HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第十一章(1)

<the back>は「(椅子)の背」の部分。自分の背なら<on my back>だ

【訳文】

 私道を塞ぐゲートには南京錠がかかっていた。二本の松の木の間にクライスラーを押込み、ゲートをよじ登って、忍び足で道の縁を歩いた。突然、足下に小さな湖の光が微かにきらめいた。ビル・チェスの小屋は真っ暗だった。対岸の三軒の小屋は、青白い花崗岩の露頭を背に、まとまりのない影を見せていた。水はダムの上を越えるところで白く光り、ほとんど音もなく、傾斜した外壁を伝って下の小川に落ちていた。耳をすましても、他には何の音も聞こえなかった。
 チェスの小屋の玄関ドアには鍵がかかっていた。足音を忍ばせて裏に回ると、そこには頭にくることに南京錠がぶら下がっていた。網戸を触りながら壁伝いに歩いて行った。どれもみな戸締りされていた。高い所にある一つの窓には網戸がなかった。北側の壁の中ほどにある小さな山小屋風の両開き窓だ。これもまた施錠されていた。私はじっと立って、もう少し耳をすました。微風さえなく、樹々は影のように静かだった。
 ナイフの刃を小さな窓の窓枠の隙間に入れてみた。駄目だった。留金はびくともしなかった。私は壁にもたれて考え、それから矢庭に大きな石を拾い上げて、二つの窓枠が合わさった真ん中にぶつけた。引き裂かれるような音がして、乾いた木枠から留金が外れ、暗闇の中に向かって窓が開いた。私は敷居の上に体を引き上げ、窮屈な脚をこじ入れて隙間を通り抜け、体を丸めて部屋の中に転げ落ちた。高地での激しい運動に少し音を上げながら、向き直り、また耳をすました。
 閃光がまともに目を射た。
 落ち着き払った声が言った。「そこまでだ、若いの。少し休んだ方がいい。さぞくたびれたろう」
 閃光は、私を叩き潰された蠅みたいに壁に釘づけにした。それから照明のスイッチがかちりと鳴って卓上スタンドが点いた。懐中電灯が消えた。ジム・パットンがテーブルの傍にある、古い茶色の肘掛椅子(モリス・チェア)に腰かけていた。縁飾りのついた茶色のテーブル掛けの端が垂れて、肉厚な膝に触れていた。昼間に着ていたのと同じ服を着て、その上に革の胴着を重ねていたが、グローヴァー・クリーヴランド大統領の一期目の頃には新品だったに違いない。手には懐中電灯しか持っていなかった。両眼には何の感情も浮かんでおらず、顎は穏やかなリズムで動いていた。
「何を考えてるんだ。若いの――不法侵入のほかに?」
 私は椅子を引き寄せて馬乗りになり、背凭れに両腕をもたせかけ、小屋の中を見回した。
「ちょっと思いついたことがあってね」私は言った。「しばらくはそこそこいけるように思ったが、どうやら忘れられそうだ」
 小屋は外から見たときより広かった。私がいたのは居間だった。質素な家具が何点か置かれていた。松材の床にはぼろ絨毯、壁際に寄せた円テーブルとセットになった椅子が二脚。開いたドアの向こうに、大きな黒い料理用ストーブの端が見えた。
 パットンは頷き、悪意のない目で私を観察していた。「車の音が聞こえたんだ」彼は言った。「ここに来るだろうと思ってた。それにしても上手に歩くものだ。足音がまったく聞こえなかった。あんたのことが少々気になっていたんだ。若いの」
 私は何も言わなかった。
「若いの、と呼んでも構わんだろうね 」と彼は言った 「馴れ馴れしく呼んじゃならんのだが、癖になってしまって今さら止められない 。長くて白い顎髭と関節炎の持ち主でなければ、私にとっては皆、若いの、なんだ」
 私は、何と呼ばれようが平気だ。気にする質じゃない、と言った。
 彼はにやりと笑った。「L.A.の電話帳に、探偵は山ほどいた」彼は言った。「だが、マーロウというのはたった一人だ」
「どうしてそんな気になったんだ?」
「下世話な好奇心てやつかな。それと、ビル・チェスが、あんたは探偵のような仕事をしていると言っていたのでね。あんたは自分からは名のらなかった」
「そのうちに言おうと思ってたんだ」私は言った。「面倒をかけて悪かった」
「気にせんでくれ。少しも気にしちゃいない。何か身分を証明するものを持ってるか?」
 私は財布から、あれやこれや書類を取り出して見せた。「なるほど、仕事にうってつけの体つきをしている」彼は満足げに言った。「そして顔からは何も読み取れん。小屋を捜索しに来たんだろう」
「ああ」
「粗方すませておいた。帰ってきて、まっすぐここにやってきたんだ。まあ、ちょっと小屋に立ち寄りはしたが。あんたに勝手にここを調べさせるわけにはいかんだろう」彼は耳を掻いた。「つまり、そんなことができるのかどうか私には分らん、ということだ。誰に雇われているのか話せるかな?」
「ドレイス・キングズリー。夫人の行方を追っている。ひと月前に家を出たきりだ。ここで姿を消している。それで私もここから始めた。男との駆け落ちを疑われたが、男は否定した。ここに来れば何か手がかりが得られるかもしれないと思ったんだ」
「何か見つかったか?」
「何も。サンバーナーディーノからエルパソまでははっきり分かっている。そこで手がかりが切れている。だが、調査はまだ始まったばかりだ」

【解説】

「対岸の三軒の小屋は、青白い花崗岩の露頭を背に、まとまりのない影を見せていた」は<The three cabins on the other side were abrupt shadows against the pale granite outcrop>。清水訳は「向こう岸の三つのキャビンが薄暗い岩肌を背景にして影のように浮かんで見えた」。田中訳は「ほかの三つの別荘も、露出した花崗岩の岩肌をバックに、くつきり黒いシルエットをうきあがらせている」。村上訳は「対岸にある三軒のキャビンは、青白いむき出しの花崗岩を背景に、無骨な影となって見えた」。

村上氏は「無骨な」と訳しているが、<abrupt>には「急な、突然、ぶっきらぼうな、まとまりのない」などの意味がある。なめらかでない、連続性を欠いている、というのがそれらの意味に共通している。青白い花崗岩の露頭を背にした三つの家の影は、十分な距離を置いて建てられていたことを思い出してほしい。お互い、投資目的で山荘を建てはしたが、それ以上の人間的な親交を深める意味合いはない。<abrupt shadows>には、マーロウ流の皮肉な視線が感じられる。

「そこには頭にくることに南京錠がぶら下がっていた」は<and found a brute of a padlock hanging at that>。<brute of>は「人でなしの、獣のような」の意味だが、清水、田中両氏は、これをスルーし、「錠、南京錠」と訳すにとどめている。村上訳は「頑丈な南京錠がかかっていた」。<brute>には、「やっかいで頭にくること」という意味がある。ここで、ゲートにも南京錠がかかっていたことを思い出してほしい。行く先々で南京錠に出くわせば、たいがい頭にも来るのではないだろうか。

「網戸を触りながら壁伝いに歩いて行った。どれもみな戸締りされていた」は<I went along the walls feeling window screens. They were all fastened>。清水訳は「壁にそって、窓のよろい(傍点三字)戸を探った。どのよろい(傍点三字)戸も固く閉じられていた」。<screen>は「虫よけ網戸」のことで、普通「よろい戸」なら<shutter;louver door>を使う。田中訳は「おれは窓の外の網戸を手さぐりしながら、壁にそってすすんだ。窓はみんなしまっている」。村上訳は「網戸を手で触りながら、壁に沿って歩いた。網戸はどれもしっかりしていた」。<they>は、<window screens>のことだから、閉まっているのは「網戸」。<fastened>は「固定される」の意味で、「戸」なら「戸締り」が使える。

「窮屈な脚をこじ入れて隙間を通り抜け」は<wangled a cramped leg over and edged through the opening>。清水訳は「腕をおりまげて、からだをくぐらせ」。<leg>が「腕」に変わっている。田中訳は「つかれきった足をかけて、小屋のなかにつきだした」。村上訳は「痙攣する片脚をくねらせ、身体をなんとか開口部に押し込んだ」。<cramped>は「狭苦しい、窮屈な」、<wangle>は「(困難などから)うまく抜け出す」、<edge>は「少しずつ進む」という意味。小さな窓を通り抜けるマーロウの苦闘ぶりを伝える描写なので、原文に忠実に訳したいところ。

「高地での激しい運動に少し音を上げながら、向き直り、また耳をすました」は<I turned, grunting a little from the exertion at that altitude, and listened again>。清水訳は「山のうすい空気の中でからだを動かしたので、呼吸が荒くなった。私はもういちど耳をすました」。田中訳は「高地なので、これだけのことをするのにも、ちょっと息をきらしながら、おれは、あたりの物音をうかがつた」。両氏とも<I turned>を読み落としている。村上訳は「身体の向きを変え、高地における激しい運動に小さな苦痛の吐息を洩らし、それからまた耳を澄ませた」。<grunting>は「ぶうぶう言うこと」。もとは「ブタの鳴き声のような音を出すこと」で、苦痛よりは不平、不満の表現。

「それから照明のスイッチがかちりと鳴って卓上スタンドが点いた。懐中電灯が消えた」は<Then a light switch clicked and a table lamp glowed. The flash went out>。清水訳は「電灯のスイッチをひねる音がして、卓上スタンドが点(つ)いた。懐中電灯が消えた」。田中訳は「やがて、スイッチの音がしてテーブルの上のスタンドがつき、懐中電灯の光はきえた」。村上訳は「それから懐中電灯のスイッチが切られ、テーブルの上の明かりが灯った。閃光が消えた」なのだが、「懐中電灯のスイッチが切られ」ると「テーブルの上のスタンドがつ」く仕掛けがよくわからない。

「縁飾りのついた茶色のテーブル掛けの端が垂れて、肉厚な膝に触れていた」は<A fringed brown scarf hung over the end of the table and touched his thick knee>。清水訳は「ふさ(傍点二字)のついた茶色のスカーフがテーブルの端にかけてあって、彼のふとった膝にふれていた」。田中訳は「ほつれた褐色のスカーフがテーブルの上からたれさがり、パットンのがっちりした膝の上にかかつている」。<scarf>には文字通り「スカーフ」の他に「テーブル掛け」の意味もある。村上訳は「縁飾りのついた茶色のテーブル掛けが垂れて、それが彼の分厚い膝にかかっていた」。

