HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(2)

指輪がフィンガー・ブレスレットを連想させた、その理由 【訳文】 《艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せ細ったアジア風の顔をした女だ。耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた。月長石や銀の台に嵌めたエメラルドは本物かもしれないが、どう…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(1)

サンセット・ブルヴァードを、「素早く通り抜け」られるはずがない 【訳文】 《車はダーク・ブルーの七人乗りのセダンだった。最新型のパッカード、特注品。真珠の首飾りをつけたときに乗るような車だ。消火栓の脇に停められていて、木彫のような顔をした浅…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第20章

―帽子のリボンと汗どめバンドの取り違えが命取り― 【訳文】 《インディアンは臭った。ブザーが鳴ったとき、小さな待合室の向こう側にはっきりと臭いがしていた。私は誰だろうと思ってドアを開けた。廊下のドアを入ったところに、まるで青銅で鋳造されたみた…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第19章

口紅は落ちているのか、いないのか 【訳文】 《曲がりくねった私道を歩き、高く刈り込まれた生垣の陰で迷子になりながら門に出た。新顔の門番は私服を着た大男で、どこから見てもボディガードだ。うなずいて私を通した。 ホーンが鳴った。ミス・リオーダンの…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(6)

フィネガンの足のような寒気、というのは 【訳文】 《女は私の膝の上にしなだれかかった。私は顔の上に屈み込んで眼で舐めまわした。彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた。唇を合わせたとき、彼女の唇は半開きで燃えていた。歯の間から舌が蛇のよ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第18章(5)

ドレスが首のあたりまでめくれ上がったのには理由があった 【訳文】 《「男はリンの座っている側に近づくとすぐに、スカーフを鼻の上まで引っ張り上げ、銃をこちらに向け『手を挙げろ』と言った。『おとなしくしてればすぐに済む』。それからもう一人の男が…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(4)

どんなドレスを着たら、裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろう。 【訳文】 《「ニュートンはいいでしょう」私は言った。「ギャングとつるむようなタイプじゃない。当て推量に過ぎませんが。フットマンについてはどうですか?」 彼女は考え、記憶を探った…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(3)

18-3 【訳文】 《「何だろう、このお上品な飲み方」彼女はいきなり言った。「さっさと話に入りましょう。にしてもあなた、あなたみたいな稼業にしちゃ、ずいぶん様子がいいのね」「悪臭芬々たる仕事です」私は言った。「そんな意味で言ったんじゃない。お金…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(2)

18-2 【訳文】 《縞のヴェストに金ボタンの男がドアを開けた。頭を下げ、私の帽子を受け取れば、今日の仕事は終わりだ。男の後ろの薄暗がりに、折り目を利かせた縞のズボンに黒い上着を着て、ウィング・カラーにグレイ・ストライプ・タイをしめた男がいた。…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(1)

18-1 【訳文】 《海に近く、大気中に海の気配が感じられるのに、目の前に海は見えなかった。アスター・ドライブはその辺りに長くなだらかなカーブを描いていた。内陸側の家もそこそこ立派な建物だったが、渓谷側には巨大な物言わぬ邸宅が建ち並んでいた。高…

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第17章(2)

【訳文】 《寝具の下で女のからだは木像のように硬直した。目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で。息は止まった。「信託証書が高額すぎてね」私は言った。「この辺りの物件の価格からいうとだが。リンゼイ・マリオットなる人物の所有になる債権だ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第17章(1)

17 【訳文】(1) 《呼び鈴を鳴らそうが、ノックをしようが、隣のドアから返事はなかった。もう一度試してみた。網戸の掛け金は外れていた。玄関ドアを試してみた。ドアの鍵は開いていた。私は中に入った。 何も変わっていなかった、ジンの匂いすらも。床に…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第16章

16 【訳文】 《そのブロックは前日に見たのとそっくり同じだった。氷屋のトラックと私道の二台のフォードを除けば通りは空っぽで、角を曲がったところでは砂埃が渦を巻いていた。私は車をゆっくり走らせて一六四四番地の前を通り過ぎ、離れたところに停め、…

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第15章

15 【訳文】 《女の声が答えた。乾いたハスキーな声で外国なまりがあった。「アロー」「アムサーさんとお話ししたいのだが」「あのう、残念です。とってもすみません。アムサー電話で話すことありません。わたし秘書です。伝言をお聞きしましょう」「そこの…

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第14章(2)

14【訳文】(2) 《電話のベルが鳴り、上の空で電話に出た。冷静で非情な、自分を優秀だと思い込んでいる警官の声。ランドールだ。決して声を荒らげることはない。氷のようなタイプだ。「通りすがりだったんだよな、昨夜ブルバードで君を拾ってくれた娘は?…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第14章(1)

