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HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『LAヴァイス』 トマス・ピンチョン

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ピンチョンが2009年に発表した最新作だが、背景となる時代はなぜかシックスティーズ。『ヴァインランド』からピンチョンを読み始めた評者のような読者には、懐かしい古巣に戻ったような思い。50年ぶりに再結成されたビーチボーイズは、相変わらずブライアン・ウィルソンならではのメロディアスなコーラスをひっさげて新曲を披露してくれたが、この『LAヴァイス』も、ピンチョン・ワールド全開で、ヒップでパラノイアックな世界を展開してくれている。

LAのゴルディータ・ビーチにオフィスを構える私立探偵ドックのところに昔の恋人シャスタが訪ねてくる。今つきあっている男の妻が何かたくらんでいるようなので調べてほしいという依頼だ。男が開発中の宅地を訪ねたドックは何者かに襲撃され、意識を失う。気がついたときには傍らに死体が転がっているという典型的なハードボイルド探偵小説の幕開けである。

LAを舞台にした探偵小説といえば、誰だってチャンドラーやハメットを思い出すにちがいない。組織に属さない一介の探偵が、美女のからむ事件に否応なく巻き込まれ痛い目にあいながらも事件を解決に導く。もっとも真犯人が見つかってそれでよし、という訳にいかないのがハードボイルド。歪んだ犯罪心理やそれを生み出す社会状況への批判的な視点がつきまとい、読者を完全なカタルシスへと誘うことはない。

ピンチョンが狙ったのもそこだ。ハードボイルド探偵小説の構造を借り、一篇の探偵小説を描きながら、ニクソンが支配する時代のアメリカの暗部をあぶりだす。と同時に、クサと音楽と連続TV番組がすべてだった60年代ロスアンジェルスのフラットではないビーチ周辺のヒッピー文化を描き留めておくこと。

実際、多感な時代に60年代に遭遇した者の一人として、あの時代のもつ雰囲気は誰かに知っていてもらいたいと思う。今から見れば、錯誤でしかなかったのかもしれないが、自分たちが世界に直接アクセスしているという根拠なき自信に満ちた多幸感。「ウッドストックネイション」という言葉さえ生まれたほどに。カントリー・ジョー・&ザ・フィッシュをプリントしたTシャツをひっかけたシェスタ。ベルボトムのパンツにサンダル履きのドックのスタイルがすべてを物語っている。

単なるノスタルジーでないことは言っておかねばなるまい。顔なじみの刑事にヒッピーと揶揄されるドックの姿は、すでにそれらが全能感に満ちたものではなくなってしまっていることを物語っている。世界は愛と平和に満ちたものではなくなっている。監獄の中でさえ人種によるギャングの派閥ができ、人と人とはそうした殻から自由になれない。

それでも、人は何かを信じていなければ生きていけない。刑事はその相棒を、ヤク中のミュージシャンは家族を、そして我らが探偵は仲間を。非情で孤独が売り物のハードボイルド探偵小説をまるっきり裏返して、やたらと仲間とツルんでドタバタ喜劇を演じる私立探偵は、思いっきりセンチメンタル。これでは、まるで日本の股旅物の世界じゃないか。

そう思いながら、読み終え、結局しっかり再読してしまった。ネットに、この小説に登場する曲のプレイリストがあって、本を読みながらBGMに流すことができる。「サムシング・イン・ジ・エア」なんか聴いていると、こっちまで鼻の奥がツーンとしてくる。そういえば、この小説の中には、インターネットの先駆的なシステムが登場する。ネット社会最初のハッカー、スパーキーの発言は思いっきりグルーヴィーだ。

カタログ小説というと、なんだかピンチョンを矮小化するようで気が進まないが、全編を彩る音楽の曲名やミュージシャン名、アメ車の名前、聞き慣れないメキシコ料理。TV番組や映画のセリフが半端じゃない。ティム・バートンジョニー・デップのコンビによる『ダーク・シャドウズ』のリメイクが騒がれているが、ビーチボーイズ同様作品中にしっかり取り込まれている。まるで、それがカルマによるお告げであるかのように。

ただ羅列されているように見える映画の関係者の中で、ドックが執拗に憧れを表明するジョン・ガーフィールドは、マッカーシー議員によるアカ狩りに非協力的だったために命を縮めたことで知られる俳優である。エンタテインメント性の強い「読み易い」小説仕立ての作品に思想だの主義だの持ち出すのは野暮だが、アメリカ人なら読めば誰にでも分かるように書かれているが、今の日本人には訳者あとがきにあるような詳細な注がいるだろう。

ピンチョンの世界に入り込むには最適のビギナー向け作品である。『LAヴァイス』は、これまでの作品でピンチョンが描いてきた世界の索引といってもよい。スクーナー船「黄金の牙」号から、『逆光』の気球にたどり着くのは容易だ。ピンチョンが繰り出す技ありアイテムや独特の陰影を漂わすアイコンに夢中になれる読者なら、きっと他の作品世界にもハマるはず。いざ、お試しあれ!