HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』第五章(2)

《私は財布を開き、裏蓋に留めたバッジがよく見えるように女の机の上に置いた。彼女はそれを見て、眼鏡をはずすと椅子の背にもたれた。私は財布を元に戻した。彼女は知的なユダヤ人らしい洗練された顔をしていた。私をじっと見つめ、何も言わなかった。

 私は言った。「ちょっといいかな?つまらないことなんだが」

「さあ、何のことでしょう?」、彼女は滑らかなハスキーヴォイスで言った。

「通りの向こう側にあるガイガーの店を知ってるだろう。二ブロック西の」

「前を通り過ぎたことはあるでしょうね」

「あれは本屋だ」と私は言った。「君向きの本屋じゃない。ご承知の通り」

 彼女は微かに唇を曲げたが、何も言わなかった。

「ガイガーを見かけたことはある?」と、私は尋ねた。

「すみません。私はガイガーさんを知らないので」

「それじゃ、彼がどんな人かも教えられないということ?」

 彼女の唇はもう少し曲げられた。「どうして私がそうしないといけないの?」

「理由は全然ない。君がそうしたくなければ、無理にしゃべらせることはできない」

 彼女は仕切扉の向こうに目をやり、また椅子の背にもたれかかった。「あれは郡保安官のバッジね。ちがった?」

「肩書上の保安官補。何の意味もない。安葉巻くらいの値打ちさ」

「そう」、彼女は煙草の箱に手を伸ばし、振り出した一本を唇でくわえて抜き出した。私はマッチをつけて差し出した。彼女は礼を言ってまた椅子の背にもたれかかると、煙越しに私を見つめた。そして注意深く言った。

「あなたは彼がどんな人かを知りたい。でも、彼と会って話したくはないというわけ?」

「彼はいないんだ」と、私は言った。

「そのうち帰ってくるでしょう。どっちみち彼の店なんだし」

「今はまだ会って話をしたくないんだ」と、私は言った。

 彼女は開いた扉を通してまた外を見た。私は言った。

稀覯本については詳しいかい?」

「試してみたら?」

「『ベン・ハー』は置いてるかな、1860年の第三版、116ページに重複した行のあるやつだ」

 彼女は黄色の法律書を脇に押しやり、机の上の分厚い本に手を伸ばし、ページを繰った。その個所を見つけ、調べた。「どこにも置いてないでしょうね」、彼女は顔も上げずに言った。「そんなものは存在しません」

「その通り」

「何がしたいわけ?」

「ガイガーの店の女の子は知らなかったよ」

 彼女は私を見上げた。「そう。面白いわね。まあ、何となくだけど」

「私は私立探偵で、ある事件を調べている。質問が多すぎるのかもしれない。自分ではそれほどだとは思ってないんだが」

 彼女は柔らかな灰色の煙の輪を吹いて、中に指を入れた。それは崩れ、かすかにたなびく欠片になった。彼女は取るに足らないことでも話すように、すらすらとしゃべり出した。

「四十代初め、私の見るところでは。中背で太り気味。体重およそ160ポンド。丸顔にチャーリー・チャン風の口ひげ。太くて柔らかそうな首。すべてにおいて柔らかいの。身だしなみはよく、外出時は無帽。骨董に造詣が深いふりをしているけど実は全然。ああ、そうだった。左目は義眼ね」

「君はいい警官になれるよ」と、私は言った。

 彼女は参考書を机の端にある開架の書棚に返すと、前に置いてある法律書をまた開いた。「なりたくなんかない」と、彼女は言った。そして眼鏡をかけた。

 私は彼女に礼を言って出た。雨が降りだしていた。私は包装された本を脇の下に抱え、駆け出した。車は大通りにあるガイガーの店のほとんど真向かいになる脇道に停めていた。そこに着くまでにぐっしょり濡れてしまった。車の中に転がり込むと両側の窓を閉め、ハンカチで包みを拭いた。それから包みを開けた。

 もちろん私はそれが何なのか、おおよその見当はついていた。堅牢な綴じによる持ち重りのする本、上質紙に手組み活字で美麗に印刷されている。全ページにわたる多量の芸術写真。写真も本文も同じくらい言いようもないほど猥褻だった。新本ではない。表見返しに日付のスタンプが押してある。貸出しと返却の日付。貸本だ。手の込んだ猥褻本の貸本屋

 私は本を新しく包装し直し,シートの後部にしまって鍵をかけた。こんな商売が大通りに店を開いているのだ。目こぼしの見返りがあるに決まっている。私はそこに座り、煙草の煙に毒されつつ雨音を聞き、そのことを考えていた。》(拙訳)

 

第五章の残りの部分についてはあまり大きな異同はない。強いてあげるなら、「ガイガーの店の女の子は知らなかったよ」以降か。双葉氏はここを「ガイガーの店の娘もわからなかったよ」と訳している。原文は<The girl in Geiger’s store didn’t know that.>で、どこにも「も」を意味する言葉は入っていない。

 

ガイガーの店の娘は貸本屋の店番のようなもので、本の知識は必要がない。対して、知的な風貌のユダヤ女性は、眼鏡をかけて法律書を読んでいる。必要とあらば、参考文献を引くこともできる。チャンドラーが二人を対比的に書いていることは文章から分かる。双葉氏の訳では、ユダヤ女性に対して失礼だろう。

 

また、それに対する女性の返事。「そう。面白いわね。まあ、何となくだけど」も、双葉氏は「わかりましたわ。あなたおもしろい方ですのね。なんとなくですけど」と訳している。村上氏は「なるほど。話は面白くなってきたわ。漠然とではあるにせよ」だ。原文は<I see. You interest me. Rather vaguely.>というシンプルな文章だ。直訳すれば「あなたは私を面白がらせる」を、双葉氏はマーロウの人柄ないし話術と取っているのに対し、村上氏は女性がマーロウのやろうとしたことを理解し、話の展開に興味を覚えたことを意味している。知的な女性という表現や、その後の彼女の態度の豹変から、村上氏の解釈でいいと思うが、どちらも訳文がくどい気がする。あっさりと訳してみた。

 

それに続く「私は私立探偵で、ある事件を調べている。質問が多すぎるのかもしれない。自分ではそれほどだとは思ってないんだが」の最後の文。原文は<It didn’t seem much to me somehow.>だが、双葉氏はここを「僕はある事件をいじってる私立探偵だ。すこしききすぎたかもしれないが、僕にはまるで役に立たなかったわけだ」としている。村上訳は「私は私立探偵で、ある件で調査をしている。仕事柄つい質問しすぎてしまうのかもしれない。自分ではそんなに多くを求めているつもりはないんだが」だ。

 

双葉氏の訳では、マーロウは役に立たない質問をしたことになる。前もって稀覯本について仕入れた知識は何だったのだろう。ここは単なる言葉の問題というより、文意を取り違えていることからくる誤訳だと思う。ガイガーの店がちゃんとした書店かどうかを試すための質問である。多すぎるわけではないのだ。現に二つ目の店では質問は一つで済んでいる。