HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第十三章(1)

<drink of water>は「飲料水」ではなく「長身で痩せた男」

【訳文】

 十一時頃、平地に降りてきて、サン・バーナーディーノのプレスコットホテルの脇にある斜めに区切られた駐車場の一つに車を停めた。トランクからオーバーナイトバッグを取り出し、三歩ほど歩いたところで、金モール編みの側章のついたズボンに白いシャツと黒いボウタイを身につけたベルボーイが、私の手からバッグをもぎとった。
 夜勤のフロントはインテリぶった男で、私にも他のことにも一切興味を示さなかった。白い麻のスーツを半端に着て、あくびをしながら私に机に備え付けのペンを渡し、まるで子どもの頃を思い出しているかのような遠い目をした。
 ボーイと私は狭苦しいエレベーターに乗って二階に上がり、いくつか角を曲がって二ブロックほど歩いた。歩くごとに暑さが増した。ボーイが鍵を開けて案内したのは、通気孔に面した窓が一つある、子ども用サイズの部屋だった。天井の隅にある空調の吹き出し口は女物のハンカチサイズで、結えられたリボンがひとひら、稼動中であることを示すためだけに力なく揺れていた。
 ボーイは背が高くやせていて、顔色は黄みを帯び、若くなく、鶏肉のゼリー寄せに入った薄切り肉のようにクールだった。顔の中でガムをあちこち転がし、私のバッグを椅子の上に置き、吹き出し口の格子を見上げ、立ったまま私を見た。長身痩躯の男の眼の色をしていた。
「もっと高い部屋を頼むべきだったのかもしれない」私は言った。「これはちょっと体にぴったりし過ぎだ」
「部屋が取れただけめっけもんですよ。この街は、はちきれそうに膨れ上がってるんでさ」
ジンジャーエールと氷、それにグラスを二人分持ってきてくれ」
「二人分?」
「君がいけるクチなら、ということさ」
「時間も遅いことだし、お相伴に預かりましょう」
 彼は出て行った。私は上着を脱ぎ、ネクタイをとり、シャツとアンダーシャツを脱いで、開けっ放しのドアから入ってくる生温かい風の中を歩き回った。風には灼けた鉄の匂いがした。横向きで浴室に入り――そういう浴室だった――生ぬるい冷水を頭からかぶった。さっきより楽に息ができるようになったころ、だるそうな長身のボーイがトレイを提げて現われた。彼がドアを閉め、私はライ・ウィスキーのボトルをとり出した。彼はウィスキーをジンジャーエールで割ったものを二杯つくり、我々はお定まりの作り笑いを浮かべて飲んだ。首の後ろからふきだした汗が背筋をたどり、 グラスを置いたときには靴下までの道半ばに達していた。それでも気分はよくなっていた。ベッドに腰を下ろしてボーイを見た。
「どれくらいならいられるんだ?」
「何をするんですか?」
「思い出してほしいんだ」
「私じゃお役に立てそうもないですね」彼は言った。
「金があるんだ」私は言った。「自分なりに使える」
 背中の下から財布を出してくたびれたドル札をベッドに広げた。
「失礼ですが」ベルボーイは言った。「もしかして刑事さんで?」
「ばかを言え」私は言った。「どこの世界に自分の紙幣(かね)でソリティアをする刑事がいる。調査員ってところだ」
「話に乗りましょう」彼は言った。「酒が思い出させてくれそうだ」
 私は彼に一ドル札をやった。「これで思い出してみてくれ。それと、君のことだが、ヒューストンから来たビッグ・テックスと呼ぼうか?」
「アマリロです」彼は言った。「どっちだって変りはないですが。私のテキサス訛りはお気に召しましたか? 自分じゃうんざりしてるんですが、皆さんお気に入りのようで」
「そのままでいいよ」私は言った。「まだ一ドルも損していない」
 彼はにやりと笑って折り畳んだ一ドル札をズボンのウォッチ・ポケットにきちんとしまい込んだ。
「六月十二日の金曜日には何をしていた?」私は彼に訊いた。「夕方から夜にかけて、金曜日だ」
 彼はちびりちびり飲りながら考えた。グラスの氷をゆっくり揺すり、ガム越しに酒をすすった。「ここにいましたよ。六時から十二時までのシフトで」彼は言った。
「スリムで、きれいな金髪の女がチェックインして、夜行のエルパソ行きが出るまでここにいたはずだ。女は翌朝エルパソにいたから、その列車に乗ったに違いない。ビヴァリーヒルズ、カーソン・ドライブ965番地、クリスタル・グレイス・キングズリー名義のパッカード・クリッパーに乗って来た。宿帳にその名前を書いたかもしれないし、別の名前を書いたかもしれない。もしかしたら、全く記録が残っていないかもしれない。車はまだここのガレージにある。女のチェックイン、チェックアウトに立ち会ったボーイと話したい。もう一ドル稼げるぞ——考えるだけで」
 並んだドル札の列から、もう一枚を引き離すと、それは毛虫が喧嘩しているような音とともに彼のポケットの中に入った。
「できますよ」彼は穏やかに言った。
 彼はグラスを下に置き、部屋を出てドアを閉めた。私はグラスを空けて、もう一杯注いだ。浴室に入り、上半身にぬるい温水を浴び直した。そうこうしているうちに、壁にかかっていた電話が鳴ったので、浴室のドアとベッドの間のわずかなスペースに身を寄せて電話に出た。
 テキサス訛りの声が言った。「ひとりはソニーで、先週入隊しました。チェックアウトの方はレスってボーイで、今ここにいます」
「分かった。ここに来させてくれ」
 二杯目の酒を飲み、三杯目のことを考えていると、ノックの音がした。ドアを開けると、女の子みたいな口をきゅっと結び、嫉妬深そうでいけ好かない小男がいた。

【解説】

「金モール編みの側章のついたズボン」は<braided pants>。清水訳は「飾りのついたズボン」。田中訳は「派手なすじ(傍点二字)がはいつた制服のズボン」。.稲葉訳は「モールズボン」。村上訳は「組紐のついたズボン」。<braid>は「組紐、モール刺しゅう」のことで、軍服の肩章などに見られる金モールを編んだ飾りをズボンの横に張りつけた、礼装でいうところの側章のことだ。どこのホテルでも、ベルボーイというのは、ど派手な格好をしているものだ。

「夜勤のフロントはインテリぶった男で、私にも他のことにも一切興味を示さなかった」は<The clerk on duty was an eggheaded man with no interest in me or in anything else>。この<an eggheaded man>だが、清水訳では「タマゴ型の頭の男」、田中訳は「卵みたいなツル禿げの男」、村上訳は「男は卵型の頭をしていて」となっている。稲葉訳は「インテリぶった男」。辞書にも「(頭でっかちの)知識人、インテリぶる人」が先に来ている。三氏がどうして、卵型に固執したのかよく分からない。

「白い麻のスーツを半端に着て」は<He wore parts of a white linen suit>。清水訳は「白い麻の服を着ていて」と<parts of>をスルーしている。田中訳は「白麻のシャツをだらしなく着た」になっているが、これは<suit>を<shirt>と見誤ったものと思われる。村上訳は「彼は白いリネンのスーツを部分的に身につけ」。その通りなのだが、「部分的に身につけ」というのはいかにも生硬だ。暑いので、三つ揃いのスーツの上着を脱いでいたのだろう。しかし原文にそう書いてあるわけではないので、村上氏もこのように訳すしかなかった。稲葉訳ではこの部分はカットされている。

「まるで子どもの頃を思い出しているかのような遠い目をした」は<looked off into the distance as if remembering his childhood>。清水訳は「幼いころを思い出しているように遠くに視線を送っていた」。田中訳は「子供の時のことでもおもいだしてるように、あさつて(傍点四字)のほうに目をやつた」。村上訳は「幼年時代を回想するような目つきで、じっと遠くを見ていた」。心ここにあらずといった風情だが、いかにもこんな仕事はつまらないと感じている、頭でっかちの仕種のようではないか。

「ボーイと私は狭苦しいエレベーターに乗って二階に上がり」は<The hop and I rode a four by four elevator to the second floor>。清水訳は「ベルボーイと私はエレベーターで二階に昇り」。田中訳は「ボーイとおれとは、せまつくるしいエレベーターで二階にあがり」。村上訳は「ボーイと私は狭苦しいエレベーターで二階まで上がり」。稲葉訳は「ボーイと私は、縦横四フィートのエレベーターで二階へのぼり」。一フィートは約三十センチだから恐ろしく狭いエレベーターだ。<two by four>には「二フィート×四フィートの大きさの」の他に「小さな、取るに足りない、つまらない」という意味がある。エレベーターが真四角だったので<four by four>にしたのだろう。

「顔の中でガムをあちこち転がし」は<He moved his gum around in his face>。清水訳は「歯ぐき(傍点二字)をもぐもぐさせながら」。村上訳も「彼は顔の奥で歯茎をもそもそと動かし」と<gum>を歯茎と取っている。それに対して、田中訳は「ガムを口のなかじゆうころがしながら」。稲葉訳も「顔じゅうを口にしてガムを噛みまわしながら」。<gum>に「歯茎」の意味はあるが、その場合、普通は上顎と下顎があるので複数形になる。まさか、下顎だけをぐるぐる回したわけでもあるまい。

「長身痩躯の男の眼の色をしていた」は<He had eyes the color of a drink of water>。清水訳は「一滴の水のような色の目だった」。田中訳は「その眼は水のようなうすい色だつた」。稲葉訳は「飲料水みたいな眼の色だった」。村上訳は「その目は水みたいに無色だった」。無色の目というものがあるだろうか。目の色は実質層に含まれるメラニンの有無で異なるが、青い目の人はメラニンを待っていない。青く見えるのは空が青いのと同じで、上皮で起きる散乱反射のせいだ。

