HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第26章

―訳者には自分の解釈を読者に押しつける権利などない―

【訳文】

《クローゼットの扉には鍵がかかっていた。椅子は持ち上げるには重すぎた。がっしりしているのは訳があったのだ。シーツとベッドパッドを剥ぎとり、マットレスを片側に引っ張った。下は網状のスプリングになっており、黒いエナメルを塗った九インチほどの金属コイルばねで上と下に固定されていた。その中のひとつを外しにかかった。こんなに辛い仕事はしたことがなかった。十分後、二本の指が血を流し、一本のばねが緩んでいた。振ってみた。いいバランスだった。重かった。鞭のようにしなった。
 そこまで済ませてから、ウィスキーの瓶が目に留まった。それで事足りたのに、すっかり忘れていた。
 もう少し水を飲んだ。剥き出しになったスプリングの横に座って、ほんの少し休んだ。それからドアのところまで行って、ヒンジ側に口をあてて大声をあげた。
「火事だ! 火事だ! 火事だ!」
 あっという間だったが、待つのは愉快だった。男は外の廊下を必死で走ってきて、乱暴に鍵穴に鍵を差し込み、強く回した。
 ドアが勢いよく開いた。私は開口部側の壁にべたりと張りついていた。男は今度は棍棒を手にしていた。長さ五インチ、編んだ茶色の革で被われた、洒落た道具だ。男の目は裸に剥かれたベッドに飛びつき、それから振り向こうとした。
 私は忍び笑いを漏らし、男を殴った。側頭部をコイルばねで打ちのめされ、男は前によろめいた。相手を膝まずかせ、もう二発殴った。うめき声が聞こえた。ぐったりした手から棍棒を取り上げると、哀れっぽい声を出した。
 男の顔を膝で蹴った。膝が痛かった。相手の顔が痛かったかどうかは聞いていない。男がまだうめいている隙に、棍棒を使って気絶させた。
 ドアの外側に差しっ放しになっていた鍵を抜き、内側から鍵をかけ、男を調べた。男は他にも鍵を持っていた。そのうちのひとつがクローゼットの鍵だった。私は自分のポケットを探った。財布から金が消えていた。白衣の男のところに戻った。仕事に見合わない金を持ち過ぎていた。自分の持っていた金を取り返し、男をベッドに持ち上げ、手首と足首を縛り、半ヤードのシーツを口に詰め込んだ。彼の鼻はつぶれていた。息ができるかどうか確かめるために、しばらく待った。
 かわいそうなことをした。どこにでもいる働き者の男が、週給の小切手にありつこうと必死で仕事にしがみついていただけのことだ。たぶん妻子持ちだ。気の毒に。そして、彼が頼みとするのは棍棒だけだった。不公平に思えた。私は混ぜ物入りのウィスキーを彼の手の届くところに置いた。もし、彼の手が縛られていなかったら、だが。
 私は男の肩を叩いた。憐れで泣きたいくらいだった。
 服は全部、クローゼットのハンガーにかかっていた。ショルダー・ホルスターには銃まで入っていた。ただし弾丸はなかった。縺れる指で服を着た。欠伸が止まらなかった。
 男はベッドの上で静かにしていた。私は男をあとに残し、鍵をかけた。
 広い廊下は静まり返っていた。三枚あるドアはみな閉まっていて、どこからも音は聞こえてこなかった。廊下の中央には葡萄酒色の絨毯が敷き詰められ、他の部屋と同じくらい静まり返っていた。突き当りで廊下は湾曲し、そこから直角に別の廊下が、ホワイトオークの手摺がついた大きな昔風の階段の降り口に通じていた。それは優雅な曲線を描いて下の薄暗い廊下まで下りていた。下の廊下の突き当りはステンドグラスが嵌った二枚の中扉で仕切られていた。モザイク状の廊下には厚い敷物が敷かれ、ドアのわずかな隙間から光がこぼれていた。しかし、音は聞こえてこなかった。
