HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第37章

かつての同僚バーニー・オールズは、今では郡警察殺人課の課長補佐になっていた。タフだが、根は人のいい男で、マーロウは心を許している。頭の切れそうな刑事が同行していて実況検分の結果を課長補佐に報告する。自殺の気配が濃厚だが、血中アルコール濃度の具合によっては自殺の線は消えるかもしれないという。マーロウは、所在をはっきりさせることを条件に、家に帰ることを許される。

ローリング博士に無礼だと言われたオールズが返す言葉の中に、“ I’m breeding internally. ” というところがあるが、清水氏は訳していない。村上訳では「胸の中で見えざる血を流しているところです」となっている。

ウェイドの死は自殺なのかどうか。拳銃は血だまりの中に落ちていて指紋が採れない。泥酔していたら他殺の線もある、とオールズは疑うが、部下の刑事は他殺の形跡はなく、自殺の線を崩す要素は見あたらないと言う。ここまでは清水訳と村上訳にちがいはない。ところが、そのあとに村上訳は、かなり長い文が続いている。原文を引く。

“ I expect a high figure on alcoholic concentration. If it’s high enough― ” the man stopped and shrugged meaningly ―“ I might be inclined to doubt suicide. “

村上訳「ただしアルコール濃度はかなりありそうです。もしある程度の濃度を超えているようであれば―」男はそこで言葉を切り、意味ありげに肩をすくめた。「自殺の線は消えるかもしれませんね」 清水訳を読む限り、自殺の線が濃厚になる。どうして、以下の部分を清水氏はカットしているのだろう。ハードボイルドとはいえ、探偵小説である。読者が推理するための手がかりは保障されなければなるまい。

帰りかけるマーロウにオールズは「ひとつ言っておきたいことがある」と切り出す。その言い方を清水氏は「楽しそうに言った」としているが、村上氏は「考え込むような顔をして言った」と訳している。原文は“ Ohls said musingly. ” だ。辞書には「熟考(の)」だとか「黙想(の)」というような訳語が載っている。清水氏は何と思ってこの訳語を選んだのだろう。

マーロウは、警官の車でいっぱいの引き込み道路を迂回して車を出し、家に向かった。その途中。

“ At a turn of the road the walls of two estates came down to the shoulder and a dalk green sheriff’s car was parked there. ”  

 清水訳「街道の曲がり角にダーク・グリーンのシェリフの車がとまっていた」

村上訳「道路の曲がり角に、二つの地所の壁が路肩までせり出している場所があり、ダーク・グリーンの郡警察の車が停まっていた」

清水訳でも特に不都合はないが、村上氏らしい丁寧な訳しぶりがうかがえるところだ。