ところで<drink of water>だが、これは飲料水のことではない。映画『ショーシャンクの空に』の中でレッドがアンディのことを<A tall drink of water with a silver spoon up his ass>と評するシーンがある。本来は<up his ass>ではなく<in his mouth>だが、銀の匙をくわえて、つまり裕福な育ちをしてきた背の高い痩せた男という意味になる。確かに、アンディを演じるティム・ロビンスは身長195cm、と背が高い。<drink of water>は「長身で痩せた男」を指す俗語である。

ジンジャーエールと氷、それにグラスを二人分持ってきてくれ」は<Bring us up some ginger ale and glasses and ice>。誰が訳しても同じになる文だが、村上訳は「ジンジャー・エールと氷を二人分持ってきてくれないか」と「グラス」を落としている。神経質なくらい原文に忠実であろうとする村上氏にしては珍しいことだ。

「彼はちびりちびり飲りながら考えた。グラスの氷をゆっくり揺すり、ガム越しに酒をすすった」は<He sipped his drink and thought, shaking the ice around gently and drinking past his gum>。清水訳は「彼はグラスをひと(ひと)口すすり、氷をゆっくり回転させ、ウィスキーを咽喉(のど)にとおらせながら考えた」とここでは<past his gum>をスルーしている。

田中訳は「ボーイはハイボールをちよつぴりすすり、グラスをふつてしずかに氷の音をさせながら、ガムをのみこまないように、酒を喉の奥にながしこんだ」と大事な<thought>を落としている。村上訳は「彼は酒を一口すすり、考えた。グラスの氷を静かに揺らせ、歯茎の奥に酒を送り込んだ」と、最後まで「歯茎」にこだわっている。稲葉訳は「彼は、氷片をごくゆっくりと揺すり、すすった酒をガムを素通りさせて嚥(の)みくだしたりして、考えていた。

<He sipped his drink and thought>は、酒を飲むことと考えるのがセットになっている。それに続く<shaking the ice around gently and drinking past his gum>は、それを詳しく説明する対句表現になっている。つまり、時間をかけてゆっくり酒を飲みながら思い出そうとしているわけだ。なので「一口すすり」や「ちょっぴりすすり」では、間がもたない。<sip>は「~を少しずつ飲む」「ちびちび飲む」という意味。ボーイは自分の行動に値打ちを持たせているのだろう。稲葉訳はそのあたりの意を尽くした訳だと思う。

「並んだドル札の列から、もう一枚を引き離すと、それは毛虫が喧嘩しているような音とともに彼のポケットの中に入った」は<I separated another dollar from my exhibit and it went into his pocket with a sound like caterpillars fighting>。清水訳は「私はならべた一ドル紙幣からもう一枚とり上げた。紙幣(さつ)は毛虫が喧嘩しているような音を立てて彼のポケットにおさまった」。

田中訳は「おれは、ベッドの上に並べた札のなかから一ドルとって、ボーイにわたした。ボーイは、まるで毛虫がけんかをしているような音をたて、その札をポケットにしまった」。村上訳は「私は並べた札の中から一ドル札をもう一枚取り上げた。それは毛虫たちが争っているような音と共に彼のポケットに収まった」。問題は誰の手が札を取り上げたか、だ。稲葉訳は「私は見せ金のうちから一ドル札をぬき、それだけ別にしてベッドの上においた(後半はカットしている)」。

<separate>には「取り上げる」の意味はない。単に「分ける、離す、区切る」という意味だ。マーロウは並んだ札から離して、札を一枚ベッドの上に置いた。それを取るかどうかはボーイ次第という仕種だ。ボーイは了承して自分の手でそれを取ってポケットに入れた。だから、マーロウは主語を<it>として、まるで札が意志あるもののように、彼のポケットに入って行ったような書き方をしているのだ。

「ドアを開けると、女の子みたいな口をきゅっと結び、嫉妬深そうでいけ好かない小男がいた」は<I opened the door to a small, green-eyed rat with a tight, girlish mouth>。清水訳は「ドアをあけると、からだのひきしまった、女の子のような口をした青い目の小さな男が立っていた」。田中訳は「あけると、女の子みたいな唇をかたくむすんだ、みどり色がかつた目の、小柄な男がドアの外に立つていた」。村上訳は「ドアを開けると、緑色の目の、鼠を思わせる小男がそこにいた。きゅっとしまった小さな唇はまるで娘の唇のようだ」。

<green-eyed >は「緑色の目」という意味の他に「嫉妬深い、ひがんだ見方をする」という意味がある。また、<rat>は「クマネズミ」のことだが、「気に食わないやつ、嫌なやつ、裏切り者」等々を意味する、道義にもとることをする変節漢の蔑称でもある。初めてあった男のことをこうまでひどく表現していることに驚くかもしれない。しかし、男の正体はすぐに分かることになる。マーロウの人を見抜く力を表すために、わざと誇張した表現にしているのだ。

アメリカの小説を読んでいると髪の色や眼の色について詳しく書かれていることに気づく。日本と違い、多民族が住む国なのでそうなるのだろう。<green-eyed>は単に目の色を指しているともとれるが、次に<rat>が来ると一ひねりした表現であることに気づかざるを得ない。日本にも「頭の黒い鼠」という言い方があるように、人間の身近にいるイエネズミは、素行の良くない人間に喩えられることが多い。「緑色の目をした鼠」と訳して、括弧内に小さいフォントで註をつけるのが一番いい方法だと思う。

『湖中の女』を訳す 第十二章(2)

<ponderous>は「大きくて重い、動作がのっそりしている」

【訳文】

 オフィスにたどり着いたら パットンは電話中で、ドアには錠が下りていた。話しが済むまで待たなければならなかった。しばらくすると電話を切り、錠を開けてくれた。
 私は彼の脇を通り過ぎて中に入り、ティッシュペーパーの包みをカウンターの上に置いて開いた。
「粉砂糖の探り方が足りなかったな」私は言った。
 彼は小さな金のハートを見て、私を見、カウンターの後ろにある机の上から安っぽい拡大鏡をとった。そしてハートの裏を調べた。拡大鏡を下ろして私に眉をひそめた。
「もしあんたがあの小屋を調べたくて、そうするつもりだと分かってたら」彼はぶっきらぼうに言った。「あまり手を焼かせるもんじゃない、だろう、若いの?」
「両端の切り口がぴたりと合わないことに気づくべきだったんだ」私は彼に言った。
 彼は悲しげに私を見た。「若いの、私はあんたの目を持っていない」彼はごつい不器用そうな指で小さなハートをいじくった。じっと私を見つめ、何も言わなかった。
 私は言った。「アンクレットのことでビルが焼きもちを焼いただろうと考えているのなら、私もそうだ――もし彼が見ていたとすればだが。賭けてもいい。彼はそれを見ていないし、ミルドレッド・ハヴィランドの名を聞いたこともなかった」
 パットンはゆっくり言った。「どうやら、デソトとやらに謝らなきゃならんようだな?」
「もし見かけたらな」私は言った。
 彼はまたうつろな目で長いあいだ私を見つめ、私はまっすぐ見返した。「あててみようか、若いの」彼は言った。「察するに、何か新しい考えを思いついたんだろう」
 「ああ、ビルは妻を殺していない」
 「殺していない?」
 「殺していない。あの女は過去に相手した誰かに殺されたんだ。そいつは女の行方を見失い、やっと探し出した時には、別の男と結婚していたことが気に入らなかった。この辺りのことをよく知っていて――ここに住んでいなくったってこの辺のことを知っている者はわんさといる――車と服のうまい隠し場所を知っている誰かだ。そいつは女を憎んでいたが、それをうまく隠しおおせた。自分と一緒に駆け落ちするよう女を説得し、すべて準備が整ってメモを書き終えたら、喉に手を回し、当然の報いと考えるものを女に与え、遺体を湖に沈め、さっさと立ち去った。気に入ったか?」
 「やれやれ」彼は考え深げに言った。「事態を複雑にするとは思わないのか? しかし、ありえない話じゃない。確かにその可能性はある」
 「これに飽きたら、言ってくれ。また何か思いつくから」私は言った。
 「あんたなら、きっとそうするだろうさ」彼は言った。そして出会って初めて笑った。
 私はお休みを言って外に出た。切り株を掘り起こす入植者のように、のっそりした構えで考えをいじくり回している彼をそこに残して。

【解説】

「もしあんたがあの小屋を調べたくて、そうするつもりだと分かってたら」は<Might have known if you wanted to search that cabin, you was going to do it>。清水訳は「お前さんがキャビンを捜索したかったのがわかってればな」。田中訳は「どっちみち、あんたはチェスの小屋のなかをさがしまわるだろう、と気がついてりやよかつた」。村上訳は「もしあんたがあのキャビンの中をもっと調べたいとわかっていたら、そうさせてやったのに」。

<might have 過去分詞>は「~だったかもしれない」という意味だが、相手に対する非難が込められていることがある。もし、マーロウが小屋を捜索したくて、そうするつもりだ、とパットンが気づいていたら、村上訳のように「そうさせてやった」のだろうか? パットン自身、民間人に過ぎないマーロウに小屋を調べさせることが妥当かどうか自分にはわからないとすでに語っている。ただし、あの場でパットンにもう少し調べてみることを提案することはできたろう。「勝手なことをしよって」という老保安官の口吻がそこにある。

「あまり手を焼かせるもんじゃない、だろう、若いの?」は<I ain't going to have trouble with you, am I, son?>。清水訳は「私はお前さんといざこざを起こしたくないよ」。田中訳は「わしは、じゃまかね、え、あんちゃん?」。これは名訳だと思う。村上訳は「あんたとは友好的にやっていきたいんだよ、なあ、お若いの」。<have trouble with ~>は「~に苦労する、~にてこずる、~に手を焼く」と「~といざこざになる、~ともめる」の意味がある。警察と探偵の間では、力関係は互角ではない。後者の意味にはならないだろう。

