HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第二章(3)

五セントのはずの<nickel>が、二セントや十セントになる不思議

【訳文】

「他にもっと多くのことが起きているかもしれません」私は言った。「レイヴァリーと駆け落ちしたものの、喧嘩別れした。他の誰かと駆け落ちして電報は冗談だった。一人で家を出たか、あるいは女性と一緒だった。飲みすぎて、どこか私営のサナトリウムで療養している。我々には思いもつかない窮地に陥っている。犯罪に巻き込まれたことも考えられる」
「何てことを言うんだ。やめてくれ」キングズリーは叫んだ。
「どうしてです? あらゆる事態を想定すべきだ。ぼんやりとですが奥さんのことが分かってきました――若くて、美しく、向こう見ずで、わがまま。酒を飲み、酔うと何をしでかすか分からない。男好きで、知らない男と仲良くなって、後で悪党だと分かる恐れがある。あたってますか?」
 彼は肯いた。「一言一言、思い当たる」
「金はどれくらい持って出たんです?」
「現金をどっさり持ち歩くのが好きだった。自分の銀行に自分だけの口座がある。いくらでも引き出し放題だ」
「お子さんは?」
「子どもはいない」
「奥さんの財産の管理はあなたがしてるんですか?」
 彼は頭を振った。「あれは、小切手を銀行に預け入れ、金を引き出し、使う以外何もしない。五セントたりとも投資したことはない。そして、私が妻の財産に手を出すことはない。君がそう考えているとしたらね」彼は間を置き、そして続けた。「何とかしようと考えなかったわけじゃない。私だって人間だ。みすみす年に二万ドルもの金が無駄に使われるのを見ているのが愉快なはずがない。その果てに残るのが、二日酔いとクリス・レイヴァリーみたいなボーイフレンドというのではな」
「奥さんの銀行はどうです。この二か月に切った小切手の詳細を知ることはできますか?」
「銀行は教えてくれんだろう。私も以前、妻が強請られているのではと思って、何かの情報を得ようとしてみた。冷たくあしらわれたよ」
「どうにかなるはずです」私は言った。「やってみるべきかもしれない。でもそれは警察に失踪届を出すことを意味する。それは嫌なんでしょう?」
「もしそんなことが好きなら、君を呼んだりはしなかった」彼は言った。
 私は肯いて、証拠物件をかき集めてポケットにしまった。「この件には私が今まで挙げたのとは別の側面がありそうだ」私は言った。「まず、レイヴァリーと話すところから始めて、それからリトル・フォーン湖に足を延ばし、いくつか聞いてみたい。レイヴァリーの住所と山小屋の管理人への紹介状が必要です」
 彼は机からレターヘッドを取り出してペンを走らせ、こちらに寄越した。私は読んだ。「ビル、フィリップ・マーロウ氏を紹介する。私の土地が見たいそうだ。私の小屋へ案内し、よろしく面倒を見てやってくれ。ドレイス・キングズリー」
 私はそれを折り畳み、私が読んでいる間に彼が表書を書いた封筒に入れた。「ほかの小屋はどうなっているんですか?」私は訊いた。
「今のところ今年は誰も行っていない。一人はワシントンで政府の仕事をしている。もう一人はフォート・レヴンワースだ。二人の妻は夫といる」
「レイヴァリーの住所を」私は言った。
 彼は私の頭のはるか上の一点を見た。「ベイ・シティにいる。家は分かっているが、住所は忘れた。ミス・フロムセットなら教えられるだろう。君がそれを知りたい理由をいう必要はない。多分すぐに知ることになるだろうが。百ドル欲しいと言ったな?」
「もういいんです」私は言った。「あなたが私を踏みつけにするので言ってみたまでで」
 彼はにやりとした。私は立ち上がり、机のところでためらい、キングズリーを見た。しばらくしてから私は言った。「何か隠していないでしょうね。大事な何かを?」
 彼は自分の親指を見た。「いや何も隠しちゃおらん。私は心配なんだ。妻がどこにいるのか知りたい。ひどく気がかりでね。何かつかんだら電話してくれ。いつでもいい。昼間でも夜中でも」
 私は、そうする、と言って悪手をし、奥行きのある涼しいオフィスを出て、エレガントに腰掛けているミス・フロムセットの机まで行った。
「クリス・レイヴァリーの住所を君に聞けとミスタ・キングズリーに言われた」私は彼女の顔を見ながら言った。
 彼女はのろのろと茶色い革の住所録に手を伸ばしてページを繰った。声は固く冷たかった。
「ここにある住所はベイ・シティ、アルテア・ストリート六二三。電話番号はベイ・シティ一二五二三です。ミスタ・レイヴァリーがやめてから一年以上経ちます。住所は変わっているかもしれません」
 私は礼を言ってドアから出た。そこからちらっと彼女を見た。彼女はじっと坐ったまま、机の上に両手を組んで、宙を見据えていた。両の頬で赤い斑が燃えていた。眼は遠くを見ているようで辛そうだった。
 クリス・レイヴァリーのことを考えるのは彼女にとって楽しいことではないようだ。

