・カウンタ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(1)

2 《階段を上りきると、また両開きのスイング・ドアが奥との間を仕切っていた。大男は親指で軽くドアを押し開け、我々は中に入った。細長い部屋で、あまり清潔とはいえず、特に明るくもなく、別に愉快なところでもなかった。部屋の隅にある円錐形の灯りが照…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第一章

「チャンドラーの長篇全冊読み比べ」は、チャンドラーの長篇を原書と新旧訳を読み比べる企画。今回は第三弾。「『さらば愛しき女よ』を読み比べる」。定評のあった清水俊二氏の旧訳に対し、村上春樹氏が新訳を発表した時、賛否両論の声が湧きあがった。それ…

『大いなる眠り』註解 第三十二章(3)

《「いいか」私は重々しく続けた。「妹を連れ出せるか? どこかここから遠く離れたところにある、君の妹のようなタイプを扱い慣れ、銃やナイフやおかしな飲物を遠ざけておいてくれるところだ。ああ、君の妹だって治るかもしれない。そういう例もある」 ヴィ…

『大いなる眠り』註解 第三十二章(2)

《私は煙草を渡し、マッチに火をつけて差し出した。ヴィヴィアンは肺一杯に煙を吸い込むと乱暴に吐き出した。それからは煙草は指の間で忘れられたようで、二度と吸われることはなかった。「さてと、失踪人課はラスティを見つけられないでいる」私は言った。…

『大いなる眠り』註解 第三十二章(1)

《優しい目をした馬面のメイドが二階の居間に案内してくれた。灰色と白の細長い部屋には象牙色の厚地のカーテンの裾が贅沢に床に崩れ落ち、床一面に白い絨毯が敷きつめられていた。映画スターの閨房みたいな魅惑と誘惑の場所は義足のように人工的だった。今…

『大いなる眠り』註解 第三十一章(2)

《「その中」彼女は窓から身を乗り出して指さした。 小径に毛が生えたような狭い未舗装路で、山麓の牧場への入口みたいだった。五本の横木を渡した幅の広い木戸が切り株にぶつかるまで折り返され、何年も閉じられたことがないように見えた。高いユーカリの樹…

『大いなる眠り』註解 第三十一章(1)

《執事が私の帽子を持って出てきた。私はそれを被りながら言った。「将軍のことをどう思うね?」「見かけより弱っておられません」「もし見かけ通りなら、もう埋められる覚悟ができていそうだ。リーガンという男の何があんなに将軍の気を引いたのだろう?」 …

『大いなる眠り』註解 第三十章(4)

《「ところで、私に何の落ち度があるというんです? 一切を任されているノリスはガイガーが殺されてこの件は終わった、と考えたらしい。私はそう思わない。ガイガーの接触の仕方には首をひねったし、今でも考えている。私はシャーロック・ホームズでもファイ…

『大いなる眠り』註解 第三十章(3)

《髭を剃り、服を着替え、ドアに向かった。それから引き返してカーメンの真珠貝の銃把ががついた小さなリヴォルヴァーをつかんでポケットに滑り込ませた。陽光は踊っているみたいに明るかった。二十分でスターンウッド邸に着き、通用門のアーチの下に車をと…

『大いなる眠り』註解 第三十章(2)

《グレゴリー警部はため息をついてねずみ色の髪をくしゃくしゃにした。「もう一つ言っておきたいことがある」彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った。「君はいい男のようだ。だが、やり方が荒っぽ過ぎる。もし本当にスターンウッド家を助けたいと思っている…

『大いなる眠り』註解 第三十章(1)

《次の日はまた太陽が輝いていた。 失踪人課のグレゴリー警部はオフィスの窓から裁判所の縞になった最上階を物憂げに眺めていた。雨のあとで裁判所は白く清潔だった。それからのっそりと回転椅子を回し、火傷痕のある親指でパイプに煙草を詰めながら浮かぬ顔…

『大いなる眠り』註解 第二十九章(2)

《しばらく沈黙が下りた。聞こえるのは雨と静かに響くエンジン音だけだった。それから家のドアがゆっくり開き、闇夜の中により深い闇ができた。人影が用心深く現れた。首の周りが白い。服の襟だ。女がポーチに出てきた。体を強張らせて、木彫りの女のようだ…

