HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十九章(1)

《車を停めて、ホバート・アームズの前まで歩いてきた時には十一時近かった。厚板ガラスのドアは十時に施錠されるので、私は鍵を取り出した。方形の退屈なロビーの中にいた男が鉢植えの椰子の傍に緑色の夕刊を置き、伸びた椰子の鉢の中に煙草の吸殻を弾き飛ばした。彼は立ち上がり、私に向かって帽子を振って言った。「ボスがあんたに会いたいそうだ。友達をずいぶん待たせてくれるじゃないか、なあ」私は立ったまま彼の潰れた鼻とクラブ・ステーキのような耳を見た。

「何の用だ?」

「あんたの知ったこっちゃない。行儀よくしてさえいれば、事は済む」彼の手は開いた上着の第一ボタンの穴のあたりをさまよっていた。

「警察臭がする」私は言った。「話すには疲れ過ぎたし、食べるにも疲れ過ぎたし、考えるにも疲れ過ぎた。それでも、エディ・マーズのいうことを聞けないほど疲れ過ぎちゃいないと思うなら――試しに銃を抜いてみたらどうだ。良い方の耳を吹っ飛ばされる前に」

「ばかな、あんたは銃など持っちゃいない」彼はしらけきった目で私を見つめた。彼の黒い針金みたいな両の眉が寄り、口がへの字になった。

「昔は昔、今は今だ」私は彼に言った。「いつも丸腰ってわけじゃない」

 彼は左手をひらひらさせた。「いいだろう、あんたの勝ちだ。誰も撃ち殺せとは言われていない。彼から聞いてくれ」

「手遅れだ。とっとと失せろ」私はそう言いいながら、私の前を通ってドアに向かう彼に、ゆっくり体をひねった。彼はドアを開け、後ろも見ずに出ていった。私は自分の愚かしさに苦笑いし、エレベーターに乗って部屋に上がった。私はカーメンの小さな銃をポケットから取り出し、それを見て笑った。それから私は銃をくまなく掃除した。オイルを塗り、綿ネルの布切れに包んでしまいこんだ。酒をつくり、一杯飲んでいると電話が鳴った。私は電話の置いてあるテーブルの横に腰を下ろした。

「今夜はやけにタフじゃないか」エディ・マーズの声が言った。

「デカくて、素早くて、タフ。おまけにとげだらけだ。何のご用かな?」

「警官があそこに押しかけた――例のところだ。俺のことは口にしなかったろうな?」

「なぜ口にしちゃいけない?」

「俺は優しい相手には優しいんだ、ソルジャー。優しくない相手には優しくない」

「耳を澄ますんだ。歯がカタカタ鳴っているのが聞こえるだろう」

 彼は素っ気なく笑った。「したのか――しなかったのか?」

「黙ってた。なぜだか自分でもよく分からない。君を抜きにしても事態は十分複雑すぎるからだろう」

「ありがとう、ソルジャー。で、誰の仕業だった?」

「明日の朝刊を読めよ――多分出てるだろう」

「俺は今知りたいんだ」

「君は欲しいものは何でも手に入れるのか?」

「いや。それが答えなのか、ソルジャー」

「君が聞いたこともない誰かが撃ったんだ。そこまでにしておこう」

「もし、それが本当なら、いつかあんたの頼みごとを聞いてやってもいい」

「電話を切って、もう寝かせてくれ」

 彼はまた笑った。「ラスティ・リーガンを探しているんだろう?」

「多くの人がそう考えているようだが、そうじゃない」

「もし探してるのなら、教えてやれることがある。海辺に来たら立ち寄つてくれ。いつでもいい。楽しみにしている」

「またいつか」

「それじゃな」電話の切れる音がしたが、私は腹立たしさを抑えて受話器を握ったままでいた。それから、スターンウッド家の番号を回した。呼び出し音が四、五回鳴ったあと、執事のそつのない声が聞こえてきた。「スターンウッド将軍邸です」

「こちらはマーロウだ。覚えてるかい?百年くらい前に会った――それとも昨日だったかな?」

「はい。マーロウ様、もちろん覚えています」

「リーガン夫人はご在宅かな?」

「はい。そのはずです。しばらくお待ちいただけますか――」

 私は急に気が変わり、話を遮った。「いや。言づてをたのむよ。彼女に言ってくれ。写真は手に入れた、ひとつ残らず、万事うまく行った、と」

「はい…はい.…」その声は少し震えているようだった。「写真は手に入れた――ひとつ残らず――万事うまく行った…。イエス・サー。そう伝えます。――まことにありがとうございました」》

 

「手遅れだ。とっとと失せろ」と訳した部分は<Too late will be too soon>。双葉氏は「負けるが勝ちか」、村上氏は「そいつは楽しみだ」と、全く共通点のない訳になっている。おそらく両氏とも、ぴったりくる訳が見つからなかったのだろう。<If I never see you again, it'll be too soon.>という言い回しがあって、二度と会いたくない相手に向かって言う台詞だそうだ。多分その前半を略して使っているのだと思う。<Too late>はそのままの意味で、後半はその意を汲んで意訳してみた。

 

「デカくて、素早くて、タフ。おまけにとげだらけだ」は<Big, fast, tough and full of prickles.>。双葉氏は「デカくて手が早くてすごいんだ。そのうえ肉刺(まめ)だらけさ」と訳しているが<prickle>は動物や植物の持つ「とげ」のこと。ハリネズミを思い出せばどんな様子か分かる。「今夜の俺に下手に手を出せば痛い目に合うぜ」と言っているわけだ。それを肉刺にしてしまうと効き目がないだろう。村上氏は「でかくて機敏で、つっぱっていて、とげとげ(傍点四字)しているんだ」。

 

「電話の切れる音がしたが、私は腹立たしさを抑えて受話器を握ったままでいた」は<The phone clicked and I sat holding it with a savage patience.>。双葉氏は「電話はかちりと音をたてたが、私はがまん強く受話器を握ったままだった」。村上氏は「電話が音を立てて切れた。私はそこに座り、ささくれた気持ちをなんとか抑えながら、受話器をじっと握っていた」だ。<with patience>は「忍耐(辛抱)強く」だが、間にはさまった<a savage>をどう訳すかが問題だ。

 

例によって双葉氏はあっさりカットしているが、<savage>には、「野蛮」だけでなく、「獰猛な、残忍な、未開の、荒涼とした、飼い慣らされていない、野生の、かんかんに怒った」等々、かなり色あいの異なる訳語がある。疲れて帰った挙句、エディ・マーズの勝手な話に付き合わされたマーロウは、先に電話を切ってもかまわないのに、そうしなかった。<savage>には「無作法者」の意味もある。自分まで粗野になるのを抑えたのだろう。