HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第5章(4)

《「座るんだ」私は故意に声を荒げて言った。「あんたが相手にしているのはムース・マロイのような騙されやすい馬鹿じゃない」
 空鉄砲を撃ってみたが、手応えはなかった。女は二度瞬きをし、上唇で鼻を持ち上げようとした。兎のような笑い顔に汚い歯が何本か見えた。
「ムース? あのムース? あいつがどうしたって?」彼女は息を呑んだ。
「釈放されたんだ」私は言った。「刑務所を出て、四十五口径を手にうろついている。今朝セントラル・アヴェニューで黒人を一人殺した。ヴェルマがどこにいるか言わなかったという理由でな。今頃、あいつは八年前に自分を刑務所に送り込んだ密告屋を探し回っている」
 女の顔が刷毛で掃いたように白く変わった。瓶を唇に押し当てて喉を鳴らして飲んだ。ウィスキーの滴が顎を伝って流れ落ちた。
「そしてお巡りがあいつを探している」彼女はそう言って笑った。「お巡りがねえ」
 愛すべき老女だ。私は一緒にいるのが楽しくなった。私は自分のさもしい目的のために女を酔っぱらわせた。私はやり手だったし、そうであることを楽しんでいた。この稼業じゃ、大抵ありあわせの物を見繕う。しかし、さすがに少しばかり胸が悪くなってきた。
 私は手の中に握りしめていた封筒を開け、艶のあるスティル写真を一枚取り出した。他の写真とよく似ていたが、違いがあった。ずっと見映えがした。娘は腰から上はピエロの衣装を着ていた。頭には黒いポンポンの着いた白い円錐形の帽子をかぶっている。ふわりとした髪の暗い色合いは赤毛だったかもしれない。横顔だが眼には陽気さがはっきり出ている。愛らしい、穢れのない顔、とまでは言わない。顔は得手ではない。だが、可愛い顔だった。人受けのする顔で、業界向きでもある。とはいえ、よくある顔で、厳密にいえば工場の組立ライン並みの可愛らしさだ。昼休みに街に出れば、その手の顔はごろごろいる。
 写真の腰から下は主に二本の脚で、それも極めて美しい脚だ。右手の下にサインがあった。「親愛なる──ヴェルマ・ヴァレント」
 私は間合いを取って、女の前に写真を掲げた。女は掴みかかったが、届かなかった。
「なぜこれを隠した?」私は訊いた。
 女は息を喘がせる外に音を立てなかった。私はそっと写真を封筒に戻し、封筒をポケットに入れた。
「なぜこれを隠したんだ?」私は重ねて訊いた。「なぜこれだけ見せられなかったんだ? この女はどこにいる?」
「その娘は死んだ」女は言った。「いい娘だったが、死んだよ、お巡りさん。もう帰りな」
 黄褐色の見るかげもない眉毛が落ち着かなく動いた。女の手が開いてウィスキーの瓶がカーペットに滑り落ち、ごぼごぼと中身がこぼれ出した。私は屈んで瓶を拾い上げた。女が私の顔を蹴ろうとしたが、私は身をかわした。
「あんたはまだ、なぜこれを隠したか言ってない」私は言った。「いつ死んだんだ? どんなふうに?」
「私は哀れな病気の婆さんだよ」彼女はぶつぶつ言った。「さっさと帰れ、このくそ野郎」
 私は立ったまま何も言わずに女を見ていた。特に言うべきことを何も思いつかなかった。私はしばらくしてから、女の傍に行き、今やほとんど空になっている平たい瓶を女の傍のテーブルの上に置いた。
 女はカーペットを見つめていた。ラジオは隅で楽しそうに鳴っていた。外の通りを車が通った。蠅が窓で羽音を立てていた。しばらくしてから女は片方の唇をもう一方の上で動かし、床に向かって話しかけた。意味をなさない戯言の寄せ集めだった。それから女は声を立てて笑い、頭を仰け反らし、よだれを垂らした。やがて右手で掴んだ瓶が歯に当たる音がして、女は残った酒を一気に飲み干した。瓶が空になると、女は持ち上げて揺すぶり、それから私に投げつけた。瓶はカーペットの上を滑りながら隅の方に転がっていき、幅木に当たってゴツンという音を立てて止まった。
 女はもう一度私を嫌な目つきで見てから両眼を閉じて鼾をかきはじめた。
 芝居かも知れなかったが、どうでもよかった。突然、私はこの醜態にうんざりした。ひどすぎる。もうたくさんだ。
 私はダヴェンポートから帽子をつかみ、ドアまで行き、ドアを開けて網戸の外へ出た。ラジオがまだ低く鳴り、女は椅子の上でまだ静かに鼾をかいていた。私はドアを閉める前にちらりと女を振り返り、それからドアを閉め、またそっと開け、もう一度見た。
 女の両眼は閉じたままだったが、目蓋の下に光るものがあった。私は階段を下り、ひびの入った道に沿って通りに向かった。
 隣家の窓のカーテンが横に引かれ、真剣な顔がガラスに押しつけられていた。白髪で尖った鼻の老女が覗いていた。
 口さがない年寄りが近所を監視しているのだ。どこのブロックにも少なくとも一人はあの女のような人間がいる。手を振って見せると、カーテンが閉まった。
 私は車に戻り乗り込んだ。そして、七十七丁目警察署に引き返し、二階にある臭いの染みついた戸棚みたいに小さなナルティのオフィスに通じる階段を上った。》

