HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第三十五章


<light on the fan over the door>は「ドアの上の扇風機についた明かり」じゃない。

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【訳文】

 白い二階屋で屋根は黒かった。明るい月の光が壁を照らし、まるでペンキを塗ったばかりのようだった。正面の窓の下半分には錬鉄製の格子がついていた。刈り揃えられた芝生が、突き出た壁に斜めに配された玄関ドアまで続いている。見える限りの窓はみな暗かった。
 デガーモは車を降り、並木通りを歩き、私道づたいにガレージの方を振り返った。そのまま私道を進んで家の角に姿を消した。ガレージのドアが上がり、また下りるどすんという音がした。やがて、また家の角に姿を現して私に首を振ると、芝生を横切って玄関に向かった。親指を呼鈴に押し当て、もう一方の手でポケットから煙草を一本器用に取り出して口にくわえた。
 ドアから顔を背け、煙草に火をつける彼の顔に、マッチの炎が深い皺を刻んだ。しばらくすると、ドア上部のアーチ窓に明かりがついた。ドアの覗き穴の蓋が引き開けられ、デガーモがバッジを掲げるのが見えた。ゆっくりと、さも不本意ながらという様子でドアが開き、彼は中に入っていった。
 彼は家の中に四、五分いた。様々な窓の向こうに明かりがつき、やがて消えた。 それから、彼が家を出て歩いて車に戻るあいだにアーチ窓の明かりが消え、そして家全体がまた元のように真っ暗になった。
 彼は車の横に立ち、煙草を吸いながら、通りのカーブしているあたりを眺めていた。
「小型車が一台ガレージの中にあった」彼は言った。「料理女は自分のだと言っている。キングズリーの姿はない。家の者は今朝から姿を見ていないそうだ。全部の部屋を見て回った。どうやら連中の話は本当らしい。ウェバーと指紋係は今日の午後遅くに来ている。主寝室は至るところ指紋検出用の粉だらけだ。ウェバーはレイヴァリーの家で採取した指紋と照合するつもりだろう。彼が何をつかんだか、俺は聞かされていない。どこにいるんだ、キングズリーは?」
「どこにいたって不思議じゃない」私は言った。「旅の途中か、ホテルの中か、トルコ式の風呂で緊張をほぐしている最中か…。しかし、まずはじめに女友だちのところをあたってみよう。名前はフロムセット、サンセット・プレイスにあるブライソン・タワーに住んでいる。もっとダウンタウンの方に行った、ブロックスウィルシャーの近くだ」
「何をしている女だ?」ハンドルを握りながら、デガーモが訊いた。「彼の留守中はオフィスを掌握し、オフィスを離れたら彼の手を握っている。どこにでもいる美人秘書じゃない。頭が切れて、自分なりの流儀がある」
「この状況だと、持てる力のすべてを発揮してもらうことになりそうだ」デガーモは言った。彼はウィルシャー・ブールヴァードまで車を走らせ、そこで再び東に折れた。
 ブライソン・タワーまで二十五分かかった。白い化粧漆喰仕上げの館で、雷紋模様の角灯に照らされた前庭には背の高い棗椰子が植わっていた。入り口はL字型で、大理石の階段を上り、ムーア風のアーチをくぐった先にあった。ロビーは広すぎたし、絨毯の色は青すぎた。アリババの物語にでも出てきそうな青色の油壺がところどころに置かれていた。虎が飼えるくらいの大きさだ。デスクがあり、夜勤のクラークがいて、お決まりの爪の下に隠れてしまいそうな口髭をはやしていた。
 デガーモはデスクの前を通り過ぎ、開いたままのエレベーターに向かった。疲れた顔の老人が腰掛に座って客を待っていた。クラークはテリヤが吠えるようにデガーモの背中に声をかけた。
「少々お待ちください。どなたに御用ですか?」
 デガーモは踵を返して不思議そうに私を見た。「どなた、とこいつは言ったのか?」
「ああ、でも殴るな」私は言った。 「そんな言葉があるんだ」
  デガーモは唇をなめた。 「あることは知っていた」彼は言った。 「どこから引っ張り出してくるんだろう、といつも不思議に思ってた。なあ、いいか」彼はクラークに言った。「俺たちは七一六号室に用がある。 何か文句あるか?」
「もちろんあります」クラークは冷ややかに言った。「私どもはこんな時間に――」彼は腕を上げ、内側につけた細長い腕時計を見るために手首をきれいに回した。「朝の四時二十三分に、お客様にお取次ぎすることは致しかねます」
「俺もそう思った」デガーモは言った。「だから手を患わせたくなかったんだ。分かったか?」彼はポケットからバッジを取り出し、金と青のエナメルに光が当たるように構えた。「俺は警部補だ」
 クラークは肩をすくめた。「承知しました。何の支障もないといいのですが。先方にお知らせしたほうがよさそうですね。 お名前は?」
「デガーモ警部補とミスタ・マーロウだ」
「七一六号室。ミス・フロムセットですね、少々お待ちを」
 彼はガラスの仕切りの向こうに行き、しばらく受話器を耳にあてて待っていたが、そのうちに話しているのが聞こえてきた。そして戻ってきて、うなずいた。
「ミス・フロムセットはご在室です。お会いするそうです」
「そいつは何よりだ。ほっとしたよ」デガーモは言った。「それから、ホテル付きの探偵を呼んで、部屋に寄越したりするな。俺はホテル付きの探偵にアレルギーがあるんだ」
 クラークは冷たい微笑をかすかに浮かべ、我々はエレベーターのなかに入った。
 七階はひんやりして静かだった。廊下は一マイルはあろうかと思われた。我々はようやく金色の葉が作る環の中に金文字で716と書かれたドアに着いた。ドアの横に象牙色のボタンがあった。デガーモが押すと室内でチャイムが鳴り、ドアが開いた。
 ミス・フロムセットは青いキルトのローブをパジャマの上に羽織っていた。足にはタフタのついたハイヒールの室内履きをはいていた。黒髪は魅力的にふんわりとまとめられ、顔はコールドクリームが拭き取られ、最小限の化粧が施されていた。
 我々は彼女の脇を通り過ぎ、どちらかといえば狭い部屋に入った。壁には美しい楕円形の鏡がいくつもかかり、青いダマスク織りで覆われた灰色の時代物の家具が置かれていた。アパートメントハウスにあるような家具ではなかった。彼女は華奢な二人掛けの椅子に腰を下ろし、後ろに背をもたせかけ、誰かが何かを言うのを穏やかに待っていた。
 私は言った。「こちらはベイ・シティ警察のデガーモ警部補。キングズリーを探している。彼は家にいなかった。君ならどこに行けば会えるか教えてくれそうに思えてね」
 彼女は私を見ずに話した。「急を要することなの?」
「そうだ。ちょっとしたことが起きてね」
「何が起きたの?」
 デガーモがぶしつけに言った。「俺たちはキングズリーがどこにいるのか知りたいだけだ、姉ちゃん。ああだこうだと説明してる暇はないんだ」
 女は完全に無表情な眼で彼を見た。そして、私を振り返っていった。
「話した方が身のためよ、マーロウさん」
「金を渡しに行った」私は言った。「予定通り彼女に会った。そして話をしに彼女の部屋に行った。そこで、カーテンの後ろに隠れていた男に殴られた。男の顔は見なかった。気がつくと、彼女は殺されていた」
「殺されていた?」
私は言った。「殺されていたんだ」
 彼女は美しい眼を閉じ、唇の端をひきしめた。それからさっと肩をすくめて立ち上がり、ひょろ長い脚のついた大理石の天板の小さなテーブルに向かった。浮彫模様を施した小さな銀の箱から煙草を一本取り出して火をつけ、虚ろな目でテーブルを見下ろした。マッチを振る手の動きが、しだいに緩慢になり、やがて止まった。火がついたままのマッチが灰皿に落ちた。彼女は振り返り、テーブルに背を向けた。
「悲鳴か何かあげるべきなんでしょうね」彼女は言った。「でも何も感じていないみたい」
 デガーモは言った。「あんたの気持ちなんかには、これっぽっちの興味もない。俺たちが知りたいのはキングズリーがどこにいるかだ。言ってもいいし、言わなくてもいい。どっちにしても、勿体ぶるのをやめて、どっちかに決めてくれ」
 彼女は私にそっと言った。「ここにいる警部補はベイ・シティの警官なの?」
 私はうなずいた。彼女は、みごとなまでに相手を見下すような威厳を見せて、ゆっくり彼の方を向いた。「そういうことなら」彼女は言った。「この人は私の部屋の中では何の権利もない。大口を叩いて威張り散らす、その辺の浮浪者と同じよ」
 デガーモは気の滅入るような目で彼女を見た。そして、にやりと笑って部屋を横切り、深いふかふかの椅子に腰かけて長い脚を投げ出した.。そこから私に手を振って合図した。
「いいだろう、お前が説得するんだ。必要とあれば、L.A.の連中の協力は得られるが、事情を説明するのに、次の火曜日から一週間はかかるだろう」
 私は言った。「ミス・フロムセット、もし彼の居所なり、向かった先なりに心当たりがあるなら、教えてくれないか。彼を見つけなければならないことは君にも分かるだろう」
 彼女はおだやかに訊いた。「なぜかしら?」
 デガーモは頭をのけぞらせて笑った。「この子はいい子だ」彼は言った。「たぶん、かみさんが殺されたことを旦那には内緒にしておくべきだと考えてるんだろう」
 「彼女はあんたが思ってる以上に心得てるよ」 私は彼に言った。彼は真顔になり、親指をかんだ。彼は横柄な態度で彼女をじろじろ見た。
 彼女は言った。「彼に報告しなければならないというだけのことなの?」
 私はポケットから黄色と緑のスカーフを取り出し、振りほどいて彼女の前に置いた。
「彼女が殺された部屋にこれがあった。見覚えがあるはずだ」
 彼女はスカーフを見、私を見たが、どちらの一瞥にも意味を込めてはいなかった。彼女が言った。「ずいぶん大きな信頼をほしがるのね、マーロウさん。結局、あなたがそれほどやり手の探偵ではなかったわりには」
「信頼はほしいね」 私は言った。 「そして、得られることを期待してもいる。それと、私がどれだけやり手だったのか、君は何も知っちゃいない」 
「こいつはいいや」デガーモが言った。「あんたら二人は名コンビだ。後は曲芸師を連れて来ればいい。だが、今は――」
 彼女はまるで彼がそこにいないかのように口を挟んだ。「どうやって殺されたの?」
「絞め殺され、裸にされ、引っかき傷を負っていた」
「デリーならそんなことはしないはずよ」彼女はおだやかに言った。
 デガーモが文句を言った。「他人のすることが分かった試しはない、姉ちゃん。警官はそういうことについちゃ詳しいんだ」
 彼女はまだ彼を見ようとはしなかった。同じ口調で彼女は尋ねた。「あなたの部屋を出てからどこに行ったか、彼が私をここまで送ってきたか、そういうことを知りたいの?」
「そうだ」
「もしそうなら、彼は海辺に行って彼女を殺す時間がなかったから? そうなのね?」
 私は言った。「おおよそ、そんなところだ」
「彼は私を送らなかった」彼女はゆっくり話した。「私はハリウッド・ブールヴァードでタクシーを拾った。あなたの部屋を出てから五分もたってなかった。それから彼には会っていない。家に帰ったんだと思ってた」
 デガーモが言った。「おおかたの場合、女は男友だちのためにもう少しましなアリバイを作ってやろうとするもんだが、まあ、人それぞれということか?」
 ミス・フロムセットは私に言った。 「彼は私を送りたがった。でも遠回りになるし、二人とも疲れていた。どうして、こんな話をするかというと、そんなことはなんの関係もないと思っているから。もし関係があると考えてたら、言わない」
「彼には時間があったわけだ」私は言った。
 彼女はかぶりを振った。「    分からないわ。どれくらいの時間がいるのか。それに、彼はどこに行けばいいのかをどうして知ることができたの。 私じゃない。彼女、電話では言わなかった 」 彼女の黒い瞳が私に探りを入れ、証しを求めていた。 「これがあなたが求めているという信頼なの?」
 私はスカーフをたたんでポケットに戻した。「彼が今どこにいるか知りたいんだ」
「私には言えない。だって知らないもの」彼女の目はポケットに入るスカーフを追っていた。視線はまだそこに留まっていた。「殴られたって言ってたけど、気を失ったの?」
「ああ、カーテンの陰に隠れていた誰かに。いまだにそういう手にひっかかるんだ。彼女は私に銃を突きつけ、私はそれを取り上げるのに忙しかった。彼女がレイヴァリーを撃ったのはまちがいない」
 デガーモが急に立ち上がった。「一人で勝手に盛り上がってやがる」彼は唸り声をあげた。「そのわりに、ちっとも埒があかない。行こうぜ」
 私は言った。「ちょっと待ってくれ。まだ済んでいない。何かが彼の心にひっかかっていたとしよう、ミス・フロムセット、彼の心の奥深くに食い込んでいたとしよう。今夜の彼はそう見えた。我々が思っている以上に、あるいは私が思っている以上に、彼はこの件について知っていて、事態が峠を越したことを知っていたとしたら。彼はどこか静かな場所に行って、善後策を講じたいだろう。そうは思わないか?」
 私は話を止め、焦れるデガーモを横目で見ながら、待った。しばらくして、女は抑揚のない口調で言った。「彼は逃げ隠れしないでしょう。逃げ隠れする理由がないから。ただ、考え事をする時間は欲しいかもしれない」
「見知らぬ土地のホテルとか」私は言った。グラナダで聞かされた話を思い浮かべていた。「あるいは、それよりもっと静かな場所かもしれない」
 私は電話を探してあたりを見回した。
「寝室にあるわ」私が何を探しているのかを察して、ミス・フロムセットが言った。
 私は部屋を横切り、突き当たりのドアを通り抜けた。デガーモは私のすぐ後ろにいた。寝室は象牙色とくすんだ薔薇色だった。フットボードのない大きなベッドと、頭の形に丸くくぼんだ枕があった。作り付けの化粧台の上には化粧品がきらきら輝き、その上の壁には鏡がはめ込まれていた。開いた扉の向こうに桑の実色の浴室タイルが見えている。電話はベッド脇のナイトテーブルの上にあった。
 私はベッドの端に腰を下ろし、ミス・フロムセットの頭があった場所を軽くたたいて、受話器を上げ、長距離の番号を回した。交換手が出たので、ピューマ・ポイントのジム・パットン町保安官に至急の指名通話を頼んだ。電話を架台に戻し、煙草に火をつけた。デガーモは、両足を広げて立って私をにらみつけた。タフで疲れ知らずな悪徳警官になる準備ができている。「どうしようっていうんだ」彼は言った。
「今に分かる」
「誰がこの件を仕切ってるんだ?」
「私だ。あんたが頼んだことだろう――ロサンジェルス警察に仕切らせたいなら別だが」
 彼は親指の爪でマッチを擦ってそれが燃えるのを眺め、そして長い息を吹きかけて火を消そうとしたが炎は揺らいだだけだった。彼はそのマッチを捨て、別の一本を歯に挟んで噛んだ。その時、電話が鳴りだした。
ピューマ・ポイントが出ています」
 パットンの眠そうな声が聞こえてきた。「ピューマ・ポイントのパットンだが」
ロサンジェルスのマーロウです」私は言った。「覚えてますか?」
「もちろん覚えてるよ、若いの。まだ半分寝ぼけてるが」
「お願いがあります」私は言った. 「あなたに頼める筋合いではないのですが、リトルフォーン湖に行くか、使いをやるかしてキングズリーがそこにいるか調べてもらえませんか。 彼に気づかれてはいけない。小屋の外に彼の車があるか、明かりが見えるかどうかでいい。そして、彼がじっとしているように手はずする。結果が分かり次第、至急電話がほしい。すぐにそちらに向かいます。お願いできますか?」
 パットンは言った。「彼が出て行きたいのなら私に止める権利はないよ」
「ベイ・シティの警察官が一緒です。殺人のことで彼に聞きたいことがあるそうだ。 あなたの扱ってる殺人ではなく、別の殺人事件です」
 電話線からじりじりするような沈黙が伝わってくる。パットンが言った。「私をかつごうとしてるんじゃないよな、若いの?」
「ちがいます。タンブリッジ二七二二番に、電話してください」
「ざっと半時間は見ておいてもらわないとな」彼が言った。
 私は受話器を置いた。デガーモは今では薄笑いを浮かべていた。「このお嬢ちゃんは、俺の目を盗んで、お前に合図でもしてるのか?」
 私はベッドから立ち上がった。「いや。私はただ彼の心を読もうとしているだけだ。彼は冷酷な殺人鬼じゃない。一時は怒りの炎が燃え盛っていたにせよ、今はすっかり燃え尽きているはず。なら、自分の思いつく最も静かで、最も人里離れた場所に行くんじゃないかと考えたのさ。自分を取り戻すためにね。数時間もしたら自首してくるだろう。その前に逮捕するのが、あんたにはお似合いだ」
「そいつが頭に弾をぶち込まなきゃな」デガーモは冷ややかに言った。「あの手の男は、そういうことをしがちだ」
「見つけなければ、止められない」
「そういうこと」
 我々は居間に戻った。ミス・フロムセットはキチネットから頭を突き出し、コーヒーを淹れてるけど飲む? と訊いた。私たちはコーヒーを飲み、駅で友人を見送る人々のような格好で座っていた。
 パットンからの電話は、二十五分ほどでかかってきた。キングズリーの小屋には明かりが灯り、その傍には車が停まっていた。

