HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第15章

第15章のマーロウは、失踪したウェイドが残したたった一つの手がかり、Vという頭文字を持つ医師の情報を求め、大手機関に勤める知人を訪ねる。しがない私立探偵の目から見た大手同業者のオフィスに注ぐ辛辣な視線が印象的な場面だ。

この章も大きな異同はない。清水氏の訳は軽快で村上氏の訳はやや勿体ぶって見える。どうでもいいところかもしれないが、マーロウのちょっとした言葉や印象を記した一文が清水氏の訳からは脱落している。

たとえばカーン機関の入り口の印象を評していわく

It might have been investment trust(投資信託の会社みたいだ)

また、素晴らしく事務的な対応をする受付嬢に「お取り次ぎいたします」と言われた後の

I told her that made me very happy(それはまことに素晴らしいと私は彼女に言った)

などがそうだ。マーロウという人物はかなりの皮肉屋で、内心で思うだけでなく口に出しても言う。ただ、皮肉というものは、そのニュアンスが通じてはじめて皮肉なのであり、相手に通じなければやたら煩雑な記述ともとられかねない。ハードボイルド探偵小説の読者を相手にしている清水氏は、そのあたりのことを考えているのだろう。フィッツジェラルドも読む読者を想定している村上氏とはそこがちがう。

マーロウという探偵は実に色に煩い。この章でもカーン機関が入る四階建てビルのキャンディー・ピンクにはじまって、応接室のスカーレットダークグリーンの家具、ブランズウィック・グリーンの壁、鏡にかけられたローズ・ピンクと、これでもかというくらい色を数え上げる。

ここで気になるのは村上訳のブランズウィック・グリーンだ。不勉強でこの緑色がどんな色かよく分からない。清水訳はダーク・グリーンとなっていて深緑と分かる。気になって調べてみると、ブランズウィック・グリーンとは、ジョージ一世の家系であるハノーヴァー朝由来の由緒ある色で国際的な自動車レースで英国車に使用されるブリティッシュ・レーシング・グリーンも、もとはここから来たと言われている。そんなことを訳註につけるのも野暮だし、今ならネットで調べれば誰にでも分かるから村上氏はそのまま書いたのだろう。

もう一つ、テーブルに使われている木材を村上氏はこれもそのままプリマヴェラとしている。清水氏は例のごとく省略している。プリマヴェラと聞いて思い出すのはボッティチェッリの有名な絵ぐらいしかしらない読者としては気になってしかたがない。ホワイトマホガニーという別名があるくらいだからマホガニーに似ているのだろう。よくプリマヴェラと見抜いたものだ。探偵稼業というのは何でも知っていないとつとまらぬものらしい。

因みにカーン機関のオフィス内は、壁も家具も事務機器もすべてグレーで統一されている。そこに登場するのが、ピーターズ。壁の隠しマイクの配線を外しながらマーロウに言った彼の言葉が二つの訳で微妙にくいちがいを見せる。

“Right now I'd be out of a job,” he said, “exept that the son of a bich is out fixing a drunk-driving rap for some actor.

この“I'd be out of a job”が清水訳では「いま、べつに仕事はないんだ。」となっているが、村上訳では「これで僕は職を失いかねない。」になっている。その後に続く「ある俳 優の酔っぱらい運転のもみ消し」が、ピーターズ自身の仕事で、それをexeptすれば特に仕事はないととるのが清水氏。その俳優の面倒を見ているのが大将 (the son of a bitch)のカーン元大佐で、その彼が外出しているから、今は心配ない(exept)と言ったのだととるのが村上氏である。

これは<the son of a bitch>という言葉を「くそったれ」という自分の仕事に対する悪態ととるか、上司を指した言葉ととるかのちがいだろう。ぱりっとしたオフィスを構えた元憲兵隊の大佐が自ら俳優が犯した酔っぱらい運転のもみ消しなんかに足を運ぶはずがないと考える清水氏の気持ちはよく分かる。

一方、すべての部屋に隠しマイクを仕掛けるような「くそったれ」上司の下で働く部下としては、勝手に配線を切ることが心配でない訳がないと考 える村上氏の訳も妥当である。この後に続く一連の会話が隠しマイクの話であることを考えると、村上訳の方が意味が通じる気がするが、どうだろうか。

「ここには灰色じゃないものはないのか」と皮肉られたピーターズが一緒にやらないかと抽斗から取り出すのがアップマン・サーティーという葉巻。パイプ党のマーロウは「葉巻は苦手だ」と断るが、これは一人で楽しむものじゃないとピーターズは抽斗にもどす。そういえば、シガーシガレットという煙草は二人で楽しむ場面にふさわしい。それに引き替えパイプは部屋で独り楽しむ煙草だ。こんなところにも<a lone wolf>であるマーロウらしさが表れている。それにしても普通なら「一匹狼」と訳すところを清水訳は「一人ぼっち」村上訳は「はぐれ鴉」と意訳している。「一匹狼」という言葉が手垢にまみれているのを嫌ったのだろうか。