HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第13章(5)

《見るたびに好ましくなる顔だ。目の覚めるようなブロンドなら掃いて捨てるほどいる。しかし、この娘の顔は見飽きるということのない顔だ。私はその顔に微笑んだ。
「いいかい、アン。マリオット殺しはつまらんミスだ。今回のホールドアップの背後にいるギャングは決してこんなことはしない。ヤクで頭がいかれた奴の仕業だ。連中が連れていった用心棒が泡を食ってやったに決まっている。マリオットがへまをやり、どこかのちんぴらが殴り殺した。咄嗟の出来事で止める手立てがなかった。宝石とそれを身につける女性についての内部情報を持つ組織された集団がいる。穏当な価格で買戻しを要求し、約束は守る。路地裏の殺人など連中の流儀に合わない。私の見るところ、やった男が誰であれ、とうに足首に錘をつけられて、太平洋の底に沈んでいる。翡翠は死体と一緒に沈んだか、さもなければ、連中が本当の値打ちを知っててどこかに隠しているかだ。ほとぼりが冷めるまで―長い間、ひょっとしたら数年も。もしそれができるくらい大きな組織なら、地球の向こう岸に姿を現すかもしれない。八千ドルという要求額は、翡翠の本当の値打ちを知っていたならちょっと安すぎる。まあ、売るのは難しいだろうが。ひとつ確かなことは、連中は誰も殺したりしないということだ」
 アン・リオーダンはかすかに唇をひらき、うっとりした表情を顔に浮かべながら耳を傾けていた。まるでダライ・ラマを前にしているかのように。
 それから、ゆっくり唇を閉じ、一度うなずいた。「あなたって素晴らしい」彼女は優しく言った。「でも、いかれてる」
 彼女は立ち上がり、バッグを手もとに引き寄せた。「会いに行く気はあるんでしょう?」
「ランドールの出る幕じゃない―依頼人が彼女なら」
「わかった。私は他社の社交欄の編集者を捜してグレイル家についての情報を漁ってみるつもり。彼女の知られざる性生活について。ひとつくらいはありそうじゃない?」
 鳶色の髪に縁どられた顔は物憂げだった。
「誰にだってあるんじゃないのか?」私は皮肉った。
「私には、あんまりないの」
 私は手を伸ばして口をふさいだ。彼女は私に鋭い一瞥をくれて、ドアの方に向かった。
「何か忘れていないか」私は言った。
 彼女は足をとめて振り向いた。「何?」彼女は机の上を見回した。
「よく分かってるはずだ」
 彼女は引き返し、真剣な面持ちで机越しに身を乗り出した。「そんなに手を汚したくない人たちが、なぜマリオットを殺した男を殺すの?」
「いったん捕まったとなったら、ヤクを取り上げられた途端、ぺらぺらしゃべり出しそうなタイプだったからさ。言いたかったのは、連中は客を殺したりしないってことだ」
「殺した男がヤクをやってたことは確かなの?」
「そいつは分からない。言ってみただけのことだ。大方のちんぴらはやってる」
「そう」彼女は背を伸ばし、うなずいて微笑んだ。「これのことを言ってるのね」彼女はそう言うと、バッグの中から手早く小さなティッシュの包みを取り出して机の上に置いた。
 手にとってゴムバンドをほどき、注意深く紙を開けた。長くて太いロシア煙草が三本出てきた。紙の吸い口つきだ。私は黙って彼女を見た。
「持ってきてはいけないことは知ってる」彼女は息を継ぐ間を置かずに続けた。「でも、マリファナ煙草だと気づいた。普通はただの紙巻きだけど最近ベイシティ界隈に出回ってるのはちょうどそんな具合。何度か見たことがある。哀れな男が死体で発見された挙句、ポケットからマリファナ煙草まで出てくるのは、ちょっと気の毒かなと思ったの」
「ケースごと持ってくるべきだったな」私は言った。「中に細かな屑が残っていた。空っぽだと疑いを抱かせるもとになる」
「できなかった―そこにあなたがいたので―私、私はもう少しで戻ってそうしようとした。でもそうするだけの勇気がなかった。あなたの立場が悪くなったんじゃ?」
「いや」私は嘘をついた。「そんなことはない」
「それならよかった」彼女は物憂げに言った。
「なぜ捨ててしまわなかったんだ?」
 彼女はそれについて考えた。小脇にバッグを抱え、ばかばかしいほど大きな帽子のつばの陰で片目を隠すようにして。
「たぶん私が警官の娘だから」彼女はようやく言った。「証拠物件を捨ててはいけない」彼女の微笑みは脆く、後ろめたそうで、頬があからんでいた。私は肩をすくめた。
「そうね―」言葉は窓を閉じた部屋の中の煙のように宙吊りにされた。そう言ったあと唇は開いたままだった。私は放っておいた。頬に差した赤みが深くなった。
「ごめんなさい、やるべきじゃなかった」私はそれもやり過ごした。
 彼女はそそくさとドアに向かい、立ち去った。》

