HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十七章(2)

《私は彼に触れなかった。近づきもしなかった。彼は氷のように冷たく、板のように硬くなっているにちがいない。 

 黒い蝋燭の炎が開いたドアからのすきま風で揺らめいた。融けた蝋の黒い滴がその脇にゆっくり垂れていた。部屋の空気はひどく不快で非現実的だった。私は部屋を出てドアを閉めると居間に戻った。青年は動いていなかった。私は立ったままでサイレンを聞いていた。アグネスがどれくらい早く警察に話したか、何を言ったか、それが問題のすべてだ。もし、彼女がガイガーのことを話していたら、警察は数分後ここに来ているだろう。しかし、彼女は何時間も口を割らないかもしれない。もしかしたら逃げたかもしれない。

 私は青年を見下ろした。「座りたいか、坊や?」

 彼は目を閉じて眠っているふりをした。私は机まで歩いて行ってマルベリー色の電話機をとりあげ、バーニー・オールズのオフィスにかけた。彼は六時に家に帰っていた。私は彼の家の方にかけた。彼はそこにいた。

「マーロウだが」私は言った。「今朝、君のところの警官たちはオーウェン・テイラーのリヴォルヴァーを見つけたかい?」

 私は彼が咳払いをし、自分の声から驚きを消そうとしているのが分かった。「それは警察発表の見出しに出るだろう」彼は言った。

「もし見つけていたら、三発の空薬莢が入ってたはずだ」 

「どうしてそれを知ってるんだ?」オールズは静かに訊いた。

「ラヴァーン・テラスの7244番地に来いよ。ローレル・キャニオン大通りの外れだ。弾がどこに行ったか教えてやるよ」

「そういうことなのか?おい」

「そういうことだ」

 オールズは言った。「窓の外を見ていろ。俺が角を曲がってくるのが見えるようにな。お前はこの件でいささか隠し立てしてると俺は見てる」

「隠し立てというのはちがうな」私は言った。》

 

新旧訳とも、ほぼ同じ意味の訳になっている。最後のところ、「お前はこの件でいささか隠し立てしてると俺は見てる」は<I thought you acted a little cagey on that one.>。ここを双葉氏は「どうもこの件じゃ君はインチキくさいぞ」。村上氏は「この件に関しちゃ、おまえさんいささか隠しごとをしてくれたようだな」と訳している。<cagey>は「注意深い、慎重な、抜け目のない、自分の意見を表に出さない」などの意味を持つ。ここをどう訳すかで、次のマーロウの台詞が変わってくる。

 

「隠し立てというのはちがうな」は<Cagey is not word for it.>。双葉氏は「インチキなんて形容は当たらんよ」。村上氏は「隠しごと(傍点四字)という表現は穏やかすぎるかもな」と一歩踏み込んだ訳になっている。十八章における二人の話し合いによって、ここの訳も変わってくるかもしれない。