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HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第44章

舞台はヘルナンデス警部の部屋。先日とちがっているのは、シェリフが不在であることと時間が昼間であること。部屋にはバーニー・オールズのほかにローリング医師と、地方検事の代理であるローフォードという男がいた。そのローフォードについての記述。

“ a tall gaunt expressionless man whose brother was vaguely rumored to be a boss of the numbers racket in the Central Avenue district .”

清水訳「背の高い無表情な男で、弟がセントラル街で博奕の胴元をやっているという噂があった」
村上訳「ひょろっと背が高く、表情のない男だ。セントラル・アヴェニュー地区でナンバー賭博の元締めをしている兄がいるらしいという噂を耳にしたことがある」

兄なのか弟なのか。こういうとき、英語の“ brother ” だけでは、どっちとも決めかねる。胴元にしろ元締めにしろ、ある程度羽振りがよくなければ務まらない。そんなところから、村上氏は弟よりは兄がふさわしいと考えたのだろうか。

部屋にはもうひとり医師がいた。検屍官のワイズ医師だ。マーロウによるその人物評。

“ He was fat, cheerfull, and looked competent. ”

清水訳「ワイス医師は、見るからに円満そうなふとった男だった」
村上訳「彼は太って、人当たりがよく、有能そうに見えた」
なぜか清水氏は「有能そう」を割愛している。ローリング医師との対比として、ワイズ医師の「有能さ」ははずせないところだろうに。

ワイズ医師によれば、ウェイド夫人の死因は“ narcotic poisoning ” である。清水氏は「麻薬中毒」と、そのまま訳すが、村上氏は「睡眠薬の過剰摂取」と、文脈を生かして意訳している。夫人が飲んだのはローリング医師によって処方されているデメロールという薬であることが分かっている。デメロールについて調べたところ、睡眠薬というよりは鎮痛薬という扱いであるようだ。常用すれば効果が薄れるため、過剰摂取して麻薬中毒に至る恐れもあるという。鎮痛、鎮静に効果があり、副作用に「呼吸緩慢」があることからみて、喘息の発作時に使用するようローリング医師が処方したのだろう。そう考えると、「睡眠薬の過剰摂取」という訳はどうだろう?「睡眠薬」という訳では、ローリング医師の処方の杜撰さがあまり伝わってこない。合成麻薬の大量摂取による中毒死なのだから、ずばり「麻薬中毒」でいいのではないか。

その摂取量について訊かれたワイズ医師は「致死量」と答えながら、診療していないので夫人の「生まれつきの、あるいは後天的な耐性(村上訳)」が分からない、と話すところを清水氏は例によってカットしている。診療履歴をもつローリング医師への当てこすりであることは、その後で、問いかけるようにローリングの方を見ていることからも分かる。くどくなりそうなところはすべからくカットするのが清水流。それで文章にリズム感が出るのはたしかだが、チャンドラーには、しつこいくらい論議を尽くすところも多い。そこはそこで生かしてほしいもの。

ウェイド夫人はスペンサーに宛てて告白書を残していた。その中で通常の致死量の四倍から五倍にあたる量のデメロールを服用したことを明かしている。告白書が発表されれば彼女の死が誤飲用でなく、覚悟の自殺であることがはっきりする。そうなると、自殺の原因が探られ、ウェイドの死が自殺ではなく、彼女による殺人であったことが判明し、警察の判断に誤りがあったことが白日の下に曝される。そう考えたワイズ医師はヘルナンデス警部に尋ねた。

“ You don’t want to suppress the note, Hernandez, for Pete’s  sake? ”

清水訳「まさか告白書を握りつぶすつもりじゃないんでしょうな、ヘルナンデス」
村上訳「なあ、ヘルナンデス、君はまさかその書置きを公表するつもりじゃあるまいな?」

なんと、訳が正反対になっている。ワイズ医師は、どう考えてヘルナンデス警部に問いかけたのだろう。その少し前に「明日になれば、はっきりしたことが分かる」とも言っている。検死の結果、服用量が告白書と一致するかどうかが分かるということだろう。ただ、どちらにせよ「この薬の安全な服用量の範囲というのは、けっこう狭いものだから」告白書がなければ、誤って過剰に摂取したという判断も成り立つ。ヘルナンデスは、どうするつもりなのか。検屍官の立場では、客観的な事実のみが求められるわけで、告白書を公表するかどうかは警部の判断しだいである。” for Pete’s  sake ” という語は、疑問文の後にくるときいらだちの感情を付加する。ワイズ医師としては告白書が明らかになって何かまずいことがあるだろうか?清水訳でまちがいないと思うのだが、村上氏が何を意図してこう訳したのかがいまひとつよく分からない。

