HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第13章(3)

《彼女は煙草をもみ消した。口紅はついていなかった。「こうやってあなたを煩わせているのは、私としては警察とうまくやる方が手間が省けると言いたいだけ。昨夜言っておくべきだったわね。それで今朝、事件の担当者を探し当てて会いに行ってきた。初めは、あなたに少し腹を立てていたわ」
「だろうね」私は言った。「たとえ、あったことを洗いざらい話しても、信じなかっただろうさ。やることといえば、とりとめもないことをくどくど話すばかりで」
 娘にはこたえたようだった。私は立って行って別の窓を開けた。通りを行き交う車の騒音が波のように押し寄せてきて、船酔いのように胸がむかついた。机の深い抽斗を開け、オフィス用のボトルを取り出して自分用に一杯注いだ。
 ミス・リオーダンは非難がましくこちらを見つめた。もはや私は身持ちの堅い男ではなかった。彼女は何も言わなかった。私は一息で飲み干し、ボトルを片づけ、腰をおろした。
「私には勧めないのね」彼女は冷やかに言った。
「すまない。まだ十一時かそこいらだ。君は飲みそうなタイプには見えなかったのでね」
 目尻に皺が寄った。「それはお世辞かしら?」
「私の仲間うちでは、そうだ」
 彼女はそれについて考えていた。彼女には何の意味もなかった。私も考えてみたが、私にとっても何の意味もなかった。でも、酒のせいで気分はかなりよくなっていた。
 彼女は机の方に身を乗り出し、手袋でゆっくりガラスを擦った。「助手を雇う気はないのよね? コストといっても時々優しい言葉をかけるだけで済むんだけど」
「ないね」
 彼女はうなずいた。「そう言うだろうと思った。情報を伝え終わったら、家に帰った方がよさそう」 
 私は何も言わなかった。パイプにまた火をつけた。そういう仕種はたとえ何も考えていなくても当人を思慮深く見せるものだ。
「まず考えたのは、そんな博物館級の翡翠のネックレスなら、よく知られていただろう、ということ」彼女は言った。
 私は燃えるマッチを手にしたまま、焔が指に這い寄ってくるのを見ていた。それから、そっと火を吹き消し、灰皿に捨てて言った。
翡翠のネックレスのことを口にした覚えはない」
「そうね、でもランドール警部補は話してくれた」
「誰か、彼の顔にボタンを縫い付けてやるべきだな」
「父の知り合いなの。誰にも言わないと約束した」
「私に話してるじゃないか」
「あなたは知ってるじゃない、馬鹿ね」
 あたかも口を抑えるかのように上がった片手が、途中でゆっくり下りたところで両眼が大きく見開かれた。名演だったが、生来の美質が芝居の邪魔をしているのが見て取れた。
「知ってたわよね?」彼女は声をひそめた。
「ダイヤだと思っていた。ブレスレットが一個、イヤリング一組、ペンダントが一個、指輪が三個、そのうち一つにはエメラルドがついていた」
「洒落にならない」彼女は言った。「だいいち、らしくない」
「本翡翠。逸品。六カラットの細工した玉が六十個繋がっている。八万ドルの価値がある」
「あなたはそんな素敵な茶色の眼をしている」彼女は言った。「それでいて、自分はしたたかだと思ってるのね」
「それで、持ち主は誰で、どうやって知ったんだ?」
「見つけるのはとっても簡単だった。考えたの、街一番の宝石商なら知ってるんじゃないかと。それで<ブロック>の支配人に会いに行った。珍しい翡翠についての記事を書きたいので、お話を伺いたいと言って―得意の手よね」
「それで、支配人は君の赤毛と抜群のプロポーションを信じたって訳だ」
 彼女はこめかみまで赤くなった。「まあ、いろいろと教えてくれた。持ち主はベイ・シティに住む裕福な女性、ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイル。屋敷はキャニオンにある。夫は投資銀行家か何かで資産二千万ドルという途方もない金持ち。以前はビヴァリー・ヒルズのKFDKという放送局のオーナーだった。夫人はそこで働いてたの。二人は五年前に結婚した。彼女はうっとりするような金髪。ミスタ・グレイルはご年配で肝臓の薬が欠かせなくて家から出られない。その間、夫人はいろんなところで大いに羽を伸ばしてる」
「そのブロックの支配人」私は言った。「ずいぶん顔が広いようだ」
「まさか、全部支配人から聞いた訳じゃない、馬鹿ね。ネックレスの件だけ。残りはギディ・ガーティー・アーボガストから聞いたの」
 私は深い抽斗の底に手を伸ばし、オフィス用ボトルをまた取り出した。
「小説に出て来る酔いどれ探偵の仲間入りをしようとしてるんじゃないでしょうね?」彼女は心配そうに訊いた。
「いけないか? 連中は汗ひとつかかないで、いつも事件を解決してる。話を続けてくれ」
「ギディ・ガーティーは『クロニクル』の社交欄の編集長で、古くからの知り合い。体重二百ポンドでヒトラー髭を生やしてる。編集部のファイルを漁ってグレイル家の資料を見つけてくれた。見て」
彼女はバッグに手を伸ばし、一枚の写真を机の上に滑らせた。インデックス・カード大の光沢のある写真だ。》

