HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』第2章

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マーロウは、執事に導かれて温室に向かう。スターンウッド将軍がそこで待っていた。マーロウは熱帯を思わせる温室の温気に悩まされながら話を聞く。

 

We went out at the French doors and along a smooth red-flagged path that skirted the far side of the lawn from the garage. The boyish-looking chauffeur had a big black and chromium sedan out now and dusting that. The path took us along to the side of the greenhouse and the butler opened a door for me and stood aside.

 

<フレンチ・ドアを出て、車庫から芝生の向こう側の縁をめぐって続く、滑らかな赤い板石敷きの小径を行った。少年っぽい顔をした運転手は、今度は大きな黒とクロームのセダンを出して、埃を払っていた。小径は温室の横に通じていた。執事は私のためにドアを開け、自分は傍に立った。>

 

双葉訳では、" red-flagged ” が「赤レンガを敷いた」。また、" a big black and chromium sedan “ が「大きな黒いクローム張りのセダン」となっていた。ここは、クローム鍍金の部品を多用した黒塗りのセダンのことだと思うので、「黒とクローム」とするほうが分かりやすいだろう。” The boyish-looking chauffeur “を村上氏は「まだ少年の面影を残す」と訳す。

 

It opened into a sort of vestibule that was about as warm as a slow oven. He came in after me, shut the outer door, opened an inner door and we went through that. Then it was really hot. The air was thick, wet, steamy and larded with the cloying smell of tropical orchids in bloom. The glass walls and roof were heavily misted and big drops of moisture splashed down on the plants. The light had an unreal greenish color, like light filtered through an aquarium tank. The plants filled the place, a forest of them, with nasty meaty leaves and stalks like the newly washed fingers of dead man. They smelled as overpowering as boiling alcohol under a blanket.

 

<連絡通路のようなそこは、弱火にしたオーブンのように生温かかった。執事が私の後から入り、外側のドアを閉め、内側のドアを開けた。中に入ると、今度こそ本当に暑かった。空気は澱み、たっぷりの水蒸気で濡れそぼっていたところへ、熱帯に咲く蘭の花の甘ったるい匂いが仕上げをしていた。ガラス製の壁と屋根は露ぶき、大きな水滴が植物の上にぼたぼた落ちていた。非現実的な緑色の明かりは水族館の水槽を通り抜けてきたよう。あたりは森の中のように植物で溢れかえり、気味の悪い肉厚の葉や、洗ったばかりの死人の指のような茎は、毛布の下でアルコールを沸騰させたような抗し難い臭いを放っていた。>

 

The butler did his best to get me through without being smacked in the face by the sodden leaves, and after a while we came to a clearing in the middle of the jungle, under the domed roof. Here, in a space of hexagonal flags, an old red Turkish rug was laid down and on the rug was a wheel chair, and in the wheel chair an old and obviously dying man watched us come with black eyes from which all fire had died long ago, but which still had the coal-black directness of the eyes in the portrait that hung above the mantel in the hall. The rest of his face was a leaden mask, with the bloodless lips and the sharp nose and the sunken temples and the outward-turning earlobes of approaching dissolution. His long narrow body was wrapped―in that heat―in a traveling rug and a faded red bathrobe. His thin clawlike hands were loosely on the rug, purple-nailed. A few locks of dry white hair clung to his scalp, like wild flowers fighting for life on a bare rock.

 

<執事はびしょぬれの葉で顔を叩かれずに私が通れるように最善を尽くした。しばらくすると、私たちはジャングルの真ん中にぽっかりと開けた場所にたどり着いた。丸屋根の下だった。六角形の石が敷きつめられた空間に、古びた赤いトルコ絨毯が敷かれ、敷物の上に車椅子が、車椅子には明らかに死にかけている老人が、玄関ホールのマントルピースの上にかかっていた肖像画と同じ石炭を思わせる黒い瞳の裡に、遥か昔すべての炎が消え去った後になお残る真摯さで、近づいてくる私たちを見ていた。その眼をのぞけば、血の気のない唇と尖った鼻、くぼんだこめかみや機能を失いつつある外側にめくれた耳たぶといった彼の顔の残りは鉛の仮面だった。長身痩躯は、この暑さの中でも、旅行用膝掛けと色の褪せた赤いバスローブに包まれ、細い鉤爪のような手はしどけなく膝掛けの上に置かれていた。爪は紫色だった。僅かに残るぱさついた白髪は、剥きだしの岩の上で生きていくために闘い続ける野生の花のように、頭皮にしがみついていた。>

 

凄絶な人物描写である。ハリウッドで脚本家をやっていたこともある作家だけに、視点がキャメラ・アイのように移動していくのが分かる。ドーム天井の下にできた空間は床に" hexagonal flags “ が敷かれている。双葉氏はこれを「六角形に敷石が敷いてあった」とし、村上氏は「六角形の石が敷かれた」としている。丸天井の下の空間を埋めるには、矩形より六角形の方が隙間なく埋め尽くすことができる。円形の下部をわざわざ「六角形」にする必要もないだろう。ただ、村上訳だと、大きな六角形の石一枚と読めなくもない。そう考えての拙訳である。その後に続く長文は、一文で訳したいところだが、途方もなく難しい。日本語としては無理のある訳になってしまう。例として両氏の訳を記す。

 

「六角形に敷石が敷いてあった。古ぼけた赤いトルコじゅうたんがあり、じゅうたんの上に車椅子が置かれ、椅子車(ママ)には老いぼれて明らかに死にかかっている男が一人、腰かけていた。はいっていく私たちを見つめる黒い目からは、とっくの昔あらゆる火が消えてしまっていたが、広間の炉棚の上にかかった肖像と同じ石炭みたいに黒い率直さはまだ残されていた」(双葉)

 

