HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第八章(4)

《男は笑った。かなり子どもっぽい笑いだったが、年端も行かない子の笑いではない。「ああ、正直に言うと、電話帳を開いてたまたま見つけたのが君の名前なんだ。元々、誰も連れていかないつもりだった。それが今日の午後、連れがいるのも悪くないと思いついてね」
 私はぺしゃんこになった煙草に火をつけ、相手の喉の筋肉を見た。「で、段取りは?」
 マリオットは両手を広げた。「単に言われたところに行き、金の包みを渡し、そして翡翠のネックレスを受け取るだけだ」
「ははあ」
「君はその表現がお気に入りのようだね」
「表現というのは?」
「ははあ」
「私はどこにいればいいのかな―車の後部座席ですか?」
「そう考えている。なにしろ大きな車だ。楽に身を隠すことができる」
「いいですか」私はゆっくり言った。「あなたは車に私を隠して今夜これから指定される場所に行こうとしている。あなたは八千ドルの紙幣でもって、十倍か十二倍もする翡翠のネックレスを買い戻そうとしている。おそらくあなたが受け取る包みは、受け取れたとしてですが、その場で開けることは許されないでしょう。相手はただ金だけを取り、どこかで金を数え、ネックレスは後で郵送してくる可能性があります。もし、気前がよければ、ですが。相手が裏切らないという保証はどこにもない。私には絶対にそれを止めることができない。相手は強盗犯だ。ごろつきです。奴らはあなたの頭を殴るかもしれない。そう強くはなく、逃げる時間を確保する程度に」
「ああ、実のところ。私もそのことを少し心配している」彼は静かに言った。眼がぴくっと動いた。「誰かに一緒に来てもらいたいと思ったのはそれが理由だ」
「連中はホールドアップの最中、あなたの顔を懐中電灯で照らしましたか?」
 マリオットは首を振った。ノーだ。
「些細なことです。その後何度でもあなたを目にする機会はあったはずだ。いずれにせよ、連中はおそらくあなたのことを事前に調べあげている。この手の仕事には下見がつきものだ。連中は下見をするんです。歯医者が金の詰め物をする前に歯型をとるようにね。あなたはその女性とよく外出するんですか?」
「まあ、往々にしてというところかな」彼はこわばった調子で言った。
「既婚者ですか?」
「いいか」彼は鋭く言った。「その女性のことはこの件からすっぱり除外しておきたい」
「オーケイ」私は言った。「しかし、生兵法は大怪我のもとです。私は手を引くべきだ、マリオット。本当にそうすべきです。連中がまともに取引するつもりなら私は必要ない。もしその気がなければ、私には何もできない」
「君が一緒にいてくれれば、それだけでいいんだ」彼はあわてて言った。
 私は肩をすくめ、両手を広げた。「オーケイ。でも、車は私が運転する。それから金も私が運ぶ―あなたは後部座席に隠れているんだ。我々はよく似た背の高さだ。何か訊かれたら、本当のことをいうさ。失うものは何もない」
「駄目だ」彼は唇を噛んだ。
「私は何もしないで百ドル貰う。もし誰かが殴られなければならないとしたら、それは私であるべきだ」
 マリオットは眉をひそめ、首を振ったが、時がたつにつれてゆっくりと顔が晴れてゆき、やがて微笑みが浮かんだ。
「けっこうだ」彼はおもむろに言った。「大した違いはないじゃないか。我々は一緒にいるわけだし。ちょっとブランデ-でもどうかな」
「ははあ。それと私の百ドル札も持ってきてくれますか。金の手触りが好きでね」
 マリオットはダンサーのように立ち去った。腰から上はほとんど静止していた。
 部屋を出て行きかけたとき電話が鳴った。電話は居間ではなく、バルコニーに穿たれた小さな壁龕にあった。我々が待っていた電話ではなかった。話し声にあまりにも愛情が籠められていた。
 しばらくして、マリオットが踊るように戻ってきた。五つ星のマーテルのボトルと手の切れそうな五枚の二十ドル札を手にして。それで素晴らしい宵となった―少なくともそこまでは。》 