 年代物の屋敷だ。かつてはこぞって建てられたものだが、今では建てられることはない。おそらく静かな通りに面し、横手に薔薇をはわせた東屋を配し、正面には色とりどりの花々が咲きこぼれているにちがいない。晴朗なカリフォルニアの陽光を浴びて、品よく涼しげで物静かに。誰が中のことを気にかけよう。あまり大声を出させないことだ。
 階段を降りようと足を踏み出したとき、咳が聞こえた。あたりを窺うと、突き当りから延びた方の廊下沿いに半開きのドアがあった。つま先立ちで絨毯の上を歩いた。私は半分開いたドアに近寄って待機した。中には入らなかった。楔状の光が絨毯の上の私の足に落ちた。咳がまた聞こえた。厚い胸から出た、深みのある咳だった。いかにも平和でやすらかに響いた。私には関係のないことだった。私の仕事はここから出ることだ。しかし誰であれ、この家でドアを開け放しにできる人物に興味が湧いた。帽子をとって敬意を表すに相応しい地位にいる人物だろう。私は楔状の光の中にそっと踏み込んだ。新聞ががさがさと音を立てた。
 部屋の一部は見て取れた。普通の部屋のように家具調度つき、独房には見えない。黒っぽい衣装箪笥の上に帽子と雑誌が何冊か。窓にはレースのカーテン、絨毯もそれなりの品だ。
 ベッドのスプリングが軋んだ。咳に見合う大男だ。指先をドアに伸ばして一インチか二インチほど押した。何も起こらなかった。これ以上はできないほどゆっくり、首を伸ばした。やっとのことで部屋の中が見えた。ベッドがあり、その上に男がいた。灰皿に山と積まれた吸殻が溢れ出し、ナイト・テーブルから絨毯の上にこぼれ落ちていた。一ダースほどの皺くちゃの新聞紙がベッドの上に散らばっていた。そのうちの一枚が大きな手で大きな顔の前に広げられていた。緑色の紙の端から髪の毛がのぞいていた。ほとんど真っ黒と言っていいふさふさした縮れ毛の下に白い肌が線になって見えていた。新聞が少し動いた。私は息を殺した。ベッドの男は顔を上げなかった。
 彼は髭を剃る必要があった。常に髭を剃る必要があるのだ。私はかつてセントラル・アヴェニューにある<フロリアンズ>という黒人専用の安酒場で彼に会っている。そのときは白いゴルフボールのついた派手なスーツを着てウィスキー・サワーを手にしていた。彼が握ると玩具に見えるコルト・アーミーを手に、素知らぬ顔で壊れたドアから出てきた。仕事ぶりはそのときいくつか拝見したが、相変わらずの手並みのようだ。
 彼はまた咳をしてベッドの上で尻を転がし、大きな欠伸をすると、ナイトテーブル上の皺くちゃになった煙草の箱に手を伸ばした。そのうちの一本を口に咥えた。親指の端で火が揺らめいた。鼻から煙が出てきた。
「ああ」彼は言った。新聞が再び顔の前に持ち上がった。
 私は彼をそこに残し、廊下伝いに戻った。ミスタ・ムース・マロイは手厚いもてなしを受けているようだ。私は階段に戻り、そこを下りた。
 わずかに開いたドアの向こうでくぐもった声が聞こえた。返事する声を待った。何も聞こえなかった。電話の会話だ。ドアが閉まっていることを確認し、聞き耳を立てた。呟きに似た低い声だった。話の中身は聞き取れなかった。最後にかちりと乾いた音がした。そのあと部屋の中は沈黙に包まれた。
 遠くへ立ち去る潮時だった。そういう訳で、私はドアを押し開け、静かに入り込んだ。》

