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HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第43章

いつのまにかキャンディーが、飛び出しナイフを手にカウチのそばに立っていた。話を聞いていたのだろう。マーロウにそれまでの態度を詫びた。何も手を出すな、というマーロウの言葉にしたがい、ナイフをわたす。警察に連絡するべきだというスペンサーを制し、明日にしようと、二人はウェイド邸を後にする。スペンサーをホテルで下ろし、家に帰ったマーロウは明け方まで寝つけなかったが、寝入ったばかりのところを電話で起こされる。キャンディーからだった。アイリーンが死んでいるという。しばらくすると、バーニー・オールズから「すぐ来い」と電話がかかる。


真相を知ったばかりのキャンディーの目に浮かんでいたものとは何か。“ There was a sleek glitter in his eyes. ” を、清水氏は「彼の瞳が不気味に光った」と訳し、村上氏は「瞳には艶のある煌めきがうかがえた」と、文学的な言い回しを使っている。警察でさえ知りえなかった真犯人を探り当てたマーロウをキャンディーは見直した。その目に浮かんでいるものは、おやおや、こいつなかなかやるな、という再評価と自分の売込みだろう。だとすれば、清水氏のいかにもミステリ的な常套句はいただけない。しかし、村上氏の訳もいまひとつ曖昧だ。“ sleek ” には「しゃれた身なりの、スマートな、人あたりのよい」、 “ glitter” には、「きらびやかさ、華麗さ、人目を引くこと、魅力」という意味がある。それまでの敵対的な態度とはうって変わったキャンディーのいかにも人受けのよさそうな愛想のよさがうかがえる訳がほしいところだ。


使用人に対する主人というだけでなく、キャンディーはウェイドという男を好いてもいた。復讐を懸念したマーロウは、キャンディーに下手に動くと危険なことを説き語る。自分の身を案じてくれるマーロウに、キャンディーは心を開いてゆく。“ Nobody trust me, but I trust you, Candy. ”と言ってナイフを返すマーロウに、「 Lo mismo,(お互いに)、セニョール。Muchas gracias(感謝するよ)」と返事するキャンディー。いい場面ではないか。このキャンディーの台詞を清水氏が省略しているのが解せない。


警察に連絡するべきだと主張するスペンサーに対し、マーロウは法律というものは、法律で食ってる奴らのためにあるという詭弁を弄する。マーロウの真意がわからないスペンサーは、今日のパフォーマンスは何だったのかとなじるが、マーロウがそれをしないのは、アイリーンを告発するに足るだけの証拠がないからだ。畑違いのことに口出ししたことを恥じたスペンサーは、マーロウに詫びて車を降りる。そのホテルから車を出す場面。


清水訳では「ブレーキをゆるめると、オールズモビルはカーブからすべり出した」となっている。ホテルの前で下ろしたなら、停車したのは車寄せだろう。わざわざカーブさせているのは変だ。村上訳だと「ブレーキから足を上げると、オールズモビルは白い縁石からするすると離れた」である。そこで、原文を見てみると、該当する箇所は、“ I eased up on the brake and the Olds slid out from the white curb, ” と記されている。ははあん。問題は「カーブ」だな、と気づいた。“ curb ” は「縁石」だが、“ curve ”だと、文字通り曲線の意味の「カーブ」となる。清水氏は、車ということで、連想がはたらき、“ curb ” を「カーブ」とそのままにしてしまったのではないだろうか。その前の「ホワイト」も路面上に引かれた白線を連想させたのかもしれない。


我が家に帰ったマーロウは、部屋の中を歩き回ったり、レコードを何枚もかけたりする。しかし、いっこうに落ち着かない。空気は重く、街の騒音も遠くから聞こえるような夜だった。どこかで時を刻むような規則的な音が聞こえる。しかし、部屋の中ではない。それは自分の頭の中でしているのだ。 “ The ticking was in my head. I was a one-man death watch. ” 村上訳では「私は独歩する死の時計なのだ」と訳されている部分を、清水氏はカットしてしまう。説明的すぎると思われたのだろうか。アイリーンの仕業であるとする証拠は不十分。しかも、当人の精神状態も正常でないとすれば裁判には持ち込めないだろう。マーロウは、正義が為されるために充分力を尽くした。あとは、そのときを待つだけだった。しかし、その時とは、アイリーンが自死を決意することを意味していた。「自力死時計」が「独歩する死の時計」か。村上氏の訳文は、時に文学的に過剰になりがちだ。裁判によらず、人を死に至らしめる自分を自嘲気味に揶揄する言葉なのだから、安っぽい訳の方がぴったりすると思うのだが。


