HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第28章

【眠りに落ちる前、ウェイドがマーロウに始末しくれと頼んだ、タイプライターに残された書きかけの原稿がそのまま引用されている。いかにも飲酒が度を越した作家が書きそうな自己憐憫の臭う愚痴っぽい文章だが、美しい妻に見捨てられた寂しさや、キャンディの取り扱いを過った悔いやら、内心を吐露した部分は重要な手がかりとなる内容を含んでいる。「善き人間が私のかわりに死んだ」という一文が意味深だが、テリー・レノックスを指すのだろうか。】

断酒中のアルコール中毒患者が見る禁断症状の幻覚を思い起こさせるウェイドの吐き気の叙述。

“The worms in my solar plexus crawl and crawl and crawl.”

清水訳「みぞおちの中の虫が這って、這って、這い回る。」

村上訳「太陽神経叢の中では虫たちがうようよと這い回っている。」

“solar plexus”は、たしかに「太陽神経叢」と辞書に載っている。けれど、「太陽神経叢」って何処よ?というのが、一般的な読者の反応だろう。胃の裏あたりにあるらしいが、「みぞおち」と訳してもらうほうがよほど落ち着きがいい。

また酒を飲みだしたウェイドは助けを求める相手としてヴェリンジャーのことを思い出す。しかし、ヴェリンジャーはセパルヴェダ・キャニオンからいなくなっている。

“The queen has killed him. Poor old Verringer, what a fate, to die in bed with a queen―that kind of queen.”

清水訳「女王が彼を殺してしまった。女王とベッドに寝ていて死ぬとは、なんと哀れな運命なのであろう―しかもあんな女王と。」

村上訳「あのおかま(クイーンとルビ)が彼を殺したのだ。かわいそうなヴェリンジャー、クイーンとベッドを共にして死ぬなんて。なんとおぞましい運命だろう。それもよりによってあんなクイーンと。」

いくら歴史物を得意とする大衆小説家の書いた書き損ねにしても、ヴェリンジャー医師が女王とベッド・インするというシチュエイションはあり得ない。「ドラッグ・クイーン」という言葉があるくらいだから、「クイーン」が、その手の男性を指すことは、今では常識に類することだろう。だが、出版当時、ゲイ・カルチャーなどというのは殆ど紹介されていなかった。新訳が必要とされる点の一つだろう。

後に多くの作家が模倣しようとしたといわれるチャンドラーの文体。作家自身、文章を書くことについて、かなり意識的だったにちがいない。次のようなところにその片鱗がうかがえる。

“You're a louse, Wade. Three adjectives, you lousy writer. Can't you even stream-of-consciousness you louse without getting three adjectives for Chrissake?”

清水訳だと「君はいやらしい奴だぞ、ウェイド。いやらしい作家なのだ。」これだけ、である。

村上訳では、さすがに、「お前は最悪だよ。ウェイド。三連の形容詞なんてな、このへぼ作家。お前は内的独白を、三つの形容詞に分散することなく、すんなりまともに書くこともできないのか。へたくそめ。」と、しっかり訳している。「内的独白」などという「意識の流れ」を描く文章法など、ハードボイルド探偵小説の読者に縁のないところは、あっさりと省いてしまうのが清水流。ただ、当時でも欧米のミステリ愛好家は、こういう部分を興味深く読んでいたにちがいない。作家が自分の文章について論じているところを省いてどうするんだ、という作者の声が聞こえてきそうだ。