「私は椅子を引き寄せて馬乗りになり、背凭れに両腕をもたせかけ、小屋の中を見回した」は<I poked a chair out and straddled it and leaned my arms on the back and looked around the cabin>。ちょっといきがって見せる場面だ。清水訳は「私は椅子をひき寄せ、両腕を椅子の背において、またがって座り、部屋の中を見まわした」。田中訳は「おれは椅子をひきよせ、それに馬乗りになると、椅子の背に両手をかけてよりかかり、小屋のなかを見まわした」。村上訳は「私は椅子をひとつ探し当て、それにまたがるように座った。そして両腕を背中の方に傾け、キャビンを見渡した」。<the back>は「背の部分」のことで、自分の背なら<on my back>だろう。映画などで、よく見かけるシーンなのに、どうしてこんな訳になるのか訳(わけ)が分からない。

「帰ってきて、まっすぐここにやってきたんだ。まあ、ちょっと小屋に立ち寄りはしたが」は<Just got back and come straight here. That is, I stopped by my shack a minute and then come>。清水訳だと「駐在所にもどってから、まっすぐここに来た。家(うち)にちょっと寄って、すぐ来たんだ」と「駐在所」と「家」が別になっている。田中訳は「サンバーナディオ(ママ)からもどると、まっすぐここにきたんだ。ちょっと、わしの小屋にも寄ったがね」。村上訳は「町に戻って、またすぐここに来たんだ。家にほんのちょっと立ち寄って、そのままここに来たということだ」。

『湖中の女』を訳す 第十章

<across the road>は「道を横切る」ではなく「道路の向こう側」

【訳文】

 革製の犬の首輪をつけた、人馴れた牝鹿が目の前の道路の向こう側をうろついていた。その首筋のざらついた毛を軽く撫でてやり、電話局の中に入った。小さな机に向かって帳簿の整理をしていた、スラックス姿の小柄な娘が、ビヴァリー・ヒルズまでの料金を教え、小銭を両替してくれた。電話ブースは外にあり、建物の正面の壁にくっついていた。
「ここが気に入って頂けるといいのですが」と、彼女は言った。「とても静かで、とても落ち着けます」
 私はブースに閉じこもった。九十セントでドレイス・キングズリーと五分間話すことができた。彼は家にいて、電話はすぐにつながったが、山地の電波障害で雑音がひどかった。
「そちらで、何か見つかったかね?」彼はハイボールを三杯ほどやっつけた声で訊いた。自信と強気を取り戻したようだった。
「あまりにも多くのものが見つかって」私は言った。「こちらの期待を裏切る結果になってしまいました。今、おひとりですか?」
「それがどうした?」
「別に、どうもしません。ただ、私は今から話す内容を知っている。あなたは知らない」
「何でもいいから、さっさとやってくれ」彼は言った。
「ビル・チェスとじっくり話しました。彼はひとりぼっちだった。妻が家を出て行ったんです。ひと月前に。二人は喧嘩をして、彼が外で酔っ払って、戻ってきたら彼女はいなかった。彼と暮らすより死んだほうがまし、という書き置きを残して」
「ビルは飲み過ぎるんだ」キングズリーの声は遥か彼方から聞こえてくるようだった。
「彼が帰宅したときには二人の女のどちらも消えていた。ミセス・キングズリーの行方について彼は知りません。レイヴァリーは五月に来ています。だが、それ以降は来ていない。それについてはレイヴァリーも認めています。もちろん、ビルが酔いつぶれている間に、レイヴァリーがまたやってくることもできた。しかし、それはあまり考えられない。山を下りるには二台の車が必要です。奥さんとミュリエル・チェスが一緒に山を下りたのかもしれないとも考えました。ただ、ミュリエルは自分の車を持っていました。これは少しは考えてみてもいい説だったんですが、新事実が登場してお払い箱になりました。ミュリエル・チェスはどこにも行っていなかった。あなたの、誰にも邪魔されない湖の中に沈んでいたんです。今日、浮かび上がってきました。私はその場に居合わせました」
「何てことだ」キングズリーはかなり怯えているようだった。「身投げだというんだな?」
「おそらく。彼女が書き残したメモは自殺の遺書のように読めます。それと同じくらい他の意味にも読めますが。死体は桟橋の下の水没した古い船着場の下に張りついていました。そこで腕が動いているのをビルが見つけたんです。二人で桟橋に立って水を見下ろしているときに。彼は彼女を引き揚げ、警察が彼を逮捕しました。可哀そうにひどく取り乱してます」
「なんてことだ」彼はまた言った。「取り乱すのはもっともだ。で、どうなんだ、彼が――」交換手が割って入ったので、彼はそこで言葉を切った。あと四十五セントを要求していた。二十五セント銀貨を二枚入れると電話はつながった。
「彼が、何ですか?」
 突然とてもはっきり聞こえるようになった、キングズリーの声が言った。「彼が彼女を殺したように見えるのか?」
 私は言った。「大いにね。ジム・パットンは、ここの保安官ですが、書き置きに日付がないことが気に入らない。前にも一度、女のことで家を出て行ったことがあるようです。ビルが古い書き置きを取っておいたのではないか、とパットンは疑っている。とにかく、ビルは尋問のためにサンバーナディーノに連れて行かれ、死体は検死に回されました」
「それで、君はどう考えてるんだ?」彼はゆっくり訊いた。
「そうですね。ビルは自分で死体を見つけた。桟橋に私を連れてゆく必要は彼にはなかった。彼女はもっとずっと長く、留まっていることもできた。もしかしたら永遠に。書き置きが古びたのは、ビルが財布に入れて持ち歩き、時々取り出しては気に病んでいたからかもしれない。今回のも前回のも日付はなかったとも考えられる。書き置きなんかには、日付を入れないことが多い。その手の物を書く人は急いでいて、日付のことまで気にしません」
「死体はずいぶん傷んでいたんだろう。いまさら何を見つけようというんだ?」
「どんな設備があるのかに寄ります。溺死だとしたらわかると思う。それと、水や腐敗によって消されていない暴力の痕跡があるかどうかも。もし、撃たれたり刺されたりした痕跡があれば、それも指摘できる。もし、喉の舌骨が折れていたら。絞殺だと推測するでしょう。我々にとっていちばん重要な問題は、私が何のためにここにやってきたかを言わなければならないということです。私は検死審問の場で証言しなければならない」
「そいつはまずいな」キングズリーは唸った。「極めてまずい。これからどうするつもりだ?」
「帰りにプレスコットホテルに寄って、何か分からないか調べてきます。奥さんはミュリエル・チェスと親しかったのですか?」
「そうだと思う。クリスタルは大抵の場合、誰とでも仲良くやれる。私はミュリエル・チェスのことをよく知らない」
「ミルドレッド・ハヴィランドという名に聞き覚えはありますか?」
「なんだって?」
 私は名前を繰り返した。
「知らん」彼は言った。「どうして私が知ってなきゃならんのだ?」
「どの質問にも、あなたは別の質問で切り返しますね」私は言った。「何も、あなたがミルドレッド・ハヴィランドを知ってなきゃならないってわけじゃない。とくにミュリエル・チェスのことをよく知らないというのなら。朝になったら電話を入れます」
「そうしてくれ」彼はそう言ってから口ごもり「面倒なことに巻き込んでしまってすまなかった」と付け足した。それからまた口ごもり、おやすみ、と言って電話を切った。ベルがまたすぐに鳴り、長距離電話の交換手は、私が五セント入れ過ぎた、と細かいことを言った。私はそういうときに使う、取って置きの文句を言ったが、彼女の気には入らなかった。
 私は電話ブースを出て、新しい空気を肺の中に取り入れた。革の首輪をつけた人馴れた牝鹿は、歩道の突き当りの柵の隙間を塞いで立っていた。押しのけようとしたが、からだをすり寄せてきてのこうとしなかった。仕方がないので、柵を乗り越えてクライスラーのところに戻り、村に引き返した。
 パットンの司令部には、吊り電灯に明りがついていたが、小屋は空で、ドアのガラス部分の内側の「二十分で戻る」のカードはそのままだった。私は船着場の方まで下り続けて、その先の人けのない水浴場まで行った。数隻の小型エンジン船とスピードボートが絹のような湖面でまだ遊び回っていた。湖の対岸、模型の斜面に置かれた玩具のような小屋に小さな黄色い光が灯り始めた。明るい星が一つ、山際の北東の空低くに輝いている。百フィートもあろうかという松の木の天辺にとまった駒鳥が、おやすみの歌を歌えるほど、あたりが暗くなるのを待っていた。
 しばらくすると日はとっぷり暮れ、駒鳥はおやすみの歌を歌って、目には見えない空の深みへと飛び去っていった。私はすぐ横の鏡のような水面に煙草を弾き、車に戻って、リトル・フォーン湖の方角に走り出した。

【解説】

「革製の犬の首輪をつけた、人馴れた牝鹿が目の前の道路の向こう側をうろついていた」は<A tame doe deer with a leather dog collar on wandered across the road in front of me>。清水訳は「革製の犬の首輪をつけた馴れた雌鹿が私の前の道路を横切った」。田中訳は「犬の首輪をはめた、よく馴れた牝鹿が、道を横ぎって、おれのほうにやつてきた」。村上訳は「革の犬の首輪をつけた、飼い慣らされた牝鹿が私の前をゆっくり歩いて、通りを横切った」。

牝鹿は、どこをどう歩いていたのだろう。三氏ともに<wander>を見事にスルーして訳している。<wander>は「さまよう、(あてもなく)歩き回る」という意味。一直線にどこかへ動いたとは思えない。特にどこに行くということもなくその辺をぶらついていたのだ。では、いったいどこを。この場合の<across>は「~を横切ったところに、~の向こう(反対)側に」の意味と取るべきだ。今から行く電話局に近い、道路の向こう側にいたと考えたら、マーロウが建物に入る前に撫でてやるのもよくわかる。

「ミュリエル・チェスはどこにも行っていなかった。あなたの、誰にも邪魔されない湖の中に沈んでいたんです。今日、浮かび上がってきました」は<Muriel Chess didn't go away at all. She went down into your private lake. She came back up today>。清水訳は「ミュリエル・チェスは山を降りていないんです。あのあなたの湖にとびこんだんです。今日、死体が上がりました」。田中訳は「ミュリエル・チェスは、ぜんぜん、山をおりていないんですよ。そのかわり、リトル・フォーン湖のほうにいき、今日、そこから、あがってきました」。村上訳は「ミュリエル・チェスはそもそも山を下りなかったのです。彼女はあなたの所有する湖の底に沈んでいました。死体が浮かび上がってきたのは今日のことです」。