「切り株を掘り起こす入植者のように、のっそりした構えで考えをいじくり回している彼をそこに残して」は<leaving him there moving his mind around with the ponderous energy of a homesteader digging up a stump>。清水訳は「開拓移民が切り株を掘り起こしているときのように腰を据えて考えこんでいる彼を残して」。田中訳は「入植者が、木の根つこを掘りおこすような、たいへんな努力で、頭をひねってチエをしぼりだそうとしているパットンをのこして」。村上訳は「彼をあとに残して外に出た。彼はそこで一人、木の切り株を掘り起こす西部の開拓者のような飽くなき辛抱強さをもって、考えをあれこれいじり回していた」。

パットンが考え事をする様子を、切り株を掘り起こそうとする人に喩えた箇所である。<ponderous>は「大きくて重い」、「(動作が)のっそりしている」という意味だが、「重くて扱いにくい」、「(文体。話し方などが)重苦しい、退屈な、(論文などが)冗長な」という否定的なニュアンスのある形容詞。次から次と新しい考えをひねり出すマーロウに比べ、ゆっくりとものを考えるくせのあるパットンの悠長な態度を評したものだ。この話はマーロウの視点で語られている。そう考えると「腰を据えて」はまだいいとして、「たいへんな努力で」や「飽くなき辛抱強さをもって」は少々褒め過ぎに思える。それとも、マーロウ一流の皮肉だろうか。

『湖中の女』を訳す 第十二章(1)

<tissue paper>は「薄葉紙」。「ティッシュペーパー」ではない。

【訳文】

ゲートから三百ヤードほどのところで、去年の秋に落ちたオークの枯れ葉に覆われた細い小径が、大きな花崗岩の丸石の周りを回って消えていた。その道をたどって、露頭の石に沿って五十フィートか六十フィート、がたごと揺れながら走り、一本の木の周りを回って、もと来た方向に車の向きを変えた。ライトを消し、エンジンを切って、座って待った。
 半時間が過ぎた。煙草抜きでは長く感じられた。やがて、遠くでエンジンのかかる音がして、それが次第に大きくなり、ヘッドライトの白い光線が下の道を通り過ぎた。車の音が遠くに消えた後も、微かに乾いた土埃のぴりっとした匂いがしばらく漂っていた。
 車を降りてゲートまで歩いて戻り、チェスの小屋に行った。今度は強く押しただけでバネのついた窓は開いた。私はまたよじ登り、床に降りて、持ってきた懐中電灯を部屋の向こうの卓上スタンドに向けた。スタンドのスイッチをつけ、しばらく耳を澄ましたが、何も聞こえなかった。それで、台所に行き、流しの上にぶら下がった電球のスイッチを入れた。
 ストーブの横の薪箱には薪がきれいに積まれていた。流しに汚れた皿もなく、ストーブに臭いの染みついた鍋もかかっていなかった。孤独であろうとなかろうと、ビル・チェスは家をきちんと片づけていた。台所から寝室に通じるドアが開いていて、そこからとても狭いドアが、明らかに最近建て増しされた小さな浴室へと続いていた。真新しいセロテックス張りの壁がそれを物語っていた。浴室は何も教えてくれなかった。
 寝室にはダブルベッド、松材のドレッサー、その上の壁に丸い鏡、寝室用箪笥、背凭れの真直ぐな椅子二脚、ブリキのごみ箱があった。床には楕円形のラグが二枚、寝台の両側に敷かれていた。ビル・チェスは壁に『ナショナル・ジオグラフィック』の一連の戦争地図を貼っていた。化粧台の上には赤と白の馬鹿げたひだ飾りが載っていた。
 抽斗の中を覗いてみた。派手なコスチュームジュエリーが詰まった模造皮革の装身具入れは持ち出されていなかった。女が顔や爪や眉毛に使う普通の化粧道具があった。長く家を空けるにしては少し多すぎるように思えた。まあ、ただの当て推量だ。箪笥には男女の衣類が入っていたが、どちらも大して多くはなかった。中でも、ビル・チェスのシャツは何とも派手な格子柄に、糊をきかせた共布の襟までついていた。青い薄葉紙の下の片隅に気に入らないものを見つけた。見たところ新品の薄桃色の絹のスリップだ。レースの飾りがついている。時節柄、正気の女なら絹のスリップを残して家を出て行ったりしない。
 これはビル・チェスにとっては具合が悪い。パットンはこれを見てどう思ったろう。
 台所に引き返し、流しの上や横の扉のない棚を調べた。棚には身近な食品の入った缶や瓶がぎっしり詰まっていた。粉砂糖は角が破れた四角い茶色の箱に入っていた。パットンはこぼれた砂糖を掃除しようとしたようだ。砂糖の近くには、塩、ホウ砂、重曹コーンスターチ、ブラウンシュガーなどがあった。それらの中にも何かが隠されているかもしれない。
 切り口がぴたりと合わないチェーン・アンクレットから切り取られた何かだ。
 目を閉じて適当に指を突き出すと、重曹の上にとまった。薪箱の後ろから新聞紙を取り出して広げ、箱をひっくり返し、重曹をぶちまけた。匙で掻きまわした。重曹は量が多すぎたが、それだけのことだ。新聞紙をじょうご代わりにして重曹を箱に戻し、次はホウ砂を試した。ただのホウ砂だった。三度目の正直。コーンスターチを試してみた。細かな粉塵が立ち上っただけで、コーンスターチの他に何も見つからなかった。
 遠くで聞こえた足音に足がすくんだ。手を伸ばして紐を引っ張って明かりを消し、居間に逃げ戻ってスタンドのスイッチに手を伸ばした。もちろん、遅すぎて何の役にも立ちはしない。足音がまた聞こえた。そっと注意深く。首周りの毛が逆立った。
 懐中電灯を左手に持ち、暗闇の中で待った。死ぬほど長い二分間が過ぎて行った。かろうじて息はしていたが、ずっとではない。
 パットンのはずはなかった。彼なら歩いてきてドアを開け、私をしかりつけるだろう。注意深い静かな足音はあちこち動き回っているようだった。動いては長い間立ち止まり、また動いては長い間立ち止まる。私は足音を忍ばせてドアに近づき、静かにノブを回した。ドアをぐいと引っ張って大きく開き、懐中電灯を突きつけた。
 金色の一対の眼が輝いた。何かが跳ねる動きがあり、木々の間で素早く蹄の音がした。ただの詮索好きの鹿だった。
 またドアを閉め、懐中電灯の光を台所に向けた。小さな丸い光が粉砂糖の四角い箱の上にとまっていた。
 もう一度明かりをつけ、箱を持ち上げて新聞紙の上に中身を空けた。
 パットンは探り方が足らなかった。偶々一つのものを見つけたので、そこにあるのはそれだけだと思ったのだ。何か別のものがあるはずだということに気づいていないようだった。
 白いティッシュペーパーを捻ったものがもう一つ、細かな白い粉砂糖の上に現れた。粉砂糖を振り落とし、包みを開いた。女の小指の爪ほどもない、小さな金のハートが入っていた。
 匙ですくって砂糖を箱の中に戻し、箱を棚に戻し、新聞紙は丸めてストーブの中に入れた。居間に戻って卓上スタンドを点けた。明るい光の下では、小さな金色のハートの裏側にある小さな刻印は、拡大鏡なしで読むことができた。
 スクリプト体で、こう書かれていた。「アルからミルドレッドへ。一九三八年六月二十八日。愛をこめて」。
 アルからミルドレッドへ。アルなんとかからミルドレッド・ハヴィランドへ。ミルドレッド・ハヴィランドはミュリエル・チェス。ミュリエル・チェスは死んだ――デソトという名の警官が彼女を探しに来た二週間後に。
 私は突っ立ったまま、手の中にあるものが私と何の関係があるのか考えていた。いくら考えても、何も思いつかなかった。
 私はそれを包み直して、小屋を出て、車を走らせて村に戻った。

【解説】

「去年の秋に落ちたオークの枯れ葉に覆われた細い小径」は<a narrow track, sifted over with brown oak leaves from last fall>。清水訳は「去年の秋に散った褐色のかし(傍点二字)の落ち葉で覆われた狭い道」。田中訳は「去年の秋におちた、茶色つぽく枯れた樫の葉がいつぱいかぶさつたちいさな道がわかれ」。村上訳は「樫の茶色い落ち葉を去年の秋から積もらせたままの、細い小径があった」。しつこいようだが、<oak>は「樫」ではなく「楢(なら)」だ。それに、樫は常緑で、葉は鋸歯を持つ。丸みを帯びた楢とは葉の形がまるでちがう。

「大きな花崗岩の丸石の周りを回って消えていた」は<curved around a granite boulder and disappeared>。清水訳は「小石まじりの土手に沿ってカーブをえがきながら消えていた」。<boulder>は「(風雨・河水・氷河などの作用で丸くなった)丸石、玉石」のことで 、 地質学では「巨礫(きょれき)」と呼ばれている。「小石」どころの大きさではない。田中訳は「花崗岩の大きな岩をまわつて、林の奥に消えていた」。村上訳は「小径は巨大な花崗岩を迂回し、その向こうに消えていた」。両氏ともに「丸さ」に触れていないところが惜しい。

「長く家を空けるにしては少し多すぎるように思えた」は<it seemed to me that there was too much of it>。清水訳は「私にはそれが多すぎるように思えた」。田中訳は「出ていったあとにのこした物にしては、よけいありすぎるような気もする」。村上訳だけは「量としてはいくぶん少なめであるような気がした」となっている。<too much>が「いくぶん少なめ」になる意味が分からない。

