HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

The Big Sleep

『大いなる眠り』註解 第二十七章(1)

《「お金をちょうだい」 声の下でグレイのプリムスのエンジンが震え、上では雨が車の屋根を叩いた。頭上遥か、ブロック百貨店の緑がかった塔の頂では菫色の灯りが、雨の滴る暗い街からひとり静かに身を引いていた。女は身を屈めダッシュボードのかすかな光で…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(4)

《電話を切り、もう一度電話帳を取り上げてグレンダウアー・アパートメントを探した。管理人の番号を回した。もうひとつ死の約束の取りつけに、雨をついて車を疾走させているカニーノ氏の像がぼんやりと頭に浮かんだ。「グレンダウアー・アパートメント。シ…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(3)

《「バンカー・ヒルのコート・ストリート二八番地にあるアパートメント・ハウス。部屋は三〇一。俺は根っからの意気地なしさ。あんな女の代りに死ぬ理由はないだろう?」「その通り。いい料簡だ。いっしょにご挨拶に出かけようぜ。俺はただ、女がお前に話し…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(2)

《喉を鳴らすような唸り声が今は楽し気に話していた。「その通り、自分の手は汚さないで、おこぼれにありつこうとするやつがいる。それで、お前はあの探偵に会いに行った。まあ、それがおまえの失敗だ。エディはご機嫌斜めだ。探偵は、誰かが灰色のプリムス…

『大いなる眠り』註解 第二十六章(1)

《雨は七時には一息ついたが、側溝には水が溢れていた。サンタモニカ通りでは歩道の高さまで水位が上がり、薄い水の幕が縁石を洗っていた。長靴から帽子まで黒光りするゴム引きに身を包んだ交通巡査が、ばしゃばしゃと水を掻き分け、雨宿りしていたびしょ濡…

『大いなる眠り』註解 第二十五章(4)

《「そのカニーノの見てくれは?」「背は低く、がっしりした体格で茶色の髪、茶色の目、いつも茶色の服を着て茶色の帽子をかぶっている。それどころかコートまで茶色のスエードだ。茶色のクーペに乗っている。ミスタ・カニーノの何もかもが茶色なんだ」「第…

『大いなる眠り』註解 第二十五章(3)

《 私は言った。「その通りだ。最近よくない連中とばかりつきあってたんでね。無駄口はやめて本題に入ろう。何か金になるものを持ってるのか?」「払ってくれるのか?」「そいつが何をするかだな」「そいつがラスティ・リーガンを見つける助けになるとしたら…

『大いなる眠り』註解 第二十四章(2)

《私は煙草を床に投げ捨てて足で踏みつけた。ハンカチを取り出して掌を拭った。私はもう一度試みた。「ご近所の手前言うのではない」私は言った。「彼らはたいして気にしちゃいない。どのアパートメント・ハウスにも素性の知れない女がいくらでもいる。今さ…

『大いなる眠り』註解 第二十四章(1)

《アパートメント・ハウスのロビーは、この時間空っぽだった。私にあれこれ指図するガンマンも鉢植えの椰子の下で待ち受けてはいなかった。私は自動エレベーターで自分のフロアに上がり、ドアの後ろから微かに漏れるラジオの音楽に乗って廊下を歩いた。私は…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(4)

《我々はラス・オリンダスを離れ、潮騒が聞こえる砂上の掘っ立て小屋みたいな家や、それより大きな家々が背後にある斜面を背に建ち並ぶ、湿っぽい海沿いの小さな町を走り抜けた。ところどころに黄色く光る窓が見えたが、大半の家は灯が消えていた。海からや…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(3)

《彼女は私の腕につかまって震えはじめた。車に着くまでずっとしがみついていた。車に着くころには彼女の震えはとまっていた。私は建物の裏側の樹間を抜けるカーブの続く道を運転した。道はドゥ・カザン大通りに面していた。ラス・オリンダスの中心街だ。パ…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(2)

《「お見事な手並みね、マーロウ。今は私のボディガードなの?」彼女の声にはとげとげしい響きがあった。「そのようだ。ほら、バッグだ」彼女は受け取った。私は言った。「車はあるのかな?」彼女は笑った。「男と一緒に来たの。あなたはここで何をしてたの…

『大いなる眠り』註解 第二十三章(1)

《軽やかな足音、女の足音が見えない小径をやってくると、私の前にいた男が霧によりかかるように前に出た。女は見えなかったが、やがてぼんやりと見えてきた。尊大に構えた頭に見覚えがあった。男が素早く行動に出た。二つの影が霧の中で混ぜ合わされ、霧の…

『大いなる眠り』註解 第二十二章(3)

《エディ・マーズはかすかに微笑み、それから頷いて胸の内ポケットに手を伸ばした。隅を金で飾った仔海豹の鞣革製の大きな財布を抜き出し、無造作にクルピエのテーブルに投げた。「かっきり千ドル単位で賭けを受けろ」彼は言った。「ご異存がなければ、今回…

『大いなる眠り』註解 第二十二章(2)

《人ごみが二つに分かれ、夜会服を着た二人の男がそれを押し分けたので、彼女のうなじと剥き出しの肩が見えた。鈍いグリーンのヴェルベット地のローカット・ドレスはこういう場にはドレッシー過ぎるように見えた。人込みが再び閉じ、黒い頭しか見えなくなっ…