「六角形の石が敷かれたスペースに、赤い古いトルコ絨毯が敷かれていた。絨毯の上には車椅子があり、車椅子の上には、明らかに死に瀕していると見られる老人が座り、我々が近づくのを見ていた。その目からはとっくの昔にあらゆる炎が失われていたが、それでもなおそこには、石炭のごとき漆黒の揺るぎなさがうかがえた。玄関ホールのマントルの上にかけられていた肖像画と同じ目だ」(村上)

 

” The rest of his face was a leaden mask “ 「この目以外、彼の顔は鉛の仮面だった」(双葉)。「しかしそれをべつにすれば、顔全体は鉛色の仮面のようだった」(村上)。「彼の顔の残りは鉛の仮面だった」(拙訳)。この「鉛(leaden )の仮面」だが、もちろん「鉛製の」という意味がある。さらに「鉛色の」という意味があり、そこから「重苦しい」「鈍い」といった意味が派生する。双葉氏は隠喩とし、村上氏はそれを直喩に訳している。英語が分かる読者には、表情に乏しい顔という意味まで通じるだろうが、日本語でそれを分からせるのは不可能だろう。文語表現として「鈍(にび)色の」という訳語も考えたのだが、今や死語か、と思い直し、直訳とした。

 

”  a traveling rug and a faded red bathrobe “ を双葉氏は「旅行用毛布と色あせた赤い湯上りタオル」としているのが時代を感じさせる。バスローブは日本語化しているが、トラベリング・ラグの方は、まだそこまではいっていないのか、村上氏は「旅行用膝掛け」としている。拙訳もそれに倣った。

 

 The butler stood in front of him and said: ” This is Mr. Marlowe. General. “

 The old man didn’t move or speak. or even nod. He just looked at me lifelessly. The butler pushed a damp wicker chair against the backs of my legs and I sat down. He took my hat with a deft scoop.

 

<執事が彼の前に立って言った。「マーロウ様です。閣下」

老人は動かず、話すことはおろか、頷くことさえしなかった。ただ、ぼんやりと私を見ただけだった。執事が湿った籐椅子を脚の後ろから押しつけたので、私は座った。彼は器用な手つきで私の帽子をすくいとった。>

 

 Then the old man dragged his voice up from the bottom of a well and said: ” Brandy, Norris, How do you like a brandy, sir? “

 " Any way at all, “ I said.

 The butler went away among the abominable plants. The General spoke again, slowly, using his strength as carefully as an out-of-work show-girl uses her last good pair of stockings.

 

<そのとき、老人が井戸の底から声を引っ張り上げて言った。「ブランディだ、ノリス。ブランディはどうしたのがお好みかな?」

「どんな飲み方でも」私は言った。

執事はくそ忌々しい植物を掻き分けて出て行った。将軍は再びゆっくりと口を開いた。まるで失業中のショー・ガールが最後に残った上物のストッキングを履くときのように慎重に力を使いながら。>

 

” How do you like a brandy “ を双葉氏は「ブランディはいかがかな?」。村上氏は「君はブランディをどのように飲むかね?」と訳している。実はこの後、将軍が自分の好みの飲み方を披露するくだりがある。村上氏は、そこを押さえてきちんと訳しているわけだ。” his strength “ をどう訳すか。双葉氏はあっさり、「体力」としているが、「知力、意志力、精神力」のいずれも可である。村上氏は慎重に「残された力」と意訳する。たしかに、半身不随の老人に最後に残されたものとしての話す力を左右するのは、この力だと一口で言うのは難しいだろう。「残された力」か、さすがに村上氏はチャンドラーをよく読みこんでいる。

 

 ” I used to like mine with champagne. The champagne as cold as Valley Forge and about a third of a glass of brandy beneath it. You may take your coat off, sir. It’s too hot in here for man with blood in his veins. “

 

<「私はよくシャンパンと一緒にやったものだ。シャンパンをヴァレー・フォージのように冷たくして、その下にグラス三分の一ほどブランディを入れる。上着を脱いでかまわんよ。ここは血管に血の流れている者にとってはいささか暑すぎるからな。」>

 

” mine “ には「私の飲み物」というくだけた使い方がある。シャンパンを入れたグラスの底にしのばせるのだから、「地雷」と訳すのも面白いとは思うが、時代が合わない。ヴァレー・フォージというのは、ペンシルヴァニア州にある、独立戦争当時、1777年から1778年にかけ、ワシントンが宿営地とした場所。その年の冬は寒く、大陸軍は雪に悩まされたとされる。

 

 I stood up and peeled off my coat and got a handkerchief out and mopped my face and neck and the backs of my wrists. St. louis in August had nothing on the place. I sat down again and I felt automatically for a cigarette and then stopped. The old man caught the gesture and smiled faintly.

 

<私は立ち上がって上着を引き剥がすと、ハンカチを取り出し、顔と頸、それに手の甲をぬぐった。八月のセントルイスでさえこれほどではない。私は座り直し、煙草を吸おうとしたが、やめた。老人は、その仕種に気づくとかすかに微笑んだ。>

 

   ” You may smoke, sir. I like the smell of tobacco.”

   I lit the cigarette and blew a lungful at him and he sniffed at it like a terrier at a rathole. The faint smile pulled at the shadowed corners of his mouth.

   ” A nice state of affairs when a man has to indulge his vices by proxy, “ he said dryly. ” You are looking at a very dull survival of a rather gaudy life, a cripple paralyzed in both legs and with only half of his lower belly. There’s very little that I can eat and my sleep is so close to waking that it is hardly worth the name. I seem to exist largely on heat, like a newborn spider, and the orchids are an excuse for the heat. Do you like orchid?”

   ” Not particularly, “ I said.

