HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第32章(3)

<drink to ~>は「互いに見つめ合う」のではなく「~に乾杯する」

【訳文】

《彼は酒を飲みながら思い煩っているように見えた。ぐずぐずと、何やら考え深げにカルダモンの鞘を割った。我々はたがいの青い瞳に乾杯した。残念なことに、署長はボトルとグラスを見えないところに隠し、内線のスイッチを入れた。
ガルブレイスが署内にいたら、上に寄こしてくれ。いなければ、私に代わって連絡を取ってみてくれ」
 私は立ち上がってドアの鍵を開け、座り直した。長くは待たなかった。横のドアにノックがあり、署長が応えるとヘミングウェイが部屋の中に入ってきた。彼は机に向かってしっかり歩いて行き、机の端で立ち止まり、いかにも神妙な面持ちでワックス署長を見た。
「こちらはフィリップ・マーロウ氏だ」署長は愛想よく言った。「L.Aの私立探偵だ」
 ヘミングウェイは私の方を向いた。前に私を見たことがあるとしたら、そこには何の気配も感じさせなかった。彼は手を差し出し、私は握り返した。それから彼は署長の方に向き直った。
「マーロウ氏はちょっと奇妙な話をされている」署長はタペストリーの陰にいるリシュリューのように狡猾そうに言った。「スティルウッド・ハイツに住んでいるアムサーという人物のことで。占い師か何かの手合いだ。マーロウ氏が彼に会いに行ったとき、偶々そこに君とブレインが居合わせて、何か諍いがあったようだ。詳しいことは忘れたがね」彼は詳しい事は忘れた男のような表情を浮かべて窓の外を見た。
「何かの間違いでしょう」ヘミングウェイは言った。「この男とは初対面です」
「間違いがあったんだ。実のところ」署長は夢でも見ているように言った。「些細なことだが、間違いは間違いだ。マーロウ氏はそれを問題にするつもりはないらしい」
 ヘミングウェイはもう一度私を見た。顔は無表情のままだ。
「それどころか、その間違いさえ気にされていない」署長は夢見心地で続けた。「しかし、スティルウッド・ハイツに住むアムサー何某を訪問することに関心があって、誰か一緒に行って欲しいとお考えだ。それで君のことを思いついた。氏は正当な扱いを受けられるよう誰かに見届けてほしいとお考えだ。アムサー氏にはたいそうタフなインディアンの用心棒がついているらしい。単身で事にあたるにはマーロー氏は少々自信喪失気味だ。このアムサーの居場所を見つけられると思うか?」
「はい」ヘミングウェイは言った。「しかし、スティルウッド・ハイツは管轄外です、署長。これはあなたのご友人の個人的な頼み事ですか?」
「そう言うこともできる」署長は左の親指を見ながら言った。「何であれ、厳密に言って法に触れるようなことはしたくない。言うまでもないことだが」
「もちろん」ヘミングウェイは言った。「心得ています」彼は咳払いをした。「いつ行きます?」
 署長は慈愛に満ちた眼差しで私を見た。「今すぐにでも」私は言った。「ガルブレイスさんさえよければ」
「言われた通りに動きます」ヘミングウェイは言った。署長は彼の顔を眼と言わず鼻と言わず、点検した。眼でもって髪をとかし、ブラシをかけた。「ブレイン警部は今日はどうしてる?」カルダモンの種をむしゃむしゃ食べながら尋ねた。
「体調がよくありません。虫垂の破裂で」ヘミングウェイは言った。「危篤状態です」
 署長は悲しそうに首を振った。それから椅子の肘掛けをつかんで、よっこらしょと立ち上がった。そしてピンク色の手を机越しに差し出した。
ガルブレイスが君の面倒を見てくれるだろう、マーロウ。きっと頼りになる」
「本当にお世話をかけました、署長」私は言った。「何とお礼を申し上げていいやら」
「何の、礼には及ばんよ。友達の友達のお役に立ててうれしい、そういうことだ」彼は私に片眼をつぶって見せた。ヘミングウェイはそのウインクの意味を考えていたが、合点がいかないようだった。
 我々は署長が儀礼的に繰り出す言葉に背中を押されるようにオフィスの外に出た。ドアが閉まった。ヘミングウェイは廊下を端から端まで見渡し、それから私を見た。
「とんだ食わせ者だな、あんたは」彼は言った。「何かをつかんでるに違いない。俺たちが聞かされていないことをな」》