『大いなる眠り』註解 第二十九章(1)

《隣の修理工場は暗かった。私は砂利敷きの車寄せと水浸しの芝生を渡った。道には小川のように水が流れていた。向こう側の溝に水が音を立てて流れ込んでいる。帽子はかぶっていなかった。きっと修理工場で落としたのだ。カニーノはわざわざ返す手間はかけな…

『大いなる眠り』註解 第二十八章(3)

《女はさっと身をひるがえし、スタンド脇の椅子に戻って座ると、両掌の上に顔を伏せた。私は勢いよく足を床につけて立ち上がった。ふらついた。足が固まっている。顔の左側面の神経が痙攣していた。一歩踏み出した。まだ歩けた。必要があれば走ることもでき…

『大いなる眠り』註解 第二十八章(2)

《女はさっと頭を振り、耳を澄ませた。ほんの一瞬、顔が青ざめた。聞こえるのは壁を叩く雨の音だけだった。彼女は部屋の向こう側へ戻って横を向き、ほんの少しかがんで床を見下ろした。「どうしてここまでやって来て、わざわざ危ない橋を渡ろうとするの?」…

『大いなる眠り』註解 第二十八章(1)

《どうやら女がいるらしい。電気スタンドの傍に坐り明かりを浴びている。別の灯りが私の顔にまともに当たっていたので、一度目を閉じて睫の間から女を見ようとした。プラチナ・ブロンドの髪が銀でできた果物籠のように輝いていた。緑のニットに幅の広い白い…

『大いなる眠り』註解 第二十七章(4)

《外で砂利を踏む足音がして扉が押し開けられた。光が篠突く雨を銀の針金に見せた。アートがむっつりと泥まみれのタイヤを二本ごろごろ転がし、扉を足で蹴って閉め、一本をその脇に転がした。荒々しく私を見た。「ジャッキをかますところによくもまあ、あん…

『大いなる眠り』註解 第二十七章(3)

《「分かった、分かった。つなぎの男は不満たらたらだった。ポケットの垂れぶた越しに服に銃をねじ込むと、拳を噛みながら不機嫌そうにこちらを見つめた。ラッカーの匂いはエーテルと同じくらい胸が悪くなる。隅の吊り電灯の下に新品に近い大型セダンがあり…

『大いなる眠り』註解 第二十七章(2)

《広いメイン・ストリートからずっと後ろに木造家屋が何軒か、互いに距離を置いて建っていた。それから急に商店が軒を連ね、曇ったガラス窓の向こうにドラッグ・ストアの明かりが点り、映画館の前には車が蠅のように群がり、街角の明かりが消えた銀行は歩道…

『大いなる眠り』註解 第二十七章(1)

《「お金をちょうだい」 声の下でグレイのプリムスのエンジンが震え、上では雨が車の屋根を叩いた。頭上遥か、ブロック百貨店の緑がかった塔の頂では菫色の灯りが、雨の滴る暗い街からひとり静かに身を引いていた。女は身を屈めダッシュボードのかすかな光で…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(4)

《電話を切り、もう一度電話帳を取り上げてグレンダウアー・アパートメントを探した。管理人の番号を回した。もうひとつ死の約束の取りつけに、雨をついて車を疾走させているカニーノ氏の像がぼんやりと頭に浮かんだ。「グレンダウアー・アパートメント。シ…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(3)

《「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一。俺は根っからの意気地なしさ。あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」「その通り。いい料簡だ。いっしょにご挨拶に出かけようぜ。俺はただ、女がお前に話し…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(2)

《喉を鳴らすような唸り声が今は楽し気に話していた。「その通り、自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる。それで、お前はあの探偵に会いに行った。まあ、それがおまえの失敗だ。エディはご機嫌斜めだ。探偵は、誰かが灰色のプリムス…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(1)

《雨は七時には一息ついたが、側溝には水が溢れていた。サンタモニカ通りでは歩道の高さまで水位が上がり、薄い水の幕が縁石を洗っていた。長靴から帽子まで黒光りするゴム引きに身を包んだ交通巡査が、ばしゃばしゃと水を掻き分け、雨宿りしていたびしょ濡…