【解説】

「刈り揃えられた芝生が、突き出た壁に斜めに配された玄関ドアまで続いている」は<A level lawn swept up to the front door, which was set diagonally into the angle of a jutting wall>。清水訳は「ていねいに刈りこまれた芝生が正面の入り口まで続いていた」とややこしい部分はカットしている。田中訳は「前につきだした壁にななめにきりこんでつけてある表のドアのところまで、前庭のたいらな芝生がつづいていた」。村上訳は「平らな芝生の庭が玄関口まで続いていた。ドアは張り出した壁とは斜めの角度に取り付けられていた」。<level lawn>を「平らな芝生」と訳すのはいただけない。

「しばらくすると、ドア上部のアーチ窓に明かりがついた」は<After a while there was light on the fan over the door>。田中訳は「ちょつとすると、入口の上の、扇形のあかり窓に電灯がつき」。清水訳は「暫くして、ドアの上のところが明るくなった」と例によって厄介なところをぼかしている。村上訳は「少ししてから、ドアの上の扇風機についた明かりが灯った」だ。

村上氏はシーリングファンのことを考えたのだろう。たしかに<fan>は「扇風機」だが、ドアの上に扇風機をつける家があるだろうか。百歩譲って玄関ホールの天井についていたとしよう。デガーモとちがってマーロウは車の中にいる。家の前には芝生の庭が広がっている。しかも玄関のドアは斜めになっている。明かり窓があったとしても内部の照明がシーリングファンだと分かるほどマーロウは遠目が利くのだろうか。

これは<fanlight>のことで、玄関ホールに外光を取り入れるためにドアの上部をアーチ形にし、そこにガラスを嵌めた明かり窓のことだ。扇形と書くと扇面を思い出すのでややこしいが、扇をしっかり開けば半円形になる。なぜ<fan>と呼ぶかといえば、多くのそれが二重の半円で構成されていて、二つの円をつなぐかたちで放射状に何本かの桟が入っている。これが扇を思い起こさせるのだろう。

「それから、彼が家を出て歩いて車に戻るあいだにアーチ窓の明かりが消え」は<Then he came out of the house and while he was walking back to the car the light went off in the fan>。清水訳は「やがて、デガーモが建物から出て、車の方角に歩いてきた。正面のドアの上の明かりが消え」。田中訳は「そして、ドガーモがでてきて、車のほうにもどつてくるあいだに、玄関の扇形のあかり窓の灯がきえ」。村上訳はここも「それから彼が家の外に出てきて、車に歩いて戻ってくるあいだに扇風機についた明かりが消えた」となっている。

「料理女は自分のだと言っている」は<The cook says it's hers>。清水訳は「コックが奥さまの車だといった」になっているが、デガーモが夫人の話をしていないので、この<her>は<the cock>を指すと考えねばならない。田中訳は「料理女(コック)の話だと、自分の車だという」。村上訳も「料理女は自分の車だと言う」だ。

「トルコ式の風呂で緊張をほぐしている最中か」は<a Turkish bath getting the kinks out of his nerves>。田中訳は「神経をやすめようと、トルコ風呂にでもはいつてるか」。清水訳は「トルコぶろで神経をおちつかせていてもふしぎはない」。村上訳は「トルコ風呂に入って溜まった緊張を解いているかもしれない」。<Turkish bath>を「トルコ風呂」と訳すのは考えものだ。今でこそ、その呼び名は使われなくなっているが、かつてはソープランドのことをそう呼んでいた歴史がある。

「彼の留守中はオフィスを掌握し、オフィスを離れたら彼の手を握っている」は<She holds the fort in his office and holds his hand out of office hours>。田中訳は「会社では、キングズリイの前哨を護り、そのほかの時は、彼の手をにぎつてる」。清水訳は「昼間は彼のオフィスを切りまわしていて、オフィス・アワーが過ぎると彼の手を握っているんだが」。村上訳は「キングズリーのオフィスでは仕事を仕切り、職場を離れれば彼を仕切っている」。<hold the fort>は「砦を守る」から転じて「留守中現状を維持する」ことだ。<hold>を使った語呂合わせだが、村上訳の「彼を仕切っている」は言い過ぎだろう。

「彼は腕を上げ、内側につけた細長い腕時計を見るために手首をきれいに回した」は<he lifted his arm and turned it neatly to look at the narrow oblong watch on the inside of his wrist>。田中訳は「クラークは腕をあげ、気取つてまげると、手首の内側の、いやにほそ長い時計に目をやつた」。清水訳は「彼は片方の腕をもちあげて器用に裏返し、手首の内がわの細長い時計を見つめた」。村上訳は「彼は腕を持ち上げ、手首の内側につけた細長い長方形の腕時計を優雅に回して、時刻を見た」。

田中訳では、腕は曲げられただけで、手首が返っていない。これでは内側にある時計は見ることができない。清水訳は「腕を(略)裏返し」としているが、腕を裏返すのはさすがに無理がある。両氏とも「長方形(英)、楕円形(米)」の二つの意味がある<oblong>をはっきりさせていないが、これは仕方がない。村上訳は「細長い長方形の腕時計」としている。ずいぶん思い切ったものだ。ただ<he lifted his arm and turned it>とあるので、回しているのは時計ではなくその前にある<arm>だろう。

「俺は警部補だ」は<I'm a police lieutenant>。田中訳は「おれは警察の者だ」。清水訳は「私は警察の人間だ」。村上訳は「警察のものだ」。わざわざ警察バッジを見せているのだから、「警察の者」であることは分かりきっている。ここは「警部補」と名乗ることで、巡査ではなく刑事であることを強調しているのだろう。生意気にも自分を引き留めたクラークに対して、マウントを取っているのだ。

「誰がこの件を仕切ってるんだ?」は<Who's running this show?>。田中訳は「だれがこのショウをやつてるんだよ?」。清水訳は「誰がこのショウをやってるんだ」。村上訳は「誰がこのショーを仕切ってるんだ?」。<run the show>は「仕事を仕切る、運営する、経営する、主導権を握る、切り回す、事を取り仕切る」という意味の慣用句。わざわざ「ショー」を持ち出す必要はない。

「電話線からじりじりするような沈黙が伝わってくる」は<There was a drumming silence along the wire>。田中訳は「しばらくのあいだ、受話器からはなんの物音もきこえてこなかつた」。清水訳は「電話線にしばらく沈黙が流れた」。村上訳は「息を呑むような沈黙が電話線の向こうから伝わってきた」。よく何かの発表の前に期待感を煽るためにスネアドラムを連打することがある。<drumming silence>とは、あの沈黙のことではないだろうか。

