読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

第48章

家の中で待ち構えていたのは、メンディ・メネンディス。警告を無視したマーロウに報復するための来訪だった。メネンディスはマーロウを三度殴るが、話の途中で相手の隙を突いてマーロウもやり返す。メンディが床に倒れたところでバーニーが登場する。すべては罠だった。警察はマーロウを餌にしてビッグ・ウィリー・マグーン襲撃犯であるメネンディスをおびき寄せ、自白させたかったのだ。ヴェガスのスターとの取り決めどおりメンディをヴェガスのスターのところに送り届けさせると、バーニーは、マーロウに自分がいかに賭博を憎んでいるかを熱く語り始める。マーロウは、それらは必要悪に過ぎないとバーニーを諭す。バーニーが帰ったあと、マーロウはリンダとスターに電話をする。

さんざっぱら傷めつけて気が緩んだのか、メンディはビッグ・ウィリー・マグーンを襲ったわけをマーロウに説いて聞かせる。その部分。
“On account of some lacquered chippie said we used loaded dice. Seems like the bim was one of his sleepy-time gals. I had her put out of the club―with every dime she brought in with her.”
清水訳
「いかさまのさいころを使ったとしゃべった女がいたんだ。奴がいっしょに寝ていた女の一人だろうよ。クラブからお払い箱にした女なんだ」
村上訳
「どっかの酔っぱらった小娘が、俺たちが仕込みをしたサイコロを使っていると抜かしやがったのさ。こいつはどうやらマグーンのいろ(傍点二字)の一人らしかった。この女にはクラブから丁重にお引き取りを願ったよ。すった金はそっくりお返ししてな」
最後のところをいつものように清水氏は訳していない。清水訳だと、お払い箱にされたのを恨んでの仕儀ともとれる。
「気持ちは分かる」と、マーロウは一応同意する。プロはそんないかさまはしない。なぜなら、“He doesn’t have to.”(村上訳「わざわざインチキをするまでもないからな」)。プロが仕切る賭場では初めから胴元が勝つようにできているからだ。この部分も清水氏は訳していない。傷めつけられながらもマーロウは、メネンディスに畳み掛けていく。何故、こんなことをする必要があるのか、と。さんざ殴られていながら減らず口をやめないマーロウに、メネンディスは次第に激昂してゆく。
“I ought to use a knife on you, cheapie. I ought to cut you into slices of raw meat.”
清水訳「ナイフを使うんだったよ。チンピラ。こまぎり(傍点四字)にしてやるところだった」
村上訳「こうなればナイフを使わせてもらうぜ、はんちく。お前をずたずたの細切り肉にしてやる」
メネンディスは、ナイフを使わなかったことを悔いているのだろうか?それともこれから使おうというのだろうか。“ought to”(~すべき)を重ねて使っているところからは、清水訳の方が雰囲気が出ているのだが、後半がいけない。口癖の“cheapie”を生かして、「ナイフを使うんだったよ、半端者のお前には細切り肉がお似合いだ」なんていうのはどうだろう。余談になるが、村上氏の「はんちく」が、どうにも気になってならない。江戸落語の世界でもあるまいし、わざわざ新しくした訳で、ほとんど死語と化した「はんちく」は考えものだ。根っからの東京生まれ、東京育ちでもない氏が、この語を採用した理由が、どうにもよく分からない。
頭にきたメネンディスは、力いっぱい腕を引いてマーロウを倒しにかかる、バック・スィングの大きいところが狙い目だった。マーロウはすかさず半歩前に踏み出し、相手の鳩尾に蹴りを入れる。とっさの判断だった。マーロウはあとから振り返ってこう言う。
“I was a little punch drunk by this time.”
清水訳「どうにも我慢ができなくなったのだ」
村上訳「何度も殴られたおかげで、頭がちょっとおかしくなっていたのかもしれない」
原文にあるようにパンチドランカーの状態だったのかもしれない。ジャックナイフのように身体を二つ折りにして、床に落ちた拳銃を探すメネンディスの顔面に再び蹴りを入れたところで、椅子に腰掛けていた男が笑い声をあげた。その後。
“The man in the chair laughed. That staggered me.”
清水訳「次の行動に移ろうとしていた私の足がよろめいた」
村上訳「その笑い声が私をたじろがせた」
stagger” には、「よろめく」、「たじろぐ」のどちらの意味もある。さて、どちらがいいのだろう。メネンディスは倒したが、まだ三人残っている。そのうちの一人が飛びかかってくるのではなく、笑い声を上げるとは、マーロウでなくてもいぶかしい思いが生じる。次の行動に移ろうとする、その一瞬間があいた。ここは躊躇の意と採りたい。

