HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第17章(2)

【訳文】

《寝具の下で女のからだは木像のように硬直した。目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で。息は止まった。
「信託証書が高額すぎてね」私は言った。「この辺りの物件の価格からいうとだが。リンゼイ・マリオットなる人物の所有になる債権だ」
 女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた。
「あの人のところで働いていたことがある」彼女はやっと言った。「あの家の使用人だったんだよ。それで、ちっとばかし面倒を見てくれてる」
 私は火のついていない煙草を口からとり、あてもなく眺め、また口に突っ込んだ。
「昨日の午後、あんたに会った数時間後、ミスタ・マリオットがオフィスに電話してきた。仕事の依頼だった」
「どんな仕事の?」声はひどく嗄れてきていた。
 私は肩をすくめた。「それは言えない。守秘義務がある。それで昨夜、会いに行った」
「如才ない男だよ、あんたは」彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした。
 私は彼女を見つめ、黙っていた。
「ずる賢いお巡りだ」彼女は嘲笑った。
 私はドア枠に置いた手を上下に動かした。ぬるぬるしていた。触るだけで風呂に入りたくなった。
「それだけだ」私は如才なく言った。「ちょっと気になった。多分何でもない。偶然の一致だろうけど。何か意味がありそうに思えてね」
「小癪なお巡りだ」彼女は虚ろな声で言った。「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」
「仰せのとおり」私は言った。「邪魔したね、ミセス・フロリアン。それはそうと、明日の朝、待ってても書留は来ないと思うよ」
 彼女は布団をはねのけ、起き上がった。眼がぎらついていた。右手で何か光った。小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ。
「吐きな」彼女は吠えた。「さっさと吐くんだ」
 私は銃の方を見た。銃も私を見ていた。構えはしっかりしていない。銃を握った手が震えはじめた。しかし、眼はまだぎらつき、唾液が口角で泡立っていた。
「あんたとなら組んで仕事ができそうだ」私は言った。
 銃と彼女の顎が同時に下がった。私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた。
「考えておいてくれ」私は後ろに呼びかけた。
 返事はなかった。何の音もしなかった。
 私は急いで廊下と食堂を通って家を出た。歩いている間も背中が落ち着かなかった。筋肉がむずむずした。
 何も起こりはしなかった。通りを歩いて自分の車に乗り込み、そこを離れた。
 三月最後の日だというのに真夏のように暑かった。運転中、上着を脱ぎたくなった。七十七丁目警察署の前で、パトロール警官が二人、曲がったフロント・フェンダーを睨んでいた。スイングドアから入ると、制服姿の警部補が手すりの後ろで事件簿を見ていた。ナルティは上にいるか訊いた。いるはずだが、知り合いか、と聞いたので、そうだと答えた。彼は、分かった、上がれ、と言い、私は古ぼけた階段を上って廊下伝いに進み、ドアをノックした。怒鳴り声が聞こえたので中に入った。
 ナルティは歯の掃除中だった。椅子に座り、足は別の椅子に預けていた。目の前に腕を伸ばして左手の親指を見ているところだった。親指は何ともなさそうに見えたが、ナルティは陰気に見つめていた、まるで治らないとでも思っているかのように。
 その手を腿まで下げ、足を振って床に下ろし、親指でなく私を見た。ダークグレーのスーツを着ていた。端に噛み跡の残る葉巻が机の上で歯の掃除が済むのを待っていた。
 椅子に結んでいないフェルトのシートカバーを裏返して座り、煙草をくわえた。
「君か」ナルティは言い、爪楊枝が充分噛まれたか検分した。
「うまくいってるか?」
「マロイのことか? もうそれに興味はない」
「どうなってるんだ?」
「どうもこうもない。あいつは逃げた。我々はテレタイプで奴の情報を送り、向こうはそれを受信した。今頃はとっくにメキシコだろうさ」
「そうだな、たかだか黒人一人殺しただけだ」私は言った。「微罪といえるだろう」
「まだ引っかかってるのか? 自分の仕事があるはずだろう?」薄青い眼がじっとりと私の顔を睨め回した。
「昨夜の仕事は長続きしなかった。あのピエロの写真、まだ持ってるか?」
 彼はデスクマットの下を探り、差し出した。相変わらずきれいだった。私はその顔に見入った。
「これは本当は私のものだ」私は言った。「ファイルする必要がないなら、自分で持っていたい」
「ファイルに入れるべきだが」ナルティは言った。「詳しいことは忘れた。オーケイ、ここだけの話だ。そういうことにしておく」
 写真を胸のポケットに入れ、立ち上がった。「じゃあな、用はそれだけだ」言い方が少しはしゃぎ過ぎだった。
「何だか匂うな」ナルティが冷たく言った。
 私は机の端に置かれた一本のロープに目をやった。ナルティは私の視線を追った。そして爪楊枝を床に投げ捨て、噛み跡のある葉巻を口にくわえた。
「これでもないな」彼は言った。
「まだはっきりしない。固まってきたら、君のことを忘れないようにするよ」
「いろいろ大変でね。チャンスが欲しいんだ」
「君のような働き者にこそ与えられてしかるべきだ」私は言った。
 ナルティは、親指の爪で擦ったマッチが一度でついたのが嬉しかったのだろう、葉巻の煙を吸い始めた。
 「笑わせてくれるよ」ナルティは悲しげに言った。私は外に出た。
 廊下は静かだった。建物全体が静まり返っていた。玄関の前ではパトロール警官がまだ曲がったフェンダーをのぞき込んでいた。私は車を走らせてハリウッドに帰った。
 オフィスに足を踏み入れると、電話のベルが鳴っていた。私は机に身を乗り出して言った。「もしもし」
フィリップ・マーロウ様でしょうか?」
「はい、マーロウですが」
「こちらはミセス・グレイルの家の者です。ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイル。ご都合がつき次第、ミセス・グレイルがここでお目にかかりたいそうです」
「お住まいはどちらですか?」
「住所は、ベイ・シティ、アスター・ドライヴ八六二です。一時間以内にお出でになれますか?」
「あなたはミスタ・グレイルですか?」
「そうではありません。執事です」
「ドアの呼び鈴が鳴ったら、それが私だ」私は言った。》

