HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第八章(1)

<a batch of mud pies>は「マッド・パイ一窯分」

【訳文】

彼は停車場から道路を隔てた向かい側の白い木造家屋の前で車を止めた。建物の中に入って、すぐ一人の男と出てきた。男は手斧とロープと一緒に後部座席に乗った。公用車が通りを戻って来たので、その後ろについた。スラックスやショートパンツ、セーラー服とバンダナ、節くれだった膝と緋色の唇の間を縫って本通りを通り抜けた。村を過ぎ、埃っぽい丘を上り、一軒の小屋の前で車を止めた。パットンが軽くサイレンを鳴らすと、色褪せたオーバーオールを着た男が小屋のドアを開けた。
「乗れよ、アンディ。仕事だ」
 青いオーバーオールの男はむっつりとうなずいてひょいと小屋の中に戻った。オイスター・グレイのライオン狩りの帽子をかぶって出てきて、パットンが横にずれている間に、ハンドルの下に滑り込んだ。三十前後、浅黒く、しなやかで、先住民のように薄汚れていて、少し栄養不足だった。
 マッド・パイが一窯分焼けるくらいの土埃を食らいながら、リトル・フォーン湖まで行った。五本の板を組んだゲートでパットンが車を降りて門を開け、我々は湖に下りた。パットンがまた車を下りて水際に行き、小さな桟橋の方を見た。ビル・チェスが裸で桟橋の床に座って頭を抱えていた。彼の隣の濡れた板の上に何かが横たえられていた。
「もう少し先まで行けそうだ」パットンが言った。
 二台の車は湖の端まで進み、四人揃ってぞろぞろとビル・チェスの背後から桟橋に下りた。医師は立ち止まってハンカチの中に激しく咳をし、考え込むようにそれを見た。骨ばった目の飛び出た男で悲しげな病人の顔をしていた。
 かつては女だったものが脇の下にロープを巻かれて俯せに横たわっていた。ビル・チェスの服が片側に置かれていた。膝に傷のある強張った足を平らに前に伸ばし、もう片方の足を曲げて額を当てていた。我々が後ろに下りてきても、身動きせず、顔を上げもしなかった。
 パットンが尻ポケットからマウント・ヴァーノンのパイント瓶を取り出し、蓋を開けて渡した。
「ぐっとやれよ、ビル」
 あたり一面にむかつくような臭気が漂っていた。ビル・チェスはそれに気づいていないようだった。パットンも医者も同じだった。アンディという名の男が車から薄汚れた毛布を取り出し、死体に抛った。それから無言で松の木の下に行って吐いた。
 ビル・チェスはぐいっと一息に酒を飲み、曲げた剥き出しの膝にボトルを当てて座っていた。そして、強張った感情のない声で話し始めた。誰の方も見ず、特に誰に向かって話すのでもなかった。喧嘩とその後のことを話したが、喧嘩の原因については話さなかった。ミセス・キングズリーについては一言も口にしなかった。私が出て行ったあとで、彼はロープを取ってきて裸になって水の中に入り、それを引き上げたと話した。浅瀬まで引きずっていき背中に背負って桟橋まで運んだのだ。どうしてそんなことをしたのかは知らない。それからもう一度水の中に入った。理由は聞くまでもなかった。 
 パットンは一切れの噛み煙草を口に入れ、静かに噛んだ。おだやかな眼には何も浮かんでいなかった。それから歯を食いしばり、屈みこんで死体の毛布を剥いだ。まるでばらばらになるのを気遣うように死体をそっと裏返した。遅い午後の日差しが、膨らんだ首に半ば埋め込まれた大きなグリーン・ストーンのネックレスに目配せした。粗雑な彫り方で、光沢がなく、ソープストーンか紛い物の翡翠のようだ。小さなダイヤ付きの鷲の留め具が金色の鎖の両端を繋いでいた。パットンは広い背中を伸ばし、タン色のハンカチで鼻をかんだ。
「見解を聞かせてくれ、ドク」
「何についてのだ?」目の飛び出た男はつっけんどんに聞き返した。
「死因と死亡時刻だ」
「馬鹿を言うなよ。ジム・パットン」
「何も分からないってのか、?」
「ちょっと見ただけでかい? なんとまあ」
 パットンはため息をついた。「見たところ水死のようだ」彼は認めた。「だが、そうとも限らない。ナイフで刺されたり、毒を盛られたりした被害者を、犯人が水に浸けて様子を変えるケースもある」
「この辺でそういうことはちょくちょく起こるのか?」医者は意地悪く聞き返した。
「この辺で起こった、正真正銘の殺人事件といえば」パットンは眼の端でビル・チェスをとらえながら言った。「北岸のミーチャム爺さんの件だけだ。爺さんはシーディー渓谷に小屋を持っていて、夏の間は、少しばかり砂金採りをやっていた。ヘルトップ近くの谷の奥にある古い砂鉱床の採掘権を持ってたんだ。秋も深まったというのに、爺さんが一向に姿を現さない。そこに大雪が降って小屋の屋根の片側がつぶれた。それで、我々はちょっと行って、つっかえ棒を当ててやろうとした。多分爺さんは誰にも言わずに冬が来る前に山を下りたんだろう。年寄りの砂金堀りのやりそうなことだってな。ところがどっこい、爺さんは山を下りてなどいなかった。ベッドに横になっていたんだ。頭の後ろに薪割り用の斧が深々と刺さっていた。とうとう誰がやったのかは分からず仕舞いだ。爺さんは、夏の間に集めた砂金の小袋をどこかに隠してる、と思ったやつがいたんだろう」
 彼は思案気にアンディの方を見た。ライオン狩りの帽子の男は口の中で歯をせせりながら言った。「誰の仕業かは分かってる。ガイ・ポープがやったんだ。ただ、ガイはミーチャム爺さんが見つかる九日前に肺炎で死んでいた」
「十一日前だ」パットンが言った。
「九日だ」ライオン狩りの帽子の男が言った。
「六年も前のことだ、アンディ。好きにすればいい。どうしてガイの仕業だと思うんだ?」
「ガイの小屋には砂金に混じって、三オンスばかりの金塊が見つかったんだ。ガイのところからは砂粒より大きいのが出ることはなかった。爺さんの方は何回もペニーウェイト級の金塊が出てる」
「まあ、そうしたもんだ」パットンはそう言って、私を見て、かすかにほほ笑んだ。「どれだけ気をつけていても誰でも何かを忘れるものだ」

【解説】

「停車場」は<stage depot>。清水訳は「バスの停留場」。田中訳は「バス停留所」。村上訳は「鉄道駅」。こんな山の中まで鉄道が敷かれているのだろうか。星形の銀のバッジをつけた保安官が一人で町を守る山間の土地だ。この<stage>は「駅馬車」のことだろう。昔は町のメインストリートに駅馬車が停まるところがあった。<depot>は「停車場、駅」の意味。

「スラックスやショートパンツ、セーラー服とバンダナ、節くれだった膝と緋色の唇」は<the slacks and shorts and French sailor jerseys and knotted bandannas and knobby knees and scarlet lips>。清水訳は「スラックスとショーツとフランスの水兵服と頸に結んだはで(傍点二字)なスカーフとむき(傍点二字)出しの膝がしら(傍点三字)と真紅の唇」。田中訳は「スラックスやショーツ、それにフランスの水兵が着てるようなジャージイのブラウスを着たり、毛のネッカチーフをかけ、骨っぽいすね(傍点二字)をだし、唇を真赤にぬつた女たち」。

「パンツ」や「ショーツ」は「ズボン」、「半ズボン」のことだが、下着にも使われるので紛らわしい。「バンダナ」を「スカーフ」や「ネッカチーフ」と訳すあたり、さすがに時代を感じる。村上訳は「スラックスやらショートパンツやら、フランス水夫風のジャージーやら、粋に結ばれたバンダナやら、屈強な膝やら、緋色の口紅やら」。「フランス水夫風のジャージー」は、「セーラー服」で通じるのではないだろうか。

「色褪せたオーバーオール」は<faded blue overalls>。清水訳は「色のあせたブルーの仕事着」。田中訳は「色があせたブルーの上下つなぎの作業服」と、これも時代を感じさせる訳になっている。村上訳は「色褪せたオーヴァーオール」。ブルーのデニム地で作られることが多いので、ブルーはカットした。上半身は胸当てと肩紐だけなので、厳密には「つなぎ」ではない。