「青い薄葉紙の下の片隅に気に入らないものを見つけた」は<Underneath a sheet of blue tissue paper in one corner I found something I didn't like>。清水訳は「片隅の青いクリネックスの下に気になる品物があった」。<tissue paper>とあるので、アメリカではその代名詞である「クリネックス」を持ち出したのだろうが「ティッシュペーパー」は和製英語。この<tissue paper>は包装紙等に使用される「薄葉(よう)紙」と考えるべきだろう。田中訳は「青いがんぴ紙の下の片隅から、いやなものがでてきた」。村上訳は「片隅の青い薄紙の下に、私はいささか好ましくないものを見つけた」。

「白いティッシュペーパーを捻ったものがもう一つ」は<Another twist of white tissue>。清水訳は「白いクリネックスをひねったものがもう一つ」。田中訳は「やはりうすいがんぴ紙でつつんだものがあったのだ」。村上訳は「白いティッシュペーパーをねじったものがもう一つ」。今度は<tissue paper>ではなく、ただの<tissue>になっていることから、「クリネックス」が正解。青と白と、色も違うので「雁皮紙」ではなく、普通の「ティッシュペーパー」と思われる。

スクリプト体で、こう書かれていた」は<It was in script. It read>。清水氏は<in script>をスルーし、「こう書かれてあった」。田中訳は「筆記体でこう書いてあったのだ」。村上訳は「手書き文字でこのように書かれていた」。「スクリプト体」というのは、筆記体に似た手書き風の流麗な書体のことだ。高貴で優雅な印象を与えることから、招待状や卒業証書などに用いられることが多い。

『湖中の女』を訳す 第十一章(3)

<feel bad>は「不愉快」ではなく「同情する、気の毒に思う」

【訳文】

「その女には会ったことがない」私は言った。「だから、何をするか見当もつかない。ビルは一年ほど前にリヴァーサイドのどこかで出会ったと言っていたが、それまでに長く込み入った物語があるのかもしれない。どんな女だった?」
「小柄なブロンドで、めかしこんだときは凄くキュートだ。ちょっとビルに合わせてるようなところがあった。口数の少ない娘で感情を顔に出さない。ビルに言わせると癇癪持ちだそうだが、そういう場面に出くわしたことがない。ビルの方がよっぽど癇癪持ちだ」
「ミルドレッド・ハヴィランドとかいう写真の女に似ていると思ったか?」
 顎のむしゃむしゃが止まり、口が固く結ばれた。それからまたゆっくり噛み始めた。
「これはこれは」彼は言った。「今晩ベッドに潜り込む前に、よくよく注意して下を覗くようにするよ。あんたがいないか確かめるためにな。どこでその情報を聞きつけたんだ?」
「バーディ・ケッペルというかわいい娘が教えてくれた。空き時間に記者をしてて私を取材中に、たまたまデソトというL.A.の警官が写真を見せて回っていたという話が出たんだ」
 パットンは肉厚の膝をぴしゃりと叩き、背中を丸めた。
「あれは私が間違ってた」彼は真面目腐って言った。「数ある私の失敗の一つだ。あのでか物は私に見せる前に町中の誰も彼もに写真を見せて回ったんだ。あれには腹が立った。確かにミュリエルに似ていたが、確信が持てるところまではいかなかった。彼女に何の用があるのかと訊いたら、それは警察の仕事だと言う。で、多少無骨で鄙びているが私自身そういった仕事をしてると言った。すると、女の居所を突き止めろと言われただけで、それ以上は知らんと言う。多分、私をあんな風に軽くあしらったのが間違いだ。そんなわけで、私はそんな写真のような女は知らない、と言ってやった。あれは間違いだったと思う」
 穏やかな大男は微笑みを浮かべてぼんやりと天井の隅を眺め、それから視線を下に落としじっくりと私に目を据えた。
「ここだけの話にしておいてもらえると有り難いな、ミスタ・マーロウ。あんたの考えもいいところを突いている。ひょっとしてクーン湖に行ったことは?」
「聞いたこともない」
「この一マイルほど奥だ」彼はそう言って肩ごしに親指で指し示した。「森の中を細道が西に曲がっている。木と木の間を車で通り抜けられる。一マイル走って五百フィートほど登ればクーン湖に出る。かわいらしいところだ。たまにピクニックに行く者もいるが、タイヤが傷むから、そう度々は出かけない。葦の繁る浅い湖が二つ、三つある。日陰には今でも雪が残ってる。手斧造りの古い丸太小屋がたくさんあるが、私の記憶ではずっと壊れたままだ。それと、モントクレア大学が十年程前にサマーキャンプに使っていた大きな木造の建物の残骸がある。もう長い間使われていない。湖から奥まった深い森の中に建てられていて、裏に回ると古い錆びたボイラーのついた洗濯場がある。その横にローラー式の揚げ戸がついた大きな薪小屋がある。ガレージとして建てられたが、今は薪置き場になっていて、オフシーズンには施錠されている。薪はこの辺りの住人が盗む数少ない物のひとつだが、積んである薪ならともかく、錠を壊してまで盗んだりはしない。その薪小屋で私が何を見つけたかあんたなら分かるだろう?」
「サンバーナディノへ行ったとばかり思っていたんだが」
「気が変わった。車の後部座席に奥さんの遺体を乗せたまま、ビルを連れて行くのは正しいことのように思えなくてな。遺体はドクの救急車で運ばせた。ビルはアンディに送らせた。保安官と検死官に状況を報告する前に、もう少し辺りを見て回った方がいいと思ったんだ」
「ミュリエルの車が薪小屋の中にあったのか?」
「そうだ。それに車の中に鍵のかかっていないスーツケースが二つあった。服が入っていて慌てて詰め込んだみたいだった。女物だ。大事な点はな、若いの。他所者はその場所を知らんということだ」
 私は彼に同意した。彼は胴着の斜めに切ったポケットに手をつっこみ、ティッシュペーパーをひねった小さな包みを取り出した。それを掌の上で開いて、開いた手を差し出した。
「これを見るといい」
 私は近づいてそれを見た。ティッシュペーパーの中にあったのは細い金の鎖で、鎖の環と同じくらい小さな錠がついていた。錠はかかったままで、金の鎖が切られていた。鎖の長さはおよそ七インチ。鎖にも紙にも白い粉末が付着していた。
「これをどこで見つけたと思うね?」パットンが訊いた。
 私は鎖をつまみ上げ、切られた両端をつなぎ合わせた。うまく合わなかった。それについては口を挟まなかったが、指の先を湿らせ、粉に触れて舐めてみた。
「粉砂糖の函か缶だな」私は言った。「鎖はアンクレットだ。ある種の女は結婚指輪と同じで決して外さない。これを外した奴が誰であろうと、そいつは鍵を持っていなかった」
「それをどう考える?」
「特に何も」私は言った。「ビルがミュリエルの足首からそれを切り取っても、首に緑のネックレスをつけたままにしておいたら意味がない。ミュリエル自身が鍵をなくして切ったと仮定しても、見つけてもらうために隠す意味がない。彼女の遺体が最初に発見されない限り、それを見つけるのに十分な調査は行われないだろう。もしビルが切ったのなら、湖に投げたはずだ。しかし、もしミュリエルがビルには隠して、それをとっておきたかったのなら、隠し場所にはそれなりの意味がある」
 パットンは今度は戸惑いを見せた。「どうしてだ?」
「女の隠し場所だからさ。粉砂糖はケーキ作りのアイシングで使うものだ。男は誰もそんなとこを探そうとしない。それを見つけるとは大したものだよ、シェリフ」
 彼はきまり悪そうに苦笑した。「実のところ、箱をひっくり返して砂糖をぶちまけたんだ」彼は言った。「そうでもなきゃ、見つけられなかったろう」彼は紙を丸めて、ポケットに滑り込ませた。これで終わりだ、というように立ち上がった。
「まだここにいるのか、それとも町に帰るのかな、ミスタ・マーロウ?」
「町に帰る。検死審問までいるよ。呼ばれるんだろう?」
「それは、もちろん検死官次第だ。どうにかして壊した窓を閉めてくれ。私は明かりを消して錠を下ろす」
 私は彼の言うとおりにし、彼は懐中電灯をつけてスタンドを消した。我々は外に出て、彼は小屋の錠がしっかりかかっているか確かめた。彼は網戸をそっと閉め、月明かりに照らされた湖を眺めて立っていた。
「ビルに殺意があったとは考えとらん」彼は悲しげに言った。「その気がなくても彼なら難なく女を絞め殺せた。それくらい手の力が強かったんだ。一旦やってしまったら、神から授かった知恵を絞って、したことを隠すしかなかった。本当に気の毒なことだ。しかし、だからといって事実と起こりそうな事態は変わらない。誰でも分かる当たり前のことだ。そして、誰でも分かる当たり前のことが大抵、結果として正しいことが分かる」
 私は言った。「それなら彼は逃げただろう。ここに留まることができたとは思えない」
 パットンは黒いヴェルヴェットの影となったマンザニータの茂みに唾を吐いた。彼はゆっくり言った。「政府から年金をもらっていたからな。逃げたらそれも手放すことになる。それに大抵の男は、耐えねばならん時が近づいてきて正面から見据えられたら耐えられるものだ。世界中で男たちがまさに今やっているように。それじゃ、おやすみ。私はもう一度あの小さな桟橋まで歩いて行って月明かりの下に立ち、遺憾の意を表するつもりだ。お互い、こんないい晩に殺人について考えなきゃならんとはな」
 彼は静かに影の中に歩み去り、自身もまた影になった。私は彼の姿が視界から去るまでそこに立っていた。それから錠の下りたゲートまで戻って柵を乗り越えた。車に乗り込んで、隠れる場所を探して、来た道を引き返した。

【解説】

「今晩ベッドに潜り込む前に、よくよく注意して下を覗くようにするよ」は<I'll be mighty careful to look under the bed before I crawl in tonight>。清水訳は「私は夜寝る前にベッドの下をのぞくくらい用心深いつもりなんだ」。田中訳は「今晩、ベッドにもぐりこむまえには、よっぽど注意して、その下を見なくちゃいかん」。村上訳は「これからは夜寝る前に、ベッドの下をいちいち覗き込まなくてはな」。<in tonight>なのだから「これまで」でも「これから」でもなく「今晩」だろう。