「ぺしゃんこになった煙草」は<my squashed cigarettes>。清水氏は「タバコ」とだけ。村上氏は「くしゃくしゃになった煙草」だ。<squash>は「押しつぶす、ぺちゃんこにする」の意味。ポケットの中でパッケージが押されて、くしゃくしゃになったのだろう。マリオットのいかにも優美な「黒っぽい煙草」との対比だ。

「相手の喉の筋肉を見た」は<watched his throat muscles>。ここを清水氏は「彼の咽喉の筋肉が動くのを見つめた」と訳している。どう見ても<muscles>は名詞なのだが、村上氏も「彼の喉の筋肉が動くのを眺めた」と訳している。村上訳によくあることだが、旧訳をそのまま、少し訳を変えているだけではないか。

「どこかで金を数え」は<count it over in some other place>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「どこか別の場所でそれを数えて」と、ほぼ直訳している。同じく「もし、気前がよければ、ですが」も清水氏はカット。原文は<if they feel bighearted>。村上氏は「もし気前がよければ」と語順を変えて前につけている。

「眼がぴくっと動いた」は<his eyes twitched>。清水氏はここもカット。村上氏は「目がぴくぴく震えた」と訳している。<twitch>は無意識に体の一部をぴくぴく動かせる様子で、痙攣的な動き。緊張の表出である。ここをカットするのはどうだろう。

「マリオットは首を振った。ノーだ」は<He shook his head, no>。清水氏は「彼は頭を横に振った」と訳している。首を振るだけでは、縦か横かはわからない。日本語の場合、ただ「首を振る」というと、横に振ることをいうことが多い。それでこう訳したのだろう。村上氏は「彼は首を振った。ノーということだ」と訳している。

「まあ、往々にしてというところかな」は<Well-not infrequently>。<infrequently>は「まれに」の意味。それを否定しているのだから「しょっちゅう、頻繁に」の意味だ。ところが、清水氏は「いや—―しじゅうというわけではない」と反対の意味に訳してしまっている。誤訳といっていいだろう。村上氏は「ああ—―たまにしか会わないというと嘘になるだろう」と意味ありげに訳している。

「生兵法は大怪我のもと」と意訳したのは<the more I know the fewer cups I break>。なんとなく格言風の響きがあるのでこう訳してみた。清水訳では「よけい知ってる方がしくじる場合が少ない」。村上訳では「不明な事情が多いほど、手違いは起こりやすいものです」だ。もっと、ぴったりくる諺があると思うのだが、不勉強にして思いつかない。

「駄目だ」は<No>。どう考えても否定だと思うのだが、清水氏の訳では「そうだな」と、不服ながらも同意の意を呈している形になっている。これもおかしい。村上訳では「そいつは困る」だ。自分の代わりに相手が危険な目に遭おうとしているのだ。同意するのはモラルに反する。この時点ではマリオットはそこまで腐っているとも思えない。

「彼はおもむろに言った」は<he said slowly>。よく出てくる表現なので「彼はゆっくり言った」と訳したくなるのだが、それだと機械的すぎる。文脈に沿って考えると、言い方ではなく、言葉が出るまでに時間がかかった、と考えられる。そこで、こう訳したのだが、清水氏は「と、彼は苦笑して、いった」と意訳している。村上氏は「と彼はのんびりした声で言った」と訳している。文脈の捉え方ひとつで、簡単な一文がこうも変わる一例である。

「マリオットが踊るように戻ってきた」は<He danced back>。清水氏は<danced>をカットして「部屋に戻って来た」と訳している。部屋を出て行くときの様子と平仄を合わせているのだから、カットするべきではない。村上氏は相変わらず語をふんだんに使用して「彼は再び踊るような身振りで歩いて戻ってきた」と訳している。少し過剰な表現のように思うのは原文のシンプルさに慣れてしまったからだろうか。