HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』第4章(7)

<私は立ち上がり、帽子にちょっと触って金髪女に挨拶すると、男の後を追って外に出た。彼は西の方に歩いていた。右の靴の上でステッキが小さく正確な孤を描いてゆれていた。尾行するのは簡単だった。上着はかなり派手で、まるで馬にかける毛布であつらえたようだったし、広い肩幅の上に突き出したセロリの茎のような首の上で、歩くに連れて頭がひょこひょこ揺れていた。私たちは一ブロック半ほど進んだ。ハイランド・アヴェニューの交通信号のところで追いつき、私が分かるように隣に立った。彼は何気なく私の方を向いたとたん鋭い横目になり、急にそっぽを向いた。私たちは青信号でハイランド・アヴェニューをわたり、もう一ブロック歩いた。彼は長い脚をいっぱいに広げることで、曲がり角に着いたとき私より二十ヤード先にいた。彼は右に折れた。百フィートほど丘を上って立ちどまり、ステッキを腕にひっかけ、内ポケットにある革製のシガレット・ケースを手探りした。煙草を唇にくわえ、マッチを落とした。彼がマッチを拾い上げようとしたとき、角を曲がり終えた私が窺っているのを見て、まるで後ろから蹴りを入れられた人のようにびくっと体を立てた。彼はほとんど土埃を巻き上げそうな勢いでブロックをぎごちない大股で歩きながら歩道にステッキを突き出していた。彼は再び左に折れた。その曲がり角についた時、男は少なくとも半ブロック私より先にいた。私は息があがっていた。そこは狭い並木通りで片側は擁壁になっており、反対側は三軒のバンガロー風の家が建つ宅地になっていた。

男は消えていた。私はあちこちぶらつきながら目をこらした。二軒目のバンガローの庭で何かを見つけた。そこは「ラ・ババ」と呼ばれる、木陰に二列のバンガローが並ぶひっそりと薄暗い場所だった。中央の歩道には短く刈り込まれてずんぐりした糸杉が並んでいた。なにやら「アリババと四十人の盗賊」に出てくる油壺のような形だ。三つ目の壷の後ろで派手な袖が動くのが見えた。

私は遊歩道の胡椒木によりかかり、待った。山裾の開けた辺りでまた雷が鳴るのが聞こえた。稲妻がぎらり、と南の方に厚く張り出した黒雲に反射した。数滴の雨粒がためらいがちに歩道を叩き、五セント硬貨ほどの跡をつけた。大気はスターンウッド将軍邸の温室内のそれと同じようにじっと静止していた。

木の後ろにあの袖がまた見えた。そのあとから大きな鼻と片方の眼と薄茶色の髪が現われた。帽子はかぶっていない。眼はじっと私を見つめていた。それが消えた。それがまるで啄木鳥のように木の反対側に再び現われた。五分が過ぎた。男はどうしようもなくなった。彼のようなタイプは神経戦に長く耐えられない。マッチを擦る音が聞こえ、口笛がはじまった。やがておぼろげな影が芝生伝いに次の木の陰へと滑りこんだ。そして彼は歩道に出て真っ直ぐ私のほうに向かってやってきた。ステッキを振り、口笛を吹きながら。口笛は調子がはずれ、落ち着きがなかった。《私はただぼんやりと暗い空を見上げていた。》彼は私から十フィートの距離のところを通り過ぎたが、こちらをちいらりとも見なかった。彼はいまや危機を脱した。あれは捨てたのだ。

私は彼が視界から去るのを見届けると「ラ・ババ」の中央を通る歩道まで行き、三番目の糸杉の枝をかきわけた。包装紙でくるまれた本を抜き出し、小腋に抱え、その場から立ち去った。誰も私を怒鳴ったりしなかった。>

 

マーロウによる尾行の詳細。微細な点しか違いがない。たとえば、村上氏はなぜか「シガレット・ケース」の材質を訳していない。原文には"leather”の一語があるのに、だ。もしかしたら原テクストが異なるのかもしれないが、厳密すぎるほど忠実に訳そうとする氏らしくない。単なる見逃しだったらちょっと愉快なのだが。

降り始めた雨が舗道に染みをつけた。その大きさを原文は"nickels”と表している。五セント玉のことだ。これを双葉氏の本は「五センチ玉」とやってしまっている。単なる誤植だろう。雹でもあるまいに、いくらなんでも五センチ大の雨粒の跡は大きすぎる。

双葉氏の訳にめずらしく一文丸ごとカットしている箇所がある。拙訳中、《 》をつけた部分だ。原文は”I stared vaguely up at the dark sky.”知らぬ顔を決め込んで、すっとぼけて空を見上げる探偵の姿は、こちらを一瞥さえしない男の態度と好一対。ここを訳さないという手はない。これも凡ミスだろうか。

あまり大きな違いはないと書いたが、小さなちがいなら無数にある。ひとつだけ例を挙げておこう。”bungalow”は、そのまま訳したら「バンガロー」で通じる。双葉氏はそう訳している。ところが、日本でバンガローといわれて思い出すのは、よくキャンプ場にある山小屋風の小さな建物だ。アメリカでは、あの手のものは「コテージ」と呼び、バンガローというのは、バルコニー付きの平屋住宅を指すようだ。村上氏は最初に「バンガロー式の家」と書いておき、次からは「平屋建て住宅」と親切に訳し替えている。同じ言葉が、英国と米国で意味が異なることはしばしばある。まして日本とアメリカならなおさらのこと。よく知っていると思われる単語でも辞書で確認する習慣をつけたいものだ。いうまでもないことだが、これは単なる自戒である。