<go away>は「立ち去る、出かける」という意味で、「山を下りる」の意味はどこにもない。また、主語は常に<she>であり、<body>(死体)とは書かれていない。その意味では、田中訳が作者の意図をよく理解しているといえる。マーロウは<went down into>、< came back up>と、まるでミュリエル・チェスに意志があったかのようにキングズリーに伝えているのだ。<your private lake>は村上訳の通り「あなたの所有する湖」だが、ひと月も隠れていたことを強調する意味で、あえて「誰にも邪魔されない」と訳してみた。

「ビルが財布に入れて持ち歩き、時々取り出しては気に病んでいたからかもしれない」は<Bill had carried it in his wallet and handled it from time to time, brooding over it>。清水訳は「いつも紙入れに入れて持って歩いて、ときどき取り出して眺めてたかもしれないんです」。田中訳は「いつも紙入れのなかにいれてもつてあるき、しよつちゆうとりだしては、それを読んでいたからだとも考えられます」。村上訳は「彼がそれを財布に入れて、しょっちゅう出し入れして眺めていたせいかもしれない」。<brood over>は「思いつめる、くよくよする」という意味。三氏とも書き置きを読むビルの気持ちを忘れている。

「ドアのガラス部分の内側の「二十分で戻る」のカードはそのままだった」は<his "Back in Twenty Minutes" sign was still against the inside of the glass part of the door>。田中訳は「「二十分したらもどる」という例のカードは、ドアのガラス戸のところにぶらさがったままだ」と「ぶらさがった」説だ。清水訳は「<二十分でもどる>という掲示板がドアのガラスの部分の内側にぶら下がっていた」と、同じく「ぶら下がった」説だ。<against>に「ぶらさがる」という意味はないのだが。

ところが、清水氏、第七章では「カウンターの上の大きなカードをとり上げて、ガラスのドアの内がわにはめこんだ」と書いている。よくやる失敗だが、前の方が正しいのが皮肉だ。村上訳は「「二十分で戻ります」という札が、ドアのガラス部分の内側にまだ立てかけてあった」と、「立てかけ」説だが、第七章では「ドアのガラス・パネルの内側に、一枚のカードをはさんだ」となっていて、「カード」が「札」になっているのはご愛敬だが、「立てかける」と「はさむ」は少し違うのではなかろうか。

『湖中の女』を訳す 第九章(2)

<open up>には「(店を)開店する」という意味がある

【訳文】

 私は横目で彼女を見た。ふわっとふくらませた茶色の髪の下から、思慮深げな黒い瞳がこちらを見ていた。夕闇がとてもゆっくりと迫りつつあった。それはほんのわずかな光の質の変化に過ぎなかった。
「こういう事件のとき、警察はいつも疑ってみるものだ」私は言った。
「あなたはどうなの?」
「私の意見など何の役にも立たない」
「そうかもしれないけど、念のため」
「ビル・チェスには今日の午後はじめて会った」私は言った。「怒りっぽい男だと思った。本人に言わせれば聖人じゃないそうだ。しかし、奥さんのことは愛していたようだ。桟橋の下の水の中で腐りかけているのを知りながら、ひと月もの間この辺りをうろついていられるとは思えない。陽光を浴びながら小屋から出てきて、柔らかな青い水を眺め、水の中で何が起きているのかを想像していたとはね。それも、自分がそこに沈めたのを知っていながら」
「私も同感」バーディ・ケッペルはそっと言った。「誰だってそう思う。それでも、心の中で気づいてる。そういうことは起きてきたし、また起きるだろうって。お仕事は不動産業なの、ミスタ・マーロウ?」
「いや」
「もしよければ聞かせて。どんなお仕事をしているのか?」
「できることなら言いたくない」
「ほとんど言ったも同然ね」彼女は言った。「あなたがジム・パットンにフルネームを言ってるところをドク・ホリスが傍で聞いてた。私たちの事務所にはL.A.の電話帳がある。私は誰にも漏らしていない」
「それはご親切に」私は言った。「これからも言うつもりはない」彼女は言った。「もしそうして欲しければね」
「いくら払えばいい?」
「何も」彼女は言った。「まったくの無料。私はいっぱしの新聞人だと主張するつもりはない。それにジム・パットンを困らせるような記事を書くつもりもない。ジムは「地の塩」よ。でも、店は開けたんでしょう?」
「誤った結論を引っ張り出しちゃいけない」私は言った。「私はビル・チェスに何の興味もない」
「ミュリエル・チェスにも?」
「どうして私がミュリエル・チェスに興味を持たなきゃならない?」
 彼女はダッシュボードの下の灰皿の中に慎重に煙草の火を消した。「お好きなように」彼女は言った。「でも、あなたが気にしそうなちょっとした情報があるの。まだ、御存じなければということだけど。六週間ばかり前、デソトという名のロサンジェルスの警官がここにやってきた。無骨な大男で礼儀知らずだった。それが気に入らなくて、私たちはあまりしゃべらなかった。新聞社のオフィスにいた私たち三人は、ということ。そいつは写真を持っていて、ミルドレッド・ハヴィランドという女性を探してると言ってた。警察の仕事でね。それは普通のスナップ写真を引き伸ばしたもので、警察の手配写真じゃなかった。女がここにいる情報をつかんでると言ってた。写真はミュリエル・チェスによく似ていた。髪は赤みがかっていて、彼女がここでしていたのとは全く違うヘアスタイルで、眉毛は細いアーチ状に整えられていた。それだけで女は大きく変わるの。それでも、ビル・チェスの奥さんにそっくりだった」
 私は車のドアを指で叩いて、しばらくしてから言った。「その男に何て言ったんだ?」
「何も言わなかった。第一に確信がなかったし、第二に相手の態度が気に入らなかった。第三に、もし確信があって、態度が気に入っていたとしても、多分、警察に報告して彼女を罰してもらうつもりはなかった。なんでそんなことをしなきゃならない? 誰にでも悔やんでも悔やみきれない過去がある。私だって。一度結婚してたことがあるの――レッドランド大学の古典語の教授と」彼女はかすかに笑った。
「ネタになったかもしれないのに」私は言った。
「そうね。でも、私たちはここの暮らしに首まで浸かってるただの人でもあるの」
「そのデソトという男はジム・パットンと会ってるのか?」
「もちろん。そのはず。ジムは何も言わなかったけど」
「そいつはバッジを見せたか?」
 彼女はしばらく考えてかぶりを振った。「どうだったか思い出せない。私たちは彼の言うことを鵜吞みにした。いかにもタフな都会の警官らしく振る舞ってたわ」
「経験上、そんな警官がいるとは思えない。誰かミュリエルにその男のことを話したか?」
 彼女はためらい、黙ってフロントガラスの向こうを長い間見ていた。それから、こちらを向いて肯いた。
「私が話した。余計なお世話だったんでしょうね?」
「彼女は何と言った?」
「何も言わなかった。ちょっと困ったようなおかしな笑いを浮かべてた。まるで私が悪いジョークを口にしたみたいな。それから彼女は立ち去った。でも、その眼にちょっと奇妙な印象を受けた。ほんの一瞬だけど。まだミュリエル・チェスに関心は持てない? ミスタ・マーロウ」
「なぜ関心を持たなきゃならない? 今日の午後ここに来るまで彼女のことは聞いたことがなかった。嘘じゃない。ミルドレッド・ハヴィランドという名前もだ。町まで送ろうか?」
「いえ結構。私は歩くわ。ここから歩いてすぐなの。どうもありがとう。ビルが面倒なことにならないように祈ってる。特に、こんな気持ちの悪い事件で」
 彼女は車から下り、片足を宙に上げたまま、つんと頭をそらして笑った。「私、美容師としてはなかなかの腕だと言われてるの」彼女は言った。「そうありたいと願うわ。インタビュアーとしては下手だもの」と彼女は言った。「おやすみなさい」
  私が、おやすみ、と言うと、彼女は夕暮れに向かって歩き出した。私は座ったまま、彼女が大通りに出て、見えなくなるまで見ていた。それからクライスラーから下りて、電話局の小さな丸太造りの建物に向かった。

【解説】

「ふわっとふくらませた茶色の髪の下」は<under fluffed out brown hair>。清水氏ふわりとした褐色の髪の下」。田中訳は「ふつくらした茶色つぽい髪の下」。村上訳は「ふわふわした茶色の髪の下」。どうでもいいようなことだが、新聞記者のバーディは腕のいい美容師でもある。<fluff (out)>は「ふわっと膨らませる」という意味の他動詞で、髪の様子を描写するときによく使われる語であることに注意を促しておきたい。つまり自然ではなく、手をかけてふっくらさせた髪型なのだ。女の写真を見た時に、彼女がヘアスタイルについて触れるところがある。その伏線になっている。

「それはほんのわずかな光の質の変化に過ぎなかった」は<It was no more than a slight change in the quality of the light>。田中訳は「光が、ほんのちよつとかげつた程度だった」。村上訳は「そこにあるのは、光の質のほんの微(かす)かな変化に過ぎなかった」。清水訳は「ものをはっきり見わけるのはもうほとんどむりだった」となっている。<no more than~>は「たった~、わずかに~」という意味だ。ほんの先刻まで、髪の色やら瞳の色について言及していたというのに、「きわめてゆっくり近づき始め」た夕暮れは、ここに至って急に速度を上げたのだろうか。

「そうかもしれないけど、念のため」は<But for what it's worth>。清水訳は「でも、聞かせていただきたいんです」。田中訳は「でも、おもいついたことがあつたら……」。村上訳は「でも聞いてみたいわ」。<for what it's worth>というフレーズは、「(私が)今から言うことに価値があるかどうかはわかりませんが、念のために」という意味で、文頭に置かれることが多い。つまり、バーディは<for what it's worth>を使って、マーロウの謙遜を受け止めたうえで、その後の内容を話してみるように勧めているわけだ。

「でも、店は開けたんでしょう?」は<But it does open up, doesn't it?>。清水訳は「でも事件はもう明るみに出てるんでしょ」。田中訳は「あなたが私立探偵だつてことはわかるんじゃないかしら?」。村上訳は「でもそのことは多くを物語っている。違うかしら?」。<open up>には「〔秘密を〕打ち明ける」の意味があるので、三氏ともそれに引っ張られているようだ。しかし三氏の解釈では、マーロウがバーディの言ったことを「誤った結論」<wrong conclusions>だと言い切っていることの説明がつかない。

<it>の解釈が訳者によって異なる。清水氏は「事件」。田中氏は「マーロウの職業」。村上氏は「そのこと」と代名詞のままだ。わざわざ新訳を試みておきながら、この始末では手抜きといわれても仕方ないだろう。<it>が何を指すかは、前後の会話から読み解ける。バーディは私立探偵だと知っていて話を聞いている。探偵が現れたなら事件解決に動いている、と考えるのは当然だ。協力できることがあるので、本心を打ち明けてほしい。とすれば、ここは「探偵の仕事」と取るしかない。そう解釈することで、次のマーロウの台詞<Don't draw any wrong conclusions><I had no interest in Bill Chess whatever>と、うまく意味がつながる。<open up>には「(店を)開店する、(商売を)始める」という意味もあるのだ。