「三十前後、浅黒く、しなやかで、先住民のように薄汚れていて、少し栄養不足だった」は<He was about thirty, dark, lithe, and had the slightly dirty and slightly underfed look of the native>。清水訳は「年のころはおよそ三十歳、顔が浅ぐろく、からだのしなやかな男で、この土地の人間らしく少々うすよごれていて、栄養がたりない感じだった」。田中訳は「三十ぐらいの男で、色が黒く、動作がしなやかで、ちょっぴり皮膚の色がにごり、栄養不良みたいに見えるのは、きっとインデヤンの血がまじつてるからだろう」。

村上訳は「三十前後で、髪は黒くほっそりとして、土地のものらしくどことなく薄汚れて、どことなく栄養状態が悪そうに見えた」。いくら山に住んでいても、「土地のものだから薄汚れて」いるというのは、言い過ぎというものだろう。この<native>は「先住民」を指すのではないだろうか。それなら、髪も黒いだろうが、顔も白人より黒いに違いない。村上訳のように髪に限定するのはどうだろう。

「マッド・パイが一窯分焼けるくらいの土埃を食らいながら」は<eating enough dust to make a batch of mud pies>。清水訳は「泥のパイをつくれるほどの埃りをまともにかぶった」。田中訳は「泥のパイがうんとつくれるくらい埃をかぶった」。村上訳は「泥饅頭(どろまんじゅう)をいくつもつくれそうなくらい埃をかぶることになった」。<a batch of ~>は「~を一窯分」という意味。また<mud pie>は「泥饅頭」のことだが、アイスクリームと一緒に食べる「マッド・パイ」というチョコレートケーキがある。<eat>を使っていることから考えると、それをかけているのだろう。

「小さなダイヤ付きの鷲の留め具が金色の鎖の両端を繋いでいた」は<A gilt chain with an eagle clasp set with small brilliants joined the ends>。清水訳は「金めっき(傍点三字)をした鎖(くさり)にワシの形の止め金がついていた」と<set with small brilliants>をトバしている。田中訳は「はしのほうにいくにしたがつて粒がちいさくなった緑石を、鷲のかたちをした留金がついた金メッキの鎖がつなぎあわしている」と<set with small brilliants>を「はしのほうにいくにしたがつて粒がちいさくなった緑石」と解しているようだ。村上訳はというと「鎖は金メッキがしてあり、その両端はきらきら光る小さな宝石がついた鷲の頭の留め金になっていた」と、なぜか<eagle>を「鷲の頭」と訳している。

「ライオン狩りの帽子の男は口の中で歯をせせりながら言った」は<The man in the lion hunter's hat was feeling a tooth in his mouth. He said>。清水訳は「狩猟棒をかぶった男は口に指をつっこんで、しきりに歯をいじっていた。彼は言った」。田中訳は「ばかでかいライオン狩りの帽子をかぶったアンディ君は、舌の先で歯をいじつている。アンディーはいつた」。村上訳は「ライオン狩猟用の帽子をかぶったその男は、口の中の歯をゆびでいじっていた。アンディーは言った」。<in his mouth>とある以上、口の中にある舌先で歯を感じていたと考えるのが普通だ。

『湖中の女』を訳す 第七章

「脂肪は、ほんのご愛嬌だ」は<The fat was just cheerfulness>

【訳文】

 板張りの小屋の窓越しに、片端に埃だらけのフォルダーが積まれたカウンターが見えた。ドアの上半分を占めるガラスに、黒い塗料で書かれた文字が剥げかけている。「警察署長。消防署長。町保安官。商工会議所」。下の隅には、USO(米国慰問協会)カードと赤十字のエンブレムがガラスに貼ってあった。
 私は中に入った。カウンターの向こうには片方の隅にだるまストーブ、反対側にロールトップ・デスクがあった。壁にこの地区の大きな青写真の地図が貼られ、その横の板には、四つあるフックの一つに擦り切れて繕い跡の目立つマッキノーがかかっている。カウンターの上の埃まみれのフォルダーの隣にはよくある備え付けのペンセット、使い古された吸取器とべとべとに汚れたインク壜があった。机の横の壁は、至るところ電話番号で埋め尽くされ、木が腐るまで持ちこたえそうに強い筆致ながら、子どもが書いたような字だ。
 一人の男が木製の肘掛椅子に座って机に向かっていた。両足の爪先から踵まで、スキーの最中のように床板をしっかり踏みつけている。右足にホースがひと巻き入りそうなくらい大きな痰壺が寄りかかっていた。汗染みの浮いたステットソンをあみだにかぶり、何年も前から擦り切れて薄くなったカーキパンツのウエストバンドの上、胃のあたりで毛のない大きな手を心地よさげに組んでいる。シャツはズボンによくマッチしていたが、もっと色あせていた。太い首の一番上までボタンを留め、タイはしていない。髪はくすんだ茶色で、こめかみのところは根雪のような色だ。左の尻に体重をかけて座っていた。というのも、右の尻ポケットにヒップ・ホルスターが突っ込まれ、四十五口径の銃が半フィートほど頭を擡げ頑丈な背中に食い込んでいるからだ。左胸の星の先が一つ折れ曲がっていた。
 大きな耳と人懐っこい眼をした男で、ゆっくり顎をむしゃむしゃ動かし、栗鼠とおなじくらい危険に見え、栗鼠ほど神経質そうではない。そのすべてが気に入った。私はカウンターにもたれて相手を見た。向こうもこちらを見てうなずき、半パイントはあろうかという噛み煙草を痰壺に吐いた。それは水の中にものが落ちる嫌な音を立てた。
 煙草に火をつけ、灰皿を探した。
「床に落とせばいい、若いの」人懐っこい大男が言った。
「パットン保安官ですか?」
「町保安官(コンスタブル)にして保安官代理(デピュティ・シェリフ)だ。この辺りで警察といえば、まず私だ。いずれにせよ近く選挙がある。生きのいいのが二人対抗馬に立ってて、今回ばかりは叩きのめされるかもしれん。月給八十ドルに小屋、薪、電気代がついてる。こんな小さな山の中じゃ結構な財産だよ」
「あなたにかなう相手など、どこにもいませんよ」私は言った。「名前を売ることになるでしょうから」
「そうかね?」彼は関心なさそうに訊いた。そして、また痰壺を汚した。
「もし、リトルフォーン湖があなたの管轄下にあるならですが」
「キングズリーのとこか? ああ、そうだ。あそこに何かあるのか、若いの?」
「湖に女の死体が浮かんでる」
 彼はしんから驚いたようだ。組んでいた手をほどいて片耳を搔いた。そして、椅子の腕木を握って立ち上がりざま、器用に椅子を後ろに蹴っ飛ばした。立ち上がると逞しい大男だった。脂肪は、ほんのご愛嬌だ。 
「私が知ってる誰かか?」彼は心配そうに尋ねた。
「ミュリエル・チェス。多分ご存じでしょう。ビル・チェスの奥さんです」
「ああ、ビル・チェスなら知ってる」声が少し硬化した。
「自殺のようだ。遠くへ行ってしまうかのようなメモを残している。だが、自殺の遺書とも考えられる。死体はとても見られたもんじゃない。長い間水に浸かってたんでね。状況から判断して、ひと月近くも」
 彼はもう一方の耳を掻いた。「どんな状況だったというんだ?」眼は今では私の顔をじろじろ見ていた。ゆっくりと落ち着いて、だが、探りを入れているのが分かる。すぐには腰を上げそうになかった。
「ひと月前に喧嘩してる。ビルは湖の北岸まで出かけて何時間も帰ってこなかった。帰ってきたときには女房はいなかった。それ以来、姿を見ていない」
「なるほど。ところで若いの、あんたは誰だ?」
「名前はマーロウ。土地を見るためにL.Aからやってきた。キングズリーからビル・チェス宛の紹介状を持っている。ビルは私を連れて湖を回り、映画の連中が建てた小さな桟橋に出た。手すりに凭れて水面を見下ろしたら、水中に沈んだ古い船着き場の床の下から腕のように見える何かが手を振るのが見えた。ビルが重い岩を落とすと、死体が上がってきた」
 パットンは筋肉ひとつ動かさずに私を見た。
「なあ、保安官、急いだほうがよくはないか? あの男はショックで半分気が狂ったようになってるし、現場に一人っきりだ」
「あそこに酒はどれくらい残ってる?」
「出てくるときはほんの僅かだった。パイント瓶を買ってきたが、話しながらほとんど飲んでしまった」
 彼はロールトップデスクに行って、抽斗の鍵を開け、瓶を三、四本取り出し、光に透かした。
「こいつはまだたっぷり入ってる」彼は一本を叩きながら言った。「マウント・ヴァーノン。これで何とかなるはずだ。郡は緊急用の酒を買う金を出してくれない。それで、あっちこっちで少しずつ押収しなきゃならん。自分では飲まん。こんなものに夢中になる連中の気持ちがさっぱりわからん」
 彼は左の尻ポケットに瓶を突っ込み、机に鍵をかけ、カウンターの天板をはね上げた。そして、ガラスドアの内側にカードを留めた。出て行きがけにカードを見ると、こうあった。「二十分で戻る――予定」
「ちょっと行って、ドク・ホリスを呼んでくる」彼は言った。「すぐに戻って来てあんたを拾う。あれはあんたの車か?」
「そうだ」
「戻ってきたら、ついて来てくれ」
 彼が乗り込んだ車には、サイレンが一個、赤いスポットライト二個、フォグランプ二灯、赤と白のファイアプレート一個、屋根に新しい防空ホーン一個、手斧三挺、太いロープのコイル二巻と後部座席に消火器一個、ランニングボードのフレームには予備のガソリンとオイルと水の缶が装備され、予備のタイヤがラックの上にロープでつながれていた。シートから詰め物がはみ出し、汚い塊になっていた。剥げかけた塗装の上には埃が半インチたまっていた。
 フロントガラスの右下隅の内側には、ブロック体の大文字で印刷された白いカードがあって、こう書かれていた。「有権者の皆さん。ジム・パットンに保安官を続けさせよう。仕事探しには年を食い過ぎてる」
 彼は車を回すと、白い土埃を巻き上げて、通りを走り去った。