 

<「吸ってかまわないよ。煙草のにおいは好きだ」

 私は煙草に火をつけ、肺一杯に吸い込んだ煙を彼に向かって吐きかけた。彼は鼠穴を見つけたテリアのようにくんくんとそれを嗅いだ。かすかな微笑が口の端の陰になった部分にまで広がった。

 「男が悪徳にふけるのに代理人を立てなければならんとは、何たる体たらくだ」彼は素っ気なく言った。「君は結構派手な人生を生きてきた男の退屈きわまりない残骸を見ているわけだ。下腹部から両足にかけては麻痺して動かない。ほんの少量しか食べることはできんし、名ばかりの眠りはほとんど起きているのと変わりがない。熱のおかげで生かされている、生まれたばかりの蜘蛛のようなものだ。蘭は暑さの言い訳に使っている。蘭はお好きかな?」

 「特別に好きという訳では」私は言った。>

 

” A nice state of affairs when a man has to indulge his vices by proxy, “を双葉氏は「代人を使って悪徳を味わうようになってはおしまいですわい」と、村上氏は「男が悪徳に耽るのに、いちいち代理人を立てなくちゃならんとはなまったく」と訳している。” state of affairs “は「情勢」というような意味だが、文脈の中でいろいろな意味を帯びて使われるようだ。ここでは皮肉を利かせて「体たらく」という語を使ってみた。

 

 The General half-closed his eyes. ”They are nasty things. Their flesh is too much like the flesh of men. And their perfume has the rotten sweetness of a prostitute.“

 I stared at him with my mouth open. The soft wet heat was like a pall around us. The old man nodded, as if his neck was afraid of the weight of his head. Then the butler came pushing back through the jungle with a teawagon, mixed me a brandy and soda, swathed the copper ice bucket with a damp napkin, and went away softly among the orchids. A door opened and shut behind the jungle.

 

<将軍は半ば目を閉じた。「いやらしい物だ。肉は人間の肉に似すぎている。そして臭いときたら娼婦の腐ったような甘ったるさだ」

私はぽかんと口を開けたまま彼を見つめた。やわらかく湿った熱気が棺を覆う布のように私たちを取り巻いていた。老人は肯いた。首が自分の頭の重さを恐れてでもいるかのように。その時、ティー・ワゴンでジャングルを押し退けるようにして執事が戻ってきた。私にブランディーソーダを作り、湿らせたナプキンで銅製のアイスバケツをくるむと、蘭のあいだを抜けてそっと出て行った。ジャングルの奥でドアが開き、やがて閉まる音がした。>

 

"pall” は、「棺衣」のことだが、”a ~“で比喩的に「帷(とばり)のように」と使うこともある。双葉氏は、「棺衣」を、村上氏は「帷のように」を採っている。べたべたとまとわりつく熱気を「帷」とするのも美し過ぎる気がして、湿った空気の息苦しさと、ほとんど死にかけている老人をとり囲む「棺」のイメージを採用してみた。

 

 I slipped the drink. The old man licked his lips watching me, over and over again, drawing one lip slowly across the other with a funeral absorption, like an undertaker dry-washing his hands.

 

<私は飲み物をすすった。老人は私を見ながら、何度も繰り返して唇をなめた。片方の唇をゆっくりともう一方のほうへ引き寄せるのだ。まるで葬儀に没頭している葬儀屋が、知らず知らずその手を擦り合わせているように。>

 

「老人は私を見ながら」に続くところの訳はちょっと面白い。

「何度も舌なめずりをした。葬儀屋が空気乾燥機で手をかわかすみたいに、片方の唇をゆっくりと片方の唇にひきつけるのだ」(双葉)

「何度も何度も唇を舐(な)めた。唇のひとつが、ゆっくりともう一方に重ねられた。そこには葬式を思わせる忘我があった。葬儀屋が手をこすり合わせるのと同じだ」(村上)

 

まず、なぜ葬儀屋が登場するかだ。双葉氏の訳には、百歩譲って、当時からアメリカには空気乾燥機で手を乾かす習慣があったとしても、そこに葬儀屋が出てくる必然性がない。それに、双葉氏の説明はどう考えてみても舌なめずりにはなっていない。唇をぬらすために、双方の唇が使用され、「舌」を使っていないからだ。

 

次に、村上氏のほうだが、葬儀屋が手をこすり合わせる仕種に目をつけているところはさすがだ。ただ、「そこには葬式を思わせる忘我があった」という訳はいただけない。何度も唇をなめる行為に葬式を思わせる何かがあるわけではない。葬儀屋が手をこすり合わせる姿の方にこそ、葬儀という儀式的行為から生じる、ある種の集中が感じられるのだ。修飾、被修飾の関係が逆になっている。

 

   "Tell me about yourself, Mr. Marlowe. I suppose I have a right to ask?”

   "Sure, but there's very little to tell. I’m thirty-three years old, went to college once and can speak English if there’s any demand for it. There isn’t much in my trade. I worked for Mr. Wild, the District Attorney, as an investigator once. His chief investigator, a man named Bernie Ohls, called me and told me you wanted to see me. I’m unmarried because I don’t like policemen’s wives.”

 

<「君のことについて話してくれんか、マーロウ君。私には尋ねる権利があると思うが?」

「もちろんです。でも、たいしてお話するようなことはありません。年齢は三十三歳。かつて大学に行っていたことがあり、お望みとあれば英語を話すことができます。私の商売では殆ど必要とされませんが。以前地方検事のワイルド氏の下で調査官として働いてました。そこの主任調査官のバーニー・オールズという男が電話してきて、あなたが私に会いたがっていると言ったのです。結婚はしていません。警察官の女房というのがどうも好みじゃなくて」>

 

”There isn’t much in my trade” を双葉氏は「仕事のほうはたいしたこともなく」とあっさり片付けているが、村上氏は「もっとも私の職業においては、その手の要求はあまり数多くありませんが」と、前の文を受けて、丁寧に言葉を補っている。”college” を双葉氏は「カレッジ」、村上氏は「大学」と訳している。単科大学、総合大学と使い分けると、学生時分に教えてもらったが、オックスフォードやケンブリッジのような”college”を有する英国の話ではないので、「大学」と訳しておく。マーロウはやはり、法学部出身なのだろうか。

 

   ”And a little bit of a cynic,” the old man smiled. "You didn'tt like working for Wild?”