「無骨な大男で礼儀知らずだった」は<a big roughneck with damn poor manners>。清水訳は「礼儀をわきまえないやくざふう(傍点五字)の大男でした」。田中訳は「お行儀の悪い、ごつい首筋をした大男の刑事よ」。村上訳は「偉そうな態度の、いかにもタフぶった男よ」。<roughneck>は「乱暴者、荒くれ、武骨者」のことだが、田中氏は文字通りに解している。その前に<a big>とついているので、そう思ったのだろう。ただ、「石油採掘労働者」を指す言葉でもあり、荒くれ者ではあるが、「やくざふう」とか「いかにもタフぶった」というのとは違うのではないか。村上訳は<a big>を忘れている。

「彼女がここでしていたのとは全く違うヘアスタイルで」は<in a very different style than she has worn it here>。清水氏は「ミュリエルがいつも着ていたのとはきわだってスタイルの違う服で」と訳している。<style>と<worn>に引っかかってしまったんだろう。<wear>は髪型にも使う。田中訳は「ヘヤスタイルもうんとかえ」。村上訳は「髪型も今のものとはずいぶん違っていた」。

「多分、警察に報告して彼女を罰してもらうつもりはなかった」は<we likely would not have sicked him on to her>。清水訳は「私たちは彼をミュリエルに近づけるようなことはしたくなかったんです」。田中訳は「犬をけしかけるみたいに、警察にいう必要はないとおもうの」。村上訳は「彼女をそいつに売り渡すようなつもりは私たちにはなかったから」。<sic ~ on>は~のところに<one’s dog>を入れれば「犬をけしかけて」の意味になるし、<the cops>を入れれば「(人)のことを警察に言い付けて罰してもらう」という意味になる。この場合、彼は警官を自称しているので後者の意味になる。

「ネタになったかもしれないのに」は<You might have got yourself a story>。清水訳は「あなた自身の話を聞きたくなったな」。田中訳は「あなた自身にも、なかなかおもしろいストーリイがありそうだ」。村上訳は「なにか興味深いネタを仕入れられたかもしれなかったのに」となっている。<story>は新聞用語にすると「ネタ」のこと。ミュリエルのことを教えたら彼女のことで記事が書けたのに、とマーロウは言ってるのだ。

それは次のバーディの「そうね。でも、私たちはここの暮らしに首まで浸かってるただの人でもあるの」につながっている。原文は<Sure. But up here we're just people>。清水訳は「いろんな話がありますわ。でも、私たちはここではふつうの住民ですのよ」。田中訳は「ええ、だけどここにいれば、ただ、ふつうの人間だわ」。村上訳は「そうね。でもここでは私たちは普通の住民なのよ」。バーディ・ケッペルにどんな離婚歴があろうと普通の住民であることはわざわざ言われなくても分かっている。

<up (to) here>は、顎まで手を挙げる仕種をしながら「ここまで(いっぱい)」という意味を示す言葉だ。バーディはそれまでも記者であるより、ここの住民であることを重視する態度を示してきた。ミュリエルを警察に売れば、記事は書けるかもしれないが、それは同じ地域住民を裏切る行為となる。何をしたかは知らないが、態度の悪いL.A.の警官より、顔見知りの方を選ぶのは、田舎では当然といえば当然のことだ。主語が<we>になっていることからも、<story>がバーディの話ではないことが分かる。

「電話局の小さな丸太造りの建物」は<the telephone company's little rustic building>。清水訳は「電話局の小さな古ぼけた建物」。田中訳は「電話局のちいさな粗末な建物」。村上訳は「電話局の田舎風の小さな建物」。<rustic>には、確かに三氏が書いているような意味があるが、電話局が丸太小屋であるのは章の初めのほうで紹介済みである。ここは「丸太造り」の意味を採るべきだろう。

『湖中の女』を訳す 第九章(1)

<politician>は「政治家」ではなく、「政治屋」のことだ。

 

【訳文】

インディアンヘッド・ホテルは新しくできたダンスホールの向かいにある、通りの角の褐色の建物だ。​その前に車を停め、トイレで顔と手を洗い、髪にからんだ松葉を櫛で梳きとってから、ロビーの隣にあるダイニング・バーに入った。くだけたジャケットを着た酒臭い息の男と、甲高い笑い声をあげる、節くれだった指の爪を牡牛の血の色に塗った女で、どこもかしこも溢れかえっていた。支配人はB級映画のタフガイめいて、シャツ姿で葉巻を噛みしだき、部屋をぶらつきながら目を光らせていた。レジでは淡色の髪の男が、水っぽいマッシュポテトみたいに雑音がたっぷり混じった小型ラジオで、戦況ニュースを聞こうと苦労していた。部屋の奥の片隅では、体に合わない白いジャケットと紫のシャツを着た、五人編成のヒルビリー・オーケストラが、バーの喧騒を越えて自分たちの音をとどけようと、紫煙の霧と酔いどれのくぐもり声の霞の中で、虚ろな微笑みを浮かべていた。ピューマ・ポイント最高のシーズン、夏は今や宴たけなわだ。
 定番ディナーと称するものをがつがつ掻き込み、落ち着いて胃のなかに鎮めておくためにブランデーを飲んでから、メイン・ストリートに繰り出した。まだ真っ昼間だったが、すでにネオンサインがいくつか灯り、宵のさざめきが始まっていた。車の警笛がけたたましく鳴り響き、子どもたちは金切り声をあげ、ボウリングのボールがごろごろ転がり、スキーボールがぶつかり、射的場では二十二口径の銃声がパンパンと景気よく音を響かせ、ジュークボックスが狂ったようにがなり立てる、そのすべての音の背後に、どこへ行くというあてもなく、湖に繰り出し、命を懸けたレースの真似事をする、スピードボートの吠えたてる音が聞こえていた。
 私のクライスラーのなかに、黒っぽいスラックスを穿いた痩せて真面目そうな顔をした茶髪の娘が座りこんで煙草をふかしながら、ランニングボードに腰かけた観光牧場のカウボーイと話していた。私は車の周りを回って乗り込んだ。カウボーイはジーンズをぐいと引き上げて、ぶらぶら歩き去った。娘は動かなかった。
「私はバーディ・ケッペル」彼女は陽気に言った。「ここで昼間は美容師、夜はピューマ・ポイント・バナーで働いてる。あなたの車に乗り込んでごめんなさい」
「かまわないさ」私は言った。「ただ座っていたいだけなのか、それともどこかに送ってほしいのか?」
「もう少し行った先に静かに話せるところがある。ミスタ・マーロウ。もし私に話を聞かせてくれる親切心があるなら」
「この辺りじゃ噂の伝わるのが早いようだ」私はそう言って、車を出した。
 郵便局を通り過ぎて、通りの角まで行った。「電話」と書かれた青と白の矢印が、湖に向かう細い道を指している。そこを曲がって、電話局の前を通り過ぎた。前に小さな柵のある芝生つきの丸太小屋だ。もう一つ、小さな小屋を通り過ぎ、大きなオークの木の前に車を停めた。伸び放題の枝がはるばる道路を横切って、たっぷり五十フィート先まで広がっていた。
「ここでどうかな、ミス・ケッペル?」
「ミセスです。でも、バーディと呼んで。みんなそう呼ぶから。ここで結構。初めましてミスタ・マーロウ。あなたはハリウッドからいらしたのよね。あの罪深い街から」
 彼女は引き締まった褐色の手を差し出し、私はその手を握った。豊かな金髪に指したヘアピンは氷屋のトングのようで、彼女の理解力の手堅さを印象づけていた。
「ドク・ホリスと話したの」彼女は言った。「哀れなミュリエル・チェスのことよ。あなたからもう少し詳しい話が聞けそう。死体を見つけたのよね」
「本当はビル・チェスが見つけたんだ。私はただ傍にいただけでね。ジム・パットンとは話したんだろう?」 
「まだなの。彼は山を下りた。どっちにせよ、ジム・パットンから多くの話は聞きだせない」
「彼は再選を目指している」私は言った。「そして、君は新聞記者だ」
「ジムは政治屋じゃありません、ミスタ・マーロウ。それに、私は新聞記者とは言えないわ。ここで私たちが発行している小さな新聞は、素人がやってるようなものよ」
「それで、何が知りたいんだ?」私は煙草を勧めて火をつけてやった。
「あなたが話してくれるかもしれないことかな」
「私が招待状持参でここに来たのは、ドレイス・キングズリーの土地を見るためだ。ビル・チェスが一帯を案内してくれて、いろいろ話をした。奥さんが出て行ったことなんかをね。そのときの書き置きも見せてもらった。ぶら下げてきた酒はほとんど飲まれてしまった。よほど気が塞いでいたんだな。酒で気が緩んだこともあるが、寂しくて誰かに悩みを打ち明けたかったのだろう。そういうことがあったんだ。彼とは初対面だった。湖の端まで帰ってきて、桟橋まで来た時、ビルが水の中の板張りの下で揺れている手を見つけた。それはミュリエル・チェスの遺骸であることが判明した。これで全部かな」
「ドク・ホリスから聞いてる。長い間水の中にいたので、かなり腐敗が進んでるみたいね」
「そうだ。おそらく、まる一月ずっと亭主は思い込んでいたんだ。女房は家を出て行ったと。他に考えようがない。書き置きは遺書だ」
「そこに何か疑わしいところはないの? ミスタ・マーロウ」

【解説】

「節くれだった指の爪を牡牛の血の色に塗った」は<oxblood fingernails and dirty knuckles>。清水訳は「爪を牛の血のように染め、よごれた膝(ひざ)っこをむき(傍点二字)出しにしている」と<knuckle>を「膝小僧」と解釈している。稀に四足獣の「ひざ肉」を意味することもあるが、ふつうは「指の関節」のことである。村上訳は「爪を雄牛の血の色に塗り、汚い拳を見せている」だが、<knuckle>を「拳」にすると「爪」が隠れてしまう気がする。また複数形に注目すると両の拳でなければならず、おそらく片手にグラスや煙草を手にしているだろう、バーの場面としては無理があるのでは。