14 【訳文】 《私はロシア煙草の一本を指で突っついた。それからきちんと一列に並べ直し、座ってた椅子をきしませた。証拠物件を捨ててはいけない、というからには、こいつは証拠品だ。しかし、何の証拠になる? 男がときどきマリファナ煙草を吸っていて、何…

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第13章(5)

《見るたびに好ましくなる顔だ。目の覚めるようなブロンドなら掃いて捨てるほどいる。しかし、この娘の顔は見飽きるということのない顔だ。私はその顔に微笑んだ。「いいかい、アン。マリオット殺しはつまらんミスだ。今回のホールドアップの背後にいるギャ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(4)

《ブロンドだった。司祭がステンドグラスの窓を蹴って穴を開けたくなるような金髪だ。黒と白に見える外出着を着て、それにあった帽子をかぶっていた。お高くとまっているように見えるが、気になるほどではない。出遭ったが最後、相手を虜にせずには置かない…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(3)

《彼女は煙草をもみ消した。口紅はついていなかった。「こうやってあなたを煩わせているのは、私としては警察とうまくやる方が手間が省けると言いたいだけ。昨夜言っておくべきだったわね。それで今朝、事件の担当者を探し当てて会いに行ってきた。初めは、…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(2)

《白檀のあるかなきかの微香が私の前を通り過ぎた。立ち止まった女が見ていたのは五つの緑のファイリングケース、擦り切れた錆色の敷物、埃をかぶった家具、それにお世辞にも清潔とはいえないレース・カーテンだった。「電話に出る人が必要ね」彼女は言った…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(1)

13 《九時に目を覚まし、ブラック・コーヒーを三杯飲んだ。氷水を使って後頭部を洗い、アパートメントのドアに投げ入れられていた朝刊二紙に目を通した。ムース・マロイにまつわる二幕目の小さな記事があるにはあったが、ナルティの名前はなかった。リンゼイ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(3)

《ランドールは首を振った。「もし、組織的な宝石強盗団なら、よほどのことでもない限り人は殺さない」彼は突然話を打ち切り、眼にどんよりした膜がかかった。ゆっくりと口を閉じ、固く結んだ。思いついたのだ。「ハイジャック」彼は言った。 私はうなずいた…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(2)

《「少し遡って考えてみようか?」彼は言った。「誰かがマリオットとその女を襲い、翡翠のネックレスその他を強奪した後、推定価格よりかなり安価と思われる値での売却を持ちかける。マリオットが支払いの交渉にあたり、自分一人でやると言い出した。相手が…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第12章(1)

12 《一時間半後。死体は運び去られ、あたり一帯は入念に調べられ、私は同じ話を三回か四回繰り返させられた。我々は四人で、西ロサンジェルス警察署の当直警部の部屋に腰をおろしていた。早朝ダウンタウンの裁判所に送られるのを待つ、酔っ払いが独房でオー…

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第11章(2)

《明かりが地面に垂れていた。私は財布を戻し、ペンシル・ライトをポケットにクリップで留めると、とっさに女がまだ懐中電灯と同じ手に持っていた小さな拳銃に手を伸ばした。女は懐中電灯を落とし、私は銃を手にした。女がさっと身を引いたので、私はかがみ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十一章(1)

11 《坂道を半分ほど登ったところで、右の方に目をやると左足が見えた。女は懐中電灯をそちらに振った。それで、全身が見えた。坂を下りてくるとき、当然見ているはずだった。だが、そのとき私は地面の上にかがみ込み、白銅貨(クォーター)大のペンシル・ラ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(3)

《「そこを動かないで」娘が腹立たし気に言ったのは、私が足をとめてからだった。「あなたは誰なの?」「君の銃を見てみたい」娘は光の前に掲げて見せた。銃口は私の腹に向けられていた。小さな銃だった。コルト・ベスト・ポケットのようだ。「なんだ、それ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(2)

《車が停まっていた場所に行き、ポケットから万年筆型懐中電灯を取り出し、小さな光で地面を調べた。土壌は赤色ロームで、乾燥すると非常に固くなるが、乾上るほどの気候ではなかった。少し霧がかかっていて、地面は車の停まっていた跡を残す程度の湿気を帯…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十章(1)

10 《「四分」声が言った。「五分か、六分かも知れない。連中は機敏に音も立てずに動いたにちがいない。あいつは叫び声さえ上げなかった」私は目を開け、凍えた星をぼんやりと見た。私は仰向けに倒れていた。気分が悪かった。 声は言った。「もう少し長かっ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第九章(2)

《我々は渓谷の内奥の窪地に下り、それから高台に上がった。しばらくしてから、もう一度下り、そして、また上った。マリオットの緊張した声が私の耳に入った。「次の通りを右だ。四角い小塔のついた屋敷だ。その脇を回るんだ」「あんたが連中にこの場所を選…