HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十七章(3)

《「分かった、分かった。つなぎの男は不満たらたらだった。ポケットの垂れぶた越しに服に銃をねじ込むと、拳を噛みながら不機嫌そうにこちらを見つめた。ラッカーの匂いはエーテルと同じくらい胸が悪くなる。隅の吊り電灯の下に新品に近い大型セダンがあり、フェンダーの上にスプレーガンが載っていた。
 私はようやく作業台にいる男を見た。背の低いがっしりした体躯で肩幅が広い。冷めた顔つきに冷めた黒い目をしていた。身に纏ったベルト付きの茶色のスエードのコートには雨がびっしりと斑紋をつけていた。茶色の帽子を粋に斜めにかぶっている。作業台に凭れ、急ぐでもなく面白がるでもなく、まるで冷肉の厚切りでも見るようにこちらを見ていた。たぶん人のことをそんなものだと思っているのだろう。
 黒い目を上下にゆっくり動かしながら一本一本指の爪を眺め、明かりにかざして注意深く点検していた。ハリウッドがそうするように教えたのだ。男は煙草をくわえたまま話した。
「二本パンクしたって?そいつは大ごとだ。鋲は片づけたと思ってたが」
「カーブでちょっとスリップしたんだ」
「通りすがりだって言ってたな?」
「L.Aまで行く途中だ。あとどれくらいだろう?」
「四十マイル。この天気じゃもっと長く感じるだろう。どこからきたんだ?」
「サンタ・ローザ」
「長旅だな。タホからローン・パインか?」
「タホじゃない。リノからカーソン・シティだ」
「いずれにせよ長旅だ」微かな笑みが唇をゆがめた。
「法にでも触れるかい?」私は訊いた。
「何だって?いや何も問題はない。詮索好きだと思ってるんだろう。裏に逃げた強盗のせいさ。ジャッキを持って来てパンクの修理だ、アート」
「俺は忙しい」痩せた男がうなった。「俺は仕事中だ。これの塗装をしなきゃいけない。それに雨が降ってる。お気づきかもしれませんが」
茶色の男が愉快そうに言った。「いい塗装には湿気は禁物だ。アート、行って来いよ」
私は言った。「前と後ろ、右側だ。一本はスペアを使える。もし忙しいのなら」
「ジャッキ二つだ、アート」茶色の男が言った。
「聞いてんのか──」アートがわめき出した。
 茶色の男は目を動かし、穏やかな静かな目でアートをじっと見つめ、それからまた恥ずかしがってでもいるみたいに目を下ろした。何も言わなかった。アートは突風に吹かれでもしたようにぐらっと揺れた。足を踏み鳴らして隅の方に行くと、ゴム引きのコートをつなぎの上に羽織り、防水帽をかぶった。箱型スパナと手動ジャッキをつかみ、台車のついた大型ジャッキを転がして扉まで行った。
 黙って出て行ったが、扉は大きく開いたままだ。雨が中に吹き込んだ。茶色の男はぶらぶらと歩いて行って扉を閉め、ぶらぶら歩いて作業台まで戻り、前と同じ場所に腰を下ろした。そのときならうまく仕留められたかもしれない。二人きりだった。彼は私のことを知らなかった。彼はかすかに私の方を見ながら、セメントの床に捨てた煙草を見もしないで踏みつけた。
「一杯やった方がいい」彼は言った。「中を湿らせたら、外との釣り合いが取れる」彼は作業台の後ろからボトルを取り出して端に置き、脇にグラスを二つ置いた。各々にたっぷり注いで一つを差し出した。
 私は木偶の坊みたいに歩いて行ってそれを受け取った。雨の記憶がまだ顔に冷たく残っていた。塗料の匂いが閉め切った修理工場の空気を麻痺させていた。
「まったくアートときたら」茶色の男が言った。「機械工のご多聞にもれず、いつも先週仕上げておくはずの仕事にかかりきりだ。商用の旅行かい?」
私はそっと酒の匂いを嗅いだ。まっとうな匂いだ。相手が飲むのを見とどけてから口をつけ、舌の上で転がした。シアン化物は入ってなかった。小さなグラスを空け、彼の傍に置いて引き下がった。
「それもある」私はそう言って、塗りかけのセダンのところに行った。フェンダーに大きなスプレーガンがある。雨が平屋根を激しく叩いた。アートはその雨の中に出て行った。罵りながら。
 茶色の男は大きな車に目をやった。「そもそもはドアを直すだけの仕事さ」彼は何気なく言った。唸り声は酒のせいでさらに穏やかになった。「だが、客は金を持っていて、運転手はドル札を幾らか欲しがってた。ぼろい仕事さ」
 私は言った。「それより古い商売は一つだけだ」唇が渇くのを感じた。話したくなかった。煙草に火をつけた。タイヤの修理が終わってほしかった。時間が忍び足で過ぎていった。茶色の男と私は偶然に出会った他人同士で、ハリー・ジョーンズという名の小さな死人を挟んで互いに向い合っていた。ただし、茶色の男はまだそれを知らない。》