マーロウは、アイリーンの姿を思い出そうと試みる。はじめて会ったとき、二回目、三回目、四回目と。初めて会ったとき、あれほど鮮やかな印象だったものが、回を重ねるたびに薄れていく。原文はこうだ。“ But after that something in her got out of drawing. She no longer seemed quite real. ”  清水訳では「しかし、それから後のことになると、彼女の姿がなんとなくはっきりしなかった。もはや現実のものとは思えないのだった」。村上訳ではこうだ。「しかし、そのあとで彼女の何かが調和を崩した。彼女はもはや血肉のある人間には見えなかった」。


“ out of drawing ” には「不正確に描かれている」という意味がある。その意味では、どちらの訳も分かる。しかし、後半部は清水訳で問題ないのではなかろうか。「血肉のある人間」という言い方には、過分に道徳的義憤が塗せられているように思うのだ。このあとには、どんな殺人者も現実のものとは思えない、という意味の論述が続く。どのような理由であれ、人を殺すような人間はリアルな世界から逸脱している。ただ、それだけのことだ。


眠れぬまま明け方に床に就いたマーロウが、電話で起こされたときの気分を例によって得意のレトリックを使って表現しているところ。先に原文を示す。“ I felt like a half-digested meal eaten in a greasy-spoon joint. ” これを清水氏は「スプーンが脂でべとべとしている店で食べた食事が完全に消化していないような気持ちだった」と訳している。不快感を胃もたれの比喩で表現しているのだろう。村上氏は「安食堂で腹に詰め込まれ、半ば消化された食べ物になったみたいな気分だった」と、訳す。つまり、自分を未消化の食べ物に喩えているのだ。どちらが、ぴったりの気分だろうか。“ greasy-spoon ” は、安食堂を意味する俗語で、清水氏のように直訳しないほうがいいだろう。寝たりない気分を半分だけ消化された食べ物に喩えている村上訳が正解だと思う。


窓の外では庭師が剪定ばさみを動かす音がしていた。チャンドラーには日本人蔑視のきらいがあるが、ここでも、その仕事ぶりに相当な皮肉を利かせている。例によって清水氏が省いた“ ―the way a Japanese gardener trims your tecoma. ” の部分を村上氏は「彼は、いかにも日本人庭師らしいやり方でノウゼンカズラを剪定していた」と、訳している。「いかにも日本人庭師らしいやり方」が、どのようなやり方なのかを表す文章は原文にもない。


キャンディーは、夫人が起きてこないので、二階の窓に梯子をかけて外から覗き、異変に気づいたようだ。その際、“ I break the screen open. ” と、マーロウに語っている。さて、この「スクリーン」だが、清水氏は、「よろい戸」とし、村上氏は「網戸」と訳している。真夏のL.Aのことだ。窓硝子は開いていたにちがいない。キャンディーが破ったのは、よろい戸と網戸のどちらだろう。明るい外部から部屋の中を見て、夫人が死んでいるのに気づくにはルーバー窓越しでは不可能だ。ここはやはり網戸ととるのが理にかなっている。


キャンディーから事情を聞いたマーロウは、ホテルに電話をかけるが、スペンサーはすでにチェックアウトをすませていた。マーロウは台所に行きコーヒーを淹れる。

“ I went out the kitchen to make coffee ― yards of coffee. Rich, strong, bitter, boiling hot, ruthless, depraved. The lifeblood of tired men. ”

清水訳「私は台所へ行って、コーヒーをわかした。濃い、にがいコーヒーをぐらぐらわきたたせた。つかれた人間には血になるのだ。」

村上訳「私はキッチンに行ってコーヒーを作った。大量のコーヒーを。深く強く、火傷しそうなほど熱くて苦く、情けを知らず、心のねじくれたコーヒーを。それはくたびれた男の血液となる。」

たたみかけてくるリズムが、いかにもハードボイルドを感じさせる名調子だ。簡潔な清水調も捨てがたいが、村上訳で読むといちだんと味わいが深まる