読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第42章

マーロウは、スペンサーを横に乗せてアイドルヴァレーに向かう。スペンサーは終始無言だったが、サン・フェルナンド・ヴァレーの地表面を覆うスモッグに耐えかねて口を開く。
“ What are they doing ― burning old truck tires? ”
清水訳「いったい、どうしようというんでしょう――トラックのタイヤを焼こうというんですか」
村上訳「いったい何が起こっている?古タイヤでも燃やしているのかね?」
すでにすっかり曇っているのだから、清水氏の「焼こうというんですか」は、おかしい。村上氏にはめずらしく「トラックの」が抜け落ちている。

マーロウが、ウェイド邸のあるアイドル・ヴァレーは海からの風があるから大丈夫だと宥めると、
“ I’m glad they get something besides drunk, ” と嫌味を一くさり。
清水訳「酔っぱらいだけでなく、風も吹くんですか」
村上訳「酔っぱらい以外にも恵まれたものがあそこにあるとわかってなによりだ」
村上訳はいかにも硬い。それに比べると清水訳は軽妙だが、「良かった」の意味を付け加えたほうが、ニュアンスが正しく伝わるのでは。

アイドル・ヴァレーでは休暇旅行に出かけている家が多く、広い芝生にはスプリンクラーが回り、庭師が引き込み道の真ん中にトラックを停めている。村上氏はここでも「車寄せ」と訳しているが、いくらなんでも雇い主が留守だからといって庭仕事をするのにいちいち車寄せにトラックを停める庭師がいるだろうか。

キャンディーは、マーロウを家に入れようとしないし、アイリーンの応対も素っ気ない。しかし、とにかく時間をもらって、マーロウはダヴェンポートの一方に腰を下ろす。スペンサーは夫人寄りの姿勢を崩さない。マーロウの話を聞こうと眼鏡を外すとき、眉根にしわを寄せてみせる。
“ Spencer was frowning, He took his glasses off and polished them. That gave him a chance  to frown more naturally. ”
清水訳「スペンサーは不快そうな表情をうかべて、眼鏡を外し、ハンケチで拭った。」
村上訳「スペンサーは眉をひそめた。そして眼鏡を外して拭いた。おかげでもっと自然に眉をひそめることが可能になった。」
マーロウの視線の辛辣さを村上氏は逃がさない。

第42章は、マーロウがアイリーンを問い詰め、その嘘を見破るという本編中の白眉といえる場面である。小さな異同はあるが、二人の訳に大きな食い違いはない。食い下がるマーロウに根負けして、仕方なく付き合っていたはずのスペンサーが、アイリーンの小さな嘘が見つかるのを境として、次第に尋問口調に変わってゆくところや、はじめは憎々しげな対応を見せていたキャンディーが、「疲れたでしょう、何か飲みますか?」と、自分からサービスを申し出るところなど、攻守ところを代え、攻めに転じたマーロウの探偵としての実力が冴えるところだ。

こだわるようだが、ドライブウェイがもう一箇所登場する。アイリーンがイギリスで結婚した相手であるポール・マーストンがテリー・レノックスその人である、とマーロウがぶち上げたとき、その場を沈黙が支配する。その静寂を表現する文章だ。
“ In the kitchen I could hear water run. Outside on the road I could hear the dull thump of a folded newspaper hit the driveway, then the light inaccurate whistling of a boy wheeling away on his bicycle. ”
清水訳「台所の水の音が聞こえてきた。表のドライブウェイに新聞が投げ出された音がして、自転車に乗った少年が口笛を吹きながら走り去った。」
村上訳「キッチンから蛇口の水音が聞こえた。道路の方から、畳まれた新聞が投げこまれるぱたん(三字分傍点)という鈍い音が耳に届いた。それから自転車で立ち去っていく新聞配達の少年の、軽い不正確な口笛が聞こえた。」

新聞の束が立てる音や、調子っぱずれの口笛について実に正確に写し取ろうとする村上氏がドライブウェイを迂回している。さすがにここはドライブウェイを車寄せとは訳せなかったのだろう。知ってのとおり、アメリカの新聞配達は表通りから勢いをつけて敷地内に放り込んでゆく。車なら「車寄せ」にとめる必然性があるが、新聞をわざわざ車寄せに配達する必要はない。大通りから玄関が見えていれば、玄関扉の下に投げるところだが、ウェイド邸は御屋敷で大通りから私道が設けられている。できるだけ玄関に近い私道の上に放り投げたのだろう。

このあとで、キャンディーが、マーロウに「酒を作ろうか?」とやってくる。「バーボン・オン・ザ・ロックを。ありがとう」という探偵に、「すぐに持ってきます。セニョール」とキャンディーが丁重に返事をする。掌を返したようなキャンディーの従順さが、マーロウへの信頼感を物語っている。旗色が悪くなる一方のアイリーンは、それまで取り繕っていた声音も忘れたのか、機械的な声で語りだす。
“ And when she spoke her voice had the lucid emptiness of that mechanical on the telephone that tells you the time and if you keep on listening, which people don’t because they have no reason to, it will keep on telling you the passing seconds forever, without the slightest change of inflection. ”
清水訳「口をひらくと、その声は時刻を告げる電話の声のように単調で、なんの感情もふくまれていなかった。」
村上訳「そして彼女が口を開いたとき、その声には明るく澄んだ空虚さがあった。時刻を案内する電話局の機械的な声に似ている。もしいつまでも聞き続ける気が人にあるなら――そんな人はまずいるまいが――その声は抑揚をいささかも変化させることなく、毎秒の経過を果てしなく告げ続けるだろう。」

清水訳でも十分理解できるが、アイリーンの中で何かが壊れたことをほのめかす著者の意図を汲めば、あくまで忠実に訳した村上訳の存在は有り難い。ここからアイリーンは堰を切ったように一気にしゃべりだす。抑制がきかなくなったのだ。マーロウはこの瞬間を待っていた。してやったりとスペンサーの方に向かって笑みを漏らすマーロウをチャンドラーはしっかり書いている。
“ I grinned at Spencer. It was some kind of grin, not the cheery kind probably, but I could feel my face doing its best. ”
清水訳「私はスペンサーの方を向いて、唇をゆがめた。苦笑といっていいものかもしれなかった。その場の空気にふさわしくない笑いにならぬようにつとめたことはいうまでもない。」
村上訳「私はスペンサーに笑みを送った。特別な種類の笑みだ。そこにはたぶん喜びは含まれていない。しかし、顔に笑みが浮かぶのはどうしてもとめられなかった。」
ついに、尻尾を出した、という快心の笑みなのだろうが、まだアイリーンにさとられてはいけない。直訳すれば「私は自分の顔が最善を尽くしているのを感じることができた」。この部分の村上訳はうまいと思う。