『大いなる眠り』註解 第二十二章(1)

《黄色い飾帯を巻いた小編成のメキシコ人楽団が、誰も踊らない当世風なルンバを控えめに演奏するのに飽きたのが十時半ごろだった。シェケレ奏者はさも痛そうに指先をこすり合わせると、ほとんど同じ動きで煙草を口に運んだ。他の四人は申し合わせたように屈…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(4)

《彼はグラス越しに火を眺め、机の端に置くと、薄手の綿ローンのハンカチで唇を拭った。「口はたいそう達者なようだ」彼は言った。「が、たぶん腕の方はそれほどでもない。リーガンに特に興味はないんだろう?」「仕事の上では。それを頼まれてはいない。た…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(3)

《私がそこに着いたのは九時ごろだった。高目の速球のように決まるはずの十月の月は海辺の霧の最上層で惚けていた。サイプレス・クラブは町外れにあった。だだっ広い木造の大邸宅でドゥ・カザンという名の金持ちが夏の別荘として建てたものだが、後にホテル…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(2)

《私は指を折って数えあげた。ラスティ・リーガンは大金と美人の妻から逃げて、エディ・マーズという名前のギャングと事実上結婚していた正体の知れない金髪女とさまよい歩いている。彼が別れの挨拶も告げずに突然消えたのにはいろいろ訳があったのかもしれ…

『大いなる眠り』註解 第二十一章(1)

《私はスターンウッド家には近寄らなかった。オフィスに引き返して回転椅子に座り、脚をぶらぶらさせる運動の遅れを取り戻そうとした。突然風が窓に吹きつけ、隣のホテルのオイル・バーナーから出る煤が部屋の中に吹き下ろされて、空き地を転々とするタンブ…

『大いなる眠り』註解 第二十章(3)

《グレゴリー警部は頭を振った。「もし彼が稼業でやっているくらい切れるなら、この件も手際よく処理するさ。君の考えは分かるよ。警察は彼がそんな馬鹿なまねをするわけがないと考えるからわざと馬鹿なまねをしてみせるというんだろう。警察の見方からすれ…

『大いなる眠り』註解 第二十章(2)

《「彼が出て行ったのは九月十六日のことだ」彼は言った。「それについて唯一つ大事なことは、運転手が休みの日で、午後遅くだったというのにリーガンが車を出すところを見た者がいないことだ。四日後、我々はサンセット・タワーズ近くのリッチなバンガロー…

『大いなる眠り』註解 第二十章(1)

《失踪人課のグレゴリー警部は広い平机の上に私の名刺を置き、その角が机の角に正確に平行になるように置き直した。彼は首を傾げ、ぶつぶつ言いながら名刺を調べると、回転椅子の向きを変え、窓から半ブロック先の裁判所の縞になった最上階を見た。疲れた目…

『大いなる眠り』註解 第十九章(2)

《五分後、折り返して電話が鳴った。私は酒を飲み終わり、すっかり忘れていた夕食が食べられそうな気分になっていた。私は電話は放っておいて外に出た。帰ってきたときも鳴っていた。それは一定の間隔をおいて十二時半まで続いた。私は灯りを消し、窓を開け…

『大いなる眠り』註解 第十九章(1)

《車を停めて、ホバート・アームズの前まで歩いてきた時には十一時近かった。厚板ガラスのドアは十時に施錠されるので、私は鍵を取り出した。方形の退屈なロビーの中にいた男が鉢植えの椰子の傍に緑色の夕刊を置き、伸びた椰子の鉢の中に煙草の吸殻を弾き飛…

『大いなる眠り』註解 第十八章(5)

「このように事件を揉み消されて警官がどう感じるか、君は知るべきだ」彼は言った。「君には逐一陳述してもらわねばならない――せめて書類の上だけでもな。二件の殺人を別件として処理することは可能だろう。その両方からスターンウッド将軍の名前を外すこと…

『大いなる眠り』註解 第十八章(4)

《ワイルドは葉巻を振りながら言った。「証拠物件を検分しようじゃないか、マーロウ」私はポケットの中身をさらえて彼の机の上に置いた。三枚の借用書とガイガーがスターンウッド将軍に宛てた名刺、カーメンの写真、それに暗号化された名前と住所が記載され…

『大いなる眠り』註解 第十八章(3)

《クロンジャガーは私の顔から決して眼をそらさず、私が話す間どんな表情も浮かべることはなかった。話し終えると彼はしばらくの間完璧な沈黙を守った。ワイルドは黙ってコーヒーをすすり、静かに斑入りの煙草を吹かしていた。オールズは彼の片方の親指を見…

『大いなる眠り』註解 第十八章(2)

《タガート・ワイルドは机の向こうに座っていた。太った中年男で、本当は表情のない顔を友好的な顔つきに見せるのを澄んだ青い眼で間に合わせていた。彼の前にはブラックコーヒーのカップが置かれ、入念に手入れされた左手の指には細身の斑入りの葉巻があっ…

『大いなる眠り』註解 第十八章(1)

《オールズは立ったまま青年を見下ろしていた。青年は壁に横向きにもたれてカウチに座っていた。オールズは黙って彼を見た。オールズの青白い眉は密生した剛毛が丸くなっていて、ブラシ会社の営業員がくれる小さな野菜用のブラシみたいだった。 彼は青年に訊…