HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(1)

<gangster mouth>だが、「やくざっぽい口元」とはどういうものか?

【訳文】

《二十五セントにしては長い航海だった。古いランチを塗り直し、全長の四分の三にガラスを張った水上タクシーは、碇を下ろしたヨットの間を通り抜け、防波堤の端に広く積み上げた石の周りをすり抜けた。何の前触れもなく波がうねり、ボートはコルクのように跳ねた。しかし、宵のうちでもあり、船酔いをする余地はたっぷりあった。一緒に乗っていたのは三組のカップルと、ボートを運転する強面の男だけだ。右の尻ポケットに黒い革のヒップホルスターを入れているため、左の尻で座っていた。岸を離れるやいなや、三組のカップルは互いの顔にかじりつきはじめた。
 私はベイ・シティの街灯りを見つめ返し、食後の胃に負担をかけないようにした。散らばった光の点を繋げると、夜のショーウィンドウに飾られた宝石入りの腕輪になった。やがて輝きは薄れ、柔らかなオレンジ色の光となって波間に見え隠れした。白い波頭の立たない長く滑らかなうねりで、夕食のバーでウィスキー漬けにならなかったことを嬉しく思わせるのにちょうどいいうねりだった。タクシーはうねりに乗って上に下に滑った。コブラが踊るように、悪意ある滑らかさで。肌寒かった。船乗りの関節から出て行くことのない湿気を帯びた寒さだ。<ロイヤル・クラウン>の輪郭を描いていた赤いネオンの光の束が左へと消えていき、彷徨える灰色の幽霊のような海霧にかすんで、それからまた、新しいビー玉のような輝きを取り戻した。
 我々は船から十分な距離を取った。遠くから見るとなかなか素敵に見えた。微かな音楽が海を渡ってきた。海から聞こえてくる音楽ほど蠱惑的なものはない。<ロイヤル・クラウン>は桟橋に係留しているのと同じくらいしっかり四本の大綱で固定されていた。浮き桟橋は劇場の入口を飾る庇のようにライトアップされていた。やがてそれらのすべてが遠くへと消えていき、別の、古びた、小さなボートが夜の中をこっそりこちらに近づいてきた。あまり見映えはよくなかった。錆と汚れの目立つ改装された海上貨物船で、上部構造が甲板の高さまで切り取られ、切り株のような二本のマストは無線アンテナの高さに間に合う長さに切られていた。<モンテシート>にも明かりがともり、音楽もまたじめじめした暗い海を漂ってきた。いちゃついていたカップルは互いの首から舌を離し、船を見てくすくす笑った。
 水上タクシーは、大きなカーブを描いて、乗客に適度なスリルを味わわせる程度傾き、速度を緩めて乗船用の台についた麻の防舷材に船体を寄せた。タクシーはエンジンをアイドリングさせ、バックファイアーが霧の中に響いた。探照灯が船から五十ヤードほどのところを気だるげに円を描いて掃照していた。
 タクシーの男が乗船用の台に船を繋ぐと、金釦のついた青いメス・ジャケットを着た黒い眼の男が、明るい笑顔とやくざっぽい口調で娘たちに手を貸してタクシーから船に上げた。私が最後だった。私を見る目のさりげなさが彼について物語っていた。さりげなく私のショルダー・ホルスターを触る手つきがさらに多くを物語った。
「だめだ」彼は穏やかに言った。「だめだ」
 なめらかなハスキーな声だった。ならず者が無理して上品さを気取っている。彼は水上タクシーの男に顎をしゃくった。タクシーの男は短い鋼索を係柱に掛け、少し舵輪を回し、乗船用の台に上った。そして、私の後ろにやってきた。
「銃の持ち込みは禁止されてる。すまないが、そういうことだ」メス・ジャケットが喉を鳴らした。
「預けてもいい。これは私の服の一部みたいなものだ。私はブルネットという男に会わなきゃいけない、仕事なんだ」
 彼は少しばかり興が乗ったように見えた。「聞いたことのない名だな」彼は微笑んだ。「お帰りはあちらだ」
 タクシーの男が私の右腕に手首をひっかけた。
「ブルネットに会いたいんだ」私は言った。声は弱弱しかった。老婦人のような声だった。
「議論の余地はない」黒い目の男は言った。「ここはベイ・シティでもなけりゃ、カリフォルニアでもない。信頼できる筋によれば、合衆国でさえない。帰るんだな」
「ボートに戻ろう」タクシーの男が私の背中でうなるように言った。「二十五セントの借りだ、行こう」
 私はボートに戻った。メス・ジャケットは無言で人あたりの良い微笑を浮かべてこちらを見ていた。私はそれがもはや微笑でなくなるまでずっと見続けていた。それは顔でさえなくなり、ただの乗船用の灯りを背に受けた暗い人影でしかなくなった。それを見ているうちに腹がすいてきた。帰りは長く感じられた。私はタクシーの男に話しかけなかったし、男も話しかけてはこなかった。桟橋に着いた時、彼は二十五セントを私に手渡してくれた。
「諦めるんだな」彼はうんざりしたように言った。「何度行っても放り出されるだけだ」
 中に入るのを待っていた六人ほどの乗客が彼の言葉を聞き、私を見つめていた。私はその間を通り抜け、浮き桟橋の小さな待合室の戸を抜けて、陸地の端にある浅い階段に向かった。》

【解説】

「船酔いをする余地はたっぷりあった」は<there was plenty of room to be sick>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「ボートはがらがらだったから、船酔いしてもそれほど面倒はなさそうだ」。

「船乗りの関節から出て行くことのない湿気を帯びた寒さだ」は<the wet cold that sailors never get out of their joints>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「船乗りの関節にしみ込んで消えることのない、じっとりとした冷気だ」。