【訳文】

「板張りの小屋の窓越しに」は<Behind the window of the board shack>。清水訳は「木造の小屋の窓をとおして」。無難な訳だ。田中訳は「板ばりの小屋の窓ごしに」。村上訳は「丸太でできた小屋の窓の向こうには」。<board>は「板」であって「丸太」ではない。<shack>は「掘っ立て小屋」のこと。今まで丸太小屋のことはずっと<cabin>で通してきている。どうしてわざわざ<board shack>と書いたのかといえば、キングズリー所有の小屋に比べ、一段とみすぼらしかったからに違いない。

「町保安官」と訳したところは<Town Constable>。清水訳は「町会長」になっている。田中訳では珍しくカットされている。村上訳は「町制執行官(タウン・コンスタブル)」とルビを振っている。<constable>はアメリカの場合、シェリフ、マーシャルに並ぶ「保安官」を意味する。おそらく、この地域は「町(town)」なのだろう。職名は植民地時代、英国の制度をまねて作られたが、次第に区分があいまいになった。コンスタブルは、一年任期・無給で地域住民から選ばれる法執行官を意味する。早い話が昔の名誉職の名残だ。

「マッキノー」は<mackinaw>。清水訳は「毛布」、田中訳は「厚い色格子のジャケット」、村上訳は「マッキノー・コート」。「マッキノー」は「けば立てられている重くて厚いウール生地で、通常明るい色の大きなチェック柄をしている。ハンター、漁師、きこりなどの防寒具として利用される」と辞書にある。村上氏は「マッキノー・コート」としているが、私の知っている「マッキノー」は、田中氏も書いている通り、ジャケットの方。

「使い古された吸取器」は<exhausted blotter>。チャンドラーは、この「ブロッター」がよほどお気に入りらしく、どの小説でもオフィスの机を描写するとこれが出てくる。今の人は知らないだろうけど、半月形をした厚手の板の丸くなった部分に吸い取り紙をはめる仕掛けになっていて、それで余計なインクを吸い取る仕組み。清水訳は「インクのしみ(傍点二字)だらけの吸い取り紙」。田中訳は「きたない吸取紙」。村上訳はいつものように「くたびれた下敷き」説。村上氏にはこだわりがあるようで、必ずと言っていいほどこの「下敷き」説を採用する。デスク・パッドのことだと思うのだが、この保安官事務所には、あまり似つかわしくない気がする。

「両足の爪先から踵まで、スキーのように床板をしっかり踏みつけている」は<legs were anchored to flat boards, fore and aft, like skis>。清水訳は「両足をスキーを穿いたように扁平の板に乗せて、しっかり踏んまえていた」。村上訳は「床板にべったりと両足を下ろしていた。まるでスキー板でも履いているみたいに、足の裏全面をべたりと床につけている」。<fore and aft>は「船首から船尾まで」の意味で、その前の<anchored>(投錨する)を受けているのだろう。田中訳は「まるでスキーみたいに、床の上に前とうしろに足を投げだしている」だが、前後に足を投げだすというのは難しすぎる。

「器用に椅子を後ろに蹴っ飛ばした」は<deftly kicking it back from under him>。清水訳は「けたたましい音を立てて椅子をうしろに蹴った」。田中訳は「ほうりなげるように椅子をうしろにひいた」。村上訳は「素早く足で蹴って後ろにやった」。<deftly>は「器用に、巧みに、手際よく」という意味だ。村上訳は分かるが、あとの二人の訳は、どうしてこうなるのかが分からない。

「脂肪は、ほんのご愛嬌だ」は<The fat was just cheerfulness>。清水訳は「ふとっているのでおだやかなムードがただよっていただけだった」。田中訳は「人相がわるくならない程度に、脂肪がついているだけだ」。村上訳は「脂肪は味付け程度についているだけだ」。たったの五語でピシっと決めている。この簡潔さを訳に生かしたい。<cheerfulness>は「陽気、快活」。これを「愛嬌」で受け、<just>を「ほんの」と訳してみた。

「カウンターの天板をはね上げた」は<lifted the flap in the counter>。カウンターの内側に入るため、端の方の天板は跳ね上げ式になっている。ところが、清水訳では「カウンターの上の大きなカードをとり上げて」になっている。次のドアにはめたカードと取り違えたのだ。田中訳は「カウンターの仕切りをあけた」。村上訳は「カウンターのフラップを持ち上げた」。

「剥げかけた塗装の上には埃が半インチたまっていた」は<half an inch of dust over what was left of the paint>。清水訳は「剥げ上がったペンキの上に埃が半インチたまっていた」。田中訳は「ボディのはげちょろけのペンキの上には、半インチもほこりがたまっている」。村上訳は「まだ残っているペイントの上には一センチ以上の埃がたまっていた」。車の塗装を、普通はペンキとは呼ばないのではないだろうか。

有権者の皆さん。ジム・パットンに保安官を続けさせよう。仕事探しには年を食い過ぎてる」は<VOTERS, ATTENTION! KEEP JIM PATTON CONSTABLE. HE IS TOO OLD TO GO TO WORK>。清水訳は「有権者諸君に告ぐ! ジム・パットンを警官職にとどめよ。他の仕事を見つけるには年をとりすぎてる」。田中訳は「有権者の皆さん! ジム・パットンに副保安官をつづけさせてください。ほかの仕事をするのには、もう年をとりすぎているから……」。村上訳は「有権者の皆さん! ジム・パットンを執行官に再任してください。彼は新しく仕事を探すには歳を取りすぎています」。微妙に感じが違うのがおかしい。

『湖中の女を訳す』第六章(3)

