一週間後の夜、ウェイドから「来てくれ」と電話があった。車を飛ばして駆けつけてみると、アイリーンは煙草を口にくわえ玄関口に立っていた。ウェイドは、近くの叢の陰で頭から血を流して倒れていた。アイリーンに電話で呼ばれてやってきたローリング医師は、怪我の手当てを指示するだけでアルコール患者は診ないと言い捨て、二階に運ぶ手助けもせずに帰ってしまう。
小さなことだが、マーロウが気絶したアイリーンを寝かせた二対の長椅子間に置かれたカクテル・テーブルの色がちがっている。清水訳は「細ながい、金色のカクテル・テーブル」。村上訳は「淡い色合いのカクテル・テーブル」。問題の箇所は原文ではこうなっている。
“a long blond cocktail table”
“blond”が、「金髪」を意味する単語であることは、戦後の日本では常識になっている。しかし、同じ単語が家具などに使われると「薄い色の」という意味になることを知っている人は少ないのではないか。いくらウェイドが大衆向けの流行作家であったとしても、金色のカクテル・テーブルは悪趣味に過ぎるだろう。
もう一つ。ぱりっとした身なりのローリング医師がウェイドの診察を依頼されたときの様子が、清水訳は「病気になった犬を洗ってくれと頼まれたような表情をしていた」。村上訳は「犬の反吐の始末を求められた人のような表情をしていた」になっている。
“the expression of a man who has been asked to clean up after the dog got sick.”
“clean up”と“the dog got sick”が問題だ。清水氏は「病気になった犬」を「洗う」と解釈している。たしかに、病気に罹った犬は何かと汚れているかもしれないが、洗う前に、まずは手当てが必要だろう。“sick”に病気の意味があるのは当然だが、「気分が悪くなる」さらには「吐き気がする」という用法もある。「吐き気を催した犬」を「片付ける」のだから、吐瀉物の始末というふうに村上氏は解釈したのだろう。糊のついたカラーと縁なし眼鏡という緊急時にもかかわらず身なりを気にするローリング医師に対する皮肉として、どちらがきいているか言うまでもない。
ウェイドを二階に運ぶ手助けを求めるマーロウに「君は誰かね」と尋ねるときのローリング医師の表情も清水氏はカットしている。ちなみに、その“Dr.Loring asked me freezingly”は村上訳では「ドクター・ローリングは凍りつくような目で私を見て言った」となっている。
“As a professional man you're a handful of flea dirt.”
「ヒポクラテスの誓い」まで持ち出して、医師の良心に訴えかけるマーロウの言葉を無視し、「医療に携わるものとして」と言いかけたローリング医師の言葉尻をとらえてマーロウが吐いた捨てゼリフだ。清水訳では「のみのくそにも劣る人間さ」。村上訳は「医療に携わる人間として、あなたには蚤の糞ひとつかみほどの値打ちもない」となっている。“As a professional man”を清水氏が省略しているのはいつものこととして、同じく省いた“handful”だが、村上氏は「ひとつかみ」と訳している。たしかに辞書では「ひとつかみ」とか「一握り」の訳語があてられているが、なにしろものが「蚤の糞」である。値打ちの無さを言うのにちっぽけな者の代表であるノミをもってきた訳だ。そのノミの糞は「ひとつかみ」もあるほど多い方がいいのだろうか。それとも、ここは「ひとつまみ」くらいにして少なさを強調する方がいいのだろうか。誇張表現として、どちらが、より効果的だろうか。
マーロウに「(ひとつかみの)蚤の糞にも劣る奴だ」と罵られたときのローリング医師は、顔が徐々に赤くなり、やがて「何か」を呑み込んだようだ。その何かを清水氏は「つば」と訳しているが、村上氏は「胆汁」としている。“He choked on his own bile”を文字通り訳せば、「彼は自分の胆汁を喉に詰まらせた」。だが“bile”には「胆汁」のほかに「かんしゃく、不機嫌」の意味もある。村上氏の「胆汁を喉に詰まらせたように見えた」は、まちがいではないだろうが、ここは「かんしゃくを起こしたい気分を無理やり呑み込んだ」のではないだろうか。