   "I was fired. For insubordination. I test very high on insubordination, General.”

  ”I always did myself, sir. I’m glad to hear it. What do you know about my family?”

   "I’m told you are a widower and have two young daughters, both pretty and both wild. One of them has been married three times, the last time to an ex-bootlegger who went in the trade by name of Rusty Regan. That’s all I heard, General.”

 

<「そして、少々皮肉屋でもある」老人は微笑んだ。「ワイルドのために働くのが嫌だったのかな?」

「馘首になったのです。不服従という理由で。不服従という点では私は大へん高得点を保持しています。将軍」

「私もそうだった。うれしいことを聞かせてくれる。私の家族についてはどれくらい知っておる?」

「奥様を亡くされ、お嬢さんが二人いて、どちらも美しく、どちらもじゃじゃ馬だとか。一人は三度結婚し、一番最近の相手はラスティ・リーガンといって、むかし酒の密売では名の知れた男。聞いているのはこれで全部です。将軍」>

 

 "Did any of it strike you as peculiar?”

 "The Rusty Regan part, maybe. But I always got along with bootleggers myself.”

 He smiled his faint economical smile. ”It seems I do too. I’m very fond of Rusty. A big curly-headed Irishman from Clonmel, with sad eyes and a smile as wide as Wilshire Boulevard. The first time I saw him I thought he might be what are probably thinking he was, an adventurer who happened to get himself wrapped up in some velvet.”

  ”You must have liked him,” I said. ”You learned to talk the language.”

 

<「何か特に気になるところがあるかな?」

「あるとすれば、ラスティ・リーガンの件ですが、私も酒の密売業者とはうまくやってきたので」

彼はかすかな切りつめた笑みを浮かべた。「私もそうだった。私はラスティのことが好きだった。クロンメルから来た巻き毛の大きなアイルランド人で、哀しい目をしていたが、笑うときはウィルシャー大通りくらい広々とした笑い方をした。初めて会ったときは、私も彼のことを、多分君の考えているように思ったものだ。たまたま博打で大勝ちしたいかさま師だと」

「彼のことがお気に入りだったにちがいない」私は言った。「喋り方が様になっている」>

 

ここは、初めて読んだときから気になっていた。まず、”economical smile”だが、二人とも「倹約した(された)笑み」と直訳しているが、微笑を倹約するとは、普通は言わない。体力が消耗していて、にっこり笑う力もないのだから、類語を探し「切りつめた」と訳してみた。ベストとは思わないが、「倹約した」よりはましか、と思う。

 

さらに、”an adventurer who happened to get himself wrapped up in some velvet” が難しかった。

「ひょんなことでおかいこぐるみになった冒険家といったところじゃな」(双葉)。「こいつは、今はたまたま猫をかぶっているが、けっこう喰えないやつかもしれんぞと」(村上)。双葉氏の「おかいこぐるみ」は、ベルベットを上物の服地と考えて、日本語にある似た表現を移植したものだろう。なるほど、と思わされるが、「お蚕ぐるみ」も今は死語だろう。村上氏の方は、全くの意訳である。しかし、こう訳したのでは、ラスティたち裏稼業の人種だけに通じる隠語を、将軍が熟知しているという感じが伝わってこない。ここは、俗語を使って訳したいところだ。”velvet” には、俗語で「博打で得た金」の意がある。また、”wrap up” には「試合に勝つ」、” happen to” には「たまたま~する」の意味がある。それらを使うと”adventuler” は「冒険家」というより、「山師」か「いかさま師」と訳したほうがぴったりくる。

 

   He put his thin bloodless hands under the edge of the rug. I put my cigarettes stub out and finished my drink.

   ”He was the breath of life to me, sweating like a pig, drinking brandy by the quart and telling me stories of the Irish revolution. He had been an officer in the I.R.A. He wasn’t even legally in the United States. It was a ridiculous marriage of course, and it probably didn’t last month, as a marriage. I’m telling you the family secrets, Mr. Marlowe.”

   ”They’re still secrets,” I said. "What happened to him?”

 

<彼は痩せて血の気のない両手を膝掛けの下に入れた。私は、吸殻をもみ消し、酒を飲み干した。

 「あの男は、私の生命の息吹だった。豚のように汗をかき、ブランディをがぶがぶ飲み、アイルランド革命の話を聞かせてくれた。かつては、アイルランド共和国軍の士官だった。法律上は合衆国に入国さえしていない。もちろん、ばかげた結婚だった。結婚といえるようなものはひと月しかもたなかった。私は家庭の秘密を話しているんだよ。マーロウ君」

「秘密は守ります」私は言った。「彼に何が起きたんです?」>

 

   The old man looked at me woodenly, ”He went away, a month ago. Abruptly, without a word to anyone. Without saying good-bye to me. That hurt a little, but he had been raised in a rough school. I’ll hear from him one of these days. Meantime I am being blackmailed again.”

   I said:”Again?”

   He brought his hands from under the rug with a brown envelope in them.”I should have been very sorry for anybody who tried to blackmail me while Rusty was around. A few months before he came―that is to say about nine or ten months ago―I paid a man named Joe Brody five thousand dollars to let my younger daughter Carmen alone.”

   ”Ah,” I said.

   He moved his thin white eyebrows. ”That means what?”

   ”Nothing,” I said.

   He went on staring at me, half frowning. Then he said:”Take this envelope and examine it. And help yourself to the brandy.”