「空き時間に記者をしていて、私を取材中に」は<She was interviewing me in the course of her spare time newspaper job>。清水訳は「アルバイトのリポーターをやってて、私に会いに来たんだ」。田中訳は「アルバイトの記者だそうで、ぼくにインターヴューしたんです」。村上訳は「彼女がパートタイムの記者をしている新聞のために、私の話を聞きにきたときにね」。<spare time>は「空き時間、余暇」の意味だ。「アルバイト」や「パートタイム」というのとはちがう。

「背中を丸めた」は<hunched his shoulders forward>。清水訳は「肩を前に押し出した」。田中訳は「肩をまえにかがめた」。村上訳は「身を屈めた」。パットンは自分のしたことを後悔し、意気消沈している。そういう時の姿勢を日本語で表現するなら、ここは「背(中)を丸める」だろう。

「で、多少無骨で鄙びているが私自身そういった仕事をしてると言った」は<I said I was in that way of business myself, in an ignorant countrified kind of way>。清水訳は「こっちは田舎くさくて幼稚かもしれぬがやっぱり警察の仕事をしてるんだといってやった」。田中訳は「わしだって田舎のばかみたいな副保安官だが、警察官だ、といつてやつた」。村上訳は「山奥の無知な警官ではあるが、こちらも警察の仕事に一応関わっているものなんだが、とわたしは言った」。ここはパットンが自身の風采について言い訳しているのだろう。<in a kind of way>(多少)の中に<ignorant countrified>を挿入しているわけだ。<countrified>は「田舎の」ではなく、「(人・物事などが)田舎じみた、粗野な」という意味。

「手斧造りの古い丸太小屋がたくさんあるが、私の記憶ではずっと壊れたままだ」は<There's a bunch of old handhewn log cabins that's been falling down ever since I recall>。清水訳は「材木を組み立てただけのキャビンがいくつかあったが、どのキャビンもこわれかけてる」。田中訳は「わしがおぼえてる頃から、くずれかかってる粗末な丸太小屋がいくつか」。村上訳は「手作りのログ・キャビンが何軒か建っているが、思い出せる限りの昔から、残らず倒壊している」。

<hand-hewn>とは「手斧掛けした」という意味。丸太小屋はちゃんとした製材所で製材した丸太を使わず、現場近くの森の中から切り出した木の皮を剥ぎ、手斧などで枝を処理した丸太を組んで作る。鉋掛けしないから、表面には跡が残る。それも味のうちだ。だいたいが丸太小屋は丸太を組んで作るもので、重機の入らない森の中に建てるのだから手作りが普通。古いものなら粗末に見えても仕方がない。そんな訳で、三氏の訳は間違いとは言わないが、的を外している。

「その横にローラー式の揚げ戸がついた大きな薪小屋がある」は<along of that there's a big woodshed with a sliding door hung on rollers>。清水訳は「その先にスライディング・ドアのついたまき(傍点二字)小屋がある」。田中訳は「そのとなりは、ローラーで上からぶらさがった戸がついた薪小屋だ」。村上訳は「その並びには、大きな薪小屋があり、スライド式の扉にはローラーがついて、開け閉めできるようになっている」。清水、村上両氏の訳では、横にスライドする引き戸のように読めてしまう。アメリカのガレージによくある、上に揚げて上部に格納する形のドアではないか。

「しかし、だからといって事実と起こりそうな事態は変わらない」は<but that don't alter the facts and the probabilities>。清水訳は「事実をまげるわけにはいかない」。田中訳は「しかし、だからといって、事実をかえることもできんし、どうにもならん」。両氏とも<probabilities>を訳していない。<probabilities>は<probability>の複数形。「ありそうなこと、 起こりそうなこと」という意味。村上訳は「しかしだからといって、その事実や、それによってもたらされるものごとが変更させられるわけではない」。

「誰でも分かる当たり前のことだ。そして、誰でも分かる当たり前のことが大抵、結果として正しいことが分かる」は<It's simple and natural and the simple and natural things usually turn out to be right>。清水訳は「そんなことはわかりきった、あたりまえのことだ。わかりきったあたりまえのことを行っていればまちがいはない」。田中訳は「これは、単純で、つまり自然な犯行だ。そして、たいてい、単純で自然なもののほうが事実の場合がおおい」。村上訳は「単純で当たり前の推理だが、単純で当たり前のことが大方(おおかた)の場合、結局正しいことだったと判明するのだ」。

<it>は何を指しているだろう。田中氏は「犯行」、村上氏は「推理」をあてている。清水氏はその前の「私はそれが哀れでならんのだが、事実をまげるわけにはいかない」を指すと考えているようだ。つまり情を押し殺してパットンが下した判断ということになる。パットンはビルに同情しているが、保安官としての職務を果たすことに躊躇しない。それが<simple and natural >だと思うからだ。そうは思っても内心の葛藤は隠せない。だから、ひとりでもの思いにふけりたいのだろう。

「私はもう一度あの小さな桟橋まで歩いて行って月明かりの下に立ち、遺憾の意を表するつもりだ」は<I'm going to walk down to that little pier again and stand there awhile in the moonlight and feel bad>。清水訳は「私はもういちどあの舟着き場へ行って、あまり愉快なことじゃないが、しばらく月の光を浴びて立っているよ」。田中訳は「わしは、また、あの桟橋のところにいつて、月の光をあびながら、しばらく立つていよう。いやな気持になるだけだろうが……」。村上訳は「わたしはもう一度あの小さな船着き場まで歩いていって、しばらく月光の下に立ち、苦い思いを噛みしめることにする」。

<feel bad>には、三氏のように「不愉快」の意味だけでなく「同情する、気の毒に思う、遺憾とする」のような意味がある。わざわざ<be going to>を使って、死体の上がった現場に出向いて、しばらくの間立っている意志を表しているのだから、死者に哀悼の意を表すとともに、ビルのこれからを案じるつもりなのだろう。それを「いやな気持ち」にしてしまっては折角のパットンの思い入れが台無しになってしまう。

「お互い、こんないい晩に殺人について考えなきゃならんとはな」は<A night like this, and we got to think about murders>。清水訳は「こんな夜に殺人について考えるなんて因果なことさ」。田中訳は「こんないい晩に、人殺しのことを考えなくちゃいかんなんて、なさけない」。村上訳は「こんな美しい夜に、殺人について考えなくちゃならんとはな」。三氏とも<we>をスルーしている。

 

『湖中の女』を訳す 第十一章(2)

パットンが帽子をとって髪をくしゃくしゃにするのは考え事をする時だ

【訳文】

 パットンは立ち上がり、小屋のドアの鍵を開けた。香ばしい松の匂いが部屋中に流れ込んできた。彼は外にぺっと吐き、また腰を下ろして、ステットソンの下のくすんだ茶色の髪をくしゃくしゃにした。帽子を脱いだ彼の頭は、めったに帽子をとらない人の見苦しいなりをしていた。
「ビル・チェスにはまったく関心がなかったのか?」
「これっぱかしも」
「あんたら探偵は離婚の仕事が多い」彼は言った。「私に言わせりゃ、鼻つまみの仕事だ」
 それは聞き流すことにした。
「キングズリーは、ワイフを探すために警察の手は借りたくなかった、そうだろう?」
「そのようだ」私は言った。「彼女のことをよく知っているんでね」
「いろいろ聞かせてもらったが、ビルの小屋を調べたがることの説明には足りないようだ」分別くさい物言いだった。
「あちこち突っつきまわすのが性分でね」
「おいおい」彼は言った。「もうちっとましなことが言えんのか」
「だったら、ビル・チェスに興味を持った、とでも言っておこうか。ただ、それは彼が厄介ごとに巻き込まれて、とても見ちゃいられないからだ――たとえ、相当のろくでなしだとしても。もし彼が妻を殺したのなら、それを示す何かがここにある。もし彼が殺してないなら、それを示す何かもここにある」
 彼は首を横に向けていた、まるで用心深い鳥のように。「たとえばどんなものだ?」
「衣服、装身具、化粧品。二度と戻る気のない女が家を出るときに持っていきそうなもの」
 彼は悠然と椅子の背にもたれた。「だが、女はどこにも行っておらんよ。若いの」
「それなら、物はまだここにあるはず。もしそれがここにまだあったら、彼女が持ち出していないことにビルは気づいたはずで、彼女が家を出ていないことを知ってたことになる」
「なんと。どちらも気に入らないな」彼は言った。
「しかし、もし彼が殺したのだとしたら」私は言った。「彼女が家を出るときに持ち去るはずの物を処分しなければならなかっただろう」
「どう処分すると思うかね? 若いの」スタンドの黄色い光が彼の顔の片側をブロンズ色に染めていた。
「彼女は自分用のフォードを持っていたそうだ。それ以外は、燃やせるものは燃やし、燃やせないものは森の中に埋めただろう。湖に沈めるのは危険すぎる。しかし、車は燃やすことも埋めることもできなかった。彼にその車が運転できたろうか?」
 パットンは驚いたようだった。「できるさ。彼は右脚の膝を曲げられない。だから、フットブレーキはうまく使えないが、ハンドブレーキで間に合わせられる。ビルのフォードがちがうのは、ブレーキペダルが支柱の左側、クラッチに近い位置につけられていて、片足で両方を踏めるようになっていることだ」
 私は煙草の灰を、小さな青い瓶に振り落とした。小さな金色のラベルによると、かつてはオレンジ蜂蜜が一ポンド入っていたらしい。
「車の処分が彼にとっては大問題になる」私は言った。「どこへ持って行くにせよ、戻ってこなければならないし、戻ってくるところを見られたくない。もし、たとえばサンバーナディノあたりの通りに乗り捨てたとしたら、すぐに発見され誰の車か分かってしまう。彼もそれは望まないだろう。一番いいのは盗難車を扱うディーラーに売り払うことだが、たぶんそんな連中を知らなかっただろう。となると、ここから歩いて行ける範囲の森の中に隠した可能性がある。彼が歩ける範囲ならそう遠くない」
「関心がないと主張する人物について、あんたはかなり綿密に検討していることになる」パットンは冷淡に言った。「車は森の中に隠したとして、その後は?」
「発見される可能性を考えねばならない。森は人里離れてはいるが、時々森林監視員や木こりが歩き回る。もし車が発見されたら、その中からミュリエルの所持品が発見される方がいい。言い訳が二つできる――どちらも大したものではないが、少なくとも口実にはなる。一つは、彼女が見知らぬ誰かによって殺され、犯人は殺人が発覚したとき、ビルを巻き込むために細工した。二つめは、ミュリエルは実際に自殺したが、 ビルに容疑がかかるように細工した 。復讐のための自殺というやつだ」
 パットンはそれらすべてについて落ち着いて注意深く考えていた。またドアのところまで行って噛み煙草を吐き、椅子に座ってまた髪をくしゃくしゃにした。彼は疑り深い目で私を見た。
「一つ目はあんたの言うように可能性がある」彼は認めた。「しかし、それだけのことだ。該当する人物が思い当たらない。それに書き置きという小さな問題を解決する必要がある」
 私は首を振った。「ビルはすでに別の機会に書き置きを手に入れていたとしよう。彼女は出て行った、と彼は考えた。今回メモは残さなかったとしよう。何も告げずに妻が出て行き、ひと月もたてば、誰でも気をもむし不安にもなる。妻に何かあった時、書き置きを見せることが自分の身を守る盾になるかもしれない。口にせずとも、内心ではそう思っていたのかもしれない」
 パットンは首を振った。気に入らないのだ。それは私だって同じだった。彼はゆっくり言った。「もう一つの考えは、まったく馬鹿げている。誰かを告発するために自殺したように見せかけるなど、私の単純な人間観には全くそぐわない」
「人間観が単純すぎるからさ」私は言った。「それは現に起きているし、ほとんどの場合は女によって行われている」
「いや」彼は言った。「私は五十七歳になる。今まで気のふれた連中を大勢見てきたが、その説を採る気はない。そんなもの落花生の殻ほどの値打ちもないよ。私が気に入っているのは、彼女は出て行こうとして書き置きを書いた。だが、逃げ出す前に彼が捕まえ、かっとなって殺してしまった、というものだ。そうなると、彼は私たちが話していたようなことをしなければならなくなる」