男は立ち上がり、「その男は殺すな」と命じる。生餌として使いたいのだ、と。ホールの影から現われたバーニーは、床に伸びているメネンディスを見下ろし、ばかにしたようにつぶやく。
“Soft,” Ohls said.“Soft as mush.”
清水訳「意気地がないな」と、オールズはいった。「からっきし意気地がない」
村上訳「やわだねえ」とオールズは言った。「からっきしやわだ」
マーロウは即座にそれを否定する。
“He’s not soft,” I said. “He is hurt. Any man can be hurt. Was Big Willie Magoon soft?”
清水訳
「意気地がないんじゃないよ」と、私はいった。「油断してたからさ。だれだって、うっかりしていることはあるんだ。ウィリー・マグーンは意気地のない男じゃなかったろう」
村上訳
「やわな男じゃない」と私は言った。「痛めつけられただけだ。どんな人間だって痛めつけられるときはある。ビッグ・ウィリー・マグーンはやわだったか?」
マーロウがメネンディスを倒すことができたのは、微妙な心理上の駆け引きがあってのことだ。結果だけ見て傍観者から対戦相手の戦闘力をそしられるのは我慢がならない。まして相手が警官とあってはなおさらだ。マーロウの微妙な心理が顔をのぞかしている。逐語訳としては村上訳が正しいのだろうが、主人公の心情をうかがわせるという点からは、清水訳のほうが読みごたえがある。清水氏の訳には、こうしたところが多々あって、村上氏の新訳が出た今となっても、旧訳の良さを上げる声が絶えないのだ。

オールズに「お前ははめられたんだ」と言われたメネンディスは、その意味を確かめずにいられない。すべて、スターの書いた筋書き通りに運んだことを知ったメネンディスは悪びれず、退場する。
“God help Nevada,” Mendy said quietly, looking around again at the tough Mex by the door. Then he crossed himself quickly and walked out of the front door.
清水訳
ネヴァダか」と、もう一度ふりかえってドアのそばのメキシコ人を見ながら、メンディはいった。それから、覚悟をきめたように入り口から出て行った。
村上訳
ネヴァダに神の恵みあれ」、戸口に立ったタフなメキシコ人の方を見てから、メンディーは静かな声で言った。そして素早く十字を切り、玄関から出て行った。
多民族国家である合衆国では、民族によって宗教が異なる。WASPのマーロウにはメンディの仕種が異化されて目に映る。ヒスパニック系らしく、メンディはカトリック信者なのだろう。それまでのふてぶてしさが消え、死を前にした男の諦念が伝わってくる。村上訳からはそのあたりがよく伝わってくる。信仰心に無縁な日本人には煩わしいと見てか、清水氏は「覚悟を決め」と意訳している。