<green stone>は「緑色の石」ではなく「翡翠」の一種


【訳文】

 すぐ横で激しい動きがあり、ビル・チェスが言った。「あれを見ろ!」山で聞く雷鳴のようなうなり声だ。
 硬い指が腹が立つほど私の腕に食い込んだ。彼は手すりから大きく身を乗り出し、呆けたように下を見つめていた。日に灼けた顔が真っ青になっていた。私も一緒に水中の足場の端を見下ろした。
 心なしか、水没した緑色の割板の端あたりで、暗闇に何かがゆらゆら揺らめくようで、それは一度は動きを止めたものの、また揺れながら床の下に戻っていった。
 その何かは、人間の腕に似過ぎていた。
 ビル・チェスは体を硬直させた。音も立てずに振り返り、重い足取りで桟橋を戻っていった。そして、ばらばらに積まれた石の山の上に屈み込んだ。息を喘がせるのが聞こえた。大きな石を胸のところまで持ち上げ、桟橋まで戻り始めた。百ポンドはありそうだ。ぴんと張った褐色の皮膚の下で、首の筋肉が帆布の下のロープのように浮き出た。固く食いしばった歯の間からシューシュー息が洩れた。
 桟橋の端までくると足場を固め、高々と石を持ち上げた。しばらくの間じっと掲げたまま、下を目測していた。何やら苦し気な声を上げ、体を前に傾け、激しく体をぶつけて手すりを揺らし、重い石は水面を打ち割って中に沈んだ。
 水しぶきが二人の頭上を越えて飛んだ。岩はまっすぐに落ちて、水没した板張りの端に命中した。何かが揺れて出入りするのを見たのと同じところだ。
 しばらくの間、水は混乱して沸き立ち、やがて波紋は遠くに広がっていき、真ん中の泡立ちもだんだん小さくなった。水中で木が折れるような鈍い音がした。それは、聞こえるはずの音が、ずっと後になって届いたような音だった。年古りて腐った厚板が突然水面に浮かび上がり、ぎざぎざになった端が一フィートばかり水上に突き出て、ぴしゃりと水面を打って倒れ、どこかへ流れていった。
 また底の方が見通せるようになった。何かが動いたが、板ではなかった。それは、たいそうくたびれて、もうどうにでもしてくれと言いたげに、ゆっくりと浮かび上がってきた。長く黒くねじれた何かが、しどけなく回転しながら水の中を浮かび上がってくる。それは、何気なく、そっと、特に急ぐふうもなく水面に浮び上った。水浸しで黝ずんだウール、インクよりも黒い革の胴着、スラックスだった。靴とスラックスの裾の間に醜く膨れ上がった何かが見えた。ダークブロンドの髪が水の中で真っ直ぐに広がり、効果を狙いすますかのように少しの間静止し、やがて再び絡み合うように渦巻くのを見た。
 それは、もう一回転して、片腕がわずかに水の上に出た。腕の先は奇形の手のように膨らんでいた。それから顔が見えた。どろどろに膨れ上がった灰白色の塊は造作を欠いていた。眼も口もない。灰色のパン生地のしみ、人の髪の毛のついた悪夢だ。
 重そうな翡翠のネックレスがかつて首だったところに半ば埋もれ、きらきら光る何かが大きな粗い緑の石を繋いでいた。
 手すりを握るビル・チェスの拳は血の気が失せ、磨かれた骨のようだった。
「ミュリエル!」彼はしゃがれ声を出した。「なんてことだ。ミュリエルだ」
 声は、遥か彼方、丘の上、木々の生い茂る静かな茂みから聞こえてくるようだった。

【解説】

「硬い指が腹が立つほど私の腕に食い込んだ」は<His hard fingers dug into the flesh of my arm until I started to get mad>。清水訳は「彼のこわばった指が私の腕を痛くなるほどつかんだ」。村上訳は「硬い指が私の腕に、いいようのない強さでぐい(傍点二字)と食い込んだ」。田中訳は「そして、そのがつちりした指が、おれの腕の肉にくいこんだ。あまりはげしくつかむので、おれは気分をこわしたほどだ」と、最も原文に忠実だ。

「心なしか、水没した緑色の割板の端あたりで、暗闇に何かがゆらゆら揺らめくようで、それは一度は動きを止めたものの、また揺れながら床の下に戻っていった」は<Languidly at the edge of this green and sunken shelf of wood something waved out from the darkness, hesitated, waved back again out of sight under the flooring>。清水訳は「その水中の緑色の床(ゆか)の端に暗い水の底からゆるやかに浮かび上がり、また床の下に消えていっているものがあった」。

田中訳は「うすぐらい水中の、みどりがかつたセットの水中の部分のふちから、なにかが、ゆらゆら、ただよいでて、また板のうしろにひっこんでいる」。村上訳は「ぼんやりとではあるが、水底に沈んだその緑色の板材の端のところで、暗闇の中から何かが突き出され、揺れているのが見えた。それは戸惑い、手招きするように揺れながら、床板の下にまた引っ込んで見えなくなった」。

<wave>には「手を振る」という意味があり、それを使えばよく分かるのだが、その次にある<The something had looked far too much like a human arm>を先取りすることになるので、訳者はやむを得ず、こういうあいまいな言い方を採用しているのだ。<hasitate>には「一時的に動作を止める」という意味がある。「戸惑い」と訳してしまうと「何か」が擬人化されることになり、せっかくぼかして置いた効果が消えてしまう。村上氏は「手招き」も使っているので、承知の上で使ったのだろう。

「腕の先は奇形の手のように膨らんでいた」は<the arm ended in a bloated hand that was the hand of a freak>。清水訳は「その腕の先の手は醜くふくれ上がって、怪物の手だった」。田中訳は「水でふやけた指さきがあらわれた。なにか、いたずらつぽい手だ」。村上訳は「腕の先は膨張した手になっていた。まるで作り損ないの手のようだ」。<freak>は「(動植物の)奇形、変種」のことだが、辞書には「造化のいたずら」といった表現もあるので、田中、村上両氏のような訳になるのだろう。「奇形」という表現は直截過ぎると思われるのだろうか。

「灰色のパン生地のしみ、人の髪の毛のついた悪夢だ」は<A blotch of gray dough, a nightmare with human hair on it>。清水訳は「ただ灰色のかたまりであった。灰色の粘土をかためて、人間の髪の毛を植えたのとおなじであった」。田中訳は「灰色がかった白い肉塊だ。できものがつぶれたようなグレイのかたまり。悪夢にあらわれる、髪だけあるノッペラボーの顔……」。村上訳は「灰色のぐにゃぐにゃしたこねもの(傍点四字)、人の髪がついた悪夢だ」。

< blotch>には「しみ、できもの」の二つの意味がある。<without eyes, without mouth>と、直前にあるから、この< blotch>は、両眼と口の痕跡を意味しているものと思われる。<dough>は「こね粉、パン生地」のこと。家庭でパンを焼くようになった今とは違って、当時は焼かれる前のパン生地を目にする機会がなかったので、清水、田中両氏のように訳に工夫が要ったのだろう。

「重そうな翡翠のネックレスがかつて首だったところに半ば埋もれ」は<A heavy necklace of green stone showed on what had been a neck, half imbedded>。清水訳は「大きな緑色の宝石の頸飾りが頸であったところになかば埋もれて見えていた」までで、その後はカットしている。田中訳は「もとは首だつたらしいところに、グリーンのいやにごついネックレースがぶらさがっている。みどり色の、大きな、ラフな感じの石は、半分首にはめこんだようになつていて」。村上訳は「かつては首であったところに、緑色の石がついた重そうなネックレスが、半ば食い込むようにかかっていた」。

<green stone>は「緑色岩、グリーンストーン」のことで、翡翠の一種。翡翠にはネフライト(軟玉)とジェダイト(硬玉)の二種類があって、ニュージーランド産のはネフライトマオリの人々が護符として用いているのをヨーロッパから来た開拓者が目に留め、それがジェイド(翡翠)だと気づかず「グリーンストーン」と呼んだのが初めといわれている。

『湖中の女を訳す』第六章(2)