【解説】

「我々はたがいの青い瞳に乾杯した」は<We drank to each other's baby blue eyes>。清水訳は「私たちはおたがいの眼を見つめて、飲んだ」。村上訳は「我々はお互いのブルーの瞳を見ながら酒を飲んだ」。<baby blue>は「非常に淡い青色」のこと。因みに< baby blue eyes>は「瑠璃唐草(ネモフィラ)」という草花の名前でもある。二人に共通する眼の色にかけた言葉遊びだろう。<drink to>は「見合う」ではなく「乾杯する」という意味。署長は話を切り上げる潮時を見計らっていたのだろう。

「残念なことに、署長はボトルとグラスを見えないところに隠し」は<Regretfully the Chief put the bottle and glasses out of sight>。清水氏は「彼は残念そうに壜とグラスをしまってから」、村上氏は「署長は惜しそうな顔つきで、酒瓶とグラスを見えないところに置いた」と訳しているが、文頭の<Regretfully>は文修飾の副詞と取るのが普通。残念に思っているのは署長ではなく、話者の方である。

「長くは待たなかった」は<We didn't wait long>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「それほど長くは待たなかった」。

「いかにも神妙な面持ちでワックス署長を見た」は<looked at Chief Wax with the proper expression of tough humility>。清水訳は「いかにも警察官らしい表情で署長を見た」。村上訳は「謙虚ではあるがそれなりに強面(こわもて)の表情を浮かべてワックス署長を見た」だ。<the proper expression of tough humility>は直訳すれば「タフな謙虚さの適切な発現」ということになる。

清水氏はそれを「いかにも警察官らしい表情」とこなれた訳にしている。村上氏は<tough humility>を「謙虚ではあるがそれなりに強面」と訳しているが、この<tough>を「強面」と解するのは少し無理があるのではないだろうか。<tough>には「(状況などが厳しいが)しかたない」という意味がある。磊落なガルブレイスにとって「謙虚」な風を装うのは厳しいものがある。それでも署長の前ではそうするしかない、ということではないか。

「それから彼は署長の方に向き直った」は<and he looked at the Chief again>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「彼はまた署長の顔を見た」。

<「それどころか、その間違いさえ気にされていない」署長は夢見心地で続けた>は<

“In fact he's not even interested in the mistake,” the Chief dreamed on>。清水氏はここもカットしている。村上訳は<「更に言えば、その間違いについてとやかく言い立てるつもりもない』、署長はその夢見るような声を持続していた>だ。

「署長は慈愛に満ちた眼差しで私を見た」は<The Chief looked at me benevolently>。清水氏は「署長はしかつめらしく私の顔を見た」と訳しているが<benevolently>は「情け深く、慈悲深く」という意味の副詞だ。「しかつめらしく(まじめくさって、勿体ぶって)」というのとはちがう。署長はマーロウに恩を売ったつもりなんだろう。村上訳は「署長は慈愛に満ちた目で私を見た」だ。

「署長は彼の顔を眼と言わず鼻と言わず、点検した。眼でもって髪をとかし、ブラシをかけた」は<The Chief looked him over, feature by feature. He combed him and brushed him with his eyes>。清水氏は「署長は何かを探るような眼つきでヘミングウェイを見つめた」とさらっと訳している。<feature>は「顔の造作、容貌」のことだ。村上訳は「署長は彼の顔の細部をとっくり眺め回した。相手に櫛を入れ、ブラシをかけるような視線だ」。

ガルブレイスが君の面倒を見てくれるだろう、マーロウ。きっと頼りになる」は<Galbraith will take good care of you, Marlowe. You can rely on that>。清水氏は後半をカットして「ガルブレイスに同行させます」と訳している。村上訳は「ガルブレイスがあとの面倒はみてくれるよ、マーロウ。心配には及ばん」だ。

ヘミングウェイはそのウインクの意味を考えていたが、合点がいかないようだった」は<Hemingway studied the wink but he didn't say what he added it up to>。清水訳は「ヘミングウェイは署長の表情を探っていたが、何もいわなかった」と<what>以下をスルーしている。<add up>は「(事実・証拠・行動などが)意味をなす、納得がいく、なるほどと思える、了解できる、合点がいく」という意味。村上訳は「ヘミングウェイはそのウインクをじっとうかがっていたが、それをどのように解釈すればいいのか今ひとつ決めかねていた」だ。