HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第三十章(3)

《髭を剃り、服を着替え、ドアに向かった。それから引き返してカーメンの真珠貝の銃把ががついた小さなリヴォルヴァーをつかんでポケットに滑り込ませた。陽光は踊っているみたいに明るかった。二十分でスターンウッド邸に着き、通用門のアーチの下に車をとめた。十一時十五分だった。観賞用の樹木の枝では雨上がりに浮かれた小鳥が鳴き騒ぎ、段になった芝生はアイルランド国旗に負けないほどの緑で、敷地内のすべてがまるで十分前に作られたばかりのようだった。私は呼び鈴を鳴らした。はじめて鳴らしたのは五日前だが、一年も前のように思えた。
 メイドがドアを開け、脇廊下を抜けて玄関ホールに案内し、ミスタ・ノリスがすぐ参ります、と言って消えた。玄関ホールは前と変わりなかった。マントルピース上の肖像画はあの熱く黒い瞳をし、窓のステンドグラスの騎士は囚われの裸の姫君を縛る縄を木から解くのに手を焼いていた。
 しばらくしてノリスがやってきた。やはり何の変りもなかった。青い瞳はよそよそしく、灰色がかったピンク色の肌は健康で休養がとれていた。動くときは本当の年より二十歳は若く見える。歳月の重みを感じているのはこっちの方だ。
 我々はタイル敷きの階段を上がってヴィヴィアンの部屋の反対側に折れた。ひと足ごとに家はより広くより静かになるようだった。教会から抜け出てきたかのように頑丈で古びた大扉の前に来た。ノリスがそっと開けて中を見、それからその脇に立った。私はその前を通って中に入った。四分の一マイルはあろうかという絨毯の向こうに、ヘンリー八世の崩御を思わせる巨大な天蓋付き寝台があった。
 スターンウッド将軍は枕を支えに上半身を起こしていた。血の気のない両手は握られてシーツの上に置かれ、灰色が際立って見えた。黒い両眼はまだ闘争心に溢れていたが、顔の残りの部分はまだ死体の顔のようだった。
「かけなさい、ミスタ・マーロウ」彼の声は弱弱しく、少し堅苦しく聞こえた。
 私は椅子を近くに引き寄せ、腰を下ろした。窓は全部ぴっしり閉められていた。その時間にしては薄暗かった。日除けが空から来る眩しい光を遮っているのかもしれない。空気にはかすかに甘い老人の匂いがした。
 将軍はしばらくの間黙って私を見つめていた。それから片手を動かした。まるでまだ動かすことができることを自分に証明してみせるかのように。そしてもう一方の手の上に折り重ねた。彼は生気のない声で言った。
「義理の息子を探せと頼んだ覚えはない、ミスタ・マーロウ」
「でも、あなたはそうしてほしかったはず」
「頼んだ覚えはない。思い込みが過ぎる。私はして欲しいことを頼むことにしている」
 私は何も言わなかった。
「支払いはすんでいる」彼は冷やかに続けた。「いずれにせよ、金のことはどうでもいい。ただ、おそらく意図してではあるまいが君は信頼を裏切った、と私が感じているだけだ」
 それだけ言うと将軍は目を閉じた。私は言った。「それが言いたくて私を呼んだのですか?」
 将軍は再び目を開けた。ひどくゆっくりと、まるで瞼が鉛でできてでもいるかのように。「今の言葉に腹を立てているようだな」
 私は首を振った。「あなたは私より有利な立場にある、将軍。その有利な立場をあなたから奪おうなどとは兎の毛ほども願ってもいない。あなたが耐えなければならないことを考えれば小さなことだ。言いたいことは何でも言えばいい。私は腹を立てようなどとは思っていない。ただ、金は返した方がよさそうだ。あなたには意味のないことだが、私にとってはなにがしかの意味がある」
「君にはどんな意味があるというんだ?」
「納得がいかない仕事に対する支払いを拒否するという意味。それだけです」
「君は納得がいかない仕事をよくするのか?」
「ほんの少し。誰もがするように」
「どうしてグレゴリー警部に会いに行ったりしたんだ?」