flat angle>は「鈍角」でも「浅い角度」でもない

【訳文】

 我々はまた、小犬のように仲よく並んで歩き出した。少なくとも五十ヤードくらいの間。かろうじて車が通れるほどの道幅の道路が、湖面に迫り出すようにして、高い岩の間を抜けていた。最遠端から半分ほどのところに、別の小さな小屋が岩の基礎の上に建っていた。三つ目の小屋は湖畔からかなり離れた平地のようなところに建っていた。両方とも閉じられていて、ずっと空き家のようだった。
 一、二分後、ビル・チェスが言った。「あの尻軽女が逃げ出したというのは本当か?」
「そのようだ」
「あんたは本物の刑事なのか、それともただの探偵か?」
「ただの探偵さ」
「あの女には誰か連れがいたのか?」
「私はそうだと睨んでいる」
「そうにちがいない。キングズリーも察しがつくはずだ。友だちが大勢いたからな」
「ここにやってきたのか?」
 彼は答えなかった。
「そのうちの一人はレイヴァリーと言わなかったか?」
「知らないな」彼は言った。
「隠すようなことじゃない」私は言った。
「彼女はメキシコから電報を打っている。レイヴァリーとエルパソに行くと」私はポケットから電報を取り出して彼に渡した。彼は手探りでシャツのポケットから眼鏡を取り出し、立ちどまってそれを読んだ。彼は電報を返し、眼鏡をしまって、青い湖を眺めた。
「あんたは隠し事を漏らしてくれた。これはこちらの内輪話さ」
「レイヴァリーはここに来たことがある」彼はゆっくり言った。
「あいつは二か月前彼女に会ったことを認めてる。多分ここだ。それからは会っていないと言っている。その言い分を信じるべきかどうかは分からない。信じるべき理由も、信じるべきでない理由もない」
「今はそいつと一緒じゃないんだな?」
「そう言っている」
「結婚のような細かなことで大騒ぎするような女じゃない」彼は真面目くさって言った。「フロリダへのハネムーンの方が性に合ってるだろう」
「けど、あんたははっきりしたことは聞いていない。どこに行くとか、確かなことは何も聞かなかったというんだな?」
「そうだ」彼は言った。「もし知ってても、俺が漏らすかどうか疑わしいな。俺は腐っちゃいるが、そこまで腐っちゃいない」
「おつきあいに感謝する」
「あんたに借りはない」彼は言った。「あんたも他の詮索好きも勝手にすりゃいいんだ」
「また、はじめる気か」私は言った。
 湖の端まで来ていた。私は彼をそこに残し、小さな桟橋に向かった。桟橋の端にある木の手すりにもたれた。バンド用のパビリオンのように見えたものは、ダムに正対するように立つ二枚の壁でしかなかった。壁の上に二フィートほどの庇が笠木のように突き出していた。ビル・チェスが後ろにやってきて、並んで手すりに凭れた。
「とはいえ、酒の礼を忘れているわけじゃない」彼は言った。
「ああ。湖に魚はいるのか?」
「こすっからい古手の鱒がいる。新入りはいない。俺はあまり釣りが好きじゃない。魚なんてどうでもいいのさ。またきつくあたって悪かった」
 私はにやりと笑って、手すりごしに深く淀んだ水を見下ろした。覗き込むと緑色をしていた。下で渦巻きのような動きがあり、水の中で緑がかったものが素早く動いた。
「あれが爺様だ」ビル・チェスは言った。「あの大きさを見てみろよ。あんなに太っちまって、ちっとは恥ってものを知るべきだ」.
 水の下に水中の床のようなものがあった。その意味が分からないので聞いてみた。
「ダムができる前の船着き場さ。今では水位が上がって、古い船着き場は六フィートの水の底だ」
 平底船がすり切れたロープで桟橋の杭に繋がれていた。船はほとんど動くことなく水の上に身を横たえていたが、微かに揺れていた。空気は静かで穏やかで陽光に溢れ、街なかでは味わえない静謐さに充ちていた。ドレイス・キングズリーと彼の妻、そのボーイフレンドのことなんか忘れて何時間でもそこにいることができただろう。

【解説】

「あんたは隠し事を漏らしてくれた。これはこちらの内輪話さ」は<That's a little confidence for you to hold against some of what you gave me>。マーロウは自分も内部情報を漏らすことで、相手との間に信頼関係を築こうとしたんだろう。清水氏はここをカットしている。田中訳は「きみからきいたことはだまってるから、これも、ひとには言わんでくれ」。村上訳は「そちらが秘密を打ち明けてくれたからこそ、わたしもこうやって信頼して内輪話をしているんだ」。

「あんたも他の詮索好きも勝手にすりゃいいんだ」は<The hell with you and every other God damn snooper>。<The hell with you>はビル・チェスの口癖のようだ。清水訳は「あんただろうが誰だろうが、探偵(いぬ)のつら(傍点二字)は見たくないんだ」。田中訳は「あんたなんかどうなろうと、おれはしっちゃいないよ。ひとのことに鼻をつっこんで飯をくつてるやつなんかはね」。村上訳は「私立探偵なんて、どいつもこいつもまったく反吐(へど)が出るぜ」。

「バンド用のパビリオンのように見えたものは、ダムに正対するように立つ二枚の壁でしかなかった」は<had looked like a band pavilion was nothing but two pieces of propped up wall meeting at a flat angle towards the dam>。<a flat angle>をどう訳しているかだが、清水訳は「音楽堂のように見えたのは二つの壁がダムに水平の角度でできていただけだった」。「水平の角度」というのがよく分からない。

田中訳は「遠くからながめるとバンドのステージに見えないこともなかったが、近よってしらべると、ただ、水面にでた二つの板壁が、ダムの方にむかって鈍角にうちつけてあるだけで」。村上訳は「バンド用ステージのように見えるものを眺めた。それは二枚の大道具の壁面を、ダムに向けて浅い角度で合わせたものに過ぎなかった」。両氏とも「鈍角」、「浅い角度」と訳しているが、<flat angle>は「平角(180度)」であって、二直角より小さい角度を表しはしない。

『湖中の女を訳す』第六章(1)

<brighten up>は「~を明るくする」から「機嫌を直す、元気づける」

【訳文】

我々は湖岸へと続く斜面を下り、狭い堰堤の上に出た。ビル・チェスは、鉄の支柱に取り付けられた手すりのロープをつかみながら、強張った足を振るようにして私の前を歩いた。ひとところで水がゆっくり渦を巻いてコンクリートの上を越えていた。
「朝になったら、水車から少し水を落とすことにしよう」彼は肩越しに言った。「あれはそれくらいの役にしか立たない。どこかの映画の撮影班が三年前に建てて、ここで映画を撮ったんだ。反対側の端にあるあの小さな桟橋も連中の仕事の一部だよ。ほとんど壊して持ち去ったんだが、あの桟橋と水車はキングズリーが残させた。風景に色を添えるとかで」
 私は彼の後についてキングズリーの小屋のポーチに通じる、がっしりした木の階段を上がった。彼がドアの鍵を開け、我々はしんとして暖かな室内に入った。閉め切った部屋は暑いくらいだ。ブラインドの羽板を洩れる光が床に狭い横縞を描いていた。居間は細長く、居心地がよさそうで、インディアン風の敷物が敷かれていた。詰め物を入れ、継ぎ目を金具で留めた山小屋風の椅子、更紗のカーテン、堅木張りの白木の床、たくさんのランプ、部屋の一隅に円いストゥールを並べた小さな作りつけのバーがある。部屋はこざっぱりしていて、住人が急に出て行ったようには見えなかった。
 我々は寝室に入った。二つある寝室のうち、ひとつはトゥィン・ベッド、もうひとつはダブル・ベッドで、クリーム色の掛布には暗紫色の毛糸で模様が縫いつけてあった。これが主寝室だ、とビル・チェスが言った。ニスを塗った木のドレッサーの上には、翡翠色の琺瑯細工とステンレス・スティール製の化粧道具と付属品、化粧品の雑多な取り合わせがひと揃え置かれていた。一組のコールド・クリームの瓶にはギラ―レン社の波打つ黄金のブランドが冠されていた。部屋の片側全面がスライディング・ドアのついたクローゼットになっていた。私はドアを開け、中を覗いた。中はリゾート向きの婦人服でいっぱいのようだった。ビル・チェスは、私がそれらを詮索している間、苦々しげに私を見ていた。私はドアを閉め、下の奥行きのある靴用の抽斗を開けた。新品同様の靴が少なくとも半ダースは揃っている。私は抽斗を閉めて、立ち上がった。
 ビル・チェスが、顎を突き出し、固く握った両の拳を腰にあてて私の前に立ちはだかった。「何のために、夫人の服が見たかったのかね?」彼は怒気を孕んだ声で尋ねた。
「理由はいくつもある」私は言った。「たとえば、ミセス・キングズリーはここを出た切り家に帰っていない。夫はそれから彼女に会っていない。居所さえ分からないんだ」
 彼は両拳を下ろし、脇でゆっくり捻った。「探偵なんだな」彼はうなった。「いつだって第一印象が正しいんだ。俺は自分でそう言ってたのに。膝を抱えて泣く女みたいに、何もかもあんたに打ち明けちまった。やれやれ、俺は何てとんまな男なんだ」
「信用を大事にすることにかけては、私は誰にも負けない」私は言った。そして彼の横を通ってキッチンに入った。
 緑と白の大きなコンビネーション・レンジ、ラッカーを塗った松材のシンク、サービス・ポーチには自動給湯器があった。キッチンの反対側は気持ちのいい朝食室に通じていて、多くの窓と高価なプラスチックの朝食セットがあった。棚には色とりどりの皿やグラス、白目の盛り皿のセットが賑やかに並んでいた。
 すべてが整然としていた。流し台に汚れたカップや皿はなく、使った痕跡のあるグラスや酒の空き瓶も転がっていなかった。蟻も蠅もいない。どんなにふしだらな暮らしぶりだったにせよ、ミセス・ ドレイス・キングズリーはいつものグリニッチ・ビレッジめいた汚れを残すことなくなんとかやってのけていた。
 居間に戻り、また正面のポーチに出てビル・チェスが鍵をかけるのを待った。鍵をかけ終え、しかめっ面をして私を見たときこう言った。
「私はあんたに、思いのたけを吐き出してくれと頼みはしなかった。しかし、あんたがそうするのを止めようともしなかった。夫人があんたに言い寄ったことを キングズリーは知らなくていい。これ以上に裏に何かあるのでなければね」
「勝手にしろ」彼は言った。まだしかめっ面はそのままだった。
「ああ、勝手にするさ。奥さんとキングズリーの奥さんが一緒に出て行った可能性はないのか?」
「それはない」彼は言った。
「あんたが憂さ晴らしに出かけた後、二人が喧嘩し、それから仲直りして互いの首にかじりついて涙を流したってことはないだろうか。それから、ミセス・キングズリーが奥さんを連れて山を下りた。何かに乗らなきゃ山を下れないだろう?」
 馬鹿げた話だが、彼は真剣に受けとめた。
「いや。ミュリエルは人にすがって泣いたりしない。ミュリエルに涙はそぐわない。万が一泣きたくなったとしても、あの尻軽女の肩を借りたりはしないだろう。乗り物なら、あいつには自分のフォードがあった。俺のは曲がらない足で運転できるように改造してあって、運転が難しいんだ」
「ちょっと思いついたまでさ」私は言った。
「また似たようなことを思いついても、そのままにしておくことだ」彼は言った。
「赤の他人の前で、何でも吐き出してしまう男にしちゃ、やけに神経質だな」私は言った。
 彼は私の方に一歩踏み出した。「喧嘩を売ろうってのか?」
「なあ」私は言った。「あんたは、根はいい男だと思おうとしているんだ。ちょっとはそっちも手を貸してくれないか?」
 彼は少しの間、息を荒げていたが、救いようがないとでも言いたげに、両手を下ろして広げてみせた。
「機嫌を直すには遅すぎるかもしれんが」彼は溜め息をついた。「湖を回って帰る気はあるか?」
「いいね、あんたの足に負担がかからないなら」
「今まで何度もやってきていることさ」