田中訳は「牡牛の血のように爪をそめ、そのくせ指の関節のあたりはきたない」だが、どう汚いというのだろうか。爪を染めているのなら、手にだって気を使っているはず。いくら気を使っていても年齢とともに皮膚には張りと艶がなくなってくる。指の関節が汚く感じられるとしたら、皮下脂肪が落ちることによるごつごつとした骨ばった感じの表面化ではないだろうか。<oxblood>は濃赤色、もしくは赤褐色を表す色の名前で「誘惑」を象徴しているという説がある。

「支配人はB級映画のタフガイめいて」は<The manager of the joint, a low budget tough guy>。清水訳は「ここのマネージャーは(シャツ姿で葉巻をくわえている)目つき(傍点二字)の鋭い男で」。田中訳は「ここのマネージャーは、背がひくい、いかにもタフそうながっしりした男で」。両氏とも意訳している。<low budget>は「低予算」の意味。後に<movie>をつければ「低予算映画」つまりB級映画のことになる。村上訳は「支配人は安物映画に出てくるタフガイそのままに」。

紫煙の霧と酔いどれのくぐもり声の霞の中で、虚ろな微笑みを浮かべていた」は<smiling glassily into the fog of cigarette smoke and the blur of alcoholic voices>。清水訳は「タバコの煙の靄とろれつ(傍点三字)のまわらぬアルコール混(ま)じりの声にうつろな微笑を投げかけていた」。田中訳は「タバコの煙でできた霧と、酔っぱらいのどなり声にむかって、ばかみたいにほほえんでいる」。村上訳は「彼らのガラスのような目は微笑みを浮かべながら、煙草の紫煙がつくった霧と、混濁した酔声に向けられていた」。

「彼らのガラスのような目は」は文法的にまちがっている。この文の主語は<a hillbilly orchestra of five pieces>だ。村上氏は副詞の<glassily>を形容詞の<glassy>と読みまちがえたのだろう。<glassily>は<smiling>にかかっていて「どんよりして、生気のない状態で」という意味だ。自分たちの音楽を聴いてもいない酔客相手の演奏に倦みつかれているバンド・メンバーのうんざりした気持ちを表しているところだ。< the fog of >と<the blur of>を並べた、相変わらずの対句表現である。名詞<blur>は<fog>に合わせて、「霞」としたいところ。「煙草の紫煙」は重言というものだ。紫煙は煙草の煙に決まっている。

「カウボーイはジーンズをぐいと引き上げて、ぶらぶら歩き去った」は<The cowboy strolled away hitching his jeans up>。清水訳は「カウボーイはジーンズをたくし上げて、立ち去った」。「たくし上げる」は裾や袖をまくることで意味がちがう。村上訳は「カウボーイはジーンズの膝をあげて、車からゆっくり離れていった」だ。<hitch up>は「(ズボンを)グイと引き上げる」の意。村上氏は何を思って「膝」を持ち出してきたのだろう。田中訳は「カウボーイは、ブルージーンのズボンをひっぱりあげながら、ゆっくりあるいていった」。自分は落ち着いていることを示すための殊更なポーズだろう。

「この辺りじゃ噂の伝わるのが早いようだ」は<Pretty good grapevine you've got up here>。<grapevine>は「葡萄の蔓」のことだが、話し言葉では「人づての情報、噂」を意味する。清水訳は「この町は情報網がだいぶ発達しているらしいですね」。村上訳は「この町では噂が伝わるのがずいぶん早いらしい」。田中訳は「このあたりは、すばらしい美人がとれるようだな」と珍しく的を外している。

「大きなオークの木の前に車を停めた」は<pulled up in front of a huge oak tree>。三氏とも<oak tree>を「樫(かし)の木」と訳している。何度も書くようだが、<oak>はブナ科コナラ属の植物の総称で、落葉樹の「楢(なら)」の総称である。明治時代の翻訳家が誤って「樫」と訳したのが今に至っている。「楢」と訳して済ませたいところだが、かつて英国の湖水地方を旅した時、大きなオークの古木を目にして、その存在感に圧倒されて以来、「オーク」はわざわざ「楢」にしなくとも「オーク」のままでいいのではないかと思うようになり、そのままカナ書きにしている。

「伸び放題の枝がはるばる道路を横切って、たっぷり五十フィート先まで広がっていた」は<flung its branches all the way across the road and a good fifty feet beyond it>。清水訳は「枝を道路から五十フィートもはみ(傍点二字)出してひろげている」。村上訳は「その木は通りを越えて、優に十五メートルくらい向こうまで大きく枝を広げていた」。田中訳は「樫の枝は道を横ぎり、それから五十ヤードものびていた」。一ヤードは三フィートなので、田中訳では百五十フィートになってしまう。四十五メートルも枝を広げた大木は、ちょっとお目にかかれない。

「豊かな金髪に指したヘアピンは氷屋のトングのようで、彼女の理解力の手堅さを印象づけていた」は<Clamping bobbie pins into fat blondes had given her a grip like a pair of iceman's tongs>。清水訳は「ヘアピンで髪をしめつけているのがしっかりした感じを与え、氷屋の氷ばさみ(傍点三字)を思わせた」。村上訳は「豊かな金髪をヘアピンで留めていたが、それは氷配達人が使う氷挟み並みに頑丈そうに見えた」。まあ、ここまでは許容範囲だろう。田中氏は「美容師というから、デブの金髪(ブロンド)にでも、いつもヘヤピンをさしこんでいるのだろう、まるで、氷屋がもつているはさむものでつかまれたみたいだった」と、ひどい誤訳をやらかしている。<a grip>はこの場合「把握する力」つまり「理解力」と解するべきだ。清水訳には、その<a grip>を感じることができる。

「ジムは政治屋じゃありません」は<Jim's no politician>。清水訳は「ジムは政治屋じゃないんです」。田中訳は「ジムは、選挙で大騒ぎするような人とは違うわ」。アメリカでは保安官の選挙で何度も再選されると議員への道が開けることも多い。「選挙での大騒ぎ」はそれを指している。村上訳は「ジムは政治家じゃないの」だが、<politician>は同様に政治家を意味する<statesman>(公正で立派な政治家)とは異なり、現在の日本の政治家のように、自分の利益のために政治を利用する「政治屋」を指す言葉。村上訳の「政治家」は、その意味で言葉足らずだろう。

「おそらく、まる一月ずっと亭主は思い込んでいたんだ。女房は家を出て行ったと。他に考えようがない」は<Probably the whole month he thought she had been gone. There's no reason to think otherwise>。清水訳は「おそらくまる一月(ひとつき)ぐらいになるだろうといってました。ほかに考えようがありません」。田中訳は「ミュリエル・チェスがいなくなってから、まるひと月たつそうだが、そのあいだ、ずっと湖のなかにいたんじゃないかな。ほかに考えようはない」。村上訳は「彼女は一カ月前に出て行ったきりだとビル・チェスは考えていた。それ以外に考えようはなかった」。

<the whole month>の「まるひと月」が何にかかるかで、訳しようが変わってくる。清水、田中両氏は死体が水中にいた時間と解しているようだ。そのため「ほかに考えようがない」と考える主体が話者であるかのように読める。村上訳は、彼女が出て行った期日と考えている。そうじゃない。まるひと月の間、夫は妻の自殺の可能性に思い及ばず、どこかで生きていると思っていた。夫としては、それより「ほかに考えようがない」からだ。ここはそういう意味ではないのだろうか。

『湖中の女』を訳す 第八章(2)

いったいビル・チェスはいつの間に腰を下ろしたのだろう?