【解説】

「ステットソンの下のくすんだ茶色の髪をくしゃくしゃにした」は<rumpled the mousy brown hair under his Stetson>。清水訳は「ステットスン帽の下のくすんだ(傍点四字)茶色の髪をかき上げた」。田中訳は「ソフトの下の、ねずみの毛のように汚い茶色つぽい髪をかきあげた」。村上訳は「くしゃくしゃした茶色の髪をステットソン帽の中に押し込んだ」。

<rumple>は「くしゃくしゃにする、しわくちゃにする」という意味の他動詞。三氏ともに、帽子をとったようには訳していないが、ここは金田一耕助のように帽子をとって、髪をくしゃくしゃにしたのだろう。直後に帽子を脱いだ頭の格好について触れていることから分かる。三氏の訳では、帽子を脱いだところをマーロウはいつ目にしたことになるのだろう。

「たとえ、相当のろくでなしだとしても」は<in spite of being a good deal of a heel>。清水訳は「どう見てもまっとうな(傍点五字)人間とはいえないがね」。田中訳は「チェスにもわるいところはあるだろうが」。ところが、村上訳は「ろくでもない悪党だからというんじゃなくてね」という訳になっている。<in spite of~>は、中学校英語で習った通り「~にもかかわらず」だ。つまり、その後にくることを考慮に入れても、という意味だ。村上訳は、あとに続く部分を考慮に入れない、というのだから、逆の意味になる。

「ブレーキペダルが支柱の左側、クラッチに近い位置につけられていて」は<the brake pedal is set over on the left side of the post, close to the clutch>。清水訳は「ブレーキのペダルがクラッチに近い左側にあって」。田中訳は「ブレーキがレバーの左側、クラッチにくつつけてつくつてあるだけだ」。<post>に「レバー」の訳を当てているが、そんなところにレバーはない。村上訳は「ブレーキペダルは中央より左側、クラッチのそばにつけられている」。いくら改造車とはいえ、ブレーキ自体の位置を変えるのは大がかりだ。おそらく、ペダルを支柱の中央ではなく左寄りにつけてあるのだろう。

「椅子に座ってまた髪をくしゃくしゃにした」は<He sat down and rumpled his hair again>。清水氏訳は「座りこんで、また髪をかきあげた」。田中訳は「椅子に腰をおろし、髪をかきあげた」。村上氏は今度は「それから再び腰を下ろして、髪をくしゃくしゃにした」と訳している。しかし、<again>がくっついているのだから、もし「くしゃくしゃにした」と訳すなら、前の訳もそう直すべきだろう。それとも気づいていないのだろうか。

「その説を採る気はない。そんなもの落花生の殻ほどの値打ちもないよ」は<I don't go for that worth a peanut shell>。清水訳は「そんな南京(なんきん)豆の殻(から)みたいな頭の人間がいるとは思えない」。田中訳は「しかし、その考えは、ピーナッツのカラほども、ほんとらしくない」。村上訳は「そこまで頭のたが(傍点二字)が外れた人間にお目にかかったことはない」。

清水氏と村上氏は<that>をそういうことをしでかす「人間」と捉えている。田中氏は「考え」ととる。私も田中氏に賛成だ。<go for>は「(ある特定のものを)選ぶ、好きである」という意味。そのすぐ後に<What I like is that>が来て、その後に示されているのがパットンの自説であることからも、それが分かる。<a peanut shell>という比喩から考えても、落花生の殻は、バーの床の飾りくらいにしか使えない価値のない物の喩えだ。「復讐のための自殺」などという考えを抱く人物は、頭が空っぽなのではない。むしろ考えすぎるくらい考えている。たとえ、少々ねじくれているとしても。

 

『湖中の女』を訳す 第十一章(1)

<the back>は「(椅子)の背」の部分。自分の背なら<on my back>だ

【訳文】

 私道を塞ぐゲートには南京錠がかかっていた。二本の松の木の間にクライスラーを押込み、ゲートをよじ登って、忍び足で道の縁を歩いた。突然、足下に小さな湖の光が微かにきらめいた。ビル・チェスの小屋は真っ暗だった。対岸の三軒の小屋は、青白い花崗岩の露頭を背に、まとまりのない影を見せていた。水はダムの上を越えるところで白く光り、ほとんど音もなく、傾斜した外壁を伝って下の小川に落ちていた。耳をすましても、他には何の音も聞こえなかった。
 チェスの小屋の玄関ドアには鍵がかかっていた。足音を忍ばせて裏に回ると、そこには頭にくることに南京錠がぶら下がっていた。網戸を触りながら壁伝いに歩いて行った。どれもみな戸締りされていた。高い所にある一つの窓には網戸がなかった。北側の壁の中ほどにある小さな山小屋風の両開き窓だ。これもまた施錠されていた。私はじっと立って、もう少し耳をすました。微風さえなく、樹々は影のように静かだった。
 ナイフの刃を小さな窓の窓枠の隙間に入れてみた。駄目だった。留金はびくともしなかった。私は壁にもたれて考え、それから矢庭に大きな石を拾い上げて、二つの窓枠が合わさった真ん中にぶつけた。引き裂かれるような音がして、乾いた木枠から留金が外れ、暗闇の中に向かって窓が開いた。私は敷居の上に体を引き上げ、窮屈な脚をこじ入れて隙間を通り抜け、体を丸めて部屋の中に転げ落ちた。高地での激しい運動に少し音を上げながら、向き直り、また耳をすました。
 閃光がまともに目を射た。
 落ち着き払った声が言った。「そこまでだ、若いの。少し休んだ方がいい。さぞくたびれたろう」
 閃光は、私を叩き潰された蠅みたいに壁に釘づけにした。それから照明のスイッチがかちりと鳴って卓上スタンドが点いた。懐中電灯が消えた。ジム・パットンがテーブルの傍にある、古い茶色の肘掛椅子(モリス・チェア)に腰かけていた。縁飾りのついた茶色のテーブル掛けの端が垂れて、肉厚な膝に触れていた。昼間に着ていたのと同じ服を着て、その上に革の胴着を重ねていたが、グローヴァー・クリーヴランド大統領の一期目の頃には新品だったに違いない。手には懐中電灯しか持っていなかった。両眼には何の感情も浮かんでおらず、顎は穏やかなリズムで動いていた。
「何を考えてるんだ。若いの――不法侵入のほかに?」
 私は椅子を引き寄せて馬乗りになり、背凭れに両腕をもたせかけ、小屋の中を見回した。
「ちょっと思いついたことがあってね」私は言った。「しばらくはそこそこいけるように思ったが、どうやら忘れられそうだ」
 小屋は外から見たときより広かった。私がいたのは居間だった。質素な家具が何点か置かれていた。松材の床にはぼろ絨毯、壁際に寄せた円テーブルとセットになった椅子が二脚。開いたドアの向こうに、大きな黒い料理用ストーブの端が見えた。
 パットンは頷き、悪意のない目で私を観察していた。「車の音が聞こえたんだ」彼は言った。「ここに来るだろうと思ってた。それにしても上手に歩くものだ。足音がまったく聞こえなかった。あんたのことが少々気になっていたんだ。若いの」
 私は何も言わなかった。
「若いの、と呼んでも構わんだろうね 」と彼は言った 「馴れ馴れしく呼んじゃならんのだが、癖になってしまって今さら止められない 。長くて白い顎髭と関節炎の持ち主でなければ、私にとっては皆、若いの、なんだ」
 私は、何と呼ばれようが平気だ。気にする質じゃない、と言った。
 彼はにやりと笑った。「L.A.の電話帳に、探偵は山ほどいた」彼は言った。「だが、マーロウというのはたった一人だ」
「どうしてそんな気になったんだ?」
「下世話な好奇心てやつかな。それと、ビル・チェスが、あんたは探偵のような仕事をしていると言っていたのでね。あんたは自分からは名のらなかった」
「そのうちに言おうと思ってたんだ」私は言った。「面倒をかけて悪かった」
「気にせんでくれ。少しも気にしちゃいない。何か身分を証明するものを持ってるか?」
 私は財布から、あれやこれや書類を取り出して見せた。「なるほど、仕事にうってつけの体つきをしている」彼は満足げに言った。「そして顔からは何も読み取れん。小屋を捜索しに来たんだろう」
「ああ」
「粗方すませておいた。帰ってきて、まっすぐここにやってきたんだ。まあ、ちょっと小屋に立ち寄りはしたが。あんたに勝手にここを調べさせるわけにはいかんだろう」彼は耳を掻いた。「つまり、そんなことができるのかどうか私には分らん、ということだ。誰に雇われているのか話せるかな?」
「ドレイス・キングズリー。夫人の行方を追っている。ひと月前に家を出たきりだ。ここで姿を消している。それで私もここから始めた。男との駆け落ちを疑われたが、男は否定した。ここに来れば何か手がかりが得られるかもしれないと思ったんだ」
「何か見つかったか?」
「何も。サンバーナーディーノからエルパソまでははっきり分かっている。そこで手がかりが切れている。だが、調査はまだ始まったばかりだ」