【解説】

「強張った足を振るようにして私の前を歩いた」は<swung his stiff leg in front of me>。清水訳は「固くなった脚を私の目の前で振り動かした」。田中訳は「わるい足をまわすようにして、おれの前をすすんでゆく」。村上訳だけが「義足を振るようにして私の前を歩いた」と<stiff leg>を「義足」と訳している。<stiff>は「曲がらない、硬い」の意味。「義足」と決めつけるのはどうだろうか。

「朝になったら、水車から少し水を落とすことにしよう」は<I'll let some out through the wheel in the morning>。清水訳は「朝になるといつも水車に水を流してやるんです」。村上訳は「朝のうちに水車のところから、少し水を落としておこう」。その前の水が堰堤を越えて溢れていたことについての言及だ。田中訳は「明日の朝は、どうしてもあのボロ水車をぶっこわしてやろう」と物騒なことを言っている。自在な訳が小実昌訳の特徴だが、さすがにこれはやり過ぎだ。雇い主が気に入っているものを使用人が壊すことなどできはしない。

「ニスを塗った木のドレッサー」は<a dresser of varnished wood>。清水訳は「ワニスをかけた木製の化粧テーブル」。田中訳は「ニスでみがいた木のタンス」。ところが、村上訳だけが「艶消し木材でできたドレッサー」となっている。<varnish>は「ワニス(ニス)」。動詞の場合は「ワニスを塗る、磨く、艶を出す」の意味で、「艶消し」では逆の意味になってしまう。勘違いしたのだろうか。

翡翠色の琺瑯細工とステンレス・スティール製の化粧道具と付属品、化粧品の雑多な取り合わせがひと揃え置かれていた」は<there were toilet articles and accessories in jade green enamel and stainless steel, and an assortment of cosmetic oddments>。前半部分の解釈が訳者によって異なっている。<oddments>とは「残り物、半端物」の意。<assortment of ~>は「~の取り合わせ、盛り合わせ」。

清水訳は「琥珀(こはく)グリーンのエナメルとステンレス・スチールの洗面道具のかずかず(傍点四字)とさまざまの化粧品がおかれてあった」。清水氏はこの<in>を「(道具、材料、表現様式を表す)~で作った」の意味と解している。そのうえで<accessories>を「付属品」と読んで「(洗面道具)のかずかず」と訳したのだろう。

田中訳は「グリーンがかった硬玉色のエナメルをぬった容器やステンレスのケースにはいった洗面道具、そのほかこまごましたものがあり、また、化粧道具もみえた」。氏は「(場所を表す)~の中に」と解して、「容器や(ステンレスの)ケース」を訳の中につけ加えたのだろう。<accessories>は、やはり「そのほかこまごましたもの」の中に含まれていると考えられる。

村上訳は「化粧道具やアクセサリーが置かれていた。アクセサリーは翡翠色(ひすいいろ)のエナメルとステンレス・スティールでできていた。そして様々な化粧品が並んでいた」と両氏とは異なり、<accessories>を文字通り「アクセサリー(装身具)」と解釈したうえで「アクセサリーは翡翠色(ひすいいろ)のエナメルとステンレス・スティールでできていた」と<in jade green enamel and stainless steel>を「アクセサリー」だけにかかるものという解釈だ。

ただ、社長夫人のアクセサリーが「エナメルとステンレス・スティールでできてい」るというのは、いささか突飛過ぎないか。村上氏は、いったいどんなアクセサリーを想像していたのだろう。まさかネックレスにステンレス・スティールを使うはずもないし、イヤリングだと考えるとモダンすぎる。これが化粧道具なら、ステンレス・スティール製の物もありそうだし、エナメル加工された物もあるだろう。また、田中氏のように容器と考えるなら、琺瑯引きやステンレスのトレイはいかにもありそうだ。しかし、容器に入っていたなら、マーロウなら、そのことを一言添えるはずだ。

「膝を抱えて泣く女みたいに、何もかもあんたに打ち明けちまった」は<Boy, did I open up to you. Nellie with her hair in her lap>。<Nellie>の再登場だ。清水訳は「うっかり何もかもしゃべっちまった。へまなことをやったもんだ」と、二つ目の文は作文している。田中訳も「おれは、ペラペラ、くだらないことまでしゃべって――。なにもかも、こっちからもうしあげてしまった。ウィスキーをくれて、話をきいてくれるご親切なお方だとおもったら、こんなことだ」。これは、それだけでは意味が分からない文を解きほぐしているのだろう。村上訳は「なのにおれは秘密をそっくり打ち明けちまった」と後半はカットしている。

「ラッカーを塗った松材のシンク」は<a sink of lacquered yellow pine>。清水訳は「黄いろいラッカーを塗った松材の流し台」。田中訳は「松色のラッカーをぬった流し」。村上訳は「シンクはラッカーを塗られた黄色松材でできていた」。<yellow pine>は、「北米産の松の総称」。堅く黄色がかった木質なのでそう呼ばれる。黄色いラッカーを塗ってしまったら、松かどうかなんて分からないだろうに。「松色」というのもかなり怪しい。「イエローパイン」材はソフトな色調からカントリー調の家具に用いられることが多い。ここで塗られているのはもちろん透明なクリアラッカーである。

「勝手にしろ」は<The hell with you>。「勝手にするさ」は<the hell with me>。清水訳は「何をいいやがる」。「べつに何もいっていない」。田中訳は「あんたなんかに用はない」。「おれに用はないかもしれん」。村上訳は「糞野郎め」。「私はたしかに糞野郎だ」。<The hell with ~>は「どうなっても構わない、まっぴらだ、うんざりだ」という気持ちを表すイディオムだ。「これ以上~と一緒にい(し)たくない」という意味で、単なる罵り言葉ではない。

「機嫌を直すには遅すぎるかもしれんが」は<Boy, can I brighten up anybody's afternoon>。清水訳は「俺が誰かの役に立つなんてことがあるのかね」。田中訳は「なんだって、おれは、ひとにくってかかってばかりいるんだろう」。村上訳は「まったくもう、おれのやることなすことすべてとんちんかん(傍点六字)だな」。<brighten up>は「~を明るくする」から「機嫌を直す、元気づける」という意味になる。<brighten up someone's day>は「(人の)一日を明るくする」という意味で使われるイディオムだ。マーロウがやってきたのが午後だったから、<day>のところを<afternoon>と洒落たのだろう。

『湖中の女を訳す』第五章(4)

三度繰り返される<get away with>をどう扱うか?