「身に纏ったベルト付きの茶色のスエードのコートには雨がびっしりと斑紋をつけていた」は<He wore a belted brown suede raincoat that was heavily spotted with rain.>。双葉氏は「バンドのついた茶色のスウェードのレイン・コートを着ていた。雨のしみがついていた」と訳している。村上氏は「ベルトのついた茶色のスエードのコートを着ていたが、そこには雨のあとが黒く重く残っていた」だ。<heavily>とあると「重く」と訳したくなるらしい。おまけに原文にない「黒く」まで付け加えている。

「鋲は片づけたと思ってたが」は<They swept the tacks, I thought.>。双葉氏は前の所で鋲について触れていないので「とんだ金要(ものい)りだぜ」と作文している。これはもう訳ではない。村上氏は「鋲はみんな片づけられたって聞いたんだけどな」と訳している。

「お気づきかもしれませんが」は<you might have noticed>。双葉氏はこれをカットしている。村上氏は「見りゃわかるだろうが」と訳しているが、見て分かるのは塗装中の方だ。閉め切った工場の中では雨は音で知るしかない。<you might have noticed>は何かを説明するときに最初につける決まり文句だ。アートの皮肉だろう。

「いい塗装には湿気は禁物だ」は<Too damp for a good spray job,>。ここを双葉氏は「おめえみたいなとんちきに、うまく塗れるかってんだ」と訳している。<damp>を<dope>とでも空目したのかもしれない。村上氏は「塗装をきれいに上げるには湿気が強すぎる」と訳している。

「中を湿らせたら、外との釣り合いが取れる」は<Wet the inside and even up.>。双葉氏は「腹にお湿(しめ)りをくれりゃ、調子が出るからな」と訳している。酒を飲めば調子が上がると考えたのだろうが、<even up>は「釣り合いが取れる、帳尻を合わせる」などの意味がある。ぐっしょり濡れた外と釣り合いをとるために中にも湿り気を入れた方がいい、という意味合いだ。村上氏は「外側だけじゃなく、内側も同様に湿らせた方がいいぜ」と言葉を補っている。

「そもそもはドアを直すだけの仕事さ」は<Just a panel job, to start with>。双葉氏は「ちょいと横板をなおしゃいいんだ」と訳している。たしかに<panel>には「横板」の意味もあるが、自動車にはあまり使わない。村上氏は「もともとは塗装をちっといじるだけの仕事だった」と、こちらは<panel>を省いている。<panel>とは「ドア・部屋・格(ごう)天井などの四角い枠のひと仕切り」のことである。車の塗装の場合、ドアならそれだけを塗ることができる。しかし、他の部分との色合わせは.けっこう難しい。全部塗り直す方が手間はかかるが仕上がりはきれいだ。おそらくそのようなことを言ったのだろう。

「ぼろい仕事さ」は<You know the racket.>。双葉氏は「これが商売さ」。村上氏は「どういう類の商売か見当はつくだろう」だ。<you know>は、「知ってるだろう」くらいのニュアンスで使われる合いの手みたいな文句だ。<racket>はこの小説では「強請り」の意味で何度も出てくるが、ここでは「楽して儲ける仕事」くらいの意味で使われている。

「それより古い商売は一つだけだ」は<There’s only one that’s older.>。双葉氏は「古いて(傍点)だね」と訳しているが、これでは<You know the racket.>を受けて切り替えしてみせた、気のきいたセリフが生きてこない。たぶん、ここでマーロウが考えている古くから続く商売というのは「娼婦」のことだろう。村上氏は「それより古い商売は一つしかない」と訳している。