訊かれたヘルナンデスは、告白書が発表されると地方検事局はどうなるか、とローフォードに水を向ける。ローフォードは、告白書を信じないし、それがあっても夫人を起訴することは難しい、と応える。初めの自供を信じたから、それと矛盾する自供は信じたくないということか、と食い下がるヘルナンデスに、ローフォードが言う。少し長いが引用すると

“ Any law enforcement agency has to consider public relations. If the papers printed that confession we’d be in trouble. That’s for sure. We’ve got enough eager beaver reformer groups around just waiting for the kind of chance to stick a knife into us. We’ve got a grand jury that’s already jittery about the working-over your vice squad lieutenant got last week―it’s about ten days. ”

清水訳
「法律を扱ってる人間は市民の感情というものを考えなければならないんだ。もし、その告白が新聞に出ると、われわれは困った立場に立たされる。これはまちがいがない。市政改革なんてことを口にしているうるさい連中がわれわれにナイフをつきつける機会をねらってるんだ」

村上訳
「どのような法執行機関にも社会に向けた顔というものがある。もし新聞がこの告白を活字にしたら、我々は面倒を抱え込むことになる。間違いなくな。まわりには改革を求めて血眼になっている団体がうようよいるんだ。隙あらばナイフを突き立てようとてぐすね引いている連中がね。そして我々はすでに、先週おたくの風紀課の警部補が受けた制裁のことで神経を尖らせている大陪審を抱え込んでいる。あれはどうなった?もうそろそろ十日になるじゃないか」

ビッグ・ウィリー・マグーンがメネンデスに手ひどく傷めつけられた件について思い出すように促すローフォードの科白が清水訳にはごっそり抜け落ちている。警察側の不祥事を取引材料に告白書を握りつぶそうという地方検事局の思惑が清水訳からは伝わってこない。松原元信氏は『3冊の「ロング・グッドバイ」を読む』のなかで、このことにふれ、「[村上本]が“丁寧に”というのは、原文に見当たらない“あれはどうなった?もうそろそろ十日になるじゃないか”とツケタシているところ」と書かれているが、引用された原文には“― it’s about ten days ” が欠落している。松原氏が参考にしたのは表紙イラストから見てペンギン・ブックス版だと思うが、もしかしてこの部分がないのだろうか。ブラック・リザード版にはちゃんと書かれているのだが。

ヘルナンデスは地方検事局の顔を立てて告白書を手渡す。ローフォードはそれを胸ポケットにしまうと部屋を出て行った。そのあと。

“ Dr.Weiss stood up. He was tough, good-natured, unimpressed.”

清水訳「ワイス医師が立ち上がった。何もかも心得ているという様子だった」
村上訳「ドクター・ワイスは立ち上がった。彼はタフで、にこやかで、我関せずという顔をしていた」
ここは村上氏のように訳さなくてはいけない。カンマで短く三つに切られたセンテンスは登場シーンのそれと韻を踏むような関係になっているからだ。チャンドラーの文章は、こういったところに手がかかっている。それが独特のリズムを生んでいるのだ。村上氏はさすがによく分かって訳している。

ワイス医師に続いて、ローリング医師が手荒く追い出されたあと、三人の対話となる。これですべてを終わらせようとする警察に対し納得がいかないマーロウは二人を相手に疑問点をぶつけるが、警察側にも言い分がある。オールズが自分たちが知っていることをすべて話す。

