HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(2)

<pay my own way>は「自活する」という意味

【訳文】

《ワックス署長は机の上でとても静かに手を叩いた。眼はほとんど閉じていたが、完全に閉じてはいなかった。厚いまぶたの間から、冷たい眼光が私を見据えて輝きを放っていた。彼は身じろぎもせずじっと坐っていた。まるで傾聴しているかのように。やがて、彼は眼を開け、微笑んだ。
「それからどうなりました?」彼はストーク・クラブの用心棒のように優雅に訊ねた。
「彼らは私の体を探ってから、外に連れ出して車に乗せ、山腹で放り出し、車から出たところをブラックジャックで殴った」
 彼は肯いた。まるで私の言ったことがこの世で最も当然なことのように。「そして、それが起きたのがスティルウッドハイツだったと」彼は穏やかに言った。
「ええ」
「君のことを私がどう思っているか分かるかね?」彼は机に身を乗り出したが、少しだけだった。腹が邪魔をしたのだ。
「嘘つきだと」私は言った。
「ドアはそこにある」彼は、左手の小指で示しながら言った。
 私は動かなかった。じっと彼を見ていた。ブザーを押しそうになるくらい相手がキレかけたところで言った。「お互い同じ過ちをしないようにしよう。あんたはこう思っている。けちな私立探偵が身の程知らずにも警官を告発しようとしている。たとえそれが事実だとしても、その警官は証明できないように細心の注意を払っていたと。お門違いだ。私は文句を言いに来たんじゃない。あれは間違って当然だったと思う。私はアムサーに借りを返したい。そのためにガルブレイスの手を借りたいんだ。ミスタ・ブレインの手を煩わせる気はない。ガルブレイスで充分だ。それに私は後ろ盾なしにここにいる訳ではない。私の後ろには重要人物がついている」
「どれくらい後ろにかな?」署長は自分の機知にくすくす笑いながら訊いた。
アスター・ドライブ八六二まではどれくらいだ? ミスタ・マーウィン・ロックリッジ・グレイルが住んでいる」
 彼の顔が完全に変化した。まるで別人が彼の椅子に座っているように。「たまたまミセス・グレイルが私の依頼者なんだ」私は言った。
「ドアに鍵をかけてくれ」彼は言った。「君は私より若い。掛け金もかけるんだ。この件について友好的にとりかかろう。君は正直な顔をしている。マーロウ」
 私は立ち上がってドアに鍵をかけた。私が青い絨毯を踏んで戻って来たとき、署長は見映えのするボトルとグラスを二個取り出した。彼はカルダモンをひとつかみデスク・マットの上に投げ、二つのグラスに酒をなみなみと注いだ。
 我々は飲んだ。彼はカルダモンの鞘をいくつか割り、我々は互いの眼を見ながら静かに種を噛んだ。
「いい味だ」彼は言った。彼はおかわりを注いだ。カルダモンの鞘を私が割る番だった。彼は机の上から殻を床に払い落とし、そして微笑んで椅子に背をもたせた。
「さあ、聞こうじゃないか」彼は言った。「ミセス・グレイルのためにやってる仕事とアムサーと何か関係があるのかな?」
「繋がりはある。が、その前に私が本当のことを言っているかチェックした方がいい」
「それもそうだ」彼は言いながら電話に手を伸ばした。それからヴェストから手帳を取り出し、番号を探した。「選挙運動の寄付者名簿だ」彼はそう言ってウィンクした。「できるだけ便宜を図るように、と市長がしつこいんだ。ああ、ここにあった」彼は手帳をしまって、ダイヤルを回した。
 私の時と同じで執事との間にひと悶着あった。彼の耳が赤くなった。最後に彼女につながったが、耳はまだ赤いままだった。彼女は彼にかなりきつくあたったに違いない。「君と話がしたいそうだ」彼はそう言って広い机越しに受話器を私に押してよこした。
「フィルです」と私は言って、茶目っ気たっぷりに署長にウィンクした。
 クールで挑発的な笑い声がした。「その太ったとんまと何をしているの?」
「ちょっと飲んでいたところです」
「彼と一緒にやらなきゃいけないの?」
「現時点ではね。仕事です。何か新しいことはありましたか? 意味はお分かりでしょう」
「分からない。ねえあなた、気づいてる? このあいだの夜一時間も待ちぼうけを食わせたわね。そんな目に遭わせてもかまわない女だとでも、私あなたに思わせたかしら?」
「ちょっと面倒なことに首を突っ込んで。今夜はどうですか?」
「そうねえ―今夜は―いったいぜんたい、今日は何曜日だった?」
「かけ直した方がよさそうです」私は言った。「都合がつかないかもしれない。今日は金曜日です」
「嘘つき」ソフトでハスキーな笑い声がまた聞こえた。「今日は月曜日。同じ時刻、同じ場所で―今度はすっぽかさない?」
「かけ直した方がよさそうです」
「きっと来るのよ」
「約束はできません。かけ直させてください」
「これだけ言っても無理? 分かったわ。多分、私、人の邪魔をするのが大好きなのね」
「実を言えばそうです」
「ちょっと待って?」
「私は貧しいながらも自活しています。そしてそれはあなたの気に入るような楽なものではないんです」
「忌々しい人ね、もし来なかったら―」
「かけ直すと言いましたよ」
ため息が聞こえた。「男なんてみんな同じ」
「女もみんな同じです―最初の九人の後は」
 彼女は悪態をついて電話を切った。署長の眼が頭から飛び出し、竹馬に乗っているように見えた。
 彼は震える手で二つのグラスを酒で満たし、そのひとつを私に押して寄こした。
「そういうことか」彼は一頻り考え込んだ様子で言った。
「彼女の亭主は気にしていない」私は言った。「だから書き留めなくていい」》