どう見ても警官には見えない男たちにメネンディスを護送させることに懸念を抱くマーロウは、バーニーを冷血漢だとなじる。清水氏は、例によって最後のところをカットしている。
“Nice work, Bernie. Very nice. Think he’ll get to Vegas alive, you coldhearted son of bitch?”
清水訳
「みごとだったぜ、バーニー、りっぱなもんだ。だが、ヴェガスへ生きて着けると思っているのか」
村上訳
「見事だよ、バーニー、感服のほかはないね。あいつが生きてヴェガスにたどり着けると思っているのか? まったく血も涙もないやつだ」
バーニーは、「この次は警察を出し抜こうなんて考えるんじゃないぜ」と言いながら、わざと写真複写を盗ませたことが、メンディーをおびき寄せる計画の一部だったことを明かす。そして、ヴェガスのラッキー・スターには、了承を得ていることも。
“We put it up to Starr cold.”
清水訳「スターに事情をあかして、応援を頼んだ」
村上訳「スターには前もって釘を刺しておいた」
この後にくるのが、スターの賭博行為に関する脅しのようなものだから、「事情を明かし、応援を頼」むのは、おかしい。逐語訳なら「冷静に対処するよう提案する」というところだから、村上訳が近い。
賭博からのあがりに文句がついてはかなわないと見たスターは、メンディから腕の立つ三人の調達を頼まれたとき、
“Starr sent him three guys he knew, in one of his own cars, at his own expence.”
清水訳「あいつら三人をよこしたわけだ」
村上訳「スターは自分の配下の三人を送り込んだ。自分の車を使わせ、費用も自分で出した」
スターの気前のいい協力振りについて、清水訳は素っ気ない。このあとで、マーロウが警察のやり方の汚さについてバーニーをなじる際、効いてくるところだと思うのだが。その悪口。
“Cop business is wonderful uplifting idealistic work, Bernie. The only thing wrong with cop business is the cops that are in it. ”
清水訳
「警官のやることはりっぱだよ、バーニー。おれのきらいな警官がやることとは思えないぜ」
村上訳
「警察の仕事は文句のつけようもなく見事で、高邁で、理想にあふれているよ。警察について唯一気に入らないのは、そこで仕事をしている警官だけだ」
マーロウという男は、皮肉や嫌味を言うとき最も能弁になる。それを聞かせないのは惜しいと思うのだが、清水氏はばっさばっさと切り捨てて顧みない。これでは、新訳のひとつもひねり出そうという人間が出てきても不思議ではない。二つの訳を参照しながら、ああでもない、こうでもないと考えるのは実に愉快だ。
そうまで言われては、バーニーとしても一言いっておきたい。
“Too bad for you,hero,” he said with a sudden cold savagery.
清水訳 「大きにすまなかったな」と、彼はいった。
村上訳 「どうだ、つっぱって生きるのも楽じゃなかろう」と彼は言った。声が唐突に冷たく惨忍なものに変わった。
バーニーの声音の変化は見過ごせない。汚い仕事だと分かってやっているのだ。かつての同僚とはいえ、民間人を囮にして、警官に無礼を働いたギャングに罰を与えようという目論見が誉められたものじゃないことは自分でもよく分かっている。だから、声の響きが残忍さを帯びるのだ。前半の訳はめずらしく村上氏の方が意訳を試みている。「我らがヒーローには、大変申し訳ないことをした」といったところか。それに続くバーニーの言い訳を聞いたマーロウの言葉の取り扱いも同じだ。
“So sorry,” I said. “So very sorry you had to suffer like that.”
清水訳 「それは気の毒だったな」と、私はいった。
村上訳 「嬉しくて泣けてくるね」と私は言った。「さぞや心が痛んだことだろうぜ」
やはり、後ろ半分を清水氏は訳し残している。くどいのが嫌いなのだ。しかし、ここでも、このマーロウの執拗な嫌味口調がバーニーの本音を引き出す役目を務めているのはまちがえようがない。
このあと、バーニーの博奕打ちに対する嫌悪感が爆発する。長くなるので一部を引用する。
“There’s only one way a jok can win a race, but there’s twenty ways he can lose one, with a steward at every eight pole watching, and not able to do a damn thing about if the jok knows his stuff.”
清水訳
「競馬ファンが勝つ方法は一つしかないが、ファンの虎の子の一ドルをあっというまにまきあげる方法はいくつあるかわからない。八分の一ごとの距離に監視員が見張っていて、いんちき(傍点四字)であることがわかっていても、どうすることもできないんだ」
村上訳
「騎手がレースに勝つ方法はひとつしかないが、勝つまいと思えば方法は二十くらいある。レース・トラックでは八本のポールごとに監視員が立って目をこらしている。しかし、心得のある騎手にかかったら、監視員なんて手も足もでないのさ」
八百長の仕組みについて触れているところだが、「騎手が」という村上訳のほうがよく分かる。
バーニーの長広舌を聞き終わったマーロウは、ひと言「気持ちはおさまったか?」と訊く。それに対してバーニーは「おれは年をくってくたびれた、ぽんこつの警官なんだ。気持ちなんておさまるもんか」と返す。マーロウは、こういって慰める。
“You’re a damn good cop, Bernie, but just the same you’re all wet.”
清水訳「君はりっぱな警官だよ、バーニー。ただ、むかっ腹(傍点四字)を立てすぎるんだ」
村上訳「君は見上げた警官だよ、バーニー。しかし同時にいささか感傷的に過ぎる」
多くの警官がそうだが、といいながらマーロウは自説をぶつ。庶民のなけなしの金を巻き上げる賭博組織に腹を立てるバーニーは、マーロウから見るといささか「ウェット」にすぎる。マーロウの意見はプラグマティックなものだ。賭博でする奴が出るなら賭博を禁止すればいい。酔っぱらいがいけないなら酒を禁止すればいい、というもので、バーニーのような古株の警官にはとりつく島がない。つい“Aw shut up” と言ってしまう。そこをまた、マーロウに突かれて、「ほら、すぐに黙れとくるんだ」とやり返される。マーロウ曰く。
“We don’t have mobs and crime syndicates and goon squads because we have crooked politicians abd their stooges in the City Hall and the legislatures.”
村上訳(清水氏はこの部分を訳していない)
「ギャングや犯罪組織ややくざ連中がこうしてのさばっているのは、何も悪徳に染まった政治家がいて、そいつらの手先が市役所や議会に散らばっているからじゃない」
「犯罪は病気そのものじゃない。ただの症状なんだ。警官というのは脳腫瘍の患者にアスピリンを与える医者のようなものだ」と、見事な持論を開陳するマーロウ。この国の刑事ドラマを見ていると、どこかに悪の親玉がいて、そいつさえやっつければ、すべてうまくいくような話が横行しているが、さすがはチャンドラー、である。「組織犯罪は強い力を持つアメリカ・ドルの汚い側面なんだよ」と、バーニーに説いて聞かせるマーロウの醒めた意識。圧巻である。「きれいな面はどこにある」と訊ねるバーニーに、「まだ見たことはない。ハーラン・ポッターに訊けば教えてくれるよ。どうだ一杯やらないか」で、仲直りとなる。このあと、リンダとの電話での会話があるのだが、続きはまた次章で。