HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十八章(1)

《オールズは立ったまま青年を見下ろしていた。青年は壁に横向きにもたれてカウチに座っていた。オールズは黙って彼を見た。オールズの青白い眉は密生した剛毛が丸くなっていて、ブラシ会社の営業員がくれる小さな野菜用のブラシみたいだった。

 彼は青年に訊いた。「ブロディを撃ったことは認めるんだな?」

 青年はくぐもった声でお気に入りの三語の悪態を言った。

 オールズはため息をついて私を見た。私は言った。「彼はそれを認める必要はない。彼の銃は私が持っている」

 オールズが言った。「こんな悪態をつかれるたびに毎回一ドルもらえたら、と俺は神に願うよ。そんなことの何が面白いんだ?」

「面白くて言ってるんじゃないんだ」私は言った。

「なるほど、そいつはすごい」オールズは言った。彼は顔をそむけた。

「俺はワイルドに電話しといた。このお稚児さんを連れて行こう。彼は俺の車で行けるから、君は後からついてきてくれ。俺の顔を蹴ろうとするかもしれないからな」

「寝室にあるものはお気に召したかな?」

「大いに気に入ったね」オールズが言った。「俺はテイラーが桟橋で死んだことが嬉しい。あんな鼻つまみを殺したことで死刑囚監房に送る手助けをしたくはないからな」

 私は小さな寝室に引き返して黒い蝋燭を吹き消し、あとは煙の立つにまかせた。居間に戻ったときオールズは青年を立たせていた。青年は立ったまま鋭い目つきで彼をにらんでいた。その顔はこわばって白く、まるで冷えた羊肉の脂身のようだった。

 「さあ、行こう」オールズはそう言うと、触るのが嫌だとでもいうように彼の腕をとった。私はスタンドを消してから彼らの後を追って家の外に出た。我々は各々の車に乗り込み、私はオールズの二対のテール・ライトの後を追って長く曲がりくねった坂を下った。これがラヴァーン・テラスへの最後の旅になればいいが、と願いながら。

 地方検事のタガート・ワイルドは四番街ラファイエット・パーク通りの角に住んでいた。電車の車庫ほどの大きさの白い木造家屋で、片側に赤い砂岩で屋根付きの車寄せが建て増しされていた。その前に二エーカーほどのなだらかな起伏を見せる芝生が広がっている。よくある旧式の頑丈な建築で、街が西に向けて発展していた時代、まるごと新しい場所に移築したものだ。ワイルドはロサンジェルスの旧家の出で、おそらくその家がウェスト・アダムズかフィゲロア、あるいはセント・ジェームズ・パークあたりに建っていた頃に生まれたのだろう。

 車回しにはすでに二台の車が停まっていた。大きな私用のセダンと警察の車だった。制服姿の運転手が警察車両のリア・フェンダーに凭れて煙草を吸いながら月に見とれていた。オールズが近づいて話しかけると、運転手はオールズの車の中にいる青年をのぞき込んだ。

 我々は階段を上り呼鈴を鳴らした。艶々した金髪の男がドアを開けて廊下を通り、一段低くなった広々とした居間に我々を案内した。そこには重苦しく暗い色調の家具がぎっしりと並んでいた。そして別の廊下に沿って一番端まで行くと、彼はドアをノックして中に入り、ドアを大きく開けて支えた。我々は鏡板張りの書斎に入った。開いたフレンチ・ドアの向こうには暗い庭園と怪しげな樹々が見えた。窓から湿った土と花の香りが漂ってきた。壁には大きくてぼんやりとした油絵が何枚か掛けられ、安楽椅子があり、書物が並び、上質な葉巻の煙のいい匂いがしていた。その香りには湿った土と花の香りがブレンドされていた。》

 

「青年は壁に横向きにもたれてカウチに座っていた」は<The boy sat on the couch leaning sideways against the wall.>。双葉氏はなぜか「カウチ」をトバして「若者は横ずわりに壁へもたれかかっていた」とやっている。村上氏は「青年はソファに座って横を向き、壁を見ていた」だ。カウチもダヴェンポートも、ソファにしてしまったら青年がどの椅子に座っているのかが分からなくなってしまう。

 

カウチは片側に背もたれがついた休憩用の寝椅子。もうそのまま「カウチ」で通用しそうなものだが。ちなみにカウチには通常の背凭れがついていないから、青年は壁にもたれているので、双葉氏の訳はその意味では正しい。横を向いているのは、後ろ手に手錠を掛けられているからだ。村上氏の訳では拗ねて横を向いているように見える。