『湖中の女』を訳す 第三十四章

<nothing on my plate>は「何もやることがない」

34
【訳文】

 我々は部屋を出て、六一八号室とは逆方向に廊下を歩いた。開いたままのドアから明かりが漏れていた。今は二人の私服刑事がドアの外に立ち、風でも吹いてるみたいに両手を丸めて煙草を吸っている。部屋の中から言い争う声が聞こえてきた。
 廊下の角を曲がってエレベーターの前に出た。デガーモがエレベーター・シャフトの向こうにある非常用の防火扉を開け、我々はコンクリートの階段に靴音を響かせながら、何階も降りた。デガーモはロビーのある階で足をとめ、ドアノブに手をかけて耳を澄ました。そして、肩越しに振り返った。
「車はあるのか?」彼は私に訊いた。
「地下のガレージに」
「それも一案だ」
 我々は階段を降り、薄暗い地階に出た。ひょろっとした黒人が狭い事務所から出てきたので、チケットを渡した。彼はショーティの着ている警官の制服をこっそり見て、何も言わずに、クライスラーを指さした。
 デガーモはクライスラーの運転席に乗り込んだ。私はその隣に座り、ショーティは後部座席に座った。スロープを上ってひんやりと湿り気のある夜気の中に出た。一対の赤いスポットライトをつけた大型車が二ブロック向こうから我々の方に急いでやってくる。
 デガーモは車の窓からぺっと唾を吐き、クライスラーをぐいとUターンさせた。「あれはウェバーだろう」彼は言った。「また葬式に遅刻だ。まんまとやつの鼻をあかしてやったぜ、ショーティ」
「こういうのはあまり好きじゃありません、警部補。正直言って嫌です」
「元気を出せよ。これで殺人課に戻れるかもしれんぞ」
「制服を着てても、飯が食える方がいいです」勇気がみるみるうちに彼から抜けていった。
 デガーモは、十ブロックばかり車を急がせ、その後少しスピードを落とした。ショーティは落ち着かない様子で言った。
「お分かりだとは思いますが、警部補。本署に行くなら道がちがいますよ」
「そのとおりだ」デガーモは言った。「ハナからその気はない、知らなかったのか?」
 彼は車をのろのろ走らせ、同じような小さな芝生の後ろに同じように小さな家がうずくまる住宅地に入った。彼は静かにブレーキを踏み、縁石に車を寄せると、ブロックの真ん中あたりに停めた。それから、シートの背に腕をまわし、後ろを振り返ってショーティを見た。
「こいつが女を殺したと考えてるのか? ショーティ?」
「それじゃ」こわばった声でショーティは言った。
「懐中電灯は持ってるか?」
「いいえ」
 私は言った。「左側のドアポケットに入ってる」ショーティが手探りで探すと、カチッという金属音がして、懐中電灯の白い光が点灯した。デガーモが言った。
「こいつの頭の後ろを見てみろ」
 光が動き、とまった。私のうしろで小男の息づかいが聞こえ、息が首にあたった。何かが頭の腫れに触った。私はうめいた。光が消え、通りの暗闇がまた入り込んできた。
 ショーティは言った。「殴られたようですね、警部補。よく分からないな」
「女も殴られていた」デガーモは言った。「はっきりはしないが、殴られた痕があった。殴られて服を剥ぎとられ、爪で引っかかれた、殺される前にな。だから掻き傷から血が出てたんだ。そのあと絞め殺された。そして、そのどれも物音を立てなかった。なぜだろうな? それにあの部屋に電話はなかった。誰が通報したんだ、ショーティ?」
「私が知るわけないでしょう。男が電話をかけてきて、八番通りのグラナダ・アパートメントの六一八号室で 女が殺されてる、と言ったんです。あなたが来た時、リードはまだカメラマンを探していた。内勤の警官の話では、だみ声の男で、どうやら作り声らしい。名前は名乗らなかったそうです」
「それなら」デガーモは言った。「もしお前が女を殺したとして、どうやって抜け出す?」
「歩いて出ます」ショーティは言った。「おい、なぜなんだ?」彼は突然私に怒鳴った。「どうしてそうしなかったんだ?」
 私は答えなかった。デガーモが抑揚のない声で言った。「お前なら、六階建ての浴室の窓から外に出て、別の浴室の窓から、人が寝てるかもしれない見知らぬアパートに忍び込んだりしないだろう? まさか、そこの住人のふりをして、警察に通報して時間を無駄にしないだろう? 放っとけば、あの女は一週間あそこに寝てたかもしれないんだ。そんな絶好の機会を見逃すわけない、だよな、ショーティ?」
「私ならしないでしょう」ショーティは慎重に言った。「私なら通報したりしません。でも、警部補。こいつら性的犯罪者はおかしなことをするものです。我々みたいな正常者じゃありません。こいつは誰かの手を借りることもできたし、その誰かがこいつを殴り倒し、犯人に仕立てたとも考えられます」
「まさか、お前ひとりで最後の考えを思いついたわけじゃないよな」デガーモはうなった。「で、俺たちはここに座り、すべての答えを知ってるやつは一言もしゃべることなくここに座っているわけだ」彼は大きな頭を向けて私を見据えた。「あそこで何をしてたんだ?」
「覚えていない」私は言った。「頭に一発くらったことで記憶が飛んだみたいだ」
「思い出すのを手伝ってやるよ」デガーモは言った。「数マイル先にある丘で静かに星でも眺めながら思い出せば、きっと思い出せるさ」
 ショーティは言った。「それはないでしょう、警部補。本署に戻ってルールブックに書いてある通りにしませんか?」
「ルールブックなんてくそ食らえだ」デガーモは言った。「俺はこいつが気に入った。こいつとじっくり話がしてみたい。取り扱いに注意がいるんだ、ショーティ。内気なやつでな」
「俺はそんなことに関わりたくない」ショーティは言った。
「どうしたいんだ、ショーティ?」
「署に戻りたいです」
「誰も止めやしない。歩きたいのか?」
 ショーティは、しばらくの間黙っていた。「そうです」彼はようやく静かに言った。「俺は歩きたい」彼は車のドアを開け、縁石の上に足を下ろした。「分かってると思いますが、このことはすべて報告しなきゃなりません。警部補」
「いいさ」デガーモは言った。「ウェバーに頼みがあると伝えてくれ。この次、ハンバーガーを買うときは、俺のために空の皿を断るように言ってくれってな」
「何のことだか俺には分かりません」小柄な警官は言った。彼はばたんとドアを閉めた。デガーモはクラッチをつないでエンジンをかけ、初めの一ブロック半で時速四十マイルを出した。三つ目のブロックで五十マイル。ブールヴァードに出るとスピードを落として東に折れ、法定速度で走りだした。宵っ張りの車が何台か行き交ったが、世界はおおよそ、早朝の冷たい静寂の中に眠っていた。
 しばらくして市の境界を通り過ぎたあたりでデガーモが話しかけた。「さあ聞かせてもらおうか」彼はそっと言った。「解決できるかもしれん」
 車は長い坂を上りきり、やがて退役軍人病院の公園のような敷地内を縫うように走るブールヴァ―ドを下っていった。背の高い三重の電気街路灯には、夜のあいだに漂ってきた海辺の霧で暈がかかっていた。私は話し始めた。
「今夜、キングズリーが私のアパートメントを訪ねてきて、妻から電話があったと言った。彼女は至急金が欲しい。私が彼女に金を渡し、どんなトラブルにせよ、そこから助け出すという筋書きだ。私の考えは少しちがっていたがね。相手に私の見分け方を教え、八番通りとアルゲロ・ブールヴァードの角にあるピーコック・ラウンジで、時間を決めず、毎時十五分過ぎに待ち合わせる手筈だった」
 デガーモはゆっくり言った。「彼女はさっさと出て行かねばならなかった。出て行かねばならない何かがあるからだ。たとえば殺人のような」彼は軽く両手を上に揚げ、そしてまたハンドルの上に下ろした。
「彼女から電話があった数時間後、私はそこに行った。髪は茶色に染めていると聞いていた。バーから出て行く彼女とすれちがったが、彼女だと気づかなかった。生で見たことがなかったからだ。私が見たのは、かなりよく撮れたスナップ写真みたいなものだが、似ていたとも言えるし、あまり似てなかったとも言える。彼女はメキシコ人の少年を寄越して私を呼びだした。金は欲しいが話はしないという。私は彼女の話が聞きたかった。最後に、向こうも少しくらいの話は仕方がないと思ったのか、グラナダにいると教えてくれた。言いつけ通り、十分待ってから後を追った」
 デガーモは言った。「罠を仕掛けるための時間稼ぎだ」
「罠は確かにあったが、彼女が関与していたかどうか確かではない。彼女は私がそこに来ることを望まず、話もしたがらなかった。私が金を渡す前に、何か説明を求めることは分かっていたはずだから、彼女が渋ったのは、私が状況をコントロールしていると思わせるための演技だったのかもしれない。彼女は芝居がうまい。それはよく知ってる。とにかく私は行って話をした。レイヴァリーが撃たれた話をするまで、彼女の話は意味をなさなかった。それから急に話の辻褄が合うようになった。私は彼女を警察に引き渡すと言った」
 ウエストウッド・ヴィレッジは、一軒の終夜営業のガソリン・スタンドと、遠くに見えるアパートのいくつかの窓のほかは真っ暗で、我々の北側を滑るように通り過ぎた。
「で、彼女は銃を持ち出した」私は言った。「使うつもりだったんだろうが、彼女は近づきすぎた。私はヘッドロックをかけた。格闘中に、緑のカーテンの後ろから誰かが出てきて、私を殴ったんだ」
 デガーモはゆっくり言った。「誰が殴ったのか、ちらっとでも見たか?」
「いや、だが男で大男だったことはぼんやりと分かった。そう感じただけかもしれんが。そして、これがソファの上で服の中に紛れ込んでいた」私はキングズリーの黄と緑のスカーフをポケットから引っ張り出して彼の膝にかけた。「宵のうちにキングズリーが身につけていたのを見た」私は言った。
 デガーモはスカーフに目を落とした。彼はそれを計器灯の下に持ち上げた。「そうそうは忘れられないだろうな」彼は言った。「口車に乗せられたあげく、肘鉄砲を食わされたってわけだ。キングズリーだって、へえ、こいつは驚きだ。それからどうした?」
「ドアがノックされた。私はまだ頭がボーッとしていて、あまり頭が働かず、少しパニック状態だった。ジンを浴びせられ、靴も上着も剥ぎ取られた私は、たぶん女の服を引ん剥いて首でも絞めそうな見た目と臭いだったろう。そこで、浴室の窓から外に出て、そしてできる限り身なりを整えた。後は知っての通りだ」
 デガーモは言った。「なんで入り込んだところで寝てなかったんだ?」
「そんなことをしてどうなる? いくらベイ・シティの警察だって、どこから逃げ出したかすぐ見つけるさ。チャンスがあるとしたら、発見される前に歩いて出て行くことだ。もし誰にも面が割れてなければ、建物から出られる可能性はかなりあった」
「それはどうかな」デガーモは言った。「だが、満更くたびれ儲けというわけでもなかったようだな。動機についてはどう思う?」
「キングズリーはなぜ彼女を殺したのか? もし彼が殺したとするなら、動機は考えられないこともない。彼女は彼を騙してたし、多くのトラブルに巻き込んで、彼の仕事上の地位を危うくし、今度は人も殺した。また、彼女には金があり、キングズリーは別の女と結婚したがっていた。彼女が金に物を言わせて罪を逃れ、自分を笑いものにすることを恐れたのかもしれない。もし、それが駄目で刑務所に送られたら、彼女の金に手は出せなくなる。彼女を追い払うには離婚しかない。殺人の動機はいくらでもある。それに彼は私を身代わりにできた。最終的には失敗しても、捜査を混乱させ、遅らせることはできる。 もし人殺しどもが、罪から逃れられると思っていなければ、人を殺す者など、ほんのわずかだろう」
 デガーモは言った。「それでもまだ名前があがっていない別の誰かかもしれん。たとえ彼が彼女に会いにそこに行ったとしても、他の誰かが殺した可能性は残る。レイヴァリーを殺したのもその誰かかもしれない」
「もしそちらの方が君の好みならね」
 彼はこちらを向いた。「いずれにせよ俺の好みじゃない。だが、この事件を解決したら、警察委員会からの譴責処分で済むんだ。解決できなきゃヒッチハイクで街を出ることになる。俺がばかだと言ったな。そうだ、俺はばかだ。キングズリーはどこに住んでる? そんな俺でも知ってることが一つある。相手に口を割らせる方法だ」
「ビヴァリーヒルズ、カーソンドライブ、九六五。五ブロックほど先で北に曲がり、山麓に向かう。サンセット・ブールヴァードのすぐ下の左側だ。行ったことはないが、ブロック番号がどうなってるかは知っている」
 彼は緑と黄色のスカーフを私に手渡した。「それをポケットにしまっとけ、 彼に見せびらかしたくなるまでな」

【解説】

「我々は部屋を出て」は<We went out of the apartment>。田中訳は「おれたちは部屋からでて」。清水訳は「私たちは部屋を出て」。村上訳は「我々はアパートメントを出て」と訳しておきながら、同じパラグラフ内の最後の文<There was a sound of wrangling voices from the apartment>は「部屋の中からは言い争うような声が聞こえてきた」と< the apartment>を「部屋」と訳している。こだわりがあるのかないのかよく分からない。

「シートの背に腕をまわし、後ろを振り返ってショーティを見た」は<threw an arm over the back of the seat and turned his head to look back at Shorty>。田中訳は「うしろのドアをあけ、頭を回して、ショーリイ(ママ)を見た」。清水訳は「座席のうしろに腕を投げかけ、頭をうしろに向けてショーティを見返った」。村上訳は「シートの背中に片腕をまわし、首を曲げてショーティーを振り返った」。

車をバックさせるときにとる姿勢なのだが、逐語訳にこだわるあまり、不自然な日本語になっている。田中訳は前半のミスがなければ問題はない。清水訳は「頭をうしろに向け」と「見返る」がダブっている。村上訳の「首を曲げて」には無理がある。<turn one's head to look back〜>は「(〜を見ようと)後ろを振り向く」ことで、首を曲げたのではなく頭を回しているのだ。

「その誰かがこいつを殴り倒し、犯人に仕立てたとも考えられます」は<the other guy could have knocked him out to put him in the middle>。田中訳は「ことの最中に、相棒がこいつをぶんなぐつたのかもしれんし……」。清水訳は「その男が彼を殴り倒して、うまく立場をつくろったのかもしれません」。村上訳は「そいつがこの男の頭をどやし、現場に置き去りにしたのかもしれませんよ」。

