HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第十一章(1)


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《坂道を半分ほど登ったところで、右の方に目をやると左足が見えた。女は懐中電灯をそちらに振った。それで、全身が見えた。坂を下りてくるとき、当然見ているはずだった。だが、そのとき私は地面の上にかがみ込み、白銅貨(クォーター)大のペンシル・ライトの光でタイヤ痕を読み取っている最中だった。
「懐中電灯をくれ」私はそう言って後ろに手を伸ばした。
 女は無言で懐中電灯を手渡した。私は片膝をついた。布地を通して地面の冷たさと湿気が伝わってきた。
 それは地面にぐったりと横たわり、茂みの根もとに仰向けになっていた。放り出された衣類のような姿勢が意味するのは一つだけだった。顔は思い出すよすがもなかった。髪は血で黒ずみ、美しい岩棚のようだった金髪に、大古の軟泥のような灰色のどろどろしたものと血が絡み合っていた。
 私の背後で娘が荒い呼吸をしていたが、口はきかなかった。私は光を死者の顔に当てた。顔面は原形をとどめないまでに叩き潰されていた。片手は凍りついたように伸ばされ、指は鈎状に曲がっていた。倒れたとき転がったのだろう、コートの半分が体の下に巻きついていた。両脚は交差していた。口の端から汚れたオイル状の黒い液体が滴っていた。
「灯りを当て続けていてくれ」私はそう言って懐中電灯を渡した。「気分が悪くならなければな」
 女は何も言わずに受け取ると、年季の入った殺人課の古手のようにしっかり構えた。私はペンシル・ライトを再び取り出し、死体を動かさないように気をつけながら、ポケットを探っていった。
「そんなことしちゃだめ」女は緊張して言った。「刑事が来るまで触れちゃいけないのよ」
「その通り」私は言った。「そしてパトカーの警官は刑事が来るまで死体に触ることができない。刑事は検死官が来て死体を検分し、写真班が現場写真を撮り、指紋係が指紋を採取するまで、死体に触れちゃいけない。それにどれだけかかるか知ってるか? ざっと二時間はかかるんだ」
「わかったわ」女は言った。「いついかなる時でも自分は正しい。あなたはそういう人なのね。誰か知らないけど、よほど憎んでいたようね。こんなに頭を殴るなんて」
「そうとばかりは言えない。人による」私はうなった。「世の中には、無性に頭を殴りたがる連中がいるのさ」
「無知をさらしたからには、これ以上の憶測はやめておくのが無難ね」女は辛辣に言った。
 私は死体の着衣を調べた。ズボンの片方のポケットにばらの小銭と紙幣、もう一方に革細工のキーケースと、小さなナイフがあった。左のヒップ・ポケットからはもっと多くの紙幣が入った札入れ、保険証、運転免許証、数枚の領収書が出てきた。上着にはばらけた紙マッチ、ポケットにクリップで留めた金のシャープ・ペンシル、乾いた粉雪のように白い薄い亜麻布のハンカチが二枚あった。そして見覚えのある茶色の吸い口のついた煙草が入ったエナメルのシガレット・ケース。煙草は南米のモンテヴィデオ産だ。もう一方の内ポケットには初めてお目にかかる二つ目のシガレット・ケース。絹地で両側に龍が刺繍されていた。フレームは模造の鼈甲製でありえないほど薄かった。留め金を開け、ゴムバンドで巻かれた三本の特大のロシア煙草を見つけた。一本つまんでみた。古いものらしく、ひからびて、巻きが緩んでいた。中空の吸い口がついていた。
「もう一つの方がお気に入りだった」私は肩越しに言った。「こちらは女友だち用にちがいない。女友だちがたくさんいそうなタイプだった」
 娘が前かがみになり、首に息がかかった。「知り合いじゃなかったの?」
「今夜会ったばかりだ。ボディガードに雇われたんだ」
「とんだボディガードね」
 私には返す言葉がなかった。
「ごめんなさい」彼女はほとんど囁くように言った。「もちろん、私はどんな経緯があったのか知りもしない。それ、マリファナ煙草じゃないかしら? ちょっと見せてくれない?」
 私は刺繍入りのケースを娘に手渡した。
「前に、マリファナタバコを吸う男の人を知ってたの」彼女は言った。「ハイボール三杯にマリファナ煙草を三本吸った人をシャンデリアから降ろすのにパイプレンチが必要だった」
「ライトを動かさないでいてくれ」
 少しの間、かさこそという音がして、彼女はまた口をきいた。
「ごめんなさい」女はケースを返し、私は死体のポケットにそっと戻した。持ち物はこれですべてのようだった。分かったのはマリオットが身ぐるみ剥がれたわけではない、ということくらいだ。
 私は立ち上がって自分の財布を取り出した。五枚の二十ドル札はまだそこにあった。
「高級な連中だ」私は言った。「相手にするのは大金だけときている」》