【解説】

「対岸の三軒の小屋は、青白い花崗岩の露頭を背に、まとまりのない影を見せていた」は<The three cabins on the other side were abrupt shadows against the pale granite outcrop>。清水訳は「向こう岸の三つのキャビンが薄暗い岩肌を背景にして影のように浮かんで見えた」。田中訳は「ほかの三つの別荘も、露出した花崗岩の岩肌をバックに、くつきり黒いシルエットをうきあがらせている」。村上訳は「対岸にある三軒のキャビンは、青白いむき出しの花崗岩を背景に、無骨な影となって見えた」。

村上氏は「無骨な」と訳しているが、<abrupt>には「急な、突然、ぶっきらぼうな、まとまりのない」などの意味がある。なめらかでない、連続性を欠いている、というのがそれらの意味に共通している。青白い花崗岩の露頭を背にした三つの家の影は、十分な距離を置いて建てられていたことを思い出してほしい。お互い、投資目的で山荘を建てはしたが、それ以上の人間的な親交を深める意味合いはない。<abrupt shadows>には、マーロウ流の皮肉な視線が感じられる。

「そこには頭にくることに南京錠がぶら下がっていた」は<and found a brute of a padlock hanging at that>。<brute of>は「人でなしの、獣のような」の意味だが、清水、田中両氏は、これをスルーし、「錠、南京錠」と訳すにとどめている。村上訳は「頑丈な南京錠がかかっていた」。<brute>には、「やっかいで頭にくること」という意味がある。ここで、ゲートにも南京錠がかかっていたことを思い出してほしい。行く先々で南京錠に出くわせば、たいがい頭にも来るのではないだろうか。

「網戸を触りながら壁伝いに歩いて行った。どれもみな戸締りされていた」は<I went along the walls feeling window screens. They were all fastened>。清水訳は「壁にそって、窓のよろい(傍点三字)戸を探った。どのよろい(傍点三字)戸も固く閉じられていた」。<screen>は「虫よけ網戸」のことで、普通「よろい戸」なら<shutter;louver door>を使う。田中訳は「おれは窓の外の網戸を手さぐりしながら、壁にそってすすんだ。窓はみんなしまっている」。村上訳は「網戸を手で触りながら、壁に沿って歩いた。網戸はどれもしっかりしていた」。<they>は、<window screens>のことだから、閉まっているのは「網戸」。<fastened>は「固定される」の意味で、「戸」なら「戸締り」が使える。

「窮屈な脚をこじ入れて隙間を通り抜け」は<wangled a cramped leg over and edged through the opening>。清水訳は「腕をおりまげて、からだをくぐらせ」。<leg>が「腕」に変わっている。田中訳は「つかれきった足をかけて、小屋のなかにつきだした」。村上訳は「痙攣する片脚をくねらせ、身体をなんとか開口部に押し込んだ」。<cramped>は「狭苦しい、窮屈な」、<wangle>は「(困難などから)うまく抜け出す」、<edge>は「少しずつ進む」という意味。小さな窓を通り抜けるマーロウの苦闘ぶりを伝える描写なので、原文に忠実に訳したいところ。

「高地での激しい運動に少し音を上げながら、向き直り、また耳をすました」は<I turned, grunting a little from the exertion at that altitude, and listened again>。清水訳は「山のうすい空気の中でからだを動かしたので、呼吸が荒くなった。私はもういちど耳をすました」。田中訳は「高地なので、これだけのことをするのにも、ちょっと息をきらしながら、おれは、あたりの物音をうかがつた」。両氏とも<I turned>を読み落としている。村上訳は「身体の向きを変え、高地における激しい運動に小さな苦痛の吐息を洩らし、それからまた耳を澄ませた」。<grunting>は「ぶうぶう言うこと」。もとは「ブタの鳴き声のような音を出すこと」で、苦痛よりは不平、不満の表現。

「それから照明のスイッチがかちりと鳴って卓上スタンドが点いた。懐中電灯が消えた」は<Then a light switch clicked and a table lamp glowed. The flash went out>。清水訳は「電灯のスイッチをひねる音がして、卓上スタンドが点(つ)いた。懐中電灯が消えた」。田中訳は「やがて、スイッチの音がしてテーブルの上のスタンドがつき、懐中電灯の光はきえた」。村上訳は「それから懐中電灯のスイッチが切られ、テーブルの上の明かりが灯った。閃光が消えた」なのだが、「懐中電灯のスイッチが切られ」ると「テーブルの上のスタンドがつ」く仕掛けがよくわからない。

「縁飾りのついた茶色のテーブル掛けの端が垂れて、肉厚な膝に触れていた」は<A fringed brown scarf hung over the end of the table and touched his thick knee>。清水訳は「ふさ(傍点二字)のついた茶色のスカーフがテーブルの端にかけてあって、彼のふとった膝にふれていた」。田中訳は「ほつれた褐色のスカーフがテーブルの上からたれさがり、パットンのがっちりした膝の上にかかつている」。<scarf>には文字通り「スカーフ」の他に「テーブル掛け」の意味もある。村上訳は「縁飾りのついた茶色のテーブル掛けが垂れて、それが彼の分厚い膝にかかっていた」。

「私は椅子を引き寄せて馬乗りになり、背凭れに両腕をもたせかけ、小屋の中を見回した」は<I poked a chair out and straddled it and leaned my arms on the back and looked around the cabin>。ちょっといきがって見せる場面だ。清水訳は「私は椅子をひき寄せ、両腕を椅子の背において、またがって座り、部屋の中を見まわした」。田中訳は「おれは椅子をひきよせ、それに馬乗りになると、椅子の背に両手をかけてよりかかり、小屋のなかを見まわした」。村上訳は「私は椅子をひとつ探し当て、それにまたがるように座った。そして両腕を背中の方に傾け、キャビンを見渡した」。<the back>は「背の部分」のことで、自分の背なら<on my back>だろう。映画などで、よく見かけるシーンなのに、どうしてこんな訳になるのか訳(わけ)が分からない。

「帰ってきて、まっすぐここにやってきたんだ。まあ、ちょっと小屋に立ち寄りはしたが」は<Just got back and come straight here. That is, I stopped by my shack a minute and then come>。清水訳だと「駐在所にもどってから、まっすぐここに来た。家(うち)にちょっと寄って、すぐ来たんだ」と「駐在所」と「家」が別になっている。田中訳は「サンバーナディオ(ママ)からもどると、まっすぐここにきたんだ。ちょっと、わしの小屋にも寄ったがね」。村上訳は「町に戻って、またすぐここに来たんだ。家にほんのちょっと立ち寄って、そのままここに来たということだ」。