【解説】

「ワックス署長は机の上でとても静かに手を叩いた」は<Chief Wax flapped his hands on his desk top very gently>。ここを清水氏は「ワックス署長はデスクを軽く叩きながら」と訳している。村上氏も「ワックス署長はデスクの上に置いた両手で、とても柔らかくその表面を叩いた」と訳している。では、署長はなぜ机を叩いたのだろうか。ここは、その前に置かれているマーロウの演説に対する軽い賞賛の意を込めて拍手をしたと取るのが相応しいのではないだろうか。

「彼は身じろぎもせずじっと坐っていた。まるで傾聴しているかのように」は<He sat very still, as if listening>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼はまるで耳を澄ませているみたいに、そこにじっと静かに座っていた」だ。

「あんたはこう思っている。けちな私立探偵が身の程知らずにも警官を告発しようとしている。たとえそれが事実だとしても、その警官は証明できないように細心の注意を払っていたと」は<You think I'm a small time private dick trying to push ten times his own weight, trying to make a charge against a police officer that, even if it was true, the officer would take damn good care couldn't be proved>。

清水訳は「あんたは、タカが私立探偵のくせに生意気だと思ってる」だが。これでは超訳だ。村上訳は「あなたはこう思っている。こいつはただの小物の私立探偵で、身のほど知らずな苦情を持ち込んでいると。警察官に対して告発じみた真似をするなどけしからんことだ。仮にそれは真実であったとしても、立証できる見込みなんてまずないのだからと」だが、こちらは逆にずいぶん余計なものが混じり込んでいる。

「ミスタ・マーウィン・ロックリッジ・グレイルが住んでいる」は<where Mr. Merwin Lockridge Grayle lives>。清水訳は「マーウィン・ロックリッジ・グレイル氏の邸がある」だ。村上氏は「ルーイン・ロックリッジ・グレイル夫妻が住んでいます」と夫人の名前に変えている。署長の手帳に記載されているのは夫の名前だと思うのだが。まあ、リストの場合、ファミリーネームが先に来るから<G>の欄を探し、住所を見れば同定できる。しかし、先に夫人の名を出す理由がわからない。

「掛け金もかけるんだ」は<Turn the bolt knobs>。清水訳は「閂(かんぬき)もかけてもらおう」。村上訳は「ボルトのノブを回してくれ」だ。<bolt>もよく出てくる。清水氏は「閂」と訳すことが多い。村上氏は「ボルト錠」と訳していたが、ここではただの「ボルト」になっている。前にも書いたが、適当な訳語を探すのに骨が折れる。「閂」では<turn>になじまない。「掛け金(がね)」はルビなしでは「掛け金(きん)」と紛らわしい。

「彼はカルダモンをひとつかみデスク・マットの上に投げ」は<He tossed a handful of cardamon seeds on his blotter>。また<blotter>の登場だ。清水氏は「彼はしょうずく(傍点五字)の実をひとつかみ、帳面の上に投げて」と珍しく「(事件)控え帳」説をとっている。村上氏は「彼はカルダモンの種子を一握り下敷きの上に放りだし」と「下敷き」説を採用している。