 

「オールズは黙って彼を見た。オールズの青白い眉は密生した剛毛が丸くなっていて、ブラシ会社の営業員がくれる小さな野菜用のブラシみたいだった」は要注意だ。原文は一文で<Ohls looked at him silently, his pale eyeblows bristling and stiff and round like the littlr vegitable brushes the Fuller Brush man gives away.>だ。

 

双葉氏は「オウルズは黙ってその眉毛をながめた。フラア・ブラシ製造会社の売り子も顔負けする小さな野菜用ブラシみたいに、密生した剛(こわ)い丸い眉毛だ」とやってしまっている。口の利き方はともかく、顔は超美形の青年の眉がブラシみたいではおかしい。<him>と<his>がカンマをはさんで並んでいるので、日本語に訳すと「彼を」、「彼の」になって、同一人物を指すように思えるのがまちがいの始まりだ。

 

一文は一文で訳すという原則を破ると、こういうミスが起きる。第九章にオールズの容貌について「彼は中背の金髪の男でごわごわした白い眉と穏やかな目、よく手入れされた歯をしていた」という記述がある。双葉氏はこれを忘れていたのだろう。もう一つ<give away>だが、「与える」という通常の意味とは別に、「販売促進用の景品(米)」の意味がある。村上氏は「オールズの青白い眉毛はごわごわと円形に密集し、ブラシ会社のセールスマンがおまけにくれる野菜掃除用の小型ブラシみたいに見えた」と訳している。

 

やはり、思っていた通り、また「お気に入りの三語の悪態」<favolite three words>が出てきた。一度きりならともかく、繰り返し使われると「三文字言葉」でごまかすことはできない。前に戻って、訳語を考え直すことが必要になる。けれども、これがなかなか難題でおいそれとは見つからない。時間をかけて探したいと思っている。

 

「こんな悪態をつかれるたびに毎回一ドルもらえたら、と俺は神に願うよ。そんなことの何が面白いんだ?」は<I wish to Christ I had a dollar for every time I’ve had that said to me. What’s funny about it ?>。双葉氏はよく分からなかったのか、面倒くさかったからか「変なところはなかったか?」と初めの方の文を丸ごとカットしている。村上氏の訳は「こういう汚い言葉を浴びせられるたびに一ドルもらっていたら、俺はずいぶん金持ちになっていただろうといつも思うよ。何が面白くてそんなことを言うんだ?」と、言葉を補うことで意味が分かりよくなっている。

 

「お稚児さん」と訳したのは<punk>。「チンピラ、与太者」などの意味に続いて「同性愛の相手の少年」の意味がある。双葉氏は「小僧」、村上氏は「坊や」と訳しているが、ここでオールズにどの言葉を言わせるかで「触るのが嫌だとでもいうように彼の腕をとった」の部分でオールズが見せる青年への嫌悪感がどこから発しているのかが分かるので、「お稚児さん」を使用した。

 

オールズのホモフォビア(同性愛者嫌悪)は相当なもので、死んだガイガーのことを「あんな鼻つまみを殺したことで死刑囚監房に送る手助けをしたくはないからな」と言っていることからも分かる。「鼻つまみ」と訳した部分は<skunk>で両氏とも「スカンク野郎」と訳している。殺人の被害者である人間をスカンク扱いし、犯人が死刑にならなかったことを喜ぶというのは尋常ではない。同性愛者に対する差別感情がなせる業だろう。

 

「電車の車庫ほどの大きさの白い木造家屋」は<a white frame house the size of a carbarn>。双葉氏は「自動車の車庫ぐらいの大きさ」としているが、いくらなんでも地方検事の屋敷が自動車の車庫くらいの大きさということはあり得ない。<carbarn>は「電車の車庫」のことである。ちなみに< frame house>というのは、木の柱と板張りの壁で構成された木造家屋のこと。

 

「よくある旧式の頑丈な建築で、街が西に向けて発展していた時代、まるごと新しい場所に移築したものだ」は<It was one of those solid old-fashioned houses which it used to be the thing to move bodily to new locations as the city grew westward.>。双葉氏は「町が西へ発展するとき新しい地所へそのまま移動できるような、がっちりした古風なつくり家だった(ママ)」と訳している。これでは初めから移転することを考えて頑丈な作りにしたように読める。村上氏は「昔風のいかにも頑丈な造りの家屋だ。そのような家屋は、市が西に向けて発展している時代には、まるごと新しい場所に移転されたものだ」と訳している。