「<ロイヤル・クラウン>の輪郭を描いていた赤いネオンの光の束が左へと消えていき、彷徨える灰色の幽霊のような海霧にかすんで、それからまた、新しいビー玉のような輝きを取り戻した」は<The red neon pencils that outlined the _Royal Crown_ faded off to the left and dimmed in the gliding gray ghosts of the sea, then shone out again, as bright as new marbles>。

清水氏はここを「ロイヤル・クラウン号の赤いネオンが新しいオハジキのように光っていた」と訳しているが、いくらなんでも手抜きが過ぎる。村上訳は「ロイヤル・クラウン号の輪郭を彩っているネオンの光束が左の方に消えていき、流離(さすら)う海の幽霊のごとき霧の中にぼんやりかすんだが、やがてまた現れ出て輝き、真新しいおはじきのように目映く光った」と、例によって美文調だが<red>を抜かしているのが惜しい。

「我々は船から十分な距離を取った」は<We gave this one a wide berth>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「我々はこの船とのあいだにたっぷりと距離を置いた」。

「四本の大綱で固定されていた」は<on its four hawsers>。清水氏はここもカット。村上訳は「四本の太綱によって」。<hawser>は「(停泊・曳航用などの)大綱、大索

「タクシーの男が乗船用の台に船を繋ぐと」は<The taximan hooked to the stage>。清水氏はどうかしたんだろうか、ここもカットしている。村上訳は「水上タクシーを操縦していた男が、乗船用の台に船を繋ぐと」。

「金釦のついた青いメス・ジャケットを着た黒い眼の男が、明るい笑顔とやくざっぽい口調で娘たちに手を貸してタクシーから船に上げた」は<a sloe-eyed lad in a blue mess jacket with bright buttons, a bright smile and a gangster mouth, handed the girls up from the taxi>。清水氏は「金ボタンの青色のタキシードを着た眼の鋭い若者が女たちに手を貸して、タクシーから引っぱり上げた」。村上訳は「つり上がった目の若者がやってきて、娘たちが水上タクシーから乗り移るのに手を貸した。紺の上級船員服に目映いボタンをつけ、きらきらした目と、やくざっぽい口元をしていた」だ。

「メス・ジャケット」とは「夏の略式フォーマルとして用いられる上着の一つで、燕尾服の下部を切り落としたような短い丈のジャケット」のこと。タキシードではないし、船員服でもない。<gangster mouth>だが、村上氏のいう「やくざっぽい口元」というのはどういうものか今一つよく分からない。

「私を見る目のさりげなさが彼について物語っていた。さりげなく私のショルダー・ホルスターを触る手つきがさらに多くを物語った」は<The casual neat way he looked me over told me something about him. The casual neat way he bumped my shoulder clip told me more>。清水氏は「彼はなにげなく私に一瞥をくれた。私は彼の眼つきが気に入らなかった」と二つ目の文をスルーしている。村上訳は「さりげなく抜かりのない目で私を検分する様子で、この男の素性はおおよそ見当がついた。私の肩の拳銃クリップを探しあてるときの、さりげなく抜け目のない手つきから更に多くがわかった」。

「ならず者が無理して上品さを気取っている」は<a hard Harry straining himself through a silk handkerchief>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「強面(こわもて)のやくざものが、上品な装いの裏に牙を隠している」だ。<strain oneself>は「気張る、力む」の意味だ。<harry>には「うるさく悩ます、執拗に攻撃する、蹂躙する」等の意味がある。そういえば<Dirty Harry>という映画があった。

「これは私の服の一部みたいなものだ」は<It's just part of my clothes>。前の部分でホルスターを吊るストラップのさわりをカットしたために、清水氏はここをカットしなければならなかった。村上訳は「こいつは服装の一部みたいなものなんだ」。

「彼は少しばかり興が乗ったように見えた」は<He seemed mildly amused>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「彼はいくらか興に入ったような顔をした」。

「信頼できる筋によれば」は<by some good opinions >。清水氏はここをカットしている。村上訳は「という意見も捨てがたくある」。

「メス・ジャケットは無言で人あたりの良い微笑を浮かべてこちらを見ていた」は<Mess-jacket looked at me with his silent sleek smile>。清水氏はここで「タクシーの男は冷やかに笑って私を見つめていた」と人違いをやらかしている。タクシーの男は傍にいるので、黒い点にはならないはずだ。村上訳は「船員服の男は愛想の良い無言の微笑みを浮かべて私を見ていた」。

「ただの乗船用の灯りを背に受けた暗い人影でしかなくなった。それを見ているうちに腹がすいてきた」は<no longer anything but a dark figure against the landing lights. I watched it and hungered>。清水訳は「彼のからだぜんたいが一つの黒い点になった」だ。一文が抜け落ちているし、余韻もない。よほど調子が悪かったのだろう。村上訳は「乗船用灯火を背景にして立つ暗い人影でしかなくなってしまった。それを見つめているうちに腹が減ってきた」。

「諦めるんだな」(略)「何度行っても放り出されるだけだ」は<Some other night,(略)when we got more room to bounce you>。清水氏は「諦めな」(と彼は熱のない声で言った。)「ためにならねえぜ」。村上氏は珍しく一文にまとめて「あんた、これくらいで済んで幸運だったと思った方がいいぜ」。原文通りに訳しても意味が通じないからだろう。

「陸地の端にある浅い階段に向かった」は<towards the shallow steps at the landward end>。清水訳は「海岸へ通じている桟橋を渡って行った」と、かなり意味がちがう。村上訳は「陸地の端についている浅い階段の方に向かった」。