【訳文】

「お巡りらしい言い草だ」ビル・チェスは吐き捨てるように言い、ズボンを穿き、また腰を下ろして靴を履き、シャツを羽織った。身支度を終えると、立ち上がって瓶に手を伸ばしてたっぷり飲んで、桟橋の厚板の上にそっと瓶を置いた。そして、毛むくじゃらの両手首をパットンの前に突き出した。
「それがあんたらの遣り口だ。手錠をかけてけりをつけろよ 」彼は声を荒げて言った。
 パットンはそれには耳を貸さず、手すりのところに行って、湖面を見下ろした。
「死体が見つかるにしちゃ、おかしな場所だ」彼は言った。「ここには流れといえるようなものはない。もしあるとしたら、ダムに向かって流れているはずだ」
 ビル・チェスは両手を下ろし、静かに言った。「あれが自分でやったんだ。ぼんくら。ミュリエルは泳ぎが上手だった。飛び込んで船着場の下まで泳いで行って水を飲んだんだ。そうするしかなかった。他に道はなかった」
「そうとばかりは言えないな、ビル」パットンは穏やかに答えた。その眼は新しい皿みたいで何も浮かんでいなかった。
 アンディはかぶりを振った。パットンは薄笑いしてそちらを見た。
「また、あら探しかい? アンディ」
「九日前だ。本当だ。逆算してみたんだ」ライオン狩りの帽子の男はむっつり言った。
 医師は両手を上に放り上げ、片手を頭にあてて歩き去った。一度ならずハンカチの中に咳込み、熱心にハンカチをのぞきこんだ。
 パットンは私に目配せし、手すり越しに唾を吐いた。「こっちに取りかかろうや、アンディ」
「大のおとなを六フィートの水の底に引きずり込こもうとしたことはあるかい?」
「いや。今まで試したことはないよ、アンディ。ロープを使ったとは考えられないのか?」
 アンディは肩をすくめた。「ロープを使えば、死体に痕が残る。すぐばれることになるのに、ごまかす手間をかけるか?」
「時間が問題なのさ」パットンは言った。「誰にだって段取りというものがある」
 ビル・チェスは唸り声をあげ、ウィスキーに手を伸ばした。山の男たちの勿体ぶった顔を見ていると、連中が腹の中で何を考えているのか、分からなくなってきた。
 パットンが思い出したように言った。「書き置きの件があったな」
 ビル・チェスは財布の中をひっかきまわして、折りたたんだ罫線のある紙を取り出した。パットンはそれを受け取り、じっくり目を通した。
「日付がないようだ」
 ビル・チェスは重たげに首を振った。「ない。あれが出て行ったのはひと月前の六月十二日だ」
「前にも一度出て行ったことがあったろう?」
「ああ」ビル・チェスはじっと彼を見つめた。「酔っぱらって女のところにしけこんだときに。ちょうど去年の十二月の初雪が降る少し前だ。あれは一週間ばかり留守にして、すっかりめかしこんで帰ってきた。しばらくここを離れる必要があって、L.A.で一緒に働いていた子のところで世話になっていた、と言ってた」
「その女の名前は何というんだ?」パットンが訊いた。
「言わなかったし、こちらも聞かなかった。ミュリエルのすることは、俺にとっちゃ絹みたいにとらえどころがなかった」
「そうらしいな。その時は書き置きはなかったのか? ビル」パットンは如才なく訊いた。
「なかった」
「この書き置きはかなり古びてるようだが」パットンは書き置きを持ち上げて言った。
「ひと月というもの持ち歩いてたからな」ビル・チェスは不平がましく言った。「誰に聞いたんだ? あれが前にも家を出て行ったことがあると」
「忘れたよ」パットンは言った。「知ってるだろう、ここがどんなところか。気づかない連中の方が少ないくらいさ。よそ者でにぎわう夏の間は別だがな」
 しばらくの間、誰も何も言わなかった。やがて、パットンが何気なく切り出した。「出て行ったのは六月十二日だと言ったな? いや、出て行ったとあんたが思ったのがだったか。あんた、そのとき向こう岸の小屋に人がいたって言ったか?」
 ビル・チェスは私の方を見た。顔がまた暗くなった。「この詮索好きな男に訊くがいい――まだ、あんたにすべてをぶちまけてないなら」
 パットンは私の方を見もしなかった。湖のはるか向こうの山並みを眺めていた。彼は穏やかに言った。「ミスタ・マーロウは何も話しちゃおらんよ、ビル。どんなふうに死体が水の中から上がって、それが誰だったか以外は。ミュリエルは出て行った、あんたが考えたように。あんたが彼に見せた書き置きを残してな。何か問題でもあるかい?」
 またひとしきり沈黙が下りた。ビル・チェスは数フィート先の毛布で覆われた遺体を見下ろしていた。両手を固く握りしめ、大粒の涙が頬を伝った。
「ミセス・キングズリーがここにいたんだ」彼は言った。「あれがいなくなったのと同じ日に山を下りた。他の小屋には誰もいなかった。ペリー家もファークァー家も今年は山にきていない」
 パットンは肯いて黙っていた。ある種の空虚感が空気中に漂っていた。まるで、言われていないことが誰にも明白で、言う必要もないように。
 それからビル・チェスは荒々しく言った。「とっとと連れて行けよ。くそったれ。俺がやったんだ。俺が溺れさせた。あいつは俺の女で、俺はあいつを愛してた。俺はろくでなしだ。いつでもろくでなしだったし、これからもろくでなしのままだろう。それでもあいつを愛していたんだ。あんたらにゃわかるまい。構やしないさ。連れてってくれ、畜生め!」
 誰も何も言わなかった。
 ビル・チェスは自分の固く握った褐色の手を見下ろしていた。彼はそれを思いっきり振り上げて力を込めて自分の顔を殴った。
「このくそ野郎」彼は耳障りな声で囁くように言った。
 彼の鼻からたらたらと血が流れだした。彼は立っていて、血が唇の上を這い、脇を伝って口に入り、顎の端に達した。一滴がゆっくりとシャツに落ちた。
 パットンはそっと言った。「尋問のために山を下りてもらわなきゃならん。わかるな、ビル。あんたを告発するつもりはないんだが、下の連中は、あんたに話を聞く必要がある」
 ビル・チェスは苦しそうに言った。「服を着替えてもいいか?」
「もちろんだ。アンディ、ついて行ってくれ。それと、これをくるむものを何か探してきてくれ」
 彼らは湖畔の小径を歩いていった。医師は咳払いをして、湖面を見渡し、溜め息をついた。
「うちの救急車で死体を運ばせたいんだろう。ジム?」
 パットンは首を振った。「いや。郡には金がないんでね、ドク。あんたの救急車より安く運ぶ手だてがある」
 医師は憤懣やるかたないといった様子で歩き去り、肩ごしに言った。「葬儀の費用を払わせたいときは言ってくれ」
「その言い方はないだろう」パットンは溜め息まじりに言った。

【解説】

「それがあんたらの遣り口だ。手錠をかけてけりをつけろよ 」は<That's the way you guys feel about it, put the cuffs on and get it over>。清水訳は「お前さんたちが考えることはきまってる。手錠をはめるんならはめてくれ」。これは分かる。田中訳は「そんなふうに、みんなおもってるのか? だれかに手錠をかければ、それでなにもかもすんだと――」。どうして、こんな反語的な訳になるのだろうか。村上訳は「あんたらの魂胆はわかっている。おれに手錠をはめて、それで一件落着としたいんだろう」。<That's the way><get it over>といった常套句を連ねただけのシンプルな文だ。さらっと訳したらいい、と思う。

「そうするしかなかった。他に道はなかった」は<Had to. No other way>。清水訳は「そうにきまってる。そのほかに考えられない」。田中訳は「それにちがいない。ほかに考えようはないよ」と、考える主体をビル・チェスと解釈している。村上訳は「そうしなくちゃならなかった。他に道はなかったから」と、ミュリエルにしている。この違いは大きい。原文は五つのセンテンスで成り立ち、初めの三つは<she><Muriel><she>が主語になっている。残りの二つも<she>が略されたと考えるのが普通だ。

「また、あら探しかい?」は<Crabbin' again>。清水訳は「また難癖をつけるのか」。田中訳は「また、なにかピンときたのかい」。村上訳は「また何か異論があるのか」。<crab>は名詞では「かに」を指すが、動詞になると「~のあら探しをする、~をけなす、~を不機嫌にさせる」などの意味になる。

「ミュリエルのすることは、俺にとっちゃ絹みたいにとらえどころがなかった」は<What Muriel did was all silk with me>。清水訳は「俺はミュリエルがやってたことを何も知らないんだ」。田中訳は「女房のすることは、なんでもおれは信用してたからね」。村上訳は「どうこう言えるような立場にはなかったからな」。<silk>には「絹」の他に別の意味があるのだろうが、どうもよくわからない。当時はまだ絹は高級品で、山男のビル・チェスには、「高嶺の花」だったという意味くらいしか想像がつかない。 

「気づかない連中の方が少ないくらいさ」は<Not much folks don't notice>。ここを清水氏は「誰が何をしたかなんて、あんまり気にしない」とまるで反対の意味にとっている。田中訳は「住んでる者もすくないし、なにをしたって、すぐわかる」。村上訳は「隠し事なんぞ、とてもできるところじゃない」と嚙み砕いている。

「あんた、そのとき向こう岸の小屋に人がいたって言ったか?」は<Did you say the folks across the lake were up here then?>。清水訳は「そのとき、湖の向こうのキャビンの人間はいたのかね」。田中訳は「その時には、別荘のほうにもだれかいたのかい?」。この両氏の訳した聞き方くらいで、ビル・チェスがかっとなったりするだろうか? <Did you say>は日常的によく使われる表現で、相手が言ったことを確認するときに用いられる。つまり、パットンは既知の内容を確認しているように質問したので、ビルはてっきりマーロウが告げ口したと思ったのだ。村上訳は「そのとき湖の向こう岸に人が滞在していたと、あんたは言ったっけな?」。

「彼は立っていて、血が唇の上を這い」は<He stood and the blood ran down his lip>。清水訳は「彼が立ち上がり、血が唇をつたわって」。田中訳は「チェスが立ちあがると、血は唇をつたい」。村上訳は「彼は立ち上がった。血は唇をつたって」。ところで、いったいビル・チェスはいつ腰を下ろしたのだろう? それまでの記述でそのことについて触れた個所はどこにもない。

「それと、これをくるむものを何か探してきてくれ」は<And see what you can find to kind of wrap up what we got here>。清水訳は「それから、ここにあるこれをくるむ物を何か見つけてきてくれ」。「これ」というのは水死体のことだが、田中訳では「なにかからだにひっかける物があるかどうか、みてやれ」と、ビルの上着になっている。村上訳は「そしてここにあるもの(傍点七字)をうまくくるめるようなものが何かないか、見てきてくれないか」。

「その言い方はないだろう」は<That ain't no way to talk>。清水訳は「むき(傍点二字)になりなさんな」と軽くいなす感じ。田中訳は「そんな言いかたってないよ、ドクター」とちょっと情けない感じで。村上訳は「きついことを言うね」と少し非難がましく。章の終わりのきめ台詞である。訳者の腕の見せ所かもしれない。

『湖中の女』を訳す 第八章(1)