【訳文】

話が途切れた。言葉は宙を漂い、やがてゆっくり落ちて、あとには沈黙が残った。彼は身を屈めて岩の上の瓶を手に取り、じっと凝視めた。心の中で瓶と戦っているようだった。ウィスキーが勝った。いつものように。彼は瓶の口から直にごくごく飲んで、キャップをきつく閉めた。まるで、そうすることに何か意味でもあるかのように。そして、石を拾って水の中に放り込んだ。
「俺はダムを横切って帰ってきた」彼はゆっくり言った。すでに酔いが回った声だった。「新品のピストン・ヘッドみたいに調子がいい。何でもしたい放題さ。俺たち男ってのは、ちょっとしたことで勘違いすることがあるよな? 好き放題しておいてバレずに済む訳がない。とんでもない話だ。ミュリエルが話すのを聞いていると、声を荒げもしない。だが、俺自身が思いもよらないことを俺について言ってのける。ああ、そうだ。俺は見事に好き放題やってるよ」
「それで奥さんは出て行ったんだ」彼が黙り込んだので、私は言った。
「その晩。俺はここにいもしなかった。気がすさんで、生酔いではいられなかった。フォードに飛び乗って湖の北側に行って、俺みたいなろくでなし二人を引きとめて散々酔っぱらった。だが気は晴れなかった。朝の四時頃、家に帰ってきたら、ミュリエルはいなかった。荷物をまとめて出て行ったんだ。跡形もなかった。箪笥の上の書き置きと枕の上のコールドクリームだか何だかを別にして。
 彼はくたびれた古財布から端が折れた紙片をとり出して私に渡した。ノートを破った、青い罫線の入った紙に、鉛筆でこう書かれていた。
「ごめんね、ビル。でも、これ以上あなたと一緒に暮らすより死んだほうがまし。ミュリエル」
 私はそれを返した。「あちらはどうなった?」私は湖の向こうを目で示して尋ねた。
 ビル・チェスは平たい石を拾い上げ、水切りを試みたが、石は跳ねるのを嫌がった。
「どうもこうもない」彼は言った。「あの女も荷造りして山を下りた。同じ晩のことだ。その後は顔を見ていない。二度と会いたくないね。ひと月経ってもミュリエルは何も言ってこない。一言たりとも。女房がどこにいるのか俺には見当もつかない。誰か他の男と一緒かもな。そいつが俺より優しくしてくれるように願ってるよ」
 彼は立ち上がり、ポケットから鍵束を取り出して振って見せた。「向こうに行って、キングズリーの小屋を見たいのなら、案内するよ。昼メロにつき合わせちまってすまなかった。それに酒をありがとうよ。ほれ」彼はいくらか酒の残った瓶を取り上げ、私に渡した。

【解説】

「俺は新品のピストン・ヘッドみたいに絶好調だ」は<I'm as smooth as a new piston head>。清水訳では「私はものごとにあまりこだわらない。何とかなると思ってる」になっている。ふだんのものの考え方と取っている。田中訳は「しらばつくれた顔をしてね」とそのときの態度という解釈だ。村上訳は「まるで新品のピストン・ヘッドみたいに滑らかな気分さ」と、その時の気持ちと捉えている。

これは次にくる<I'm getting away with something>について説明していると考えられる。<get away with>は、「(よくないこと)を罰せられないで(見つからずに)やりおおす.」の意味。清水訳は「何とかなると思ってる」。田中訳は「女房のミューリエルなんかにはわかるはずがないと思いこんで」。村上訳は「よしよし、うまいことやった、みたいな気分になってね」。

チャンドラーは一つの言い回しを同センテンスの中でニュアンスを変えて使うのが上手い。ここでも、<I'm getting away with something>、< I'm not getting away with anything at all>、<I'm getting away with it lovely>と、三度繰り返している。すべて現在進行形になっていることに注目したい。たった一度きりのことを言っているわけではなく、これが「習慣的な行動」であることを表している。だから、ミセス・キングズリーとの一度きりの浮気ととるのはおかしい。そういう意味では清水訳が当を得ている。

「俺は見事に好き放題やってるよ」は<I'm getting away with it lovely>。清水訳は「まったくうまくないんだ」。田中訳は「まったく、よくできてますよ」。村上訳は「うまいことやったなんてとんでもない」。<lovely>は反語だろう。それを活かすには田中氏のように肯定的な表現にした方がいい。いろいろと考えてみたが、<get away with>を三通りに訳すのは難しかった。もっといい訳があるはずだと思う。

「昼メロにつき合わせちまってすまなかった」は<And thanks for listening to the soap opera>。<soap opera>は、平日昼間に放映しているテレビのメロ・ドラマのこと。石鹸会社が提供していることから、こう呼ばれるようになった。清水訳は「くだらない話を聞いてもらってありがとう」。田中訳は「くだらないグチをきいてくれて、ありがとう」。村上訳は「くだらない身の上話につきあってくれて、ありがとうよ」。「スペース・オペラ」は普通に使われているが、「ソープ・オペラ」はまだ日本語として市民権を得ていない。しかし、「昼メロ」なら使えるのでは。

『湖中の女を訳す』第五章(3)

<in a lance of light>(光の槍の中に)は何の比喩だろう?

