HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第29章

【銃声のした部屋に入ると、夫妻は拳銃を奪い合っているところだった。弾丸は天井に穴を開けただけで二人は無事だった。マーロウは、発砲を悪夢のせ いにするウェイドに、自殺を試みたが度胸がなかったのだろうと言い放つ。あまりの言葉に腹を立てたアイリーンを部屋に帰らせ、ウェイドを睡眠薬で再び眠ら せたマーロウは、夫人の部屋から誰かを呼ぶ声を聞く。部屋に入ったマーロウを待っていたのは、しどけないアイリーンの姿だった。】

“ The black gleam of a gun shot up into the air, two hands, a large male hand and woman’s small hand were both holding it, neither by the butt. ”

清水訳「くろく光る拳銃が空中にさし上げられ、大きな男の手と小さな女の手がそれを握っていた。」

村上訳「銃の黒いきらめきが宙にあった。そして二つの手のひとつは大きな男の手であり、もうひとつは小振りな女の手だ。同時にひとつの銃を握っている。銃把の方ではない。」

相変わらず清水氏は“ neither by the butt ” を訳していない。“ butt ” は、銃の台尻の部分だから、二人は、銃身部分に近い方を握っていたのだろう。ウェブリーという銃のごつさが分かる。ただ、それを別にすれば、清水訳のテン ポのよさが光る。シナリオ・ライターでもあったチャンドラーの筆法と字幕作者であった清水氏の相性のよさが出ている。村上氏の「そして」は、必要だろう か。「ひとつ」という言葉が三度繰り返されるのも、煩わしい。

アイリーンの部屋の前を通りかかったマーロウに、暗い部屋から誰かの名前を呼ぶ声が聞こえる場面。

“ She called out something that sounded like a name, but it wasn’t mine. ”

清水訳「 だれかの名前を呼んだようだったが、私の名前ではなかった。」

村上訳「彼女は何かを口にした。それは私の名前のように聞こえた。しかし私の名前ではなかった。」

アイリーンが口にしたのは、たしかに名前のように聞こえたのだろう。しかし、マーロウの名ではなかった。村上氏の「それは私の名前のように聞 こえた。しかし私の名前ではなかった」という訳だが、「私の名」という解釈はどこから来るのだろう。そして、それが何をきっかけにして「しかし私の名前で はなかった」という解釈に変わったのだろう。村上訳からはじめの「私」と二番目の「名前」をカットし、「彼女は何かを口にした。それは名前のように聞こえ た。しかし私のではなかった。」とすると原文に近くなる。

アイリーンが部屋に入ってきた男をベッドに誘う場面は、かなり扇情的だ。とくに部屋着の前がはだけるシーンは印象的。村上訳は二種を紹介しよう。

“ Then her hands dropped and jerked at something and the robe she was wearing came open and underneath it she was as naked as September Morn but a darn sight less coy. ”

清水訳「それから、両手が下げられて、何かをひっぱると、部屋着の前がはだけて、その下は九月の朝のように何もまとっていないはだかだった。」

村上訳(上製本)「それから手が下におろされて素早く何かをいじり、着ていたローブの前が開かれた。その下はまったくの裸だった。九月の暁のごとく遮るものもなかったが、その露な眺めには九月の暁の持つはにかみの色はなかった。」

村上訳(軽装版)「それから手が下におろされて素早く何かをいじり、着ていたローブの前が開かれた。その下はまったくの裸だった。『九月の暁』のごとく遮るものもなかったが、絵画にあるようなはにかみの色はなかった。」

実は、最初に読んだときは「九月の暁」の意味しているものに気づかなかった。これは想像だが、村上氏も単行本を上梓した際には気づいておられ なかったのではないだろうか。軽装版を刊行する時点で気がつき、訳に大幅に手が入れられたのではないだろうか。あるいは自分では分かっていたが、このまま では日本の読者に分かり辛かろうと考えられて訳に手が入れられたのかもしれない。

たしかに上製本の訳では、原文でわざわざ大文字になっている“ September Morn ”(九月の暁)が、ポール・シャバ描くところの裸婦像を指していることが分かりにくい。

軽装版のように九月の暁が二重鍵でくくられていれば、固有名詞であることも分かるし、そのあとの「絵画のように」という説明で、それが絵の題名だったこともよく分かる。

『九月の暁』は、けっこう人気のある絵らしく、新聞の複製名画の広告などでよく見かける。湖で水浴びをしている若い女性が恥ずかしそうに前か がみのポーズをとっている絵だ。同じように美しい裸の女性だが、アイリーンには、はにかみが見られなかった、と話者は言いたかったわけだ。清水訳は、この 話者の視点の辛辣さを欠いている。アイリーンの裸を目の当たりにしたマーロウは、競走馬のようにいきり立っていたかもしれないが、視点は同じ人物であって も、語っているのは後日である。落ち着きを取り戻した探偵は、場面を回想する時点で冷静に観察眼を働かせている。こういうことがあるので、村上訳について は、上製本を持っていても、軽装版もしくは文庫版を参照する手間が省けない。