HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十九章(1)

《車を停めて、ホバート・アームズの前まで歩いてきた時には十一時近かった。厚板ガラスのドアは十時に施錠されるので、私は鍵を取り出した。方形の退屈なロビーの中にいた男が鉢植えの椰子の傍に緑色の夕刊を置き、伸びた椰子の鉢の中に煙草の吸殻を弾き飛…

『大いなる眠り』註解 第十八章(5)

「このように事件を揉み消されて警官がどう感じるか、君は知るべきだ」彼は言った。「君には逐一陳述してもらわねばならない――せめて書類の上だけでもな。二件の殺人を別件として処理することは可能だろう。その両方からスターンウッド将軍の名前を外すこと…

『大いなる眠り』註解 第十八章(4)

《ワイルドは葉巻を振りながら言った。「証拠物件を検分しようじゃないか、マーロウ」私はポケットの中身をさらえて彼の机の上に置いた。三枚の借用書とガイガーがスターンウッド将軍に宛てた名刺、カーメンの写真、それに暗号化された名前と住所が記載され…

『大いなる眠り』註解 第十八章(3)

《クロンジャガーは私の顔から決して眼をそらさず、私が話す間どんな表情も浮かべることはなかった。話し終えると彼はしばらくの間完璧な沈黙を守った。ワイルドは黙ってコーヒーをすすり、静かに斑入りの煙草を吹かしていた。オールズは彼の片方の親指を見…

『大いなる眠り』註解 第十八章(2)

《タガート・ワイルドは机の向こうに座っていた。太った中年男で、本当は表情のない顔を友好的な顔つきに見せるのを澄んだ青い眼で間に合わせていた。彼の前にはブラックコーヒーのカップが置かれ、入念に手入れされた左手の指には細身の斑入りの葉巻があっ…

『大いなる眠り』註解 第十八章(1)

《オールズは立ったまま青年を見下ろしていた。青年は壁に横向きにもたれてカウチに座っていた。オールズは黙って彼を見た。オールズの青白い眉は密生した剛毛が丸くなっていて、ブラシ会社の営業員がくれる小さな野菜用のブラシみたいだった。 彼は青年に訊…

『大いなる眠り』註解 第十七章(2)

《私は彼に触れなかった。近づきもしなかった。彼は氷のように冷たく、板のように硬くなっているにちがいない。 黒い蝋燭の炎が開いたドアからのすきま風で揺らめいた。融けた蝋の黒い滴がその脇にゆっくり垂れていた。部屋の空気はひどく不快で非現実的だっ…

『大いなる眠り』註解 第十七章(1)

《ラヴァーン・テラスのユーカリの木の高い枝の間に霧の暈を被った半月が輝いていた。丘の下の家で鳴らすラジオの音が大きく聞こえた。青年はガイガーの家の玄関にある箱形の生垣の方に車を回してエンジンを切り、両手をハンドルの上に置いたまま坐ってまっ…

『大いなる眠り』註解 第十六章(4)

《私はひと飛びに部屋を横切り、ドアが開くように死体を転がし、身をよじって外に出た。ほぼ真向かいに開いたドアから一人の女がじっと見ていた。彼女の顔は恐怖に覆われ、鉤爪のようになった手が廊下の向こうを指さした。 私は廊下を走り抜けた。タイルの階…

『大いなる眠り』註解 第十六章(3)

《ブロンドのアグネスは低い声で獣のようなうなり声をあげ、ダヴェンポートの端にあるクッションに頭をうずめた。私は突っ立ったまま、彼女のすらりと長い腿に見とれていた。 ブロディは唇を舐めながらゆっくり話した。「座ってくれ。もう少し話すことがある…

『大いなる眠り』註解 第十六章(2)

《口裏を合わせておかなきゃいけないな?」私は言った。「たとえば、カーメンはここにいなかった。それがいちばん大事だ。彼女はここにいなかった。君が見たのは幻影だ」 「何と!」ブロディは鼻で笑った。「あんたがそうしろというのなら――」彼は片手の掌を…

『大いなる眠り』註解 第十六章(1)

《私は折り返されたフレンチウィンドウのところへ行き、上部の小さく割れたガラスを調べた。カーメンの銃から出た銃弾は殴ったみたいにガラスを砕いていた。穴を作ってはいなかった。漆喰に、目を凝らせばわかるくらい小さな穴があった。私はカーテンで割れ…

『大いなる眠り』註解 第十五章(2)

《私はブロディのところまで行き、彼の腹に自動拳銃を突きつけ、彼のサイド・ポケットの中のコルトに手を伸ばした。私は今では目にした銃をすべて手にしていた。それらをポケットの中に詰め込んで、片手を彼の方に出した。 「もらおうか」 彼はうなずき、唇…

『大いなる眠り』註解 第十五章(1)

《彼はそれが気に入らなかった。下唇は歯の下に引っ込み、眉根は下がり眉山が尖った。顔全体に警戒感が走り、狡く卑しくなった。 ブザーは歌いやまなかった。私もそれは気に入らなかった。もしかして訪問者がエディ・マーズと彼の部下だったら、私はここにい…

『大いなる眠り』註解 第十四章(4)

《じんわりした苦しみと激しい怒りを封じ込めた無理無体な混ぜ物の中に彼女は落ち込んだ。銀色の爪が膝を掻きむしった。 「この稼業はなまくら者には向いていない」私はブロディに親しさを込めて話しかけた。「君のようなやり手を探してるんだ、ジョー。君は…

『大いなる眠り』註解 第十四章(3)

