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HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第24章

ロジャー・ウェイドの後からパーティーの席にもどったマーロウは、ローリング医師がウェイドに「妻に近づくな」と警告するところを目撃する。軽く相手をいなすウェイドの頬をローリング医師は手袋で打つ。ホストとして自分を抑制できるウェイドをマーロウは見直す。夫の依頼を受けるようにせがむアイリーンに、マーロウは素人の意見だがと言い訳しつつ、ウェイドが何に悩んでいるかを述べる。それを聞いて、アイリーンはなぜか自分の過去の恋物語を話し出す。戸口から二人の様子を伺っていたウェイドはまた酒に手をのばすのだった。

時とところをわきまえないローリング医師の振る舞いに対し、皮肉ひとつを残して席を立つウェイド。取り残されてしまったローリング医師の描き方がちがう。清水訳は「ローリング博士は機先を制されて、取り残された」。村上訳は「ドクター・ローリングは鞄を抱えたままそこに取り残された」だ。この「鞄を抱えたまま」が気になる。通常パーティーの席上に、医者の仕事道具である診察鞄を持ち込むことは考えられない。原文は以下の通り。

“Which left Dr.Loring holding the bag.”

辞書でbagを引くとぴったりの用例が見つかった。

“be left holding the bag” 《米略式》全責任を取らされる。

つまり、喧嘩相手がさっさと引っ込んでしまったために、あとに残されたローリング医師がその場の始末をつける役目を負わされたという意味になり、実際には鞄は登場していないことになる。これで決まりと思うだろう。ところが、この「小さな黒い鞄」がローリング医師を特徴付ける小道具としてウェイドの口を借りて後に登場してくるからややこしい。いったいどっちなんだろうか。

ローリング医師を送り出したキャンディがバーにもどる様子の描写。“Candy shut the door,wooden-faced,and went back to the bar.”清水訳「キャンディがドアを閉めて、バーへもどった」。村上訳「キャンディーは表情も変えずに、バーに戻った」。どちらもワンフレーズとばしている。清水訳はいつものことだが、村上氏が省略するのはめずらしい。

騒ぎが終わった後、スコッチを手にするマーロウの様子。“I turned my back on the room and let them sizzle while I drink my Scotch.”清水訳「私は部屋に背中を向けて、スカッチを飲んだ」。村上訳「私は向こうを向き、部屋の喧騒を背中に受けながら黙してスコッチを飲んだ」。清水氏は“let them sizzle”を省略し、村上氏は「黙して」をつけ加えている。パーティーのざわめきと独り酒の静けさの対比をきかせたつもりだろうが、一人で酒を飲んでいるときに喋る男がいたら気味が悪い。「黙して」は必要だろうか。

一人で飲んでいるマーロウを見つけ、女の子が話しかける。その子の眼の表現“glassy-eyed”を、清水訳は「とろんとした目を輝かせ」、村上訳は「目はガラス玉のようで」としている。“glassy”には「生気のない、無表情な」の意味がある。清水氏は、その意を採ったのだろうが、「とろんとした目を輝かせ」るのは難しかろう。村上氏の「ガラス玉のよう」というのは直訳過ぎはしないだろうか。

女の子は「共産主義に興味ある?」と、話しかけ、“I think everyone ought to be”と続ける。これを清水氏は「誰だって興味があると思うわ」。村上氏は「コミュニズムには、すべての人が興味を持つべきだと私は思っているの」と訳している。“ought to be”は、「当然、(人、事が)…のはずである」の意味だ。これが“ought to do”なら、「…すべきである」になる。村上訳は、こちらの方ではなかろうか。

“A guy in a shantung jacket and open shirt”が、清水訳では「頸が開いているシャツを着た男」。村上訳は「シャンタン地の上着にオープン・ネックのシャツを着た男」。女の子の夫が着ている山東絹製のジャケットを清水氏は省略している。衣服に関する情報量は、旧訳当時と今とではずいぶん差がある。「シャンタン地」と訳したところで、どんな生地なのか分かる読者は少ないのでは、と清水氏は考えたのだろう。

パーティー客が帰った後、マーロウはフレンチ・ウィンドウからテラスに出た。あまり遠くない湖の向こう岸に水鳥がいて、スケーターのようにゆるやかな円を描いている。その最後の一文“They didn’t seem to cause as much as a shallow ripple.”を例によって清水氏はカットしている。村上訳によれば「その旋回はわずかなさざなみさえ立てていなかった」。あとで、アイリーンが想い出に耽る湖の静かな様子を描いている。

アルミ製の長椅子に腰掛けたマーロウはパイプを取り出して一服する。その様子“smoked peacefully”を、清水氏は「のんびりと煙を吐きながら」。村上氏は「心静かに煙を吸い込んだ」と訳す。辞書には「喫煙する」とあるが、小説の文章として「喫煙する」と書くわけにはいかない。果たして、煙は、吐かれたのだろうか、吸い込まれたのだろうか。

“And I haven’t seen any indications that he does get wild.He seems pretty solid to me.”

清水訳「それに、ぼくには彼が気が変になるとは思えない。しっかりした人間に見えるんです。」

村上訳「いつそれが起こるかなんて予測もつきません。ご主人は私に対していささか意識して構えているようですから。」

マーロウは、ローリング医師の無礼な振る舞いに対して自分の感情を抑制できたウェイドをしっかりした男だと思い始めている。清水訳はそういう理解だ。村上訳では、ウェイドはマーロウに対して、まだ心を開いていないので、なんともいえない、というニュアンスがうかがえる。

テラスでひとり物思いに耽るアイリーンを残し、フレンチ・ウィンドウのところに戻ってきたマーロウに対し、ウェイドはローリング医師の言葉を借りて「妻に近づくな」と警告する。手には酒の入ったグラスがある。“and the drink looked pretty heavy”清水訳「グラスの酒はかなり強いものだった」。村上訳「グラスがひどく重そうだった」。“heavy”は、アルコールの度数を意味するのか、それとも文字通り「重い」のだろうか。

以下、清水氏が省略した部分を列挙する。

マーロウの行く手をさえぎろうとするウェイドに「あなたはもう少し時間をかけて身体の回復を待たなくてはならない」と言った後に“Empty words huh?”村上訳「言っても詮ないことだろうが」が抜けている。

アイリーンからの電話にマーロウは、“I didn’t say it was all he said.I said he said it.”と言い返している。ここを清水氏は「ぼくはそういっただけとはいいませんよ」とまとめているが、村上氏は「それしか言わなかったとは言っていません。彼はそう言った、と申し上げただけです」と丁寧に訳している。後半の部分を清水訳はカットしている。

家に帰ったマーロウはチェスの駒を盤上に並べる。チェスの駒を兵士に喩えての内言、“and inspected them for French shaves and loose buttons”村上訳「(チェス駒軍団を閲兵し)髭がきちんとあたられているか、緩んだボタンがないか点検した」の部分が清水訳には見当たらない。私立探偵としてのマーロウには見られない、私人としてのマーロウの遊び心が出ているところだ。

チェスの試合が「人間の知性の精緻きわまりない浪費」であることを言祝ぎ、最後に吐く、“anywhere outside an advertising agency.”村上訳「それは広告業界以外の場所ではまずお目にかかれない種類のものだ」という決め台詞まで、清水氏は鋏を入れている。映画字幕ではないのだから、そんなに字数を節約しないでも、と思うのだが。