『湖中の女』を訳す 第十章

<across the road>は「道を横切る」ではなく「道路の向こう側」

【訳文】

 革製の犬の首輪をつけた、人馴れた牝鹿が目の前の道路の向こう側をうろついていた。その首筋のざらついた毛を軽く撫でてやり、電話局の中に入った。小さな机に向かって帳簿の整理をしていた、スラックス姿の小柄な娘が、ビヴァリー・ヒルズまでの料金を教え、小銭を両替してくれた。電話ブースは外にあり、建物の正面の壁にくっついていた。
「ここが気に入って頂けるといいのですが」と、彼女は言った。「とても静かで、とても落ち着けます」
 私はブースに閉じこもった。九十セントでドレイス・キングズリーと五分間話すことができた。彼は家にいて、電話はすぐにつながったが、山地の電波障害で雑音がひどかった。
「そちらで、何か見つかったかね?」彼はハイボールを三杯ほどやっつけた声で訊いた。自信と強気を取り戻したようだった。
「あまりにも多くのものが見つかって」私は言った。「こちらの期待を裏切る結果になってしまいました。今、おひとりですか?」
「それがどうした?」
「別に、どうもしません。ただ、私は今から話す内容を知っている。あなたは知らない」
「何でもいいから、さっさとやってくれ」彼は言った。
「ビル・チェスとじっくり話しました。彼はひとりぼっちだった。妻が家を出て行ったんです。ひと月前に。二人は喧嘩をして、彼が外で酔っ払って、戻ってきたら彼女はいなかった。彼と暮らすより死んだほうがまし、という書き置きを残して」
「ビルは飲み過ぎるんだ」キングズリーの声は遥か彼方から聞こえてくるようだった。
「彼が帰宅したときには二人の女のどちらも消えていた。ミセス・キングズリーの行方について彼は知りません。レイヴァリーは五月に来ています。だが、それ以降は来ていない。それについてはレイヴァリーも認めています。もちろん、ビルが酔いつぶれている間に、レイヴァリーがまたやってくることもできた。しかし、それはあまり考えられない。山を下りるには二台の車が必要です。奥さんとミュリエル・チェスが一緒に山を下りたのかもしれないとも考えました。ただ、ミュリエルは自分の車を持っていました。これは少しは考えてみてもいい説だったんですが、新事実が登場してお払い箱になりました。ミュリエル・チェスはどこにも行っていなかった。あなたの、誰にも邪魔されない湖の中に沈んでいたんです。今日、浮かび上がってきました。私はその場に居合わせました」
「何てことだ」キングズリーはかなり怯えているようだった。「身投げだというんだな?」
「おそらく。彼女が書き残したメモは自殺の遺書のように読めます。それと同じくらい他の意味にも読めますが。死体は桟橋の下の水没した古い船着場の下に張りついていました。そこで腕が動いているのをビルが見つけたんです。二人で桟橋に立って水を見下ろしているときに。彼は彼女を引き揚げ、警察が彼を逮捕しました。可哀そうにひどく取り乱してます」
「なんてことだ」彼はまた言った。「取り乱すのはもっともだ。で、どうなんだ、彼が――」交換手が割って入ったので、彼はそこで言葉を切った。あと四十五セントを要求していた。二十五セント銀貨を二枚入れると電話はつながった。
「彼が、何ですか?」
 突然とてもはっきり聞こえるようになった、キングズリーの声が言った。「彼が彼女を殺したように見えるのか?」
 私は言った。「大いにね。ジム・パットンは、ここの保安官ですが、書き置きに日付がないことが気に入らない。前にも一度、女のことで家を出て行ったことがあるようです。ビルが古い書き置きを取っておいたのではないか、とパットンは疑っている。とにかく、ビルは尋問のためにサンバーナディーノに連れて行かれ、死体は検死に回されました」
「それで、君はどう考えてるんだ?」彼はゆっくり訊いた。
「そうですね。ビルは自分で死体を見つけた。桟橋に私を連れてゆく必要は彼にはなかった。彼女はもっとずっと長く、留まっていることもできた。もしかしたら永遠に。書き置きが古びたのは、ビルが財布に入れて持ち歩き、時々取り出しては気に病んでいたからかもしれない。今回のも前回のも日付はなかったとも考えられる。書き置きなんかには、日付を入れないことが多い。その手の物を書く人は急いでいて、日付のことまで気にしません」
「死体はずいぶん傷んでいたんだろう。いまさら何を見つけようというんだ?」
「どんな設備があるのかに寄ります。溺死だとしたらわかると思う。それと、水や腐敗によって消されていない暴力の痕跡があるかどうかも。もし、撃たれたり刺されたりした痕跡があれば、それも指摘できる。もし、喉の舌骨が折れていたら。絞殺だと推測するでしょう。我々にとっていちばん重要な問題は、私が何のためにここにやってきたかを言わなければならないということです。私は検死審問の場で証言しなければならない」
「そいつはまずいな」キングズリーは唸った。「極めてまずい。これからどうするつもりだ?」
「帰りにプレスコットホテルに寄って、何か分からないか調べてきます。奥さんはミュリエル・チェスと親しかったのですか?」
「そうだと思う。クリスタルは大抵の場合、誰とでも仲良くやれる。私はミュリエル・チェスのことをよく知らない」
「ミルドレッド・ハヴィランドという名に聞き覚えはありますか?」
「なんだって?」
 私は名前を繰り返した。
「知らん」彼は言った。「どうして私が知ってなきゃならんのだ?」
「どの質問にも、あなたは別の質問で切り返しますね」私は言った。「何も、あなたがミルドレッド・ハヴィランドを知ってなきゃならないってわけじゃない。とくにミュリエル・チェスのことをよく知らないというのなら。朝になったら電話を入れます」
「そうしてくれ」彼はそう言ってから口ごもり「面倒なことに巻き込んでしまってすまなかった」と付け足した。それからまた口ごもり、おやすみ、と言って電話を切った。ベルがまたすぐに鳴り、長距離電話の交換手は、私が五セント入れ過ぎた、と細かいことを言った。私はそういうときに使う、取って置きの文句を言ったが、彼女の気には入らなかった。
 私は電話ブースを出て、新しい空気を肺の中に取り入れた。革の首輪をつけた人馴れた牝鹿は、歩道の突き当りの柵の隙間を塞いで立っていた。押しのけようとしたが、からだをすり寄せてきてのこうとしなかった。仕方がないので、柵を乗り越えてクライスラーのところに戻り、村に引き返した。
 パットンの司令部には、吊り電灯に明りがついていたが、小屋は空で、ドアのガラス部分の内側の「二十分で戻る」のカードはそのままだった。私は船着場の方まで下り続けて、その先の人けのない水浴場まで行った。数隻の小型エンジン船とスピードボートが絹のような湖面でまだ遊び回っていた。湖の対岸、模型の斜面に置かれた玩具のような小屋に小さな黄色い光が灯り始めた。明るい星が一つ、山際の北東の空低くに輝いている。百フィートもあろうかという松の木の天辺にとまった駒鳥が、おやすみの歌を歌えるほど、あたりが暗くなるのを待っていた。
 しばらくすると日はとっぷり暮れ、駒鳥はおやすみの歌を歌って、目には見えない空の深みへと飛び去っていった。私はすぐ横の鏡のような水面に煙草を弾き、車に戻って、リトル・フォーン湖の方角に走り出した。

【解説】

「革製の犬の首輪をつけた、人馴れた牝鹿が目の前の道路の向こう側をうろついていた」は<A tame doe deer with a leather dog collar on wandered across the road in front of me>。清水訳は「革製の犬の首輪をつけた馴れた雌鹿が私の前の道路を横切った」。田中訳は「犬の首輪をはめた、よく馴れた牝鹿が、道を横ぎって、おれのほうにやつてきた」。村上訳は「革の犬の首輪をつけた、飼い慣らされた牝鹿が私の前をゆっくり歩いて、通りを横切った」。

牝鹿は、どこをどう歩いていたのだろう。三氏ともに<wander>を見事にスルーして訳している。<wander>は「さまよう、(あてもなく)歩き回る」という意味。一直線にどこかへ動いたとは思えない。特にどこに行くということもなくその辺をぶらついていたのだ。では、いったいどこを。この場合の<across>は「~を横切ったところに、~の向こう(反対)側に」の意味と取るべきだ。今から行く電話局に近い、道路の向こう側にいたと考えたら、マーロウが建物に入る前に撫でてやるのもよくわかる。

「ミュリエル・チェスはどこにも行っていなかった。あなたの、誰にも邪魔されない湖の中に沈んでいたんです。今日、浮かび上がってきました」は<Muriel Chess didn't go away at all. She went down into your private lake. She came back up today>。清水訳は「ミュリエル・チェスは山を降りていないんです。あのあなたの湖にとびこんだんです。今日、死体が上がりました」。田中訳は「ミュリエル・チェスは、ぜんぜん、山をおりていないんですよ。そのかわり、リトル・フォーン湖のほうにいき、今日、そこから、あがってきました」。村上訳は「ミュリエル・チェスはそもそも山を下りなかったのです。彼女はあなたの所有する湖の底に沈んでいました。死体が浮かび上がってきたのは今日のことです」。

<go away>は「立ち去る、出かける」という意味で、「山を下りる」の意味はどこにもない。また、主語は常に<she>であり、<body>(死体)とは書かれていない。その意味では、田中訳が作者の意図をよく理解しているといえる。マーロウは<went down into>、< came back up>と、まるでミュリエル・チェスに意志があったかのようにキングズリーに伝えているのだ。<your private lake>は村上訳の通り「あなたの所有する湖」だが、ひと月も隠れていたことを強調する意味で、あえて「誰にも邪魔されない」と訳してみた。

「ビルが財布に入れて持ち歩き、時々取り出しては気に病んでいたからかもしれない」は<Bill had carried it in his wallet and handled it from time to time, brooding over it>。清水訳は「いつも紙入れに入れて持って歩いて、ときどき取り出して眺めてたかもしれないんです」。田中訳は「いつも紙入れのなかにいれてもつてあるき、しよつちゆうとりだしては、それを読んでいたからだとも考えられます」。村上訳は「彼がそれを財布に入れて、しょっちゅう出し入れして眺めていたせいかもしれない」。<brood over>は「思いつめる、くよくよする」という意味。三氏とも書き置きを読むビルの気持ちを忘れている。

「ドアのガラス部分の内側の「二十分で戻る」のカードはそのままだった」は<his "Back in Twenty Minutes" sign was still against the inside of the glass part of the door>。田中訳は「「二十分したらもどる」という例のカードは、ドアのガラス戸のところにぶらさがったままだ」と「ぶらさがった」説だ。清水訳は「<二十分でもどる>という掲示板がドアのガラスの部分の内側にぶら下がっていた」と、同じく「ぶら下がった」説だ。<against>に「ぶらさがる」という意味はないのだが。

ところが、清水氏、第七章では「カウンターの上の大きなカードをとり上げて、ガラスのドアの内がわにはめこんだ」と書いている。よくやる失敗だが、前の方が正しいのが皮肉だ。村上訳は「「二十分で戻ります」という札が、ドアのガラス部分の内側にまだ立てかけてあった」と、「立てかけ」説だが、第七章では「ドアのガラス・パネルの内側に、一枚のカードをはさんだ」となっていて、「カード」が「札」になっているのはご愛敬だが、「立てかける」と「はさむ」は少し違うのではなかろうか。