《カーテンが横に引かれ、緑色の目をして太腿を揺らしたアッシュブロンドが部屋に仲間入りした。ガイガーの店にいた女だ。彼女は切り刻みたいほど憎んでいるとでもいうように私を見た。鼻孔は縮み上がり、暗さを増した眼は二つの陰になっていた。とても不幸…

『大いなる眠り』註解 第十四章(2)

《数は多くないが趣味のいい家具が置かれた快適な部屋だった。壁の奥に開けられた石敷きのポーチに通じるフレンチ・ウィンドウからは山麓の夕暮れが見渡せた。西壁の窓の近くに閉じられたドアが、玄関ドアの近くには同じ壁にもう一つドアがあった。最後の一…

『大いなる眠り』註解 第十四章(1)

《ランドール・プレイスにあるアパートメント・ハウスの玄関ロビー近くに車を停めたのが五時十分前だった。幾つかの窓には明かりがともり、夕闇にラジオが哀れっぽく鳴っていた。自動エレベーターに乗り、四階まで上がり、グリーンのカーペットにアイヴォリ…

『大いなる眠り』註解 第十三章(4)

《エディ・マーズは言った。「こいつが銃を持っていないか調べろ」 金髪が銃身の短い銃を抜き、私に狙いをつけた。ボクサー崩れはぎこちなくにじり寄って来て私のポケットを注意深く探った。イブニング・ドレスを着て退屈している美しいモデルのように、私は…

『大いなる眠り』註解 第十三章(3)

《「厄日かもしれないな。知ってるんだよ、あんたのこと、ミスター・マーズ。ラス・オリンダスのサイプレス・クラブ。華麗なる人々のための華麗なる賭博場。地方警察はあんたの意のままだし、ロサンジェルスのその筋にもたんまりと握らせている。言い変えれ…

『大いなる眠り』註解 第十三章(2)

《カーメンは声を上げて私の横を通り、ドアから駆けだした。坂を下る彼女の足音が急速に消えていった。車は見なかった。多分下の方に停めたのだろう。私は言いかけた。「一体全体どうなってるんだ――」 「放っておけよ」エディ・マーズはため息をついた。「こ…

『大いなる眠り』註解 第十三章(1)

《彼は灰色の男だった。全身灰色。よく磨かれた黒い靴と灰色のサテンのタイに留めたルーレットテーブル・レイアウトのそれを思わせる二つの緋色のダイヤモンドを除いて。シャツは灰色で、柔らかなフランネルのダブル・ブレストのスーツは美しい仕立てだった…

『大いなる眠り』註解 第十二章(3)

《利口ぶるのはやめてくれ。お願いだ」私は彼女に強く言った。「ここは、ちょっと古臭いが率直さの出番だ。ブロディが彼を殺したのか?」 「殺したって、誰を?」 「くそっ」私は言った。 彼女は傷ついたようだった。彼女の顎が一インチほど下がった。「そう…

『大いなる眠り』註解 第十二章(2)

《娘と私は立ったまま互いを見かわした。彼女は可愛いらしい微笑みを保とうとしていたが、それには彼女の顔は疲れすぎていた。彼女の顔から表情が消えつつあった。砂浜から引いてゆく波のように顔から微笑みが流されてゆく。彼女のぼうっと麻痺したように空…

『大いなる眠り』註解 第十二章(1)

《雨が上がって、ラヴァーン・テラスの山手の樹々は緑の葉が生き生きしていた。ひんやりした午後の陽射しを浴びて、切り立った丘陵と下へ続く階段が見えた。暗闇の中で三発の銃声を響かせたあと、殺人者が駆けおりた階段だ。崖下の通りに面して二軒の小さな…

『大いなる眠り』註解 第十一章(4)

《私はドアが閉まるにまかせ、そこに添えた手を見つめながら立っていた。顔が少し火照っていた。私は机に戻り、ウィスキーをしまい、二つのリキュールグラスを水ですすぎ、それもしまった。 電話にかぶせていた帽子をとり、地方検事局にかけ、バーニー・オー…

『大いなる眠り』註解 第十一章(3)

《「オーウェンは昨夜あなたの家の車で何をしていたんだろう?」 「誰にも分からないでしょうね。許可なしにしたことだから。私たちはいつも仕事のない夜には彼に自由に車を使わせていたの。でも、昨夜は彼は休みじゃなかった」彼女は口を歪めた。「もしかし…

『大いなる眠り』註解 第十一章(2)

《彼女は黙って煙草の煙を吐き、落ち着いた黒い瞳で私をじっと見つめた。「もしかすると、その思いつきも悪くはなかったかも」彼女は静かに言った。「彼は妹を愛していた。私たちの仲間うちではあまりないことよ」 「彼には逮捕歴があった」 彼女は肩をすく…

『大いなる眠り』註解 第十一章(1)

《彼女は茶色がかった斑入りのツイードを着て、男っぽいシャツの上にタイを絞め、職人の手になるウォーキング・シューズを履いていた。透き通るようなストッキングは前日同様だったが、脚の露出は多くなかった。黒い髪は帽子の下で輝いていた。五十ドルはす…

『大いなる眠り』註解 第十章(3)

《しばらくして私は言った。「重さに気をつけてくれよ。そいつは半トンまでしか試してないんだ。その代物、どこに運ぶんだ?」 「ブロディ。405号室だ」彼はうなった。「あんた管理人か?」 「そうだ。戦利品の山みたいだな」 彼は白目がちの薄青い眼で私…