【訳文】

私は瓶の金属キャップを捻り切り、相手のグラスにたっぷりと、自分のグラスには軽く注いだ。我々はグラスを合わせ、そして飲んだ。彼は酒を舌の上で転がし、微かな陽射しのようにわびし気な微笑を顔に浮かべた。
「こいつは本物だ」彼は言った。「しかし、どうしてあんなにまくしたててしまったものか。こんなとこに独りでいると気が滅入るんだろうな。話し相手も、本当の友だちも、女房もいない」彼はそこで間を置き、横目でこちらを見た。「とりわけ女房がな」
 私は小さな湖の青い水をじっと見ていた。せり出した岩の下、一条の光の中に魚が浮かび上がり、波紋がまるい輪を広げた。微風がさざ波に似た音を立て松の樹冠を揺らした。
「女房が出て行ったんだ」彼はゆっくり言った。「ひと月前のことだ。六月十二日の金曜日、忘れられない日になるだろう」
 私ははっとからだを強ばらせたが、彼の空のグラスにウィスキーを注げないほどではなかった。六月十二日の金曜日は、ミセス・クリスタル・キングズリーがパーティのために街に戻ってくるはずだった日だ。
「しかし、そんな話を聞きたくはないだろう」彼は言った。彼の色あせた青い目には、それについて語りたいという強い思いが、何よりもはっきりと見えていた。
「私には関係ないことだが」私は言った。「それで君の気が少しでも晴れるなら――」
 彼は深くうなずいた。「二人の男が公園のベンチでばったり出会う」彼は言った。「そして神について話しはじめる。そんなことってないか? 一番仲の好い友だちとも神について話したことなんかない男たちが」
「分かるよ」私は言った。
 彼は一口飲んで湖を見渡した。「女房はかわいい女だった」彼は低い声で言った。「
時々とげのあることも言うが、かわいい女だった。俺とミュリエルは一目惚れだったんだ。初めて会ったのはリバーサイドの店だ。一年と三カ月前になる。ミュリエルみたいな子と出会えるような店じゃなかった。ところが、俺たちは出会って、そして結婚した。俺はミュリエルを愛していた。俺には過ぎた女房だと思っていた。そして、あいつとうまくやっていくには、俺は鼻つまみ過ぎた」
 私はそこにいることを知らせるために少し動いたが、魔法が解けるのを恐れて何も言わなかった。口をつけてもいない酒を手に座っていた。飲むのは好きだが、人が私を日記代わりに使っているときは別だ。
 彼は悲し気に続けた。「だが、あんたも知ってるだろう、結婚というものを――どんな結婚でも、しばらく経つと、俺みたいな、どこにでもいる、くだらない男は、脚に触りたくなるんだ。他の女の脚に。ひどいかもしれんが、そういうもんだ」
 彼は私を見た。私は、よく聞く話だ、と言った。
 彼は二杯目を空けた。私は瓶を手渡した。一羽の青カケスが羽を動かさず、バランスをとるために止まることさえせず、枝から枝へと飛び跳ねて松の木を登っていった。
「そういうことさ」ビル・チェスは言った。「山育ちはみんな半分正気じゃない。俺もそうなりつつある。ここの生活は安泰だ。家賃を払うこともないし、年金も毎月届くし、ボーナスの半分は戦時国債に回している。滅多とお目にかかれない可愛いブロンドと結婚もしていた。それなのに俺の頭はいつもどうかしていて、それが分からないんだ。だからあそこに行くんだ」彼は湖の対岸にあるアメリカ杉の小屋を指さした。午後の遅い陽射しを浴びてくすんだ濃赤色に色を変えていた。「まさにあの前庭だ」彼は言った。「窓の真下で、俺にとっちゃ草の葉一枚の値打ちもない派手な尻軽女と。ちくしょう、なんて間抜けだ」
 彼は三杯目を空け、グラスを岩の上にぐらつかないように置いた。シャツから煙草を一本取り出し、親指でマッチを擦って、素早くスパスパ吹かした。私は口を開けて息をしながら、カーテンの後ろに隠れた押し込みのように静かにしていた。
「どうしても」彼はとうとう言った。「火遊びがしたいなら、家から離れたところで、せめて女房とは違うタイプを選ぶと思うだろう。だが、あそこにいる尻軽女はそうじゃない。ミュリエルに似た金髪で、サイズも目方も同じ、同じタイプで、眼の色もほとんど同じだ。違うのはそこからだ。確かにきれいだが、誰にでもって訳じゃない。俺にとっちゃ、ミュリエルの半分もきれいじゃない。それはともかく、あの朝、いつも通り自分の仕事をすまそうと、あそこでごみを燃やしてると、あの女が小屋の裏戸口から出てくるじゃないか。ピンクの乳首が透けて見えるくらい薄い生地のパジャマ姿で。そして、物憂い、良からぬ声で言う『一杯引っかけたら、ビル。こんな気持ちのいい朝にそんなに精出して働くものじゃないわ』。俺も酒には目がない方だから勝手口に行って一杯引っかける。やがて、一杯が二杯、二杯が三杯になり、気がつくと家の中に上がり込んでる。近づけば近づくほど、いよいよ女の眼が艶めいてくる」
 彼はそこで一息ついて、厳しい表情でじっと私を見た。
「あそこのベッドの寝心地は快適かと訊かれて、俺はカッとなった。あんたに他意はなかったにせよ、俺には思い出すことがたっぷりあったんだ。ああ――俺が潜り込んだベッドは快適な寝心地だったよ」

【解説】

「一条の光の中に魚が浮かび上がり」は<a fish surfaced in a lance of light>。<lance>は「槍」のことだ。「光の槍の中」が何を意味するのかが問題だ。清水訳は「魚が一尾、きらりと光って姿をあらわし」。田中訳は「魚がおどり、キラッと水面がひかって」。村上訳は「一匹の魚が光の槍のようにさっと水面に浮上し」。

清水氏は光ったのは魚、田中氏は水面、村上氏は比喩だと捉えている。実は、この前に「せり出した岩の下」<Under an overhanging rock>という部分がある。これが大事。つまり、魚が出てきたのは岩陰で、普通なら光るはずがない。そこで<in a lance of light>が問題になる。岩の間から、そこにだけ一条の光が差し込んだと考えれば「光の槍」という比喩も納得できる。

「俺には過ぎた女房だと思っていた。そして、あいつとうまくやっていくには、俺は鼻つまみ過ぎた」は<I knew I was well off. And I was too much of a skunk to play ball with her>。清水訳は「夢中でした。だが、私はあの女にはふさわしくないくだらない男でした」。田中訳は「かねにはこまらなかったが、あんな女を女房にするのは、おれにはもったいない、とそのときも思いましたよ」。村上訳は「恵まれていると思ったよ。でも俺ときたら、彼女とそのままうまくやっていくにはあまりにもろくでもない男だった」。

<well off>は「富裕な、うまくいっていて」、<skunk>はあのスカンクから「いやなやつ、鼻つまみ」、<play ball with ~>は「~と協力する」という意味。<well off>を、清水氏はその前の<I loved her>から「愛が十分ある」と考えたのだろう。田中氏はずばり「金」と取っている。しかし、ここは村上訳の「恵まれている」が正解だろう。清水、田中両氏の訳からは<too much of a skunk>という激しい自嘲が伝わらない。女の方はよき伴侶だったのに、男の方が「鼻つまみ」だった。「釣り合わぬは不仲の元」というやつである。

「脚に触りたくなるんだ。他の女の脚に」は<he wants to feel a leg. Some other leg>。清水訳は「男は女の脚にさわりたくなる。ちがう女の脚にね」。田中訳は「ほかの女に足をつかいたくなる。もう一つの足をね」。村上訳は「身体がむずむずしてくるんだ。ほかの女の脚につい目が行くようになる」。<feel one’s legs>だと、「足もとがしっかりしているのを感じる、自信がつく」の意味になるが、<leg>が単数であることが気になる。田中訳は独特の解釈だが、単数の<leg>を使った際どいスラングは確かにある。<get a leg over>というのがそれで、ずばり「(男性が女性と)ヤる」という意味らしい。田中訳に比べると、村上訳ははるかに上品だ。

「窓の真下で、俺にとっちゃ草の葉一枚の値打ちもない派手な尻軽女と。ちくしょう、なんて間抜けだ」は<right under the windows, and a showy little tart that means no more to me than a blade of grass. Jesus, what a sap a guy can be>。清水訳は「あの窓のすぐ下で、私には一枚の草っ葉とおんなじ自堕落な女がはでなかっこうをしてるんです」と後半をカットしている。田中訳は「窓のま下に、へたに芝居がかった色気狂いが腰かけてるのがどうしても気になってね、草つ葉ほどのとりえ(傍点三字)もない、あの女が――。おれは、ほんとに、どこまでバカだろう」と「腰かけてるのがどうしても気になってね」をつけ加えている。村上訳は「あの窓の下で、派手な尻軽女と。ジーザス、男というのは、どこまで愚かしくなれるものか」。

「素早くスパスパ吹かした」は<puffed rapidly>。清水訳は「たてつづけに煙を吐いた」。田中訳は「プカプカ、いそがしそうにふかした」。村上訳は「せわしなく煙を吸い込んだ」。村上氏が煙草を吸うのかどうか知らないが、マリファナ煙草でもなければ、そうは煙は吸い込むことはない。<puff>にも「ぷっと吹く」という意味はあるが「吸い込む」の意味はない。

「それはともかく、あの朝、いつも通り自分の仕事をすまそうと、あそこでごみを燃やしてると、あの女が小屋の裏戸口から出てくるじゃないか」は<Well, I'm over there burning trash that morning and minding my own business, as much as I ever mind it. And she comes to the back door of the cabin>。この回想部分はすべて現在形が使われている。しかし、三氏の訳はすべて過去形になっている。

清水訳「とにかく、私はその朝、ごみ(傍点二字)を燃しに行ったとき、いつものように仕事のことしか考えていなかった。あの女が(略)キャビンの裏に現れて」

田中訳「ま、それはともかく、あの朝、おれはゴミをやいてた。女のことなんかなにもかんがえずにね。そしたら(略)クリスタル・キングズリイが裏口からでてきて」

村上訳「それでね、おれはその朝、いつもどおりあそこに行ってゴミを燃やしていた。日々の仕事をただこなしていただけさ。そうしていると、彼女はキャビンの裏口から出てきた」

「近づけば近づくほど、いよいよ女の眼が艶めいてくる」も<And the closer I get to her the more bedroom her eyes are>と最後まで現在形で通している。清水訳は「私が女に近づけば近づくほど、女の目が寝室にいるときの目になっていった」。田中訳は「クリスタル・キングズリイはくつついてきて、とうとう寝室にひっぱりこまれてしまつたんですよ」。村上訳は「そしておれと彼女との距離が狭まるほど、彼女の目が色っぽく燃え始めた」と、やはり過去形になっている。そうまでこだわる必要はないのかもしれないが、一応現在形になっているところは、現在形で訳してみた。臨場感が増したように思う。