<put him in the middle>は「彼を真っ只中に置く」という意味だ。文脈に沿って訳すなら「(殺人現場の)真っ只中に置く」ことは「犯人だと思わせる」ことに他ならない。田中訳は<in the middle>を「ことの最中に」ととり、<put him>を見逃している。清水訳は<pig in the middle>(二つの立場の板挟みになっている人)の意味にとっている節がある。
村上訳は犯罪の遂行から逃走に至る時間的推移の「半ば」(in the middle)に置き去りにしたという解釈だろう。

「ウェバーに頼みがあると伝えてくれ。この次、ハンバーガーを買うときは、俺のために空の皿を断るように言ってくれってな」は<Tell Webber I was asking for him. Next time he buys a hamburger, tell him to turn down an empty plate for me>。田中訳は「おれがあいたがつてた、とウェバーにいつてくれ。そして、今度ハンバーガーをおごつてくれる気になつても、おれには、カラの皿のほうがいいつてな」。

清水訳は「ウェバーにいってくれ。俺が来てもらいたいといっていたとな。こんどハンバーガーを買うときは、からの皿を俺によこさないように断ってくれとな」。村上訳は「それからウェバーにひとつ頼みを伝えておいてくれ。この次ハンバーガーを買うときには、おれのために空の皿はもらってくれなくていいってな」。

これはちょっと分かりにくいので、註が必要なところだ。<plate>を使ったスラングに<I have nothing on my plate>というのがあって「何もやることがない」という意味だ。<empty plate>も同じことだろう。つまり、ウェバーの皿の上にはハンバーガーがのっている(やることがある)のに、自分は停職中(やることがない)であることを<empty plate>を使って喩えている訳だ。ショーティに通じなくても、ウェバーには分かるのだろう。

「口車に乗せられたあげく、肘鉄砲を食わされたってわけだ」は<It steps right up and smacks you in the eye>。田中訳は「一目見ただけで、目の玉のなかにとびこんでくるような派手な柄だから……」。清水訳は「当分のあいだ、忘れっこない」。両氏ともにスカーフの色柄のことだとしているが、村上訳は「そいつはやってきて、お前の頭をどやしたんだな」と、大男の話にしている。果たしてそうだろうか?

<step right up>は、パーティーなんかでパフォーマンスを始める前に、人を前に集めるときにかける決まり文句。「ここに集まって」「いらっしゃい」「さあ、前につめて」のような意味。<smack in the eye>は、目の前で戸をぴしゃっと締めるように「(申し出などに対する)拒絶」や「出鼻をくじかれる」ことを意味する。常套句を並べることで、うかうかと誘い文句に乗ってドジを踏んだマーロウのことを揶揄っているのではないだろうか。

『湖中の女』を訳す 第三十三章

< a double silver frame>は「二重」ではなく「二つ折り」のフレーム

33
【訳文】

 闇の中に下り、手探りでドアのところまで行き、ドアを開けて耳を澄ました。北向きの窓から漏れる月明かりでツインベッドが見えた。ベッドメイクされていたが、空っぽだった。壁収納ベッドではない。こちらの部屋の方が広かった。ベッドを通り過ぎ、別のドアから居間に入った。どちらの部屋も閉めきられていて黴臭かった。手探りでスタンドを探してスイッチを入れた。指を木のテーブルの縁に走らせた。薄い埃の膜ができていた。きれいに掃除をした部屋であっても、閉め切ったままでいるとこんなふうに埃がたまるものだ。
 部屋には、書斎用大卓、大型床上ラジオ、煉瓦や漆喰を運ぶ長い棒のついた箱のような造りの書見台、カバーがついたままの小説が詰まった大きな書棚、黒っぽい木の高脚付き箪笥があり、その上にはサイフォンとカットグラスの酒瓶、インド風の真鍮のトレイに伏せた縞柄のグラスが四つ載っている。その傍に、二つ折りの銀のフレームに入ったペアの写真がある。中年というにはやや若い男女で、丸い健康的な顔と明るい目をしている。二人は私がそこにいることを全く気にしていないかのように、私を見つめていた。
 酒の匂いを嗅いだら、スコッチだったので、いくらか頂戴した。頭には少々こたえたが、それ以外は楽になった。寝室の灯りをつけ、クローゼットの中を探った。そのうちのひとつには、男物の注文服がずらりと並んでいた。上着の内ポケットの仕立屋のラベルで、持ち主の名前はH・G・タルボットと判明した。寝室用箪笥の中をひっかきまわして柔らかい青いシャツを見つけた。私には少し小さそうだった。それを手に浴室に入り、服を脱ぎ、顔と胸を洗い、濡れたタオルで髪を拭き、青いシャツを着た。タルボット氏の少々しつこいヘアトニックをたっぷり髪に振りかけ、彼のブラシと櫛で整えた。そのころには、ジンの匂いはかなり薄らいでいた。
 シャツの一番上のボタンがはまらないので、また箪笥を探ってダーク・ブルーのクレープ地のネクタイを見つけ、首に巻いた。元通りに自分の上着を着て鏡に映る自分を見た。その服から察するに、タルボット氏は服装に気を配るほうらしいが、こんな夜更けにしては、私は少しきちんとし過ぎているように見えた。あまりにきちんとし過ぎていて、素面すぎた。
 私は髪を少しくしゃくしゃにして、ネクタイを引っ張り、ウイスキーのデキャンタのところに戻り、素面になりすぎないようにできるだけのことをした。私はタルボット氏の煙草に火をつけ、タルボット夫妻がどこにいるにせよ、私よりずっと楽しい時間を過ごしていることを願った。私も彼らを訪ねることができるくらい長生きしたいものだ、と思った。
 私は居間のドアまで行った。廊下に面した方だ。それを開けて通路に凭れて煙草を吸った。うまくいくとは思えなかった。 しかし、私の足跡をたどって窓からやってくるやつらを指をくわえて待っているよりはましだ。
 廊下の少し先で男が咳をするのが聞こえ、頭をもっと突き出すと、男がこちらを見た。それから足早にこちらに歩いてきた。きちんとプレスされた警察の制服を着た抜け目なさそうな小男だ。 赤みがかった髪と赤金色の目をしていた。
 私は欠伸をしながら気だるげに言った。「どうしたんですか。お巡りさん?」
 彼は思案気に私を見つめた。
「隣の部屋でちょっとトラブルがあってね。何か聞かなかったか?」
「ノックの音が聞こえた気がする。少し前に帰ってきたんだ」
「ずいぶん遅いじゃないか」彼は言った。
「見解の相違ってやつだな」私は言った。「隣で何かあったのか?」
「女だ」彼は言った。「知ってるかい?」
「見たことはあると思う」
「そうか」彼は言った。「見るなら今だぜ…」彼は両手を喉に当て、目を剥き出し、不快そうに息を呑んだ。「こんな具合だ」彼は言った。「何も聞いてないのか、え?」
「何も聞いてない。ノックの他にはな」
「ふうん。名前は何と言うんだ?」
「タルボット」
「ちょっと待っててくれ、タルボットさん。 ここで、ほんのちょっとだけ」
 彼は廊下を歩いて行って、明かりが漏れている開いた戸口に首を突っ込んだ。「警部補」彼は言った。「隣に住んでる男がいました」 
 長身の男が戸口から出てきて、廊下に突っ立って真っすぐ私を見ていた。 くすんだ髪に青い、とても青い目をした長身の男。 デガーモ。 申し分のない展開だ。
「これが隣の住人です」小柄できちんとした身なりの警官が助け舟を出すように言った。「名前はタルボット」
 デガーモはまっすぐに私を見たが、アシッド・ブルーの目にはこれまで私を見たことがあるという気配は何も見えなかった。彼は静かに廊下をやってきて、厳しく片手を私の胸に当て、部屋に押し戻した。ドアから六フィートほど入ったところで、肩越しに言った。
「中に入ってドアを閉めろ、ショーティ」
 小柄な警官は入ってきてドアを閉めた。
「とんだギャグだ」デガーモはうんざりしたように言った。「こいつに銃を向けろ、ショーティ」
 ショーティは腰の黒いホルスターを弾いて開け、あっという間に三八口径を手にした。それから、舌なめずりした。
「なんてこった」彼は低い声で言い、軽く口笛を吹いた。「こいつは驚いた。どうして分かったんですか、警部補?」
「分かったとは、何がだ?」デガーモが訊いた。目は私に釘付けだ。「どうするつもりだったんだ? 女が死んだかどうか 確かめるために新聞でも買いに行こうとしてたのか?」
「なんてこった」ショーティは言った。「性的殺人者か。こいつが女の服を脱がせて両手で首を絞めたんだ。警部補、どうして分かったんですか?」
 デガーモは何も答えなかった。彼はただそこに突っ立って、踵に体重をかけて少し体を揺らしていたが、表情はうつろで花崗岩のように固かった。
「ああ、きっとこいつが犯人だ」ショーティが急に言った。 「警部補、この空気の匂いを嗅いでみてください。 何日も換気してない。そこの本棚の埃もそうだ。マントルピースの上の時計も止まってます。すると、こいつは ――ちょっと見てもいいですか。警部補?」
 彼は部屋を飛び出して寝室へ入った。彼が歩き回っているのが聞こえた。デガーモは無表情に立っていた。
 ショーティが戻ってきた。「浴室の窓から入ったんです。浴槽にガラスの破片がありました。それと何か、ジンの匂いがするひどく臭い物がありました。あの部屋に入ったとき、ジンの匂いがしたでしょう? シャツですよ、警部補。ジンで洗ったみたいな匂いがします」
 彼はシャツを掲げた.。あっという間に部屋中にジンの匂いが広がった.。デガーモはぼんやりとそれを見ていたが、一歩前に出て、私の上着の前をぐいとはだけ、着ているシャツを見た。
「どうやったかわかっています」とショーティは言った。「こいつはここに住んでいる男のシャツを盗んだんだ。そうでしょう、警部補?」
「ああ」デガーモは私の胸に当てていた手を、ゆっくりと降ろした。彼らは、私のことをまるで木の切れっ端のように話していた。
「体を探れ、ショーティ」
 ショーティは私の周りをぐるぐる回って、銃を持っていないかどうかあちこち探った。「何も持ってません 」彼は言った。
「裏口から連れ出そう」デガーモは言った。 「ウェバーが来る前に身柄を押さえたら、こいつは俺たちだけの手柄になる。リードの野郎は靴箱の中の蛾も見つけられんだろう」
「あなたは事件について何も聞かされちゃいないんでしょう」ショーティは疑わしそうに言った。 「停職になっているとか聞いたんですが、ちがいますか?」
「何がどうだっていうんだ?」デガーモは訊いた。「俺が停職中だとしたら?」
「この制服が着られなくなるかもしれないんですよ」ショーティは言った。
 デガーモはうんざりしたような顔で彼を見つめた。小柄な警官は顔を赤らめ、赤身がかった金色の瞳は不安げだった。
「オーケイ、ショーティ。行って、リードに報告してこい」
 小柄な警官は唇を舐めた。「分かりました、警部補。おっしゃる通りにします。あなたが停職になったことを、私は知らなかったことにしときます」
「二人でやっつけちまおう。俺たち二人だけで」デガーモは言った。
「そうしましょう」
 デガーモは私の顎に指を当てた. 「性的殺人者」彼は静かに言った。 「いや、こいつは驚いた」 彼は幅の広い残忍な口の端だけをほんの少し動かし、私に薄笑いを浮かべた。

【解説】

「書斎用大卓、大型床上ラジオ、煉瓦や漆喰を運ぶ長い棒のついた箱のような造りの書見台」は<a library dining table, an armchair radio, a book rack built like a hod>。田中訳は「ふつうの机としてもつかえる食卓と、レンガやしつくい(傍点四字)などをいれて肩にかけるおいこ(傍点三字)みたいな書架」。清水訳は「書斎用の食卓、石炭入れのかたちにつくられた本立て」と、どちらもラジオが抜けている。村上訳は「書き物机にもなるダイニング・テーブルがあり、安楽椅子つきのラジオがあり、石炭入れのような造りの本棚があり」。

まず<library dining table>。ダイニング・テーブルはいいとして、ライブラリー・テーブルというものはあるのかというと、これがある。十九世紀英国の貴族などが愛用した、読書や書き物に使う天板の広い引出し付きの机のことだ。<armchair detective>が「安楽椅子つき探偵」でないように<armchair radio>は「安楽椅子つきのラジオ」ではない。これは、肘掛椅子の横に置いて使用する大型の床置きラジオのことで<armchair radio>で画像検索をかけると実物の写真を見ることができる。

「石炭入れ」と訳されている<hod>だが、これも画像検索で見ることができる。田中訳はまさにそれを説明している。要は、物をのせる蓋のない箱のようなものだが、煉瓦を隙間なく安定して積めるように、底面が直角のV字状になっていて、そこに長い棒がついている。V字型の底面に長い棒がついているところがミソだ。部屋には、他に「大きな書棚」<a big bookcase>があると書かれているので、こちらは大判の書籍を開いておける譜面台のような形状の書見台ではないだろうか。

