HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(2)

《私は煙草を渡し、マッチに火をつけて差し出した。ヴィヴィアンは肺一杯に煙を吸い込むと乱暴に吐き出した。それからは煙草は指の間で忘れられたようで、二度と吸われることはなかった。
「さてと、失踪人課はラスティを見つけられないでいる」私は言った。「そんなに簡単なことじゃない。警察にできないことが私にできるはずもない」
「そう」その声には安心したような気分が感じられた。
「それが理由の一つ。失踪人課の連中は故意の失踪だと考えている。連中の言う、幕を引く、というやつだ。警察はエディー・マーズが殺したとは考えていない」
「誰がラスティは殺された、と言ったの?」
「その話をしようとしている」私は言った。
 束の間、彼女の顔がばらばらになったようだった。顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた。口は今にも叫び声を上げそうになった。しかし、それはほんの一瞬だった。スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう。
 私は立ち上がり、女の指の間で煙を上げている煙草をとって灰皿で揉み消した。それからカーメンの小さな銃をポケットから取り出し、大げさなくらい気を配り、入念に白いサテン地の膝の上に置いた。収まりよく載せると、一歩下がって首を傾げた。ショウウインドウを飾り付ける職人がマネキンの首に巻いたスカーフの新しい捻りの効果を確かめるように。
 私は再び腰を下ろした。ヴィヴィアンは動かなかった。視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た。
「危険はない」私は言った。「薬室は五つとも空っぽだ。全部カーメンが撃った。五発とも私に向けて撃った」女の喉の血管が激しく脈打った。何か言おうとしたが声にならなかった。唾を飲み込んだ。
「五、六フィート距離があった」私は言った。「しゃれたまねをする。そうだろう? 気の毒だったが、銃には空包を詰めておいた」私はにやりと意地悪く笑った。「虫の知らせがあったんだ。カーメンはやるだろうと──機会さえあればね」
 声が戻るまでしばらくかかった。「あなたはぞっとするくらい嫌なやつ」彼女は言った。「身の毛がよだつ」
「そうだな。君は姉だ。この一件をどうするつもりだ?」
「あなたは言ったことを証明できない」
「何を証明するんだ?」
「妹があなたを撃ったこと。油井にいたのは二人きりだと言った。あなたは自分の言ったことを証明できない」
「ああ、そのことか」私は言った。「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」
 ヴィヴィアンの目に闇が澱んだ。暗闇よりも虚ろだった。
「私はリーガンが消えた日のことを考えていた」私は言った。「その日の午後遅く、銃の撃ち方を教えようとカーメンを連れてあの古い油井まで行った時のことだ。リーガンは空き缶をどこかに置き、これを撃つんだと言って、君の妹が撃つ間近くに立っていた。カーメンは缶を撃たなかった。カーメンは銃をリーガンに向けて撃ったんだ。まさに今日私を撃ったやり方で。その理由も同じだ」
 ヴィヴィアンが少し動いて銃が膝から床に滑り落ちた。私がかつて聞いた中で最も大きな音の一つだった。ヴィヴィアンの目は私の顔に釘付けされていた。囁き声は苦悶に満ちて後を引いた。「カーメン…神よ、カーメンにお慈悲を…どうして?」
「カーメンが何故私を撃ったか本当に聞きたいのか?」
「ええ」目にはまだぞっとするものがあった。「聞く──しかないようね」
「一昨日の夜、家に帰るとカーメンがアパートメントにいた。私が待つように言った、と管理人を騙して入れてもらったんだ。ベッドに入っていた──裸でね。私は怒って部屋から放り出した。多分リーガンも同じようにしたんだろう。しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」
 ヴィヴィアンは唇を引き寄せ、うわの空で舐めた。一瞬、怯えた子どものような顔になった。両頬が削げ、片手がゆっくり上がっていった。まるで糸で操られている人形の手のように。そして、その指が襟元の白い毛皮をおもむろに握りしめた。指は毛皮をきつく喉元に引き寄せた。そのあとは、座ってただじっと見つめた。
「お金」しわがれ声だった。「あなたは、お金が欲しいんでしょう」
「いくらだ?」冷笑的にならないように気をつけた。
「一万五千ドルでどう?」
 私はうなずいた。「そんなものだろう。それがお定まりの金額らしい。カーメンに撃たれた時リーガンのポケットにあった金額だ。君がエディー・マーズに助力を請うた時、カニーノ氏が死体を始末して得たのもその金額だろう。だが、エディー・マーズがそのうち手に入れようと目論んでいる金と比べれば、はした金だ。そうじゃないか?」
「ろくでなし」彼女は言った。
「そうさ。私は頗るつきの切れ者だ。感情や良心の咎めなど一切持たない。持ってるのは金に対する執心だけ。強欲すぎて一日二十五ドルの報酬以外に必要経費をとる。ほとんどはガソリンとウィスキー代だ。私は自分の考えで動く。大したことではない。危険を顧みず、警官やエディ・マーズとその仲間に憎まれ、銃弾をひらりとかわし、こん棒で殴られ、有難うございましたと礼を言う。名刺を一枚置いていくので、また問題が起きたら、私を思い出してくれると嬉しい。私はこういうことを一日二十五ドルでやる──その中には、病み衰えた老人の血に残されたわずかな誇りを守ることも、少し入っているかも知れない。考えたんだ。将軍の血は毒ではない。たとえ二人の娘が少々手に負えなくても、良家の子女は当節そんなものだ、変質者でも殺人鬼でもない。その挙句が、ろくでなし呼ばわりだ。いいさ。そんなこと気にしちゃいない。君の妹をはじめ、多種多様な人々からそう呼ばれてきた。君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで。私は父上から五百ドル受け取った。請求したわけではないが、将軍にとっちゃはした金だ。もしラスティ・リーガン氏を探し出せたらもう千ドル貰える。今、君から一万五千ドルのオファーがあった。大物になったものだ。一万五千ドルあれば自宅を買い、新車とスーツが四着買える。仕事にあぶれる心配をせずに休暇がとれるかもしれない。結構なことだ。その金で私にどうしてほしいんだ? 私はろくでなしのままでもいいのか? それとも、紳士にならなきゃいけないのか? この間の夜、自分の車の中でのびていたあの飲んだくれのような」
 女は石像のように黙っていた。》

「顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた」は<to become merely a set of features without form or control.>。双葉氏はこれをカットしている。村上氏は「それは形態や統制を欠いた、ただの部分の集まりのように見えた」と訳している。<set of features>は「目鼻立ち、顔立ち」のこと。人は無意識に表情を作っているものだ。驚きのあまり、彼女はそれを忘れたのだろう。

「スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう」は<The Sternwood blood had to be good for something more than her black eyes and her recklessness.>。双葉氏は「スターンウッドの血統は彼女の黒い目や無軌道さよりもはるかに強いものだった」。村上氏は「スターンウッド家の血は、黒い目と無謀さの他にも、彼女に何かしらの強い資質を与えているのだろう」と訳している。<(be) good for something>は「何かの役に立つ」の意味だ。両氏に訳に出てくる「強い」の意味はない。

「収まりよく載せると」は<I baranced in there>。双葉氏はここもカット。村上氏は「落ちないようにバランスをとって載せてから」と訳している。

「視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た」は<Her eyes came down millimeter by millimeter and looked at the gun.>。双葉氏は「じっと拳銃を見つめたまま動かなかった」と前の文とまとめて訳している。村上氏は「彼女の視線はミリ単位で下に降りていった。そして拳銃を見た」と訳している。

「薬室は五つとも空っぽだ」は<All five chambers empty.>。双葉氏は「五発ともからだ」。村上氏は「弾倉は五つとも空っぽになっている」。細かいことを言うと<chamber>は「薬室」。「弾倉」は<magazine>。弾倉が着脱式になっているオートマチックとちがって、リヴォルヴァーの場合、弾倉とは、蓮根状の形をした「回転弾倉」<cylinder>そのものを指す。したがって複数の形をとらない。

「声が戻るまでしばらくかかった」は<She brought her voice back from a long way off.>。双葉氏は「彼女はやっと声を出した」と訳している。村上氏は<a long way off>を距離的な意味にとって「彼女は遠くの方から声をかき集めてきた」と訳しているが、日本語として通じるだろうか。この場合、時間的な意味にとる方が分かりよいのではないか。

「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」<I wasn’t thinking of trying, I was thinking of another time──when the shells in the little gun had bullets in them.>。双葉氏は「そりゃそうだ。いずれ実弾をいれてためしてみるか」と訳しているが、時制から見ても、これはまちがい。村上氏は「そんなことを誰かに話そうなんて思っちゃいないよ。私は前回のことを考えていたんだ。あの小さな拳銃にしっかり実弾が入っていたときのことをね」と訳している。

「目にはまだぞっとするものがあった」は<Her eyes were still terrible.>。双葉氏はここをカットして二つの会話をつなげて「ええ。きかせて……」と訳している。村上氏は「彼女はまだすさまじい目をしていた」と訳している。

「しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」は<But you can’t do that to Carmen.>。双葉氏はここを「もっとも、君は妹さんにそんなまねはできまいが」と訳している。<you>をヴィヴィアンととったのだろう。しかし、この<you>は「人は(誰でも)」の意味でとらないと意味が通じない。村上氏は「しかしカーメンを相手にそんなことをしちゃいけないんだ」と訳している。

「君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで」は<She called me worse than that for not getting into bed with her.>。双葉氏はここもカットしている。この長広舌は、マーロウのいわば決め台詞だ。しっかり訳してほしいところ。村上氏は「彼女はもっと凄まじい言葉を使ったな。彼女と一緒のベッドに入らなかったという理由でね」としっかり訳している。