【解説】

「寝具の下で女のからだは木像のように硬直した」は<She was rigid under the bedclothes, like a wooden woman>。村上訳は「布団の中で彼女はさっと身をこわばらせた」だが、清水氏は「彼女は蒲団の上で体を硬ばらせた」と訳している。「蒲団の上」だと、次に女のとる行動に齟齬をきたす。

「目蓋も凍りついた。縮んだ虹彩を半分覆った位置で」は<Even her eyelids were frozen half down over the clogged iris of her eyes>。清水氏は「半ば眼蓋(まぶた)を閉じ」と短くまとめている。村上氏は「まつげまで凍りついた。それはどんよりした虹彩の上に半分降りかけたまま、固定されてしまった」と訳している。<eyelids>は「まぶた」のはずだが、村上氏はなぜ「まつげ」と訳したのかが分からない。単なるまちがいだろうか。

「女の眼が忙しく瞬いたが、他は何も動かなかった。じっと見据えていた」は<Her eyes blinked rapidly, but nothing else moved. She stared>。清水氏は「彼女はからだを緊張させたままだった」と眼については一切触れていない。村上訳は「彼女の目は素ばやくしばたたかれた。しかしそれ以外の部分は微動だにしなかった。彼女はじっと前を睨んでいた」と、ほぼ直訳に近い。

「彼女は嗄れ声で言い、寝具の下で手を動かした」は<she said thickly and moved a hand under the bedclothes>。からだを「蒲団の上」に出したままにしている清水氏は「と、彼女はいまいましそうにいって、蒲団の下に手を入れた」と、ここで手だけを蒲団の下にもぐり込ませている。少し分かりやす過ぎるだろう。村上訳だと「と彼女は野太い声で言って、布団の中でもぞもぞと片手を動かした」になる。村上訳は修飾語が増える傾向にある。

「本物のお巡りでもない。ただの三文探偵のくせして」は<Not a real copper at that. Just a cheap shamus>。清水氏はここをカットして、前の台詞と併せて「だから嫌いだというんだよ、探偵は」と訳している。村上氏は「それも本物のお巡りですらない。ただのぺらぺらの私立探偵じゃないか」と訳している。

「小型リヴォルヴァー、バンカーズ・スペシャル。旧式で古びていたが、まだ務めは果たせそうだ」は<A small revolver, a Banker's Special. It was old and worn, but looked business-like>。清水氏は「小さなピストルだった。古めかしい、汚れたピストルだった」と、拳銃の種類を明らかにしない。村上訳は「小型のリヴォルヴァーだった。バンカーズ・スペシャル、年代物でくたびれていた。しかし、用は足せそうだ」。バンカーズ・スペシャルは、有名なディテクティブ・スペシャルより銃身が短く軽いコルト社製の小型拳銃だ。

「私はドアの傍にいた。銃が下がっている間に私は隙間を滑り抜けた」は<I was inches from the door. While the gun was still dropping, I slid through it and beyond the opening>。清水氏は「私は少しずつドアからはなれた」と訳している。<I was inches from the door>を<by inches>(少しずつ)と読んだのだろう。村上訳は「私はドアから数センチのところにいた。銃が下に向けられているあいだに、私はドアの外に出て、弾丸の届かぬところに逃れた」だ。

「彼はデスクマットの下を探り、差し出した」は<He reached around and pawed under his blotter>。またしても<blotter>の登場である。清水氏は「彼は吸取紙の下を探って、写真を取り出した」と「吸取紙」説をとる。村上氏は「彼は手を伸ばして、下敷きの下を探った。それを掲げた」と「下敷き」説をとっている。写真を下に挟んでおくのに、何が一番ふさわしいだろう。

「言い方が少しはしゃぎ過ぎだった」は<I said, a little too airily>。清水氏はここをカットしている。村上訳では「と私は言った。私の声はいささか軽やかすぎたのだろう」となっている。

「これでもないな」は<Not this either>。この台詞は、その前の「何だか匂うな」を受けてつぶやかれている。マーロウの行動に不信感を抱き、それとなしに隠し事があるだろう、とほのめかしているのだ。マーロウの目がロープを見たのは、その言葉を文字通りとってみせたからで、ナルティも形式的にそれに追従している。<this>は、匂いのもとのことだ。清水氏も「これでもない」と訳している。

ところが、村上訳を見ると「こっちも手詰まりだ」となっている。<this>はナルティ自身を指している。では何が<not either>なのだろう? その前のマーロウの言った「昨夜の仕事は長続きしなかった」<I had a job last night, but it didn't last>を受けていると読んだのだろう。ナルティの置かれている状況を考えると、こう訳すことで話のつながりはよくなる。しかし、そうすると、その前のロープに関するやりとりが意味を持たなくなる。チャンドラーが、必要もない物を描写するとは思えない。

「笑わせてくれるよ」は<I’m laughing>。清水氏は「俺は笑ってるよ」と訳している。いかにも唐突に見えるが、第六章の「はあ? そいつは愉快だ。非番の日に思い出して笑うことにするよ」を受けての台詞であることは言うまでもない。村上氏は「笑わせるのがうまい男だ」と訳している。マロイの担当がはずれて暇を持て余しているナルティの自嘲だ。非番ではないが、何もできない今の私はせめて笑うしかない、というわけだ。