「掃いて捨てるほどいる」を、清水氏はそのまま「一ダースでダイム(十セント)だったが」と訳している。<a dime a dozen>は「簡単に手に入る、ありふれたもの」という意味で使われる表現だ。村上氏は「一束いくらで手に入る」と訳している。

「この娘の顔は見飽きるということのない顔だ」は<that was a face that would wear>。清水氏は「この顔はちがっていた」と、<wear>をきちんと訳していない。村上氏は「この娘の顔は歳月に耐えるようにできている」だ。<wear>の意味のひとつである「使用に耐える、もつ」を採ったのだろう。ここは、俗にいう「美人は三日見たら飽きる」の逆を言っているのだろう。会うたびに違った印象を見せるのは、内面からにじみ出るものがあるからだ。アンはそういう娘である。

「ヤクで頭がいかれた奴の仕業だ」は<was that some gowed-up run>。<gow>は「麻薬、マリファナ煙草」を表す名詞。清水氏はここをカットしているので、その後唐突に麻薬の話が出てくるのが不自然に思える。村上氏は「ヤクで頭がいかれて」と訳している。

「まあ、売るのは難しいだろうが」は<But it would be hard to sell>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「実際に捌くのはかなり難しいにしてもだ」と訳している。つまり、当初の目的は八千ドルだったが、手違いで翡翠が手元に残ってしまった。すぐに売りさばくには名が売れすぎていて足がつく恐れがある。そういう次第で、翡翠はしばらくは表舞台には出てこない、とマーロウは考えているわけだ。

「彼女の知られざる性生活について」は<About her love life>。清水訳だと「夫人の恋愛生活について」。村上訳だと「彼女の男性交友関係についてね」。<love life>は、どの辞書を引いても一番に上がってくるのは「性生活」という訳語だ。「恋愛生活」だとか「男性交友関係」というのは、忖度が過ぎる訳語というものではないだろうか。それともう一つ、村上訳の「男性」という語は不要だろう。男性側の同性愛傾向についてはあけすけに書かれている。女性の場合だけ異性愛に限定するのはフェアじゃない。

「私には、あんまりないの」は<I never had. Not really>。清水氏は「私は経験がないのよ。ほんとうに」、村上氏は「私にはそんなものひとつもなかったわ。ほんとに」と訳している。<love life>をどう解釈するかで、訳し方も変わってくるところだが、<Not really>の訳が気になる。<not really>は「あんまり、それほどでもない」という意味だ。<I never had>と、強く否定した後でつけ足していることから考えても「ほんと(う)に」という訳語は相応しくないように思う。

「彼女は背を伸ばし、うなずいて微笑んだ」は<She straightened up and nodded and smiled>。清水氏は「といって彼女はうなずいた」。村上氏は「彼女は身体をまっすぐに伸ばし、微笑んだ」。清水氏は<straightened up>と<smailed>、村上氏は<nodded>を訳していない。アンが隠匿した証拠の品を見せることになる大事な一幕だ。一つ一つの動作に意味がある。簡単に略すべきではない。

「長くて太いロシア煙草」は<long thick Russian cigarettes>。清水氏は「長いロシア・タバコ」。村上氏は「長くて中身の詰まったロシア煙草」。<thick>には、「(頻度が)詰まった」という意味がある。しかし、第十一章で、そのロシア煙草のことを「古いものらしくからからになって、中身が緩んでいた」と書いたのは当の村上氏である。アンが隠し持っていたものが同じ煙草である以上、突然中身が詰まったりしないはずだが、どうなっているのだろう。ついでながら、同じ個所で、村上氏は「吸い口」ではなく「マウスピース」と、書いていた。このあたりの訳語の不統一が目立つところも気になる点だ。