「その傍に、二つ折りの銀のフレームに入ったペアの写真がある」は<Besides this paired photographs in a double silver frame>。田中訳は「そのそばには、対になつた、二重の銀枠の写真が立ててある」。清水訳は「そのかたわらに、二重の銀の額縁に入った(略)対の写真があった」。村上訳は「隣には二重の銀のフレームに入った、一対の写真があった」。

<paired photographs>とあるからには、写真は二枚、< a double silver frame>とあるので、フォト・フレームは一つである。問題は三氏が「二重」と訳した<double>にある。ペアの写真二枚を入れてあるのだから、これは衝立のように二つ折りに蝶番でつながった写真立てと考えられる。グラスの横にあるのだから、壁にかかっているわけではない。二つ折りのフォト・フレームと考えれば納得がいく。

「軽く口笛を吹いた」は<whistling a little>。田中訳は「ヒュッとみじかく口笛をふくと」。清水訳は「口笛を短く吹いて」。村上訳は「とショーティーは言った」だけで、この部分を落としている。

「それと何か、ジンの匂いがするひどく臭い物がありました」は<And something stinks of gin in there something awful>。田中訳は「それに、ジンの匂いがプンプンするんです」。清水訳は「それから、ジンのような匂いがぷんぷんしてます」。両氏は<something>が二度使われているのを見落としている。<something stinks of gin >は「ジンの匂いのする、何か、あるもの」という意味で実体を持つ。村上訳は「そしてひどいジンの匂いのするものも浴槽の中にありました」。

「行って、リードに報告してこい」は<Go and tell Reed>。田中訳は「警部のところにいつて、報告しろよ」。清水訳は「行って、リードにいって来い」。村上訳は「警部にご注進してこいよ」。このリードを田中氏はウェバー警部と同一人物だと勘違いしている。その前のところで「あほ、のろま(米俗)」を意味する<lug>を冠して<lug Reed>と呼ばれているのを見ても、やり手のウェバー警部とは別人だ。おそらくショーティの直属の上司だろう。清水訳は「リード」に直っているのに、村上訳が「警部」に戻しているのが解せない。

「彼は幅の広い残忍な口の端だけをほんの少し動かし」は<moving only the extreme corners of his wide brutal mouth>。田中訳は「大きな、残忍そうな口のはしを、ほんのちょつぴりうごかして」。清水訳は「冷酷そうな厚い口の端だけが動いた」。村上訳は「彼はその酷薄な口のいちばん端っこを微かに動かし」。清水氏は<wide>を唇の暑さと取りちがえている。村上氏は口の大きさには無関心なようだ。

『湖中の女』を訳す 第三十三章

< a double silver frame>は「二重」ではなく「二つ折り」のフレーム

33
【訳文】

 闇の中に下り、手探りでドアのところまで行き、ドアを開けて耳を澄ました。北向きの窓から漏れる月明かりでツインベッドが見えた。ベッドメイクされていたが、空っぽだった。壁収納ベッドではない。こちらの部屋の方が広かった。ベッドを通り過ぎ、別のドアから居間に入った。どちらの部屋も閉めきられていて黴臭かった。手探りでスタンドを探してスイッチを入れた。指を木のテーブルの縁に走らせた。薄い埃の膜ができていた。きれいに掃除をした部屋であっても、閉め切ったままでいるとこんなふうに埃がたまるものだ。
 部屋には、書斎用大卓、大型床上ラジオ、煉瓦や漆喰を運ぶ長い棒のついた箱のような造りの書見台、カバーがついたままの小説が詰まった大きな書棚、黒っぽい木の高脚付き箪笥があり、その上にはサイフォンとカットグラスの酒瓶、インド風の真鍮のトレイに伏せた縞柄のグラスが四つ載っている。その傍に、二つ折りの銀のフレームに入ったペアの写真がある。中年というにはやや若い男女で、丸い健康的な顔と明るい目をしている。二人は私がそこにいることを全く気にしていないかのように、私を見つめていた。
 酒の匂いを嗅いだら、スコッチだったので、いくらか頂戴した。頭には少々こたえたが、それ以外は楽になった。寝室の灯りをつけ、クローゼットの中を探った。そのうちのひとつには、男物の注文服がずらりと並んでいた。上着の内ポケットの仕立屋のラベルで、持ち主の名前はH・G・タルボットと判明した。寝室用箪笥の中をひっかきまわして柔らかい青いシャツを見つけた。私には少し小さそうだった。それを手に浴室に入り、服を脱ぎ、顔と胸を洗い、濡れたタオルで髪を拭き、青いシャツを着た。タルボット氏の少々しつこいヘアトニックをたっぷり髪に振りかけ、彼のブラシと櫛で整えた。そのころには、ジンの匂いはかなり薄らいでいた。
 シャツの一番上のボタンがはまらないので、また箪笥を探ってダーク・ブルーのクレープ地のネクタイを見つけ、首に巻いた。元通りに自分の上着を着て鏡に映る自分を見た。その服から察するに、タルボット氏は服装に気を配るほうらしいが、こんな夜更けにしては、私は少しきちんとし過ぎているように見えた。あまりにきちんとし過ぎていて、素面すぎた。
 私は髪を少しくしゃくしゃにして、ネクタイを引っ張り、ウイスキーのデキャンタのところに戻り、素面になりすぎないようにできるだけのことをした。私はタルボット氏の煙草に火をつけ、タルボット夫妻がどこにいるにせよ、私よりずっと楽しい時間を過ごしていることを願った。私も彼らを訪ねることができるくらい長生きしたいものだ、と思った。
 私は居間のドアまで行った。廊下に面した方だ。それを開けて通路に凭れて煙草を吸った。うまくいくとは思えなかった。 しかし、私の足跡をたどって窓からやってくるやつらを指をくわえて待っているよりはましだ。
 廊下の少し先で男が咳をするのが聞こえ、頭をもっと突き出すと、男がこちらを見た。それから足早にこちらに歩いてきた。きちんとプレスされた警察の制服を着た抜け目なさそうな小男だ。 赤みがかった髪と赤金色の目をしていた。
 私は欠伸をしながら気だるげに言った。「どうしたんですか。お巡りさん?」
 彼は思案気に私を見つめた。
「隣の部屋でちょっとトラブルがあってね。何か聞かなかったか?」
「ノックの音が聞こえた気がする。少し前に帰ってきたんだ」
「ずいぶん遅いじゃないか」彼は言った。
「見解の相違ってやつだな」私は言った。「隣で何かあったのか?」
「女だ」彼は言った。「知ってるかい?」
「見たことはあると思う」
「そうか」彼は言った。「見るなら今だぜ…」彼は両手を喉に当て、目を剥き出し、不快そうに息を呑んだ。「こんな具合だ」彼は言った。「何も聞いてないのか、え?」
「何も聞いてない。ノックの他にはな」
「ふうん。名前は何と言うんだ?」
「タルボット」
「ちょっと待っててくれ、タルボットさん。 ここで、ほんのちょっとだけ」
 彼は廊下を歩いて行って、明かりが漏れている開いた戸口に首を突っ込んだ。「警部補」彼は言った。「隣に住んでる男がいました」 
 長身の男が戸口から出てきて、廊下に突っ立って真っすぐ私を見ていた。 くすんだ髪に青い、とても青い目をした長身の男。 デガーモ。 申し分のない展開だ。
「これが隣の住人です」小柄できちんとした身なりの警官が助け舟を出すように言った。「名前はタルボット」
 デガーモはまっすぐに私を見たが、アシッド・ブルーの目にはこれまで私を見たことがあるという気配は何も見えなかった。彼は静かに廊下をやってきて、厳しく片手を私の胸に当て、部屋に押し戻した。ドアから六フィートほど入ったところで、肩越しに言った。
「中に入ってドアを閉めろ、ショーティ」
 小柄な警官は入ってきてドアを閉めた。
「とんだギャグだ」デガーモはうんざりしたように言った。「こいつに銃を向けろ、ショーティ」
 ショーティは腰の黒いホルスターを弾いて開け、あっという間に三八口径を手にした。それから、舌なめずりした。
「なんてこった」彼は低い声で言い、軽く口笛を吹いた。「こいつは驚いた。どうして分かったんですか、警部補?」
「分かったとは、何がだ?」デガーモが訊いた。目は私に釘付けだ。「どうするつもりだったんだ? 女が死んだかどうか 確かめるために新聞でも買いに行こうとしてたのか?」
「なんてこった」ショーティは言った。「性的殺人者か。こいつが女の服を脱がせて両手で首を絞めたんだ。警部補、どうして分かったんですか?」
 デガーモは何も答えなかった。彼はただそこに突っ立って、踵に体重をかけて少し体を揺らしていたが、表情はうつろで花崗岩のように固かった。
「ああ、きっとこいつが犯人だ」ショーティが急に言った。 「警部補、この空気の匂いを嗅いでみてください。 何日も換気してない。そこの本棚の埃もそうだ。マントルピースの上の時計も止まってます。すると、こいつは ――ちょっと見てもいいですか。警部補?」
 彼は部屋を飛び出して寝室へ入った。彼が歩き回っているのが聞こえた。デガーモは無表情に立っていた。
 ショーティが戻ってきた。「浴室の窓から入ったんです。浴槽にガラスの破片がありました。それと何か、ジンの匂いがするひどく臭い物がありました。あの部屋に入ったとき、ジンの匂いがしたでしょう? シャツですよ、警部補。ジンで洗ったみたいな匂いがします」
 彼はシャツを掲げた.。あっという間に部屋中にジンの匂いが広がった.。デガーモはぼんやりとそれを見ていたが、一歩前に出て、私の上着の前をぐいとはだけ、着ているシャツを見た。
「どうやったかわかっています」とショーティは言った。「こいつはここに住んでいる男のシャツを盗んだんだ。そうでしょう、警部補?」
「ああ」デガーモは私の胸に当てていた手を、ゆっくりと降ろした。彼らは、私のことをまるで木の切れっ端のように話していた。
「体を探れ、ショーティ」
 ショーティは私の周りをぐるぐる回って、銃を持っていないかどうかあちこち探った。「何も持ってません 」彼は言った。
「裏口から連れ出そう」デガーモは言った。 「ウェバーが来る前に身柄を押さえたら、こいつは俺たちだけの手柄になる。リードの野郎は靴箱の中の蛾も見つけられんだろう」
「あなたは事件について何も聞かされちゃいないんでしょう」ショーティは疑わしそうに言った。 「停職になっているとか聞いたんですが、ちがいますか?」
「何がどうだっていうんだ?」デガーモは訊いた。「俺が停職中だとしたら?」
「この制服が着られなくなるかもしれないんですよ」ショーティは言った。
 デガーモはうんざりしたような顔で彼を見つめた。小柄な警官は顔を赤らめ、赤身がかった金色の瞳は不安げだった。
「オーケイ、ショーティ。行って、リードに報告してこい」
 小柄な警官は唇を舐めた。「分かりました、警部補。おっしゃる通りにします。あなたが停職になったことを、私は知らなかったことにしときます」
「二人でやっつけちまおう。俺たち二人だけで」デガーモは言った。
「そうしましょう」
 デガーモは私の顎に指を当てた. 「性的殺人者」彼は静かに言った。 「いや、こいつは驚いた」 彼は幅の広い残忍な口の端だけをほんの少し動かし、私に薄笑いを浮かべた。

【解説】

「書斎用大卓、大型床上ラジオ、煉瓦や漆喰を運ぶ長い棒のついた箱のような造りの書見台」は<a library dining table, an armchair radio, a book rack built like a hod>。田中訳は「ふつうの机としてもつかえる食卓と、レンガやしつくい(傍点四字)などをいれて肩にかけるおいこ(傍点三字)みたいな書架」。清水訳は「書斎用の食卓、石炭入れのかたちにつくられた本立て」と、どちらもラジオが抜けている。村上訳は「書き物机にもなるダイニング・テーブルがあり、安楽椅子つきのラジオがあり、石炭入れのような造りの本棚があり」。

まず<library dining table>。ダイニング・テーブルはいいとして、ライブラリー・テーブルというものはあるのかというと、これがある。十九世紀英国の貴族などが愛用した、読書や書き物に使う天板の広い引出し付きの机のことだ。<armchair detective>が「安楽椅子つき探偵」でないように<armchair radio>は「安楽椅子つきのラジオ」ではない。これは、肘掛椅子の横に置いて使用する大型の床置きラジオのことで<armchair radio>で画像検索をかけると実物の写真を見ることができる。

「石炭入れ」と訳されている<hod>だが、これも画像検索で見ることができる。田中訳はまさにそれを説明している。要は、物をのせる蓋のない箱のようなものだが、煉瓦を隙間なく安定して積めるように、底面が直角のV字状になっていて、そこに長い棒がついている。V字型の底面に長い棒がついているところがミソだ。部屋には、他に「大きな書棚」<a big bookcase>があると書かれているので、こちらは大判の書籍を開いておける譜面台のような形状の書見台ではないだろうか。