【解説】

「シーツとベッドパッドを剥ぎとり、マットレスを片側に引っ張った」は<I stripped the sheets and pad off the bed and dragged the mattress to one side>。清水氏は「私はベッドのシーツを剥ぎとって、マットレスをめくった」と訳している。マットレスを「めくる」ことができるかどうかはさておき、<pad>が忘れられている。村上氏も「私はシーツをはぎ取り,ベッドを裸にし、マットレスを片側に引っ張った」と詳細な割にパッドは無視している。パッドなしではスプリングが体を刺戟して寝心地が悪かろうに。

「そこまで済ませてから、ウィスキーの瓶が目に留まった。それで事足りたのに、すっかり忘れていた」は<And when this was all done I looked across at the whiskey bottle and it would have done just as well, and I had forgotten all about it>。清水訳にこの二文は見当たらない。村上訳は「そこまで作業を終えたところで、部屋の向こうにあるウィスキーの瓶に(ママ)目にとまった。こんな面倒なことをしなくても、それひとつあれば用は足りたのだ。やれやれ、瓶のことをすっかり忘れていた」だ。

「男は今度は棍棒を手にしていた。長さ五インチ、編んだ茶色の革で被われた、洒落た道具だ」は<He had the sap out this time, a nice little tool about five inches long, covered with woven brown leather>。清水氏は何と思ったか、ここを「彼はこんどは、ピストルを手に持っていた」と訳している。これ以降も、ずっとピストルで通すという間違いを犯している。後にも出てくるが、男の手にしていたのが拳銃なら、マーロウはあそこまで同情を感じただろうか。

村上氏は「今回は男は棍棒を手にしていた。十五センチほどの長さで、茶色の手縫いの革カバーがかぶせてある。洒落た道具だ」と訳している。<woven brown leather>を「茶色の手縫いの革カバー」としたのは写真か実物を見たり、手にとったりしたのだろうか。確かに周りに縫い目のある茶色の革の棍棒がネットで売買されている。一方、編んだ黒い革で覆われた棍棒もある。<weave>という語からは革で編んだものを思い浮かべてしまうのだが。

「そして、彼が頼みとするのは棍棒だけだった。不公平に思えた」は<And all he had to help him was a sap. It didn't seem fair>。清水氏はここも「彼を助けるのはピストルだけだ。公平とはいえなかった」としている。たしかに、不意をつかれたら、ピストルでも棍棒でも同じかもしれないが、いくら仕事熱心でも、無防備だと分かっている相手にピストルを持ち出す男に涙を流しそうになるほど同情するだろうか。

村上訳は「おまけに彼が頼みにできるのは一本の棍棒だけだ。報われた人生とはとても言えない」。後半の<fair>を「申し分のない、完全な」の意味と解釈してのことだろう。どうしてここに「人生」が出てくるのか、今一つよく分からない。誰だって日銭を稼ぐのにあくせくしている。ある程度の年齢の男なら妻子もいるだろう。一体だれが自分以外の誰かを頼りにできるのだ。棍棒一本でもあればましな方だ。

ここは、「タフガイ」の私立探偵マーロウに対して、棍棒を手にして闘うしかなかった素人の小男に対する憐みではないのか。何もこうまで打ちのめす必要はなかった。相手は凶悪なギャングの片割れなどではなく、ただの勤め人であることにようやく気がついたからだ。おまけに手にしていたのは棍棒だけだった。あまりに傷めつけられていたために正常な判断力を失っていたのだろう。ふだんのマーロウらしくない振る舞いだった。

「欠伸が止まらなかった」は<yawning a great deal>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「何度となく生あくびが出た」。その次の「私は男をあとに残し、鍵をかけた」は<I left him there and locked him in>。清水訳は「私は彼をそこに残して部屋を出て、ドアに鍵をかけた」となっている。ところが、村上訳では「男を後に残し、私は部屋を出た」で終わっている。なんと、鍵をかけ忘れている。めずらしいこともあるものだ。

「突き当りで廊下は湾曲し、そこから直角に別の廊下が、ホワイトオークの手摺がついた大きな昔風の階段の降り口に通じていた」は少し長いが<At the end there was a jog in the hall and then another hall at right angles and the head of a big old-fashioned staircase with white oak bannisters.>。清水訳では「廊下が尽きると、はばの広い降り口になっていて、廊下はそこで直角に曲がっていた」となっていて、装飾的な部分がばっさり切り捨てられている。

村上訳は「廊下の突き当りにはちょっと広くなったところがあり、そこから直角をなして別の廊下があり、古風で大振りな階段の降り口に通じていた。白いオーク材の手すりが…」と、次の文に続いている。名詞の<jog>に「ちょっと広くなったところ」という意味はない。複数の辞書に<there was a jog in the road>という例文が載っていて「湾曲部が道にあった」と訳されていた。米語で<jog>は「でこぼこ」や「急激な方向転換」を表すらしい。また<white oak>は「ホワイトオーク」というブナ科に属する落葉広葉樹。多く北米に分布し、家具材や樽材に用いられる。「白いオーク材」はないだろう。