<老人は無表情に私を見た。「行ってしまった。ひと月ほど前のことだ。突然、誰にも言わず。この私にさよならの一言さえなく。少々傷ついたよ。しかし、まあ、荒っぽい育ちの男だ。そのうちに何か言ってよこすだろう。話は変わるが、私はまた脅迫されているんだ」

 私は言った。「また?」

 彼は膝掛けの下から手を出した。そこには茶色い封筒があった。「誰にせよ、ラスティがいる間に私を脅迫しようなどとする者がいたら、そいつのことを哀れに思わずにはいられなかったろうよ。彼がやってくる数ヵ月前―というのは九ヶ月か十ヶ月前のことだが―ジョー・ブロディという名の男に五千ドルくれてやった。下の娘、カーメンから手を引かせるためだ」

 「はあ」私は言った。

 彼は細く白い眉を動かした。「それは、どういう意味かね?」

 「意味はありません」私は言った。

 彼は少しばかり眉をひそめ、私を見つめた。そして言った。「この封筒を手にとって調べてみてほしい。ブランディは勝手にやってくれ」>

 

”a few months”を双葉氏は「二、三ヶ月」、村上氏は「数ヵ月」と訳している。基本的には「ある」ことを前提とした少量のものを現すだけだから、文脈に合わせて訳すしかないのだが、実際に訳す者にとっては悩ましいことだ。”I should have been very sorry for anybody who tried to blackmail me” も双葉氏は「わしをゆすろうとする奴がいたら、わしはその男を気の毒に思わねばならんかったろうが」、村上氏は「私を脅迫する人間がどんな目にあうか、思い知らせてやれたんだがな」と訳している。双葉氏のほうが直訳に近く、村上氏は文意を汲んで意訳している。こういう皮肉を利かせた科白は、そのまま訳したほうが、皮肉を感じさせることができる。一方、読者によっては皮肉と受け止めず、そう言っている人間をずいぶん人が好いと思うかもしれない。これも、どちらをとるかは訳者の胸三寸。蛇足ながら、”anybody” を双葉氏のように「男」と訳すのは、今の時代だと人権上の問題があるかもしれない。脅迫者が男だと分かるのは、この会話の後だから。

 

    I took the envelope off his knees and sat down with it again. I wiped off the palms of my hands and turned it around. It was addressed to General Guy Sternwood, 3765 Alta Brea Crescent, West Hollywood, California. The address was in ink, in the slanted printing engineers use. The envelope was slit. I opened it up and took out a brown card and three slips of stiff paper. The card was of thin brown linen, printed in gold: ”Mr. Arthur Gwynn Geiger.” No address. Very small in the lower left-hand corner: ” Rare Books and De luxe Editions.” I turned the card over. More of the slanted printing on the back. ” Dear Sir: In spite of the legal uncollectibility of the enclosed, which frankly represent gambling debts, I assume you might wish them honored. Respectfully, A. G, Geiger.”

 

<私は彼の膝から封筒をとり、再び腰をおろした。両の掌をぬぐい、封筒をひっくり返した。ガイ・スターンウッド将軍宛てで、住所はカリフォルニア州ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレセント3765番地となっていた。宛名はインクで、技師が使う斜めの活字体で書かれていた。封は切ってあった。私は中から、茶色の名刺と三枚の堅く細長い紙片を取り出した。名刺は薄い茶色の亜麻製で、アーサー・グウィン・ガイガーと金文字で印刷してあった。住所はない。下の左隅にとても小さい字で「稀覯書及び愛蔵本」とある。名刺を裏返してみた。表より多目に斜めの活字体が並んでいた。「謹啓。同封のものは、率直に申せば賭博の負債。法的に回収不能なれど、もしや支払いの意思がおありかも、と推察いたした次第。敬白。A・G・ガイガー」>

 

”slanted printing engineers use”を双葉氏は「印刷関係の技師が使うみたいな斜めの書体」と訳している。印刷関係の技師が使う書体というのが変だ。実は”printing”には「活字体」の意味がある(村上氏は「活字体」と訳している)。話は変わるが、英語を習い始めたばかりの頃、「筆記体」を必死で覚えた。ノートは筆記体でとっていたように思う。ところが、最近知ったのだが、近頃は学校では筆記体を教えていないらしい。そういえば、当時でも海外のペンパルから届く手紙は、ブロック体で書かれていた。それも、左手で書くからか、筆記体とは逆の左に傾いた斜めの字体で。左に傾いた斜めの筆記体というのは、想像するだけで書きづらそうだ。

 

” I assume you might wish them honored”だが、双葉氏は「貴殿のご名誉を保持せられるため、正当のものとおみとめくだされば幸甚です」、村上氏は「貴下におかれましては、あるいは名誉を重んじられるのではあるまいかと愚考いたした次第です」と、妙にかしこまった訳になっている。”honor”

は名詞だったら確かにお二人の訳しているように「名誉」の意だが、動詞になると、「<手形などを>受け取る、支払う」という意味がある。名誉云々を持ち出せば、強請りであることを強く匂わせてしまう。ここは、ガイガー氏の立場に立って「(もしかしたら)支払う意思があるかと推察する」くらいに、あっさりと訳すわけにはいかないだろうか。

 

   I looked at the slips of stiffish white paper. They were promissory notes filled out in ink, dated on several dates early in the months before, September. ”On Demand I promise to pay to Arthur Gwynn Geiger or order the sum of One Thousand Dollars ($1000.00) without interest. Value Received. Carmen Sternwood.”

   The written part was in a sprawling moronic handwriting with a lot of fat curlicues and circles for dots. I mixed myself another drink and sipped it and put the exhibit aside.