「空鉄砲を撃ってみたが、手応えはなかった」は<It was a shot more or less in the dark, and it didn't hit anything.>。清水氏は「私は闇の中にピストルを撃ってみたつもりだったが、手ごたえはなかった」。村上氏は「それは盲撃ちだったが、結局何にも当たらなかった」だ。「盲撃ち」は、差別用語扱いを受けているらしいが、村上氏はあえて使ったのだろうか。<shot>とあるので、「ほら、でまかせ」の意味がある「空鉄砲」をあててみた。

「上唇で鼻を持ち上げようとした。兎のような笑い顔に汚い歯が何本か見えた」は<tried to lift her nose with her upper lip. Some dirty teeth showed in a rabbit leer.>。チャンドラーは唇にこだわりがあるらしい。それとも英語ではよくあることなのだろうか。清水氏は「唇をひらいた。汚い歯が私を冷笑しているように見えた」と<leer>に「冷笑」をあてているが、<rabbit>は無視だ。

村上氏は「鼻と上唇を引っ張り上げようと試みた。根性の悪いウサギのような目つきになり、汚い歯が何本か見えた」だ。<a rabbit leer>を「根性の悪いウサギのような目つき」と解釈している。しかし、その前に言及されているのは「上唇で鼻を持ち上げようとした」ことである。上唇で鼻を持ち上げると、口角は下がったままで兎のように口が開く。そこから歯がのぞいたのだろう。<leer>には「薄ら笑い、含み笑い」の意味もある。ここは目つきではなく、口の開き方に着目するべきだ。

「ムース?(略)」の後の「彼女は息を呑んだ」は<she gulped>。清水氏はここをカットしている。村上氏はここを「彼女は酒をあおった」と訳している。しかし、女はさっき座り直したばかりだ。村上氏自身少し先で「女の顔がさっと青ざめた。酒瓶をとってそのまま口につけ、ぐいと飲んだ」と書いている。つまり、この時点では酒瓶を手にしていないわけだ。手にしているのがグラスだとすると、それを手にした隙にマーロウが動いたのだからグラスはまだ空のままだ。ここで女が酒を飲んだとは考え難い。

「この稼業じゃ、大抵ありあわせの物を見繕う。しかし、さすがに少しばかり胸が悪くなってきた」は<You find almost anything under your hand in my business, but I was beginning to be a little sick at my stomach.>。ここを清水氏は「私の仕事は、どんなことに出っくわすか、見当がつかないのだが、何が起こるのか少々気になってきた」と訳している。村上氏は「私のような商売をしていると、ほとんどどんなことだって平気でやってのけられるようになる。しかし、その私をしても、さすがにいくらか胸くそがわるくなってきた」と訳している。