「その傍に、二つ折りの銀のフレームに入ったペアの写真がある」は<Besides this paired photographs in a double silver frame>。田中訳は「そのそばには、対になつた、二重の銀枠の写真が立ててある」。清水訳は「そのかたわらに、二重の銀の額縁に入った(略)対の写真があった」。村上訳は「隣には二重の銀のフレームに入った、一対の写真があった」。

<paired photographs>とあるからには、写真は二枚、< a double silver frame>とあるので、フォト・フレームは一つである。問題は三氏が「二重」と訳した<double>にある。ペアの写真二枚を入れてあるのだから、これは衝立のように二つ折りに蝶番でつながった写真立てと考えられる。グラスの横にあるのだから、壁にかかっているわけではない。二つ折りのフォト・フレームと考えれば納得がいく。

「軽く口笛を吹いた」は<whistling a little>。田中訳は「ヒュッとみじかく口笛をふくと」。清水訳は「口笛を短く吹いて」。村上訳は「とショーティーは言った」だけで、この部分を落としている。

「それと何か、ジンの匂いがするひどく臭い物がありました」は<And something stinks of gin in there something awful>。田中訳は「それに、ジンの匂いがプンプンするんです」。清水訳は「それから、ジンのような匂いがぷんぷんしてます」。両氏は<something>が二度使われているのを見落としている。<something stinks of gin >は「ジンの匂いのする、何か、あるもの」という意味で実体を持つ。村上訳は「そしてひどいジンの匂いのするものも浴槽の中にありました」。

「行って、リードに報告してこい」は<Go and tell Reed>。田中訳は「警部のところにいつて、報告しろよ」。清水訳は「行って、リードにいって来い」。村上訳は「警部にご注進してこいよ」。このリードを田中氏はウェバー警部と同一人物だと勘違いしている。その前のところで「あほ、のろま(米俗)」を意味する<lug>を冠して<lug Reed>と呼ばれているのを見ても、やり手のウェバー警部とは別人だ。おそらくショーティの直属の上司だろう。清水訳は「リード」に直っているのに、村上訳が「警部」に戻しているのが解せない。

「彼は幅の広い残忍な口の端だけをほんの少し動かし」は<moving only the extreme corners of his wide brutal mouth>。田中訳は「大きな、残忍そうな口のはしを、ほんのちょつぴりうごかして」。清水訳は「冷酷そうな厚い口の端だけが動いた」。村上訳は「彼はその酷薄な口のいちばん端っこを微かに動かし」。清水氏は<wide>を唇の暑さと取りちがえている。村上氏は口の大きさには無関心なようだ。

『湖中の女』を訳す 第三十二章

<viaduct>は跨線橋ではなく高架橋。実在するポスターの汽車は橋の上を走っている。

【訳文】

32

 ジンの匂いがした。冬の朝ベッドから出るために四、五杯引っかけたというようなさり気ないものでなく、太平洋が生のジンで、ボート・デッキから飛び降りたような匂いだった。髪から眉、顎の上から顎の下までジンを浴び、シャツにもしみていた。私は死んだ蟇蛙のような匂いがしていた。
 上着を脱いで、ソファの傍に敷かれた誰かの絨毯の上に仰向けに転がり、額縁に入った絵を見ていた。額縁は安物の針葉樹にニスを塗ったもので、絵は途方もなく高い淡黄色の高架橋の一部を描いており、その上を黒光りする機関車がプルシアン・ブルーの列車を牽いて走っている。聳え立つ高架橋のひとつのアーチの向こうに、黄色い砂浜が広がり、あちらこちらに海水浴客が寝そべり、縞模様のビーチパラソルが立っていた。紙の日傘をさした三人の女の子が近くを歩いていて、一人はさくらんぼ色、一人は淡い青色、もう一人は緑色だ。砂浜の向こうの湾曲した入り江は、こんなに青い入り江があってもいいのかと思えるほど青かった。陽が降り注ぎ、風を孕んだ白い帆が斑点のように散らばっていた。湾曲した入り江の内陸の向こうには三つの丘陵が、際立って対照的な色で聳えていた。ゴールドとテラコッタ、そしてラベンダーだ。
 絵の下には、大きな大文字で「青列車に乗ってフレンチ・リヴィエラへ行こう」と印刷されていた。
 その話を持ち出すには絶妙のタイミングだった。
 私はそろそろと手を伸ばし、頭の後ろを触った。ふわふわした感じだった。手を触れた部位から足の裏まで激痛が走った。私はうめき声をあげ、辛うじてそれを唸り声にすり替えた。専門家としての誇りのなせるわざだ――そんなものがまだ残っていたとすればだが。私はゆっくりと慎重に寝返りを打ち、引き下ろされたベッドの足を見た。ツインの一つで、もう一方はまだ壁に収まったままだった。塗装された木に施された華やかなデザインに見覚えがあった。絵の方はずっとソファの上にかかっていたのに、眼中になかった。
 身をよじると、ジンの四角い瓶が胸から床に転げ落ちた。無色透明の瓶で、空っぽだった。たった一本の瓶の中に、これほど多量のジンが入っているなんて、ありえないことのように思えた。
 膝をついて四つん這いになり、しばらくじっとしていた。食べきれない餌に未練を残した犬が、餌を残して立ち去り難く、鼻をくんくん鳴らすように。首の上で頭を動かしてみた.。痛かった。 さらに動かしてみてもまだ痛かった。やっとのことで立ち上がると、靴を履いていないことに気づいた。
 靴は、かつてないほどくたびれ果てた格好で幅木のところにころがっていた。よれよれになって靴を履いた。私はもう老人だった。最後の長い坂を下っていた。だが、私にはまだ歯が残っていた。舌の先で探った。ジンの味はしないようだった。
「このお返しはきっとさせてもらう」私は言った。「いつかそっくりそのままお返しするよ。そしてそれはきっとお前の気に入るものではないだろう」
 開いた窓際にスタンドがあった。分厚い緑色のソファがあった。開口部には緑のカーテンがかかっていた。緑のカーテンを背にして座っちゃいけない。いつもきっとまずいことになる。いつも何かが起こる。誰に向かってそんなことを言ったのだろう。銃を持った若い女。表情というものを全く欠いた顔、金髪だったはずのダークブラウンの髪をした若い女
 私は彼女を探しまわった。彼女はまだそこにいた。引き下ろされたツインベッドの上に横たわっていた。
 タン・カラーのストッキングだけを身につけ、あとは何も着ていなかった。髪は乱れている。喉には黒い痣があった。口は開いていて、腫れ上がった舌がその口をいっぱいに満たしていた。両眼は膨れあがり、白目は白くなかった。
 剥き出しの腹を横切る四つの怒りの引っ掻き傷が白い肌に深紅の流し目をくれていた。激しい怒りによる傷痕だ。四本の非情な爪で抉られている。
 ソファの上に服がくしゃくしゃにまるまっていて、ほとんどが彼女のものだ。私の上着もそこにあった。中から引っ張り出して上着を着た。丸められた服の中に突っ込んだ手の下で何かがかさこそと音を立てた。長い封筒を引っ張り出すと、中にはまだ金が入っていた。私はそれをポケットに入れた。マーロウ、五百ドルだ。そっくりそのままであることを願った。それ以外に、たいして願うこともなさそうだった。
 薄氷の上を歩くように、そっと足の親指の付け根の部分を踏み出した。膝の裏を揉もうと屈んだら、膝と頭、どちらが痛むんだろう。
 どたどたという足音が廊下を進んできて、ぶつぶつ呟く声がした。足音が止まった。拳でドアを激しく叩く音がした。
 私は唇を歯にぴったりと寄せて、ドアの前でにらみを利かせて立っていた。誰かがドアを開けて入ってくるのを待った。ノブは回されたが、誰も入ってこなかった。ノックがまた始まり、止まった。また呟きが聞こえた。足音は遠ざかった。管理人が合い鍵を持ってくるまでどれくらいかかるだろうか。そう長くはかかるまい。
 マーロウがフレンチ・リビエラから家に帰り着けるほど時間の余裕はない。
 緑色のカーテンのところに行き、カーテンを横に引いて浴室に通じる暗くて短い廊下を見下ろした。中に入って灯りをつけた。床に敷物が二枚、浴槽の端に畳まれたバスマット、浴槽の隅に石目ガラスが嵌った窓。バスルームのドアを閉め、浴槽の縁に立ち、窓をそっとおし上げた。ここは六階だった。網戸は嵌っていない。頭を外に突き出し、闇の中をのぞき込んだら、並木通りがちらっと見えた。横に目をやると、隣の部屋の浴室の窓まで三フィートも離れていない。栄養の良いシロイワヤギなら難なくやってのけるだろう。問題は、ぼろぼろの私立探偵にできるかどうか、もしできたとして、見返りは何かということだった。
 背後のかなり遠くの方で、かすれた声がした。警官の唱える決まり文句のようだ。「開けろ、さもないと蹴破るぞ」私は鼻で笑った。誰が蹴るものか。ドアなんか蹴ったら足に負担がかかる。警官は足を気遣う。警官が気遣うのは自分の足くらいのものだ。
 私はタオル掛けからタオルをひっつかみ、二枚の上げ下げ窓を引っ張り下ろし、そっと敷居の上に出た。そして、開いた窓枠につかまりながら半身を隣の敷居に移した。鍵がかかっていなければ、手を伸ばして隣の窓を押し下げることができる。鍵は開いていなかった。片足を伸ばして掛け金の上のガラスを蹴った。リノまで聞こえるような音がした。私は左手にタオルを巻きつけ、掛け金を回そうと手を伸ばした。道路を車が通り過ぎたが、誰も私に向かって叫び声を上げなかった。
 私は割れた窓を押し下げ、隣の敷居によじ登った。タオルは私の手から落ち、暗闇の中、建物の両翼の間にある遥か下の草地にひらひらと落ちていった。
 私は隣の浴室の窓から中に入った。

【解説】

「絵は途方もなく高い淡黄色の高架橋の一部を描いており、その上を黒光りする機関車がプルシアン・ブルーの列車を牽いて走っている」は<the picture showed part of an enormously high pale yellow viaduct across which a shiny black locomotive was dragging a Prussian blue train>。

田中訳は「うす黄色にペンキをぬつた、すごく高い鉄橋の上を、まつ黒なピカピカひかる機関車が紺青の客車をひつぱつて走つている絵だつた」。清水訳は「絵画は、おそろしく高いところにかかっている薄黄いろい陸橋の一部で、ぴかぴかに光っている真っ黒な機関車が紺青の列車を牽(ひ)いて走っていた」。村上訳は「そこに描かれているのは、恐ろしく高い跨線橋(こせんきょう)の一部だった。その淡い黄色に塗られた跨線橋の下を、プルシアン・ブルーの車両を牽引した、艶やかに真っ黒な機関車が通過していた」。

まず種明かしをしておこう。マーロウが見ている絵は、チャールズ・ハロー(アロ)という画家が描いた観光ポスターで、絵の下に<SUMMER ON THE FRENCH RIVIERA BY THE BLUE TRAIN>という宣伝文句が書かれている。表題で検索をかければ絵を見ることができる。解説によれば、ヨーロッパではコート・ダジュールは冬の目的地だったが、第一次大戦後、周辺国で観光客が再び増え始めると、プロモーターは夏の目的地として宣伝し出した、という。これはその当時のポスターだ。

まず、鉄橋でも跨線橋でもない。ローマの水道橋に始まるアーチ状に石を組んで作られた高架橋だ。黄色く見えるのは石の色である。その意味では清水訳だけが正しい。<viaduct>は辞書には「陸橋、高架橋」とある。「跨線橋」なら<overpass>だ。村上氏が「跨線橋」と考えたのはどうしてか分からない。原文はどう読んでも「黒光りする機関車がプルシアン・ブルーの列車を牽いて走っている、途方もなく高い淡黄色の高架橋の一部を描いた絵」としか読むことはできないからだ。

「だが、私にはまだ歯が残っていた」は<I still had a tooth left though>。田中訳は「だが、歯はのこつている」。清水訳は「歯はまだ一本残っていた」。村上訳は「それでもまだ歯は一本だけ残っていた」。いくつかの辞書の例文で<a tooth>を当ってみたが、「歯」と訳したものがほとんどだ。マーロウは敗北感に打ちひしがれているが、まだ気力を残している。<though>からそれが窺える。たった一本の歯で、どうして相手に立ち向かうことができるだろう。この場合、<a tooth>は総称としての「歯」ととるべきだろう。

「いつかそっくりそのままお返しするよ。そしてそれはきっとお前の気に入るものではないだろう」は<Some day it will all come back to you. And you won't like it>。田中訳は「いつか、このおかえしはしてやる。かならず、おかえしを……。その時は、覚悟してろ」。清水訳は「いつか、みんな、もどってくる。お前はおそらく、それが気にいらない」。村上訳は「こいつはいつかそっくり、そちらに戻っていく。そしてお前はそれを愉快に思うまい」。