 

<私は強ばった白い紙片を調べた。必要事項がインクで記入された約束手形だった。いくつかの日付は先月、つまり九月になっていた。「アーサー・グウィン・ガイガー氏、或はその命により要求あり次第、金一千ドルを支払うものなり。但し利息は含まず。代金領収済。カーメン・スターンウッド」

手書きの部分は、少し足りないのがのたくったような筆跡で、肉太の飾り模様を所かまわずくっつけ、点を打つところには丸が書いてあった。私は、もう一杯飲み物をつくってそれをすすり、証拠物件をわきに置いた。>

 

”They were promissory notes filled out in ink,”を双葉氏は「約束手形だった」、村上氏は「インクで書かれた借用証だった」と、訳している。この「ごわごわした」紙を便せんと解する村上氏にとって、「手書きの部分」とはどこを指すのだろう。便せんの一部はタイプで打たれ、そのうちの特定の部分だけ手書きなのだろうか。”the slips of stiffish white paper” は、どこにでもある既製の約束手形で必要な部分だけ記入できるようなものではなかったのだろうか。”fill out”には、「<小説・記事・原稿など>を(手を加えて)完全なものにする」という意味がある。その手を加えた部分だけがインクで書かれていた、と解するのがこの場合自然ではないか。印刷活字と、ばかげた飾り模様が付されたペン書きの部分のちぐはぐさが、マーロウの目には異様に映ったのだ。

 

   ”Your conclusions?” the General asked.

   ”I haven’t any yet. Who is this Arthur Gwynn Geiger?”

   ”I haven’t the faintest idea.”

   ”What does Carmen say?”

   ”I haven’t asked her. I don’t intend to. If I did, she would suck her thumb and look coy.”

   I said:”I met her in the hall. She did than to me. Then she tried to sit in my lap.”

 

   Nothing changed in his expression. His clasped hands rested peacefully on the edge of the rug, and the heat, which made me feel like a New England boiled dinner, didn’t seem to make him even warm.

 

<「結論は出たかね?」将軍は尋ねた。

  「まだ何も。このアーサー・グウィン・ガイガーというのは誰なんですか?」 

 「私には見当もつかない」

 「カーメンは何と言っていますか?」

 「私は訊いていない。訊くつもりもない。もし訊いても恥ずかしそうに親指を吸ってみせるだろう」

私は言った。「玄関で会いました。私にもやってましたよ。それから私の膝に座りかけました」

 彼の表情は変わらなかった。握った手は膝掛けの縁で穏やかにやすらっていた。私にはニュー・イングランド・ボイルド・ディナーのように感じられる暑さも、彼にとっては暖かくもないように見えた。>

 

ニュー・イングランド・ボイルド・ディナーというのは、アイルランド由来の、コーンドビーフ、玉葱、キャベツなどをとろ火で煮込んだ伝統的な家庭料理。双葉氏は「ニュー・イングランドの鍋料理」、村上氏は「ニューイングランドの煮込み料理」としている。日本ではあまり知られていない料理名だけに固有名詞扱いするのは難しいと考えたのだろう。訳注を入れるか、括弧書きにするくらいの配慮がほしいところだ(村上氏は、他にその種の例がある)。

 

   ”Do I have to be polite?” I asked. ”Or can I just be natural?”

   ”I haven’t noticed that you suffer from many inhibitions, Mr. Marlowe.”

   ”Do the two girls run around together?”

   ”I think not. I think they go their separate and slightly divergent roads to perdition. Vivian is spoiled, exacting, smart and quite ruthless. Carmen is a child who likes to pull wings off flies. Neither of them has any more moral sense than a cat. Neither have I. No Sternwood ever had. Proceed.”

 

<「礼儀正しくやった方がいいですか」わたしは訊いた。「それとも普通でかまいませんか?」

 「君が遠慮なんかする男だとは思ってないよ。マーロウ君」

 「二人は一緒になって男遊びをしてるんですか?」

 「そうは思わん。私の見るところ、二人はそれぞれ、わずかながら異なった破滅への道を歩いているようだ。ヴィヴィアンは甘やかされて育ったせいで気難しく、頭はいいが情味というものがこれっぽっちもない。カーメンは、蠅の羽を毟り取るのが好きな子どもだ。どちらも道徳観念など猫ほども持っていない。私もだ。スターンウッドの者は、そんなもの持ったためしがない。続けてくれ」>

 

”Do the two girls run around together?”を双葉氏は「お嬢さんはお二人でつるんで遊びまわっておいでですか?」、村上氏は「二人のお嬢さんは一緒に行動しているのですか?」と、けっこうお上品に訳している。”run around”だが、「(好ましくない人物と)つき合う、(異性と)浮気する」という意味がある。両氏の訳では、その不品行ぶりに言及している、というマーロウのぶしつけな質問ぶりがうかがえず、先に礼儀知らずととられないようにしておいた前置きの意味がない。

 

   ”They’re well educated, I suppose. They know what they’re doing.”

   ”Vivian went to good schools of the snob type and to college. Carmen went to half a dozen schools of greater and greater liberality, and ended up where she started. I presume they both had, and still have, all the usual vices. If I sound a little sinister as a parent, Mr. Marlowe, it is because my hold on life is too  slight to include any Victorian hypocrisy.” He leaned his head back and closed his eyes, then opened them again suddenly. ”I need not add that a man who indulges in parenthood for the first time at the age of fifty-four deserves all he gets.”

 

<「お嬢さんたちは充分な教育を受けています。自分のやっていることくらい知ってるはずです」

   「ビビアンはスノッブの行く名門校に通い、大学にも行った。カルメンはそれより遥かに自由な気風の学校を半ダースばかり渡り歩いたが、最後はふり出しに戻った。どちらも一通りの悪さはやってきたし、今もやっているだろう。親の口から出る言葉としていささか禍々しく響くたとしたらだ、マーロウ君。私の人生には、ビクトリア朝の偽善などにかかずらっている暇はないからだ」彼は頭を後ろに傾け、目を閉じたが、再び突然開いた。「五十四歳にもなって、初めて親心に浸るような男には、自業自得としか言い様がない」>

 

”I need not add that a man who indulges in parenthood for the first time at the age of fifty-four deserves all he gets.”をどう訳すか。「五十四歳になって初めて父親らしい気持ちになった男が、どんなむくいをうけるか、いまさらお話しするまでもあるまいて」(双葉)。「わかるだろうが、男が五十四になって初めて子供を作ったりすると、結局こんな羽目になってしまう」(村上)。どちらの訳も日本語として読めばよくできている。ただ、ニュアンスとして女々しさが漂いすぎる気がする。娘に対して厳しすぎるほどの言葉を吐く男が、自分に対しては自己憐憫にふけることを許したりするだろうか。もっと突き放した口ぶりがよりふさわしいと思う。

 

  I slipped my drink and nodded. The pulse in his lean gray throat throbbed visibly and yet so slowly that it was hardly a pulse at all. An old man two-thirds dead and still determined to believe he could take it.