<a batch of mud pies>は「マッド・パイ一窯分」

【訳文】

彼は停車場から道路を隔てた向かい側の白い木造家屋の前で車を止めた。建物の中に入って、すぐ一人の男と出てきた。男は手斧とロープと一緒に後部座席に乗った。公用車が通りを戻って来たので、その後ろについた。スラックスやショートパンツ、セーラー服とバンダナ、節くれだった膝と緋色の唇の間を縫って本通りを通り抜けた。村を過ぎ、埃っぽい丘を上り、一軒の小屋の前で車を止めた。パットンが軽くサイレンを鳴らすと、色褪せたオーバーオールを着た男が小屋のドアを開けた。
「乗れよ、アンディ。仕事だ」
 青いオーバーオールの男はむっつりとうなずいてひょいと小屋の中に戻った。オイスター・グレイのライオン狩りの帽子をかぶって出てきて、パットンが横にずれている間に、ハンドルの下に滑り込んだ。三十前後、浅黒く、しなやかで、先住民のように薄汚れていて、少し栄養不足だった。
 マッド・パイが一窯分焼けるくらいの土埃を食らいながら、リトル・フォーン湖まで行った。五本の板を組んだゲートでパットンが車を降りて門を開け、我々は湖に下りた。パットンがまた車を下りて水際に行き、小さな桟橋の方を見た。ビル・チェスが裸で桟橋の床に座って頭を抱えていた。彼の隣の濡れた板の上に何かが横たえられていた。
「もう少し先まで行けそうだ」パットンが言った。
 二台の車は湖の端まで進み、四人揃ってぞろぞろとビル・チェスの背後から桟橋に下りた。医師は立ち止まってハンカチの中に激しく咳をし、考え込むようにそれを見た。骨ばった目の飛び出た男で悲しげな病人の顔をしていた。
 かつては女だったものが脇の下にロープを巻かれて俯せに横たわっていた。ビル・チェスの服が片側に置かれていた。膝に傷のある強張った足を平らに前に伸ばし、もう片方の足を曲げて額を当てていた。我々が後ろに下りてきても、身動きせず、顔を上げもしなかった。
 パットンが尻ポケットからマウント・ヴァーノンのパイント瓶を取り出し、蓋を開けて渡した。
「ぐっとやれよ、ビル」
 あたり一面にむかつくような臭気が漂っていた。ビル・チェスはそれに気づいていないようだった。パットンも医者も同じだった。アンディという名の男が車から薄汚れた毛布を取り出し、死体に抛った。それから無言で松の木の下に行って吐いた。
 ビル・チェスはぐいっと一息に酒を飲み、曲げた剥き出しの膝にボトルを当てて座っていた。そして、強張った感情のない声で話し始めた。誰の方も見ず、特に誰に向かって話すのでもなかった。喧嘩とその後のことを話したが、喧嘩の原因については話さなかった。ミセス・キングズリーについては一言も口にしなかった。私が出て行ったあとで、彼はロープを取ってきて裸になって水の中に入り、それを引き上げたと話した。浅瀬まで引きずっていき背中に背負って桟橋まで運んだのだ。どうしてそんなことをしたのかは知らない。それからもう一度水の中に入った。理由は聞くまでもなかった。 
 パットンは一切れの噛み煙草を口に入れ、静かに噛んだ。おだやかな眼には何も浮かんでいなかった。それから歯を食いしばり、屈みこんで死体の毛布を剥いだ。まるでばらばらになるのを気遣うように死体をそっと裏返した。遅い午後の日差しが、膨らんだ首に半ば埋め込まれた大きなグリーン・ストーンのネックレスに目配せした。粗雑な彫り方で、光沢がなく、ソープストーンか紛い物の翡翠のようだ。小さなダイヤ付きの鷲の留め具が金色の鎖の両端を繋いでいた。パットンは広い背中を伸ばし、タン色のハンカチで鼻をかんだ。
「見解を聞かせてくれ、ドク」
「何についてのだ?」目の飛び出た男はつっけんどんに聞き返した。
「死因と死亡時刻だ」
「馬鹿を言うなよ。ジム・パットン」
「何も分からないってのか、?」
「ちょっと見ただけでかい? なんとまあ」
 パットンはため息をついた。「見たところ水死のようだ」彼は認めた。「だが、そうとも限らない。ナイフで刺されたり、毒を盛られたりした被害者を、犯人が水に浸けて様子を変えるケースもある」
「この辺でそういうことはちょくちょく起こるのか?」医者は意地悪く聞き返した。
「この辺で起こった、正真正銘の殺人事件といえば」パットンは眼の端でビル・チェスをとらえながら言った。「北岸のミーチャム爺さんの件だけだ。爺さんはシーディー渓谷に小屋を持っていて、夏の間は、少しばかり砂金採りをやっていた。ヘルトップ近くの谷の奥にある古い砂鉱床の採掘権を持ってたんだ。秋も深まったというのに、爺さんが一向に姿を現さない。そこに大雪が降って小屋の屋根の片側がつぶれた。それで、我々はちょっと行って、つっかえ棒を当ててやろうとした。多分爺さんは誰にも言わずに冬が来る前に山を下りたんだろう。年寄りの砂金堀りのやりそうなことだってな。ところがどっこい、爺さんは山を下りてなどいなかった。ベッドに横になっていたんだ。頭の後ろに薪割り用の斧が深々と刺さっていた。とうとう誰がやったのかは分からず仕舞いだ。爺さんは、夏の間に集めた砂金の小袋をどこかに隠してる、と思ったやつがいたんだろう」
 彼は思案気にアンディの方を見た。ライオン狩りの帽子の男は口の中で歯をせせりながら言った。「誰の仕業かは分かってる。ガイ・ポープがやったんだ。ただ、ガイはミーチャム爺さんが見つかる九日前に肺炎で死んでいた」
「十一日前だ」パットンが言った。
「九日だ」ライオン狩りの帽子の男が言った。
「六年も前のことだ、アンディ。好きにすればいい。どうしてガイの仕業だと思うんだ?」
「ガイの小屋には砂金に混じって、三オンスばかりの金塊が見つかったんだ。ガイのところからは砂粒より大きいのが出ることはなかった。爺さんの方は何回もペニーウェイト級の金塊が出てる」
「まあ、そうしたもんだ」パットンはそう言って、私を見て、かすかにほほ笑んだ。「どれだけ気をつけていても誰でも何かを忘れるものだ」

【解説】

「停車場」は<stage depot>。清水訳は「バスの停留場」。田中訳は「バス停留所」。村上訳は「鉄道駅」。こんな山の中まで鉄道が敷かれているのだろうか。星形の銀のバッジをつけた保安官が一人で町を守る山間の土地だ。この<stage>は「駅馬車」のことだろう。昔は町のメインストリートに駅馬車が停まるところがあった。<depot>は「停車場、駅」の意味。

「スラックスやショートパンツ、セーラー服とバンダナ、節くれだった膝と緋色の唇」は<the slacks and shorts and French sailor jerseys and knotted bandannas and knobby knees and scarlet lips>。清水訳は「スラックスとショーツとフランスの水兵服と頸に結んだはで(傍点二字)なスカーフとむき(傍点二字)出しの膝がしら(傍点三字)と真紅の唇」。田中訳は「スラックスやショーツ、それにフランスの水兵が着てるようなジャージイのブラウスを着たり、毛のネッカチーフをかけ、骨っぽいすね(傍点二字)をだし、唇を真赤にぬつた女たち」。

「パンツ」や「ショーツ」は「ズボン」、「半ズボン」のことだが、下着にも使われるので紛らわしい。「バンダナ」を「スカーフ」や「ネッカチーフ」と訳すあたり、さすがに時代を感じる。村上訳は「スラックスやらショートパンツやら、フランス水夫風のジャージーやら、粋に結ばれたバンダナやら、屈強な膝やら、緋色の口紅やら」。「フランス水夫風のジャージー」は、「セーラー服」で通じるのではないだろうか。

「色褪せたオーバーオール」は<faded blue overalls>。清水訳は「色のあせたブルーの仕事着」。田中訳は「色があせたブルーの上下つなぎの作業服」と、これも時代を感じさせる訳になっている。村上訳は「色褪せたオーヴァーオール」。ブルーのデニム地で作られることが多いので、ブルーはカットした。上半身は胸当てと肩紐だけなので、厳密には「つなぎ」ではない。

「三十前後、浅黒く、しなやかで、先住民のように薄汚れていて、少し栄養不足だった」は<He was about thirty, dark, lithe, and had the slightly dirty and slightly underfed look of the native>。清水訳は「年のころはおよそ三十歳、顔が浅ぐろく、からだのしなやかな男で、この土地の人間らしく少々うすよごれていて、栄養がたりない感じだった」。田中訳は「三十ぐらいの男で、色が黒く、動作がしなやかで、ちょっぴり皮膚の色がにごり、栄養不良みたいに見えるのは、きっとインデヤンの血がまじつてるからだろう」。

村上訳は「三十前後で、髪は黒くほっそりとして、土地のものらしくどことなく薄汚れて、どことなく栄養状態が悪そうに見えた」。いくら山に住んでいても、「土地のものだから薄汚れて」いるというのは、言い過ぎというものだろう。この<native>は「先住民」を指すのではないだろうか。それなら、髪も黒いだろうが、顔も白人より黒いに違いない。村上訳のように髪に限定するのはどうだろう。

「マッド・パイが一窯分焼けるくらいの土埃を食らいながら」は<eating enough dust to make a batch of mud pies>。清水訳は「泥のパイをつくれるほどの埃りをまともにかぶった」。田中訳は「泥のパイがうんとつくれるくらい埃をかぶった」。村上訳は「泥饅頭(どろまんじゅう)をいくつもつくれそうなくらい埃をかぶることになった」。<a batch of ~>は「~を一窯分」という意味。また<mud pie>は「泥饅頭」のことだが、アイスクリームと一緒に食べる「マッド・パイ」というチョコレートケーキがある。<eat>を使っていることから考えると、それをかけているのだろう。

「小さなダイヤ付きの鷲の留め具が金色の鎖の両端を繋いでいた」は<A gilt chain with an eagle clasp set with small brilliants joined the ends>。清水訳は「金めっき(傍点三字)をした鎖(くさり)にワシの形の止め金がついていた」と<set with small brilliants>をトバしている。田中訳は「はしのほうにいくにしたがつて粒がちいさくなった緑石を、鷲のかたちをした留金がついた金メッキの鎖がつなぎあわしている」と<set with small brilliants>を「はしのほうにいくにしたがつて粒がちいさくなった緑石」と解しているようだ。村上訳はというと「鎖は金メッキがしてあり、その両端はきらきら光る小さな宝石がついた鷲の頭の留め金になっていた」と、なぜか<eagle>を「鷲の頭」と訳している。

「ライオン狩りの帽子の男は口の中で歯をせせりながら言った」は<The man in the lion hunter's hat was feeling a tooth in his mouth. He said>。清水訳は「狩猟棒をかぶった男は口に指をつっこんで、しきりに歯をいじっていた。彼は言った」。田中訳は「ばかでかいライオン狩りの帽子をかぶったアンディ君は、舌の先で歯をいじつている。アンディーはいつた」。村上訳は「ライオン狩猟用の帽子をかぶったその男は、口の中の歯をゆびでいじっていた。アンディーは言った」。<in his mouth>とある以上、口の中にある舌先で歯を感じていたと考えるのが普通だ。