 私は後ろに凭れて片腕を椅子の背にかけた。私は相手の顔をよく見た。その顔は何も語ってはいなかった。質問に対する答えが見つからなかった──納得のいく答えが。
 私は言った。「あのガイガーの借用書の一件は私をテストするのが主な狙いだったと確信しています。あなたはリーガンが強請りの企てに巻き込まれているのではないかと少し心配していた。私はリーガンのことを何も知らなかった。グレゴリー警部と話をしてみて分かったのです。リーガンがおよそそんなことをしそうな男ではないと」
「ほとんど質問に対する答えになっていない」
 私はうなずいた。「その通り、ほとんど質問に対する答えになっていない。どうやら私は直感で動いたことを認めたくないようだ。私がここに来た朝、あなたを残して蘭の部屋を出た後、リーガン夫人に呼ばれた。夫人は私が夫を探すために雇われたものと決めてかかっていて、それが気に入らないようだった。そしてうっかり口を滑らせた。<彼ら>が夫の車を車庫で見つけたらしい、と。<彼ら>というのは警察に決まっている。したがって、警察はこの件について何かつかんでいるに違いない。もしそうなら、その手の事件を担当するのは失踪人課だ。あなたが報告したのかどうかは知らなかった。勿論他の誰かかも知れない。それに、彼らが誰の報告を通じて車庫に乗り捨ててあった車を見つけたのかも。しかし、私は警官をよく知っている。彼らがそれだけのことを見つけたなら、今少しつかんでいると──特にお抱え運転手に前科があるような場合には。警察が何をつかんでいるのかはそれ以上知らなかった。失踪人課のことを考えたのはそれがきっかけだ。私に確信させたのはワイルド検事の態度だ。ガイガーの一件やその他もろもろのことで彼の家で話し合った夜、我々はしばらくの間二人だけになった。そのとき検事は、あなたがリーガンを探していることを話したかと訊かれた。私はあなたが、リーガンがどこにいるのか元気でやっているのかを知りたがっていると言った。ワイルドは唇を引いておかしな顔をした。それは端的に法的機関を通じて『リーガンを探している』と告げているように私には思えた。それでもグレゴリー警部にあたってみることにした。相手がまだ知らないことは何も話さないというやり方でね」
「そして君はグレゴリー警部に私がラスティ探しに君を雇ったと思わせておいたのか?」
「そうしました──警部が事件を担当していると確信した時に」
 将軍はまた目を開けた。目蓋がぴくぴく動いた。眼を閉じたまま彼は話した。「君はそれを倫理的だと考えるわけか?」
「はい」私は言った。「そう思います」
 突き刺すような黒い視線がびっくりするほど突然に死者の顔から外に出てきた。「たぶん私には理解できないだろう」彼は言った。
「あなたには分らないでしょう。失踪人課の課長は口の軽いほうではなかった。口が軽くてはあの部署は務まらない。こいつが実に抜け目のない口の堅い男で、自分を仕事に疲れた中年の木偶の坊だと見せようとしていて、もう少しで騙されるところだった。私がやってるのは山崩しの遊びじゃない。いつでもはったりが大きな要素になる。私が何を言おうが、警官は疑ぐってかかろうとする。ましてや老練な警官は私のいうことなど気にもしない。私のような業種で人を雇うのは、窓ふきを雇うのとは訳がちがう。八枚の窓を見せて「これを全部やったら終わりだ」と言うような訳にはいかない。あなたという人は、私があなたのために仕事をし終えるまで、何に耐え、何をしなければならなかったか、何も分かっていない。私は私のやり方でやる。あなたを守るためになら少々ルールも破るだろうが、それはあなたを思ってのことだ。依頼者の利益を一番に考える。相手が不正な場合を除いてだが、その場合でも私にできるのは仕事を断って口を閉ざしているだけだ。何よりも、あなたは私にグレゴリー警部に会いに行くな、とは言わなかった」
「事を難しくするよりは言わない方がましだ」彼はかすかな笑みを浮かべながら言った。》