【解説】

「男好きで、知らない男と仲良くなって、後で悪党だと分かる恐れがある」は<That she is a sucker for the men and might take up with a stranger who might turn out to be a crook>。清水訳は「男に目がなく、まったくの他人とも親しくなり、その男が悪いやつということもあるかもしれない」。<turn out to be>は「結局~だと分かる」だが、そのニュアンスが弱い。

村上訳は「男に騙されやすく、知らない男と簡単に仲良くなる。そして後日、その相手は問題ある男であったと判明する」。<turn out to be>はいいが、<might>が無視されている。田中訳は「男にもだまされやすいようだから、知らない男と関係ができ、それがたいへんなやつだったら……」。<be a sucker for~>は「~に弱い(むやみに好きになる)、~が好きでたまらない」の意味で、単に「騙されやすい、おめでたい人」という意味ではない。

「奥さんの財産の管理はあなたがしてるんですか?」は<Do you have the management of her affairs?>。清水訳「奥さんの財産の管理についてくわしいことをごぞんじですか」。田中訳「奥さんの財産は、あなたが管理してるんですか?」。村上訳だけが「彼女の金銭の運用について把握しておられますか?」となっている。これでは<have the management>の主語が<she>になってしまう。

「五セントたりとも投資したことはない」は<She never invests a nickel>。<nickel>とは「五セント白銅貨」のことだが、公衆電話に使う硬貨でもあり、少額の金を意味することもある。そこでこういうことになる。清水訳「一セントも投資したことはない」。田中訳「十セントも、なにかに投資したことはない」。村上訳「一銭たりとも投資なんてしなかった」。村上訳は日本語訳と考えると理解できるが、他のお二方はなぜ金額を変更したのか首をひねりたくなる。

「この二か月に切った小切手の詳細を知ることはできますか?」は<Could you get a detail of the checks she has drawn for the past couple of months?>。清水訳「奥さんがこの二カ月間に切った小切手の詳細を知らせてもらえますか」。田中訳「過去二カ月のあいだに多額の金額をひきだしてるかどうか、きいてみたら――」と両氏とも「二カ月」説を採用している。村上氏はというと「過去数カ月にわたって彼女が切った小切手の記録を手に入れることはできますか?」と「数カ月」と訳している。いなくなってからひと月なら、数カ月までさかのぼる必要はないと思うが。

「やってみるべきかもしれない。でもそれは警察に失踪届を出すことを意味する」は<we may have to. It will mean going to the Missing Persons Bureau>。清水訳では「もらわなければなりますまい。そうでないと失踪人捜査課に行くことになります」となっているが、これはおかしい。小切手の詳細は個人に関する秘密だから、失踪届を出すことではじめて法的に可能になるのだろう。田中訳は「しらべるべきじゃないかな。行方不明の届けをだすんです」。村上訳は「そうする必要があるかもしれない。しかしそのためには警察に失踪届を出さなくてはならない」だ。

「両の頬で赤い斑が燃えていた」は<Her eyes were remote and bitter>。清水氏はここをカットしている。田中訳は「その頬には赤く血がのぼり」。村上訳は「両方の頬に燃えるような赤い点が浮かんでいた」。頬に赤みが差すというのは、心の中の動揺のあらわれだ。ミス・フロムセットもまたクリス・レイヴァリーが手を出したオフィスの女性の一人だったのだろう。