HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第八章(2)

いったいビル・チェスはいつの間に腰を下ろしたのだろう? 【訳文】 「お巡りらしい言い草だ」ビル・チェスは吐き捨てるように言い、ズボンを穿き、また腰を下ろして靴を履き、シャツを羽織った。身支度を終えると、立ち上がって瓶に手を伸ばしてたっぷり飲…

『湖中の女』を訳す 第八章(1)

<a batch of mud pies>は「マッド・パイ一窯分」 【訳文】 彼は停車場から道路を隔てた向かい側の白い木造家屋の前で車を止めた。建物の中に入って、すぐ一人の男と出てきた。男は手斧とロープと一緒に後部座席に乗った。公用車が通りを戻って来たので、そ…

『湖中の女』を訳す 第七章

「脂肪は、ほんのご愛嬌だ」は<The fat was just cheerfulness> 【訳文】 板張りの小屋の窓越しに、片端に埃だらけのフォルダーが積まれたカウンターが見えた。ドアの上半分を占めるガラスに、黒い塗料で書かれた文字が剥げかけている。「警察署長。消防署…

『湖中の女を訳す』第六章(3)

<green stone>は「緑色の石」ではなく「翡翠」の一種 【訳文】 すぐ横で激しい動きがあり、ビル・チェスが言った。「あれを見ろ!」山で聞く雷鳴のようなうなり声だ。 硬い指が腹が立つほど私の腕に食い込んだ。彼は手すりから大きく身を乗り出し、呆けた…

『湖中の女を訳す』第六章(2)

<flat angle>は「鈍角」でも「浅い角度」でもない 【訳文】 我々はまた、小犬のように仲よく並んで歩き出した。少なくとも五十ヤードくらいの間。かろうじて車が通れるほどの道幅の道路が、湖面に迫り出すようにして、高い岩の間を抜けていた。最遠端から…

『湖中の女を訳す』第六章(1)

<brighten up>は「~を明るくする」から「機嫌を直す、元気づける」 【訳文】 我々は湖岸へと続く斜面を下り、狭い堰堤の上に出た。ビル・チェスは、鉄の支柱に取り付けられた手すりのロープをつかみながら、強張った足を振るようにして私の前を歩いた。ひ…

『湖中の女を訳す』第五章(4)

三度繰り返される<get away with>をどう扱うか? 【訳文】 話が途切れた。言葉は宙を漂い、やがてゆっくり落ちて、あとには沈黙が残った。彼は身を屈めて岩の上の瓶を手に取り、じっと凝視めた。心の中で瓶と戦っているようだった。ウィスキーが勝った。い…

『湖中の女を訳す』第五章(3)

<in a lance of light>(光の槍の中に)は何の比喩だろう? 【訳文】 私は瓶の金属キャップを捻り切り、相手のグラスにたっぷりと、自分のグラスには軽く注いだ。我々はグラスを合わせ、そして飲んだ。彼は酒を舌の上で転がし、微かな陽射しのようにわびし…

『湖中の女を訳す』第五章(2)

<full of knuckles>を「一発」に減らすのは、非暴力主義? 【訳文】 私は立ち上がり、ポケットからキングズリーの紹介状を取り出して男に手渡した。男は眉根を寄せてそれを見たが、それから足音高く小屋に戻り眼鏡を鼻にのせて戻ってきた。そして注意深く…

『湖中の女』を訳す 第五章(1)

どうして<a high granite outcrop>を複数扱いしたのだろう 【訳文】 サン・バーナディーノは午後の熱気で焼かれ、ぎらぎらと揺らめいていた。空気は舌に火ぶくれができそうなほど熱かった。喘ぎながらそこを通り抜ける途中、一パイント瓶を買う間だけ車を…

『湖中の女』を訳す 第四章(2)

<Nervous Nellie>を「ビビリのビリー」と訳してみた 【訳文】 私はアルモア医師に注意を戻した。今は電話に出ていたが、口は動かさず、受話器を耳にあて、煙草を吸いながら、待っていた。それから、相手の声が戻ってきたとき誰もがするように、身を乗り出…

『湖中の女』を訳す 第四章(1)

屋根の<tiles>は「タイル」じゃなくて「瓦」だろう。 【訳文】 横長の、奥行きのない家で、薔薇色の化粧漆喰仕上げの壁がほどよくパステル調に色褪せ、窓枠はくすんだ緑色で縁どられていた。屋根は緑の瓦葺きで、肌理の粗い丸瓦だ。正面壁を刳った奥に、色…

『湖中の女』を訳す 第三章(4)

<the veneer peel off>を「化けの皮がはげる」と訳すのはうまい。 【訳文】 彼は煙草の灰をテーブルのガラス天板の上に慎重に落とした。そして、上目づかいにちらっと私を見て、すぐに目をそらした。「待ちぼうけを食わせたんだ」彼はゆっくり言った。「俺…

『湖中の女』を訳す 第三章(2)

[<in the way of ~>は「~の点では」という条件がついている 【訳文】 レイヴァリーは勢いよくドアを閉め、ダヴェンポートに座った。打ち出し細工を施した銀の箱から煙草を一本ひっつかんで火をつけ、いらだたし気にこちらを見た。私は向かい合って座り、…