  ”Your conclusions?” he snapped suddenly.

  ”I’d pay him.”

  ”Why?”

  ”It’s a question of a little money against a lot of annoyance. There has to be something behind it. But nobody’s going to break your heart, if it hasn’t been done already. And it would take an awful lot of chiselers an awful lot of time to rob you of enough so that you’d even notice it.”

 

<私は酒をすすり、うなづいた。彼のやせて灰色をした喉が脈打っていた。ほとんど打っていないといえるほど極めてゆっくりと。老人の三分の二は死んでいる、と同時にまだ自分はやっていけると心に決めている。

「君の出した結論は?」

「私なら払いますね」

「何故だ?」

「はした金か、たくさんの厄介事か、という問題です。背後に何かある。しかし、誰もあなたを傷つけようとはしていない。もし、まだそうなっていなければ、ですが。それに、あなたに気づかれるほどの大金を搾り取ろうと思ったら、よほど多くのぺてん師と、よほど多くの時間がかかることでしょう」>

 

  ”I have a pride, sir,” he said coldly.

  ”Somebody’s counting on that. It’s the easiest way to fool them. That or the police. Geiger can collect on these notes, unless you can show fraud. Instead of that he makes you a present of them and admits they are gambling debts, which gives you a defence, even if he had kept the notes. If he’s a crook, he knows his onions, and if he’s an honest man doing a little loan business on the side, he ought to have his money. Who was this Joe Brody you paid the five thousand dollars to?”

   

<「私にはプライドというものがある」と彼は冷たく言った。

「誰かがそれをあてにしているんです。一泡吹かせるには金を払うのが一番簡単な方法です。それか警察に頼るか。あなたが詐欺を立証できない限り、ガイガーは、この借用書で金を回収することができます。そうする代わりに、彼はあなたにそれを送ってきた。たとえ彼が借用書を握っていたとしても、賭博上の借金と認めていることは、あなたにとって有利なのに。彼が詐欺師だった場合、万事手抜かりはないでしょう。彼が真っ当な人間で副業にちゃちな金貸しをやっていたのなら、支払うべきです。ところで、あなたが五千ドルくれてやった、このジョー·ブロディってのはどんな奴なんです?」 >

 

”he knows his onions”の「オニオン」は、玉葱とは訳さない。「その辺のことは万事心得ている」(双葉)、「そのへんの段取りはじゅうぶん承知の上で」(村上)のような意味である。

 

  ”Some kind of gambler. I hardly recall. Norris would know,My butler.”

  ”Your daughters have money in their own right, General?”

  ”Vivian has, but not a great deal. Carmen is still a minor under her mother’s will. I give them both generous allowances.”

  I said: ”I can take this Geiger off your back, General, if that’s what you want. Whoever he is and whatever he has. It may cost you a little money, besides what you pay me. And of course it won’t get you anything. Sugaring them never does. You’re already listed on their book of nice names.”

  ”I see.” He shrugged his wide sharp shoulders in the faded red bathrobe. ”A moment ago you said pay him. Now you say it won’t get me anything.”

  ”I mean it might be cheaper and easier to stand for a certain amount of squeeze. That’s all.”

 

<「博打打ちか何かだ。よくは覚えとらん。ノリスなら知っているだろう。執事だ」

  「お嬢さんたちは、自分の好きに使えるお金を持っていますか?将軍」

 「ビビアンは持っているが、たいした額ではない。カルメンは、まだ母親の遺言の制限下にある。どちらにも、気前よく小遣いを与えている」

  私は言った。「お望みとあらば、将軍。彼が誰で何を持っていようが、あなたの背中からガイガーを引っぺがすこともできます。それには私への支払い以外に、少し金がかかるでしょう。もちろん、それであなたが得をすることはありません。うわべだけ繕っても何の解決にもならない。あなたの名は既に彼らの顧客名簿に記載されている」

  「なるほど」彼は色あせた赤いバスローブに包まれた幅広の骨張った肩をすくめた。 「先ほど君は彼に支払えと言った。それが今度は、それは私にとって何も得ることはないと言う」

  「ある程度までなら搾られるのをがまんする方が金も手間もかからない。それだけのことです」>

 

  ”I’m afraid I’m rather an impatient man, Mr. Marlowe. What are you charges?”

  ”I get twenty-five a day and expenses―when I’m luckey.”

  ”I see. It seems reasonable enough for removing morbid growths from people’s backs. Quite a delicate operation. You realize that, I hope. You’ll make your operation as little of a shock to the patient as possible? There might be several of them, Mr. Marlowe”

  I finished my second drink and wiped my lips and my face. The heat didn’t get any less hot with the brandy in me. The General blinked at me and plucked at the edge of his rug.

 

<「私はどうにもこらえ性のない方でな、マーロウ君。いくら払えばいいのかね?」

 「一日二十五ドル。それに必要経費。もし上手くいけばですが」

 「なるほど。人の背中で増殖中の病巣を摘出するのに適切な料金のようだ。判ってると思うが、かなり繊細な手術になろう。できる限り患者にショックのないようにな?いくつかあるかも知れんぞ、マーロウ君」私は二杯目の酒を飲み終え、唇と顔を拭った。ブランデーは、ほとんど暑さをしのぐ助けにはならなかった。将軍は私を見て目を瞬かせ、膝掛けの端をつかんだ。>

 

  ”Can I make a deal with this guy, if he’s within hooting distance of being on the level?”