真珠貝の銃把」は<pearl-handled>。双葉氏は文字通り「真珠柄」と訳している。村上氏は「真珠の握りのついた」と訳している。弾倉がそこに入るオートマティックとちがって、リヴォルヴァーの銃把はデザインに自由がきく。滑り止めに刻みを入れた象牙やら木やら様々な素材が使用される。ここで使われているのは真珠ではなく、貝の方だろう。

この部分では、双葉氏の訳さなかったところが異様に多い。新訳が出なかったら、マーロウがどう考えてこういう行動をとったか日本の読者は知らなかっただろう。以下に双葉氏がカットした部分を抜き出してみる。

「灰色が際立って見えた」「日除けが空から来る眩しい光を遮っているのかもしれない」「老人の」「それから片手を動かした。まるでまだ動かすことができることを自分に証明してみせるかのように。そしてもう一方の手の上に折り重ねた」「将軍は再び目を開けた。ひどくゆっくりと、まるで瞼が鉛でできてでもいるかのように」

「そしてうっかり口を滑らせた。<彼ら>が夫の車を車庫で見つけたらしい、と。<彼ら>というのは警察に決まっている。したがって、警察はこの件について何かつかんでいるに違いない。もしそうなら、その手の事件を担当するのは失踪人課だ。あなたが報告したのかどうかは知らなかった。勿論他の誰かかも知れない。それに、彼らが誰の報告を通じて車庫に乗り捨ててあった車を見つけたのかも。しかし、私は警官をよく知っている。彼らがそれだけのことを見つけたなら、今少しつかんでいると──特にお抱え運転手に前科があるような場合には。警察が何をつかんでいるのかはそれ以上知らなかった。失踪人課のことを考えたのはそれがきっかけだ。私に確信させたのはワイルド検事の態度だ。ガイガーの一件やその他もろもろのことで彼の家で話し合った夜、我々はしばらくの間二人だけになった。」のところは「お話を総合して」の一言でまとめている。

「それは端的に法的機関を通じて『リーガンを探している』と告げているように私には思えた。それでもグレゴリー警部にあたってみることにした。相手がまだ知らないことは何も話さないというやり方でね」「将軍はまた目を開けた。目蓋がぴくぴく動いた。眼を閉じたまま彼は話した」「突き刺すような黒い視線がびっくりするほど突然に死者の顔から外に出てきた」

「こいつが実に抜け目のない口の堅い男で、自分を仕事に疲れた中年の木偶の坊だと見せようとしていて、もう少しで騙されるところだった。私がやってるのは山崩しの遊びじゃない。いつでもはったりが大きな要素になる。私が何を言おうが、警官は疑ぐってかかろうとする。ましてや老練な警官は私のいうことなど気にもしない。私のような業種で人を雇うのは、窓ふきを雇うのとは訳がちがう。八枚の窓を見せて「これを全部やったら終わりだ」と言うような訳にはいかない。あなたという人は、私があなたのために仕事をし終えるまで、何に耐え、何をしなければならなかったか、何も分かっていない。私は私のやり方でやる。あなたを守るためになら少々ルールも破るだろうが、それはあなたを思ってのことだ。依頼者の利益を一番に考える。相手が不正な場合を除いてだが、その場合でも私にできるのは仕事を断って口を閉ざしているだけだ」

上の部分は「こいつにしゃべらせるんですから、こちらにもいろいろなて(傍点一字)がいります。あなたは窓拭き人夫を雇ったのじゃない。多少の機転もきかせるわけです」と、ずいぶん好き勝手に訳している。こうなると、もう訳とはいえない。「超訳」とでもいうしかない。

双葉氏の訳のいい加減さに驚いて、村上氏の訳について触れる場がなかったので、一例だけ引いておく。「山崩しの遊び」は<spillikins>。村上氏は「単純な積み木抜き取りゲーム」と訳している。<spillikins>は別名<jack straw>。昔は藁でやったのだろうが、今では専用の棒があって、それを適当に積んで、他の棒を動かさずに抜きとれば成功、という遊び。「将棋崩し」に似た遊びだ。「積み木抜き取りゲーム」だと「ジェンガ」と勘違いする人が出るのではないだろうか。