「茂みの根もとに」は<at the base of a bush>。清水氏は「叢の端に」、村上氏は「茂みの切れ目あたりの」と訳している。<base>は「つけ根、土台」を意味する。それをなぜ、「端」や「切れ目」とするのかがよくわからない。

「放り出された衣類のような姿勢」と訳したのは<in that bag-of-clothes position>。清水氏は「服だけがそこにおかれているようだった」と訳している。村上氏は「そのぐにゃっとした姿勢」と意訳している。その後に続く「意味するのは一つだけだった」は<that always means the same thing>。清水氏はそこをカットしている。村上訳は「~が意味するものはひとつしかない」だ。

娘の胆の座った様子を表す「年季の入った殺人課の古手のようにしっかり構えた」は<as steady as an old homicide veteran>。清水氏は「殺人事件の係の警官のように平然として(死体に電灯を向けた)」と訳している。村上氏は「まるで年期を積んだ殺人課の警官みたいに、落ちついた手で、かざした」と訳している。まず<veteran>だが、「老兵、古参兵」の意味で、前に殺人課とあるから、わざわざ「警官」と言及するのは余計というもの。また、村上氏の「年期」は誤りで「年季」が正しい。

「いついかなる時でも自分は正しい。あなたはそういう人なのね」は<I suppose you're always right. I guess you must be that kind of person>。清水氏は「あなたにまかせるわ。どうせ考えどおりにするんでしょ」と、くだけた調子で訳している。村上氏は「いつだって自分は正しい。間違っているのは他の人ってわけね」と、こちらも自由な表現になっている。興が乗ってくると、訳は走りがちになる。一概に悪いとは言えない。翻訳は英文和訳ではない。原文の持ち味を日本語でどう伝えるかということに尽きる。

上着には」と訳したところを清水氏は「上着の内ポケットには」と訳し、村上氏は「コートには」と訳している。原文はというと<In his coat>とはじまっている。それまで、ズボンのポケットを探っていたマーロウが次に調べるのはどこかといえば、まずは上着だろう。英語の<coat>がスーツの「上着」を意味することは、村上氏はよくご存じのはず。以前『大いなる眠り』ではそう訳していたのを覚えている。普通のコートは<over coat>と原文でも区別している。

ハンカチやマッチ、愛用の煙草をコートのポケットにしまったのでは、屋内に入ったときに取り出すのに不自由だ。ここは上着のポケットと解釈するのが正しい。さらに、すぐ後に<And in the other inside pocket>という記述が来ることから見て「内ポケット」であることも判明している。村上氏にしてはめずらしい凡ミスである。

「特大のロシア煙草」は<oversized Russian cigarettes>。清水氏は「細長いロシア・タバコ」と訳しているが、それだと華奢に読めてしまう。村上氏は「大きなサイズの」と穏当な訳である。

「分かったのはマリオットが身ぐるみ剥がれたわけではない、ということくらいだ
」は<All it proved was that he hadn't been cleaned out>。清水氏は「結局、マリオのからだには、手がふれられていないようだった」という訳になっている。<clean out>には「すべてを盗み出す、一文なしにする」の意味がある。村上訳は「判明したのは、彼は身ぐるみはがれたわけではないということくらいだ」となっている。