『湖中の女』を訳す 第三章(1)

<burl walnut>というのは、ふし瘤のあるウォールナット 【訳文】 アルテア・ストリートは、深い峡谷にV字の形に広がる土地のいちばん奥にあった。北は冷たく青い海岸線がマリブあたりの岬までのび、南はコースト・ハイウェイに沿って続く断崖の上にベイ・…

『湖中の女』を訳す 第二章(3)

五セントのはずの<nickel>が、二セントや十セントになる不思議 【訳文】 「他にもっと多くのことが起きているかもしれません」私は言った。「レイヴァリーと駆け落ちしたものの、喧嘩別れした。他の誰かと駆け落ちして電報は冗談だった。一人で家を出たか…

『湖中の女』を訳す 第二章(2)

<homewrecker>は女の尻を追いかける「泥棒猫」のこと 【訳文】 彼は鍵のかかった抽斗を開けるために椅子を後ろに退き、折り畳んだ紙片を取り出して渡してよこした。広げてみると電報用紙だった。電報は六月十四日 午前九時十九分にエルパソで打たれたもの…

『湖中の女』を訳す 第二章(1)

<call down>は「酷評する、けなす、こき下ろす」 【訳文】 それはプライベート・オフィスたるもの、そうあるべき部屋だった。奥行きがあり、ほの暗く、ひっそりして空調が効いていた。窓は閉まり、灰色のベネシアン・ブラインドを半ば閉じて、七月のぎらつ…

『湖中の女』を訳す 第一章(2)

<rear back>は「後退り」ではなく「後ろ脚で立つ」こと 【訳文】 半時間がたち、煙草を三、四本吸い終わった頃、ミス・フロムセットの背後のドアが開き、二人の男が笑いながら後ろ向きに出てきた。三人目の男がドアを抑え、二人に調子を合わせていた。彼ら…

チャンドラー『湖中の女』を訳す 第一章(1)

【はじめに】 ずぶの素人がまるまる一冊、長篇小説を訳してみようと無謀な試みを思い立ったには訳がある。村上春樹氏がチャンドラーの長篇の新訳を出したことで、新訳について様々な意見が巻き起こった。旧訳でなじんできた読者に新訳が違和感を持って迎えら…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第41章(最終話)

<She turned>は「彼女は振り返った」 【訳文】 ヴェルマを見つけるのに三か月以上かかった。グレイルが彼女の行方を知らず、逃亡を助けてもいないということを警察は信じなかった。そこで、国中の警官とやり手の新聞記者は金のかかりそうな隠れ場所を八方…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第40章

「ホワイト・タイ」とあるからには、ここは「燕尾服」の出番だ。 【訳文】 「あなたは、ディナー・パーティーを開くべきだった」アン・リオーダンはタン色の模様のある絨毯越しに言った。「きらめく銀食器とクリスタル、糊の利いた真っ白なリネン――ディナー…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(4)

<the weak link in the chain>は「集団・計画の命取り」 【訳文】 彼女はバッグから金のシガレット・ケースを取り出した。私は彼女の傍に寄り、マッチの火をつけた。彼女は微かな一筋の煙を吐き、眼を細めてそれを見つめた。「隣に座って」彼女は突然言っ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(3)

「毛皮が渦を巻」く? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」 【訳文】 「俺がジェシー・フロリアンを殺したと考えた理由は何だ?」彼は不意に尋ねた。「首に残っていた指の痕の開き具合だ。君は女から何かを聞き出そうとしていた。そして、そ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(2)

<squeeze out of>は「(情報・自白)などを(人から)強引に引き出す」 【訳文】 彼は横ざまにテーブルの方に動いて銃を置くとオーバーコートを引き剥がすように脱いで一番上等の安楽椅子に腰を下ろした。椅子は軋んだが、どうにか持ちこたえた。ゆっくりと…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(1)

<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」 【訳文】 ベイ・シティのグレイル家に電話を入れたのは十時頃だった。彼女を捕まえるには遅すぎるかと思ったが、そうでもなかった。メイドや執事相手に悪戦苦闘したあげく、やっと彼女の声を聞けた。快活な…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(4)

<The things I do>は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」だろうか? 【訳文】 彼はしばらくじっと坐っていた。それから身を乗り出して机越しに銃を私の方に押してよこした。「俺がやっているのは」彼はまるでその場に独りでいるみたいに物思いにふけった。「…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(3)

<desk>が<table>に化けるわけ 【訳文】 ドアが開いて、もう一人が帰ってきた。メス・ジャケット姿のギャングっぽい口をきくあの男が一緒だった。私の顔を一目見たとたん、男の顔は牡蠣のように白くなった。「こいつは通していません」彼は唇の端を捲りあ…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(2)

<director's chair>をわざわざ「重役用の椅子」と訳すのは変。 【訳文】 我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた。降りたところに厚いドアがあった。彼はドアを開け、錠を調べた。彼は微笑し、頷いて、私を通すためにドアを支えた…

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(1)

<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味 【訳文】 冷たい空気が換気口から勢いよく流れ込んできた。天辺までは遠いようだった。一時間にも思える三分間が過ぎ、喇叭のように開いた口からおそるおそる頭を突き出した。近くの帆布を張った救命ボートが…