  ”Yes. The matter is now in your hands. I never do things by halves.”

  ”I’ll take him out,” I said. ”He’ll think a bridge fell on him.”

  ”I’m sure you will. And now I must excuse myself. I am tired.”

He reached out and touched the bell on the arm of his chair. The cord was plugged into a black cable that wound along the side of the deep dark green boxes in which the orchids grew and festered. He closed his eyes, opened them again in a brief bright stare, and settled back among his cussions. the lids dropped again and he didn’t pay any more attention to me.

 

<「話の通じそうな相手だった場合、勝手に取引してもかまいませんか」

 「かまわんよ。今やこの件は君の手中にある。私は中途半端なことはやらんよ」

 「黙らせてやりますよ」と私は言った。 「彼は橋が落ちてきたと思うでしょう」

 「君ならきっとそうするだろう。すまんが、私は疲れた」

彼は手を伸ばし、椅子の肘掛上の呼鈴に触れた。コードが、膿み爛れるように生い茂った蘭の育つ濃緑色の箱の側面に沿ってうねる黒いケーブルにつながっていた。彼は目を閉じて再び開け、束の間目を輝かせると、クッションのなかにもたれた。瞼は再び塞がり、彼は二度と私に注意を払うことはなかった。>

 

  I stood up and lifted my coat off the back of the damp wicker chair and went off with it among the orchids, opened the two doors and stood outside in the brisk October air getting myself some oxygen. The chauffeur over by the garage had gone away. The butler came along the path with smooth light steps and his back as straight as an ironing board. I shrugged into my coat and watched him come.

  He stopped about two feet from me and said gravely: "Mrs. Regan would like to see you before you leave, sir. And in the matter of money the General has instructed me to give you a check for whatever seems desirable.”

  ”Instructed you how?”

  He looked puzzled, then he smiled. ”Ah, I see, sir. You are, of course, a detective. By the way he rang his bell.”

  ”You write his checks?”

  ”I have that privilege.”

  ”That ought to save you from a pauper’s grave. No money now, thanks. Mrs. Regan want to see me about?”

  His blue eyes gave me a smooth level look. ”She has a misconception of the purpose of your visit, sir.”

  ”Who told her anything about my visit?”

  ”Her windows command the greenhouse. She saw us go in. I was obliged to tell her who you were.”

  ”I don’t like that,” I said.

  His blue eyes frosted. ”Are you attempting to tell me my duties, sir?”

  ”No. But I’m having a lot of fun trying to guess what they are.”

  We stared at each other for a moment. He gave me a blue glare and turned away.

 

<私は立ち上がり、湿った籐椅子の背から私の上着を取ると、それを手に蘭の中を抜けた。二つのドアを開けて、すがすがしい十月の外気の中に立ち新鮮な酸素を思うさま吸い込んだ。運転手はガレージの傍から消えていた。執事が、アイロン台のように背をまっすぐ伸ばし滑らかな軽い足取りで小径沿いにやってきた。私は上着を着ようと肩を捩りながら、彼が来るのを見ていた。

  彼は二フィートほど手前で足を止め、重々しく言った。「お帰りの前にリーガン夫人がお会いしたいとのことです。お金の件につきましては、いかほどなりともあなたのご希望通り小切手をお切りするよう将軍から申しつかっております」

  「どうやって申しつかったのかな?」

  彼は途惑ってみえた。そして微笑んだ。 「ああ、なるほど、あなたは探偵でいらした。そのことですが、将軍は呼鈴を鳴らしたのです」

 「君が小切手を書くのかい?」

  「私はその任を授かっています」

  「それはいい。貧民墓地に行かなくてすむわけだ。金なら今はいらない。ありがとう。リーガン夫人が私に何の用かな?」

 彼の青い目はまっすぐこちらに向けられていた。「彼女はあなたの訪問の目的を誤解しているようです」

  「誰が私の訪問のことを彼女に教えたのだろう?」

  「夫人の部屋の窓から温室が見下ろせます。私たちが入るのを見たのです。私はあなたが誰かを言わざるを得ませんでした」

  「そいつは、どうかな」と私は言った。

  彼の青い目が凍りついた。 「あなたは、私の職務についてご教授くださるお考えでしょうか?」

  「そうじゃないが、その職務とやらがどんなものか、あれこれ憶測しては楽しんでいるところさ」

  私たちはしばらく互いを見つめ合った。彼は青い目をぎらつかせて睨み、そして背けた。>

 

新旧訳とも力が入った名訳である。”And in the matter of money the General has instructed me to give you a check for whatever seems desirable.”のところ。双葉氏は「また、あなた様に差し上げるお金は、いかほどなりと小切手をと、閣下からのご命令でございました」。村上氏は「そしてお支払いに関してですが、妥当な金額であれば、いかほどなりとも小切手をお切りするようにと、将軍から申しつけられております」だ。村上氏の「妥当な金額であれば」はおそらく”seems desirable”を響かせたのだろうが、こう訳すことで、小切手の実権は執事が握っていると、匂わせたいのだろう。呼鈴ひとつで、そこまで詳しい内容を指示することはできない相談だ。執事に対する不信感は、このあとで募るわけだが、このへんですでに兆していたというのが、村上氏流の読みなのだろう。

 

第二章は、マーロウと将軍の双方が相手を気に入ったことが分かるように書かれている。それと、二人の娘についての情報と、執事の胡散臭さが伝わってくる書き方になっている。翻訳の面で言うと、日本語の敬語の使い方が分かっていないと訳しにくい。相手に対する敬意の表明はもちろんだが、不在の第三者に対する敬意の表し方をどうするかが問題だ。執事が将軍に最大級の敬語を使うのは理解できるが、その場にいないリーガン夫人に対して、マーロウの前で敬意を表すのは礼儀に適っているのだろうか。できる限りあっさりと訳してみたが、敬語を訳すのは難しい。日本語の勉強が必要だと感じた。