「浴槽の隅に石目ガラスが嵌った窓」は<a pebbled glass window at the corner of the tub>。田中訳は「湯ぶねの隅の上には、透明なガラス窓もあつた」。清水訳は「小さな石を填(は)めこんだガラスの窓が浴槽の縁(ふち)のところにあった」。村上訳は「タブの隅には霜降りガラスの窓があった」。<pebbled>は「小石状の、でこぼこした表面の」という意味だ。向こう側が見えないところから浴室等に使用されることが多い。

「頭を外に突き出し、闇の中をのぞき込んだら、並木通りがちらっと見えた」は<I put my head out and looked into darkness and a narrow glimpse of a street with trees>。田中訳は「おれは、窓から首をだし、闇のなかを見おろした。並木通りがちょつぴりみえる」。清水訳は「私は頭をつき出して、暗闇をのぞいた。樹木が植えられてある狭い通りだった」。村上訳は「頭を外に突き出し、闇の中に視線を巡らせた。並木を配した通りが、狭く切り取られて見えた」。<a narrow>は<glimpse>(垣間見る)にかかっており、<a street with trees>にかかっているわけではない。

「二枚の上げ下げ窓を引っ張り下ろし、そっと敷居の上に出た」は<pulled the two halves of the window down and eased out on the sill>。田中訳は「窓ガラスを下にさげて、体をのりだした」。清水訳は「窓を開いて、からだを乗り出した」。村上訳は「二つに分かれた窓を押し開け、そろそろと出っ張りの上に出た」。田中訳は「下げて」となっているのに、清水訳が「開いて」としたためか、村上訳はそれを踏襲して「押し開け」とやってしまった。この窓は二枚の窓ガラスが上下に動く「両上げ下げ窓」だ。押し開くことはできない。村上訳では、少し前のところで同じ窓を「そろそろと押し上げ」ているからだ。この章、村上訳に誤訳が目立つ。

『湖中の女』を訳す 第三十一章(2)

バランスを崩しかけたら、ふつう何かにつかまろうとする。

【訳文】

「君はこの役を見事に演じてるよ」私は言った。「この混乱した無邪気な女のなかに透けて見える冷たさや辛辣さを含めてね。みんな君のことを大間違いしていた。君は頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さんだと考えていた。とんでもない大失態だ」
 彼女は私をじっと見つめ、眉を上げた。何も言わなかった。それから小さな笑みが口角を持ち上げた。封筒に手を伸ばし、膝の上でとんとん叩いてから、テーブルの脇に置いた。その間ずっと私を見つめていた。
「フォールブルック役もまた見事な出来だった」私は言った。「振り返ってみれば、少々やり過ぎな気もするが、あの時はしてやられたよ。あの紫色の帽子は金髪には映えるだろうが、茶色のほつれ髪には全然似合わない。それに暗闇で手首を捻挫した人が化粧したようないかれたメイク、ぎくしゃくした風変わりな振舞い、どれをとっても上出来だ。そして、あんなふうに銃を手に押しつけられて、私はまんまと騙された」
 彼女はくすくす笑い、両手をコートのポケット深く突っ込んだ。靴の踵がこつこつと床を叩いた。
「でも、またどうして戻ったんだ?」私は訊いた。「なぜ白昼堂々、危険を冒してまで」
「じゃあ、私がクリス・レイヴァリーを撃ったと考えてるのね?」彼女は静かに言った。
「考えてるわけじゃない。知ってるんだ」
「私がなぜ戻ったのか? それを知りたいの?」
「本当のところ、どうでもいいんだ」私は言った。
 彼女は笑った。狡猾でぞっとする笑いだ。「彼は私の金をそっくり持っていった」彼女は言った。「私の財布を空っぽにした。小銭までもね。だから戻ったの。危険なことなんか全然なかった。彼の暮らしぶりはよく知ってた。戻る方が安全だったくらい。たとえば牛乳や新聞を取り込むとか。人はこういう時、頭が真っ白になる。私はそうじゃない、そうなる理由がわからない。そうしない方がよっぽど安全なのに」
「なるほど」私は言った。「ということは当然、前の晩彼を撃ったんだ。どうでもいいことだが、そう考えるべきだった。彼は髭を剃っていた。だが、髭の濃い男や女友だちがいる男は、寝る前に髭を剃ることがある。そうだろう?」
「聞いたことがある」彼女はほとんど楽しそうに言った。「それでどうするつもりなの?」
「君は滅多に見られない冷血な牝犬だ」私は言った。「どうするかって? もちろん警察に突き出すさ。喜んで」
「そうは思わない」彼女はほとんど歌うような調子で語りかけた。「空になった銃を渡したことをあなたは不思議に思った。なぜいけないの? バッグの中にもう一つ持ってたのよ。こんなふうに」
 彼女の右手がコートのポケットから上がってきて、彼女はそれを私に向けた。
 私はにやりと笑った。全然、心がこもった笑いではなかったかもしれないが、それでも笑いにちがいなかった。
「こういうシーンは好きじゃなくてね」私は言った。「探偵が殺人犯と向かい合う。殺人犯は銃を出し、探偵に向ける。殺人犯は探偵に悲しい物語の一部始終を聞かせる。語り終えたら探偵を撃つつもりで。こうして、多くの貴重な時間を浪費することになる。たとえ最終的に殺人犯が探偵を撃ったとしても。ただ、殺人犯は決してそうしない。それを邪魔する何かが常に起こる。神々もこのシーンがお嫌いのようで、いつも何とか台無しにしようとする」
「でも今回に限り」彼女はそっと立ち上がり、絨毯の上を歩いて私の方にやってきた。「少し趣向を変えてみましょう。私が何も言わず、邪魔も起こらず、あなたを撃つとしたら?」
「それでもそのシーンは好きじゃないな」私は言った。
「あまり怖がっていないみたいね?」彼女はそう言うと、ゆっくり唇をなめ、一切足音を立てず、絨毯の上を静かに私の方に向かってきた。
「怖くなんかないさ」私は嘘をついた。「夜も更けた。あたりは静まりかえっている、窓が開いていて、銃は派手な音を立てる。通りに出るまで時間がかかる。おまけに君は銃が苦手ときている。多分仕損じるだろう。レイヴァリーを撃ったときも三度も撃ち損ねている」 
「立って」彼女は言った。
 私は立ち上がった。
「撃ち損うには近過ぎるようね」彼女は言った。そして私の胸に銃を押しつけた。「こうするの。今回は外しっこない、でしょう? じっとして。両手を肩より上に上げて動かないの。少しでも動いたら弾が出るわよ」
 私は肩の横に手を上げ、銃を見下ろした。自分の舌を厚ぼったく感じたが、まだ動かすことはできた。
 彼女は左手で私のからだを探ったが銃は見つからなかった。彼女は手を下ろし、唇を噛んで私を見つめた。銃が私の胸に食い込んだ。「向こうを向いて」彼女は仮縫い中の仕立屋のように丁寧に言った。
「君のやることはみんな、少し調子が狂ってる」私は言った。「はっきり言って、君は銃が得意じゃない。私にくっつきすぎてるし、こんなことを言うのもなんだが、安全装置が外れていない。よくあることだが、君も見落としてる」
 それで、彼女は同時に二つのことをやりだした。大股で一歩後退し、私の顔から眼を離さずに親指で安全装置を探った。二つのとても簡単なこと、ほんの一瞬でできることだ。しかし、彼女は私に口出しされたくなかった。私の言いなりになるのが癪だったのだ。そのちょっとした混乱が彼女の心を揺さぶった。
 彼女が小さくくぐもった声を出した。私は右手を下ろして相手の顔を私の胸にぐいと引き寄せた。左手を彼女の右手首に振り下ろし、掌底で彼女の親指の付け根を打った。銃は彼女の手から離れて床を転がった。私の胸で彼女は激しく顔をよじらせた。悲鳴を上げようとしたようだ。
 それから、彼女は私を蹴ろうとして、わずかに残っていたバランスを崩した。両手で私にしがみつこうとした。私はその手首をつかんで背中にねじ上げた。彼女はとても力が強かったが、私の方がずっと強かった。そこで彼女は力を抜き、頭を抱えている手に全体重を預けることにした。片手では彼女を支えることができなかった。彼女が落ちかけたので、私も身をかがめなければならなかった。
 ソファの脇の床で取っ組み合う二人の立てる物音と激しい息遣いのせいで、床板が軋んだとしても聞こえなかっただろう。カーテンリングが棒の上で急に止まったような気がした。確信はないし、それについて考える余裕もなかった。突然人影が迫ってきた。左の真後ろ、視界の届かないところだったが、そこに男がいて、大男であることは分かった。
 分かったのはそれだけだ。場面は炎と闇に包まれ爆発した。殴られた事さえ覚えていない。炎と闇、そして闇が迫る寸前のむかつく一閃。

【解説】

「この混乱した無邪気な女のなかに透けて見える冷たさや辛辣さを含めてね」は<This confused innocence with an undertone of hardness and bitterness>。<undertone>は「底意」と考えればいいだろう。清水訳は「お人よしに見せながら、正体をつかませず、冷たく、反抗的なものを匂わせている」。田中訳は「大胆で、皮肉な、この混乱した、むじゃ気な女」。村上訳は「ハードで苦々しいものを込めた、混乱した無垢さみたいなものをね」。

要は「クリスタル・キングズリー」という女の性格をどう解釈するかということだ。その「頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さん」は<a reckless little idiot with no brains and no control>。清水訳は「わきまえがなく、抑えのきかない、無軌道な愚か者」。田中訳は「無考えで、自制心のない、わがままな、頭のわるい奥さん」。村上訳は「無軌道な、脳味噌と自制心の足りない、可愛い浮かれ女」。

どれもよく似たものだが<little idiot>の解釈は少しちがう。<little>には「小さくて愛おしい」という意味がある。<idiot>は古くは「白痴」を意味していた。口語表現としては「馬鹿、間抜け」のことだが、前に<little>がつけばニュアンスが変わってくる。田中訳や拙訳の「さん」づけはそういう意味だ。時代がかった「浮かれ女」という村上訳には「遊女、娼妓」の意味があり、少し違和感を覚える。

もし、クリスタル・キングズリーを「頭が悪くて抑えがきかない、無鉄砲なお馬鹿さん」だと考えると、<with an undertone of hardness and bitterness>をどう考えればいいのだろう。<hardness and bitterness>こそが、クリスタル・キングズリー役を演じている女の素顔、下地ではないのか。そう考えると、清水訳の「お人よしに見せながら、正体をつかませず、冷たく、反抗的なものを匂わせている」が群を抜いている。田中訳、村上訳は二つの性格を弁別できていない。

「私はまんまと騙された」は<I fell like a brick>。清水訳は「私はすっかり参っちまったんです」。田中訳は「あれで、ぼくもコロッといつたんですよ」。村上訳は「まさに度肝を抜かれたよ」。<fall for like a ton of bricks>というスラングには「誰かに即座に激しく夢中になること」の他に「嘘や詐欺を信じること」という意味がある。清水、田中両氏の訳は前者の意味合いが濃い。村上訳の「度肝を抜かれる」はどこから来たのだろう。

「狡猾でぞっとする笑いだ」は<A sharp cold laugh>。清水訳は「鋭く冷たい笑いだった」。田中訳は「甲高い、つめたいわらい声だ」。村上訳は「鋭く冷ややかな笑いだった」。ここから、次第にこの女の非情な性格が表に出てくる。<sharp>は「鋭い」にちがいないが、他にも「頭のきれが鋭い、ずる賢い」という意味がある。マーロウの耳にどう聞こえたかを考えながら訳したいところだ。

「君は滅多に見られない冷血な牝犬だ」は<You're a cold-blooded little bitch if I ever saw one>。清水訳は「あんたのような冷たい女に会ったことはない」。田中訳は「あなたのような冷血な人殺しにお目にかかるのははじめてだ」。村上訳は「君は血も涙もない、類を見ないほどたちの悪い女だ」。<if I ever saw one>はかなり強調した言い方で「(そんなものはないとされているが)これまでに見たことがあるとすれば~こそが、まさにそれだ」くらいの意味。通常「くそ女」とでも訳すところだが、<cold-blooded>には「冷血(動物)」の意味もあるので、<bitch>をそのまま「牝犬」と訳してみた。

「両手で私にしがみつこうとした」は<Her hands came up to claw at me>。田中訳は「両手をあげて、ひつかこうともした」。村上訳も「それから両手を上げて私を爪で引っ掻こうとした」だ。<come up to>は「(~が)近くにやってくる」ことで、「上げる」のではない。<claw at ~>は「~を手でつかもうとする」という意味。その前にバランスを崩しているのだから、引っ掻く余裕などないはずだ。清水訳は「彼女の両手が私にすがりつこうとした」。田中訳が先で、清水訳の方が後だ。なぜ村上氏が元に戻したのか分からない。

「私はその手首をつかんで背中にねじ上げた」は<I caught her wrist and began to twist it behind her back>。田中訳は「おれはその手首をつかみ、背中のほうに、逆にねじあげた」。清水訳は「私は彼女の手首をつかんで背中の方にねじまげた」。村上訳は「私は相手の両手首を掴んで、背中でねじ上げた」。<wrist>が「両手首」になる理由もよくわからない。疲れが重なっていたのだろうか?