高級なスパイスとして知られるカルダモン(ショウズク)は小さな種子が鞘状の殻の中に詰まっている。そういう意味では「実」という訳語が相応しいのだが、<seeds>の訳語としては「種子」になる。二人は殻を割って、その中に入っている種子を噛んでいるのだ。清水氏は「しょうずくの実をいくつか割り(略)黙ってその実を噛んだ」、村上氏は「カルダモンの種子をいくつか割り(略)くしゃくしゃとそれを噛んだ」と書いているが、厳密にいえば両氏とも不正確な書き方といえる。

「かけ直した方がよさそうです」は<I'd better call you>。この文句は二度繰り返されている。清水訳は「ぼくの方から電話しよう」「電話するよ」。村上訳は「連絡し直した方が良さそうだ」「こちらから連絡しますよ」。両氏とも言い換えている。ここは相手の話につきあう気のないマーロウが、ビジネス用の決まり文句をわざと繰り返していると捉えたい。

「これだけ言っても無理? 分かったわ。多分、私、人の邪魔をするのが大好きなのね」は<Hard to get? I see. Perhaps I'm a fool to bother>。清水訳は「じらす気なのね。わかったわ。あんたのような人を相手にしたのがばか(傍点二字)だったわ」。村上氏もそれを踏襲したのだろう「お忙しい身体なのね。なるほど。あなたに関わるだけ愚からしいわ」と訳している。

<fool>は普通「馬鹿」だが、<He's a fool for sports>なら「彼はスポーツに目がない」という意味だ。<to bother>は「邪魔する」という意味。<a fool to bother>は「人に手を焼かせてばかりいる人」という意味になる。両氏の訳には<perhaps>(もしかして)があまり響いていない。この語には、夫人がやっとマーロウが自分のことを煩わしく思っていることに気づいた、というニュアンスが込められている。こう考えることで、次のマーロウの「実を言えばそうです(As a matter of fact you are)」にうまくつながる。

「ちょっと待って?」と訳したところは<Why?>。清水訳は「マア!」。驚きを表す間投詞と取っている。村上訳は「なんですって?」。反論を示す間投詞という解釈だ。「ちょっと待って?」という訳はその中間くらい。うすうす気づいてはいたが、そうはっきり言われると抗議したくなる、といったところか。このあたりの夫人の気持ちの変化の書き分けはさすがに上手いものだ。次のマーロウの一言が決定打となって、夫人はカンカンになる。

「私は貧しいながらも自活しています。そしてそれはあなたの気に入るような楽なものではないんです」は<I'm a poor man, but I pay my own way. And it's not quite as soft a way as you would like>。清水訳は「ぼくはつまらん人間だが、自分で働いて食っているんだ。君のように遊び歩いてはいられない」。前半はイマイチだが、後半は名訳だと思う。

村上訳は「私は貧しい人間だが、自分のことは自分で好きなようにやっている。そして私のやり方は、あなたのお気にいるほどやわ(傍点二字)ではない」。<pay my own way>は「経済的に自立する、自活する」という意味のイディオム。マーロウは、たいして儲からないが自分で稼いで食っているということを言っている。後半の部分は清水氏がズバリ言っているような意味だ。<soft>には「〈仕事など〉楽な、 楽に金のもうかる.」という意味もある。村上訳ではマーロウは無駄にいきがっているように聞こえる。

「署長の眼が頭から飛び出し、竹馬に乗っているように見えた」は<The Chief's eyes popped so far out of his head they looked as if they were on stilts>。清水訳は「署長は眼をまるくして驚いていた」と穏当な訳。チャンドラーの使う誇張法はときに大げさで極端だ。村上訳は「署長の目は驚きのあまり外に飛び出し、支柱でなんとか支えられているみたいに見えた」。馬鹿げた表現をまともに訳そうと言葉を補うとかえって変になる例だ。

「彼は震える手で二つのグラスを酒で満たし、そのひとつを私に押して寄こした」は<He filled both glasses with a shaking hand and pushed one at me>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼は震える手でグラスにお代わりを注ぎ、ひとつを私の方に押して差し出した」。署長がショックを受けた様子を表している場面。カットするには惜しいところ。