「横手に薔薇をはわせた東屋を配し」は<with a rose arbor at the side>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「バラの大きな茂みを脇に配し」となっている。その後の「誰が中のことを気にかけよう。あまり大声を出させないことだ」は<And inside it who cares, but don't let them scream too loud>。清水訳は「しかし、建物の内部のことについては、誰も知らないであろう」と後半をトバしている。村上訳は「その内側がどうなっているかなんて誰も気にかけない。しかし大声で悲鳴を上げられたりすれば、やはりまずいことになる」といつものように言葉を補って訳している。

「楔状の光が絨毯の上の私の足に落ちた」は<A wedge of light lay at my feet on the carpet>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「くさび形の光が、カーペットの私の足元に落ちた」。「帽子をとって敬意を表すに相応しい地位にいる人物だろう」は<He would be a man of position, worth tipping your hat to>。清水氏はここもカット。村上訳は「中にいるのは責任のある地位に就いている人間かもしれない。ひとこと挨拶をしておく必要があるかもしれない」。

段落の終わりの「ベッドの男は顔を上げなかった」は<the man on the bed didn't look up>。清水氏はここもカット。村上訳は「ベッドの上の男は顔を上げなかった」。

「彼が握ると玩具に見えるコルト・アーミーを手に、素知らぬ顔で壊れたドアから出てきた。仕事ぶりはそのときいくつか拝見したが、相変わらずの手並みのようだ」は<And had seen him with an Army Colt looking like a toy in his fist, stepping softly through a broken door. I had seen some of his work and it was the kind of work that stays done>。清水氏はこの長い文章の後半をばっさり切り落とし、「そして彼の手に握られた軍隊用の拳銃(コルト)がおもちゃ(傍点四字)のように小さく見えた」と訳している。

村上訳は「たたき壊されたドアから、のっそり出てきたその男の手に握られた軍用コルト拳銃は、まるで玩具のように見えた。彼の腕力のほどはそのときにひととおり目にしたし、それはまさに唖然とさせられる代物だった」だ。<stay>は「…のままでいる」という意味で使われていると思うのだが、村上氏の訳からはその感じが伝わってこない。マロイの小事にこだわらない磊落な気性が変わっていないことを言っているのに、腕力と訳していることからもそれが分かる。この文章のどこから腕力が見えてくるのだろう。

「わずかに開いたドアの向こうでくぐもった声が聞こえた」は<A voice murmured behind the almost closed door>。清水氏は「突き当りの部屋から、低い話し声が洩れていた」と訳している。少し前の、一階を描写したパラグラフの中で、清水氏は仕切り扉がわずかに開いていたことをトバし「ドアの下からかすかな光が廊下に流れていた」と訳している。辻褄を合わせるためにこういう訳になったのだろう。村上訳は「僅かに隙間のあいたドアの奥で、ぼそぼそという声が聞こえた」。

「遠くへ立ち去る潮時だった。そういう訳で、私はドアを押し開け、静かに入り込んだ」は<This was the time to leave, to go far away. So I pushed the door open and stepped quietly in>。清水訳を見てみよう。「いまを措いて機会はない。私はドアを押して、静かに部屋に入っていった」。これでは、初めから部屋に入る気満々のように読めてしまい、原文にあるイロニーが消えてしまう。まさか、本当に誤読したのだろうか。

村上訳は「こんなところは一刻も早く立ち去り、できるだけ遠くに離れるべきなのだ。ところが私はドアを開けて、静かに中に入った。それが私という人間だ」。前の文を後ろの文が裏切っていることを、逆接の接続詞を使うことで、分かりやすくしている。そこまでは許せるのだが、最後の「それが私という人間だ」という一文は原文にはない。たしかにマーロウにそういうところがあるのは認めるとしても、これは訳者の解釈でしかない。訳者には自分の解釈を読者に押しつける権利などない。