HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(3)

《「そいう苦情はよく受けます」私は言った。「が、態度を変えてもうまくいくとも思えない。この仕事について少し考えてみましょう。あなたはボディガードがほしい。しかし、銃は携行させたくない。あなたは助けがほしい。しかし、どう助ければいいか教えもしない。あなたは目的も理由も、どんな危険なのかも知らない私に危険を冒すことを求めている。これにいくら払うつもりですか?」
「それについてはまだ考えていなかった」頬骨に黒っぽい赤みが差した。
「どうなんです。それについて考えられそうですか?」
 マリオットは優雅に体を前に傾け、歯の間で微笑んだ。「鼻に素早いパンチというのはいかがかな?」
 私はにやりと笑って立ち上がり、帽子を手にとった。私は絨毯を横切り、玄関の方に歩きはじめた。ただし、急がずに。
 声が背中にかみついた。「百ドル出そう。二、三時間でいい。それで足りなければ、そう言え。危険はない。私の友人がホールドアップにあって宝石を奪われた―それを私が買い戻すんだ。座ってくれ。そんなにピリピリするな」
 私はピンクの椅子に戻って、座り直した。
「いいでしょう」私は言った。「詳しく話してください」
 我々はみっちり十秒間たがいに見つめあった。「翡翠について聞いたことがあるかね?」彼はゆっくり尋ね、黒っぽい煙草に新しく火をつけた。
「いいえ」
「真に価値のある硬玉だ。他の硬玉は材料としてはある程度価値がある。だが、それらは主として細工の出来によるものだ。翡翠はそれ自身が価値を持つ。知られている限り、鉱床は五百年も前に掘りつくされた。私の友人は、精巧に細工された約六カラットのビーズ六十個からなるネックレスを所有している。八万から九万ドルの価値がある。中国政府はそれよりほんのわずか大きいものを持っているが、十二万五万ドルと評価されている。数日前の夜、友人がホールドアップに遭ってネックレスを奪われた。私もそこにいたんだが何もできなかった。私は友人をイヴニング・パーティーに連れて行った帰り、<トロカデロ>に寄り、そこから友人の家に帰る途中だった。一台の車が左のフロント・フェンダーをかすめて停車した。謝罪するためだろうと思ったんだが、何のことはない。それが頗る機転の利いた手際のいいホールドアップだった。三人か四人組だ。私が実際に目にしたのは二人だが、他に車の運転席に待機していたのは確かだ。それとリアウィンドウにちらっと四人目を見た気がする。友人は翡翠のネックレスを身に着けていた。奴らはそれのほかに指輪二つとブレスレットを盗った。リーダーと思しき人物は、慌てることもなく小さな懐中電灯の下で獲物を調べていた。それから指輪の一つを手渡してこう言った。どんな種類の人間と取引しているか分かっただろう。警察や保険会社に報告する前に電話を待て、と。それで指示に従うことにしたんだ。もちろん、そういうことはよくある。口に蓋をして金を払うか、二度と宝石を見ないで済ませるかだ。保険が満額かけてあれば、多分放っておく。しかしそれが貴重なものなら、金を払って買い戻す方を選ぶだろう」
 私は頷いた。「それにこの翡翠のネックレスはどこにでも転がっている品物ではない」
 マリオットは夢見るような表情を浮かべてピアノの艶出しされた表面に指を滑らせた。夢見るような表情を浮かべ、まるで滑らかなものに触れることで癒されるとでもいうように。
「まさしくその通り。かけがえのない品だ。あれを身につけて出るべきではなかった。しかし、向こう見ずな女でね。他のものも悪くはないが、どこにでもあるものだ」
「なるほど。で、いくら払うのですか?」
「八千ドル。安すぎるくらいだ。しかし、友人が代わりのものを手に入れることができないように、奴らもまた簡単に処分することもできない。あれは国中の同業者の間に知れ渡っているんだ」
「そのあなたの友人ですが―名前はお持ちなんでしょうね?」
「今のところそれをいうのは控えたい」
「どういう段取りになってます?」
 マリオットは淡い青い眼越しに私をじっと見た。ちょっと怯えているようだった。しかし、私は相手をよく知っているわけではない。もしかしたら二日酔いなのかも知れない。黒っぽい煙草を持つ手はじっとしていることができなかった。
「我々は数日間私を通して電話で交渉した。すべて手はずは整った。時間と場所を除いて。今夜のいつになるか。私は今、その電話を待っているところだ。そんなに遠くではないと言っていた。いつでも出られるように準備しておかないといけない。罠を仕掛けられないようにするためだろう。いやその、警察にということだ」
「ははあ。金にはしるしがついているんですか? 紙幣だと思うのですが」
「紙幣だ、当然だろう。二十ドル紙幣。しるしはついていない。なぜそんなものがいる?」
「できるんですよ。ブラックライトを当てれば見えるように―特に理由はありません。警察はギャングどもを潰したがっています―当事者の協力が得られれば、ですが。使った金のどれかから運よく前科者が見つかるかもしれない」
 マリオットは考え深げに眉根にしわを寄せた。「あいにく、ブラックライトやらについては不案内だ」
「紫外線です。特定の金属製のインクを暗闇の中で光らせる。やってあげることもできます」
「今となっては時間がないようだ」彼はそっけなく言った。
「それが気になっていることの一つです」
「というと?」
「今日の午後、なぜ私に電話してきたんです? どうして私だったのか。誰が私を紹介したんですか?」》

「が、態度を変えてもうまくいくとも思えない。この仕事について少し考えてみましょう」は<But nothing seems to do any good. Let's look at this job a little>。清水氏は「しかし、いったい、どういう仕事をさせようというんです?」と意訳している。村上氏は「でも変えようがないもので。いいですか、今回の仕事についてちょっと考えてみましょう」と訳している。

翡翠」は<Fei Tsui jade>。清水氏は「翡翠という硬玉」、村上氏は「フェイツイ翡翠」と訳している。村上氏は「フェイツイ」を固有名詞か何かと考えているふしがある。「フェイツイ」はそのまま「翡翠」の中国語の発音で、<jade>は「硬玉」の意味。その後に長々と説明が続くので、ここは「翡翠」と訳せばいいだけのことだ。

「何のことはない。それが頗る機転の利いた手際のいいホールドアップだった」は<Instead of that it was a very quick and very neat holdup>。清水氏は「それがホールドアップだった」と簡単に訳している。村上氏は「ところが何あろう、それは巧妙に計画された手際のいいホールドアップだった」と訳している。

「紙幣だと思うのですが」は<I suppose it is money?>。清水氏は「支払いは紙幣だと思うが……」。村上氏は「それが本物の金だとすればですが」と訳している。どうしてこういう訳になるのだろう。マリオットの答えは<Currency, of course>。<Currency>は「流通通貨」のことで、通常使われている通貨のことである。ここも村上氏は「今の時点ではもちろん本物だ」と、含みのある言い方をしている。後で何かが起きるのだろうか。