『湖中の女』を訳す 第七章

「脂肪は、ほんのご愛嬌だ」は<The fat was just cheerfulness>

【訳文】

 板張りの小屋の窓越しに、片端に埃だらけのフォルダーが積まれたカウンターが見えた。ドアの上半分を占めるガラスに、黒い塗料で書かれた文字が剥げかけている。「警察署長。消防署長。町保安官。商工会議所」。下の隅には、USO(米国慰問協会)カードと赤十字のエンブレムがガラスに貼ってあった。
 私は中に入った。カウンターの向こうには片方の隅にだるまストーブ、反対側にロールトップ・デスクがあった。壁にこの地区の大きな青写真の地図が貼られ、その横の板には、四つあるフックの一つに擦り切れて繕い跡の目立つマッキノーがかかっている。カウンターの上の埃まみれのフォルダーの隣にはよくある備え付けのペンセット、使い古された吸取器とべとべとに汚れたインク壜があった。机の横の壁は、至るところ電話番号で埋め尽くされ、木が腐るまで持ちこたえそうに強い筆致ながら、子どもが書いたような字だ。
 一人の男が木製の肘掛椅子に座って机に向かっていた。両足の爪先から踵まで、スキーの最中のように床板をしっかり踏みつけている。右足にホースがひと巻き入りそうなくらい大きな痰壺が寄りかかっていた。汗染みの浮いたステットソンをあみだにかぶり、何年も前から擦り切れて薄くなったカーキパンツのウエストバンドの上、胃のあたりで毛のない大きな手を心地よさげに組んでいる。シャツはズボンによくマッチしていたが、もっと色あせていた。太い首の一番上までボタンを留め、タイはしていない。髪はくすんだ茶色で、こめかみのところは根雪のような色だ。左の尻に体重をかけて座っていた。というのも、右の尻ポケットにヒップ・ホルスターが突っ込まれ、四十五口径の銃が半フィートほど頭を擡げ頑丈な背中に食い込んでいるからだ。左胸の星の先が一つ折れ曲がっていた。
 大きな耳と人懐っこい眼をした男で、ゆっくり顎をむしゃむしゃ動かし、栗鼠とおなじくらい危険に見え、栗鼠ほど神経質そうではない。そのすべてが気に入った。私はカウンターにもたれて相手を見た。向こうもこちらを見てうなずき、半パイントはあろうかという噛み煙草を痰壺に吐いた。それは水の中にものが落ちる嫌な音を立てた。
 煙草に火をつけ、灰皿を探した。
「床に落とせばいい、若いの」人懐っこい大男が言った。
「パットン保安官ですか?」
「町保安官(コンスタブル)にして保安官代理(デピュティ・シェリフ)だ。この辺りで警察といえば、まず私だ。いずれにせよ近く選挙がある。生きのいいのが二人対抗馬に立ってて、今回ばかりは叩きのめされるかもしれん。月給八十ドルに小屋、薪、電気代がついてる。こんな小さな山の中じゃ結構な財産だよ」
「あなたにかなう相手など、どこにもいませんよ」私は言った。「名前を売ることになるでしょうから」
「そうかね?」彼は関心なさそうに訊いた。そして、また痰壺を汚した。
「もし、リトルフォーン湖があなたの管轄下にあるならですが」
「キングズリーのとこか? ああ、そうだ。あそこに何かあるのか、若いの?」
「湖に女の死体が浮かんでる」
 彼はしんから驚いたようだ。組んでいた手をほどいて片耳を搔いた。そして、椅子の腕木を握って立ち上がりざま、器用に椅子を後ろに蹴っ飛ばした。立ち上がると逞しい大男だった。脂肪は、ほんのご愛嬌だ。 
「私が知ってる誰かか?」彼は心配そうに尋ねた。
「ミュリエル・チェス。多分ご存じでしょう。ビル・チェスの奥さんです」
「ああ、ビル・チェスなら知ってる」声が少し硬化した。
「自殺のようだ。遠くへ行ってしまうかのようなメモを残している。だが、自殺の遺書とも考えられる。死体はとても見られたもんじゃない。長い間水に浸かってたんでね。状況から判断して、ひと月近くも」
 彼はもう一方の耳を掻いた。「どんな状況だったというんだ?」眼は今では私の顔をじろじろ見ていた。ゆっくりと落ち着いて、だが、探りを入れているのが分かる。すぐには腰を上げそうになかった。
「ひと月前に喧嘩してる。ビルは湖の北岸まで出かけて何時間も帰ってこなかった。帰ってきたときには女房はいなかった。それ以来、姿を見ていない」
「なるほど。ところで若いの、あんたは誰だ?」
「名前はマーロウ。土地を見るためにL.Aからやってきた。キングズリーからビル・チェス宛の紹介状を持っている。ビルは私を連れて湖を回り、映画の連中が建てた小さな桟橋に出た。手すりに凭れて水面を見下ろしたら、水中に沈んだ古い船着き場の床の下から腕のように見える何かが手を振るのが見えた。ビルが重い岩を落とすと、死体が上がってきた」
 パットンは筋肉ひとつ動かさずに私を見た。
「なあ、保安官、急いだほうがよくはないか? あの男はショックで半分気が狂ったようになってるし、現場に一人っきりだ」
「あそこに酒はどれくらい残ってる?」
「出てくるときはほんの僅かだった。パイント瓶を買ってきたが、話しながらほとんど飲んでしまった」
 彼はロールトップデスクに行って、抽斗の鍵を開け、瓶を三、四本取り出し、光に透かした。
「こいつはまだたっぷり入ってる」彼は一本を叩きながら言った。「マウント・ヴァーノン。これで何とかなるはずだ。郡は緊急用の酒を買う金を出してくれない。それで、あっちこっちで少しずつ押収しなきゃならん。自分では飲まん。こんなものに夢中になる連中の気持ちがさっぱりわからん」
 彼は左の尻ポケットに瓶を突っ込み、机に鍵をかけ、カウンターの天板をはね上げた。そして、ガラスドアの内側にカードを留めた。出て行きがけにカードを見ると、こうあった。「二十分で戻る――予定」
「ちょっと行って、ドク・ホリスを呼んでくる」彼は言った。「すぐに戻って来てあんたを拾う。あれはあんたの車か?」
「そうだ」
「戻ってきたら、ついて来てくれ」
 彼が乗り込んだ車には、サイレンが一個、赤いスポットライト二個、フォグランプ二灯、赤と白のファイアプレート一個、屋根に新しい防空ホーン一個、手斧三挺、太いロープのコイル二巻と後部座席に消火器一個、ランニングボードのフレームには予備のガソリンとオイルと水の缶が装備され、予備のタイヤがラックの上にロープでつながれていた。シートから詰め物がはみ出し、汚い塊になっていた。剥げかけた塗装の上には埃が半インチたまっていた。
 フロントガラスの右下隅の内側には、ブロック体の大文字で印刷された白いカードがあって、こう書かれていた。「有権者の皆さん。ジム・パットンに保安官を続けさせよう。仕事探しには年を食い過ぎてる」
 彼は車を回すと、白い土埃を巻き上げて、通りを走り去った。


【訳文】

「板張りの小屋の窓越しに」は<Behind the window of the board shack>。清水訳は「木造の小屋の窓をとおして」。無難な訳だ。田中訳は「板ばりの小屋の窓ごしに」。村上訳は「丸太でできた小屋の窓の向こうには」。<board>は「板」であって「丸太」ではない。<shack>は「掘っ立て小屋」のこと。今まで丸太小屋のことはずっと<cabin>で通してきている。どうしてわざわざ<board shack>と書いたのかといえば、キングズリー所有の小屋に比べ、一段とみすぼらしかったからに違いない。

「町保安官」と訳したところは<Town Constable>。清水訳は「町会長」になっている。田中訳では珍しくカットされている。村上訳は「町制執行官(タウン・コンスタブル)」とルビを振っている。<constable>はアメリカの場合、シェリフ、マーシャルに並ぶ「保安官」を意味する。おそらく、この地域は「町(town)」なのだろう。職名は植民地時代、英国の制度をまねて作られたが、次第に区分があいまいになった。コンスタブルは、一年任期・無給で地域住民から選ばれる法執行官を意味する。早い話が昔の名誉職の名残だ。

「マッキノー」は<mackinaw>。清水訳は「毛布」、田中訳は「厚い色格子のジャケット」、村上訳は「マッキノー・コート」。「マッキノー」は「けば立てられている重くて厚いウール生地で、通常明るい色の大きなチェック柄をしている。ハンター、漁師、きこりなどの防寒具として利用される」と辞書にある。村上氏は「マッキノー・コート」としているが、私の知っている「マッキノー」は、田中氏も書いている通り、ジャケットの方。

「使い古された吸取器」は<exhausted blotter>。チャンドラーは、この「ブロッター」がよほどお気に入りらしく、どの小説でもオフィスの机を描写するとこれが出てくる。今の人は知らないだろうけど、半月形をした厚手の板の丸くなった部分に吸い取り紙をはめる仕掛けになっていて、それで余計なインクを吸い取る仕組み。清水訳は「インクのしみ(傍点二字)だらけの吸い取り紙」。田中訳は「きたない吸取紙」。村上訳はいつものように「くたびれた下敷き」説。村上氏にはこだわりがあるようで、必ずと言っていいほどこの「下敷き」説を採用する。デスク・パッドのことだと思うのだが、この保安官事務所には、あまり似つかわしくない気がする。

「両足の爪先から踵まで、スキーのように床板をしっかり踏みつけている」は<legs were anchored to flat boards, fore and aft, like skis>。清水訳は「両足をスキーを穿いたように扁平の板に乗せて、しっかり踏んまえていた」。村上訳は「床板にべったりと両足を下ろしていた。まるでスキー板でも履いているみたいに、足の裏全面をべたりと床につけている」。<fore and aft>は「船首から船尾まで」の意味で、その前の<anchored>(投錨する)を受けているのだろう。田中訳は「まるでスキーみたいに、床の上に前とうしろに足を投げだしている」だが、前後に足を投げだすというのは難しすぎる。

「器用に椅子を後ろに蹴っ飛ばした」は<deftly kicking it back from under him>。清水訳は「けたたましい音を立てて椅子をうしろに蹴った」。田中訳は「ほうりなげるように椅子をうしろにひいた」。村上訳は「素早く足で蹴って後ろにやった」。<deftly>は「器用に、巧みに、手際よく」という意味だ。村上訳は分かるが、あとの二人の訳は、どうしてこうなるのかが分からない。

「脂肪は、ほんのご愛嬌だ」は<The fat was just cheerfulness>。清水訳は「ふとっているのでおだやかなムードがただよっていただけだった」。田中訳は「人相がわるくならない程度に、脂肪がついているだけだ」。村上訳は「脂肪は味付け程度についているだけだ」。たったの五語でピシっと決めている。この簡潔さを訳に生かしたい。<cheerfulness>は「陽気、快活」。これを「愛嬌」で受け、<just>を「ほんの」と訳してみた。

「カウンターの天板をはね上げた」は<lifted the flap in the counter>。カウンターの内側に入るため、端の方の天板は跳ね上げ式になっている。ところが、清水訳では「カウンターの上の大きなカードをとり上げて」になっている。次のドアにはめたカードと取り違えたのだ。田中訳は「カウンターの仕切りをあけた」。村上訳は「カウンターのフラップを持ち上げた」。

「剥げかけた塗装の上には埃が半インチたまっていた」は<half an inch of dust over what was left of the paint>。清水訳は「剥げ上がったペンキの上に埃が半インチたまっていた」。田中訳は「ボディのはげちょろけのペンキの上には、半インチもほこりがたまっている」。村上訳は「まだ残っているペイントの上には一センチ以上の埃がたまっていた」。車の塗装を、普通はペンキとは呼ばないのではないだろうか。

有権者の皆さん。ジム・パットンに保安官を続けさせよう。仕事探しには年を食い過ぎてる」は<VOTERS, ATTENTION! KEEP JIM PATTON CONSTABLE. HE IS TOO OLD TO GO TO WORK>。清水訳は「有権者諸君に告ぐ! ジム・パットンを警官職にとどめよ。他の仕事を見つけるには年をとりすぎてる」。田中訳は「有権者の皆さん! ジム・パットンに副保安官をつづけさせてください。ほかの仕事をするのには、もう年をとりすぎているから……」。村上訳は「有権者の皆さん! ジム・パットンを執行官に再任してください。彼は新しく仕事を探すには歳を取りすぎています」。微妙に感じが違うのがおかしい。