HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(1)

<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」

【訳文】

 ベイ・シティのグレイル家に電話を入れたのは十時頃だった。彼女を捕まえるには遅すぎるかと思ったが、そうでもなかった。メイドや執事相手に悪戦苦闘したあげく、やっと彼女の声を聞けた。快活な声で、夜会への準備万端整っているようだった。「電話すると約束していたので」私は言った。「少し遅くなったけど、いろいろと忙しくてね」
「また、すっぽかすつもり?」彼女の声が冷やかになった。
「それはないと思う。運転手はこんなに遅くても働いてるかい?」
「私が言いさえすれば遅くても働くわ」
「なら、車を回して拾ってくれないか? 卒業式用の服に体を押し込んでいるところでね」
「ご親切なこと」彼女は物憂げに言った。「本当に私が出向かなきゃいけないの?」アムサーは、彼女の言語中枢の分野で確かに素晴らしい仕事をしていた―もし、そこに問題とやらがあったとすればだが。
エッチングを見せたいんだ」
「たった一枚のエッチングのために?」
「一間のアパートなんでね」
「そんなものがあることは聞いている」また物憂げに言った。それから声音を変化させた。「焦らすのも程々にして。好い男だというのは認めるわ。もう一度住所をお願い」
 私はアパートの番地を教えた。「ロビーのドアは鍵がかかってる」私は言った。「でも、下に降りて掛けがねを外しておく」
「結構ね」彼女は言った。「かな梃子持参は御免だから」
 彼女は電話を切った。実在しない誰かと話したような不思議な感覚を残して。
 私はロビーに降りて掛けがねを外し、シャワーを浴び、パジャマを着てベッドに横たわった。一週間分眠れそうだった。それから再びベッドから身を引きはがし、忘れていたドアの錠をかけた。深い地吹雪の中を歩くようにしてキチネットに行き、グラスと本当に高級な相手を引っかけるときのためにとっておいたスコッチのボトルをセットした。
 私はもう一度ベッドに横になった。「祈るんだ」私は大声で言った。「祈るより他にすることはない」
 私は眼を閉じた。部屋の四方の壁には船の鼓動がこもっていた。静まり返った空気が霧を滴らせ、海風に戦ぐようだった。使われていない船倉の饐えた臭いがした。エンジンオイルの匂いがし、裸電球の下で祖父の眼鏡をかけて新聞を読んでいる紫色のシャツを着たイタリア人が見えた。換気坑の中を登っては登った。ヒマラヤに登って頂上に立つと、マシンガンを手にした男たちに取り囲まれた。何だかとても人間的な黄色い眼の小柄な男と話をした。恐喝や強請、多分もっと悪いことに手を染めている男だ。菫色の眼をした赤毛の大男のことを思った。今まで出会った中でおそらく最も親切な男だ。
 私は考え事をやめた。閉じた瞼の裏で光が動いた。私は混乱していた。私は空しい冒険から生還した極め付きの愚か者だった。一ドル時計を値踏みする質屋のようなしけた音を立てて爆発するダイナマイトの百ドルパッケージだった。市庁舎の壁を這い登るピンクの頭の虫だった。
 私は眠っていた。
 不本意ながら、ゆっくり目を覚まし、天井に反射した電灯の光を見つめた。部屋の中を何かがそっと動いていた。
 その動きは、こそこそして、静かで、重かった。私は耳を澄ました。それから、ゆっくり振り返り、ムース・マロイを見た。そこは陰になっていて、彼は暗がりの中で以前と同じように音を立てずに動いていた。手にした銃には黝ずんだ油性の無機質な光沢があった。黒い巻き毛の上に帽子をあみだにかぶり、猟犬のように鼻を鳴らしていた。
 彼は私が目を開けたのを見た。そっとベッドの端に立つと、私を見下ろした。
「ことづけを受け取った」彼は言った。「家は調べさせてもらった。周りにも警官の姿はなかった。もしこれが罠だったら、二人ともあの世行きだ」
 ベッドの上で少し身をよじると、彼は素早く枕の下を探った。相変わらず大きな顔は青白く、くぼんだ眼はどこかしら優しげだった。今夜はオーバーコートを着込んでいた。どこもかしこもぴちぴちだった。片方の肩の縫い目がほつれていた。おそらく着ただけでほつれたのだろう。店で最も大きいサイズだったにせよ、ムース・マロイにはまだ足りなかった。
「待ってたんだ」私は言った。「警察は関与していない。君に会いたかったのは私だけだ」
「続けろよ」彼は言った。

【解説】

「快活な声で、夜会への準備万端整っているようだった」は<She sounded breezy and well-primed for the evening>。清水訳は「機嫌がいいらしく、明るく晴れやかな声だった」。村上訳は「夜のこの時間にしては彼女の声はすがすがしく勢いがあった」だ。まず、清水訳には<the evening>への言及がない。そして、村上氏は「夜のこの時間にしては」と訳しているが、<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」の意味だ。デートへの誘いだから<the evening>はただの「夜」の意味ではない。食事には遅すぎるが、ナイトクラブで酒とダンスを楽しむには、いい頃合いだろう。

「卒業式用の服に体を押し込んでいるところでね」は<I'll be getting squeezed into my commencement suit>。<squeeze into>は「(小さめの服に)体を無理に押し込む」こと。<commencement>は「学位授与式、卒業式」。清水訳はあっさりと「それまでに服を着かえておく」だ。村上訳は「若き日の一張羅のスーツに身体を押し込んで待っているよ」と噛みくだいているが、少々くどい。

「忘れていたドアの錠をかけた」は<set the catch on the door, which I had forgotten to do>。清水訳は「忘れていたドアの錠を外し」と、逆になっている。<catch>(ドアの留め金)をセットするのだから、ここは「錠をかける」でなければならない。村上訳も「ドアの錠をかけた。それを忘れていたのだ」となっている。

「私は混乱していた」は<I was lost in space>。清水訳は「私のからだが宙に浮んだ」。村上訳は「私は空白の中に迷い込んでいた」。後に続く文を読めば、マーロウのからだは宙に浮いているわけでもなく、全くの空白の中に迷い込んだのでもないことが分かる。マーロウは馬鹿になったり、ダイナマイトになったり、虫になったりしている。つまり、自分が何なのかが分からなくなっていたのだ。<space>は会話で「(人が)内にこもる自由」を意味する。夢の中で迷子になっていたのだろう。

「手にした銃には黝ずんだ油性の無機質な光沢があった」は<A gun in his hand had a dark oily business-like sheen>。清水訳は「手に持ったピストルが黒く光って、無表情の光沢を見せていた」。村上訳は「彼が手にしている拳銃には油が引かれ、黒々としたビジネスライクな光沢があった」だ。何度も使用され、そのたびにガン・オイルを使って手入れされてきた愛用の銃なのだろう。「ビジネスライクな光沢」は翻訳になっていない。

「相変わらず大きな顔は青白く」は<His face was still wide and pale>。清水氏はここを「相変わらずおおらかな表情を浮かべ、顔色は蒼白く」と訳している。村上訳は「彼の顔は相変わらず横幅があり、青白く」だ。マロイの顔については、第二十六章の新聞をかぶっている場面で「大きな顔」という言及がなされている。<wide>は体に見合った顔の大きさと考えるべきではないか。