 

『湖中の女』を訳す 第三十一章(1)

<frozen-faced>は「氷を削ったみたいな顔」だろうか?

【訳文】

31
 
 彼女はまだグレイのコートを着ていた。ドアから離れて立っていたので、その前を通って、ツインの壁収納ベッドとありきたりの家具を最小限備えつけた四角い部屋に入った。窓辺のテーブルの上の小さなスタンドが、ぼんやりと黄色っぽい光を放っている。その後ろの窓は開いていた。
 女は言った。「座って、話はそれから」
 彼女はドアを閉め、部屋の向こう側にある陰気な揺り椅子に座りに行った。私は分厚いソファに座った。ソファの端に開口部があり、くすんだ緑のカーテンがかかっていた。化粧室と浴室に通じているのだろう。もう一方の端には閉じたドアがあった。キチネットにちがいない。それがすべてだった。
 女はくるぶしを交差させ、頭を椅子の背にもたせかけ、長いまつげの下から私を見た。眉毛は細く弧を描き、髪と同じ茶色だった。静かで秘密めいた顔だった。無駄な動きをするような女の顔には見えなかった。
「君はもっとちがったひとかと思っていた」私は言った。「キングズリーの口ぶりでは」
 彼女は唇をゆがめたが、何も言わなかった。
「レイヴァリーから聞いていたのともちがう」私は言った。「各人各様の見方があるということを証明しただけのことか」
「そんなおしゃべりをしてる暇はないの」彼女は言った。「知りたいことって何なの?」
「君を捜すために雇われたんだ。私はそれに取り組んできた。ご存じだろうと思うが」
「ええ。彼のオフィスの可愛い子が電話で言ってた。マーロウという男だと聞いたわ。スカーフのことも話してた」
 私は首からスカーフを外し、折り畳んでポケットに入れた。私は言った。「君の動きについて多少知っている。そんなに多くはない。君はサン・バーナディーノのプレスコット・ホテルに車を置いたままだ。そこでレイヴァリーと会っている。エルパソから電報を打ったことも知っている。そのあと、どうしたんだ?」
「彼が寄越したお金だけくれればいいの。私が何をしようとあなたの知ったことじゃない」
「あれこれ議論する気はない」私は言った。「君が金が欲しいかどうかの問題だ」
「ええ、私たちはエルパソに行った」彼女は疲れた声で言った。「その時は彼と結婚しようと思ったの。だから電報を打った。電報は見た?」
「見た」
「でも、気が変わった。家に帰って、私を一人にしてほしいと頼んだわ。彼は大騒ぎした」
「それで、君を残して一人で帰ったのか?」
「そうよ。それがどうかして?」
「それから、どうしたんだ?」
「サンタ・バーバラへ行って、そこに何日かいた。一週間以上いたかな。それからパサディナ。どこも同じ。そしてハリウッド。それから、ここに来た。それだけ」
「その間、ずっと一人だったのか?」
 彼女は少し躊躇して、やがて言った。「そうよ」
「レイヴァリーと一緒だったことはないか? ほんの少しの間でも」
「彼が家に帰ってからはね」
「どういうつもりだったんだ?」
「つもりって何よ」声が、少しばかりとんがった。
「連絡もせずにあちこち泊まり歩いたのは、どういうつもりだったんだ。彼が心配するだろうとは思わなかったのか?」
「ああ、夫のことを言ってるのね」彼女は冷やかに言った。「彼のことはたいして気にしてなかった。彼は私がメキシコにいると思ってたんじゃない? どういうつもりだったのかというなら、とにかくとことん考えてみるしかなかった。私の人生は絶望的なほどに混乱していた。どこか静かなところで一人になって、自分を立て直さなければならなかった」
「その前に」私は言った。「君はリトルフォーン湖で一か月間、自分を立て直そうとしたが、何の成果も得られなかった。そうだろう?」
 彼女は靴を見下ろし、それから眼を上げて私を見て深くうなずいた。ウェーブのかかった茶色い髪が頬に沿って垂れていた。彼女は左手で髪をかき上げて後ろに押し戻してから、一本の指でこめかみをなでた。
「どこか別の場所が必要だった」彼女は言った。「べつに面白い場所でなくていい。ちょっと変わったところ。顔なじみのいない。一人っきりになれるところ。ホテルのような」
「で、調子はどうなんだ?」
「あまりよくない。でも、ドレイス・キングズリーのところに戻ろうとは思っていない。彼はそうして欲しがってる?」
「私にはわからない。だが、どうしてここに来たんだ。レイヴァリーのいる街に?」
 彼女は指の関節を噛んで、その手越しに私を見た。
「もう一度会いたかったの。彼のことが頭の中でごっちゃになっている。彼に恋してるわけじゃない、っていうか、ある意味、恋してるかもしれない。でも、彼とは結婚したくない。これで筋が通ってる?」
「そのことは筋が通る。だが、家を離れて安ホテルを泊まり歩いていたことは筋が通らない。私が知るところでは、君は何年も好きなように生きてきたんじゃないか」
「一人にならなきゃいけなかった。考え事をするために」彼女は自棄気味に言い、また指の関節を強く噛んだ。「お金を渡してどっかへ行ってくれない?」
「もちろん、すぐに。ただ、あの時リトルフォーン湖を離れたのは、他に理由があったんじゃないか? たとえば、ミュリエル・チェスに関係することとか?」
 彼女は驚いたようだった。しかし、誰でも驚いた顔くらいできる。「驚いた、何のことを言ってるの? あの冷たい顔したつまらない、彼女が私と何の関係があるの?」
「彼女と喧嘩したんじゃないかと思ってね、ビルのことで」
「ビル? ビル・チェス?」彼女は更に驚いたようだった。ちょっと驚きすぎたくらいだ。
「ビルは君に言い寄られたと言ってるんだ」
 彼女は頭を仰け反らせ、甲高い声でわざとらしく笑った。「なんとまあ、あのしょぼい顔した酔っ払い?」彼女の顔が急に素面になった。「どうしたっていうの? 何もかも謎だらけってわけ?」
「彼はしょぼい顔した酔っ払いかもしれない」私は言った。「その上、警察には殺人犯だと目されている。彼の妻が、湖で溺死体で発見されたんだ。一か月後に」
 彼女は唇を湿し、小首をかしげて、私をじっと見つめていた。しばらく沈黙が続いた。太平洋の湿った息吹が部屋に滑り込んできて私たちのまわりを包んだ。
「それほど驚かないわ」彼女はゆっくり言った。「結局そういうことになったのね。あの二人はいつも酷く争っていたから。それが私が出て行ったことに関係してると思うの?」
 私はうなずいた。「その可能性はあった」
「見当ちがいも甚だしいわ」彼女は真顔で言って、頭を前後に振った。「言った通りよ。ただそれだけのこと」
「ミュリエルは死んだ」私は言った。「湖で溺れてね。君はそのことにあまり関心がないようだね?」
「あの女のことはあまり知らない」彼女は言った。「本当よ。人づきあいが苦手なほうだったから……どのみち」
「彼女が以前アルモア医師の診療所で働いていたことも知らないんだろうな?」
 彼女はあっけにとられているように見えた。「アルモア医師の診療所に行ったことはないの」彼女はゆっくり言った。「ずっと前に何度か往診に来てもらったことはあるけど。あなたは何の話をしているの?」
「ミュリエル・チェスの本名はミルドレッド・ハヴィランド、アルモア医師の診療所の看護婦をしていた」
「奇妙な偶然の一致ね」彼女は不思議そうに言った。「ビルが彼女をリバーサイドで見つけたことは知ってる。彼女がどうやって、どんな事情で、どこからきたかなんて知らない。アルモア医師の診療所ですって? そんなもの何の意味もないじゃない」
 私は言った。「いや、ただの偶然の一致だろう。よくあることだ。だが、どうして私が君と話をしなければならなかったかは分かるだろう。ミュリエルは溺死体で見つかり、君は立ち去った。ミュリエルは実はミルドレッド・ハヴィランドで、かつてレイヴァリーがそうだったようにアルモア医師と別の意味でつながりがあった。当然のことながら、レイヴァリーはアルモア医師の向かいに住んでいた。彼は、レイヴァリーは、ミュリエルとどこかほかで知り合いでもしたのかな?」
 彼女はそっと下唇を軽く噛みながら、それについて考えていた。「彼はあそこで彼女に会ったのよ」彼女はとうとう言った。「前に会ったことがあるようには見えなかった」
「そりゃあそうするだろう」私は言った。「彼のような男なら」
「クリスがアルモア医師とつながりがあるとは思えない」彼女は言った。「彼はアルモア医師の奥さんのことは知っていた。医師を知ってたとは思えない。だから、アルモア医師の診療所の看護婦のことはたぶん知らないと思う」
「やれやれ、どうやら無駄骨だったようだ」私は言った。「だが、どうして私が君と話をしなければならなかったか、これで分かってもらえるね。今なら金を渡せそうだ」
 私は封筒を取り出して立ち上がり、彼女の膝の上に落とした。彼女はそのままにしていた。私はまた腰を下ろした。

【解説】

「各人各様の見方があるということを証明しただけのことか」は<It just goes to show that we talk different languages to different people>。清水訳は「われわれはどうも、考えてたのとちがう人間にちがう言葉をしゃべってる感じですね」。田中訳は「相手によつて言葉づかいをかえるようなものかな」。村上訳は「結局のところ、ひとから聞かされた話なんてあまりあてにならない、というだけのことかもしれないが」。<go to show>は「~を証明する」という意味。<we talk different languages to different people>は、ことわざか故事成語にありそうだが、見つけることができなかった。

「あの冷たい顔したつまらない」は<That frozen-faced little drip>。清水訳は「あの無神経な自堕落女」。田中訳は「あの、凍つたみたいなツンとした顔の女」。村上訳は「あんな氷を削ったみたいな顔をした味気ない女」。<frozen>は「(態度・表情などが)冷たい、冷淡な」という意味。<drip>は「退屈な人、つまらない人」を表す俗語。清水訳は問題外。田中訳には<little drip>が抜け落ちている。村上訳の「氷を削ったみたいな顔」が何を言おうとしているのか、よくわからない。

「あのしょぼい顔した酔っ払い」は<that muddy-faced boozer>。清水訳は「あの薄汚い酔っ払い」。田中訳は「あの、泥をなすりつけたみたいな顔の酔つぱらい」。村上訳は「あんな薄汚い顔をした酔いどれ」。<muddy>は「泥の(ついた)」という意味だが、いくら山暮らしでも、いつも顔に泥をつけていはしない。顔の状態を表すときは「つやのない、さえない」のような意味になる。澄んだ水とちがい、泥水は中の様子が分からないところから来るのだろう。複合語をなす<-faced>は「~の顔をした」という意味だ。始終、深酒をしていたビル・チェスは酒飲み独特のぼんやりした表情をしてたにちがいない。

「やれやれ、どうやら無駄骨だったようだ」は<Well, I guess there's nothing in all this to help me>。清水訳は「いまの話のなかに私の役に立つことは何もなかったようです」。田中訳は「そうですか。いや、ぼくの役にたつことはなにもないようだ」。村上訳は「まあ、こんなことは別に何の意味も持たないのだろう」。<all this>が何かということが問題だ。清水訳だけが「話」と捉えている。マーロウは女の話の中身は自分の役に立つものはなかった、と言っているのだ。マーロウにとって、女と直接会って話すことが大事だった。「こんなことは別に何の意味も持たない」わけではない。

<But you see why I had to talk to you>、<But you can see why I had to talk to you>とほぼ同じ文が二度繰り返されている。「だが、どうして私が君と話をしなければならなかったかは分かるだろう」、「だが、どうして私が君と話をしなければならなかったか、これで分かってもらえるね」と訳した。清水訳は「しかし、私がなぜあなたと話をしなければならなかったかがわかったでしょう」、「だが、私がなぜあなたと話をしなければならなかったかがわかったでしょう」。

田中訳は「しかし、なぜ、ぼくがあなたにこんな話をするかといえば」、「しかし、ぼくがあなたにあつて話したかつたことも、これでおわかりのはずだ」。村上訳は「でもなぜ私が君と話をしたかったか、それはわかるだろう」、「ただ私がどうして君の話を聞きたかったのか、それはわかってもらえるね」。田中訳を別にすれば<can>が付け加わったことにそれほど重きを置いていないようだ。チャンドラーは同じ文を繰り返す手法を多用する作家だが、繰り返すことには意味があり、少しの差異が加われば、それはそこが大事だというサインだ。この<can>は念押しである。