「こうやってあなたを煩わせているのは、私としては警察とうまくやる方が手間が省けると言いたいだけ」は<The only reason I'm boring you with this is that it makes it easy for me to get along with policemen>。清水氏は「私がこんな話をするのは、父の代わりに手伝いをしたいからなのよ」と、一歩踏み込んだ訳になっている。村上氏は「私がこんな打ち明け話をしてあなたをうんざりさせているのは、私にとっては、警察とうまくやっていく方が容易いんだということが言いたいからよ」と、ほぼ直訳している。

「やることといえば、とりとめもないことをくどくど話すばかりで」は<All he will do is chew one of my ears off>。清水氏はここをカットしている。<chew one of my ears off>にとまどったのだろう。村上訳では「どうせ私の耳を片方食いちぎるつもりでいるんだから」と、訳している。<chew one's ear off>は「とりとめもないことをぺらぺら喋る、くどくどと話す」という意味のイディオムだが、村上氏はご存じなかったようだ。

「目尻に皺が寄った」は<Her eyes crinkled at the corners>。清水氏はここをカット。村上氏は「目の端っこにしわがよった」と直訳している。「目尻にしわを寄せる」は、日本語の慣用句だ。わざわざ「目の端っこ」と表現しなければならないほどの意味がここにあるのだろうか。

「名演だったが、生来の美質が芝居の邪魔をしているのが見て取れた」は<It was a good act, but I knew something else about her that spoiled it>。清水氏は「うまい芝居だったが、彼女にはそぐわなかった」と意訳している。村上氏は「なかなか見事な演技ではあったが、彼女の中にある何か特別なものがその効果を損なっていることが私にはわかった」と訳している。 <something else>には「何かほかのもの」という意味のほかに「格別にすばらしいもの(あるいはその逆)」という意味がある。まだるっこしく訳すより、ずばり「美質」とした方がわかりよい。

「洒落にならない」、「だいいち、らしくない」は<Not funny>、<Not even fast>。清水氏は「駄目だわ。そんなこといってしらばっくれても」と間にある<she said>を抜いて、一文にしている。村上訳では「冗談はよして」、「だいいいち面白くもないわ」。<not even~>は「~でさえない」の意味だ。<fast>には「速い」のほかに、いくつもの意味があって、その中のどれを採るかで全く意味が変わってくる。しかし、村上氏のいう「面白い」にあたる意味はない。氏は<Not funny>の意味を敷衍しているだけだ。

ここは適当なことを言ってお茶を濁そうとしたマーロウを、彼女が手厳しくやりこめているところだ。まず、思い違いという言い逃れでは冗談にもならない、というのが一つ。次に、マーロウという人間は簡単に本当のことは言わないが、適当な嘘をいう人間ではない、という彼女なりのマーロウという人間に関する人間観がある。それにも該当しない、というのが二つ目だ。とすると、この場合の<fast>は「(主義・主張・信念などが)固く、しっかりと」している、という意味ではないか。だから、そう言われたマーロウは、すぐに本当のことを話すのだ。

「得意の手よね」は<you know the line>。清水氏は「……」とぼかしている。村上氏は「やり方はわかるでしょう」と訳している。この場合の<line>は議論や活動の「筋道」というくらいの意味。<you know>は文字通り「わかるでしょう」と訳すこともできるが、同意や念押しの意味で使う「ね、よ、さ」と考える方が自然。

「連中は汗ひとつかかないで」は<they never even sweat>。先に出てきた<not even>をより強めた言い方で「決して~でない」という意味だが、清水氏はこの部分をカットしている。村上氏は「連中は涼しい顔をして」と訳している。否定形を肯定形で訳す典型的な訳例になっている。小説の中で痛い目にあわされることの多いマーロウとしては、他のハードボイルド小説の探偵が難なく事件を解決するのが不満のようだ。チャンドラーの皮肉だろう。

「編集部のファイルを漁ってグレイル家の資料を見つけてくれた」は<He got out his morgue file on the Grayles. Look>。清水氏は「グレイル夫人の写真をもらってきたのよ」とずいぶんあっさりと訳している。村上訳では「グレイル家の参考資料を引っ張り出してきてくれた」となっている。村上訳ではギディー・ガーティーは、社交欄担当記者になっているが、原文では<editor>。「編集者」の意だが新聞社なら「編集長、主幹」の扱いではないか。で<morgue>だが、<file>が後につくと新聞社の保存資料のこと。

「インデックス・カード大の光沢のある写真だ」は<a five-by-three glazed still>。清水氏は「写真」とだけ。村上氏は「十二センチ×八センチの光沢のある写真だった」と、例のごとくセンチメートルに換算して記述している。こういうところの律義さは見習いたいくらいのものだ。ただし、5×3は「情報カード」という名で通っているカードの大きさのひとつ。梅棹忠雄氏が『知的生産の技術』で世に知らしめた京大型カードがそれにあたる。わざわざメートル法で換算するのもアリだが、通用しているものを使うのも手だろう。