ここはマーロウの自嘲である。いくら商売とはいえ、アル中の婆さんに酒をあてがって油断させ、写真を手に入れるやり方に自分で嫌気がさしてきているのだ。清水訳ではそれが伝わってこない。<under one’s hand>は「手もとにある、(すぐに)役に立つ」の意味。「どんなことだって平気でやってのけられる」というと、法に背いたり、人の道を踏み外したりしても、というような意味合いが感じられるが、そこまでは言っていない。

「顔は得手ではない」は<I'm not that good at faces>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「写真の顔からそこまでは読み取れない」と訳している。<(be) good at>は「~が得意である」という意味。しかも、<faces>と複数になっているところから見て、この顔写真一枚のことではないことがわかる。顔一般について、その美醜を論じることが得意ではない、と言っているのだ。

「人受けのする顔で、業界向きでもある」は<People had been nice to that face, or nice enough for their circle.>。清水氏は「たしかに、男たちに騒がれたであろう」とあっさり片づけている。村上氏はといえば「人々はそのような顔に対して優しく振る舞ってきただろう。少なくとも彼らの小社会(サークル)の基準からすれば、十分優しく接してきたはずだ」と訳している。<nice to>を「優しく接する」と書いている辞書はある。しかし、これでは英文和訳といわれても仕方がない。村上訳に対する批判はこういう訳に向けられているのだろう。

「とはいえ、よくある顔で、厳密にいえば工場の組立ライン並みの可愛らしさだ」は<Yet it was a very ordinary face and its prettiness was strictly assembly line>。清水氏は「ただ、その美しさは平凡な美しさで」と、後半をカットしている。村上氏は「とはいえそこにある美しさは飛び抜けたものではない。大量生産のラインから生み出される類のものだ」と訳している。

「親愛なる──ヴェルマ・ヴァレント」は<Always yours‐Velma Valento>。清水氏は文字通り「いつもあなたのもの──ヴェルマ・ヴァレント」と訳しているが、<Always yours>は、手紙にそえる定型句で、日本でいえば「敬具」のようなもの。特別な意味合いはこもっていないと思われる。村上氏は「心を込めて」と訳しているが、これでも感情が入り過ぎている気がする。

「黄褐色の見るかげもない眉毛が落ち着かなく動いた」は<The tawny mangled brows worked up and down>。清水氏はここをカット。村上氏は「黄褐色のくしゃくしゃの眉毛が上下した」と訳している。<mangle>は「めった切りにする、切りさいなむ」の意味。手入れされず放置されて、無残な様をいうのだろう。

「幅木に当たってゴツンという音を立てて止まった」は<bringing up with a thud against the baseboard>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「壁の腰板に当たってごつんという音を立てた」と訳している。<baseboard>は「幅木、すそ板」と辞書には出ている。村上氏も別の本では「幅木」と訳しているのだが、ここでは「腰板」と訳している。

「突然、私はこの醜態にうんざりした。ひどすぎる。もうたくさんだ」は<Suddenly I had enough of the scene, too much of it, far too much of it>。清水氏は「私はこれ以上、ここにいる必要はないのだった」と訳している。村上氏は「突然この場の光景に嫌気が差した。私はつくづくうんざりしていた。もうごめんだ」と訳している。<enough of >は「もうたくさん」という意味で、<scene>には「光景」だけでなく「(見苦しい振る舞いの)大騒ぎ」という意味がある。胸につかえていたものが限度を超えたということだろう。

「臭いの染みついた戸棚みたいに小さなナルティのオフィス」は<Nulty’s smelly little cubbyhole of an office>。清水氏はここを「ナルティの部屋」とばっさりとカットして訳している。村上氏は「嫌な匂いのしみついたナルティーの汚らしく狭いオフィス」だ。<cubbyhole>は「小部屋、小空間」の意味だが「こぢんまりして気持のいい部屋」という意味もある。「汚らしく」は訳者の主観が入り過ぎてはいまいか。