警察も馬鹿ではない。ウェイドの死は自殺ではなく、アイリーンの仕業と分かっていた。しかし動機は何か。彼女は夫の様子を探り、事件の現場にも精通していた。自分の男二人を奪った相手を撃ち殺し、酔っ払うと記憶をなくす夫にあることないことを吹き込んだのだ。疑心暗鬼に陥ったウェイドは酒浸りになっていった。そんな時マーロウは雇われた。彼女がマーロウを傍に置いた理由は。

“ In the end I guess she was scared of him. And Wade never threw her down any stairs. ”

清水訳「あの女もしまいにはウェイドが怖くなった。だが、ウェイドはあの女を階段から投げ落としてなんかいない」
村上訳「最後の頃には、女は亭主が口を割ることを恐れていたのだと思う。ウェイドは彼女を階段から突き落としたわけじゃなかった」

“ scared of him ” を村上氏は「亭主が口を割ることを恐れていた」と解釈しているのだが、これはうがちすぎではないだろうか。それに続く、ウェイドが階段から突き落としたのではない、という記述から考えると、ここは単純に、自分のせいで自暴自棄になった夫が怖くなった、と解釈するのが自然だろう。

レノックスがPPK(モーゼルとあるが正しくはワルサー)を持って逃げたのは自分を守るためと考えたアイリーンはマーロウがどこまで知っているのかを探りたかった。そして、罪をなすりつけるカモを探してもいた。マーロウはそれにうってつけだった。彼女がそこまで考えたとは思えないというマーロウに、オールズは持ってた煙草を二つに折って一つを口にもう一方を耳の後ろにはさみながら、男がほしかったのさ、と言う。この煙草は最後の方で再度登場するのだが、清水氏はそこをカットしている。

“ Ohls reached the half cigarettes from behind his ear,looked at as if wondering how it got there, and tossed it over his shoulder. ”

村上訳「オールズは半分になった煙草を耳の後ろから取り出した。どうしてこれがこんなところにあるんだというような不思議な顔をした。そして肩越しに投げ捨てた。」このオールズの煙草といい、ヘルナンデスの輪ゴムといい、チャンドラーは小物の使い方が実に上手い。言葉以上に人物の心理を語らせている。どうして、これをカットしてしまうかなあ。

次の二箇所も清水氏はカットしている。ヘルナンデスがマーロウの言い分を聞いたあとで、それでも警察は「蓋を閉じられた事件をほじくり返したりはしない」というところだ。そのすぐ後の部分。

“ even if there’s no heat on to get it finalized and forgotten. ”

村上訳「たとえその蓋が圧力がらみで閉じられたんじゃない場合でも同じことさ」

もう一つ。告白書の複写をマーロウに読ませた後のヘルナンデスの動作だ。ヘルナンデスはコピーは五通あるといった。しかし、マーロウが数えると六通あった。マーロウはその一通をポケットに忍ばせておいて、残りのコピーを机の上に戻した。暫くして部屋に戻ってきたヘルナンデスはコピーの数を数え、抽斗にしまうのだが、その部分。

“ He sat down behind his desk again, tallied the photostats in the file folder, and put the file back in his desk. ”

清水訳「さっきのようにデスクに坐ると、書類ばさみをひきだし(傍点四字)にしまった」
村上訳「机の向こう側にまた腰を下ろし、ファイル・フォルダーにある書類の数を勘定した。それから机の抽斗にしまった」

ヘルナンデスは、六通あった書類が五通になっていることをちゃんと確認してから、抽斗にしまっている。マーロウが一通盗み取ったことを知っていてやらせているわけだ。わかったか、うまくやれよ、という目配せのようなものだ。カットするようなところではない。これをしっかり訳しておかないから最後のおさえが弱くなるのだ。

“ I went out of the door and got out of the building fast. Once a patsy, always a patsy. ”
清水訳
「私はドアから外に出ると、急いで建物からとび出した。気の弱い人間はいつも気が弱いのだ。」
村上訳
「私はドアを出て、建物を去さっさとあとにした。人間いったんカモと見込まれると、どこまでもカモにされるらしい。」

清水訳だと、マーロウはばれるのが心配で急いでとび出したように読める。そうではない。カモと見込まれたのが自分でも分かっているので早々に退散したいだけだ。ヘルナンデスが追ってこないことはよく分かっている。マーロウは、どんなときでも気が弱い人間などではない。